トレセン学園ジュニアCクラスの教室で、五人のウマ娘達が額を突き合わせていた。
集っているのは何時もの面子。
リギルの二人と、反リギルの二人。
そして調停役のお嬢様。
しかしこの場では声一つ上げず、五人とも同じスマホの画面を注視している。
スペシャルウィークはスマホの時刻を確認し、さらに教室の時計も見る。
デジタルと針の違いはあれど、示す刻は変わらない。
「「「「「……」」」」」
そわそわと落ち着かないスペシャルウィーク。
隣のグラスワンダーも表情が硬い。
正面に座るセイウンスカイと、その隣のエルコンドルパサーも同様だった。
キングヘイローに至っては明らかに不安げな表情で祈るように両手を組んでいる。
この五人だけではない。
教室内ではクラスメイトがそれぞれに集まり、自分のスマホを開いていた。
彼女らが待っているのは共通の連絡。
現地には当事者の他、付き添いのクラスメイトが幾人か同行している。
結果は既に出ている筈だ。
どれ程の時間が過ぎたのか。
一分一秒が長く感じる。
しかし時間は彼女らの主観に左右される事無く変わらぬ速度で流れ続ける。
そして、ついにその時が来た。
机のスマホが振動する。
同時に他のグループのスマホも鳴動した。
彼女らが開いているグループラインに書き込まれた文字は一言。
―――勝利!
「やったぁああああああ!!!」
スペシャルウィークの叫びは教室内でも同時に上がった歓声に溶け消えた。
誰もが手近のウマ娘達と抱き合い、肩を組み、ラインの一言を幾度も読み返す。
そして騒いだ。
中心にいる五人組の周りにもウマ娘が集まり、それぞれに喜びの声を掛け合った。
その日行われていたのは、地方レースの未勝利戦。
其処にこのクラスのウマ娘が出走していた。
東京ではテレビ中継される事もないローカルレース。
しかしこのレースは自分達の中では伝説になるだろう。
それはこの世代の最後の未勝利ウマ娘の勝利だった。
それぞれのスマホには、現地に赴いたクラスメイトが撮影したレースの動画も添付されていた。
「頑張りましたね……」
キングヘイローは白くなるまで固く結んでいた両手をほどく。
そして机の引き出しから取り出したノートを開いた。
ノートのタイトルは“クラス対抗ポイント表”
これは今期のジュニアCクラスの中で、話題がリギルと反リギルに分離した所にエルコンドルパサーが目を付けた所から始まった遊び。
エルコンドルパサーは各派閥の代表者を通じて全体に一つのルールを敷いた。
『皆で仲良く喧嘩しまショ!』
クラスカースト最上位の強権である。
彼女はオープン以上のレースにおいて、そのグレードと順位に応じたポイントを割り振った。
そしてリギルを応援するチームと対抗するチームに分かれ、クラス全員を巻き込んだ催しに持ち込んだ。
このようなお祭りが成立した一つの理由に、エルコンドルパサーが設定したポイントの配分が特殊であった事が挙げられる。
怪鳥はG1レースの優勝よりも未勝利ウマ娘の一勝目に多くのポイントを割り振った。
更に条件戦を勝ち上がったウマ娘がオープンに上がった時も同様である。
此処が多くのウマ娘にとっての壁であり、乗り越えられずに学園を去る。
そんなギリギリの所にいるウマ娘達にとって、自分の小さなレースの一勝がG1レース以上にクラスを揺らす事が楽しかった。
ルールを持ち込んだ時には勝ち上がっているウマ娘も多かったが、そのようなウマ娘達には精神的にも余裕がある。
こうしてエルコンドルパサーはクラスメイト達を巻き込むことに成功した。
そして本日勝利したウマ娘は、リギルに憧れる少女の一人。
「この子は初勝利ですから特別条件に該当しますね。これでリギル側の逆転です」
「ノーゥ」
「この場合喜べばいいのか悔しがればいいのか困っちゃうねぇ」
セイウンスカイもエルコンドルパサーも複雑な表情で顔を見合わせ、堪え切れずに噴き出した。
「やっぱり喜んじゃいマース」
「今日ばかりはね、仕方ないよ」
「これで今期のジュニアCクラスの勝ち上がり率は100%……これは快挙ですわ」
「素晴らしいですね」
キングヘイローが笑みを浮かべて宣言すればグラスワンダーは感慨深げに頷いた。
「ミンナー胴上げしまショー!」
エルコンドルパサーが全く関係ないウマ娘を捕まえて声を上げれば、盛り上がっているクラスメートが集まってくる。
熱気によって正常な判断力を失っているウマ娘達はノリで怪鳥が見つけた生贄……クイーンベレーを担ぎ上げた。
抗議する間もなく、その身が五回宙を舞う。
地味に天井が近くて怖かった。
「それじゃ、ミナサーンお手を拝借……セーノッ!」
エルコンドルパサーの音頭で胴上げ、三々七拍子と続き、リギル代表としてグラスワンダーに祝辞を振る。
全くネタ合わせ無しで教壇に立たされたグラスワンダーだが、つっかえながらもこの場にいないクラスメートを祝福した。
最後はそのグラスワンダーの音頭によって一本締めが行われ、本日のホームルームはお開きとなった。
……なお、担任はこの異常な雰囲気の教室に入れず職員室に引き返していた。
§
クラスメイトが解散した教室に、五人組が居残っている。
何時ものスペシャルウィークの席にはクラス対抗ノートやレース雑誌が持ち込まれていた。
「私とエルちゃんが同日優勝してるのにひっくり返ったか……」
「世代戦と混合戦までは分けてなかったデースからネ~」
大きく息を吐いたエルコンドルパサー。
少し元気が無いと感じたスペシャルウィークは気づかわしげに尋ねる。
「エルちゃん、なんか疲れてる?」
「いや……まぁちょっと、チームでネ」
先程クラスメイトを巻き込んで大騒ぎしていたウマ娘とは同一人物とは思えない。
苦笑する怪鳥は差しさわりの無い部分を話し出す。
「毎日王冠でワタシを差し切れなかったシルキー先輩を、パール先輩が思いっきり指さして笑ったからサ~……シルキー先輩は悔しがってた所弄られて拗ねるし、ワタシはなんにも言えないデスし」
「まぁ、勝ったのはエルちゃんだもんね」
「で、そんなパール先輩がスプリンターズSで負けたじゃない?」
「それはもう何というか……リギルとしてはごめんなさいとしか言えない……」
先日行われたスプリンターズSはかなり注目度の高いレースだった。
早めの出走登録でシーキングザパールとタイキシャトルが揃ったからである。
春の安田記念で好勝負を演じたもの同士、マイルCSの前哨戦として大いに盛り上がっており……二人まとめて敗北した。
勝ったのは登録締め切り五分前に滑り込んできた怪物、マルゼンスキー。
「あれにはトレーナーも吃驚していましたね……」
「……実は秋の何処かで割り込んで行くだろうなとは予想してたんだけどね、マルゼンスキー先輩。安田記念で不満そうだったから」
「まぁ……勝敗はウマ娘の常デースからそれは良いんデスけどー……何でウイニングライブでアレをやった」
頭を抱えて机に突っ伏したエルコンドルパサー。
レース後のウイニングライブは上位三着までのウマ娘が参加出来るステージである。
この興行収入は大きく、何の曲を歌うかは重要なポイントだった。
そしてその決定権はレースで一位を獲ったウマ娘にある。
マルゼンスキーが選んだ曲は、今この国では誰もが知っている電波ソング。
タイキシャトルもシーキングザパールもステージ上で唖然としたが、プロ意識で最後まで演じきったのだ。
「もう……パール先輩はイメージが崩れたって落ち込むしシルキー先輩は笑うし、そんで二人は喧嘩するシ~……」
「それはもう何というか、ご愁傷様としか……」
「何より一番救いが無いのがネ?」
「うん?」
「マルゼンスキー先輩に、流行りの電波ソングなんて余計なものを教えたのがグラスなんだけどサ」
「うん」
「その情報の出所が、ワタシのスマホの着信だったノ……この気持ち何処にぶつければ良いのカナ?」
「……複雑な軌道のブーメランだね」
「これは誰に最終的な責任が行くのでしょうね?」
「もう、私じゃなければなんでも良いです」
グラスワンダーはこうして身内で集まっているときに飛び火で炎上する事が多い。
今回の件も危なかったと内心で息を吐いた。
エルコンドルパサーも何とか気を取り直して顔を上げる。
「それにしても、問題はクラス対抗の行方だよ……ヘイローちゃんのポイントがこっちに入れば問題ないんだけど」
「ウンスちゃん、ジャッジを引き込むのはズルいんじゃないかな」
「だってヘイローちゃんはリギルじゃないんだから本当ならこっちでしょ? しかも京都新聞杯はスぺちゃんに競り勝っているんだし」
「ぐふっ」
呼気と吸気が喉でぶつかり、むせ込みながら机に突っ伏すスペシャルウィーク。
「あれはいったい何だったんですか? 正直、ゴール手前まで一歩負けてて、ダメか……と思ったら失速して」
「脚がね……なんか脚が急に止まっちゃったの」
スペシャルウィークは北海道の大平原を好きなように走っていたウマ娘である。
その環境によるものか、何も考えずに走るとゴール前で力尽きる癖があった。
距離の短長は関係ない。
これは身体能力に比して距離に応じて早めに走ってしまう癖であり、トレーナーから序盤だけはやや抑え気味に入るよう指示を受けているスペシャルウィーク。
最も今回はこの悪癖だけで負けたわけではなかった。
「スぺちゃん、体重制御をかなり自由にやっていたんですけどね……この京都新聞杯はダービーの後に怪我と夏負けが重なって。絞れはしたんですけど……トレーナーさんの指示より急激に削って、スタミナ落としちゃって」
「ついにトレーナーさんから今年いっぱいの完全管理を受けちゃったよぅ……」
「ダービーの後、ウンスは痩せたのにスぺちゃん丸々してたもんネ~」
「そんな事が……」
「あ、ヘイローちゃんあの頃凹んでて見てないデショ? 写メあげようか」
「是非に」
「止めて! 広めないでっ」
グラスワンダーに頭を撫でられていたスペシャルウィークが跳ね起きる。
しかし彼女が見たものはスマホのデータを交換する二人の姿だった。
「あら可愛い」
「え、そうかな?」
「はい。デフォルメされたぬいぐるみみたいで大変可愛いお姿ですわ」
「がはっ」
キングヘイローの顔に嘲笑う様子はなく、本気で言っているのが分かる。
だからこそ頭身を下げて丸く作った物体に似ているという評価が事実だと知り、落ち込むスペシャルウィーク。
この話題はダメだと見切ったキングヘイローは、一見のほほんとしているセイウンスカイに水を向けた。
「ウン……セイウンスカイはどうですの? もうすぐ菊花賞ですけれど」
「私、毎日走ってるよ」
「そう……順調そうなら結構ですわね」
「わたし、まいにちはしってるよ」
「……ん?」
「ワタシ、マイニチ。ハシッテルヨ」
壊れた人形のように繰り返すセイウンスカイ。
その顔面は白を通り越した黄疸が浮かび、誰が見ても異常であった。
「ヘイ、ウンス―……大丈夫? どうしたデース」
「君のせいだからぁああああああああ!」
「わっつ?」
「毎日王冠で掛かっちゃってからスズカ先輩がやたら張り切って……毎日毎日叩き合いさせられて……私は嫌だって……」
「セイウンスカイちゃん……心に傷を負っていませんか?」
「いや、それワタシのせいじゃないですシ~。そもそも秋天回避したサイレンススズカ先輩は脚平気デス?」
「少し違和感が出ただけで、念のための回避だから。ジャパンカップには出るよ。もう走ってるし」
「スズカさんと毎日叩き合いってご褒美だよね? 幸せに耐えきれなくなったのかな?」
「スペシャルウィークさん、幸せの形は人それぞれですからね」
両手で頭を抱えて机に伏せるセイウンスカイ。
かと思えば突然顔を上げ、追われているかのように周囲を見渡してまた頭を抱える。
どう見てもメンタルを病んでいた。
「……スぺちゃんが京都新聞杯でこけて、勝ったヘイローちゃんはダービーでこけてる……多分菊の本命はウンスだろうケド、これはダメですかネ~」
「セイウンスカイちゃん、このメンタルでゲートに入れますかね」
グラスワンダーの心配に苦笑して肩を竦めたエルコンドルパサー。
怪鳥の路線はジャパンカップ一本の為、世代戦の菊花賞にはそれほど関心が無いのである。
「秋天って言えばグラスちゃんだよね! 優勝おめでとう」
「え? 何のことですかスぺちゃん」
「……え? こないだの秋天……グラスちゃん勝ってたよね?」
「ですから、秋天って、なんで……ひぅっ」
突如振戦と過呼吸を起こして青ざめたグラスワンダー。
スペシャルウィークはチームメイトの様子に首を傾げる。
「グラスぅ……そろそろ現実を受け入れて立ち直りなヨ~」
「嫌……嫌ぁ……」
「どうなさいましたの彼女?」
グラスワンダーは恐怖に引きつり、自分自身をきつく抱きしめて口の中で何かをつぶやいている。
エルコンドルパサーがかろうじて拾い上げた言葉はキンイロリョテイという単語。
「ほら……皆も秋天は見てたでしょ?」
「うん。グラスちゃんが勝ったっていうか、キンイロリョテイ先輩が自爆した奴」
「あれも訳が分かりませんでしたね……」
つい先週行われた天皇賞秋。
サイレンススズカが負傷回避し、ジャパンカップ狙いのエルコンドルパサーも回避した中で一番人気だったのはグラスワンダー。
それは一般的な評価としては本命不在と言われる中で行われたG1レースだった。
「なんかネ? レースでキンイロリョテイ先輩に絡まれたのをまだ引き摺ってるっぽくってサ~」
「なにそれ、ちょっとヘタレじゃない?」
「……そう思うならセイウンスカイちゃん……サイレンススズカ先輩に1000㍍、只管真横に張り着かれながら下から顔を覗き込まれる所を想像してくださいよ」
「ひぎぃっ!?」
「あ、ウンス考えちゃダメだって。夢に見るヨ」
後ろからレースに入ったグラスワンダーだが、秋天序盤は相当なスローペースになった。
ややウンザリしたグラスワンダーは1000㍍過ぎから先頭に立つ。
其処にキンイロリョテイがついてきたのだ。
いや、もしかしたら後方にいた序盤からずっと見ていたのかもしれない。
キンイロリョテイはグラスワンダーと完全に並走した。
そしてなんと身体を屈め、横を走るグラスワンダーの顔を覗き込んできたのである。
その表情は只管に無表情であり、非生物的な不気味さがあった。
悪寒を覚えて振り切ろうとしたグラスワンダー。
しかし真下から覗かれていたために加速時に首が下げられない。
結果として思う様な走りが出来ないまま、キンイロリョテイのストーカーを受け続けたグラスワンダーは非常に不本意な二着入線となる。
当然ながらこの時のキンイロリョテイは審議対象となり、一着で入線しながら走路妨害で失格となった。
レース後の事情聴取では『青い勝負服だから殺そうと思った。でも人違いだった』と謎の供述を残している。
「逃げたいのに首が下げられなくてぎくしゃくして……あのフォームで早いヘイローさんは本当に凄いって思いました……」
「もしかしてグラスちゃん、昨日の練習で左回り走りにくそうだったのって……」
「変な癖になっちゃ不味いよ? 早めに修正しときなよ」
「いや、それを言うならウンスこそ、さっさとゲートと仲良くしなヨ」
「嫌だ。アレは敵だから」
「貴女達は何を言っているんですか……」
キングヘイローはそれぞれに悩みを抱えたクラスメイトを一人一人見渡した。
「皆さん、実は苦労していらっしゃるんですか?」
「……チームの雰囲気重い」
「……スズカさんが怖い」
「……リョテイさんが怖い」
「……ご飯食べたい」
「スペシャルウィークさんは大したことなさそうですが」
「なんで!?」
抗議の声を上げたスペシャルウィークだが、満場一致で否決された。
「なんていうかサ~……たまにはこのメンツで遊びに行きたいネ~。チームでは言えない愚痴もあるし」
「あぁ、良いですね。ジュニアCクラスも終わりが近いですし、区切りとしての卒業旅行とか行きたいですね」
「エルちゃんが来年海外だし、その前に……有馬記念が終わった辺りに予定組もうか」
「あ、じゃあもしよかったら家に来ない? おかあちゃんが手紙で皆に、私が良くしてもらってるお礼したいって言ってるから」
「ご迷惑ではありませんか?」
「こっちは平気。真冬の北海道は美味しいモノいっぱいあるんだよー」
「カニ食べたいデース」
あっという間に北海道旅行が組まれた五人組。
最早彼女らの頭にはウインタードリームトロフィーなど欠片も残っていなかった。
ジュニアCクラスから出走するなら三冠ウマ娘を獲る程の実績が必要なため、自分達が選ばれると思っていないという事情もあったが。
「それでは、冬に美味しい思いをするためにも、もう少し秋を頑張らないといけませんね」
「えっと……私とヘイローちゃんとウンスちゃんが菊花賞で、エルちゃんの次走はジャパンカップだっけ」
「イエース!」
「ねぇエルちゃん」
「ん?」
「私、菊の後ジャパンカップに行くつもりだから」
「……間隔無いよ?」
「良いよ、それでも」
「……分かった。待ってマース」
エルコンドルパサーとスペシャルウィークは互いに拳を突き合わす。
二人の間に約束が結ばれる様をグラスワンダーは苦い思いで見守った。
暗黙の了解として、一つのレースに出れるのは一チームに二人まで。
JCはエアグルーヴが出走を希望しており、スペシャルウィークが出るならグラスワンダーの枠はない。
自分は毎日王冠で敗れている。
しかしあの一戦を持って下だと認める程、彼女のプライドは低くなかった。
§
リギルではグラスワンダーの秋天、タイキシャトルとマルゼンスキーのスプリンターズSが終わり、次走はスペシャルウィークの菊花賞。
短距離、マイル路線に突如殴り込みをかけたマルゼンスキーはトレーナーの想定外だが、あのウマ娘の奔放さは矯正不能の天性である。
むしろ春に失速や逸走といった、不安定なレースばかりしていたタイキシャトルを戒めるには良い薬にもなったと思う。
身体能力にものを言わせるのはタイキシャトルの強みだが、自分から損をしに行く必要はないのだ。
「……」
チームのウマ娘達の今後に思いを馳せるトレーナー。
マルゼンスキーとタイキシャトルはマイルCSを希望しており、其処に出す。
グラスワンダーは内心でジャパンカップを希望していたが口には出さなかった。
「……秋天一勝の代価としては高くついたな」
トレーナーとしてはグラスワンダーの希望は察していた。
しかし秋天からこちら、グラスワンダーの調子が上がらない。
特に左回りの時計が著しく悪くなった事も有り、此処は回避させて有馬記念に向けて調整するしかなかった。
「……」
東条ハナの目の前を駆け抜けていくスペシャルウィーク。
かなり集中して走れている。
このウマ娘は走る事に対して非常に真面目だった。
反面で意志の弱い部分があり、強く自分を律する事が苦手な面もある。
ダービー後の安静や食事の制限等、やりたくない事をしなければならない時に抱えるストレスが他のウマ娘に比べて大きい。
身体能力としては非常に恵まれており、世代次第だがG1レースの一つや二つなら楽に獲れる力はある。
しかしそれ以上を目指して腰を据えて鍛えこんでいくとなれば、トレーナーとしての技術が必要なウマ娘だとも思う。
素質は大きく性格は素直だが、手はかかる。
育てる方としては面白いウマ娘である。
「ラスト!」
「はいっ」
そんなスペシャルウィークだが、京都新聞杯の敗北を経て少し変わった。
本来なら渋ったであろう食事制限も頑張って続けている。
「良いライバルがいるようだからな……私の手に寄らず育っていくのは、少し悔しいが」
スペシャルウィークは菊花賞とジャパンカップと立て続けに出ようとしている。
間隔の近い二つのレースで適正体重を整えるのはウマ娘だけでは難しい。
東条ハナにはそのどちらもベストに近い数字に持ってくる自信はあった。
しかしそれでも完璧なコンディションに出来るかと言えば断言できない部分がある。
特に後半のジャパンカップの体調は、菊花賞の内容次第になるだろう。
そして東条ハナは菊花賞が楽なレースになる事は無いと確信していた。
「もしかしたらと思っていたんだがな……」
圧倒的な身体能力でジュニアチャンピオンになったグラスワンダー。
突然田舎から出てきてその春にダービーを獲ったスペシャルウィーク。
例年ならばこの二人でジュニアCクラスの重賞はリギルが独占しただろう。
しかしそうはなっていない。
春をマイルで全勝し、今だ無敗のまま中距離に出て来たエルコンドルパサーがいる。
皐月賞、ダービーをスペシャルウィークと奪い合い、秋には京都大賞典でシニアクラスを薙ぎ倒したセイウンスカイがいる。
おそらく短距離ウマ娘でありながら、京都新聞杯では九割の出来だったスペシャルウィークを仕留めたキングヘイローがいる。
今期のジュニアCクラスは異常なまでに粒ぞろいだった。
「勝ち上がり率100%……奇跡の世代か」
春には其処までの評価ではなかった。
切っ掛けはこの秋。
エルコンドルパサーとセイウンスカイのGⅡ同日制覇に始まったジュニアCクラスの快進撃。
更に内容はともかく、秋天もグラスワンダーが獲っている。
世間的にはまだ半信半疑な部分があった。
しかしレース関係者、特にトレーナーの間ではこの世代の可能性に注目が集まっている。
東条ハナは菊花賞に登録しているウマ娘のリストを読む。
彼女はその全員の直近三レースの映像を頭に入れていた。
此処に出てくるウマ娘に弱い相手はいない。
一つ、二つ間違えれば……もしくは不運が起こったらスペシャルウィークすら喰われかねない。
現時点の一番人気、セイウンスカイに至っては完璧なレース運びが出来たとしてもどうなるか分からなかった。
スペシャルウィークは間違いなく、この強い世代を牽引していく力がある。
トレーナーとしてそう信じている。
それでも苦戦はするだろう。
「トレーナーさん!」
走り切ったスペシャルウィークが軽く流しつつ寄って来た。
「もう体調にも違和感はなさそうだな」
「はい!」
「そうか……だが、分かっていると思うが……」
「はい。ナリタブライアン先輩の真似は、身体が出来きるまで禁止……ですよね」
「ああ。最低でも今年いっぱい……出来れば今後もなるべく使うな」
「……今年については約束します」
「そうだな」
嘘のつけないスペシャルウィークの解答に大きく息を吐く東条ハナ。
今のうちから特殊な走行フォームに耐えられる身体作りを考えておかなければならないだろう。
此処までの練習や怪我の治り具合から考えて、おそらくスペシャルウィークは怪我に強い。
ある意味でスペシャルウィークの一番の強みは其処かもしれない。
「大体予想はしているだろうが、これが菊花賞の登録者だ」
「……うわぁ、ウンスちゃん二枠四番……良い位置だなぁ」
「しかも偶数でゲートにいる時間が短い。お前は大外だし、キングヘイローももう一度先行はしないだろう。多分誰も奴からハナは奪えない」
「ウンスちゃんの逃げと真っ向勝負になりますね……」
「そうなるな。だから最初の五ハロンは自分でカウンティングして走れ。絶対にセイウンスカイの乱ペースに付き合うな」
「はい!」
勢い込んで返事をするスペシャルウィーク。
しかしすぐ下を向く。
「どうした?」
「あ、えぇと……私、どうして時計数えながら走り続けると疲れちゃうのかなって。ウンスちゃんは最初から最後まで数えてるっぽいのに」
「先ずウマ娘には脚質と走りの性格がある。先頭を走る事が好きなウマ娘もいれば、背中を追いかける事が好きなウマ娘もいる。どちらかと言えば、一人で前を走る方が好きというウマ娘の方が少数派だ」
「確かに……私も最後に抜くまでは背中が見えてる方が走りやすいです」
「セイウンスカイは同じ逃げウマ娘でもサイレンススズカとはタイプが違う。彼女はスズカのような圧倒的なスピードは維持出来ない。正確なカウンティングからペースを撹乱し、リードを奪いながら自分の脚も温存して距離を潰していく……どちらも敵に回せば厄介な事には間違いないな」
「ですよね……」
京都大賞典のセイウンスカイがスペシャルウィークに与えた衝撃は大きかった。
キングヘイローと違い、直接戦っていなかったからこそ余計に相手が大きく見える。
名門メジロ家の一員であり、本命と言われたメジロブライトも強い脚で追い上げていた。
どうしてあれが届かないのか。
その姿に自分自身を重ねたスペシャルウィークは思わず身震いした。
それはスペシャルウィークのみならず、当日レースを観戦したファンですらそう思ったろう。
だからこそダービーの時と人気は入れ替わったのだ。
今のセイウンスカイに勝つためには最低限、メジロブライトを上回る末脚がいる。
距離が違うとはいえ、春の天皇賞3200㍍を制したG1級のウマ娘を凌ぐ脚が。
そんなものが自分に有るだろうか……
「だが、そんなセイウンスカイにしたところでお前の末脚は嫌だろうな」
「ですかね!?」
「間違いない。あいつがどんな戦術を駆使しようと、最終的にお前がラスト三ハロンを三十三秒台で走ってしまえば粉砕される。特にダービーの時は悪夢だったろうな……あの展開を最後の直線でひっくり返したのは大きい」
「えへへ……」
「最終的に使わないにしても、ああいう勝ち方も出来ると見せつけられたのは意味がある。今後、セイウンスカイはそのデータも織り込んでレースを組み立てなければならない筈だ。何処かで必ず限界が来る」
トレーナーの言葉に力強く頷くスペシャルウィーク。
「今後の予定としてはお前の希望を優先する。菊花賞の後はジャパンカップに照準を合わせる」
「ありがとうございます」
「だが、あくまでお前の体調次第だという事は覚えて置け」
「勿論です」
「菊花賞を片手間に獲れるほど、今年の面子は甘くない。はっきりと言っておくが……ジャパンカップは出れたら運が良かった。それくらいの気持ちでいろ」
「……分かりました」
「私も見てみたいがな」
「え?」
「お前が国内や海外代表のウマ娘を蹴散らす所を見てみたい……私の夢の一つだ」
「……はいっ!」
二人は其処で話を切ると、身体が冷える前に屋内に戻る。
スペシャルウィークが一度トラックを振り返ると、名も知らぬウマ娘達が今も走っていた。
書いてて誰が主役か分からなくなってきた(/ω\)