AKIRA―3
「「「あっ」」」
対局現場で、ヒカルの声が、周囲のギャラリーとハモって上がった。
「あ・あ・ああ~~・・」
続いてギャラリーの悲鳴。
「どうした?」
緒方とアキラがそちらに駆け寄る。
ヒカルが顔色を無くして盤面を見つめ、周囲の者も口を開いて止まっていた。
カヤコだけが不思議そうにキョロキョロしている。
「あの女の子が、一度置いた石を『あ、間違えた』って言って置き直ししちまったんだ」
「はあっ?」
「お嬢ちゃん、それやったら反則負けになっちゃうんだよ」
「あらら、そうだったんですか」
そうだったんですかじゃないだろっ!
「はあ……残念でした。あっ、どうもお待たせしまして」
待ち人に気を使ってか、カヤコは急いで石を片付け始めた。
「待って待って!」
ヒカルが立ち上がってその手を抑える。
「今の対局、最後までやりたいんだ。置き直してもいいから、続けさせてよ」
「でも……」
カヤコはバラバラにしてしまった盤面を困った顔で見つめる。
「復元出来るから大丈夫、ちょっと待ってて」
ヒカルがサクサクと石を戻し始めた。
「はああ、凄いんですね」
と、腰を伸ばしたカヤコが、いきなり緒方とアキラの方を振り向く。
「さっき聞こえて、ちょっと気になりました」
「??」
「その『現れた瞬間強かった』人のお話」
「はあ」
打っている最中、こちらの会話なぞ聞いていたのか。
「その『sai』って人の実態とか、そんなに気になるものなのでしょうか」
「……」
「そこに出て来るその前に、大層な努力をして来た人。それで済ませてあげられないのですか?」
「でも、囲碁は独りで努力するだけでは強くなれないんです。強い者の中で切磋琢磨しなければ」
アキラが切り返し、緒方も後に続ける。
「囲碁の世界はシンプルな、尖った三角垂の山なんだ。
上に行く程狭くなるから、登って行く途中でも、必ず誰かの目に止まる筈。
それが、誰も知らない強者がいきなり山頂に現れたから、騒ぎになったんだよ。
そして俺達は、自分が強くなる為にも、彼が強くなった道筋を知りたいんだ」
分かりやすい説明に、周囲の者もうんうんとうなずく。
「強くなり方なんて、そんな一本道じゃないのに」
この素人娘がまだ言い返して、ギャラリーの中に不快な顔をする者も出た。
だがヒカルは、石を並べながらちょっと止まった。
「トモダチに聞いた話をするわ」
えっ? 今からっ? という周囲にお構いなしに、カヤコは話し始めた。
「トモダチは、囲碁が大好きで大好きで、でも山に住んでいたから、打つ相手がいなかったの」
おいおい、これ、どうするよ・・という空気だ。
「ある日、里の小さい子供に出会って、その子に囲碁を教えたの。
山の暮らしで碁盤なんか無いから、河原の土に19本の線を引いて、白と黒の小さい石を拾い集めて、それで囲碁を打ったの。トモダチはとても強くて、子供はぜんぜん勝てなかったけれど、それでも子供も囲碁が大好きになってくれて。
里から毎日通って、毎日毎日、二人だけで、夏も冬も、河原で囲碁を打ち続けた」
色々突っ込みどころがあるが、悔しいけれど妙に引き込まれる話で、ギャラリーも黙った。
「子供はちょっとづつ強くなって、最初にハンデで置いていた石の数も減って行った。
そうなると楽しくて、何とかトモダチに勝ちたいと、新しい打ち方をどんどん考えて、トモダチをびっくりさせた。トモダチの方も負けるもんかと、その度に対抗する方法を見付けて意地でも子供を勝たせなかった。
そうやって二人は、多分それなりに強くなって行ったのだけれど、何せ二人きりだから、自分達がどのくらい強いのか、分からなかったの」
ボケッと聞いていた緒方も、少し身を乗り出す。
「それでどうなったの? 二人で山を降りて腕試しにでも出たか?」
ギャラリーの一人が突っ込みを入れる。
「ううん、山を降りたのは子供の方だけ。トモダチを一人残して、『シューダンシューショク』って奴で、汽車に乗って、遠くに行ってしまった」
ある程度の年配者が真顔になる。
ヒカル達若い世代はピンと来ていない感じで、緒方はギリその言葉だけは知っていた。
「それでもあの子の故郷はここだから、いつかきっと帰って来てくれると信じて、トモダチは河原で石を並べながら待っていたの」
「それで、その子は帰って来たのか? 盆暮れの藪入りとかあるだろっ?」
ギャラリーの老人が、真剣な顔で目を潤ませながら聞いた。
「帰って来たわ」
老人はホッと胸を撫で下ろした。
「囲碁の世界で成功して、大層立派になって、沢山の人に出迎えられて汽車から降りて来た」
「おお」
ハッピーエンドな方向で、他の者も声を上げた。
「河原では、石をゴトゴト並べていたけれど、ちゃんと燕みたいに綺麗な打ち方が出来るようになって。その姿を早く見せてあげたくて、その子は、山に急いだの」
「うん、うん」
「でも、あんなに毎日通った河原もトモダチも、見付けられなかった」
「ど、どうしてだよ」
「その子は強くなりすぎちゃったの」
「なんだよ、それ」
「大人の世界で打つようになったら、もう、楽しいだけで打っていた子供時代の河原には戻れないの。トモダチの事も必要じゃなくなって、それで見えなくなっちゃった」
うわぁ・・そういうオチか・・って顔の一同。
「という訳で」
カヤコは緒方とアキラに向き直った。
「そういう『強くなり方』もあるって事です。思いも寄らない方法で強くなった人は、案外その辺にゴロゴロいるのかもしれないわ」
緒方は横目でそっと隣のアキラを見た。
彼の事は赤ん坊の頃から知っているが、ここまで困り果てた顔を見るのは初めてかもしれない。
「その『sai』という人は、トモダチと一緒で、ただただ囲碁が打ちたかったのではないでしょうか。だったら、そう……子供みたいな心で、ただ打ってあげればよかったんだと思う」
黙って石を並べていたヒカルが顔を上げる。
「準備出来た。さあ続きを打とう」