徒歩三十分圏内。
それがチノにとってのおおよその世界の広さだった。
チノが住んでいるのはアルギュレー大平原の中にある小さな村だ。農耕によって日々の生活が成り立っており、外界から隔絶されたなどというと聞こえが悪いが、基本的に村以外の人間とはあまり接触が無い。村にやってくるものはというと旅の商人が月に一回か二回来るくらいで、日々の生活に必要なものは大体が村の中だけで揃う。村民は百人足らず。チノは今年で六才になるが、近しい年齢の子供はこの村にはいない。大人たちには大層可愛がられているが、チノには友人と呼べる子供はいなかった。遊ぶといえばもっぱら一人で家の周りを駆け回り、蝶を追いかけたり草花を愛でることだった。父のミゴスが買い与えた絵本はもう百冊近くになる。親バカというなかれ。閉塞された環境で友人を作れないチノへの、それがせめてもの罪滅ぼしだった。大きな街に移り住むこともミゴスは考えた。しかし彼にとっての妻であり、チノにとっての母である女性の眠るこの地から離れることはミゴスにとってはあまりに辛い選択だったのだ。
アクティブな性格のチノは外で遊ぶことが大好きだったが、それと同じくらい本を読むことも好きだった。小さな村の中で生活しているチノにとって、物語の世界というものは色取り取りの世界が広がる夢への扉だった。特に好んだのは冒険譚だ。なんにでも興味を持つ年頃で、閉じた環境で生活しているという遠因もあったのかもしれないが、自分の想像もつかない広大な世界を題材にして冒険を繰り広げる物語はチノの心を強く惹きつけた。
そんな冒険譚の中で多く登場するのは英雄と呼ばれる存在だった。
英雄と呼ばれる者たちは、どうしようもない困難に立ち向かい、どうしようもないような強大な敵と戦い、どんな絶望的な状況をも打ち破り、最後は物語をハッピーエンドへと導いていく。
英雄。
その言葉はまさに楔を打つがごとく幼心に深く突き刺さった。そこにあったのは心を奮い立たせるような深い憧憬の念だった。こんな人がいるのか。自分もこんな風になれるのだろうか。
こんなふうに……なりたい!
ある日、父に尋ねたことがある。
「おとうさん、えいゆーってなに?」
「う~ん……うまく説明できないけれど……」
父はちょっと困った顔をしながら、答えた。
「そうだな、困った人を助けてくれる人、かなぁ」
それはあまりに簡素な答えだ。
チノにとってはどこか期待はずれだった。
「う~……そういうことじゃなくて! こう悪いやつをばば~んてやっつけるとか、お姫様を助けたりとか!」
ミュージカルのような大仰な身振り手振りを交えながら熱弁するチノに、父ミゴスは小さく笑いながら頭をぽんぽんと優しく撫でるだけだった。
ある日、一人の少年が村を訪れた。
旅の魔法使いを名乗る少年は、チノにとって初めて出会う自分と近しい年齢の(それでも十歳近く離れているが)子供だった。
名前はハル。赤い髪に、(チノ曰く)似合わないメガネをしていた。
村から村を、街から街を、都市から都市を……世界中を旅してきたハルの話はチノを魅了した。南の帝国、北の連合国を始めとして世界の風習や文化を実体験に基づいて分かりやすく解説してくれた。世界中に点在するダンジョンや空から墜落したかつての浮遊大陸の崩壊した都や大陸や魔獣蠢く死の谷での冒険。チノはまるでハルを通して自分自身も追体験しているような高揚感を覚えさせた。
そしてハルが見せてくれた魔法は学校の先生――とはいっても生徒は実質チノ一人なので家庭教師に近い――でもできないような術式だった。
――世界や冒険に対して憧れを抱くチノにとって、ハルはまさに夢の世界からの使者だった。
残念なことにハルはたった一日しか滞在することはなかった。
チノはハルに一つの約束をした。また必ず会いに来てほしい……また世界の話を聞かせてほしい、と。その約束を取り付けるにあたって不履行を回避するために自分の宝物である絵本を預ける辺り、なりは小さくとも一端のレディの卵だった。
涙こそ流さなかったが別れの深い悲しみはあった。たった一日だったが、小さな村の中で暮らしてきたチノにとって人と人の別れというものは経験する機会の無かったものだった。
今度はいつハルと会えるかなぁ。
そう思いながらお気に入りの小川のほとりを歩いていた。
――その時だ。
がさがさ、と草木を揺らす音が聞こえた。振り向いたチノの目に飛び込んできたのは黒いローブを頭まですっぽり被ったひげ面の男だった。熊のような大きな体で、目つきが鋭い。
この村の人間ではない。初めて見る。ひょっとしたらハルのように旅をしている人なのかもしれない。チノは恐る恐る。
「おじさん」
誰?
と、尋ねようとした。しかしその言葉は。
「眠りの霧」
男のつぶやいた言葉に――魔法の呪文によって紡がれることはなかった。
「え?」
急速に意識が遠のく。深い眠りの誘いに襲われるチノが意識を手放す直前に男がこう言うのが聞こえた。
「なかなか将来が楽しみな嬢ちゃんだ。こいつは高く売れそうだ」
つんざくような爆音が、牧歌的な村を襲来した悲劇の宣告だった。
威嚇として村の中心部に放たれた爆撃魔法は地を揺るがし、村中に響き渡った。家畜たちは驚きふためいて暴れ周り、住民達も何事かと家の外に飛び出してきた。
そして住民達が目撃したのは村の中央広場に穿たれたクレーター。舞う土煙の中に三十人ほどの黒装束の人影を見た。
皆、何が起こったか分からず呆然としている中、黒装束たちは掌を前に突き出して何事かをつぶやいた。
赤い光が男達の手のひらに灯ったかと思うと、次の瞬間、光は軌跡を描きながら掌から打ち出された。
――魔法の射手(サギタ・マギカ)
攻撃魔法の中で基本となる魔法。
基本といえど攻撃魔法に違いなく、その応用性の高さから魔法学校でも唯一生徒に教える魔法である。
それが、村人に向けて放たれたのだ。
威嚇の意味があったのだろう。魔法の矢は村人に直撃することは無かったが、庭木をなぎ倒し、屋根に穴を開け、家の外壁を吹き飛ばした。
――何が起こったか分からない。それがミゴスの正直な思いだった。
しかし相手が何者か分からないとはいえ、こちらを害する気なのは明らか――……。
「……チノ!」
ミゴスの脳裏に愛娘の姿がよぎった。
チノは遊んでくるといって外に出て行った。もしあの爆発や、炎に巻かれたとしたら。
いてもたってもいられず、ミゴスは家から飛び出した。しかし。
「眠りの霧」
そうつぶやかれた言葉によって、周囲に霧が発生しそれに巻かれたミゴスはは急激な眠気に誘われ地面に倒れ付した。
重たくなるまぶた。霞む視界の中に黒装束の男の一人が自分を静かに見下ろしているのが見えた。
「ち、ちくしょう……っ」
何が起こったか分からない。黒装束の男達が何者なのかも分からない。正直なところ連中が何者で何が目的かなんてものは二の次だ。
……チノ、無事でいてくれ。
ただ愛娘の安否を祈りながら、ミゴスの意識は闇へと飲まれた。