リクエストありがとうございました!
※執筆時は設定資料集・ドラマCDの発売前です。
――分からなかった。
大図書館や戦場から離れた、深い森の中。人の手の入っていない緑を挟んで、侵入者と並走する形。互いの足音が響く中、風切りと同時に幹の向こうに矢じりが光るのを見た。咄嗟に身をかがめて飛んできた矢を避けると、負けじと応戦。木々を盾に進むその陰に向け、仕掛け弓をもって撃ち返す。
金髪を靡かせながら、流れるように矢を番えながら、ロビン・シャーウッドは考える。夏の訪れ、若葉とちょっとした雑談をしていた彼の耳は、ふと弓が引き絞られる音を拾った。予感に飛び退くと同時、地面に矢が刺さるのを見た彼は、すぐさま弓を展開し――以来こうして互角の打ち合いが続いている。
相手は少なからずヴィラン的な存在だ。今も目前、敵の矢に射られた若い木が、傷口から黒ずんでインクの塊に溶けていった。普通のキャストでは、こうもいかないだろう。
だが、それにしては不可解な点も多い。何故、自分しか住んでいないこの森を襲ったのか? マメールに味方しているキャストを、各個撃破しようという魂胆だろうか? それならば、何故あんなに分かりやすい不意打ちを仕掛けたのか? 『ロビン・フッド』を原典に持つ自分と、互角に撃ち合える腕の持ち主だ。音もなく矢を射る事くらい、造作もないはずなのに。
そうして何より、これが一番の疑問なのだが――
『どうして木々は、「あれ」を庇っているのか』
ロビン・シャーウッドは森の人だ。シャーウッドの森を自らの名とし、エルフの耳と口で木々と会話をこなす。森が戦場になった日には、自分が願い出ずとも、木が敵の一挙一動を伝え、葉も射線を通しやすいよう揺れてくれる。
だというのに、今回、森はあくまで中立の姿勢を見せた。この二人の戦いに、だんまりを決め込んでいる。
『……いや、単にヴィランの能力の所為でしょう』
自分の中にあった不審にそう結論付けると、走る勢いのまま、岩に飛び乗る。岩を踏み台に、相手が潜んでいる方角に、跳躍。森の木々を背景に、金髪が扇に広がる。重力のまま降りるだけの体に、敵が射た矢が、迫り――
「我が弓よ!」
ロビン・シャーウッドというキャストは、その柔らかな見た目に反して自信家であった。驕っているという訳ではなく、ただ自らの弓の腕を誰よりも評価していた。
故に、彼は確信していたのだ。
「――輝けッ!」
跳び込んだ先、自分に向けられる矢があっても、『絶対に』それを撃ち返せると。この攻勢は全く無謀のない、当然の一手であると。
弓糸の鳴る音が、二回。
空中、指に挟んだ二本の矢は、番の鳥が如く続けて飛ぶ。先陣を切った矢が相手の一本に当たり無力化すると、その後ろに潜んでいた二本目が、
「っ、」
木の裏で弓を構えていた人型の、その胸元を、貫いた。
なんてことない話、互いが互いの最短距離を撃ち抜いた結果、弓の名手たる彼らの射線は、その時ぴたりと一致していた。となれば、勝つのは先に相手へ矢を到達させた方、もっと言い換えれば『先に攻めきれた方』だろう。
木の根本に崩れ落ちたそれは、外套を纏っていた。フードに顔は見えないが、体格を見るに男だろう。長身痩躯が、自分から零れるインクの中で蹲っていた。
「答えて貰いますよ、ヴィラン」
勝負は決していたが、それで武器を下ろす程、ロビン・シャーウッドは不用心ではなかった。矢先を向けたまま、一歩、二歩、慎重に近付いていく。
「貴方の目的。あるいは、闇の軍勢からどういった指示を受けているのか」
「……目的、なんて。一つですよ」
違和感、としか言えなかった。声を聞いた瞬間、彼の中の本能が警報を鳴らしたのだ。自分はこれを知ってはいけない、と。
外套の中身は、語る。瀕死足り得る量のインクを流し、それでも続ける。ロビン・シャーウッドは、今やそこに釘付けになっていた。
「私たちは、一人ではなかった。ある吟遊詩人の下では羊飼いで、ある吟遊詩人の下では農民だった。それなのに――」
かち、こち。かち、こち。
困惑の中、長い耳が僅かな起動音を拾った。自分はこの男の言葉に、今まで注意を反らされていたのと気付く。音の方に目をやれば、草に隠れるように罠が一つ設置されているではないか。自分が普段から用いる『ブラインドトラップ』によく似た形の物が、今にも作動しようとしていた。
「私たちは、貴方を許さない」
咄嗟に、範囲外に逃げる。あの罠の形式からいって、すぐに行動に移せば爆発に巻き込まれる事はないと、そう踏んだが故の反応。
跳んだ背後、爆風と爆音に帽子が飛ぶ。咄嗟に敵影を確認しようとした、琥珀色の瞳に映りこむ。
「『五月の王(ロビン・フッド)』は、『ロビン・シャーウッド』という個人の存在を、決して許したりはしない」
こちらに向けて矢を放った外套姿の、そのフードの下には、自分によく似た人の顔。髪型も目の色も分からぬその影だが、それでも『似ている』と思ったのだ。
優れた射手からすれば、飛び立つ鳥を撃つのは容易い。鳥がいつ飛ぶか分かっていれば、もはや外しようがない。この眼前は、恐らく彼が攻勢に出る事を分かっていたのだろう。その上で敢えて、自分の命を囮に罠を張り、一羽を確実に撃ち落とす事にしたのだ。
「っ、が……!」
吐き出された息にインクが混じる。自分の物と同じく、この矢も寸分たりとも違わなかった。肩当てのベルトを引き千切りながら、左胸を貫通する。貫通だ。矢の後ろについた羽根が、肉を抉りながら背中に抜ける。
地団太を踏み、咄嗟に傷口を手で押さえる。勢いよく溢れたインクに、腕は一瞬で黒に染まった。こめかみ、冷や汗がつつと伝う感覚。喉奥、せり上がってくる物。鼻孔のいっぱいが、生臭い。思考が飛び散る、吹き出したインクが地面を汚していく。
「……嗚呼、見てみるといい。有象無象でしかなかった一人が、主役を張っていた一人を見事に殺したのだ」
「貴方は、」
痛みに顔を歪めながら言葉をかけた先、その人は笑っていた。同じく胸に風穴を開け、今にも消えてしまいそうな輪郭で、それでも尚笑っていた。
流れ出ていく黒色に比例して、意識は次第次第に薄れていく。靄がかかったような脳内に、狂ったような嘲笑がうるさく響いた。
「お前も俺も、イチイの下では眠れない。ざまぁみろ」
溶ける。
べしゃり、と水が跳ねる音。捨て台詞を最後に、人型は完全に形を失って、後にはインクに浮かぶ外套だけが残った。一息はつけなかった。これで敵を退ける事は出来た訳だが、この傷をどうにかしなければならない。
『物語の登場人物(キャスト)』として描かれた彼らは、通常の死因を持たない。心臓を射抜かれようが首を斬り落とされようが、すぐに死にはしない。彼ら物語が死ぬには、
「あ、れ……?」
そこでロビン・シャーウッドは思い出した。あのヴィランに射られた木々の末路を。そして、見た。胸元の傷口、その付近の服が、黒ずんだ末にインクに溶けるのを。恐る恐る、指先で傷口の周りをなぞって、確かめる。
やっぱりだ、『溶けている』。服だけでなく、表皮や肉すらなくなって、そこにはタールじみたインクの塊だけがあるだけなのだ。
よろめきながら、近くにあった木にもたれ、尋ねてみる。……今日もこの森に自分以外のキャストは居ないらしい。流れるインクの勢いは凄まじく、既に水溜まりのようになって、踏むとびちゃりと音が鳴る程だ。今から図書館に向かったところで、この森から出ることさえ出来るかどうか。
キャストの唯一の死因は、『自分を構成するインクが漏れ出て、形を保てなくなる事』。インクさえあれば幾らでも書き直しは効くが、インクが足りなければ一発の矢で致命たりえる。
彼は、詰んだのだ。
【溶ける。】
もはや直立歩行は出来ず、彼は猫背に丸まって道を進んだ。どうにかインクの流出を遅らせようと、帽子を傷口に押し当ててはいるものも、効果は殆どない。ただただ、インクに濡れた衣服が肌に張り付く不快感と共に、森を歩く。
痛みは、全くなかった。キャストにとって、これ程恐ろしい事はない。先に言った通り、インクとはキャストを形作る全てである。痛みがないのも、痛覚というものが溶けて外に出てしまった証明でしかないのだ。少しすれば、ズボンが太腿に張り付く不快感も、指の間をインクが伝う悍ましさも、消えるだろう。その消失が、
『恐ろしい、のだろうか』
自問自答。意識が逸れた所為か、木の根につま先を掠めて、軽くよろける。暴れたインクが金髪を汚した。
『これはこれで、いい区切りではないか?』
ロビン・シャーウッドは、長く生き過ぎていた。少なくとも、今死にかけている彼というキャストは、生き過ぎたと感じていた。
彼のインクには、初めて『ロビン・フッド』が描かれて、『ロビン・シャーウッド』として使役されるまでの、その人生の全てが詰められている。リトル・ジョンと酒を飲みかわし、悪徳領主に反旗を翻し、マリアンという女性と恋愛か共闘かして――
『……置いていかれるのは、いつも私だった』
キャストとして描かれた者は、通常の死因を持たない。老衰も同じ事、エルフという長命の種族であれば余計に寿命という運命から遠ざかる。
最初からキャストだったのか、途中からキャストに昇華したのか、そもそもこの人生は本当に自分で経験した物なのか。何にせよ、彼には身近な人の死を看取ってきた、その記憶があった。長く生きたと感じる度に、誰かが死んだ時の記憶が思い出され、彼の死生観は歪んでいった。
言うなれば、それは緩やかな自滅願望。修道院で裏切られた、とある誰かへの憧れ。自分の後ろに黒いインクの道を作りながら、それでも断頭台への階段を上り続ける理由。
『戦いに身をおけば、いつかはこう「なれる」と、分かっていた』
不意に視界が開けた。
そこは、森の中の湖だった。湖面の対岸は、猫背に目線の低くなったロビン・シャーウッドでも見える程度で、決して大きいとはいえない。
彼自身、驚いていた。たしかに自分は瀕死の体を引き摺って、この湖に辿り着こうとしていた。けれども、その理由の一切が分からなかったのだ。恐らく無心に歩いている内に、思考がインクに溶けてしまったのだろう。
ロビン・シャーウッドは、どうにか近くにあった木の根元に腰を下ろすと、静まり返った水面を眺めながら、溶けた記憶の中を泳ぎ始めた――
*
「……チッ、なんだ、男かよ」
初対面の印象は、最悪といっていいものでした。人目を嫌って森に篭っているロビンにすれば、この人の行為は、鍵をかけた扉を斧で粉砕しておいて『ろくなモンがない!』と文句を言われたようなもの。穏健を自負している彼も、流石に眉根を寄せました。
突然空から降ってきたのは、ランプを小脇に抱えた男でした。褐色の肌に白い髪、露出の高い衣装飾。文化圏が違う事は一目で分かります。
「森の中で金髪エルフ耳を見かけたら、フツーは美少女な妖精さんが出てくるもんだよな? なぁ、魔神ちゃん?」
今もこの人は、ロビンを無視してランプに語りかけています。ロビンとしては無視して枝の手入れに戻りたかったのですが――枝を伸ばし過ぎて下生えに日が当たらなくなってしまったと、木から相談を受けていたのです――彼は常識人でしたので、社交辞令で応えました。
「こんにちは、旅の方。こんな森の奥まで、一体どんな御用で?」
「ん。……いやぁ、この辺りに宝石が眠ってるって聞いてさ。図書館からの呼び出しをほっぽり出して、こうして探しに来たってワケ」
予感はありましたが、どうやらこの人もロビンと同じキャストのようです。とはいえ、キャストにとっては神託にも近い図書館からの言葉をあっさり無視する辺り、真面目とは言い難いですが。
何やら自分をまじまじと見るその人に気後れこそしたものも、ロビンはその言葉に真摯に返します。
「宝石、ですか。私は長い間ここで暮らしていますが、その手の話は聞いた事がありませんね」
「マジ? おっかしいな、地図によれば確かにこの辺りだったんだけど……あっ、あんたに見てもらえば早いか」
名案、とばかりに指を鳴らすと、褐色のキャストはランプを軽くこすりました。ロビンがその行動を訝しむよりも先に、ぽんっと、ランプの細い口から地図が飛び出したではありませんか。
ロビンは、「ほら、これなんだけどさ」と地図を片手に隣までやってきた人の、その手元を覗き込みます。羊皮紙に描かれた地形は、成る程、二人が今居るこの森の物に間違いありません。恐らく、バツ印がついているのがその『宝石』がある場所なのでしょう。
白い指が、羊皮紙をなぞります。
「確かに、この森を記した物ですね。ただ、この場所には湖くらいしかなかった筈ですけど。誰に貰ったんですか、これ?」
「その辺の道端に居たおっさん」
「…………」
「あっ、道端のおっさんっていっても、怪しい人じゃないからな! 俺の事を恩人だって言って、これを託してくれたんだ」
物言いたげな視線を向けたロビンに、ランプの人は「ちっ、ちっ」と指を振りました。爪が青にネイルされているのもあって、余計に胡散臭さを感じさせます。
ロビンは溜め息を一つ、語ります。
「まぁ、実際に行ってみれば分かるでしょう。ここから真っすぐ北に向かえば、すぐに着きますよ」
「それもそうだな。ありがとよ、エルフちゃん」
『ちゃん』という言葉に耳がぴくりとなりましたが、ともあれこれで嵐は去りそうです。「それでは、お気をつけて」と一声かけると、ロビンは背を向け大木に居直って――
「おいおい、どこ見てるんだよ?」
「ッ!?」
けれども枝の手入れに戻る前に、腕を引かれて、気が付いた時には空の上に居ました。ええ、気が付いた時には彼は絨毯に乗って、空を飛んでいたのです。
ロビンは今まで、森と共に地に足ついた人生を送ってきました――物理的に――ですから、突然の事態に一瞬思考を止めて。けれどもすぐに、元凶に食ってかかりました。絨毯の上、肉薄といえる距離で見ると、この褐色の人はよく筋肉のついた体をしていました。けっして、ロビンが華奢だったという訳ではないのです。
「いきなり何をするんですか!」
「何って、案内役を絨毯に乗せただけだけど」
一切悪びれた様子のない人を前に、ロビンはすっかり呆れてしまいました。
「砂漠を歩く時だって、まずは現地の人間を雇って、そいつの指示の分だけラクダを用意するのが道理だ」
「私は貴方に雇われたつもりはありませんが」
「じゃあ、今から雇おう。報酬は言い値で。流石にエルフを雇うのは初めてだからな、相場とか分からないんだ」
「報酬って、急に言われても……って、いやいや、そういう問題ではなくって!」
いかにも『これが当然だ』という顔で言われたもので、ロビンも一瞬真面目に報酬に悩んだ程でした。
とはいえ、今彼は空の上に居るのです。いくら森の木々が助けてくれるとはいえ、こんな高所から飛び降りるのは愚策と言えました。ロビンは絨毯の主が地面に下ろしてくれるのを、しばらく待つしかありませんでした。
*
『嗚呼、そうだ。あの後、ここに降り立ったんだ』
現実に意識を戻した時、ロビン・シャーウッドは既にインク溜まりに座り込んでいた。胸と背中を流れるインクが、服を伝って、地面を黒く汚していっている。草の緑も、土の茶も、全部が揃って黒に溶けていく。
この場所が見覚えがある場所なのは分かった。ならば、次に出てくる疑問は、
『……どうして私は、ここに来たがったのだろう』
身勝手な男に、強引に連れてこられた場所だ。瀕死の体を引き摺って、わざわざ来る理由がない。
傷口に押し当てていた帽子に、ふと視線を落とす。一旦離しておこうと動かした瞬間、でろりと溶けて、指先から零れていった。半固形の元帽子は、太腿のところに落ちて、ひどく不愉快な感触がある。
スライム質のそれを払い除ける気力すらなく、彼はまた、記憶を探る旅に出る。
溶けきる前に、分かるといいのだが。
*
「……」
「……」
「なんもねぇ」
「だから言ったじゃないですか」
湖の畔で真顔になっている人に、ロビンは溜め息をつきました。
あまり大きな湖ではないのもあって、褐色の人はランプに話しかけながら、もう一周湖の淵を回って、水面を覗き込んだり、近くの草むらをつっついたりしていましたが、結局何も見つからなかった様子です。探索から帰ってきて早々、口を開いて曰く。
「……実は違う湖ってことは?」
「ないです」
無理矢理ここまで連れてこられた事もあって、即答でした。ロビンは間違いなく温厚な人柄をしていましたが、聖人かと言われると、そこまで人外的ではありませんでした。
男はロビンの言葉に「ふーん」なんて軽く返すと、再びランプから地図を取り出しました。トルコ石の瞳が、羊皮紙をじっと見つめています。
「でも、たしかに、ここに印が付いてるんだよな」
「何かしら、見落としがあるのではないですか?」
「見落とし?」
「その様子だと、地図自体も大して調べていないのでしょう? 炙り出しなんかをしたら、また違う文章やマークが浮かび上がってくるかもしれませんよ」
ロビンとしては、それはこの厄介事から解放されたいが故の提案でした。地図を本格的に調べるとなれば、一度街に戻って、しかるべき設備の元で作業しなければならないでしょう。地図を調べるという案自体は道理に適っていますし、お互いにとって悪い話ではありません。
指が鳴る、パチンッという音が、湖の静寂に響きます。
「それだ! さっすがエルフちゃん、賢いねぇ」
「ええ。私は自分の足で帰りますから、そちらはこのまま街に――」
次の瞬間、ロビンの目には地図を湖に投げ捨てる男の姿が映っていました。やたらと綺麗な投影フォーム。ふわり、地図は音も立てず水面に落ちていきます。
「そういや、エルフとか妖精って泳ぐの得意なイメージあるけど、実際どうなの? その辺。ほら、この湖結構深そうだしさ」
「私はまぁ泳げるタイプのエルフですけど……え?」
「ん?」
二人、顔を見合わせます。ロビンは唖然としていて、逆に白髪の人はそんなロビンを不思議そうに見つめていました。
「いや、なんで投げてるんですか、地図」
「あんたって意外と表情豊かなんだなぁ、って」
「はぁ?」
容量を得ない回答に、ロビンも流石に怪訝を声に出しました。
けれども、相手は全く気にした様子もなく、水際に近寄ると、湖に浮かぶ羊皮紙を拾い上げます。運よく、畔から手の届くところに落ちていたようです。軽く水を払って――
「おい、見てみろよ! あんたの言う通りだったぜ!」
笑顔と共に突き出された、ずぶ濡れの正方形。そこには先程まではなかった、数字と模様が浮かび上がっていました。変ににじんでいる様子もありませんし、どうにもこれは『正攻法』であった様子です。今も水を滴らせているそれを、ロビンはまじまじ見つめます。
「これは……日付、でしょうか」
「隣の記号は月、かな。って事は、この日の夜に来れば、何かが起こるって感じ?」
「恐らくですが」
出てくるのは当たり障りのない言葉でした。
何もかもがこの男のペースで進んでいるように、ロビンには思われました。とにかく、展開が早くて、着いていけないと言いますか。
『……嗚呼、そうか。これは、昔の自分の『展開(ノリ)』だ』
それは年寄りじみた合点でした。正しくは、リトル・ジョンやその他の仲間と酒盛りをしていた頃の自分に似ていたのです。
あの頃は、人生の毎秒が物語のように――実際、それは物語なのですが――進んでいました。何かを調べるとなったら、絶対に何かしらの手掛かりが手に入って、何かを倒すとなったら、絶対に何かしらの機転を閃く。言うなれば『物語のお約束』、物語を面白くする為のご都合主義。
どのタイミングで、自分はその存在に気付いたのでしょう。自分が『ロビン・フッド』の物語の、最後の登場人物になった時でしょうか。
『私の物語は、やはりあの時に』
「終わっておくべきだった?」
「っ!」
「あっ、やっと反応した。どうしたんだよ、急に考え込んだりしてさ」
ハッと我に返った時には、視界の一面が見知らぬ人の顔で埋まっていました。白眉がいかにも不思議そうな形を浮かべて、こちらを覗き込んでいるのです。
「その様子だと、今までの話、聞いてなかったな?」
「すいません。少し、考え事を」
ロビンは苦笑と共に謝罪を述べます。自嘲混じりの固い笑み。
会ったばかりのこの人に、どうしてあんな思考を掻き立てられたのだろう。この人があまりに自分勝手で、突拍子もない所為だろうか。実際こんな横暴、普通の人ならとても許されるものではないし、やはりこの人も『人でない物(キャスト)』に間違いない。
何にせよ、自分が話をすっかり聞き流してしまったのは確かです。今度は聞き逃さないで、
「やれやれ、しっかりしてくれよ。それで、今日の昼飯はどうする?」
「……はい?」
これは無意識に聞き逃してしまうのも仕方ないかな、とロビンは思ったのでした。
*
現実に戻った彼もまた、苦笑を浮かべていた。
傷口は、確実に広がっていく。穴の断面、服と肉もまとめて黒ずんでいて、内臓なんかも一切見えはしない。それでも、自分の体が徐々にインクに溶け落ちているのは、たしかに分かる。先程落ちた帽子は、既に液体となってズボンに染みを作っていた。
『瀕死の今思い出しているのが、これだなんて』
自分の人生は、自分が思っている以上に、くだらないものだったのかもしれない。もっと、思い出すに相応しい事は、多くあるはずなのだ。
たしかに、晩年の彼は自滅願望というべきものを持っていた。だが、『死人のようであったか』と言われると、別にそんなことはなかったのである。
ヴィランを見事討伐し、賞賛の言葉を貰った時は誇らしかった。やはり善は悪に勝つものなのだと、正義に生きる事を改めて誓った。
キャスト同士の模擬戦で活躍し、高く評価された時は嬉しく思った。自分の弓術も他の英雄に並ぶに差し支えないのだと、人並みに驕ってもみた。
こちらの世界でリトル・ジョンと再会した時は、すっかり酒浸りになった。喜びのあまり、夜通し宴を繰り広げた結果である。二日酔いの頭痛に悩まされるなどとても正義的な行いではないが、あれはあれで悪い時間ではなかった。
彼は余生を、楽しんでいなかった訳ではなかった。ふとした拍子に虚しさが訪れるだけで、人並みの幸福は享受してきた。寧ろ、その幸せの末に敵対勢力と相討ちを取って死ねるなら、それは彼にとっては本望なのではなかろうか? 今の自分は、幸福の絶頂に居るのでは?
インクが流れている所為か、思考が混沌とする。
『そういえば』
不意に思う。
『あの時の「終わっておく」というのは、何の話だったのだろう』
夕飯云々と関わりのある言葉とは考えにくいが、と。
*
「へぇ、ここがあんたの家か。こりゃあまた、『それらしい』というか」
「気に入らないようなら、帰っても」
「いいや、気に入ったとも! 何せ妖精の家に泊めてもらうのは初めてだからな」
褐色の男はそうとだけ言うと、早速我が物顔でソファに座りこみます。ロビンとしては、「どうしてこうなった」と自問自答を徹底したいところです。
先の台詞の通り、二人はロビンの家に居ました。ツリーハウスなんて呼ばれている、木の上に建てられた家です。窓枠や壁板の隙間から、ヤドリギやら何やらが顔を覗かせている辺り、なんともエルフらしい物件と言えます。内装もナチュラル系と言いますか、落ち着いたものです――床に本が山のように積まれていたり、作業台の上が弓を手入れしたそのままになっていたりと、男の一人暮らしらしさも随所に見られましたが。
「それにしても、なかなかに広いな、ここ。一人で住むにゃ勿体ない」
「とはいえ、団体で泊まるには狭いですから。中途半端というか」
「あー、それは言えてる」
キッチンとリビングとで雑談のキャッチボール。お茶の仕度ついで、カウンター越しに覗いた先には、机に置いてあったリンゴを勝手に食べている客人の姿があります。
地図に書かれていた日にちは――あの数列が、本当に日付であったとしたら――明日のものでした。この未だにランプを抱えている人曰く、
『ほら、もしかしたら俺の他にも、宝石を狙ってる奴が居るかもしれないだろ? 『拠点』の有無は、そいつらと戦う上で重要になってくるはずだ』
……この人は明日まで、ロビンの家に居座るつもりでいるようなのです。「大丈夫、物は払う」とも言われました。そういう問題ではないのですが。
『とにかく、どうにかしてお帰り頂こう』ロビンはそんな決意を胸に、トレイに二つのマグカップと、砂糖とミルクの器を置きました。どうして自分は追い出すつもりの相手に、丁寧にお茶の用意をしているのかと、そう気付いたのはお茶を机に運んだ後でした。
「おっ、気が利くな!」なんて言って早速一口お茶を啜る人に、ロビンは切り出します。
「そろそろ日も落ちてきます。休憩が終わったら、帰った方がいいかと」
「? ……ああ、そうか。やっぱ、前金とかないと不安だよな。俺こんな格好だし」
「いえ、そういう問題ではなく」
ランプを擦ろうとした人を制止します。眼前の人は「ちぇ」と一声、つまらないとばかりにソファに背中を投げだしました。
「貴方も、よく考えて下さいよ。こんな人も居ない山奥で、偶然出会った人の家に泊まるなんて……」
「不用心だって? 俺に浚われたあんたに言われたくはないけどな」
「うっ」と言葉が詰まります。あれは正直、男としてのプライドにも関わる事であったとは思います。
ロビンが固まったのを見計らって、その人は人差し指を突き出しました。明るいネイルの色もあって、視線が吸い寄せられます。
「じゃあ、こういう事にしよう。俺はアンタが家に泊めてくれたら、『何でも願いを叶えてやる』。ほら、宿代としては破格だろ?」
「何でも願いを? そんな事」
「出来る訳がないって? 妖精の癖して夢がないねぇ、エルフちゃんは」
立てていた指をチッチッと揺らして。口角を吊り上げた得意顔でのたまうのです。
「俺の名前はジーン、原典は『アラジンと魔法のランプ』――俺にとっちゃ願いなんて、叶わない方が不自然なのさ!」
決め顔で立ち上がったと同時。蹴飛ばされた机の上、紅茶の入ったカップが転がりました。
*
結局、ロビンはこの人に夕飯を出してやっていました。今日のメインは鶏肉に香辛料をふんだんにまぶし、ハーブで包んで焼いたものです。ハーブの調合こそすれど、スパイスなんかにはいまいち疎いロビンでしたが、褐色の――ジーンが「俺のオススメ!」とランプから取り出してきたので、試しに使ってみる事にしたのでした。
他にもサラダだの何だの用意して、眼前の『キャスト』と料理を挟んで対面します。
「へぇ、上手いもんだなぁ。これで味まで良かったら完璧なんだが――あー、完璧だわ、コレ」
焼き鳥を一切れ口に入れた人は、唇をゆるりと上げて、一人頷いたりしています。
ロビンは食前の祈りを済ませてしまうと、自分もフォークを動かします。この量の料理を目にするのは久々だ、なんて思いながら。
「……それで、ジーンさん。先程の話ですが」
「ん、どの話だ? 一夜の関係になるのに良い女の見分け方?」
「いや、それではなく――というか、そんな話、まず一言もしてないですからね」
「そう怒んなよ、ジョークだって」
へらへら笑いながら、「こうなっちまうぜ?」とプチトマトを摘まんで応えるジーン。プチトマトはそのまま唇に消えていきました。
――この人は、実に不誠実だ。
ロビンは思いました。それこそが、ロビンがこの人と食卓を共にした理由でした。
「『どんな願いも叶えられる』と貴方は言いましたよね?」
「そうだとも。信じられないなら、ここで『キセキ』を起こしてやってもいいぜ?」
「ならば、宝石なんて幾らでも手に入るでしょう。こんな辺境の森に、わざわざ訪れる理由がありません」
「あー、それ、聞いちゃう?」
その言葉の並びとは裏腹に、褐色に浮かぶ笑みは消えませんでした。寧ろ――一際瞳が輝いたような。青色が、上弦の月を描いているような。
「俺さ、こうやって誰かに料理を作ってもらうの好きなんだよ。でも、それはレストランとかそういうところじゃ駄目だ。考えても見ろよ、ウェイターは客と話をするが、コックは客の顔だって見ちゃいない」
「……『情』、が足りないと?」
「いいや。俺は『過程』が好きなんだ、エルフちゃん。宝石、成る程、こいつは素晴らしいお宝だ。だが、アンタの言う通り、俺はその気になれば何だって手に入れられる。だから、俺が欲しがってるのはそのお宝を手に入れるまでの『冒険譚』なんだ」
ロビンは固いパンを噛み締める傍ら、「なんて身勝手な」という感想を抱いていました。『予想外が欲しい為に全能を放棄する』。ロビンにはそれは、好き嫌いをする子どものように思えたのです。好き嫌いというのは、食材のえり好みが出来るからこその概念で、好き嫌いをする側は大方、その豊かさに気付いていないのです……圧制者なんかは特に。
けれども、同時に――ふるふると頭を振って、それ以降の考えは追い払っておきました。
「それなら、図書館の呼び出しに応じてから、宝石を探しに来れば良かったのではないでしょうか。『その気になれば手に入る』なら、別に急ぐ必要もない。為すべき事を為してからでも、遅くはなかった筈ですよ」
「さてはあんた、俺に説教をする為に一旦引き下がったな?」
「貴方の力を評価したからこそ、ですよ。寧ろ、誇るべきかと思います」
「うぇ」とでも形容すべき表情に、ロビンは淡々と応えました。
「『願いを叶えられる魔法のランプ』。……我々は『原典(オリジナル)』ではないですから、流石に闇の軍勢を滅ぼすような事は出来ないのでしょう。それでも、貴方の力は間違いなく役に立つ」
その瞬間、食卓の空気が凍りつきました。
鶏肉をナイフで切る時の音も、スープを啜る音もなくなって、すっかり静まりかえります。
「なんだ。俺に正義の為の『奴隷』にでもなれって?」
「それらしい振る舞いをした方が良い、と言っているのです」
果物の盛り合わせや、酒瓶の上で、琥珀とターコイズが火花を散らしていました。白肌は彫像のように動かないで、黒肌は獣のように顔を歪めて。
先に弓を引いたのはロビンでした。凛とした声で、言葉を放ちます。
「私たちキャストは、闇の軍勢を討つべく呼ばれたのです。決して、この世界で遊ぶ為ではありません」
「ほぅほぅ、こりゃあ随分と高尚な行動原理をお持ちで? ……じゃあ、あんた、聞くけどよ。どうしてこんな辺鄙な森に居るんだ?」
「外からの侵略に備えてです。私は木々と言葉を交わせますし、この一帯の監視をするには適任かと」
「それなら、どうして死にたがってるんだ」
不意打ち。そこでロビンはようやく、眼前のお茶らけていた語調が、いつの間にか低く唸るような抑揚になっているのに気付いたのです。
どうやって気付く事が出来たのか、そんな事は気になりませんでいた。ここは超常だらけの世界です、何だって起こり得ます。ただ、それを覗き見られたという事実が、彼の心を駆り立てました。こめかみのところに、何か、熱いものが上がっていく感覚。
「キャストが『安くない』のは知ってる筈だ。アンタの理論でいくなら、その『自滅願望』は捨てるべきじゃあないか?」
「っ、お前が、私の何を」
「別に。アンタが何を思ってるかまでは知らないさ。『何を願ってるか』分かるだけだ」
ロビンは、今の自分の感情を言葉にすることが出来ませんでした。
その後の食事は「取り敢えず、食べちまおうぜ。あったかい料理が台無しだ」という一言以降、一切会話という物がありませんでした。それでも二人とも、料理は全て残さず食べきって、ついでに酒瓶も二本ほど空にしました。
ジーンは食後の挨拶だけ残すと、席を立ちました。どうやら、家から出ていこうという気はないようで、玄関とは逆方向にある廊下へと姿を眩ませました。
一人、食器を片付けている時、ロビンはとにかく皿の枚数が多い事に気付きました。
『二人分の食事にしては、豪華過ぎた』
渡されたスパイスだって、元を辿れば「夕食は何でもいいのですか?」と、その一言の末に出てきた物でした。あまり刺激の強い味は好きではありませんが、今日のあの鶏は、なかなか良い味付けであったように思います。
ロビンは普段通り、一人分の物音の中で、洗い物など済ませてしまうと、早いうちに寝てしまう事にしました。大きく伸びをして、寝室の扉を開いて――
「…………」
自分のベッドを我が物顔で占領しているランプと成人男性に、『ブラインドトラップ』を仕掛けてやろうかと、真剣に考えたのでした。
*
長い間、記憶の中を彷徨っていた気がする。
見下ろした体、ブーツの足先の弧が、歪に溶け落ちていることに気付いた。断面はやはり赤色ではなく、黒色にてかるばかりである。手の方も――同じ運命を辿っていた。爪は完全に液体になって、そろそろ第二関節もなくなりそうだ。インクが流れ過ぎて、遂に輪郭というものを保てなくなってきたのだろう。
『ひどく、眠い』
痛覚の代わりに、強烈な睡魔。思考が端の方から麻痺していって、自分の知らない内にインクに置き変わっていく感覚。やけに重い瞼を、けれども閉じたら二度と目が覚めないだろうから、必死に開いたままにする。
『あとどれくらい、体を保てるだろうか』
このまま意識を保てていれば、偶然誰かが通りかかった時、どうにか助けを呼べるかもしれない。あるいは、体がインクに溶けるのを、いくらか抑えられるかもしれない。ほんの僅かでも可能性があるなら、最後まで足掻いても――
『?』
内心、首を傾げる。
『先程と考えが、矛盾している……?』
何故、今の自分は生に前向きなのだろうか。
これは『納得いく死』のはずだ。自分が望んでいた結果のはずだ。なのにどうして、今更足掻こうとしているのだろう? 翼の折れた鳥は、いっそ死んでしまった方が楽だろう?
感覚のなくなった体を引き摺って、記憶の海に、再び漕ぎ出す。
*
朝食の用意をしていると、大きな欠伸と共にジーンが姿を見せました。わしゃわしゃと、眠たげに頭を掻いています。
「あー、ねみ……エルフちゃん、風呂は?」
「私は普段、川で水浴びをして済ませているので」
「マジか。まぁ、街での暮らしに慣れちまいそうだったし、朝飯食ったら行ってくる」
既に料理が並んだ机に腰掛けると、サンドイッチをもさもさと食み始めました。ところどころで、「うめぇ」と鳴き声が聞こえてきます。ロビンはマグカップを二つ配膳すると、自分も座り、食前の祈りを済ませます。
スープを啜る傍ら、ちらりとジーンの表情を伺います。まだ瞼が重いようですが、それ以外は軽薄な男のままでした。
ロビンは切り出します。
「昨日はすいません。私も少し、熱くなってしまったみたいで」
「ん? ……ああ、別に。気にしてない」
はにかんだその顔をちらりと見ると、ジーンはもう一つサンドイッチを取りました。パンの部分を分解して、そこにスプーンでマスタードを塗り込みます。
「アンタが真面目ちゃんなのは、一目見た瞬間から分かってたしな。あれは妥当な反応だ」
「いや、私が謝りたかったのは――」
言葉が、喉元でつっかえて、
「――いえ、そうですね。初対面の人間にお説教なんて、するものじゃないです。どうにも長生きをしていると、つい年寄り臭くなってしまって」
「全くだぜ。もっと、自由に勝手に生きた方が、人生楽しいと思うんだけどなぁ?」
ジーンは「な、魔神ちゃん」なんて、ランプを肘で小突いています。あれが彼の原典に出てくる『魔法のランプ』ということで、間違いはないでしょう。
自由に。勝手に。その言葉が、ロビンの中で反復されていました。かつてシャーウッドの森で仲間と暮らしていた自分の生き様は、そのような物だったように思われました。『正義』という言葉に傾倒し始めたのは、さていつからだったのか。
「あのさ」
「なんでしょう」
「俺も……その、謝るよ。昨日の事。アンタをバカにするような言い方だった、あれは」
琥珀色が見開かれました。この人から謝罪という物を聞けるとは、全く、思ってもいませんでした。
バツが悪そうに、ジーンはこめかみを指で掻きます。「えーっと」と、なにか言葉を探しているようでしたが。
「別に、アンタを貶めたかった訳じゃなかったんだ。ただ、頑張り過ぎてる? みたいに見えて」
「それは、どういう」
「――ごちそうさま! 水浴び行ってくる!」
半ばロビンの言葉を遮るように言うと、ジーンは素早く立ち上がりました。そうしてランプを小脇に抱えると、扉に一直線。呼び止めようとした時には、扉が閉まる音が聞こえるばかりでした。空いた椅子の前には、綺麗に平らげられた皿とカップがあります。
一人残された食卓、マスタードが少し残っていたので、ロビンも試しにサンドイッチに使ってみました。……やっぱり自分には、ペッパーやオリーブなんかで味付けをしたものの方が、合っています。
『分からない』
朝食の後片付けをした後、寝室のベッドを整えながらロビンは考えました。部屋の中を漁られた痕跡はなく、ただ、ベッドのシーツが乱れているだけでした。日記や何かを読んで、態度を軟化させたという訳ではないようです。
昨日の食卓の、あの険悪を思い出します。
『先に喧嘩を売るような真似をしたのは、私だ。自分の発言の内容が不適切だったとは思っていませんが、それでも、やはり言葉として間違っていた。……彼の生き方を馬鹿にしたのは、寧ろ私の方でしょう』
考えれば考える程、あの人は軽薄な反面、弁えるところは弁えていました。いろいろと強引過ぎたのは間違いありませんが、それでも対価はちゃんと用意しようとしていましたし、料理も好き嫌いせず美味い美味いと食べてくれました。
『もしかして、』
それは予感。あのへらへらとした笑顔に対する、疑い。
『あそこまで強引だったのには何か、理由があったのでは?』
流石に考え過ぎかと苦笑して、床に落ちていた枕をベッドに戻した時でした。
窓枠から顔を出していた葉っぱが、ロビンに声を掛けたのは。
*
木々の言葉を頼りに、ロビンは只管に森の中を走り続けました。一瞬でも早く現場に辿り着かなければと、前に前に足を進めます。目指すのはジーンに連れていかれた、件の湖。予想が当たっていれば、既に彼は『接敵』しているはず。ロビンはジーンのロールすら知りませんでしたが、けれども今回の敵はキャスト一人で勝てるような代物ではないと、それだけは分かっていました。
瞳に魔力を集中させ『シャーウッド・アイ』を発動、視野を伸ばします。遠く視界の端に、湖面が煌めくのが映ります。仕掛け弓を展開、いつでも矢を放てるよう準備をしながら、木々が少なくなった先へ跳びこみました。
湖面の傍、木々がなく開けたところ。二つの姿がありました。
一人は体勢を崩し、地面に尻もちをついた形。得物であろうランプは、遠くの茂みに転がっていました。そして、もう一つは――動きを制限されたその人に、巨大な刃を向けるワニ。
ロビンは咄嗟に、巨大なワニ――『クロノダイル』として禁書指定されているそれに、矢先を向けました。
「が、っ!」
弓を構える腕が、躊躇いに揺れます。ロビンの姿を認めたらしいクロノダイルは、刃を向けるのをやめて、その巨大な足をジーンの胸のところに下ろしたのです。今は抑えつける形に留まってはいますが、少し力を加えたら最後、その体は完全に圧し潰されてしまうことでしょう。
「……」
ロビンは黙って、矢先を下げました。クロノダイルの足の下、ジーンが叫びます。
「何してんだ、逃げろ! さっさと逃げて誰か呼んで来い!」
その言い分は、もっともな事でした。大型ヴィランは、キャストが四人がかりで挑んでようやく討伐できるような代物です。一人で挑むのは無謀でしかありませんし、ましてやこの状況の味方を助けることなんか不可能に近いでしょう。
ロビンは、仕掛け弓を折り畳みました。腰元、道具を多く取り付けたベルトのところに手をやって、
「っ」
インクが飛びました。
「さぁ、どうしました?」
今まで目撃されている大型ヴィランは、言葉を話しません。獣じみて相手に襲い掛かるものばかりで、理性はほとんどない物と考えられています。けれども時として、目前に居るキャストではなく、遠くに居る別のキャストに狙いを定める場合があるのです。クロノダイルはそれが顕著で、ふとした瞬間、地面に潜って、その先に居た別のキャストに奇襲をかける例が多く見られました。
さて、前線で戦っているキャストに対して、遠くに居るキャストとはどんな物でしょうか。後衛に回った者、別のレーンで闇の軍勢のキャストを相手取っていた者――傷を負い、逃げようとする者。
「お前の獲物はこちらでしょう」
振り抜いたナイフは、脇腹のところを切り裂いていました。ナイフといっても剪定をする為の、鉈ほどの刃幅のものです。インクに、地面が染まります。
クロノダイルはその匂いを嗅ぎつけたのでしょう。次にはジーンを放り出して、地面に潜り込みます。胸元を圧迫されていた為でしょう、げほげほと咽てはいますが、どうやら無事な様子です。ロビンはそれだけを確認すると、走り始めました。
カチコチと、懐中時計の鳴る音が追いかけてきています。
『絨毯の事を考えれば、彼の方が街へ救援を求めるに向いている』
前転。同時、真後ろでワニが飛び出した地響き。砂煙と、近くの木が吹っ飛ばされる大音声。
ロビンは咄嗟にその地点に向けて、二本の矢を立て続けに撃ち込みました。毒を塗った一本と、威力を秘めた一本、『ダブルショット』。キャスト相手であればかなりの打撃になるこのスキルも、ヴィランが相手となるとそれほどの成果は期待できません。鱗に、矢じりが弾かれた音。
彼が一人でヴィランを狩ろうとした場合。もっとも可能性があるのは、最大火力の『ジャストショット』を一発でも多く命中させることです。いくら固い鱗をもっても、この技の前には貫かれる他ありません。
「……っ、ぅ」
とはいえ、ヴィランと一対一の状況では、そこまでの距離は取れません。速度は圧倒的にロビンの方が早く、攻撃を空振りさせればある程度距離は開けるとはいえ、その程度の距離の『ジャストショット』では火力も知れています。軽い傷とはいえインクも漏れていますし、やはり今の自分では、時間稼ぎが精一杯でしょう。
戦術的に言えば、『シャーウッドアイ』でヴィランを一方的に視認、そこから『ジャストショット』を狙えれば、それが一番だったのでしょう。それを分かった上で、あの場に飛び出したのは、単純に、
――「キャストが『安くない』のは知ってる筈だ。あんたの理論でいくなら、その『自滅願望』は捨てるべきじゃあないか?」
ヴィランとの闘いで消滅するキャストは、ほとんど居ません。人でなら致命傷であっても、キャストならインクさえ残っていればどうとでもなるからです。でなければ、模擬戦とはいえ、スキルを使った試合なんてやってられません。そういう訳ですから、戦地でも『助けられないキャストは見捨てる』というのは一般的な考えでした。試合の後にでも「あの時は助けられなくてごめん」と、そう謝っておけば問題はないのですから。
さっきの局面だって、明らかにジーンを見捨てるべき場面だったでしょう。クロノダイルに『撃破』されるのを囮に、遠くから『ジャストショット』を撃っていればよかったのです。
それでも、ロビンにはやはり、誰かを見捨てるという考えはありませんでした。
「我が弓よ、輝け!」
コマが如く回転する刃を、地面に低く伏せてかわすと、カウンター気味に二発。一発目は切り裂かれたものも、二発目は鱗を掠めました。クロノダイルの回転が止まる前に、再び距離を取ります。スタミナを、魔力を、切らさないように、慎重に矢を番えます。
彼には確かに『自滅願望』と呼ぶべきものがありました。いつか戦いの果てに、ふと死ねたなら、それは彼の本望でした。それでも、彼が敢えて戦地に遠い森に篭っているのは、死ぬ為ではなく人の為に行動が出来ている理由は、たった一つ。
『もう誰にも、私と同じ思いを、させない』
それは一人の義賊が、高潔を気取る正義の味方になる為の、言葉。
例え、キャストという命のない存在でも、『安くない』だとか、そういう形容をされる存在であったとしても。彼は未だに死ねずに生きていて、周りのキャストたちだって同じように過ごしている。
『誰一人、私の目の前で死なせない』
だから、自分の本を破り捨てるだとか、図書館に逆らって処分されるだとか、そんな『自殺』は許されない。生き延びてしまったからには、誰かの為に命を『使い切らなければ』いけない。
刃から飛び出した衝撃波に、木々が倒れていきます。その下敷きにならないよう、どうにか跳んで逃げた先。自分程の大きさの銀色が、光ったのが見えました。映る景色がコマ送りになっていく感覚。木々が倒れる衝撃に揺れる髪。刃が振られる質量に、鋭く鳴り響く風の音。
『置き去りになるのは、私だけで――』
眼前が、クロノダイルの腕の鋼に埋まったその時。巨大な手に、体を掴まれました。そのまま、引き寄せられて、
「おぅおぅ、良い『欲』してるじゃないか。あんた」
ランプを小脇に抱えたジーンは、にやりと口角を上げて言いました。ロビンを掴んだ腕は、そのランプの先端から飛び出しているのです。この人に自分は助けられたのだと、すぐに分かりました。
「助けを呼びに行けば、よかったものを」
「それ、あんたが言うのか? ……まぁ、いい。こんな『欲』を貰っておいて、文句を言っちゃいけないな」
巨大な腕がロビンを地面に下ろした、次の瞬間。目の前に居た一人の姿が、文字通り変貌しました。
「さっきは不甲斐ないとこを見せた。俺は、誰かの『欲』を食わなきゃ、本領を発揮できないんだ。ほら、魔神は『願いを叶える』以外はやってくれないからな」
そこには、人の形をした夜がありました。暗い色をした火花が、ジーンの体を包むようにしていたのです。表情はその暗がりの中にすっかり沈みこんで、あのトルコ石のような瞳だけが、爛々と輝いていたのでした。
ロビンの目の前で、長いターバンの端が、揺れました。
「あんた、あれを仕留めるのにどれくらいかかる? この姿、そんなに長くは保てないんだ」
「そうですね。貴方のその力が解けてしまう前には、成し遂げてみせましょう」
「おっ、言うねぇ。それじゃあ――お楽しみタイムだ!」
闇が踊る。人の体からは考えられない、完全に人外離れした跳躍。
一気にクロノダイルに肉薄して、発生させた二つの竜巻を腹のところに押し付けました。カウンターとして放たれた刃の一閃も、その下に滑り込む形でかわしていきます。
ロビンは大きく息を吸いました。自分で斬りつけた脇腹は、いまだに鈍く傷んでいましたが、それを忘れるくらい意識を研ぎ澄ませます。得物のその弦を、限界まで引き寄せて、目線はただただ前を。引き絞りにぎりぎりと鳴る音を横目に、黒色に翻弄される緑に、狙いを合わせます。
森に吹く風を合図に、宣誓。
「必ず仕留めるッ!」
凛とした声と共に、渾身の一矢が放たれました。
*
「やっぱあんたの作る飯はうまいなぁ。同じ独り身の男としちゃ、尊敬したいところだ」
「披露する相手が居ない事だけが、問題といえば問題ですね」
「ははっ、違いねぇ」
二人は今、湖の畔で隣り合っていました。その夜は月が明るい日で、星も満点に光っていましたから、視界の確保にはあまり困りませんでした。それでも、一応たき火なんかはやっていましたけれど。
今のこの様子を見れば言うまでもありませんが、ヴィランは無事に攻略できました。クロノダイルと一口に言っても種類がありまして、今回は運良く体力の低い個体が迷い込んできていたようです。魔神と化したジーンが撹乱を担当して、ロビンがその隙に必殺を叩き込む。ジーンの攻撃にも相応の火力があったようで――あの竜巻が通った地面は、見事にえぐれていました――クロノダイルも最後には、ただのインクになって溶けていきました。
本来ならば、すぐにでも大図書館に向かって、今回の件を報告しなければならないところですが。
「あんたの怪我もあるし、他にも闇の軍勢が潜んでいる可能性も無きにしも非ずだ。ここは様子見も兼ねて、明日図書館に向かうことにしよう。ほら、地図のことだって気になるし」
どれが本心なのかは、やっぱり、分からないところだったのですが。
そういう訳で、二人は夜の湖を見張るついでに、夕食を摂っていたのです。たき火で焼いた魚に、瓶詰めされたスープ、あとは朝食を作る時に残った材料を続投したサンドイッチ。なんとも簡単な、料理といえるか怪しいレパートリーでしたが、まぁジーンは満足そうにしていますし、問題ないのでしょう。
「しかし、貴方もアタッカーだったんですね。偶然というか」
「? 俺のロールはファイターだぜ?」
「えっ?」
「まぁ、魔神ちゃんの力があればアタッカーみたいな動きも出来るけどさ。……逆に、魔神ちゃんを呼び出せない時はな、そんなパッとしない」
普段通りの軽い言葉のその裏に、ロビンは確かに自嘲めいたものを見つけました。初めて見る表情に、ロビンは返しに悩みます。
体育座りの足を軽く正して、言うところには。
「私も、やはり矢を得物にしているものですから。どんな的にも当てる自信はありますが、射線を塞がれれば、それも叶わない。いつだって最大限を出せる訳ではないですよ」
「……驚いた。まさか、アンタから慰められるなんて」
大きく目を見開いた人に、「そんなに私、悪人面していますか?」なんて冗談めかして言ってみます。そうすると、今度は「嫌われてるとばかり思ってたから」なんて言葉が帰って来たので、ロビンは考えるような素振りを見せて、
「そりゃあ、貴方は強引で自分勝手で、その上に不真面目ですし、私の描いている正義像とは大きくかけ離れていると思っています」
「あんた結構言うねぇ?」
「けれど、まぁ、何と言いますか」
しどろもどろ。ロビンは堪らず頬を掻きました。
次に自分が言おうとしている言葉があまりに恥ずかしいものなので、正直最後の最後まで言おうか悩んだのですが。遂には、言ってのけました。
「久々に人と話すのは、悪くないな、と」
「それだけでは、いけませんか」なんて、良い人ぶって投げかけたのです。昨日の時点では嫌悪を隠さず出しておいて、随分勝手な言い草だと自分ながら思います。
それでも、今となっては、それは間違いない事実だと思っていました。誰かの為に食事や何やら用意したのはもちろん、会話をすること自体が――戦地で『ロビン・シャーウッド』として話す以外では――数か月ぶりでした。それは、なるべくプライベートでは人を近付けないようにしていた為でしたが、いざそれが破られてみると、『悪くなかった』のです。
ジーンはまじまじとロビンの顔を見つめていました。
かと思えば、ふと湖の方に目をやって、
「! おい、アレ、見ろよ!」
「えっ? 一体なにが」
指さす方に視線をやると、湖の深い底から、色とりどりの光が浮かびあがってくるのが見えました。二人は顔を見合わせて、手にしていた容器やら何やらを置き去りに、湖の淵まで近寄ります。
その間にも、光の数は次第次第に増えていき、小さな水面は光の群れに埋められていきました。
「これは……なんだ?」
ジーンが首を傾げる隣、ロビンは魔力を瞳に集中させました。森の奥にある湖です、汚染などはされておらず、水中を見通すのは容易い事でした。
曰く。
「魚、ですね」
「はぁ? 魚? 宝石じゃなくて?」
「恐らくは夜行性の種なのでしょうね。日中は湖の底の方で大人しくしているのだと」
「じゃあ、あの日付は?」
「あくまで、私の推察になりますが。『婚姻色』って知っていますか? 普通の動物は季節によって体の色を変えますが、この世界の生き物となれば、特定の『日』にそれが起こっても不思議ではないかと」
「……そういや、あの爺さん、『宝石が見れる』って言ってたな。なんだ、この景色の事かよ……」
ジーンは思わず肩を落として、溜め息をつきました。ですがロビンはと言えば、その正体を認めた後も、ただただ湖の光を見続けたのです。
月が明るいのも相まって、彼ら彼女らが水中で身じろぎをする度、その鱗は様々な色に輝きました。水面の銀に、夕焼けの橙やら、朝焼けの薄紫が、混ざりこんで、そこだけがあたかも別世界であるようでした。
ロビンが我に返ったのは、隣から「俺さ」という声が上がったその時でした。
「正直、あんたの事、嫌な奴だと思ったんだよ。一目見た時から」
「唐突ですね」
「俺には相手の願いが分かる。……あんたが死にたがってるのは、すぐに分かった。さすが長命種様は贅沢な事を考えてらっしゃるなぁ、ってため息をついたくらいだ」
あの強引さは完全な嫌がらせだったのだと、ロビンは話を聞いて腑に落ちました。けれども、何故その話をここでしたのかは、疑問に思うところです。
彼の次の言葉を待ちました。水面の光を吸い込んで、トルコ石の瞳は、掴み所のない色合いに変わっていました。
「でもさ、話してみたらあんた、意外に……その、人間臭くてさ。なんて言えばいいんだろうな、その、バカみたいなお節介なのは分かってるんだけど……」
言葉を選びあぐねているようで、ジーンはこめかみを掻いたり、顎を擦ったり、何やら忙しなくしていました。まるで先程の自分のようだと、ロビンは少し面白く思いながら見つめていたのですが。けれども最後には、七色の水面をびしっと指さして、こんなことを叫ぶのです。
「生きてりゃこういう景色もあるって、そう教えたくなったんだ!」
良い言葉が出たぞ、とばかりに得意な顔をしているのを見ていると、何だかいろいろな事が馬鹿らしくなってきました。出会って二日しか経っていないのに何を、だとか、流石に説得としてはベタ過ぎやしないか、だとか、いろいろと思うところはあったのですが。それ以上に、ここまで自分を相手にいろいろと考えてくれたのが……そう、素直に嬉しかったのです。
ロビンはくすくす笑いながら、その言葉に応えます。
「貴方、意外とお人好しなんですね」
「悪いかよ」
「いいえ、『らしい』と思いますよ。ジーン、貴方が私と同じキャストであることを嬉しく思います」
眼前の彼は、その言葉にまた驚いたように、目を丸くしました。けれども、すぐにあの軽薄な笑みに戻って、こんな風に言うのです。
「光栄だな、ロビン・シャーウッド。いや、折角だし、ロビンって呼ばせてもらおうか?」
「ええ、構いませ――
――――。
*
ロビンは前に進んだ。進もうとして、無様に地面に転がる。当たり前だ。肘と膝までインクに溶けていて、どうやってバランスを取ると言うのだ。地面に体が打ち付けられる衝撃に、口からインクが吐き出された。それでも、彼は芋虫のようになって、湖の方へ、這っていく。削れた腕でどうにか地面を掻いて、丸まった足でなんとか地面を蹴る。美しい金糸の髪は、既に黒色に染め上げられていた。
彼が考えたのは、もしあの褐色の人が自分の死んだ痕を、インクの水溜まりを見たら、どう思うかという事だった。
あの湖の一件以来、ジーンはしばしばこの森にやってきました。やってきては、ロビンの出したお茶と料理を前に、自分の武勇伝なんかを話すのです。
『俺はある時、魔神ちゃんと一緒に囚われのお姫様を助けに行ったんだ。その洞窟には、恐るべき魔物が住み着いていて、姫様を助ける為に、俺はそいつと戦う事になったわけだな』
『原典の物語にはない、話ですね』
『そう。あんたはこのジーン様の隠された冒険譚の、最初の読者なんだ。じゃあ、話を戻すぞ。洞窟には魔物の他にも、手強い暗号や、狡猾な罠が仕掛けられていた。最初に俺の前に立ち塞がったのは、ライオンの体に猛禽の爪をした、巨大なスフィンクスだったんだ』
その話が嘘か本当かは、なかなかに怪しいところでした。けれども、長い間森に篭っていたロビンとしては異邦の地の物語は興味深いものでしたし、また自分自身が冒険譚を繰り広げてきたのもあって、懐かしい気持ちにさせられました。
体を動かした所為か、それとも崩壊が過ぎたのか。先程以上に、インクが漏れ出す速度が速くなっている。目に映る景色は周りからみるみると黒く滲んでいって、狭くなった視界では前方を見るので精いっぱいだ。対岸の風景も、もはや絵の具の塊のようにしか見えない。耳は――聞こえているのだろうか? 元々静かだったのか、聴力を失ったのか、もはや判別のしようがなかった。
それでも、前に進む事は止められない。溶けていく感覚を無視して、ただただ這う。今、頬を伝っているのは、果たして汗なのかインクなのか。
『お初にお目にかかります。……と言っておくべきでしょうね、はい。ワタクシ、ジェネヴァと申する者でございます』
ランプから現れた青肌の男を見て、ロビンは一瞬唖然としましたが。すぐに「これはご丁寧に」なんて、挨拶を返します。
『いやはや、日頃のご恩返しも兼ねて、偶には私からお茶のご用意をさせて頂こうかと』
『恩返し、ですか……?』
『ええ。こうして具現するに余りある力を手に入れられたのも、偏にロビン様のお陰でございますので』
『おーい、ロビンちゃん。風呂場の石鹸がなくな――っ、なんでお前勝手に出てるんだよ』
『ご主人様とロビン様とのよりよい発展を願って、少しご主人様の昔話でもと』
『帰ってろ』
ジーンがランプをこんこん叩くと、ジェネヴァは渋々といった顔で、ランプの口のところから中に入っていきました。ロビンは「話を戻すけど。石鹸使い切っちまったから、あとで補充しといてくれ」なんて言葉を聞きながら、初めて出会ったあの日から感じていた疑念を、改めて強くしたのです。
亀のような歩みだったが、それでも彼は湖の淵まで辿り着いた。見下ろした先は、どこまでも続いていく半透明。深さには検討がつかず、どこまで沈めば底に行き当たるかも分からない。自分の胸に空いた穴は、もうどれほどまで広がっただろう。何にせよ、穴が広がり続ければ、上半身と下半身が千切れるのも時間の問題だ。
ここまで来れば、達磨の体でもどうとでもなる。彼の中には、一切の躊躇いはなった。
頭から、湖の中に落ちる。重力に従って、全身が水中に入り込む。体から漏れ出したインクが、水に黒い模様を描いていった。
『ロビンちゃーん、疲れたから匿ってくれー!』
『またマメール様からお叱りを受けたのですか? 今お茶を用意しますから』
『お叱り? いいや、あれはそういう正当性があるものじゃあない。理由をつけて俺を働かせたいだけだね』
『まぁまぁ。マメール様に力を認められている、という事でもありますし』
これはいつの記憶だろうか。いつ交わした会話だろうか。
自分の目で見た風景、溜め息を漏らした褐色にマグカップを差し出す手元が、徐々に黒ずんでいきました。
『お前も俺の性分はもう分かってるだろ? 俺は面白くない無駄な事はやりたくない主義なんだ。たしかに魔神ちゃんの腕は物を運ぶにゃ便利だが、結局は一本しかない。それならもっと人員を増やして、あの女が指揮官として現場を仕切ればもっと効率的にだな』
『ジーン。その、前々から気になっていたのですが』
『なんだよ?』
『貴方って、なんというか……テンションにムラがありますよね』
溶けていく。深みに沈んでいく毎に、体の部位がなくなっていくのが分かる。紅茶に落とした一滴のミルクのように、自分のインクもやがて水に薄れて、最後には何一つとして残らないだろう。どう足掻いても、ここから助かる方法はない。
それでも、自分の死期を早めてでも、彼は湖に飛びこまねばならなかった。自分の死を、隠し通さなくてはならなかったのだ。
『えっ、まじ?』
『今のは普段の感じですね』
『じゃあ、ついさっきまでのは』
『見た目も併せて、なかなかチンピラめいていましたよ』
『ロビンちゃん結構酷いこと言うな?』
思い出せるのは、もはやあの人の瞳の色だけでした。それ以外は塗りつぶされて、ただただ黒い記憶の中で、声だけが聞こえてくるのです。もうじき、それも聞こえなくなるのだろう。いっそもう、早く消えてしまった方がいいかもしれない。何故なら、この記憶は、
『俺さ、これでも周りに一応気は使ってるんだよ。不愛想よりも、ノリノリだった方が、こう面白いだろう?』
『なんですか、それ。貴方らしいといえば、まぁ、それまでですけど』
『あんたにはそういう猫被りは、気が向いた時にすればいいかなぁ、って』
あの時、ターコイズは笑っていた筈なのですが。いかんせん、もはや名前すら思い出せなくなってきているので、どうしようもありませんでした。
けれども、この言葉だけは、覚えたままでいたのです。いや、いたいのでしょうか。
『ロビンには、お前とか言ってみても気にならないんだよな。なんだろう、話してて楽っつーか……信頼してる、のかもな』
『……急に恥ずかしいこと、言わないで下さいよ。全く』
泣きたくなる。
私はたしかに、どうしようもない男でした。死に置いていかれた自らを呪い続け、けれども自殺などする程自分勝手にもなれないで、結局は正義を人生の道標として利用したのです。成る程、逃げの手段として正義の味方になったのだと、そう言われても仕方がありません。
けれども、だからこそ私は、正義に対して常に『素直』で在りました。親とはぐれて泣く子も、なくし物をして困る人も、傷を受け絶対絶命の戦士も、私は労力の大小問わずとにかく助けたいと思った。思って、行動をし続けた。これが自分の生きる意味だと信じていたから、この正義的な行いについて一切の見返りを求めることもなく、また無償に対して不服を覚えることも皆無でした。
今更、その事の酬いが欲しいと言うつもりはないのです。だけれど、それでも、
「――」
誰かに、助けて欲しかった。
今にも突然奇跡が起こって、気が付いたら湖の傍に居ればいいのにと、願わずにはいられなかった。あるいは、これは悪夢で、目が覚めたら自分は汗だくになってベッドの上に居るのかもしれない。いや、そんな事はありえない。分かっています。分かっています。
何も感じない体で、必死に助けを求めてみても、口からは空気の泡すら出はしません。垂れ流されたインクが、水を汚していくばかり。こうして思考が出来るのもあと僅かなのでしょう。
いいじゃないですか。孤独に身を置いた男が、数百年ぶりに友を作ったのです。キャストとはいえ、彼もいつかは私の前から消えるでしょう。最後には私は置いていかれて、また一人寂しく鬱々と過ごすことになるのやもしれません。
けれども、私はまだ、彼の事を何も知らないのです。原典を読んだりはしてみましたが、彼という一人の事を知るには、まだまだ会話をする必要があります。辛味を得意としているようだが、他の味の好みはどうなのだろうか。ジェネヴァというあの魔神とは、どういう関係なのだろう、主従なのか友人なのか。そもそも彼は、今までどんな人生を送って来たのだろう。
数百年ぶりに、人の事を知りたいと思った。知ったところで別れが辛くなるだけだと引き篭もっていた私に、再びこんな思いを抱かせたあの人の事を、私は――憎からず思っているのです。私は結局、とんでもない寂しがり屋だったのでしょう。だから、一人にさせられたあの時から、ずっと『何故死ねなかったのだろう』と自問自答を続けたのでしょう。
嗚呼、どうして、この瞬間が今来たのだろう。もう少し早ければ、あの人に会う前なら、きっと何の未練もなく溶けていけたのに。
私はあの人に、人と話す喜びを思い出されてくれた人に、自分と同じ思いをさせたくないばかりに湖に飛びこんだ。けれども今になって、途端にそれが寂しくなってくる。誰も私の死に気付かないという事よりも、あの人は私の死に気付いたら泣いてくれるのだろうかと、そちらの方が気になってくる。インクが流れ過ぎてどうかしているのでしょう。そもそもとして自分は今死ぬという前提で考えを巡らしているが、一番は死なない事なのです。このまま、どうにかして生き残る。無理だ、そんなこと。嗚呼嫌だ、死にたくない。あの人はどんな人相をしていたっけ。
取り留めもない思考が、不意に止まります。騒いでいた鳥が、投げられた石の音に、一斉に息を潜めたように。
言葉が、漏れる。
――本当に私は、幸せだった。
私のインクの溶けていない、遠くの水は、差しこむ陽光に銀色に煌めいています。
世界が、溶ける。
〇〇〇
「喜ぶだろうなぁ」
俺が独り言をする時には、それは大抵、意図せず魔神へ投げかける言葉になっているんだが、今回のはそうでもなかった。俺らしくもない。
あの書士から呼び出されたのは、つい数分前の事。『森の奥に住んでいるキャストに、情報の伝達をお願いしたい』だなんて、俺は伝書鳩か何かかっつー話だったが。
「メイド・マリアン、か」
『ロビン・フッド』の物語に出てくるそいつが、どうにもキャストとして召喚されたらしい。前回のクロノダイルの件もあるし、彼女にも同じく森の警備についてもらう予定だとか。
これでロビンの死にたがりも、完全に治るだろう。見た感じ、メイド・マリアンもエルフの耳をしていたし、これでもう死別することもないはずだ。俺が無理矢理酒に誘ったりするよりも、ずっと効果的に違いない。
「……俺には関係ない話だ」
言い聞かせるように呟くと、勝手にロビンの家の戸を開けた。こんな森に人なんて来ないからと、普段から鍵はかけていないらしい。今日は肝心の家主の姿もないが……まぁ、日が暮れる前には帰ってくるだろう。
俺はソファに寝っ転がって、少し寝ることにした。