AKIRA―5
「・・負けました・・」
ヒカルがうつ向いて息を吐きながら言った。
ギャラリーの一般客から何ともいえない声が洩れ、後方で検討していた緒方とアキラは、自分達の盤面を睨み付けて口を結んでいる。
棋院職員が申し訳なさそうに、サロンの閉館時刻が過ぎている事を告げに来た。
一般客達は好き勝手な感想を述べ合いながら散り、緒方達を手伝っていた少年も、「やべ! こんな時間!」と、慌てて挨拶して帰って行った。
サロンに残っているのは、向かい合って座るヒカルとカヤコ、後ろの机で検討している緒方とアキラの、四人。
桑原は、事務所へ雑談に行ってしまって不在だ。本当にこの勝負の行方に興味が無いようだ。
緒方が職員に、あと少しだからと頼み込み、職員は承知して、別の場所の仕舞い仕事をやりに行った。
「あの、カヤコさん、最後の挨拶をしないと終われないの。『ありがとうございました』って」
ヒカルが苦笑しながら、貼り付いたようにじっと座っているカヤコを促した。
「えっと、あいさつ出来ないです」
「えっ」
「これ、終了のあいさつしちゃうと、ヒカル君が負けた事になってしまうんでしょ?」
「うん、そうだね」
この期に及んで死活がどーたら言い出すんじゃないだろうな!
緒方とアキラは、自分達が並べていた盤面を、今一度なめるように見渡した。
自分達だって、白のヒカルはこの先どうしようもないと、結論付けた所なのだ。いや、彼女がミスをしたら有り得るのだが、ボケっとした本人とは裏腹に、配石は小憎らしい程に隙が無い。
「さっき私が反則したんだから、私の負けです。そこん所をちゃんと決めておかないと、終われないです」
そっちかよ・・! 生真面目っていうか、意地っ張りだな。
緒方が口を挟んだ。
「『置き直し』は反則だけれど、相手が容認して次の石を置いてしまえば、勝負続行になるんだ。この場合は、進藤が続けたがったんだから、やはり進藤の負けになる」
「あぁー・・」
カヤコが小さい悲鳴をあげ、情けない顔で緒方を見る。
何だ? 何か困る事があるのか?
「カヤコさん、いいよ、俺の自業自得なんだから気にしないで。賭けに応じたの俺なんだから」
アキラが音を立てて立ち上がった。
「プロの癖に賭け囲碁に乗っただと?! しかもこんな石もろくに置けない素人丸出しの女性相手に! 恥ずかしくないのか、君はっ!」
「その素人にボコボコにされた所なんだから、それ以上言わないで。息の根止まるから」
「まあまあ、アキラ君、落ち着いて」
緒方がこの日二度目の台詞を唱えて、どうどうとアキラを押さえる。
「賭けったって、現金じゃないだろ? いくら進藤でも、その辺はわきまえてるだろ? いくら進藤でも」
言いながらカヤコを見ると、彼女は眉を八の字にしたままうなずいた。
なるほど、どうも彼女が対局に乗り気でない感じだったのは、これが原因だったのだな。
多分、進藤が負けるとは思わないで始めたのだろう。
それが、思いの外進藤がヘタレだったから、困っちまってるんだな。
情けねぇ男だなっ、まったく。
「で、何を賭けたのだ?」
アキラが、まるで聞いて当たり前みたいにヒカルを問い詰めた。
「んーと、『負けたら何でも言う事を一つ聞く』って奴」
「はぁっ??」
そんなおままごとのような戯れに、閉館時間過ぎて付合わされている僕や緒方さんや職員さんの身にもなれっ。
「ごめん、塔矢、もうちょっと待って。ね、カヤコさん、それを渡してよ。さっき書いた奴」
見ると、二人の手元に、折り畳んだ紙ナフキンがある。
対局前にお互いに命令を書いて、勝った時に相手に渡す取り決めだったのだろう。
「進藤、とっとと」
「あの・・!!」
カヤコが、自分の方を向いて大声を出したので、アキラはビックリして止まった。
「貴方は、ヒカル君の、友達ですか?」
「????」
「大切な友達ですか?」
「あ―……」
そんな、今、何故それを聞く? って質問を、眉根を寄せて迫るように聞かれても。
そもそも、『大切な友達』とか恥ずかしい単語、使った事もない。
「……ただの友人だ」
「友達じゃなくて友人だ、って事ですか?」
「そうだ、うん、好敵手と言ってもいい」
「うわっ、塔矢、うれしっ」
「黙れ」
カヤコは非常に満足した顔をして、今度は緒方に向いた。
「緒方さんはヒカ……」
「友達ではない! しいて言うなら、希少動物観察員だ!」
間髪入れない答えを聞いて、カヤコは安心顔になり、ヒカルに向き直って、姿勢を正して頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あ、うん、ありがとうございました」
それからようやく紙ナフキンをヒカルに渡し、自分は澄まして石を片付け始めた。
「で、進藤、女王様の命令は何なんだ?」
「・・・・」
ヒカルが紙ナフキンを開いて停止しているので、緒方とアキラは両側から覗き込んだ。
<大切な友達に、秘密にしている事を、告白する>
「・・・・」
アキラはしゃっくりしたみたいな顔になり、緒方は呆気に取られたのち、クックと肩で笑った