竜守ノ君   作:浜西幻想

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三十八話 〈八竜槍〉イスズ

 一瞬、月明かりの薄暗い闇の中に、火花が散った。突き出された槍同士が、凄まじい速度でぶつかり合ったからだ。

 一撃で勝負を終えようとしたイスズは、初撃が弾かれたことに驚きながら、一旦距離を取った。相手は、取り乱さず、落ち着き払っている。

 

「女だてらに、中々の速度に重さよな、小娘」

 

 侮れている、と感じた。別に、女だからと侮れたのは、今回が初めてではない。元より、武術とは男の領域であり、女が不可侵の聖域へ入り込む余地など無いのだ。だが、何事においても例外は常に存在するのだと、この男に教えてやろう。イスズは〈竜槍〉を握る手に、適度に力を入れ、男を睨みつける。

 

「良い構えだ。さすがは最年小、しかも女の身で〈八竜槍〉の一人に名を連ねるだけはある」

 

 意外にも、続く言葉には、称賛が聞こえてきた。いつもなら「身の程を知れ」だとか「女の身で」だとか、くだらない定型文句がくるものだが、この男は一味違うらしい。

 先程言われた『小娘』という言葉は、本当にそのままの意味であったようだ。

 年齢差から考えれば、確かにこちらが小娘である。二十は離れているのだから、当然だ。

 

「投降なさい。帝は寛大な処置をなさるでしょう。わたくしも、口添えをしてさしあげます」

 

 事情を知らずに、武器を向けられている少年を助けたのだと報告すれば、まだ温情の余地はあろう。しかし、イスズの呼びかけを、シキは鼻で笑って、嘲った。

 

「っは――それは、わしではなく、リュウモにしてやれ。もっとも、帝は聞く耳を持たぬだろうがな」

 

 彼の顔には、強烈な侮蔑の色があった。幼子を、問答無用で死罪に処そうとする帝を、心底軽蔑しているようだった。

 

「それは……」

 

 イスズは押し黙る。帝へ侮辱を投げつけた男に怒りを抱いていたが、少年のことを言われると、燃え盛っている炎に水をかけられ、鎮火させられる。

 

「この者は、無関係の人を助けようと〈竜奴ノ業〉を、一族の禁忌を侵す、苦渋の決断をしたのだ。それを弁解も聞かずに処刑しようなど、言語道断よ」

 

 シキが言った強い非難の内容は、人として理にかない、また当然の主張であった。

 普段ならばここまで強行な採決がくだされることはない。しかし、帝はすでに少年への極刑を決めている。例え、国の重鎮の一人が声をあげたところで、結果は覆らないであろう。

 イスズは、よく理解している。だから、余計な人死にが増えぬよう、努力は怠らない。それも、意味が無くなりそうだった。

 

「〈竜奴ノ業〉は、我が国では禁忌。それを、この国に住まう人間はよく知っている。貴方の時は、あくまで知ろうとしただけ。だからこそ、皇都からの追放という軽い処置で済んだのです」

「故に、業を知り尽くし、それを使う者はどのような事情があれ、処刑すると。愚かよな、わしのように知識欲に駆られた者ならばともかく、献身でもって他者を助ける子を殺そうなどと。あれも、変わらず大馬鹿らしい」

「――――」

 

 ――帝、何故このような男を生かしたのですか。

 温情をかけられたことを恩とも思わない者を生かし、誰かを助けるために力を振るった子供を殺す。不敬だが、この時だけは、イスズは帝の決定に異を唱えたかった。

 

「いいでしょう。帝の御心を煩わせるまでもありません。この場で倒れなさい」

 

 それが、イスズの出した結論だった。退かないのならば、打ち倒すしかない。

 

「元より、そうするつもりであっただろう。――ああ、そうそう。一つ言い忘れておったが、援軍ならしばらくは来んぞ。道中、邪魔な若造共を張り倒して来た故にな」

 

 悠長にしていたのは、余裕があったからであるらしい。だが、イスズからすれば、別に驚くようなことではない。

 一撃。槍を合わせたのみだったが、シキの実力は口から言われずとも、十分に察せられた。

 

「強いですね、貴方は」

「これでも一度は、〈竜槍〉候補の最有力であったからなあ。今でも、それなりに鍛錬はしておる」

 

 とんとん、と槍の柄で肩を軽く叩いた。彼の余裕に、イスズは静かに闘志を燃やす。

 シキ――彼は現〈竜槍〉の一人であり最強と言われる、ガジンと同期で、腕前はガジンに勝らずとも劣らずと言われた達人である。

 皇都を追放され、第一線を退いてはいるが、槍の冴えは、確かにガジンにも劣らない。そんな男が言う『それなりの鍛錬』など、常人の基準とはかけ離れているだろうことは、誰でもわかる。

 それでもおのれの腕が、目の前の男に負けているなどと、イスズは欠片も思わない。

 誰であろうと、自分の槍は大の男を地面に叩き伏せてきた。今までとすべきことはなにも変わらない。

 イスズの気配の変化を敏感に感じ取ったのか、シキは腰を深く落とし、ずっしりと大樹の根のように槍をかまえた。

 

「来い」

 

 合図は、シキの一言だった。

 虫の声すら聞こえない暗い夜に、熾烈な技の競い合いが始まる。

 火花が散り、明々と闇夜が幾度となく照らし出される。

 

(……重い、それに、速い――!)

 

 〈八竜槍〉以外で、これほどの使い手に会った経験は、イスズにはなかった。

 久々に、受けに回らざる負えなくなる。だが、問題はない。むしろ好都合だ。

 のど目掛けて来る槍先を最小の動きで捌き、反撃する。

 シキが防御をした瞬間――するりと壁を抜けるようにイスズの槍が軌道を変える。

 イスズがガジン以前の師から教わった槍術。

 

『根っこから、女は男にはそうそう簡単には勝てないんだ。だから、やり方を変えるんだよ。真正面から打ち合う必要なんざないのさ。受け流し、隙を作り、突き刺す。やることはこれだけだ。そら、やってみな』

 

 あまりに適当な説明に面食らったイスズだったが、やってみたらできてしまった。

 理屈ではなく、感覚が鋭いことを師は見抜いていたのだろう。

 無防備な胴体を、槍先が突き破ろうとして――こめかみに悪寒が走った。

 

「……!?」

 

 膝を使い上半身を沈める。さきほどまで頭があった場所を、シキの槍が通り過ぎていた。

 ぶわっと……冷や汗が額に浮かんだ。

 

「ほう……? なにもかも理論や理屈で考え抜く娘かと思えば、勘や本能の方が鋭かったか。これは失敗したな」

 

 ひゅんっと、槍を回した音が鳴った。

 

「わしは、力はガジンに及ばず、速さはロウハに劣る。が、後の先を取るのは得意でな。自信満々に打ち込んで来る奴の鼻っ柱を折るのは爽快だったんだがのう。娘、どうやらシスイ家の者の中では、別の意味で変わり者らしいな。頭よりも体で覚える方に適正があるとは」

「……まさか、あのお二人に勝ったことが?」

「おうさ。ガジンには二回、ロウハには四回勝ってやったぞ。……まあ、その分星の数ほど負けたがな」

 

 イスズは〈竜槍〉を握り直す。言ったことが事実なら、男の実力は皇国でも最上位に君臨する。

 

(どうすれば……どうする、敵の型は、なにをやってくる、他にはなにが)

 

 槍先がわずかに揺れる。無駄な迷いがあらわれそうになり――イスズの脳裏を、ガジンの言葉が過った。

 

『お前の師は、正しい教え方をしたようだ。戦闘時、頭で考えるな、体で槍を振るえ。自らが培ってきた感覚を信じろ。そうすれば、お前はいずれ私を超えるだろう』

 

 揺れが、止まる。幾億と繰り返し、体の髄まで染み込ませた動作の準備に入る。

 真っ直ぐに、シキへと疾駆する。

 

「ぬ……!」

 

 動きの質が変化したことを察知したシキが、迎撃の態勢を取る。

 愚直な一突きが放たれた。

 

「ちっ……」

 

 シキは舌打ちをする。男は言っていた。力はガジンに及ばず、速さはロウハに劣る、と。

 イスズも二人にはまだ遠く及ばない。だが、シキ相手ならば腕力も速力も上回っている。

 ならば、難しく考えることはない。おのれが磨き上げてきた技術を叩きつけるだけで、相手は敗北する。

 趨勢が変わり、シキがじりじりと後退し始める。前に進まぬ者に勝利はない。イスズは勝負の終わりを予見した。

 ――――おそらく、それは油断とは言えなかった。

 イスズの力は確かにシキを越えており、勢いはイスズにある。

 だから、ここから巻き返されるのは――格上の化け物と打ち合い続けて来たシキの、経験からくる差であった。

 

「――な」

 

 後退が止まる。まるで突如として足の裏から根が張ったように動かなくなる。

 ()()()()()()

 

「甘いな、舐めるなよ」

 

 槍の軌道が、見切られ始めた。さっきまで躱していた一撃が迎撃されるようになり、迎撃から起点となる攻撃の出を潰される。

 守勢にならざるおえなくなる。粘り強さが、桁外れだった。加えて――。

 

(この男、私と同じ……?!)

 

 後の先。相手の動きを見切り、体勢が変えられない状態から斬り返す技。

 得意とする分野が被り、同時にイスズは敵の技量の高さにうなりそうになる。

 同じ技術を使い、実力は同等。そうなれば、最後に物を言うのは経験だ。

 まだ槍を使い始めて四年と経っていないイスズでは、埋められないものがあった。

 じりじりと、後退が始まり、ついには大きく飛び退き敵の間合いから離れなければいけなくなった。

 

「その若さで、信じられない冷静さよな。なるほど、これはガジンめが気に掛けるのも合点がいく。わしがおぬしぐらいの歳では、まだよちよち歩きもいいところだったのだが」

 

 肩に槍を当てて、感嘆の息を漏らしていた。汗ひとつとしてかいていない。息も『气』も乱れはまったくなかった。

 イスズは、素直に槍での競い合いの敗北を認める。だが、勝負に負けて、死合にまで負けてはならない。

 腹目掛けてきた槍を下段に打ち払い、大きく飛び退いてさらに距離を取る。

 

(仕方がありませんっ――帝、お許しを!)

 

 〈竜槍〉を用いる、『奥の手』――本来ならば、帝から使用許可が下りねば使ってはならない禁忌の業である。無論、今回は相手がガジンに限り許可が出ている。

 〈八竜槍〉に名を連ねた際、易々と解放してはならないと、先達からきつく言い含められた。けれど、このままでは命を落とすどころか、帝からの勅命を果たすことすらできなくなる。それだけは、避けねばならない。

 体内で駆け巡る『气』を、〈竜槍〉へ注ぎ込む。そして、静かに命じた。

 

「――〈竜化〉」

 

 ドクン……と、脈打つ音が周囲に響く。イスズの『气』に呼応した〈竜槍〉は、赤い血管のような模様を槍全体に浮かびあがらせた。やがて、模様は槍全体に広がると、赤色から深緑色へ変わり始める。

 

「ッチ」

 

 舌打ちが一つ。音源はシキだ。帝の許可もなく、まさか〈竜槍〉の力を解放するなど、予想していなかったのだろう。イスズの、帝への忠誠を含めて考えれば、的外れではない。

 彼の誤算は、イスズ自身が、処断されても任を全うしようとする、捨て身の決意だった。

 

「リュウモ、時間を稼ぐ。合流場所に逃げろ。ああなってしまうと、手がつけられん。長くは持たんぞ」

 

 切迫した様子のシキに、少年もまずいと思ったのだろう。逃げ出す機を窺っている。

 

「もう――遅いッ!」

 

 イスズの姿が、残影を残してかき消える。

 

「っぬ!」

 

 シキの眼は、すでにイスズを捉えられていない。だが、槍同士がぶつかり合い、火花を散らした。

 長い経験からくる、未来予知にも似た技術を使うシキの腕前に、イスズは感嘆しながら、槍を突き出す。

 爆発的な支援を受けたイスズの動きは、人が出す速さの限界点を超えていた。

 〈竜化〉――竜の骨より作り出された槍の力を引き出し、竜が如き膂力を得る。

 名の通り、人の身でありながら竜の力を身に宿す。常人では〈竜槍〉から供給される『气』に身体が追い付かず、自壊してしまう危険極まりない業。

 人の身に余る力を、完璧に制御、統制し、運用する。だからこそ、彼、彼女等は、皇国において〈八竜槍〉を名乗ることを許されるのだ。

 

「オオォォッ!」

 

 シキから、先程まであった余裕が消え失せた。裂帛の気合をもって、槍を繰り出している。

 間違いなく、この一突きを出会った当初にされていたら、イスズは殺されていた。

 だが――。

 

「温いッ!」

 

 今は、違う。イスズの能力は〈竜槍〉から供給される〈竜气〉によって人を超えている。

 当然、力を振るうために超常となった感覚は、必殺の一撃を、はっきりと目に捉えていた。

 槍先を左に逸らし、シキの態勢を崩し、自身の槍を、へし折れろとばかりに上から叩きつける。

 

「ぐぅッ……!」

 

 槍を真横に、頭上へかかげて受け止めた、シキの足元が陥没する。

 〈竜槍〉の助け無しに、限界を超える動きをする彼に、イスズは驚嘆した。同時に、冷徹なまでに勝負の終わりを計算していた。

 ――あと十手。それで、終わりです。

 極限まで高速化した思考が、死合の終了を告げてくる。元より、限界を超える動きには反動が伴う。意図的に身体の抑制を外して、今の動きを発揮できているのだろう。

 タガが外れた、体内で暴れ回る力は、自らの身体を破壊してしまうものだ。

 喉に向かって来た一刺しを、冷静に見極めてかわす。機動力を削ごうと足を払う一撃を、受け止めて弾き返す。

 ――あと八手。

 だからこそ、ある一定の境界線を越えた瞬間、身体は耐え切れなくなり、崩壊する。

 動きが途切れた時が、彼の終わりだ。厳格に定められた限界がある者と、制限と反動が無い者では、どちらが有利かは言うまでもない。

 

「――ッ!」

 

 シキは、苦悶の表情を浮かべる。顔には玉のような汗がいくつも噴き出ては、動く衝撃で離れていく。互いの槍がぶつかり合うたび、彼の終わりが近いことを、雄弁に語ってくる。

 それでも、男は手を止めない。これこそが我が意義だ、と言わんばかりに攻勢を緩めない。

 ――あと五手……。

 男の破滅は、覆しようがない。彼我の戦力差は、圧倒的だ。勝負の天秤は、イスズの方に傾き続けている。

 ――あと三手。

 ゆえに、天秤を傾ける要因は、勝負の外側にしかあり得ない。

 

「シキさん、離れて!!!」

 

 少年の手に、白い筒――笛のような物が握られているのが見えた。

 彼の言葉に、シキは崩壊寸前のところで、後方に飛ぶ。

 嫌な予感が、イスズの首筋に走った。冷たい氷を、肌に近付けられているような、錯覚。

 

(まずい――ッ!)

 

 わけがわからない悪寒に突き動かされるまま、イスズは追撃する。

 全身の力と『气』を使った、最速の一閃。飛び退いたシキの腹に直撃するはずのそれは。

 夜の世界に響いた、甲高い音によって届くことはなかった。

 

「なッ!?」

 

 身体中に虚脱感が駆ける。同時に、槍から供給されていた〈竜气〉が途絶え、消失する。

 〈竜槍〉は、その身を深緑色から白色へ変わらせていた。

 ――〈竜化〉が強制解除された!? 馬鹿なッ!?

 あり得てはいけない事態が、イスズの動揺を引き起こした。

 ほんの一瞬、身体が弛緩する。達人が、その隙を見逃すはずもなかった。

 

「オオォッ!!!」

 

 シキの下から上の軌道を描いた、渾身の一撃。

 槍と槍が衝突した。鼓膜を大きく震わせる硬質な音が鳴る。

 握りが甘くなっていたイスズの手から、槍が弾き飛ばされた。

 ヒュン、ヒュン――と、月光を裂いて、〈竜槍〉が宙を舞う。

 〈竜槍〉が音を立てて地面に突き刺さるころには、すでに決着はついていた。

 

「っ……」

 

 イスズの喉元に、穂先が突きつけられている。まるで、出会った当初のリュウモとイスズの立場が逆転したような構図になっていた。忌々し気にシキを睨みつける。

 

「動くなよ、さすがにこの状態なら、一息でお前の首を刎ねれるぞ」

 

 喉仏辺りに向けられた穂先は、シキの言う通り、あと一押ししただけでイスズの柔肌を破り、骨まで達して命を奪うだろう。

 

「合流場所に行け、リュウモ。他の〈影〉はすべて倒しておいた。邪魔者はいまい」

 

 事態の推移を、イスズはただ見ていることしかできない。己の不甲斐なさに拳を握りしめた。

 

「ガジンさんは、大丈夫でしょうか?」

「わからん。相手がロウハとなるとな……。時間になっても来ないのであれば、奴は置いていけ」

「わかりました。その時は、一人で行きます」

 

 少年の言葉に、イスズはぎょっとした。まさか、たった一人で人が足を踏み入れたことのない北の〈竜域〉へ行こうというのか。それは自殺行為だ。

 

「シキさんは……」

 

 少年は、この後のシキの身を案じているようだった。

 

「気にするな。いまさら殺されようと、どうされようがかまわん。――行け。行って『使命』を果たしてこい。…………できれば、生きて帰って来い」

 

 少年は返事をせず、曖昧に笑っただけだった。背を向けて、目的地へ向かおうとする。

 

「ま、待ちなさい、本当に一人で行く気ですかッ!?」

 

 少年の後ろ姿に、迷いは見受けられない。当然のことのように、走り出そうとしている。

 イスズは、できれば少年を止めたかった。このまま行っても、彼を待つのは死だ。たった一人で〈竜域〉にたどり着けたとしても、その先はない。なぜなら、タルカにおいて最も深い北の〈竜域〉は、そもそも人が立ち入れる場所ではないのだ。

 あそこは、『竜』が支配する領地。人の理は一切役に立たない。肩書も、権威も、血筋も、まったく意味をなさないのだ。

 『竜』を深く知るこの少年が、理解していないはずがない。だからこそ、イスズは止めたいのだ。わかっていないのではなく、わかっていて足を進めているその姿。理性的に暴走しているその姿は、哀れすぎた。

 だが、仮に止めたとして、その後自分に何ができる?

  帝は少年の処刑を決定している。賽は投げられているのだ。

 ならば、ここで彼の歩みを止めても、待っているのは同じ死に違いはない。変わらない未来が待っているのならば、本人に選択させた方がいいのではないか。

 嫌な、煩わしい現実が、イスズの口を閉じさせた。リュウモは、振り返って言った。

 

「おれは、もう行きます。お気をつけて――――おれの眼を、綺麗だって言ってくれて、ありがとう」

 

 笑って、少年は夜の闇の中へ、真っ直ぐに駆け出して行った。

 足音が遠のいていくと、残ったのは静けさだけだった。風が吹いて、天空にある雲が完全に取り払われる。月光が強さを増し、影は色濃くなり、世界は煌々と照らされる。

 そこに、幼い少年の姿は、一筋も残っていなかった。

 イスズは、影の中へと消えた小さな背に、無意識の内に手を伸ばした。なにを言うでもなく、なにをするでもなく、ただ無意味で無価値な行為だった。

 

「わたくしの槍は、力は、言葉は、少年を、止めることすら、できないの……」

 

 途方もない、無力感が心の芯から染み出してきた。それが身体を苛み、追おうとする意志を萎えさせる。イスズは、少年を追えない。

 悔しい。少年を止める、追う、助ける、そのどれもができない、自分の力の無さが恨めしい。情けなさが、自らへの怒りとなって身体を熱くさせた。

 

「あれを止めることは、誰にもできん。帝さえ止められぬのだ。我らごときが、彼の進行を妨げるなど、できようはずがあるまい。あれぞ、天命を受けた者だ。我らはただ伏して、結果を待つしかない平人よ」

 

 天命。シキが言う、天が定めた運命が、少年を突き動かしているとでもいうのか。

 違う、とイスズは思う。あの少年は、天命だとか、運命だとか、そういったものに背を押されているわけではない。

 もし、そんな冷たい無機質な動機でここまで来たのならば――闇の中で涙を流して、震えるはずがない。

 

(あの子は、泣いていた。うずくまって、泣いていた)

 

 影が都を駆けずり回り、少年を探し回っている時、イスズは偶々、声を聞いた。

 絡み合った紐のような道の角に、子供が震え声を必死に押し殺している様が目に入った。

 迷子だろうか、と思って咄嗟に保護しようとして、気が付いたのだ。子供に気配が無い。声は確かに聞こえているのに、目を閉じると、どこにいるかわからなくなってしまいそうな矛盾をはらんだ、おかしな様子。

 この感覚を、イスズは知っている。熟練した『气法』の使い手が、自らの『气』を小さくすることによって気配を消す、『隠气』と呼ばれる技術を使った際に起こる、矛盾した感覚。

 まさか、と思い様子をうかがった。十、十一程度の少年が、時折開く瞼の下にあった瞳の色は――青色だった。

 泣いている少年は、帝が勅命によって連れ帰れと言った者だったのだ。

 この時、イスズはすぐに少年を捕えることができなかった。

 〈禍ノ民〉と呼ばれ、皇国の民から恐れられる者の正体が、暗闇で泣くただの子供だと知った衝撃は、身体を地面に縫いとめるに十分な威力を持っていた。

 子供だ。帰り道がわからなくなって、家に帰れなくなってしまった、幼子。

 

『……はッ!』

 

 泣き声を漏らさないよう、必死に耐える少年を見て、イスズは素早く身を隠した。

 昔、ガジンに「男は女に泣かれているところを見られるのは、何よりも嫌がる」と言われていたからだ。何か、いけないことをした気分になってしまったのだ。

 さっさと出て行って、少年を捕まえればよかったのに、彼の悲しみがこもった声を聞いていると、中々決心がつかなかった。

 ――泣き止んでくれれば、出て行けるのに、と言い訳がましいことを内心に浮かべながら、結局、イスズは少年が泣き止むまで、塀に背を預けていた。……警笛を吹くのも忘れて。

 それで、声が消えたと思ったらいなくなっていたので、大急ぎで少年の進路の先に走って待ち伏せていたのである。

 イスズは、首筋に当てられている刃を気にせず、顔をシキに向ける。

 

「あの少年が、帝のように天命を受けていると、本気で思っているのですか」

「っは、帝とあの子を一緒にするなよ。あの子は、リュウモは一族が連綿と伝えてきた使命を果たそうと懸命なだけだ。それを、まるで別の何かが後押ししている。囚われ処刑される身でありながらガジンに助けられ、私と出会い、今まさに追手を振り切った。そして〈竜峰〉へ向かう。多数の偶然がリュウモを導いている。これを天命と言わず、何と言う?」

 

 少年が、リュウモが刻んできた事実に、イスズは下唇を噛んだ。なんという無慈悲な定め。

 本人の意志などまるでない。彼は、急かされるまま、天命に背を押されて進み続けている。

 これを、無慈悲と言わずなんという。国の人々を守りたいと思い、腕を磨き〈八竜槍〉となったのに、このざまか。子供一人すら救えないのか。

 イスズの顔が、苦渋で染まって歪んだ。

 

(〈竜槍〉よッ! お前は、これでいいのかッ! たった一人の子供すら救えないざまで、このままでいいのかッ!?)

 

 地面に突き刺さる〈竜槍〉へ、内で吠えた。槍は、反応を示さない。「彼の邪魔をするな」――と、突き返された。

 

「〈竜槍〉になにかを期待しているなら、止めておけ。あの子には『龍王』の加護がついている。明らかに格上の相手に牙を向けるほど、槍は我らに従ってはくれまい」

 

 シキの指摘に、イスズは臍を噛んだ。〈竜化〉が強制解除された時、一つの可能性が頭をよぎったのだ。それが正しいことを、今の状況が証明している。

 

「あれは、あの笛は……『龍王』の骨から、作られた物……」

「ほう、その考えにすぐ至るとは。さすが、皇族に勉学を教授する一族の出なだけはある」

 

 ぎり……っと、イスズはおのれの不甲斐なさに吐き気がして……月明かりを巨大なにかが遮った。

 

「あ、れは……黒い――――『竜』?!」

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