夢の淵からゆっくりと浮上していた意識が、突然何かに引き上げられた。
頬に突然感じた生暖かい感触に、赤毛の少年ハルは驚いて目を覚ます。寝ぼけ眼を開くと、飛び込んできたのは白と黒の模様。牛の顔だ。
牛はその大きな舌でハルの頬を舐めてきた。
「うわっぷ……っ、こらやめろ!」
顔を押し返そうとするハルの様子を気に留めた様子も無く、牛はハルの顔をなめ続ける。
ハルがいるのは牛舎である。昨夜は飼葉をベッド代わりにして眠っていた。どうやら牛はそこから退け、と言いたいらしかった。
ハルが飼葉の上から降りると、牛は飼葉の山に頭を突っ込んでむしゃむしゃと咀嚼し始めた。
朝食を楽しんでいる牛を、ハルは恨めしげに横目で見る。
「うへぇ……よだれでべとべとだぜ」
袖でぬぐおうかと思ったが、洗濯が面倒だ。しかし獣くさい。
周囲をぐるりと見渡してみると、牛舎の横に井戸があった。見慣れた手押しポンプ式。これなら使い方が分かる。念のために呼び水を上の口から入れて、ハンドルを上下にがちゃがちゃと動かす。しばらくするとごぼごぼと音が鳴り、水口から水があふれてきた。
排出される水を手ですくう。冷たい。くみ上げられた地下水のありがたいところは、気温が高い時は冷たくて低い時は暖かいことだ。
ひんやりとした水で顔を勢いよくばしゃばしゃと洗う。
最高だ。一気に目が覚める。
「ぷはぁっ……と、いけね。タオルがねえや」
まあいいか、と服の裾を捲り上げて顔の水気をぬぐおうとした。
「はい、タオル」
そう言ってハルの目の前に白いタオルが差し出された。
「お、サンキューな」
ハルは受けとったタオルで顔を拭いた。いつのまにやらハルの目の前にやってきたのは六才くらいの女の子だ。褐色の肌。頭には牡鹿を思わせるような大きくねじれた角がある。
「よ、ずいぶん朝はえーなチノ」
チノと呼ばれた少女は、じーとハルの顔を見ていた。
「どうだ、今日も男前だろ?」
にやりと口の端を持ち上げていたずらっぽく笑う。白い歯が陽光にきらりと輝いたように見えたのは目の錯覚だろう。
ハルの顔を見つめていたチノは「やっぱり!」となにやら声を張り上げた。
「ハルってメガネかけてないほうがカッコいいね!」
「あん、メガネ? 俺は元々メガネなんざつけてねえぜ」
目も悪くねえしな、と続ける。自慢ではないが、体に悪い所などひとつもない。いや、
彼をよく知る人間がその場にいたならば「体はアホみたいに頑丈。ただし頭が……」と続けるに違いない。頭が、なんだというのか。バカか、バカと言いたいのか。
「え~、うっそだぁ! だって昨日の夜はつけてたじゃないかー!」
昨日の夜。
旅の途中、偶然この村に立ち寄ったハルがチノの家に飛び込みで「今夜泊めてほしい」と突撃した時のことだろう。
そこではたと気づいた。
……忘れてた。
「あ、あ~メガネ、メガネな、そういやしてたっけな」
メガネメガネと口ずさみながら、ハルは牛舎に戻り飼葉に群がる牛の群れの合間を「はいはいちょっとごめんよ」と押しのけて置いてある自分の荷物の元に戻る。しゃがみこんでごそごそと荷物をあさる。後ろをついてきたチノは何をやっているのか不思議そうにハルの背中を眺めていた。
「よし」
振り向いたハルの顔にはメガネがあった。似合っているといえなくもない。しかしチノは不思議そうに首をかしげた。
「なんで目が悪くないのにメガネしているの?」
「大人には色々込み入った事情があるんだよ」
ふ、とニヒルにため息をつきながらメガネのふちを意味ありげに撫でるハル。大人などと言っているが、彼は今年で十四歳。身体的には大人と子供の中間といったところだ。
「えー、メガネ外そうよー、そっちのほうが絶対カッコいいよー」
「俺はメガネかけててもかけてなくても等しくカッコいいからいいんだよ」
ハルはチノの頭に手を乗せ、ぐりぐりと撫でた。やや力が強かったためかチノの頭もハルの手の動きと一緒にぐらぐらと揺れている。「あーうー」と抗議の声を上げ始めたところで手を離すハル。
「もうっ、もう!」とぷんすか怒るチノを宥めつつ、ハルは牛舎の外に出て大きく伸びをした。
なだらかに波打つ大地。地平線から顔をのぞかせた朝日が草の絨毯を黄金色に輝かせていた。
そこは科学によって文化を大きく発展させた地球(旧世界)とは違う世界、魔法世界(新世界)のアルギュレー大平原の中にある小さな村だった。
かつて魔法世界全土を揺るがした大戦から二十年ほどの時が流れた。
二十年という時間が長いか短いかは激動の時代を過ごした人々にしか分からないだろう。たくさんの血が流れ、たくさんの命が散った。近しい人を失った悲しみや、家族を奪われた怒り。怨嗟の声が大陸全土を駆け巡り、悲しみの涙と血が大地に流れた争いの時代。英雄の存在によって大戦は終局したが、それですべてが終わったわけではない。戦いの後に残されたのは焼かれた家や田畑。そして人々の心に刻み付けられた消ええぬ傷だった。
二十年。時間は残酷に、そして優しく通り過ぎた。悲しみも、怒りも、忘却の中に埋もれていった。生ある命。いつまでも過去に囚われてはいられない。わずかずつの歩みでも、人々は前を向いて歩き出していた。過去の傷が完全に無くなったわけではない。しかし多くの人々はそれでも村を、街を、国を復興させ、かつての平穏な生活に戻って行った。
今はそんな時代。
「ごっそさん!」
パン! と両手を合わせる。これが自分が食べた食材、とりわけ命ある動物たちにささげる礼儀の作法なのだと旧世界の日本出身の仲間に教わった。
その日の朝食はパンとスープ。目玉焼き、サラダにヨーグルトと体に良さそうなメニューだった。
「いやぁ、久しぶりにまともな料理を食ったぜ」
ハルは満足そうに食後のコーヒーをすすっていた。彼は十四歳という若さながら世界中を旅してきていた。仲間と呼べる連中と一緒に旅してきたこともあるが、今は悠々自適な一人の旅路。金銭や料理等の健康管理も自分一人でやらなければならない。しかし生来のガサツで大雑把な性格のせいか、手順を循守する類の料理は苦手であった。それこそ野生の牛なりドラゴンなりを狩って火であぶって塩コショウをぶっかける粗暴とすらいえる男料理がここ最近の定番で、表面消し炭、中はほぼ生肉も「レアで食べ頃」と笑って食って、それでも一度も腹を壊さなかったのは胃の作りが根本から違うとしか考えられない。
「いい食べっぷりだ。やっぱり男の子は元気が一番だ」
そう言ったのはチノの父であるミゴスだった。
彼もチノと同じく褐色の肌に頭には巨大な角が生えている。それはこの魔法世界で、南の古き民と呼ばれる亜人の特徴である。
「チノはなかなか料理うまいじゃねえか、びっくりしたぜ」
えへへー、と照れたようなしぐさで身をよじるチノ。「もう、もう!」とほめられるのは満更でもない様子で空になった食器を下げて台所へと向かっていた。手伝うか、というハルの申し出は「休んでて!」とやんわりと却下された。
かちゃかちゃと食器を洗う音と、洗剤を流す流水の音を聞きながら、ミゴスを愛おしい娘の後姿に細めた。
「男やもめでね。チノには迷惑かけっぱなしだよ」
「おふくろさんは?」
ハルの問いかけに、ミゴスはテーブルの上に視線を落とした。
「亡くなったよ」
そう、一言だけ告げられた。ハルは「そうかい」とだけ返した。組んでいた足を組みかえる。マグカップを持ち上げると、馥郁たるコーヒーの芳醇な香りがふわりと鼻先に踊った。黒いダイヤを口にちびりと含む。良い、香りだ。なかなか良い豆を使っている。
マグカップを握るハルの指がわずかながら震えている。胸中を巡る想い、それは。
――やっべっ、なんか空気が重いんだけど。
地雷だった。今の質問は明らかに聞いちゃいけない類の質問だった。察しろよ俺、無神経すぎんだろうがよ。などと自らに対する叱咤が頭の中を駆け巡るが、あいにくと一度口に出した言葉を元に戻す術など心得ていない。
場の空気を和ますために一発ギャグでも、いやいや、いっそのことコーヒーを頭から被って……。
などと考えていたときミゴスがハルに問いかけた。
「ハル君は今日ここを発つのかい?」
「ん、おお。そのつもりだぜ」
話題が切り替わったことに安堵しながら、ミゴスの質問に答えるハル。昨日の夜にこの村に訪れたばかりだが、今日の昼にはもう発たなければならない。
「もう二、三日くらい泊まっていったらどうだい? チノも君のことが気に入っているみたいだし。昨夜は急だったから用意できなかったけど今日中に家を片付ければ君の寝床くらい確保できるよ」
そいつはありがたい。ありがたい、が。どうしても外せない大切な用事を控えているのだ。
「弟のよ、学校の卒業式なんだ」
だから悪りーな、と謝る。
そうか、とミゴスは静かに微笑んだ。この辺りのやわらかい包容力みたいなものはまだまだ年若いハルにはかもし出せないものだ。これが人の親というものかと思ったが、脳裏を横切った自らの父親の小憎たらしい笑みに『人それぞれ』という格言が思い浮かんだ。
「えー、ハルもう出て行っちゃうのー?」
洗い物を終えたチノがエプロンで手の水気をふきながら、不満の声をあげた。出会ってまだ一日足らずだが、昨夜時間の許す限り、ハルが旅の中での思い出を(差しさわりの無い範囲で)語ったところずいぶん懐かれたようだ。生まれてからずっとこの村で暮らしてきて特に好奇心の強い年頃のチノは、ハルの冒険談をひどくお気に召したらしい。
「わりいな、またそのうち遊びに来るからよ」
「むー、絶対だよ」
「もうすぐに出て行くのかい?」
「いや、ゲートの時間もあるから昼ちょい前くらいに出ればちょうどいいな」
ゲート。異界の門。この魔法世界と地球とを繋ぐ、世界でも数箇所しかないトンネルのようなものだ。
「ゲート……ということはハル君、キミは旧世界の?」
「ああ、イギリスって国の出身だぜ」
旧世界。ここ魔法世界において、魔法とは全く違う力である科学の発展した世界は旧世界という呼称で呼ばれ、近代まで、もしかしたらあるかもしれないという程度の御伽噺のように語られてきていた。御伽噺が確固たる現実として知られるようになってまだ歴史が浅く、旧世界の人間は魔法世界(新世界)のことについてその存在を認知していない。魔法世界の人間にとっても二つの世界を繋ぐゲートが開くのも週に一回から月に一回とわずかな頻度のため交流もほとんどないためほぼ鎖国状態といっていい。
御伽の国の話に食いついたのは言うまでもなくチノだ。
話して話してとねだるチノに、「出発の時間までならいいぜ」と快諾したハル。
チノに手を引かれるまま外に連れ出され、やってきたのは家の近くにある小さな小川の辺だ。どうやらここがチノのお気に入りの場所らしい。
手ごろな岩の上に腰を下ろして、吟遊詩人のように臨場感たっぷりに旅の思い出を聞かせるハル。旧世界新世界問わず世界中を旅してきたハルの悲喜こもごも、誇張とも思える大スペクタクルに目を輝かせて聞き入るチノ。「へー」「ほー」「わぁ」と歓声を上げ胸をときめかせるチノの百面相についついハルも語りに力が入ってしまう。
「チノは魔法は使えんのか」
ハルがそう尋ねると「使えるよー」と誇らしげに胸を張り、白いローブの内ポケットから小さな杖を取り出した。先に星型の装飾がついたかわいらしいデザインだ。
こほんと小さくせきばらい。
チノが大きく深呼吸すると、わずかに大気が震えた。いや、その表現には語弊がある。その震えを感じ取るのは普通の人間には無理だ。大気に満ちる魔力の存在を感知できる魔法使いないしそれに順ずる者にしかわからない。魔力とは一種のエネルギーだ。空気や水、石や火など万物に宿るエネルギーを息を吸い込むように体内に取り込むことにより発現する力……それが魔法だ。
大気が震え魔力がチノへと取り込まれる。そしてつむがれる力ある言葉。
「プラクテビギ・ナル……」
それは魔法を使うための始動キー。成長した魔法使いはそれぞれに適した始動キーを考えるが、チノの唱えた『プラクテビギ・ナル』とはいわば初心者用、魔法という世界に飛び込んだばかりの者が使う入門用の始動キーだ。
「火よ灯れ(アールデスカット)」
呪文を唱えるとその術式に応じた力が発現する。
チノが唱えたのはもっとも基本となる魔法、火を生み出す魔法だ。
ポッ、と杖の先に小さなともし火が灯る。ゆらゆらと揺れる小さな炎。ともすればライターの火よりか細く頼りないものだったが、それは間違いなくチノが使った魔法だった。ここ魔法世界ではその名の通り、魔法という力が当たり前の技術として普及した世界。チノのように幼い子供でも、簡単な初級魔法なら使えてもなんら不思議ではないのだ。
どうだ、とばかりにエヘンと胸を張る。
「へっへー! どう?」
「おいおい、そんなふうに気を散らすと」
ハルの忠告をチノが聞き入れる前に。
「あ、あ、あー……」
チノの生み出した炎は砂が崩れるように細かな残滓となって大気に散り散りに消えてしまった。
「あーうー」
不満そうに杖をぶんぶんと振るチノにハルは意地悪な笑いを浮かべた。
「はっはっー、まだまだだなー」
「むー、じゃあ次はハルがやってよー」
「おういいぜ」
ハルは片膝を立てて岩の上に座り込んだまま、ぴんと人差し指を立てた。
「あれ、ハルは杖使わないの? わたしの使う?」
「いいや、必要ねえぜ」
そう告げたハルの指先に、次の瞬間小さな炎が生まれた。「わっ」と飛び上がるチノ。始動キーも呪文の詠唱もしなかった。それなのに魔法が発現したことにチノは驚き目を丸くした。
蛍火のような小さな炎は酸素を取り込んで大きくなるように瞬く間にこぶし大の大きさになる。ハルが指揮者のように軽やかに指を振るうと火球は更に小さな火球に分裂した。百ほどの火球が宙を舞う。ハルとチノの周りをぐるぐると火球が踊る姿はシャンデリアの輝きのように絢爛で、流れ星の煌きのように美しかった。ハルがぱちんと指を鳴らすと、全ての火球は弾けて消えた。舞い散る粉雪のようにチノの周りに光の残滓が降り注ぐ。
チノは光の粒を手のひらで受け止めた。不思議と熱くは無かった。全ての光が消えると、次に上がったのは、夢から覚めたように、ハッと口を開けたチノの殊更大きい歓声である。
「すっごぉーい! すごいすごい! 今のどうやったの!?」
どうだ! と今度はハルが胸を張った。子供相手に、大人げないといえなくもない。
「どうだ、すげえだろ?」
「すごい! 学校の魔法の先生だってあんなのできないよ! ホントにどうやったの!?」
「まあ、まじめに練習あるのみってことだな」
ふふんと鼻を鳴らす。仲間たちが聞いたら「まじめとかお前がいうな」と切り返されそうなハルの発言だったが、純真なチノは「うん、がんばる!」と素直に首肯した。興奮冷めやらぬチノは矢継ぎ早にハルのことを褒めた。チノは魔法という力にずいぶん魅了されているらしく知っている事柄を次々に語っていく。やれ授業で新しい魔法をクラスで一番に使えて先生に褒められただの、この地方で有名な魔法使いの名前だの。そして。
「ねえねえ、ハルはえいゆーって知ってる?」
えいゆー?
「ひょっとして英雄のことか?」
「そう!」
チノは背中に背負っていたウサギをあしらったバックから一冊の絵本を取り出した。
「こりゃあ……」
ハルがわずかに顔をしかめたことにチノは気づかず話を進めた。
「この本ね、まぎすてるまぎっていうすっごい魔法使いのことをかいた本なんだよ!」
――マギステルマギ。偉大な魔法使いの意である。
チノの取り出した絵本には子供ウケするようなデッサンにデフォルメされたかわいらしい登場人物が載っている。しかしそれが誰か、この魔法世界に生きる者なら世捨て人か幼子を除いて知らぬものはいないほどの著名な男だ。
彼の者について逸話は様々あり、その伝説は二十年前の大戦より始まる。
魔法世界の人々が彼を語る際に大前提として捉える一つの事柄がある。それは。
世界最強の魔法使い――サウザンドマスター。
かつて魔法世界を二つに割った大戦を終結に導き、世界崩壊の危機を救った救世の大英雄である。
そしてハルにとっては。
……けっ、こんなところにも節操なく顔出すんじゃねえよ……
『このクソ親父』
因縁浅からぬ……どころではない相手だった。