もし、ナザリックが転移した世界が○○○○だったらというIFものです。

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 とある方からメッセージで頂いた案にインスピレーションを得たので、書いてみました。
 ご本人の希望により当面、名前の公表は控えさせていただきますが、ありがとうございます。


2018/9/2 エクレアのフルネームが間違っていたのを修正しました
 「対面」→「体面」、「三十センチほど直立した」→「三十センチほどの直立した」、「アインズ理不尽に怒り」→「アインズは理不尽に怒り」、「手に振れた」→「手に触れた」 訂正しました



最強伝説ナザリック

「〈龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉」

 

 

 モモンガの指先よりほとばしった、その名の通り、竜のごとくにうねり飛ぶ雷光。

 それはつい先ほどまで自分が圧倒的強者として疑わず、思うがままに暴力をふるっていた騎士風の鎧を着た男を打ち据えた。

 眩いばかりの光がその金属鎧を身につけた全身を包んだかと思うと、黒焦げとなった肉体が()()と地面に倒れ伏す。

 

「弱い……こんなに簡単に死ぬとは……」

 

 逃げ惑う少女相手に威勢をはっていた騎士。それが第五位階などという、モモンガから見て弱すぎるとしか言いようがない程度の魔法、そのたった一撃で死に至ったことは、彼の心の中にあったこの世界に対する警戒のレベルを数段押し下げる結果となった。

 

 ――いや、こいつだけが特段弱かったのかもしれん。油断、慢心は禁物だな。

 

 そう思い直し、心の中だけで頭を振って、緩みかけていた気を引き締め直す。

 次にモモンガは万が一に備え、いざというとき自分の盾となる死の騎士(デス・ナイト)を作りだした。現れたそいつに自分を守るよう命じているとタイミング良く、ついさっきモモンガ自身もそこから出てきた〈転移門(ゲート)〉より、見るからに凶悪な黒の全身鎧(フルプレート)に身を包んだアルベドが現れる。

 

 アルベドはナザリックの一〇〇レベルNPCの中でも、最も守りに長けたキャラクターである。彼女が自分――モモンガの身を守ってくれるというなら、不測の事態はあり得まい。

 それに彼女以外にも、敵の攻撃を引きつけることが出来る上、どんな攻撃にも一回は耐えきるという特性を持った死の騎士(デス・ナイト)もいるのだ。もし、強大な敵に急襲されようとも、死の騎士(デス・ナイト)がその身を盾にしているうちに自分、それにアルベドがナザリックへと転移魔法で撤退することは十分可能だろう。

 だが、念には念を入れなくてはならない。

 モモンガはいざというときアイテムボックスから取り出すべきアイテムを数種、頭の中で思い浮かべつつ、先ほどから怯えた表情でこちらを見上げる少女たちへと向き直った。

 

 

「大丈夫か?」

 

 腰を落として視線を合わせ、優しく声をかける。

 だが、話には聞いていたものの、生まれてこのかた実際に目にした事などないアンデッドを前にした姉妹らしき少女たちは、その肉の一片すらない骸骨の顎が上下すると同時に出た言葉に返事もできず、ただ歯の根が噛みあわぬほど震えるばかりであった。

 

 そんな彼女らの様子に軽くため息をつくと、モモンガはアイテムボックスから無限の背負い袋(インフィニティ・ハヴアサック)を取り出し、その中からさらに真っ赤な液体の入った香水瓶のような代物――下級(マイナー・)治癒薬(ヒーリング・ポーション)を取り出す。

 

「飲め」

 

 その言葉に姉妹のうち、年かさらしき方がその顔を引きつらせる。

 わざわざモモンガが差し出した物へ、下等な人間がそうした反応を示したことにアルベドが怒気を発しかけたものの、それを何とか(なだ)め、あらためて少女に顔をむけた。

 

「心配はいらないとも。これは危険なものではない。治癒の薬だ。これを飲めば背中の怪我も治るだろう」

 

 そう優しく声をかけて少女の手を握り、その手の平に薬瓶を押し当ててやる。

 

 

 

 

 すると――。

 

 

 

「ごふっ!」

 

 一声、肺腑の奥から絞り出された声をあげると、姉妹のうち姉――エンリは糸が切れたように倒れ、死んだ。

 

 

 

 

 

「…………へっ!」

 

 思わず間の抜けた声を発し、ぽかーんと口を開けたままの、まさに骸骨ながら間抜け面とでもいうしかないような表情を浮かべるモモンガ。

 

 

 

 しばし時が止まる。

 やがて、事態を把握した妹のネムが倒れ伏す姉のエンリ、その物言わぬ体にしがみつく。

 

「お、お姉ちゃん!」

 

 少女の鳴き声をバックにモモンガはいったい何が起こったと、混乱のまま、辺りをきょろきょろと見回した。

 だが、周囲にいるのは自分の他は、息絶えたエンリに泣きじゃくるネム、傍らで突っ立っている死の騎士(デス・ナイト)、そしてモモンガの好意に不信の様子を示した人間の死を当然の報いと鼻で笑うアルベドしかいない。

 

 

 ――え? 何があった? なんでこの娘は死んだんだ? まさか俺の特殊技術(スキル)か? 負の接触(ネガティブ・タッチ)は切ってたはずだぞ。それと絶望のオーラとかもだ。

 

 もしやアルベドが何かしたのではとも考え、ちらりと彼女の方へ視線を向けたが、モモンガの記憶にある限り、アルベドはそういった即死系能力など保有していなかったはず。

 

 ――いったい、何が……?

 

 さっぱり訳が分からないながらもとにかく姉の死体に縋りつき、泣きじゃくっているもう一人の妹らしい少女を宥めるべきだと判断し、「落ち着くのだ」と言って彼女の肩を掴んだ。

 

 

 

 しかし――。

 

「こふっ」

 

 モモンガが触れると同時に首ががくんと傾き、ネムもまた命を落とした。

 

 

 

「……はあぁーーーーっ!?」

 

 少女らの死体を前に、モモンガは体面を取り繕う余裕もなく、困惑の声をあげた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「なるほど……確かにいるな」

 

 ガゼフはつぶやいた。

 家の陰からそうっと様子を(うかが)ったところ、この村を囲むように魔法詠唱者(マジック・キャスター)たちが、そしておそらく彼らにより召喚されたとおぼしき天使たちが等間隔でゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

 自分の配下、そして相手の戦力差を予測したガゼフは、その日に焼けた顔を歪ませる。

 

 ――どう考えても、こちらが不利だ。

 

 こちらの戦力は王国戦士長たるガゼフ、そして彼直属の部下達のみ。

 

 

 自分の下にいる彼らの優秀さはもちろん十二分に理解している。

 彼らの強さは王国兵士の中でも屈指のレベルだ。

 しかし、それでも彼らはあくまで普通の兵士よりもかなり強いと言える程度でしかない。いわゆる英雄の領域に足を踏み入れた、たった一人で戦況をひっくり返せるほどの強さを持つ存在――すなわち自分、ガゼフ・ストロノーフと同格かといえば、それは首を横に振るより他にない。

 

 あの大量に召喚された天使から見るに、あれらはおそらくスレイン法国の者たち、それも特殊作戦群たる六色聖典の者たちである可能性が高い。スレイン法国の中でも最精鋭の部隊と対するには、魔法を使える者がいない彼の戦士団のみではどう考えても分が悪い。

 

 まして、今のガゼフが身に着けているのはごく普通の剣に、ごく普通の鎧である。王国の至宝と呼ばれる、彼――王国戦士長ガゼフ・ストロノーフが身につけることを許可された最強の装備を身につけてはいない。今回の任務につくにあたり、貴族派閥の者たちがそれを身に着けていくことに反対したためだ。

 

 ――よもや、最初から仕組まれて……。

 

 そんな邪推がガゼフの脳をよぎる。

 いや、邪推ではなく、それは真実であろう。

 彼の仕えるリ・エスティーゼ王国において、貴族たちの腐敗と不和は度を越しているなどという言葉では収まりきらない。ただ他人を蹴落とし、自分の体面を保つことのみに終始し、自分が国を構成する一員であることなど考えていないとしか言いようがない有様の数々を、王直属の配下としてガゼフはこれまで幾度も目の当たりにしてきた。

 

 王領であるエ・ランテルで繰り返された謎の騎士団の略奪。それに自分が動員されたにもかかわらず、最強の装備の着用が認められなかった事。そして、彼のおもむいた先を狙ったかのごとくに現れた法国の六色聖典。

 

 すべては彼を暗殺し、現王の力をそぐための策略だったのだろう。

 

 

 ――しかし、ただの勢力争い……たかがそのために、ここまでやるのか……!?

 

 このカルネ村に辿り着くまで目にしてきた、略奪され、破壊された村々の惨憺(さんたん)たる様子を思いだしたガゼフは、ギリリと歯噛みした。

 

 

 そんな憤懣やるかたないとばかりに震える背に、「ガゼフ殿」と声がかかる。

 

 その声に大きく息を吐いて気を取り直し、ガゼフは振り向いた。

 そこにいたのは豪奢な漆黒のローブに身を包み、泣いているようにも、あるいは怒っているようにも見える仮面を顔にかぶり、その素肌を一片たりとも見せようとしない、まさに奇妙としか言いようのない人物。

 

「……ゴウン殿」

 

 ガゼフはこの人物が何者なのかはよく知らない。

 謎の略奪集団を追って村々を回っていたところ、ようやくまだ襲撃を受けていない様子の、このカルネ村までたどり着いた。

 安堵の息を漏らし、村へ近づいたところ、村の入り口には村長らしき年配の男性とともに、この不思議な姿の魔法詠唱者(マジック・キャスター)がいたのだ。

 とりあえず、その後ろに控えている漆黒の全身鎧(フルプレート)を着た人物、そして見ただけで心胆寒からしめる凶暴そうなアンデッドに注意を払いつつも、話を聞いてみた。すると、この村は謎の集団に襲撃を受ける前だったのではなく、襲撃を受けたものの、この通りがかった魔法詠唱者(マジック・キャスター)が助けてくれたのだという。

 ガゼフは王国の民を助けてくれた人物に感謝の言葉と共に頭を下げ、その人物もまた礼儀正しくその謝意を受けた。

 そして、とにかく一連の件について村の中で詳しい話を聞こうとしたおり、ガゼフの部下が秘かにこちらを包囲しようとしている集団に気付き、いったん村内に入った後、こうして家々の陰から様子を窺っていたという訳なのだ。

 

 

「ガゼフ殿、あれらは何だと思われますか?」

「うむ、おそらくは……」

 

 そう前置きし、先ほど自分が考えた予想を口にする。

 このゴウンなる人物、仮面をかぶっているため表情は分からないのだが、なんとなくガゼフの語ったこと、そこに含まれる無辜の民を犠牲にしてまでの足の引っ張り合いなどに対して不快なものを感じている様子は見て取れた。

 そこで思いきってガゼフは口にしてみた。

 

「ゴウン殿、よければ雇われないか?」

 

 その言葉にしばし、魔法詠唱者(マジック・キャスター)は顎に手をやり、うつむいて考え込んだ。

 そして、「いいでしょう」と了承の言葉を口にした。

 

「おお、ありがたい。それで報酬なのだが……」

「……いえ、その話は後でいいでしょう。それよりあの者たちに対処するのが先かと思われます。ガゼフ殿の仮定が真実とするのならば、あの者らはガゼフ殿を殺害した後、口封じにこの村を滅ぼしかねません」

 

 自らの利益となる話よりも、ただ通りがかっただけの一農村の安全を優先させるとは、とガゼフはさらにこのゴウンという魔法詠唱者(マジック・キャスター)に対する好感を高めた。

 

「重ね重ね申し訳ない。感謝する。この村の者たちを救うため力を貸してほしい」

 

 そう言うとガゼフは長年、剣を振るい続け、分厚いタコで固くなったその手をさしだした。

 

 

 しかし――。

 

 

 ――ん?

 

 ガゼフは内心で首を(かし)げた。

 握手しようと差し出されたガゼフの手。それをこのゴウンなる魔法詠唱者(マジック・キャスター)は握ろうとせず、ただその手を見つめるだけだった。

 

 ――はて、どうしたのだろう? 普通に握手をしようとしただけなのだが……。もしや、旅の途中だったと聞くが、握手という習慣がない地域からやってきたとか?

 

 不審からわずかに眉根をよせたガゼフの表情を見て取ったのか、いささか戸惑った様子であったあった相手は、かすかに頷くとその魔法詠唱者(マジック・キャスター)にしてはあまり似つかわしくない武骨な籠手に包まれた右手を差し出した。

 

 思わず、安堵の息が漏れる。

 ガゼフはその手をしっかと握りしめた。

 そうすると、向こうの方もまた――恐る恐るといった(てい)ではあるが――力を入れて握り返してくる。

 

 互いの気持ちを確かめ合えたことに満足げな表情を浮かべるガゼフ。

 

 

 そして、次の瞬間――。

 

「ぐふっ……!」

 

 喉の奥から吐息を漏らし、ガゼフは死んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「え、ええぇーっ!? ちょ、ちょっと待って! 俺、握手しただけだよ! それだけで死ぬの!?」

 

 動揺のあまりアインズ――村長らの前でモモンガではなくアインズ・ウール・ゴウンと名乗った――は思わず素のままに声をあげてしまった。

 

 この世界の者たちがYGGDRASIL(ユグドラシル)基準で言うとものすごく弱いというのは、この村を襲っていた騎士たち相手の『実験』により、なんとなく認識していた。だが、周辺諸国の中でも有数の実力の持ち主であるという王国戦士長ですら、まさか握手をしただけで死んでしまうとは……。

 

 

 図らずも味方と思った相手をうっかり殺してしまった事に、どうしようと狼狽(うろた)えるアインズ。

 そんなアインズの胸中など知らず、やや離れた所から一部始終を見ていたガゼフの部下たちは、ガゼフが流れ者らしき魔法詠唱者(マジック・キャスター)と握手をした途端、死んでしまったことに色めき立った。

 

「貴様、何をする!」

「い、いや、待ってください!」

 

 彼らは止める間もなく剣を抜き、自分たちが敬愛する人物をだまし討ちにした憎き魔法詠唱者(マジック・キャスター)へと躍りかかった。

 

 

「ま、待って。落ち着いて」

 

 彼らを制止しようとアインズは平手のまま、手を伸ばす。

 

「ぐっはあぁっ!」

 

 アインズの伸ばした手に触れた男は、叫び声と共に吹き飛ばされた。

 金属鎧に包まれた身体が軽々と宙を舞う。

 どうと音を立てて転がった身体。その胸部。そこはぼっこりと、まるで破城鎚の直撃でも受けたかのように、固い金属製の鎧がひしゃげていた。 

 

「貴っ様ぁ!」

 

 仲間を倒され、憤怒に震える戦士がアインズを切りつける。

 だが――。

 

「な、なんだ、こいつは!」

 

 彼が振るった(つるぎ)

 その切っ先。

 それは狙い過たず、アインズの身体を捉えた。

 

 だが、その攻撃は上位物理無効化Ⅲを持つアインズにわずかなりともダメージを与えることは叶わなかった。

 

「いや、落ち着いて! 話を聞いてくださいって!」

 

 相変わらず、慌てたように手を前に出して制止しようとするアインズ。

 その振り回された手が、力の限りの一撃だったにもかかわらず、戦士でもない魔法詠唱者(マジック・キャスター)相手に対し、傷一つつけられていないという現実を前に固まってしまっていた男の、その腕にわずかに触れた。

 

 すると――。

 

「ぐわーっ!」

 

 叫び声とともに、男は死んだ。

 

 

 辺りはパニックになった。

 仲間がやられた興奮のまま、アインズに襲い掛かるガゼフの部下達。

 いかに切りかかられようとも、何の痛痒も感じさせないまま、必死で相手をなだめようとする魔法詠唱者(マジック・キャスター)

 そして、たとえアインズが無傷であろうと、下等な人間がその身を傷つけようとしたことに激怒したアルベド、そして死の騎士(デス・ナイト)

 

 そこにあったのは、もはや混沌としか言いようのない有様。離れた所にいた村長は一連の顛末を唖然としたまま、ただ見ているより他になかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「隊長」

 

 遠眼鏡で村の様子を窺っていた男が、今回の任務における指揮官、ニグン・グリッド・ルーインへと声をかけた。

 

「どうした?」

 

 ニグンはその男をちらりと一瞥すると、再びその目を周囲へ向けた。

 その視線の先には今回の任務に当たり、彼の旗下となった者たちが炎の上位天使(アーク・エンジェル・フレイム)を召喚し、眼前に広がる一寒村を包囲する姿がある。

 さすがはスレイン法国の精鋭部隊、陽光聖典。

 その一糸乱れぬ様子で陣形を組む姿は、まさに自分たちこそが最強、この地における人間種の真の守護者であるとニグンに確信させるものであった。

 

 

 ――ここで王国戦士長ガゼフ・ストロノーフを仕留める。

 

 周辺諸国最強である彼を――あくまで表での最強であって、スレイン法国の漆黒聖典などには彼を上回る人物はいるが――失うのは、亜人種らと生存競争を繰り広げている人間としては痛手ではある。

 だが、彼奴(きゃつ)を失うのを惜しむあまり、その存在を放置するのはさらに下策である。

 

 ガゼフが仕えるリ・エスティーゼ王国の腐敗ぶりは目に余る。

 繰り返すが種族としての人間の闘うべき相手は、亜人種や異形種などの異種族であり、こうしている今も、人間は絶えずそいつらからの脅威にさらされているのだ。

 だが、リ・エスティーゼ王国はそいつらとの生存競争の矢面に立たされていない幸運な国でありながら、異種族との戦いに備えることなく、同じ人間同士での足の引っ張り合いに終始している。それどころか、自国内で麻薬を栽培、生産し、周辺諸国へ流通させるなどという言語道断な行為にまで手を染めていた。

 その国の長であるランポッサ三世はそんな現状を止めようと日々奮闘しているようだが、もはや、座視していられる段階は越えた。

 

 さっさとリ・エスティーゼ王国を崩壊させ、その地を隣のバハルス帝国に併合させる。

 

 それがスレイン法国上層部の決定であった。

 本来であればスレイン法国が前面に出て、王国の領地を統治すればよいのだが、そうすると人間至上主義を唱えている法国が、亜人種らが多くいる評議国と国境を接してしまう。

 法国としては評議国と事を構える気はないのであるが、それではなぜ隣に亜人どもの国があるのに放っておくのかと、大計をみない近視眼的な民衆たちが騒ぎだす可能性がある。

 それは避けたかった。

 スローガンとして人間以外の種族の排斥を掲げてはいるとしても、スレイン法国上層部は現実派である。あくまで表だって人間と敵対する意思がない()の国と事を荒立てたくはない。

 そのため、余計な悶着を避ける意味でも、法国以外のものを動かし、王国を滅ぼしてしまうのが得策という考えであった。

 

 今、王国内部は王派閥と貴族派閥に分かれている。そして、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは王派閥側の人間、それも重要人物である。

 もし彼が死ねば、王派閥は大きくその力を失うことになる。

 そうなれば、王派閥の権勢は大いに弱まり、あわよくばなり替わろうと画策している貴族派閥の力は増すだろう。

 そして、激化した派閥争いで国力を無駄に浪費させることとなり、結果的に隣国、バハルス帝国の国家首班にして、王国に対し領土的野心を抱いている皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスに利することとなるだろう。

 

 ここまでやっても、かの帝国がそれまでのお膳立てをしてくれたスレイン法国にたいして感謝などしないであろうことほぼ明白であり、それはそれで業腹なものであったが、そんなものはひとまず飲み込んで今はまず、人間国家の膿であるリ・エスティーゼ王国を潰すことが先決であると、法国は決断したのだ。

 

 

 その最重要任務の一端に抜擢(ばってき)されたニグンの興奮はかくや。

 自分こそが人間種生存のための布石の一矢であると深く心にきざみ、その身に課せられた責任の重さによる恍惚と不安を胸に抱え、此度の任務は失敗など出来ぬ、絶対に成功させねばならぬと意気込んでいた。

 

 

 そんな彼に対し、物見の男は口を開いた。

 

「はい。その……ストロノーフなのですが……なんと言うか……」

「どうした? 作戦行動中だ。不明瞭な発言は控えろ」

 

 ニグンは叱責する。

 王国の村々を襲撃、略奪する囮部隊を先行させ、王国の腐敗した貴族にけっして安くない対価を払い、ようやく御膳立てした絶好の機会。

 ガゼフ・ストロノーフはわずかな部下、そして報告によれば素性も知れぬ魔法詠唱者(マジック・キャスター)の一団と共にあの村にとどまっているという。

 

 この機会を逃すわけにはいかない。

 絶対にガゼフを始末せねばならない。

 それこそが人間種のためである。

 

 使命を胸に決意を新たにするニグンに対し、男は再度報告する。

 

「はっ、申し訳ありません。今回の標的であるガゼフ・ストロノーフなのですが――」

「うむ」

「――たった今、あの村において死亡した模様です。ならびにガゼフ・ストロノーフ率いる戦士団、それらも全て壊滅したと思われます」

「……は……?」

 

 その報告にニグンは、これまで他の陽光聖典の者たちが見たこともないような気の抜けた表情のまま、たった今それを口にした男の方へとその頬に傷のある顔を向けた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ナザリック地下大墳墓、第一〇階層玉座の間。

 今、この場には墳墓内の主だった者たちが集められており、そしていまだ先ほどの熱気が室内に充満していた。

 

 たった今、このナザリックを作り、そして最後までこの墳墓に残った偉大なる御一人――モモンガが至高の四一人をさす『アインズ・ウール・ゴウン』へと名を変えたことが宣言され、そしてこの地において、『アインズ・ウール・ゴウン』の名を地の果てまで知らしめよ、と厳命が下されたのだ。

 

 この場に同席した者らは誰もが興奮のままに、偉大なる主を讃えた。

 そして、『アインズ・ウール・ゴウン』のために命を懸けよう、いや命すら捨ててもかまわないと彼らが本来持っている忠誠の意を再確認し、それを固く己が胸に誓った。

 

 

 やがて、その偉大なる主は居並ぶ者たちをぐるり見回すと、一人の名前を口にした。

 

「恐怖公よ、前へ」

 

 その言葉に、その体格だけでも千差万別な者たちの中から、ごく小さな影が歩み出た。

 

「はっ。偉大なるアインズ・ウール・ゴウン様。恐怖公めはここに」

 

 言って頭を下げるのは、その頭部に美しい宝石をあしらい、まばゆいばかりの金色を振りまく王冠をいだいた、三十センチ程度の――ゴキブリであった。

 普通の人間ならば嫌悪感を覚えること間違いなしな姿なれども、その姿形は至高の四一人の一人であるるし★ふぁーその人が自ら作り上げたものである。けっして忌避、嫌悪することなど――相対(あいたい)すれば背筋が凍りつくのは仕方ないにせよ、少なくとも公然とは――できはしない。

 

 

 そんな彼に対し、アインズは声をかける。

 

「恐怖公よ。この地の情報収集、並びに威力偵察等に関した諸々の事柄をお前に命じる」

 

 絶対なる支配者からの勅命に、恐怖公は湧きたつ歓喜をその小さな体躯の内に渦巻かせながら、「お任せください」と返した。

 

 

 

 この世界の調査及び威力偵察、すなわちこの世界に生きる者らの強さ――いわゆるレベルの検証に恐怖公を指名したのには、アインズの中でしっかりとした理由がある。

 

 

 『弱すぎる』

 

 アインズはかつてそう評した。

 YGGDRASIL(ユグドラシル)における一〇〇レベルキャラクターの姿となった今の自分にとって、圧倒的に弱い第五位階魔法。そのたった一発で初めて出会った戦闘職らしい騎士風の男がたやすく死んでしまったからである。

 

 だが、それによりアインズが推察した、この世界の者たちのレベル。

 その低さ。

 それはアインズの想像をはるかに超えるものであった。

 

 

 まったく訳の分からぬまま、助けようと思ってやってきたはずの姉妹エンリとネムを自分の手で殺してしまうことになってしまった。

 そこでその村を襲っていた騎士たちに対し、様々な戦闘実験を行ってみたところ、この世界に生きる者たちはちょっとどころではなく、ハンパではないほど弱いということが分かった。

 

 第一位階魔法どころか、魔法職であるアインズが素手でちょっと叩くだけでたやすく死んでしまうのだ。

 

 ――一〇〇レベルである自分とは、よほどレベルに開きでもあるのだろう。

 

 そう思い、不用意に他者と接触をしないよう注意を払っていたのであるが、村を訪れたこのガゼフという人物から、握手を求められたのである。

 

 その時、アインズは逡巡した。

 これまでの経緯からみて、そのまま握手に応じるのは危険だった。下手をしたら、あの姉妹同様、うっかり殺してしまいかねない。

 しかし、差し出された手に応じず、無視するのもまたあまりよろしくない。

 握手を拒否するというのはどう考えても失礼な行為としか思えず、向こうはほぼ確実に機嫌を損ねるであろう事は予想できた。

 

 だが、なんでも相手は王直属の精鋭兵士たちを指揮する、かつて王国の御前試合で優勝を果たしたほどの人物らしい。 

 それほどの豪傑ならば、もっと強いのではないか? この村を襲っていた騎士たちとは異なり、多少の事では死なないのではないか、と考えたのだ。

 

 そんな希望的観測と共に、アインズはその差し出された手を握った。

 

 

 その結果は先に述べた通り。

 

 アインズの、十二分に気を使ったはずのただの握手にすら耐えきれず、その国の中でも随一の強さであるらしい王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは死亡してしまった。

 ついでに、その事に激昂した彼の戦士団とも戦闘になり――いわゆる正当防衛を主張することは可能であろうとも――図らずも彼らを全滅させてしまう結果となってしまったのだ。

 

 

 

 へたにナザリックの者たち、とくにアインズと同様、一〇〇レベルに設定されている守護者たちは動かせない。

 アインズが触っただけで実にたやすく人が死んだのだ。NPCとはいえ、彼らとて同じだろう。動かそうものなら、出向いた先々で――それが故意か、故意ではないかは別にしても――そこらの人間を殺してしまいかねない。悪目立ちすることは確実である。

 

 かと言って、あまり低レベルの者たち――一般メイドやエクレアなどを――外に出したくもない。

 レベルが低いとはいえ、彼らとてナザリックの大事な一員である。この世界においてすでにアインズが出会った者たちが弱かったからといって、この世界の者たち全てが弱いとは限らない。普通にある程度の強さを持つ者がいた場合、もともと戦闘能力など有していない彼らでは太刀打ちできない可能性もある。はっきりとした実情はいまだ不明ではあるが、危険があるかもしれない地に、かつてギルメンたちが作った大事な者らを送り込みたくはなかった。

 

 

 そこで目をつけたのが恐怖公である。

 恐怖公は三〇レベルと、高くはないが低すぎるわけでもない強さの持ち主だ。一〇〇レベルキャラでは強すぎるし、かと言って一レベルキャラでは不安が残るこの世界の探索にはもってこいといえる。

 

 そして、なによりアインズが目をつけたのは、彼の持つ特殊能力。

 恐怖公は同族、すなわちゴキブリの無限召喚が可能なのだ。

 

 無限に召喚できるとは言え所詮は虫、ゴキブリである。

 普通に攻撃を受ければ為す術もなく死ぬ程度の存在であり、YGGDRASIL(ユグドラシル)では実際にダメージを与えるためではなく、精神的な嫌がらせを目的とする程度の存在でしかなかった。

 

 そんな弱いゴキブリであるが今回の場合、利点がある。

 弱いという事は、この世界の人間たちを下手に殺してしまう危険性がないという事だ。

 いくらこの世界の者たちが弱いとはいえ、さすがにゴキブリ以下ということはないだろう。また、一人一人がギルメンによって作られたナザリックのNPCたちと異なり、特殊能力によって召喚されたゴキブリならば、仮に見つかって殺されても再度召喚すればいいだけである。

 そのため、危険な場所に送り出すにはもってこいであると、アインズは判断したのだ。

 

 

 ――まあ、とにかく情報収集が必要だな。無理に急いで危険があるかもしれぬ中に飛び込むこともあるまい。この世界の者らが弱いとはいえ、油断は禁物だ。皆を危険にさらすことは出来ない。時間はかかるが、ゆっくりと進めていくのが得策だな。

 

 アインズは玉座に深く腰かけ、居並ぶ異形の者たち――今の自分が守るべき、かつてのギルメンたちが作った大切な存在らに目をやった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ――それがどうしてこうなった……。

 

 

 あの日。

 玉座の間において行った、モモンガがアインズ・ウール・ゴウンへと改名したことの宣言がなされた日。

 その日から一年半が経った今日、アインズの姿は地上はるか高くにある頑強な石づくりのバルコニーにあった。

 

 

 〈天候操作(コントロール・ウェザー)〉によって作られた雲一つない青空。

 そこへ軽い破裂音と共に、色とりどりの花火が次々とあげられる。

 ふと視線を下へ転ずれば、眼下もまた上空の花火に負けず劣らず、様々な色彩の溢れる光景が広がっていた。

 そこにひしめいているのはたくさんの人、人、人。

 彼ら、彼女らは城の周りに集まり、皆口々に賛嘆の言葉をなげかけていた。

 

「アインズ・ウール・ゴウン魔導連邦、万歳!」

「アインズ・ウール・ゴウン魔導皇に栄光あれ!」

「アインズ・ウール・ゴウン魔導皇、大陸平定おめでとうございます!」

 

 

 

 今日は祝いの日である。

 アインズ・ウール・ゴウン魔導連邦、設立一周年。

 そして――この大陸全土の支配宣言がなされた偉大なる日なのだ。

 

 

 

 そう、ナザリックはついに世界を征服したのである。

 

 

 

 ――こんなんでいいのかよ……。

 

 半ば呆然としたまま、集まった民衆たちに手をあげて応えつつ、アインズは胸の内に何やら釈然としないものを感じていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 それはある日、突然始まった。

 世界各地において、まったく原因不明の死が蔓延しだしたのだ。

 普通に生活していた者たちが、何の前触れもなく突如、糸が切れたように死んで行く姿が多数目撃されるようになった。

 

 疫病か、それとも魔法だろうか? はたまた邪悪なる怪物(モンスター)が目覚め、秘かに攻撃を仕掛けてきたのだろうか?

 

 流言飛語が飛び交う中、原因はほどなくして判明した。

 それは意外なものであった。

 

 

 ゴキブリである。

 

 

 ごく普通にその辺にいる、てらてらと黒光りする気色の悪い虫。

 見た目に不快ではあるが、特に人に危害を加えることはほとんど無い。時には巨大化し、ジャイアント・コックローチとなるものもいるが、それとて多少剣におぼえがある者ならば労せず倒せる最下級の怪物(モンスター)程度。

 なんら人類にとって脅威といえるものではなかった。

 

 

 ――それまでは――。

 

 

 だが、そのときよりその認識は変わった。

 突如として現れた新種のゴキブリたち。彼らはこれまでの目障りではあるがほぼ無害な存在などという、そんな生易しいものではなかった。

 

 外見上はそれまでとほとんど変わらぬ、家の中などに現れるごく小さな虫に過ぎない。

 しかし、その黒い虫がちょっと足先にぶつかっただけで、齧られただけで、飛びつかれただけで――たったそれだけのことで、たやすく人が死んでいったのだ。

 始末しようと力の限り踏みつけても、その程度では死なず、それどころか踏みつけられた足の下から這い出ようとする動き、その衝撃だけで踏みつけた人間の方が死ぬ始末。

 

 忽然と現れた新たな、そして絶望的な脅威に、人類は恐怖に包まれた。

 

 

 

 あの日、アインズは恐怖公に対し、この世界の情報収集並びに威力偵察を命じた。

 

『いくらこの世界の者たちが弱いとはいえ、さすがにゴキブリ以下ということはないだろう』

 

 アインズはそう考えた。

 その推測は常識的に考えた場合、しごく妥当といえる。

 

 

 だが――。

 

 だがしかし、その推測は誤っていた。

 アインズの予想をはるかに超えて、この世界の者たちは弱かったのだ。

 

 彼らの強さ、それは恐怖公が召喚できる眷属たち――すなわち、YGGDRASIL(ユグドラシル)基準で言うと、ほぼヒット判定やダメージ判定がいちおうは存在するというだけの存在、実質、嫌がらせ及び雰囲気という意味合いでしかなく現実的な戦闘力はほぼ皆無なただの虫けらたち――それ以下だったのである。

 

 

 

 無論、人類とて突如として現れた圧倒的な強さを持つゴキブリの脅威に、ただ手をこまねいていたわけではない。

 生存のため、必死で抵抗した。様々な対策が講じられ、そしてありとあらゆる手段が実行に移された。突如溢れだした殺人ゴキブリに対し、幾多の兵士を動員し、駆除に動いた。

 

 だが、相手はゴキブリである。

 駆除しようにも姿が小さく、またすばしこいことから、どこにいるのか見つけるだけでも一苦労。

 そして、そもそも見つけても殺すことは困難であった。ゴキブリたちはその大きさこそ小さいのだが、その強さは通常の兵士をはるかに上回っていたからである。

 家々の家具を動かし、ようやくその裏にいるところを見つけたとしても、はっとして振るったその剣を悪魔の黒い虫はひらりと避け、逆に兵士めがけてフライングアタックを食らわせたのだ。

 被害は増えるばかりであった。

 

 小さな黒鬼に対して、人類の切り札たるアダマンタイト級冒険者も戦列に加わった。

 一般の兵士たちでは相手にすらならなかったが、彼らならば互角以上に闘うことが出来た。ゴキブリたちを倒すことが出来たのである。

 

 しかし、それでも事態は好転しなかった。

 

 問題となったのは数である。

 アダマンタイト級冒険者。それはそれぞれの国家に多くても片手の指で数えられるほどしか存在しないのだ。それこそ無数にいるゴキブリ相手では到底十分といえる数ではない。

 

 リ・エスティーゼ王国において行われた、大量の冒険者を動員しての大規模な掃討戦。

 数日間にも及ぶ過酷な戦いの果て、生き残ったのは『蒼の薔薇』のイビルアイ、ただ独りのみ。

 彼女の仲間である勇猛な戦士ガガーラン、巧みな技を誇るシノビの姉妹ティアとティナ、そして蘇生の魔法を使える神官戦士ラキュースは命を落とし、イビルアイはたった一人、人とゴキブリの死体に埋め尽くされた荒野で天を仰ぎ、慟哭した。

 だが、そうして多大な犠牲を払いつつも多数のゴキブリを殺すことに成功した、駆除しつくしたと思い安堵したのもつかの間、せっかくあれだけの数を倒したというのに、ほんのわずかな時をおいて、また何処からともなくあの黒い蟲たちが次々と姿を現したのだ。

 

 

 

 決戦存在たるアダマンタイト級冒険者らでさえ、蠢く小さな黒い悪魔に敗れ、人類が己の無力さに、絶望に打ちひしがれる中、ついにこれまで陰日向(かげひなた)で活動していた真なる人間種の守護者が動いた。

 

 スレイン法国である。

 

 彼らは溢れ出るゴキブリの群れをいくら倒しても、先のリ・エスティーゼ王国における冒険者らの二の舞にしかならないと判断した。

 そこで考え出されたのが――。

 

 

「――使え」

 

 スレイン法国の中でも最強と言われる英雄級の人間のみを集めた特殊部隊、漆黒聖典の隊長の命を受け、白銀の布地に金糸で龍の刺繍がされた、いわゆるチャイナドレスを身に纏った老婆が精神を集中させる。

 スレイン法国の至宝、六大神が残した遺産の中でも最重要遺物とされている恐るべき力を持つマジックアイテム『ケイ・セケ・コゥク』の力の前に当然抗うことなど出来ず、殺人ゴキブリはその精神を支配された。

 

 

 法国が案じたもの。

 それは『ケイ・セケ・コゥク』によってゴキブリを一匹支配下に置くことにより、今回の増殖の根本を調べ上げ、そこを殲滅するという策であった。

 

 

 だが――。

 

 

「ひ、ひいぃー!」

「こ、これはいったい!?」

「狼狽えるな! 防御陣形! カイレ様を守れ!!」

 

 ゴキブリの支配という任務を無事終え、法国に帰還しようとしていた漆黒聖典の者たち。

 森の中で小休止していた彼らを襲ったのは、大波のごとくに押し寄せる大量のゴキブリの群れであった。

 

 

 もし、彼らが相対しているのが、非常に強力ながらも見た目通り、ただ大量発生した虫ならばよかっただろう。それならば法国上層部が考えた通り、支配下に置いた一匹よりその発生源をたどり、発見した巣をなんらかの方法で叩けばよかったのだから。

 

 だが誤算であったのは現在、人類に対して最大の脅威たる存在であるゴキブリ。それはただの虫ではなかったことである。

 そいつらは恐怖公の特殊能力によって召喚された彼の眷属、すなわち知性あるゴキブリだったのだ。

 

 

 法国は当初の目論見通り、ゴキブリを一匹、支配することに成功した。

 

 しかし、その行為はすぐ近くにいた彼の仲間、眷属たちに目撃されていたのだ。

 

 

 その事は瞬く間に、召喚主である恐怖公に知れた。

 いったいどうやって、ただの人間とおぼしき彼らがそれをやったのか?

 それはその場で目撃していた恐怖公の眷属ら、そして情報が伝えられた恐怖公本人にすら分からなかった。 

 しかし、そこにいた人間たちによる何らかの行為によって、仲間であり絶対に裏切ることなどないはずの眷属の内一匹が突如離反したのだという事は推測できた。

 

 はっきりとした原因や理由は不明ながらも、その一〇名弱の人間たちが一連の事態に関わっていると判断した恐怖公は、彼の眷属たちに命令を下した。

 すなわち彼らを危険な対象として認識し、周辺に展開していた眷属、その全てを動員して打ち倒すというものである。

 

 

 

 かつてスレイン法国の崇める六大神の一人、死の神スルシャーナが語ったとされる言葉にこんなものがある。

 

 『戦いは数だよ、兄貴』

 

 その兄貴というのが何をさすのか? アンデッドであるはずのスルシャーナに兄がいたのか、それとも兄貴分の誰かをさすのか、はたまた余人には想像すら出来ぬはるか高位の存在を指して言ったセリフなのかは、今となっては定かではない。

 

 だが、ともかく一対一で勝てぬ戦いであっても、一対二ならば勝機も見える。ましてや一対一〇、もしくは一対一〇〇ならば言わずもがな。

 いかに人間離れした、英雄級の力を持つ漆黒聖典たちといえど、対等もしくは倍する程度の数の相手ならばともかく一〇倍、更には一〇〇倍などという戦力差がある中では勝負になろうはずもない、太刀打ちできようはずもなかった。

 

 『傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)』は通常、精神支配を受けないアンデッドらにすら効果を発揮するという恐ろしいまでに強力な能力を保有しているのであるが、その反面、欠点もある。

 それは一度に一体しか支配下におけぬという事だ。

 一体の強力な敵相手ならば、無類の強さを発揮するのであるが、今回のような大群相手には不向きとしか言いようがない。

 

 もしその場に、一人師団の異名を持つ第五席次クワイエッセがいたのならば、状況はまた変わっていたかもしれない。

 スレイン法国、いや人類において最強クラスの者達のみが集められた漆黒聖典の中でも、特に対群の能力を持つとされる彼がその場にいたのならば。巧遅(こうち)より拙速といった意味合いで周辺にいた者たちを集合させただけの、即応部隊でしかなかった恐怖公の眷属たち、ほんの三桁程度にしか届かぬその戦力を壊滅させられた可能性もある。

 

 だが、いかなる運命の気まぐれか、不幸にも彼はその場には居なかったのだ。

 

 

 

 命からがら逃げかえった漆黒聖典隊長の口から語られたのは、当初の目的を果たし、帰還しようとしていたところへ突如現れた大量のゴキブリの襲撃をうけ、その場にいた漆黒聖典は壊滅。

 そして――カイレもまた命を落とし、六大神が残した遺産である『ケイ・セケ・コゥク』もまた失われたという最悪の顛末であった。

 

 

 『ケイ・セケ・コゥク』の喪失という建国以来、最悪の事態に法国上層部は愕然とした。

 だが、法国の受難はそれだけにとどまらなかった。

 

 気絶せんばかりに血の気の失せた顔で周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するなか、会合の場に駆けこんで来た伝令が届けた報告。

 それはスレイン法国の、この首都に対するゴキブリ襲撃の知らせであった。

 

 

 城塞群の中心に位置する都市であり、狂信的なまでの使命感を有する兵士たちにより厳重な警戒網のしかれた、普段であればもっとも安全であるはずのこの首都。その城壁。

 そこへ何の前触れもなく、黒い大波が押し寄せてきた。

 大波と言ってもそれは水ではない。

 その押し寄せる質量を形作るもの、それは台所の隅で走り回るような取るに足らぬ虫――ゴキブリでしかない。

 だが、そのゴキブリらは通常のものとは一味も二味も違う。

 一体一体が並みの兵士をもはるかに上回る、この数か月、人類を恐怖のどん底へと付き落とした忌まわしき殺人ゴキブリたちなのだ。

 

 

 まるで悪夢のような光景であった。

 美しき白亜の城も、誇り高き法国の民も、厳しい修行に耐えた兵士たちも、全てが押し寄せる黒い害虫の大群に飲みこまれていく。

 それはまるでこの国のすべて、偉大なる六大神の栄光、その神より下された人類の守護者たる使命、その全てが冒涜的にして厭らしい汚わいに穢されていくかのようであった。

 

 

 

 そこかしこで悲鳴があがる。

 過酷な試練をくぐり抜け、この地に配置された、スレイン法国の中でも精鋭と呼べる者たち。そんな勇猛なはずの彼らが、おそらくこれまでの生涯にわたって今まで一度も発したことのないような恐怖の声をあげていた。誰もが一見すると珍妙な、まるで踊るような動きで転げ回っている。だが、当の本人たちは必死であった。何故なら彼らは己が鎧や衣服のうちに潜り込んだ恐るべき殺人ゴキブリを払いおとそうとしていたからだ。しかし、そうしてのたうちまわっているうちにも次から次へと、その体に新たなゴキブリたちが取りつき、やがてその姿は黒の濁流にのまれていく。

 

 そんな阿鼻叫喚の光景が繰り広げられる中、カツンカツンと音が響く。

 それは石畳の上を歩く装甲靴(サバトン)の靴音。そこらじゅうで繰り広げられている惨劇、それに怯え慌てる者らが立てる音とは異なり、何ら乱れる様子もなく規則正しく繰り返される。

 その足音を聞きつけたのか、その場にいたゴキブリたちは音がした方へとその長い触角を持つ頭部を向けた。

 

 そこにいたのは奇妙な印象を受ける女性。

 一見幼さを感じさせる容姿だが、たった今、多くの者を殺害しつくしているゴキブリの群れを前にしても、まったく怯える様子もなく、逆にふてぶてしいまでの堂々たる態度であった。

 

 不意に彼女の手にしていた大振りの戦鎌(ウォーサイズ)、その石突きが床に叩きつけられる。

 瞬間――その場から揺らめく波動が広がった。

 そして、それに触れた眷属たちは、一瞬のうちに弾き飛ばされた。

 

 

 少女――スレイン法国の切り札である漆黒聖典の番外席次『絶死絶命』が一歩足を踏み出す。

 それに気圧されたかのように、今の今まで暴虐、冒涜の限りを尽くしていた悪魔の虫たちが退(しりぞ)いた。

 まるで大海原を割ったという異世界の伝説の人物のごとく、少女が進む先から、黒の大海が押しのけられていく。

 

 

 そこへ――。

 

「ぐっはあーっ!」

 

 悲鳴と共に吹き飛んできた影がある。

 床に叩きつけられ、ゴロゴロとボロ雑巾のように少女の足元まで転がってきたその姿。それは法国最強戦力である漆黒聖典、その隊長を任せられていた少年の姿であった。

 

 少女はその(おとがい)をあげる。

 眼前にひしめく無数のゴキブリたちが左右に割れ、そこから進み出てきたものがいる。

 彼女の視線の先にいたもの。それは巨大な――それでも人間に比べれば小さいが――純白のゴキブリにまたがった、美しく煌めく王冠をその頭部の上に載せたゴキブリ――恐怖公であった。

 

 彼は優雅に礼をする。

 

「これは失礼、お嬢様。吾輩、名を恐怖公と申します。本日はこの国を滅ぼせと至高なる御方より命を受け(まか)りこした次第。まことに僭越ながら、あなた様の事を倒させていただきますぞ」

 

 

 睨み合う両者。 

 勝負は一瞬であった。

 

 颶風(ぐふう)とともに振り下ろされた、絶死絶命という異名で知られた少女の持つ長柄物。

 だが、その閃く(やいば)の先より早く、恐怖公の騎乗する愛ゴキブリ――シルバーは一瞬のうちに加速した。

 すれ違いざま、振り払われた王笏。

 この世界において誰一人比肩しえぬほどの絶大なる力を持ち、勝利に飽き、敗北を知りたいと願っていた少女は一撃のうちに吹き飛ばされた。

 

 放物線を描きながらきりもみ回転する彼女は受け身をする余裕もなく、べチャリと顔面から白亜の床に叩きつけられる。

 

 

 

 その瞬間。

 六百年前に降臨したという六大神の時より長きにわたり、人間という種を守り続けてきたスレイン法国の滅亡が決まった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 スレイン法国、壊滅。

 

 その知らせは周辺の人間を主とする国々に激震となって響いた。

 民衆レベルでは知らずとも、それぞれの国を統べる者たちは、自分たちの国家が存続できているのは種としての人間を守る法国の力あってこそだという事を理解していたのだから。

 

 

 そのスレイン法国でさえ、ごく最近になって出現した殺人ゴキブリの前に滅ぼされた。

 

 それすなわち人間の種としての命運が尽きたということに他ならない。

 

 

 

 そうして、各国が絶望の深淵に沈む中、奇妙な書状が届いた。

 

 それはリ・エスティーゼ王国にある都市エ・ランテル。その隣にある城に、それぞれの国の王族、貴族、指導者らは集まるべしというものであった。

 

 

 それを受け取った各勢力の長は首を傾げた。

 エ・ランテルのことは誰もが知っている。リ・エスティーゼ王国の城塞都市であり、近隣のバハルス帝国、スレイン法国と国境を接する陸路の要衝である。

 だが、彼らの知る限り、エ・ランテルに隣接する城塞など存在しないはずなのだ。

 

 しかし、その書状を届けてきたのは誰であろう、今現在、世界各国にとって最大の脅威であるあのゴキブリなのである。

 

 ――よくは分からないものの、かと言って無視するにはリスクが大きすぎる。

 

 そういう結論に至った周辺諸国の長たちはいささか――いや、かなり腹を立てつつも、とりあえずエ・ランテルへと足を運んだ。

 

 

 そうして、続々とエ・ランテルに各国の人間たちが集結するも、当然ながらやはりエ・ランテルの隣はおろか近郊にも城など存在しない。

 あのゴキブリたちが運んできた書状の目的は何なのか? 何故ありもしない城にやってこいなどといってきたのか? もしや、ここに各国の要人を集めてまとめて始末する為の罠なのでは、という声もあったが、始末する気ならば、直接、王族らの寝所にあのゴキブリらを送り込めば済むはずであり、わざわざ一カ所に集める必要も考えられない。

 

 誰しもが首をひねったまま、エ・ランテルに逗留していたある日、事態は急変した。

 

 それを発見したのはエ・ランテルの警備をしていた若い兵士であった。

 まだ夜も明けきらぬ早朝のこと、見回りの当番であった彼がエ・ランテルで最も外側にある胸壁上へと上がり、何気なく遠くを見回した時。

 彼の目に飛び込んできたのは、このエ・ランテルのすぐ隣にそびえたつ、一〇〇年以上の歴史がある堅牢な城塞都市エ・ランテルそのものには見劣りするが、一軍が立て籠もって防御する、もしくは周辺地域を攻撃するための足掛かりにするは十分といえるほどの、まさに戦闘用の城砦であった。

 

 

 警備兵からの連絡を受け、おっとり刀で胸壁の上へ駆けつけた各国の者たちは驚愕に目を見開き、王国はいつの間にこのようなものを作り上げ、そして隠していたのか、リ・エスティーゼ王国はすでにゴキブリどもと協定を結んでおり、このような施設を作り上げる許可をあたえていたのか、とその場にやって来ていた王国の人間に詰め寄った。

 だが、最も動揺していたのは当の王国の者たちであった。彼らをして、このような城塞の存在など聞いたこともなく、そもそもエ・ランテルの人間たちですら、あのような城塞が自分たちの目と鼻の先に作り上げられていた事など知らなかったのだ。

 だが、それは昨日まで何もなかったはずの場所に、確かに存在している。

 まさに、たった一夜のうちに立派な城塞が忽然と現れたとしか思えないような状況であった。

 

 

 そんな事を王国側が説明しても、他国の者たちは当然納得などせず、エ・ランテルでも最も堅牢な三重の壁の一番内側、各国の者たちが駐留している行政区内は一触即発とでもいうべき険悪な空気に包まれていたのであったが、そこへやってきたのはあのゴキブリたちである。

 突然、姿を現したことに集まった者たちが皆、戦々恐々とする中、その数センチほどしかない黒い虫――今や全世界を脅かす悪鬼とでもいうべき存在は、居並ぶ者たちに対し、我らが主へ拝謁せよと命じた。

 

 内心複雑な思いを抱えつつも、圧倒的な戦力差の前に唯々諾々(いいだくだく)と従わざるをえない各国の人間たち。

 彼らが連れていかれたのは案の定、エ・ランテルの隣に忽然と姿を現したあの城砦。

 目の肥えた王族、貴族らにとって驚愕に値するほどではないが、それなりに豪華な設えのされた廊下を進み、やがてその最奥にある玉座の間へと通された。

 

 

 

 敷きつめられた赤と白、そして紫の紋様が絡み合う、踏んだ足が柔らかな毛の中に沈む込んでいくような、そんな不思議な感触をおぼえる絨毯上のリ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、聖王国、竜王国ら、すでに滅びた法国を除いた近隣諸国の王侯貴族を始めとした重鎮たち。

 

 彼らの脇にずらりと並び立つのは、一目見ただけでその視線が外せなくなりそうな見目麗しいメイドたちであった。

 だが、武の心得のあるものはその美しい外見に内包された凄まじい力を感じとり、その身が震えあがりそうになるほど総毛だっていた。

 

 そして今、彼らがそろって膝をついている絨毯のまっすぐに続くその先。美しい彫刻で飾られた象牙細工の真白な玉座に腰かけ、段上より睥睨(へいげい)するのは、もはや言語を絶するとしか言いようのない、脇を固めるメイドらなどとはケタ違いの、圧倒的な力を隠すことすらしない恐るべきアンデッド。

 

 その眼窩の奥に灯る紅い輝きは、その心のうちにあるであろう邪悪さをわずかなりとも明かさず、居並ぶ各国の王侯貴族らを前にしても何ら動じる様子も見せず、まるでそいつはただたくさんの虫けらを前にしているかの如く悠然と、愚かな者であればただ放心しているだけと表現するような態度であった。

 

 そう、集められた各国の首脳陣達を前に、その一見ごく普通のエルダーリッチにも似た、しかし普通のエルダーリッチとは明らかに異なる畏怖すべき存在は何も語ろうとはせず、ただ泰然と玉座に腰かけたままである。

 黙したままの首領たるアンデッド、彼の代わりに話しているのは玉座の前にちょこんと置かれた台の上に立つ――何と言っていいのか、率直に言えば三十センチほどの直立したゴキブリであった。

 

 自らを恐怖公と名乗る、頭の上に王冠を載せ、深紅のマントを身に纏い、純白の宝石があしらわれた王笏を手にしているそいつは、自分はすぐ後ろの玉座に腰かけるアンデッド――アインズ・ウール・ゴウンに仕える存在であると語り、そして各国とも偉大なる支配者アインズ・ウール・ゴウンの傘下に降るよう威厳のある口調で命じた。

 

 

 その言葉を受けた居並ぶ者たちは顔を下げているのを幸いに、皆一様に苦虫を噛みしめたような表情を浮かべた。

 

 アンデッドの下に降るなど到底容認できるものではない。その後に待ち受けているものは、人間たちにとって過酷なものであることは間違いないだろう。

 だが、これを無下に断ることもできない。近隣諸国の中でも、間違いなく最強の戦力をそろえていたスレイン法国でさえ、あのゴキブリの大群の前に為す術もなく滅ぼされたのだ。ここで歯向かうのは下策。ならば、ここはあえて従順に従うふりをして、なんとか内部から切り崩し工作を行うべきか……。

 

 

「ふざけるな!」

 

 各国の者たちが面従腹背という言葉通り、表向きへりくだったまま秘かに腹の内で計算を巡らせていたところ、突如、怒声が響いた。

 

 誰もが驚愕に目を丸くし、振り向いたその先にいたのは、光り輝く銀色の全身鎧(フルプレート)に身を包み、その上から純白のサーコートを羽織った女性。

 その場にいた誰もが彼女の名を知っていた。

 

 レメディオス・カストディオ。

 

 ローブル聖王国の聖騎士団団長にして、周辺諸国でもガゼフ・ストロノーフなどとともに、英雄の領域に足を踏み入れていると知られる強者である。

 

 そんな彼女が今、その怜悧な顔を憤怒に染めていた。

 神の祝福を受けた聖騎士として、同じ場にアンデッドがいることすら我慢できぬというのに、それどころかそいつにかしずけとまで言われたのだ。

 隣に控えていた彼女の妹であり、同じローブル聖王国の神官団団長であるケラルトが必死でそのサーコートの裾を引くも、激情に駆られたレメディオスは問答無用とばかりに、その腰に下げていた名高き聖剣サファルリシアを抜き放った。

 

 

 その場にいた一同が色めき立つ中、光る剣先を向けられたアインズはというと――。

 

(いやぁ、ここにいるのってあちこちの国のトップ、お偉いさんばっかだからなぁ。そいつら呼びつけた上で、上から目線で降伏しろって言われたらなあ。それもゴキブリに。いや、そりゃ、切れるわー)

 

 ――と、まるで人ごとのように玉座に腰かけたまま、ただぼんやりと、いきり立つ聖騎士のことを眺めていた。

 

 

 それに対しレメディオスは、その泰然自若とした姿に自分の事を侮っているのだとますます激昂した。

 カルカが止める声も聞かず、一足飛びに平伏している人々を飛び越えると、裂帛の気合と共に、忌まわしいアンデッドへと突進する。

 

 

 だが、その猛獣にも等しき突進の前に、さっそうと立ちはだかったものがいる。

 

 艶のある漆黒と純白二色で彩られた身体。黄色い(くちばし)と、豊かに伸びたこれまた黄色い眉。胸元を飾るのは黒のネクタイ。

 その寸胴な肉体、翼はあるのに空は飛べない特徴的な姿を端的に語るならば、ペンギンである。

 

 ナザリックの執事助手、エクレア・エクレール・エイクレアーであった。

 

 

 エクレアは自分のその小さな身体の何倍もあるレメディオスの突撃にも何ら動じることは無く、不敵にその(くちばし)の端をゆがめると、すっと前へと足を滑らせた。

 

 すれ違いざま、レメディオスの脚絆に包まれたむこうずねを、そのフリッパーでぺちりと叩く。

 

 がくんとレメディオスの膝が落ちる。

 そして、彼女はまるで不意に糸が切れたかの如く、アインズの腰かける玉座の前に、音を立てて転がった。

 

 

 

 それを見た各国の者たちは、一も二もなく、このアンデッドの前に膝を屈することを決断した。

 

 先にも述べたがレメディオスは周辺諸国において最強クラスの実力の持ち主だ。さらに聖騎士という特性上、とくに防御に長けている。

 そんな彼女があのアンデッドに仕える(シモベ)の一人、そのただの一撃で、あんなにもあっさりと殺されてしまったのだ。

 もはや、他の誰が挑もうともかなうはずがない。

 抵抗するだけ無駄だろう。

 

 

 

 そして、その日、この地においてリ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、ローブル聖王国、竜王国、そしてすでに滅びたスレイン法国を支配下に置くアインズ・ウール・ゴウン魔導連邦が成立する運びとなった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 そうして近隣の諸国はナザリックの軍門に下った。

 各国の首班たちは、いったいあの恐るべき力を持ったアンデッドが、どんな法外な命令を吹っ掛けてくるだろうかと戦々恐々していたのだが、その意に反し、当のアインズ・ウール・ゴウンからは、取り立てて無理難題を命じてくることは無かった。せいぜい各国の為政者らは一般民衆に対し、あまり非人道的な扱いはしないようにという通達があった程度であった。

 

 これには各国とも拍子抜けした。

 

 そしてそれ以外に、あのアンデッドからの指示といえば、この地に存在する魔法や武技の情報並びに強者の情報を提供することと、各国が保有する強力なマジックアイテムの調査くらいであった。

 自分たちの知りえる魔法や武技の情報提供に関しては、特段隠す必要性も感じられなかったことからすんなり応じたものの、マジックアイテムに関しては、それぞれの国において万が一の際の切り札ともなるべき国宝であり、さすがに渋る向きはあった。

 しかし結局のところ、下手に逆らって滅ぼされるよりはと、どこの国もおとなしく調査に応じた。ときおり調査したマジックアイテムの提供を命じられることもあったが、その場合、元のアイテムよりはるかに強力な物との交換という形を提案してきた。そのため、そういったことが知れるとどこの国も断るどころか、むしろ嬉々としてそれに応じるようになった。

 

 治安も以前よりはるかに良くなった。

 そこら中にわさわさといるゴキブリたち。彼らはほんのわずか前まで自分たち人間を脅かす脅威の存在であったのだが、今度は逆に自分たちを守ってくれるありがたい存在へと変わったのだ。

 街中での犯罪は激減した。辺境の村や街道などの郊外においても、もう亜人や怪物(モンスター)の襲撃に怯える必要はない。

 

 世界中の誰もが予想していた最悪とはまったく異なる、むしろ最良の結果にほっと胸を撫で下ろし、この降ってわいた平和を享受していた。

 

 

 

 そんな折、アインズの許へ一通の書状が届いた。

 それはローブル聖王国からであった。

 

 その書状に書かれていた内容であるがざっくばらんに言うならば、救援要請であった。

 ローブル聖王国のすぐ隣にはアベリオン丘陵という亜人たちが覇を争う地域があり、彼らはたびたび人間の住まう領域、すなわち聖王国側へと侵略部隊を差し向けてきていた。これまで聖王国側はそれと戦い、撃退してきたのであるが聖王国における最高戦力、すなわち聖騎士団団長であるレメディオス・カストディオが先日の謁見の際に殺されたため、戦力的に不利な戦いを強いられている。だから、お前ら、レメディオス殺した責任を取って代わりになんとかしろや、といった事柄が幾重にもオブラートに包み、さらにその上を砂糖菓子と生クリームでこれでもかという程過剰にコーティングしたかのような文章で、延々とつづられていた。

 

 

 それを受けたアインズ・ウール・ゴウン魔導連邦側としては、それならばということでレメディオスを殺した張本人であるエクレアを助っ人として聖王国に派遣することに決めた。

 

「お任せください。この私が見事、かの地の野蛮なるものどもを平定して見せましょう」

 

 アインズからの指令に、思わず見ているだけでイラッとくるような笑みをその顔に浮かべたエクレアは、いつもの男性使用人に小脇に抱えられ、聖王国へと旅立っていった。

 

 

 その後、アベリオン丘陵を舞台に繰り広げられた伝説の戦い。

 豪王バザーはエクレアのフリッパーによって脳天を叩き割られ、蛇王(ナーガラージャ)のロケシュは橙色の短い脚に蹴り飛ばされ、石喰猿(ストーンイーター)の王ハリシャ・アンカーラは投げた岩をヘッドスライディングで躱しつつの(くちばし)でのついばみ攻撃によって命を落とし、その他諸々の者らも十把一絡(じっぱひとから)げに倒された。

 そのまさに鬼神の如き戦いぶりを目の当たりにした他の亜人たちは、その突如現れた珍妙な姿のバードマンの前にそろって膝を屈した。

 

 こうしてアベリオン丘陵全域はナザリックの執事助手エクレア・エクレール・エイクリアーの支配下に置かれ、聖王国はあっさりと長年の脅威から脱したのである。

 

 

 

 そうした聖王国での話を聞きつけたのか、今度は竜王国から援軍の要請が入った。

 なんでも竜王国は近隣のビーストマンたちから長年にわたり襲撃を受けているらしい。そして、これまではスレイン法国に援軍を頼んでいたのだが、そのスレイン法国が無くなったので代わりに助けてほしいというものであった。

 

 次から次へとくる要請に面倒だなと思いつつもアインズは、そちらには恐怖公を派遣することにした。

 

 そうして、遠路はるばる竜王国へとやってきた恐怖公と彼率いる幾万もの眷属たち。

 首都にて竜王国の女王、〈黒鱗の(ブラックスケイル)竜王(・ドラゴンロード)〉ドラウディオン・オーリウクルスとの謁見を終えた彼は、すぐさまビーストマンの脅威にさらされている国境付近へと足を運んだ。

 

 そこでは今しも、ビーストマンの襲撃により、竜王国側の砦が崩壊せんとしていた。

 

 恐怖公は躊躇(ためら)うことなく全軍に突撃を命じた。

 その命を受け、大波のごとくに突進するゴキブリたち。

 不意に現れた大量の虫たちの襲撃に、勇猛果敢であるはずのビーストマンらでさえも狼狽(うろた)えた。通常、ビーストマンの戦士は普通の人間と比しておよそ十倍の戦力を持つと言われる。だがそこに現れたゴキブリは一匹一匹が、そんな彼らをも上回る強さをもっていたのだ。そして、そんな強者がそれこそ圧倒的なまでの数の差をもって襲い掛かるのである。

 

 それはまるで大波に押し流される砂の城のよう。

 勝負は一刻を待たずして決まった。

 地に倒れ伏す、獅子や虎の頭部を持つ屈強な亜人たち。そんな彼らの身に、小さな黒い蟲がびっしりととりつき、その肉体をむさぼっている。

 その光景を砦の上から見ていた兵士たちは、誰もが戦慄にその身を震わせたまま立ち尽くしていた。

 

 

 その見るものによっては悲惨としか言いようのない光景を前に、恐怖公はその四本の腕を組み、他人には見分けがつきにくいが難しい顔をして思案していた。

 

 

 アインズからの命令通り、無事、この地に平和を取り戻すことには成功した。

 

 だが、それで彼の主は本当に心休まるだろうか?

 

 

 先日、ここより離れた聖王国なる、ナザリックに降った地域より支援要請を受け、執事助手エクレアがそちらに向かった。そして、そのすぐ後に別地域である竜王国からも同様の要請を受け、今度は自分が派遣された。

 

 恐怖公が気になったのは、その要請を受けたとき、そしてナザリックの者を派遣するときのアインズの様子である。

 彼の複眼の目から見て、いささか奇異に思うような――それこそ疲れたような、まるでなげやりとでもいうべき態度であったのだ。

 

 支配下にある各国からの救援要請に対し、アインズがそのような態度をとる、その理由。

 それは――アインズの意に沿おうとしない、実に不敬としか言いようのない者たちが未だこの世に存在しているからではないだろうか?

 彼の主はこの地に生きるすべての者に対して支配、統治という名の保護を行おうとしている。だが、愚か極まりない者たちはそんな主の慈悲を理解しようとすらせずに、まるで野生動物が縄張りに入ってきたものを警戒するかのごとくに反抗を試みている。そんな暗愚なる者たちの思考、行為に彼の主は心痛めているのではなかろうか?

 

 思考の果てにそういった結論へと至った時、恐怖公は己が絶対的支配者たるアインズに対し、さらなる進軍の許可を求めた。

 悩み(うれ)いているアインズの苦悩を取り払おう。この自分が先陣をかける刃となり、アインズに仇なす全てを打ち倒さんと心に決めたのだ。

 

 

 そんな決意に燃える恐怖公からの進言。

 それに対しアインズからの返答は、「委細は任せる」というものであった。

 

 ――これは自分に対する全権委任に他ならない。

 

 恐怖公は自らに課せられた任務に対する責任の重さに身震いした。

 至高の御方よりの自分に対する信頼の厚さに奮い立った。

 

 

 実際の所、アインズの頭にあったのは、あくまで竜王国とビーストマンについてのことでしかなかった。今回、襲ってきたビーストマン達を撃退したとしても彼らは今後も継続して竜王国を襲う危険性があるため、防衛するだけではなくこちらからその前哨基地まで攻め込み、竜王国を襲おうとする気を無くさせたほうがいいかなと考えており、そして恐怖公からの進言はまさにそのことだと思って許可したのである。

 だが、そんな心のうちなど知らぬ恐怖公は、今回の許可はビーストマンに対するもののみではなく、もっと大局を見据えた上での指示だととらえた。

 

 

 そして主の言外の意をくみ、もはや自分たちですらその総数を数えきれぬほどの大群となった彼の眷属たちを、さらに前進させた。

 

 目指すは竜王国を襲ったビーストマンらの本国。そしてそのさらに先にある国々、偉大なるアインズ・ウール・ゴウンにいまだ恭順の意を示さぬすべての生きとし生けるものの許へと。

 

 

 

 そして、その結果――ほどなくして、この大陸のすべては恐怖公の眷属によって制覇された。

 

 荒れ狂う大河も、灼熱の砂漠も、険しい断崖も、うっそうと生い茂る密林も、そして強大な軍事力を持つ国家すらも、彼らの歩みを止めることは出来なかった。人馬(セントール)の村も、蠍人(パ・ピグ・サグ)の集落も、飛龍騎兵(ワイバーン・ライダー)らの部族も、トロールの村も、ミノタウロスの国家も、全て黒い蟲の波にのまれた。 

 ただ恐怖公の眷属であるゴキブリは、大地を歩き、空を飛ぶことは出来ても、さすがに水中に対する適性まではない。そのため、大陸を取り囲む海、その深部に都市を築いているらしいマーマンらまでは服従させられてはいないのだが、そうした例外を除いたこの世界のほぼすべてを屈服させた。

 この地に生きるすべての者たちは、誰もがアインズ・ウール・ゴウン魔導連邦への服従を宣言した。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 そうして、ついにアインズ・ウール・ゴウンはこの世界の征服を成し得たのだ。

 

 

 本人は特に何もしていないのだが。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 白亜の城のいと高きバルコニーにその姿をさらし、集まった民衆からの万雷の声を満身に受けるアインズ。

 だが、その心には世界征服が成った高揚感などなく、ただ(むな)しさとやるせなさだけが渦巻いていた。

 

 

 その理由は二つある。

 

 一つは、はっきり言うと自分はとりたてて何もやっていないのに、ナザリックの者たちだけでさっくりと目標――世界征服を達成してしまった事。

 

 

 そして、もう一つは――。

 

「いや、……それにしてもなんなんだよ、これ……」

 

 つぶやくと同時に、何気なくアインズはバルコニーの縁に手を載せた。

 すると――。

 

「うおっと、しまった!」

 

 慌てた声を出すアインズが触れた箇所、見るからに固そうな大理石らしき石材がぼろりと崩れさった。

 

 

 アインズがこの世界に対してやる気を失う原因のもう一つ。

 それはこの世界の全てのものがあまりにも脆すぎることである。

 

 かつて、この地に転移してきたばかりの時、エンリやネム、そしてガゼフらを殺してしまったように、この世界の生き物はちょっとどころではないほど容易く死ぬ。

 YGGDRASIL(ユグドラシル)において、三〇レベルの恐怖公や、最弱なはずの一般メイドやエクレアですら、強キャラ扱いなのだ。その者らと比べて圧倒的に強い一〇〇レベルのキャラであるアインズ。その力の前に、彼らは触れただけで息絶えてしまうのである。それはもはや加減でなんとかなる限度を超えてしまっていた。

 

 

 そして、それは生命だけではない、無機物なども同様である。

 この世界にあるもの――石だろうが鉄だろうが、はたまた本来かなりの硬度を持つはずの金属だろうが、とにかくどのような物体であろうとアインズが触るだけで、まるで砂糖菓子かのごとく、実に脆く崩れ去るのだ。

 こうしてバルコニーにおいて皆の前に姿を晒している今も、自分が踏みしめた拍子で城が崩れぬようにと、常に〈飛翔(フライ)〉で浮かび続けていなければならぬ始末。

 

 世界を征服したといっても、アインズはこの世界の全てに対して、まさに文字通り、壊れ物に接するように相対(あいたい)していなければならなかった。

 なにせ彼が触れれば、それだけで人が死に、ありとあらゆるものは粉砕されるのだ。

 それはすなわち、アインズはこの世界に存在するものに指一本たりとも触れられないということを意味する。

 もはや、日々のほとんどを自分が接触したことで何かを壊してしまわぬか、誰かを殺してしまわぬかとびくびくして過ごさざるをえないような有様。それはあたかも、わずかに体を揺らしただけで崩れゆく、砂地に掘った深い穴の中に幽閉されたようなものである。

 

 アンデッドになったことによる精神の変化により、元の人間の頃と比べその心ははるかに強靭なものとなっているとはいえ、普通に暮らしているだけでガリガリと精神を削られるような毎日を過ごす羽目になっていたのだ。

 

 

 そして、そんなアインズとは異なり、彼の配下たちはそれなりにこの世界に順応していた。

 

 たとえば聖王国へおもむいたエクレア。

 今や聖王国において、あのペンギンの勇名はあまねく響き渡り、希代の大英雄として下にも置かない歓待を受けている。

 今度、その偉業を讃え、銅像も立つらしい。

 そして、エクレアは向こうでもあいかわらず、自分はいずれアインズに代わってナザリックを支配するなどといったことを広言しているため、聖王国のケラルトや帝国のジルクニフなど、急に現れた新たな支配者の存在をこころよく思っていない者たちはエクレアを利用し、なんとか連邦の転覆を計れないかと画策しているらしい――というのが、念のため秘かにエクレアの護衛につけていた影の悪魔(シャドウ・デーモン)からの報告である。

 

 

 そして恐怖公の方はといえば、アインズ・ウール・ゴウン魔導連邦による世界征服の原動力となり、そして各地の治安を守る大量のゴキブリを直接、従えていることから目下、世界各国の注目の的である。

 誰もかれもが親交を深めたい、お近づきになりたい、自陣に取り込みたいとあの手この手で、あの三〇センチ大のゴキブリにすり寄っていた。

 

 帝国は恐怖公が光り輝く王冠や王笏を持っていた事から、思いつく限りの金銀財宝を彼に贈っていた。さらには、もしかしたらこういった物の方が好むかもしれぬと、ゴキブリ退治の際、あの虫を誘引するための餌として使われる油や砂糖、チーズなども一緒にだ。

 

 対して、国家の一大危機を救ってくれたかたちとなった竜王国はというと、ビーストマン襲来の爪痕が今だ癒えず、特に贈れるような物もない事に苦慮していた。そこでいっそのこと、いまだ独身である女王との婚姻などはどうだという話がもちあがり、それを聞いた当のドラウディロンが、百歩譲ってロリコンならまだしも、さすがにゴキブリは勘弁してくれと泣きだしてしまうという事態になったそうだ。

 

 その一方、王国の方では『黄金』と評される若く美しい、民衆からの人気も高い第三王女の輿入れ計画を進めているらしい。

 いくら王族の政略結婚にしてもほどがあると、自分の娘をゴキブリに嫁がせるなどという正気とは思えぬ計画を立てたリ・エスティーゼ王国の王に対し、アインズは義憤を燃やしたのであるが、信じがたい事にこの計画は当の第三王女ラナーの発案らしい。

 その事を伝え聞いたアインズは、「国のためとはいえ、その身をゴキブリにさしだすとは……」と、心優しいと噂の王女、その健気(けなげ)さに心のうちで涙した。

 

 だが、婚姻話といえば当の恐怖公からはアインズに対し、とある件の対応に苦慮している旨の報告があがってきている。

 

 それは元漆黒聖典番外席次『絶死絶命』の扱いに対してである。

 スレイン法国攻略時、恐怖公は彼女の事を一騎打ちで倒したのであるが、その事から『自分を倒した相手だから結婚する。子を作る』などと言って、彼女が連日、恐怖公の許へ押しかけてきているらしい。

 アインズに対して失礼な事をしているわけでもないし、彼女自身――この世界においてはという注釈はつくが――破格の強さの持ち主であり、利用価値も高いと判断されるため、いったいこの困った押しかけ女房に対し、どのように対処すればいいかと恐怖公は己が主の判断を仰いでいた。

 

 

 ――ふざけんな! モテ自慢か!? ハーレムかよ! ゴキブリなのに!! ……ああ、俺にも気兼ねなく話し、触れ合うことが出来る相手が欲しい。……対等の存在……ツアーが恋しい……。

 

 そうアインズは理不尽に怒り、独り言ち、この地に来て以来初の、新たな友となった巨竜の事を思い返した。

 

 

 各国から集められた情報により、その竜王の存在を知ったアインズは、様々な方面へ色々と無理を通し、ほとんどの者に知られていない場所に隠れ潜む彼、その本体へと会いに行った。

 

 そしてついに出会ったのだ。

 自分が触っても死なないほどの生命力を持った存在に。

 

 もちろん本気で殴ったら死んでしまいかねなかったが、普通に触れる分には問題はなかった。

 この地に来て初めて会った、ごく普通に接することが出来る相手を前に、アインズは当のツアーがドン引きするほど大はしゃぎした。

 

 

 だが、そんなツアー――ツァインドルクス=ヴァルシオンも今はすでにいない。

 

 友人になった記念にと、アインズは彼に様々な贈り物をしたのであるが、その中に含まれていた食物――餅をのどにつまらせて死んでしまったからである。

 

 

 ――ああ、俺は何故あの時、餅を食べるときは万が一のために掃除機を用意しておけよ、などと言ったんだ。ファンタジー世界の存在なんだから掃除機と言われても分かるはずがないじゃないか。せめて、のどにつまるかもしれないから注意して食えよ、と言うべきだった……。

 

 嘆いても後の祭りである。

 この世界における、たった一人の友人は死んでしまったのだ。

 

 

 ――本当になんなんだよ、この世界は。はっきり言って、何も出来ないしさ……。はぁ、俺より前に来たプレイヤーとかもこんな気持ちだったのかな……?

 

 

 周辺諸国を支配し、この世界の知識を収集していく中で、アインズが特に気にかけた情報。

 

 それは『この世界には一〇〇年に一度、プレイヤーと呼ばれる強大な力を持つ存在がやってくる』というものである。

 

 各地に伝わる話を総合するに、どうやらアインズらナザリックが来るより前、これまでもYGGDRASIL(ユグドラシル)のプレイヤーやギルドらしき存在がこの地にやって来ていたらしい。

 どうりでこの世界でYGGDRASIL(ユグドラシル)の位階魔法が使われていたり、各国の保有するアイテムの中にYGGDRASIL(ユグドラシル)由来らしきものが多くあるはずであった。

 

 アインズはすでにこの地に来ていた者たちについてそれらしい情報はないか、なんとか接触できないかとあれこれ手を尽くして調べたのであるが、人間種などの定命の者たちはすでにその寿命を迎えて久しく、寿命がないはずの異形種らしき存在たちもどこかに姿を消してしまっていた。

 一応、それらしき人物が眠っていると噂される海上都市や、八欲王の拠点だったとかいう砂漠の真ん中にある地なども調べさせてはいるのだが、施された強固な防御に阻まれているうえ――さすがにこの世界の者らとは強さが格段に違った――強引にいった結果、下手をうって本格的な敵対をしてしまうことは避けたいという意向から調査は遅々として進んでいなかった。

 

 そもそも、仮にこの世界にすでにいるプレイヤーを見つけても、彼らがナザリックに友好的だとは限らない。むしろ敵対的な可能性は多いと言わざるを得ない。ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』はYGGDRASIL(ユグドラシル)において、悪の限りを尽くすと有名なPKギルドであった。この世界にやってきた他のプレイヤーたちからすれば、そんなDQNギルドの人間が仲良くしようと言ってきたとしても、そうそう信用するはずもない。

 

 だがそれでも、この地の条理から外れた、この世界から仲間外れにされている状態の存在であるアインズとしては、とにかく対等の存在に会いたいという気持ちが大きくなっていた。

 

 

 ――過去に来ていた他のユグドラプレイヤーと会えないんなら、いっそのこと、これから来るのを一〇〇年を待つという手もあるんだけどなあ。

 

 

 一〇〇年。

 人間にとっては一~四世代ほどの時であり、軽々しく待つなどとは言えぬほどの時であるが、今のアインズ、そしてナザリックの者の多くは寿命の設定されていない異形種である。そしてナザリックには各種魔法や〈星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)〉を始めとした超位魔法、更にはワールドアイテムまであるのだ。それらを使えば、ナザリック内の定命の者らにもなんらかの対策は出来るだろう。一〇〇年という時は、決して許容できない程の時間ではない。

 

 

 ――いっそ、そうしてしまうかなあ……。

 

 

 ぼんやりと思い悩むアインズ。

 しかし、力なく肩を落とすその耳に――今は『耳』がないため、どこで音を聞いているのか自分でも定かではないが――届いたのは、脚下(きゃっか)につどう民衆たちが声高に唱える、偉大なる統治者への賛辞の声。 

 その歓声を聞き、アインズは自らの肩に背負う責任の重さを痛感した。

 

 

 ――……そうだ。今の俺には、この世界を支配した責任があるんだ。彼らの為にもしっかりしないと。

 

 

 そう気を取り直すとアインズは、彼の統治を喜び、純粋に彼を讃えるために集まった民衆たちへと目を向けた。

 

 実際、アインズの様々な内心の葛藤などさておき、この世界の者たち、とくに民衆からの彼への評価はうなぎのぼりである。

 なにせ、アインズが表だって統治して以降、人々の生活は格段に良くなったのだから。

 魔導連邦からの人々を虐げるなという各国への通達。これに違反することにより、またあのゴキブリたちに襲われるのではという恐怖から、上位階級たる貴族たちも民衆に対しての横柄な行いはあらためていた。その結果、人々は安心して日々を生きることが出来るようになった。領主による必要以上の食糧の収奪、独占も改善され、農民たちも飢えに苦しむことはなく、自分たちが育てた作物を口にすることが出来るようになった。さらには、魔導連邦によって世界が統一された事により、自由かつ安全に世界中を渡り歩くことが出来るようになり交易も盛んになった。

 誰もが危険に怯えることなく、今日から続く明日の事を考えることができるようになったのだ。

 

 無数のゴキブリを配下に持ち、その力でこの地に安寧と平穏をもたらしたアインズを人々は心から崇敬(すうけい)し、『ゴキブリ皇』という異名を偉大なる統治者に捧げ、こうしている今も『ゴキブリ皇、万歳!!』という賛美の声が辺り一面より響いていた。

 

 

 ――『ゴキブリ皇』ってイジメか? イジメだよな? ふざけてんの? 絶対わざとだろ!? それ絶対、褒めてねーよ! イジメ以外の何物でもないだろ!? イジメかっこ悪い!

 もういい、切れた! マジ切れた!!

 お前ら、嫌いだ! もう、この世界の事なんて知るか、バーカ!!

 

 

 

 そうして、翌日。

 アインズ・ウール・ゴウン魔導連邦からの緊急連絡が各国に届いた。

 それは『これから何百年か眠りにつくから起こすな』というものであり、世界制覇が成ったばかりでのそんな一方的な通達に、受け取った者たちはただ茫然とするより他になかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 数百年後。

 とある都市の一角。

 にぎやかな喧騒の絶えぬ大通りから、少し離れた裏路地に数体の異形の姿があった。

 

「これってどういうことなんですかね?」

「いや、何が何だか、さっぱり分からんな」

「うーんとね。ボクが見たところ、どうやらYGGDRASIL(ユグドラシル)Ⅱとかじゃなくて、異世界にでも来たみたいだけど」

「異世界? そんなバカな」

「ああ、でもやまちゃんの言うことも一理あると思うよ。いきなりアナウンスもなしに、触覚とか香りとかを実装した二作目にそのまま移行するとか考えづらいし」

「俺も姉ちゃんに同感。ちょっと辺りを見てきたんだけどさ。風呂に入ってる女の人の胸や股間にモザイクも消しもなかったし、それに警告メッセージも出なかったから、ここがあんだけエロ縛りがきつかったゲームの中ってのは考えにくいなあ」

「何やってんだ、弟!」

「まあ、茶釜さん、落ち着いて。ともかく、現状を把握するのが先決でしょう」

「うん、そうだね。ぶく……かぜっちも落ち着いて」

「OK、OK、落ち着いてるよ。……弟、お前をしめるのは後だ」

「ひぃっ……」

 

 二人をなだめるように、重厚な鎧に身を包んだ騎士が話を進める。

 

「ええっと、とりあえずですね。先ず、ここはどこか? 知り合いは他にいないかを調べましょう」

「そうだねえ。私ら、ナザリックの円卓の間に集まってたはずなのに、気がついたらこんな中世ヨーロッパ風の街中だからねえ」

「ちょっと上から見てきた限りではYGGDRASIL(ユグドラシル)の街とは似ても似つかなかったけど」

「そうなんだ……、ってペロロンチーノさん、飛べるの!?」

 

 驚愕の声を漏らす巨漢。

 それに対して、ひょろりとした印象のバードマンは事もなげに答える。

 

「うん、なんだか、飛ぼうと思ったら割と自由に飛べたよ。翼も自由に動いたし」

 

 そう言って、背中から生えた翼をわさわさと動かして見せる。

 

「ますますもって、ここが異世界ではないかという確証が強まりましたね。おそらく我々は――どういう訳かは置いておくにしても――ゲームのキャラのまま、全員で異世界に来てしまったのでは?」

「やれやれ、お前がみんなで時間を合わせて、モモンガさんのところに行こうとか言いださなければこんな事にはならなかったかもしれないんだけどな」

「モモンガさんからゲームが終了するから最後に集まりませんかというお誘いのメールを受け取ったんです。どうせなら、我々がいなくなった後もギルドを維持し続けてくれたモモンガさんに報いようとは思わないんですか?」

「別にみんなで示し合わせて一斉にでなくても良かっただろ」

「そう思うんでしたら……」

 

 口論になりそうな空気を先読みし、巨漢がその巨大な手をバチンバチンと打ち鳴らす。

 

「はいはい、ストップ。ここでこれ以上言い争ってもしょうがないよね」

「そうだね。私もやまちゃんに賛成。とりあえず、このままここで話していても分かることは少なそうだから、街の人に話を聞いてみるのがいいんじゃない?」

「……そうですね。ではちょっと私が行って、聞いてみます」

「なんでお前なんだよ」

「それは姿形からですよ。ここから覗ける限りですが、通りを歩いているのは人間のみです。ここから推測できるのはこの街は人間種のみ、あるいはほとんどが人間種の街なのでしょう。そこへ異形種である我々が姿を現した時、すんなり受け入れてくれればいいですが、下手をすれば大騒ぎになりかねません。そう考えた場合、私が行くのが最善でしょう。なにせ私ならば全身鎧(フルプレート)に身を包めば、あたかも人間のように見えます。ですが、ウルベルトさんではその山羊頭をどうやっても隠せないでしょう」

 

 その言葉にぐうの音も出ないウルベルト。

 そして他の者たちもたっち・みーが行くことに反対はなかった。

 

 

 そうして、たっち・みーは全身を光り輝く鎧に身を包み、一片たりともその肌をさらさぬようにして、裏路地から歩み出る。

 陽光に照らされた大通りでは各種露店が立ち並び、人々のざわめきが震動となって、たっち・みーの耳朶をうつ。

 

 誰に声をかけようかわずかに逡巡したのち、たっち・みーは露店を何気なく覗いていた髭を生やした中年男性に近寄ると、その背後から「失礼、ちょっと聞きたいことがあるんですが」と言って、それが大参事の引き金となるなど夢にも思わず、その肩にポンと手をおいた。

 

 



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