「おはようございます、主」
「おはようございます、アーバンカルトス様」
早朝、時計の短針が四時を示した位だろう。
弟のセツナと共に、我らの主であり――お父様である『拳王』アーバンカルトス様に頭を下げた。
今日をもって
背筋は年からは考えられぬほど綺麗に伸びていて、その肉体と相まって百八十程の背丈よりも更に一回り大きく感じる。
顔は皺や染みが増え髪は全て白髪になって、本人も衰えたと言っているが私達は未だにその衰えた主から一本すら取れていないのだ。全力になれば、有効打を入れる事すら難しい。
『元』管理局員最強は、やはり伊達では無い。私としては管理局を止めてくれて嬉しかったのが本音だ。
まあ、当時の研究に関わっていた者達は既に殆ど死去している為、何時までも確執を抱いているのが私の弱さなのだろう。セツナはもう気にしていないらしい。
「昔から言っているが……その、主とか様付けで呼ぶのを、止めてくれないかい? 私達は、家族だろう?」
「ぜ、善処します」
「か、可能な範囲で……」
主からは止めてくれと言われるが、私達は止める気など毛頭ない。命の恩人であり、育て親であり、人の姿には幾分余計な物が付いた異形である私達をさも当然のように家族として受け入れてくれるこの方には、姉弟揃って死ぬまで頭が上がらないと思う。
「なら良いがね。……そんじゃ、行くか」
「了解!」
「御意!」
日課となっている走り込み。この体をもってしても、毎朝早起きしてランニングかそれよりも速いペースで四十キロを走るというのは、疲れる。いや、疲れるどころじゃない。倒れる。
セツナは私より体力が多いから少し余裕がありそうだがそれでもきついらしい。私は走り終わった頃には目を回している。主は論外だ。息切れ一つ起こさないのだ。……本当に、唯の人間なのだろうかと、時たまセツナと議論になったりする。
今だって、私達は片方で三キロはあるような靴を履きながら走っている。これが無ければある程度マシなのだが、主に少しでも追いつきたい身としては取る訳にはいかなかった。
「――――はっ、はっ、はっ、はっ……」
「もう半分か……ペースも上々……よし、今日は何時もより長めに行くかい?」
「ッ……ッ!? りょ、了解! ――――ぃ!?」
「ぎょ、御意! ――――あ」
「あいわかった」
あ、主。申し訳ありません。流石に、肯定の意を示したものの、半ば反射的な物でした……なんて、いう訳にもいかない。並走しているセツナを見ると、失敗したような表情がありありと浮かんでいた。……お前もなんだな。
『姉上……もちますか?』
『すまない……堪えてはみるが、脱落するかもしれない。お前はどうだ?』
『……厳しいです』
『だろうな』
セツナから念話が飛んできた。お互い、もう倒れるのを覚悟しておいた方が良いだろう。そうやって念話を飛ばしている内にも、主はもう今までのランニングがジョギングに見える程のペースで、それこそ疾走しているとしか思えないようなスピードで走って行く。
その時、主の手首に着けていると身に着けているリストバンドと、ジャージを脱ぎ腰に巻いた事で露わになった真っ黒いシャツを見て目が点になった。
……冗談じゃない。
『セツナ……』
『どうしました、姉上』
『主のシャツと、手首』
『それがどう……か……は?』
『私の勘違いでなければ、あのシャツ、十キロ相当あったような気がするのだが』
『確かあのリストバンドは、片方四キロだった気が……我々も、明日からあれを身に付けるのですか?』
『流石に辞退しよう』
『同感です』
ええい! クオン! 折れるな。私はこの程度で折れるような軟な鍛え方などしていないぞ!
姉弟揃って主に追いすがる為に、私達は更にペースを上げた。……これは、本当に不味いかもしれん。
「はーっ! はーっ! はーっ!」
「はあ、はあ、ごほっ、ごほ!」
死ぬ、かと、思った。
これは、不味い。冗談でも何でもなく、人を殺せるような内容だ。セツナも顔を真っ青にして咳込んでしまっている。
私達は今、家の敷地内にある広大な芝生の上で倒れていた。既に、靴は脱いでおいた。セツナも同じようだ。あの靴を履いていては、休んだ気がしなくなる。
主は今この場にはいない。家の中に戻ってタオルとスポーツドリンクを取に行ってしまった。
問題なのは、汗をかいていたが、あれだけのハイペースで何時もよりも長い道程を大して息切れもせずに走り終えてしまった事だろう。問題の意味合いが違うが、大問題だ。
「……アル、タイル」
『お呼びで?』
「何キロ、走った?」
『定日であれば二時間約三十キロの所を、本日は五十キロと少しを二時間と十数分で。……無礼な事を尋ねますが、マスターの主はアレですか。人の皮を被ったロボットか何かじゃないんですか?』
「私も、少し、疑って、いる……けほっ……」
右目に着けている眼帯状のデバイス『アルタイル』と冗談を言い合い、息を整えるのに専念する。セツナの方を見れば、私と同じように腕輪の形をしたデバイス『ヴェガ』と話しながら息を整えているようだった。
そうこうしている内に、主が家からスポーツドリンクとタオルを持って戻ってきた。礼を言ってタオルを受け取り、体を伸ばす。
本来なら走り終えた直後に座ったりすると心臓に一気に負荷が掛かり最悪倒れるか、心肺停止になりかねない。だがそんな事を気にする余裕など無かった為、そのまま仰向けになってしまっていたのだ。
だから、せめてものケアだ。これから行う組手の際に、何処かを攣ったりすれば洒落に為らない。
「よし……十分後に、組手を始めるぞ。いいかな?」
「りょ……了解」
「はぁ、はぁ……御意」
これでは――――これでは、何時に為れば主に追いつく事が出来るのだろうか。あの夢が、現実になってしまうのだろうか。
嫌な考えを振り払って、体を伸ばしつつ休息に努めた。
七分がたった。芝生の上で陸に打ち上げられてから時間が経過した魚のように死にかけていた姉上は、漸く息が整ってきたようだ。私も人の事を言えないが。
かくいう私は体力と純粋な体術には自信はある。だが、魔法を交えた戦いになると姉上に一歩及ばない。お父様――――アーバンカルトス様には、遠く及ばない。
龍と九尾の狐の特質を持っているこの体は、やはり超人染みた力がある。私達は魔法を交えた接近戦を得意とするが、私は体術特化で姉上はどちらでも、と言った具合だ。
アーバンカルトス様も体術寄りだが……別格だ。
人の腕などでは無い。私達のような腕でも無い。本物の極めた一撃が飛んでくる。蹴られれば蹴られた場所が吹き飛んだと錯覚する。
如何にか隙を見つけて攻撃を叩き込もうにも、当たる寸前で避けられ、直後に手痛いカウンターが飛んでくるのだ。
全くもって、勝てる気どころか有効打の一発でも入れられる気がしない。
そもそも隙自体が見られるようになったのがここ数年の事で、微かに覚えている三十代だった頃のアーバンカルトス様と比べれば、やはり衰えている。
「……ヴェガ」
『どうした、マスター』
「あの方……あの方の横に並び立つ事は……私に出来るだろうか?」
『……生きている内には、厳しいかもしれない。レアスキルを使えば、まだ分からないが……』
「そうか……。いや、そうだろうな」
私のデバイスは、正直者だ。だからこそ、ありがたい。嘘偽り無い言葉は、私に深く刺さるが、同時に励みにもなる。
『彼女』に似合っていると言われてから身に着け始めた伊達眼鏡に付いた汗を拭いてかけ直し、気を引き締める。
そうだ、私には夢がある。ちっぽけな夢と笑われるかもしれない。出来やしないと嘲られるかもしれない。だが、既に決めた夢だ。
「よし、もういいか?」
「だ、大丈夫です!」
「同じく!」
昔決めた夢を思い出す内に、三分が過ぎていたようだ。気を引き締めねば。
アーバンカルトス様は先程までの格好では無く、素肌に黒い胴着を身に着けていた。リストバンドも無くなっている。それに素足だ。既にバリアジャケットを展開しているらしい。
「よし、ならバリアジャケットを展開してくれ。組手を始めるとしよう。まずはクオン」
「了解しました!」
私達はバリアジャケットを展開する。姉上は着物に手を加えた可憐に思えるバリアジャケットにボロボロのマフラーをしていた……何時も思うのだが、高町なのはや八神はやて、ヴォルゲンリッターの騎士達二人と守護獣を除くと色々と目のやり場に困るような女性しか居ない気がする。『彼女』や、ジェイル・スカリエッティ率いるナンバーズはその筆頭だ。
……我々の事を慕ってくれるのは嬉しいが、お兄さんと呼ばれるのは少し苦痛だ。実年齢は五十を過ぎているというのに、外面は二十前後から変化していないから、そういうギャップに苦しむときが多々ある。それを理解した上で『おじさん』と呼んでくれるウーノには頭が上がらない。姉上も似たような悩みがあるそうだ。
如何したものか……。
「せぇやあ!」
「ダッ!」
「が!?」
マルチタスクで考えても利益の無い馬鹿馬鹿しい事を考えつつ、同時に組手を見ていたが……圧倒的だった。
姉上の攻撃は速く鋭い。だが、姉上の真価は魔法を交えた多角的な攻撃だ。相手にペースを掴ませず、大きな隙が出来た所に急所を狙って仕留めるのだ。
そして、私達は一応ながら人の上を行く怪物達の遺伝子情報が取り入れられている。故に、普通の人間に比べれば圧倒的に丈夫で、屈強だ。
だが、姉上は既に満身創痍である。
姉上が逆手持ちにした二刀の小刀で斬りかかり、アーバンカルトス様が姉上の顔目掛けて右脚を振り上げ、姉上はそれをしゃがむ事で回避した。
この回避が拙かった。アーバンカルトス様は右膝を勢いよく曲げる事で、姉上の後頭部に踵落としをみまったのだ。ガスッという骨同士がぶつかる音が耳に通る。崩れる事無く体勢を崩し、減速してしまった。
……不味い、あのまま転倒するならまだしも、減速してしまっては――。
隙だらけの姉上にアーバンカルトス様が体全体を大きく振って下からすくい上げるような拳が腹に直撃。僅かに体が浮き上がった姉上に対し、真正面から正拳逆突きが胸部を直撃して――――数メートル程地面と水平に姉上の体が吹っ飛んだ。
……冗談じゃない。あれで、衰えているのだ。
一体どれほどの修練の果てに、あれだけの実力を身に着けたのか。
「~~~ッ! かふっ! げほっ!」
「姉上、そう無理をしないで……」
幾ら衝撃をある程度吸収してくれる芝生であっても、あれだけ勢いよく吹き飛ばされればコンクリートに叩き付けられたのと大差無かった事だろう。だが、姉上の傍に寄ると、自力で立ち上がろうとしていた。私もそうだが、姉上もやはり、大概体が丈夫だと思う。
「ふむ……クオン。何を焦っている?」
口癖に続いて出たアーバンカルトス様のその一言に、姉上の体が酷く揺れた。
焦り? 私が見た限り、そんな様子など微塵も無かった筈だ。それに、体の動きも随分と良かったように感じる。
どこにも、焦りを感じさせる要素は見当たらない。だが、事実として焦っていたのだろう。
「――ッそ、それは」
「確かに、今日は何時もより多めに走った。だが、何時もの組手以上にお前の技のキレが良かったのも事実だ。
だが、そんな鬼気迫る表情で、後が無い訳でも無いのに、急所を極端に攻めてくれば嫌でも何か焦っていたのは見当が付いたさ」
「……ぅ」
「何かあったのかい、クオン」
後が無い訳でも無い。お父様のその言葉に――――――確かな憤りを感じだ。
同時に姉上の焦りに、私は共感めいたものを感じた。
そして、嫌でも分かった。その焦りの正体が。
アーバンカルトス様――いえ、お父様。申し訳ありません。その焦りは、私達姉弟が抱いている共通の感情です。
「…………ここ最近夢を、見るのです」
「……夢?」
「主が、お父様がお亡くなりになる……夢を、見るのです……っ!」
姉上は泣いていた。
初めて見た。姉上は血の繋がりは無くとも弟である私の前でも、ましてやお父様の前で涙を見せた事なぞ、一度も無かった。
だが、影では一人泣いていたのかもしれない。お父様がいなくなってしまう。大切な人と、もう二度と会えなくなってしまう。
そう考えるだけで、心が痛む。
しかし、姉上の――私達の心を支配している感情はきっと、もっと違う部分だ。
姉上は俯きながら、バリアジャケットの一部であるマフラーで顔を隠すようにしながら、語った。
「お父様に会えなくなってしまうのは、辛いです。それに、悲しいです。でも、仕方が無い事だと割り切っています。家族とは、いつか必ず会えなくなってしまう。でも、でも……それ以上に! それ以上にお父様の力に追いつく事が出来たと! お父様に証明出来なくなってしまう事が、私は何よりも苦痛なのです!」
「クオン……」
「私も、同じく。せめてお父様が生きておられる内にその力に追いつきたい。かする程度でいい。一瞬だけでもいいから追いつきたい。それが我々の、貴方の子の願いであり、私達に出来る恩返しだと、考えています。だから、無礼を承知で言わせて頂きますが、先程の後が無い訳でも無い、というのは少し……頭にきました」
「セツナ……」
お父様は大層驚いた顔をしていた。無理も無いだろう。私達はあまり、我が儘というかそういう意思表示を大きくすることはめったにない。
あったのは、私達を鍛えて欲しいと申し出た一度きりだった。
数分間の沈黙が場を支配する。姉上は未だに泣き続け、私は怒りを隠しきれそうにない。何時かティーダ・ランスターやクロノ・ハラオウンから呼ばれた『軍師』の名に相応しくないだろうが、関係無かった。
お父様は乱暴に自分の頭を掻くと、目を閉じて不器用な笑顔を私達に向けた。
「……ふふっ。そうか、そうか。いや、親失格だな、私は。自分の子供が考えている事すら、碌に頭が回らないなんて。――クオン、セツナ。明日からの朝の組手において、一切の手加減を排する」
『――!』
「そして、組手の際のお前達のレアスキルの使用を許可しよう。だから、力を得たという事を私に証明したいならば――――私に一撃でも、入れてみせなさい」
「――……了解!」
「――御意!」
ある管理外世界の物語の姫が出した無理難題のように感じるその言葉に。
私達はきっと、この上なく救われたのだろう。
「さあクオン、交代だ。セツナ、掛かってきなさい。私に、お前の力を証明してみせなさい」
「御意――セツナ・ルドスリゾティ! 推して参る!」
結果から言って、私達は惨敗した。私達のレアスキルを使って、負けた。
でも、まだ間に合う。主が存命している内ならば、幾らでも間に合う。
だから、私達は当面の目標を決めた。
『絶対に、