ササの葉が揺れ、ざわざわと音を立てて風の存在を主張している。
「ねえ。賢介は何を書いたの」
山村さんはそう言って、ぼくの顔を覗き込む。心臓の鼓動がやけにうるさくて、ぼくはにやけそうになる口元を咳き込むことで誤魔化した。その距離感はどうしても慣れることができない。むしろ付き合う以前より、どぎまぎしているような気さえする。
「いやそんな大したことでは」
ぼくは手元の短冊をあわてて裏返す。見られて困ることが書いてあるわけではないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。夕暮れの教室で、あれだけこっぱずかしい告白をしたにもかかわらず、ぼくのメンタルは相変わらず貧弱なままだ。あのときはどうしてあんなことを言えたのか、いまになってみると全く思い出せない。
「大したことでなくてもいい。わたしは賢介が何を願うのかを知りたいの」
山村さんはそう言って、ぼくの短冊に手を伸ばす。ぼくは慌ててそれを鞄に突っ込む。
「恥ずかしいから、すまない」
山村さんは少し不服そうな顔をしたのち、ハッと思い至ったかのようにこちらを見た。
「ごめんなさい。確かに考えてみれば七夕のお願いはとても個人的なことだし、それを知られたくないと思うのも当然だった」
「いやその、別にそんな大事では」
「君の見られたくないものを無理に見ようと踏みこんで、本当に申し訳なかった」
そう言ってぼくの目を見つめる山村さんの面持ちは沈痛で、そんな顔をされるとぼくの方がかえって申し訳なくなってしまう。ぼくは彼女に悲しい顔をさせて心が痛まないほど冷血漢ではないし、だからその顔はひどく堪えた。
しばし逡巡ののち、ぼくは鞄から少ししわくちゃになってしまった短冊を取り出して差し出した。
「笑わないでくれるなら、構わないよ」
こんな馬鹿げたやり取りさえも、ぼくにとってはどうしようもなく幸せで愛おしい。そう思えることを、ぼくは他の誰でもない目の前の山村さんに心から感謝している。
ぼくらの感覚は、交わることができないとしても。
少し嬉しそうに、同時に少し申し訳なさそうに、山村さんはぼくの短冊を手に取った。
「気恥ずかしくて仕方ないけれど」
鋭く息を飲む音が聞こえて、それはぼくではなく山村さんのそれだ。
山村さんの手元にある短冊には、こう書いてある。「アイと幸せに、ずっと一緒にいられますように」と。
ところでアイは何を書いたの。と、そう言いかけてぼくは言葉を繋げなかった。山村さんの顔は、さっきとは比較にならないほど沈痛に歪んでいて、その体は小刻みに震えている。
「ごめんなさい」
山村さんの絞り出すようなその声は、自分を責めているように聞こえた。
震える手で差し出された山村さんの短冊には、「良い一年でありますように 山村アイ」とだけ書かれていた。
「わたしは賢介とは違う。きっとわたしがここに書くべきだったのは、賢介のように、賢介と一緒にいられることを願うべきだった。きっと。なのにわたしは、わたしのことを、毎年と同じようなことしか書いていない。それはわたしが、わたしが」
どうやって声を掛けるべきか、無数の候補が脳裏に浮かんでは形を結ぶことなく消えていった。
山村さんは人格アップデートを行っていない。それはぼくらの選択だったし、正しかったかどうかはわからないけれど、ぼくはそれを正しいことだと言い張るつもりだ。ぼく自身が選んで決めたそれは答えだから。けれど、すなわちそれは、山村さんが通常の意味での恋愛感情を持たないことを意味する。
「わたしは賢介を、愛していないのかもしれない。わたしは何もわかっていないのかもしれない」
「違う」
ぼくの声は震えていなかったはずだ。
「それはアイがぼくを愛していないからではない。ただ、誰でも、何かを失念することはよくあることだから」
山村さんは、アイは、きっと自分を恐れているのだ。それは素朴な善性の表れであるようにぼくには思える。
「それは誰にでもあることで、アイの性質とは関係ない」
何かを持たない者は、その不足を恐れる者は、しばしばすべてをその不足のせいにしてしまう。けれどそれは必ずしも正しくない。不足には範囲があり、範囲外の失態の原因までその不足に求めてしまえば苦しくなる。
「短冊に自分の名前がなかったことでぼくが悲しむと思うなら、ぼくを誤解している。ぼくは君とこうして笑いあえるだけで、この上なく幸せなんだから」
山村さんはぼくの顔を見て、そうして少しだけ笑った。
ぼくらはきっと、いまのようにあろうとする限り、これからもずっと苦しみを抱えていくのだろう。プラトニック・ラブと気取った言い方をしてみて、歪んでいることに間違いはないのだから。歪であることは苦しみを伴う。けれどそんなことは初めから知っている。決断を下したあの日から、ぼくはそのように生きると決めた。
思い出せ植田賢介。お前が惚れたのは、あの凛として気高い山村さんの在り方だ。
「短冊を飾ろう。アイにとって、幸せな一年であってほしいから」
歪なぼくらは傷つき進む。ぼくらの在り方を損なわぬように。何度すれ違っても、その度に議論してすり合わせて理解を以て繋がるのがぼくらの在り方だから。
ササの葉が揺れ、色とりどりの短冊には誰かの願いとぼくらの願いが記されている。
山村さんの顔は泣きだしたくなるくらいに綺麗で、ぼくはこの上なく幸せだ。山村さんが幸せかどうかを知ることはできないけれど、そうであってほしいと願っている。その幸せをぼくがもたらすことができたなら、それに勝る喜びはないとも思っている。
読んでくださった方、ありがとうございました。