楽園爆破の犯人たちへ 求   作:XP-79

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16. 大丈夫だ、安心しろ

 

 

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 

 

 迷子になった少年のようにジェレミアはルルーシュを掻き抱いて視線を彷徨わせた。白い皇帝服の右胸が血に染まっているルルーシュの有様は12年前に遭遇した謎の侵入者と気持ちが悪い程によく似ている。そのせいか、6歳の幼いルルーシュの姿がちかちかと蛍光灯のように瞼の裏で点滅して存在を主張していた。

 自分はどこで間違った。

 胸に手を押し当てて圧迫するも出血は止まらない。上手く酸素が回っていないせいで顔色は白と紫が混在した網目模様に変色している。絞り染めされた布のようだ。

 ジェレミアが持つ戦場の経験は、ルルーシュはもう長くは無いと告げていた。助けを求めて彷徨わせた視線の先にはルルーシュの実父母と彼らの騎士しかおらず、全員がルルーシュの敵だった。

 全世界の存在がルルーシュが痛めつけられているのをにたにたと嘲笑っているように思えてならない。

 そうだ。いつだってそうだった。いつだって世界はこの人を陥れて、弄び、決して放っておいてはくれない。この人が9歳の時からずっとそうだった。

 

 唇が寒気を逃がすようにぶるぶると震えて息を吐く。冷静になれ。ルルーシュのために出来る限りのことを為せ。

 遺伝子の螺旋のように渦を巻く集合無意識を懇願するように見上げるも応える声は無い。無情に矮小な人間を見下げて上へと昇っている。昇った先に何があるのかは見えない。

 もしこのままルルーシュが死んでしまったらあの中に取り込まれることになるのだろうか。そうすればもうルルーシュは酷い目に遭うことはなくなるのだろうか。脳裏に浮かんだ考えがじくじくと膿むように苛む。

 

 誰よりも長く、誰よりも近くでルルーシュを見て、護ってきた。幾度も理不尽な目に遭い、その度に自他の血を流す姿は痛々しくてならなかった。ルルーシュは元来心優しく繊細な少女だったのだ。それが今では瞬き一つせずに人を殺すことができるようになった。

 もういいだろう、と思う。ルルーシュがゼロを辞める前からジェレミアはそう思っていた。どこか穏やかな土地で、命を奪ったり奪われたりしなくても生きていける普通の生活にこの人は戻るべきだ。そう口にしようと何度も思い、しかしそれをルルーシュが望まないと知っているからこそ口を噤んでいた。

 浅はかだった。嫌われようと憎まれようと真っすぐに口に出して言うべきだったのだ。カレンのように。

 ナナリーが去る前にそう言っていれば今もこの人は平和に生きていられたかもしれない。口に出しても無駄だと最初から諦めていた。

 自分とルルーシュは違う存在なのだから、口に出して喋る必要がもっとあっただろうに。

 

 ルルーシュを掻き抱くジェレミアを前にしてマリアンヌは肩を竦めた。大輪の薔薇のように艶やかな微笑は娘に剣を突き立てた後だというのに微塵も損なわれておらず、氷漬けの仮面のようでさえあった。

「そんなに悲しまなくてもいいのに。今や死は一時の別れに過ぎないものなんだから。すぐにまた会える―――あなたはルルーシュと同じものになるの。死んで一つになるのも究極の愛じゃない?」

「………」

「……返事をするのも嫌?あなたはあんなに私が好きだったのにね。ま、12年もの時間があれば好きな人ぐらいコロコロ変わって当然だけど。意識は時間と共に簡単に変容するものだから……そして貴方の意識にもう意味は無いの」

 五月蠅い女だ。今やマリアンヌの全てがジェレミアの癪に障った。ルルーシュに似た黒髪と艶やかな容姿さえ汚物のように見えた。

 

 意識を失ったルルーシュを抱きしめる。肉体から離れたルルーシュの意識はどこにあるのだろうか。少なくとも目に見えるものではあるまい。

 集合無意識に目を向けると空へと上がる速度が緩やかになったような気がした。

 目の錯覚かと瞬きをするが、見間違いなどではなく集合無意識は戸惑っているように眼球や触角を振り乱している。迷子の子供のような仕草であった。

「貴方は現実世界に残された肉体がみんな死んだ後にギアスキャンセラーを使うようになっているのよ。肉体は負荷がかかり過ぎて壊れて死んじゃうでしょうけど、死んでキャンセラーから解放されたあなたの意識は集合無意識に取り込まれるわ。そうなればあなたはルルーシュと一つになるの」

 夢見るように滔々と告げられた言葉が集合無意識へ向けていたジェレミアの視線を引き戻した。それは後だ。

 

 マリアンヌは集合無意識に取り込まれれば全ての意識は無条件で幸せになれると思い込んでいるようだが、それで全てが円満に解決するとはとても思えなかった。

 そもそも他者と一つになるという状況が全く理解できない。

 誰だって自己は自己として、他者とは別のものとして確立している。自己と他者の間には超えることのできない境界があり、人間は自己の境界の内側にしか存在できないのだ。

 

 人間がたった一人で生きていくには世界はあまりに理不尽で、寂しい。それはなんとなく分かる。自分を理解してくれる人間が誰もいないというのは不幸なことだ。そして自己を誰かが完全に理解してくれることなどあり得ない。

 人間は根本的に孤独だ。いくら言葉を尽くして、体温を擦り合わせようとも、性交しようとも、子供を作っても、一つにはなれない。自分は自分しかいない。誰かに自分を理解して貰いたいという願いは生涯叶わない。

 だから自分がルルーシュを完全に理解することも永遠にありえないだろう。集合無意識に取り込まれない限りは。

「――――でも私は嫌です」

 血の気が引いているルルーシュの頬を撫でる。触っても境界から溶けて一つになることは無い。どうしてルルーシュがC.C.から無理やりにコードを引っぺがして生き延びようとしてくれないのか理解できない。

 でもそれで良いのだ。ジェレミアにはルルーシュを完璧に理解することは出来ない。完璧どころか半分も理解できていないのではないかと思う。そしていつか理解できるようになるとも思えない。だからこそ愛おしい。

 

 集合無意識のうねりが止まった。

 空気がぴんと張りつめた気がして見上げると、上にばかり進んでいた集合無意識が完全に静止している。側面に浮かび上がる様々な生物の表情も凍り付いたように身動きを止めており生々しい彫刻のように見えた。

「……あら?」

「――――集合無意識よ、どうしたのだ」

 螺旋状の柱のような集合無意識へシャルルが歩み寄る。様子がおかしいと掌にコードの赤い鳥を輝かせて手を伸ばした。

 

 巨大な亀裂が集合無意識に走った。目を見張る。

 マリアンヌもシャルルもクレバスのような裂け目に目を取られていた。完璧な彫刻に傷が走ったような取り返しのつかない悲哀と驚愕が瞳に走っていた。

 浮かべていた秀麗な笑みを落としたマリアンヌが顔を顰める。

「神が、何?どうして、」

「これは……神が怒っているのか?いや、集合無意識に怒りなどある筈がない。神は感情に揺り動かされるような未熟な生命体ではない」

 シャルルの言葉を否定するように裂け目は蜘蛛の巣状の罅割れを肥大化させた。生々しい質感を持っていた螺旋は罅割れを中心として灰色の石に材質を変える。

 ガラスが砕けるような音を響き渡らせて罅割れは進行していく。

「―――――ク、」

「ルルーシュ様?」

 薄らと瞳を開いたルルーシュの口元に瞠目したジェレミアは耳を寄せた。同時に覆い被さって頭上から降ってくる集合無意識の欠片からその身を庇う。

 いつもの捻くれた、自身に満ち溢れた表情を瞬間浮かばせてルルーシュはくはっと嗤った。悪戯ばかりする子供を窘めるような愛おしさが混じった口調だった。

 

「ああスザク、やっぱりお前か」

 

 閉じられていた瞼をこじ開けて体を起こす。咄嗟にジェレミアがその体を支えた。

 顔色は死人のように青白いままだったが体には僅かながら活力が取り戻されているようだった。集合無意識が来した異常のおかげで意識が取り戻されたのかもしれない。だがまだ呼吸は荒く、全身に網状皮斑が走っている。

 ジェレミアは傷口を抑えながら集合無意識の亀裂へと注がれるルルーシュの視線の先を共に見る。

「何が起こっているのでしょうか」

「分からん。あの馬鹿の、やることは、大抵俺には想像がつかんっ」

 灰色の彫像に一際大きな亀裂が走った。そこから腕が生える。目を見張る程に鍛えられてはいるが細長く伸びる腕はどう見ても人間のものだ。

 腕は無理やりに亀裂をこじ開けるように彫像を押しやり、頭を隙間から抜け出させた。そこから肩をねじ込んで胴体までを引きずり出し、両足を亀裂にかける。その様子は赤子が必死になって母体の膣から生まれ落ちようと足掻いているようだった。

 

 生まれ落ちたのは青い騎士服を着た十代の青年だった。瞳は陰影が混じる碧色に煌々と輝いていた。

 両足で集合無意識の残骸を蹴って宙に飛び上がる。人間とは思えない跳躍力だ。サイボーグであるジェレミアでさえあれ程の身体能力は無い。

 青年の容姿は年齢の割に幼げで仔犬のような愛らしさを残しておりジェレミアもよく見知った顔つきをしていた。だが彼の表情はここ最近の陰鬱さを欠片も残しておらず6年前の少年めいた明快さに満ちていた。

「枢木、」

 スザクは青いマントを体に纏わせるように回転しながら音も無く着地する。視認できない速度で抜き払った剣先はシャルルに向いていた。

 咄嗟にビスマルクがシャルルの真正面に立って剣を振りかぶる。しかし次の瞬間にはビスマルクの首と胴が離れていた。

 噴き出した血が周囲に飛び散るがスザクの騎士服には一滴の血も付いていない。石畳を抉るような速度でスザクはシャルルへ向かって走る。

 

 今や死という概念に意味は無いと知っていても、戦友が目の前で殺害されるというのは気分が良いものではない。

 軽く眉を顰めたマリアンヌが迎え撃とうと剣を振りかぶる。だが一歩踏み出す前に足を止めざるを得なかった。

 忌々し気に足元を見る。妹に似た濃いストロベリーブロンドを振り乱したコーネリアが足首にしがみついていたのだ。歯を剥き出しにした鬼気迫る表情で両手の爪を白い肌に突き立てている。爪には血が滲んでいた。死んでも離しはしないという決心が顔面に浮かんでいた。

「離しなさいコゥちゃん。ユーフェミアに会いたくないの?」

「―――ユフィは死んだ、もういない。そうだ、死者は生き返らない……っ」

 

 それでいいんだ。

 

 嗚咽するように吐き出した言葉が終わる前に、マリアンヌは振りかぶった剣を足元に振り下ろした。

 コーネリアの胸元が血で染まる。しかし足に縋りついている10個の爪は肌に突き刺さったまま離れない。

 うっとうしそうにマリアンヌはコーネリアの手首を斬り落とした。ぱっと血が散り、甲高い絶叫が鳴る。手首だけになっても足に纏わりつく執念を無造作に振り払う。

 毬のように飛んで行った手首の向こうに立つシャルルを見ると、既にスザクはシャルルの目の前まで迫っていた。

 

 ビスマルクの血糊が残る剣先が煌めく。後ずさりしたシャルルは自身の腕を背中に隠そうとしたが、スザクの方が遙かに早い。

 スザクの剣は過たずシャルルの手首を両断し、切断面からは鼓動のリズムに合わせて血液が噴出した。地べたが真っ赤に染まりシャルルの膝が崩れ落ちる。シャルルが纏う青い皇帝服に血が飛び散って黒く変色した。

 斬り落とされた手首が血で滑る地面にぼとりと落ちる。痛みのあまりに零れた呻き声を無視してスザクはコードが宿る手首をルルーシュの方向へと蹴り飛ばした。

「ジェレミアさん!」

 サッカーボールのように手首が飛ぶ。手を伸ばしたジェレミアを遮るようにマリアンヌが走り出そうとしたが、足首を捕まえる力にバランスを崩し、歩みを止めざるを得なかった。

 

 足元を見下ろしたマリアンヌは薔薇のような容姿から血の気を引かせて眉間に青筋を盛り上がらせた。驚愕とも憤怒ともつかない形相で、血の気が引いて蝋のようになった肌とは対照的に真っ赤な唇を打ち震わせる。

「っ、いい加減にしなさいコーネリア!!!」

 両手首から血を噴き出しながらコーネリアは歯茎を剥き出しにしてマリアンヌの足首に噛り付いていた。

 芋虫のように這いつくばり、開ききった瞳孔は真上から見下ろすマリアンヌへと一心に向いている。瞳にはマリアンヌでさえ背筋を震わせずにはいられない程の化け物染みた執念が燃えていた。

 噛みしめた歯は白い足首の皮膚を食い破り、滴り落ちる血がコーネリアの舌を濡らしていた。

 生まれてきてから一番不味い味のように思われた。錆びた鉄に腐った野菜を振りかけたような味だ。マリアンヌには似合いの味だろう。

 

 頭上から剣が空気に擦れる音が聞こえてコーネリアは視線をルルーシュに向けた。手首を受け取ったジェレミアはルルーシュの首元へコードが光る手首を押し当てている。

 露わになった首元と胸に繋がるラインは柔らかで、胸には微かな膨らみがある。彼の、彼女の肌の白さはユーフェミアに似ていた。それに華奢な体の線も。視界が滲む。

 どうして気付かなかったのだろう。

「妹だったんだな―――そうか、」

 最後に護れたか、私は。妹を。

 コーネリアは深く最後の息を吐いた。

 

 

 

 ルルーシュの首元に赤い鳥が飛ぶ。視界に映る全てを嘲笑うように口元を引き上げて、ルルーシュはジェレミアの肩を借りて立ち上がった。

 傷の修復はまだ済んでいないものの体を覆っていた倦怠感と寒気は既に治まっている。コードとは凄まじいものだと再認識する思いだった。

 首元を赤く光らせるルルーシュにマリアンヌは無表情で斬りかかるも、スザクがその背中を蹴り飛ばす。地面を転がり体を石畳に打ち付け、ごほごほと息を吐くマリアンヌへスザクが追撃に走った。

「ジェレミア卿、シュナイゼル殿下にギアスキャンセラーを!」

「シュナイゼル殿下?しかしどこに、」

「僕の中に!」

 そのままマリアンヌと人外染みた速度での攻防を開始するスザクに、ジェレミアは意味が分からないとルルーシュを見た。ルルーシュは崩れ落ちる彫像と化した集合無意識を見上げた。

 それはもう形だけしか残っていない神の残骸だった。生き生きとした意識の煌めきは何一つ残っていなかった。

 

 はっとスザクへ視線を向ける。その姿はルルーシュが知るスザクのままだ。さらに正確な所はルルーシュにも理解は出来ていない。

 だが生き生きとしたスザクの姿にルルーシは高らかに響く砲弾のような声を出した。

「あいつが集合無意識だ!シュナイゼルの意識があそこにあるんだ!ジェレミア、行け!」

 ジェレミアは弾かれたように走った。

 

 ギアスキャンセラーを光らせてスザクを見る。

 一度集合無意識にギアスキャンセラーを使った時と同じように、スザクの中に立ち込める膨大な意識は神経を爪弾くように騒めいていた。あまりの情報量に再度頭痛が走る。

 しかしスザクという存在が集合無意識を纏めているおかげだろうか、以前よりはまだ五月蠅くは無い。大量の意識を掻き分けるように目を細める。

 その中でこっちだと言わんばかりに一つの意識が声を上げていた。聞き慣れたシュナイゼルの声だ。

 無数の集合無意識の中から一つに対してだけギアスキャンセラーをかけるなど、やったことが無い。しかし出来ないで済まされる問題ではない。

 金切り声を上げそうになる神経を怒鳴り散らしてその一つの意識に集中する。青い光が満ちる。

 

 

「―――シュナイゼル殿下、」

 ギアスキャンセラーによりナナリーのギアスから解放され、数十億という膨大な自分の中の一つが間引かれるように去って行く。それは振り向く事もせず真っすぐに自分に肉体へと向かって飛んで行った。

 その背中を見送るように目を細める。同時にマリアンヌが何かをスザクへと蹴飛ばした。

 咄嗟に避けるとそれは数度バウンドして地面に転がった。目を向けると、それは綺麗に切断されたコーネリアの首だった。血で固まった髪が布のように地面に広がる。口元には血が滲んでいたが瞼を閉じた表情は安らかだった。

 スザクは息を詰めてマリアンヌを睨む。別段仲が良いという訳では無かった。だがユーフェミアへ向ける彼女の愛情は本物であり、先んじてV.V.への復讐を遂行した事へスザクは少なからず羨望を抱いていた。噛みしめた奥歯が擦り切れる音がする。

 

 殺意の籠った視線を受け止めながらもマリアンヌは微塵も揺らぐ事は無く、逆に責めるような視線をスザクへと向ける。

「神よ、どうしてこんなことをするの?貴方が余計な事をしたせいでコーネリアが死んじゃったじゃない」

「どの口がそれをっ、貴方が殺したんでしょう!」

「あなたが楽園の中で揺蕩うことを否定して外に出てくるから余計な死者が出たのよ。ずっと楽園にいれば苦しみも何も無いっていうのに」

 馬鹿な子と首を振る。マリアンヌの視線はルルーシュの首へと向いていた。

 隙を見せればルルーシュのコードを奪うつもりだろう。シャルルは手首から先を斬り落とされて蹲ってはいるものの、死んでいる様子は無い。

 

「コードを奪えば集合無意識は解放されるものと予想したんだが楽観的だったか。スザク、どうすれば集合無意識が解放されるのか分かるか?」

「分からない。ナナリーのギアスのせいだけじゃないのは何となく分かるけど、でもそれが何なのかまでは……」

 マリアンヌに剣の矛先を向けたままスザクは額に汗を浮かばせる。

 荒く呼吸を繰り返すルルーシュは舌打ちを零した。呼吸をするたびに穴の開いている胸元から空気が漏れ出る音がする。

 床に倒れたC.C.を見ると顔色は幾分か回復しているようではあった。しかし呻き声を上げはするものの意識は戻っていない。意識を取り戻すまでにはあと数十分は必要だろう。

 

 蹲るシャルルに寄り添ってマリアンヌは美しい形相を歪ませる。この女が顔を歪ませる所をルルーシュは初めて見た。

 マリアンヌはシャルルのことだけは本当に大事に思っているらしい。シャルルの手首を切り飛ばされていつもの余裕を貼り付けたような薄ら笑いを浮かばせることすら出来ないようだった。自分の子供を一切省みることは無かった癖に。

 だが男に寄り添う母を見てルルーシュは微かな安堵が胸に浮かび上がることを不思議に思った。それは血のつながった母が完全な異常者でないことを喜ぶ気持ちだった。

 何故だろう。だが恐らくは彼女の血が自分に流れているからだと思った。

 少なくとも自分の母は自分自身以外に大事なものがある女だった。それだけで自分は母に満足すべきなのかもしれない。むしろそれ以上の人間性をこの女に要求するのは傲慢なのではないだろうか。

 この女は母親になれるような高尚な生き物では元々無かったのだろうから。

 

「ルルーシュ、いい子だからコードを返しなさい!」

「生憎と生まれてこの方いい子だった覚えが無いな」

「もう、どうしてそんなに聞き分けが悪いのよ。皆が幸せになれるのよ?永遠の楽園が来るのに!」

 聞き分けの悪い子供はどっちだと、苛立ちも露わにぶんぶんと剣を振るマリアンヌに思う。

 

 閃光のマリアンヌと称されようともこの女はただの女だ。それも恐ろしい女だ。自分の考えが間違っていると微塵とも疑わないというただ一点でもって人は非常に恐ろしい化け物になれる。

 マリアンヌがルルーシュに母親らしいことをしたとすれば、その身を以って行き過ぎた自尊の恐ろしさを教えた事だろう。

 最早ルルーシュはそれ以上の価値をその女に求めることはしなかった。そしてこの時を最後にルルーシュが母親に何等かの意識を向けることは永遠に無かった。

 

 マリアンヌの背中越しにルルーシュは周囲が薄暗く変貌していることに気付いた。落ちる夕陽の赤色から段々と紫、昏い青、濃紺、黒と空の色が変わる様に周囲を取り巻く色が変わっていく。

 見上げるとドームで覆われている天井の、集合無意識が繋がっていた黒い穴が面積を広めていた。黒い穴は世界を食い破る口のように思えた。口の中には星のような白い点が煌めいて夜空のようだった。

 

 黄昏が落ちる。

 そうだ。終わらない日は無いのだから。

 夜が来る。

 

 

 色の変わる空を見上げてシャルルは手首を抑えながらも瞠目した。

「………どういうことだ?ラグナレクはまだ終わっていないというのに何故日が落ちる」

「あなた、」

 斬り落とされた片腕を庇いながら蹲るシャルルは、見る間に夜空に変わっていく空を見上げてまさかと呟いた。痛みのあまり額に冷汗を流すシャルルの背中をマリアンヌが撫でる。

 細いマリアンヌの指を握り締めながらシャルルはわなわなと震えて顔を足元に落とした。そして体の全ての動きを止めて、呼吸さえすることを忘れた。

 

 一瞬の静寂の後、シャルルは爆発したような笑いを吐き出した。豪快な笑い声はCの世界へと響き渡り、集合無意識の残骸すら震わせた。

 元は皇帝の座にあり、世界を歪んだ方法で一つにしようと画策した男が上げるにしては随分と快活な響きを持つ笑い声に、その場にいたスザクとルルーシュ、ジェレミアはぽかんとシャルルを見やるしかなかった。

 それはマリアンヌも同様で、片腕から未だ血を噴き出しながら笑う夫に動揺しながらもその肩に寄り添った。

 

 シャルルは黄昏が過ぎて行く世界の中で高らかに敗北を宣言した。

 

「やりおったなぁあ、シュナイゼルうぅうううううう!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 今、世界で意志を持って動く者はシュナイゼルしかいない。世界は静けさに満ちていた。

 全世界のギアス遺跡へ向けてフレイヤを発射した後、シュナイゼルはコンソールの前で床に四肢を投げ出した。

 壁に貼り付けられた無数の画面はフレイヤにより破壊された大穴を映し出している。シュナイゼルの手により発射されたフレイヤの数は数十にも及んだ。元は歴史ある遺跡だった痕跡を微塵も残さない漠々たる爆発の後だけが画面に貼りついていた。

 

 帝国宰相に相応しい白い豪奢な衣服を振り乱して冷たい床に寝そべっている姿は、この世界で二番目に権力を持つ貴人というより遊び疲れた子供に近い。

「こんなに走ったのは久々、だな。もう、特派の場所はもうちょっと皇宮に近い場所にしておく、べき」

 言葉を切ってシュナイゼルは頭を抱える。ああ、ああ、うー、と動物のように唸り声を零しながら頭皮をがりがりと指で削った。

 頭蓋内でガンガンと雷鳴のように叫ぶ声が煩く、まるで脳細胞を一つ一つ潰されているような悍ましい感覚がした。そしてそれ以上に耐えがたいのは、その声が自分から発せられているような奇妙な感覚だ。胃の中で沸騰した胃液がごぽごぽと音を立てるように脳内の声はシュナイゼルへと囁きかける。

 この声がシュナイゼルのものであるのは間違いではない。認めたくはないが、この声もシュナイゼルの声なのだった。ただし感情の無いシュナイゼルだ。

 

 数か月前までは自分よりも優位な立場にあった自分自身の声だが、今となってはそれが自分だと認めたくは無かった。

 声の響きからして柔らかみが無く機械音声のように冷たい。しかし人が好意を持つように計算した発声はどこか艶やかで、その正体を知っている今となってみれば不快でしょうがなかった。

 

 今すぐフレイヤの目標地点を各国の主要都市に向けるんだ。そして撃て。

「駄目だよ。どれだけの被害が出ると思っているんだ」

 今のうちに人類の力を削ぎ落しておけば集合無意識が解放された後に人間同士で戦争を起こす余力を奪うことができる。

 今多くの人が死んだとしても、それは一時の被害だ。今後長く戦争を起こさないようにするためにはその方が良い。

「、五月蠅いっ」

 

 ぶんぶんと頭を振ってその声を逃がそうとする。しかし頭の中から響いている声が消えることは無い。

 コンソールパネルに開かれている画面を見る。フレイヤは無事全弾着弾したようだった。威力も計算して制限したため、人的被害も最小限に抑えられた。

 ギアス遺跡はこの地球上から完璧に失われた。嘲笑うような笑みが浮かんでくるのを堪えられない。

 

「いい気味だ、父上。ずっと計画していたものが崩壊するのはどんな気分ですかね」

 そんな事はどうでもいい。それより多くの人類を救うために今するべき事を早く為さなければならない。

「そんな事より私にとっては父上がどれだけ屈辱的な思いをするかの方がずっと大事なことだよ」

 何を馬鹿な。そんな事だと、人類の未来がかかっているというのに。

「そんな事さ」

 

 どっこいせと体を起こす。壁に背中を預けて息を吐いた。

 耳を澄ますも、意識の存在しない機械が忠実に動く音以外には何も聞こえない。護衛の兵士の足音も、メイドのお喋りの声も。人間が生じる賑やかな騒めきが一切この世界には存在しない。いつもなら煩わしい羽虫の音さえ今は恋しく思えた。

 今、自分は一人きりだ。一人きりで問答を続けている。

 

「自分自身の意識でさえこんなにも纏まらないというのに、無数の人々の意識を一つにするなんて無理があるように思えるんだけどね……でも確かに集合無意識は成立していた。あれがコードの力なのかな」

 何を躊躇っているんだ。早く起き上がれ。

 シュナイゼルである私が今行動しなければ今後戦争で失われる血の量は膨大なものになる。自分の手が血で染まる程度のことが何だというのだ。

「その発想はルルーシュとちょっと似てるね。もしナナリーとジェレミア卿が居なかったらルルーシュは君みたいに……ぞっとしないな」

 人間は進化し過ぎたのだ。ここで足を止めなければいつまでも戦い、遂には自壊するだろう。明日が今日より良いものになるとは限らない。世界は今日で時を止めるべきだ。

「五月蠅いぞシュナイゼル。お前に私は従わない」

 お前もシュナイゼルだ。お前はギアスによって作られたシュナイゼルの偽物だ。

 本来の私には感情は存在しない。お前はキャンセラーによって消え去るべき存在だ。

「そうなのかもしれない。しかし私は偽物ではない。私は君とは全く別の存在として確立している。私は人間が、たとえいつか滅びるとしても、足を止めるべきではないと思う。この思考こそ私が私として成り立つ自己を形成している」

 

 懐から自衛のために持ち歩いていた拳銃を取り出した。

 射撃訓練を受けてはいるものの実戦で撃ったことは無い。しかしこうも近距離であれば外さないだろう。

 

「私のことをお前には理解できない。感情の無い、理性と知性しか存在しないお前には―――」

 非論理的だ。

「そうだとも。人間とは元来非論理的存在だ。論理の外にこそ人間の本質がある。そうと知っているからこそお前はいつだって誰かを矢面に立たせて、自分は一歩下がっていた。民衆は論理では動かないと知っていたから、非論理的な感情を持たないお前は皇帝には成り得ないと知っていたんだ」

 成程。確かにそうかもしれない。

 ではお前はどうするんだ。非論理的感情を持つ私。シュナイゼル。君はどうする。

 世界を平和にするために君は、

「知るかそんなこと」

 

 拳銃で右膝を撃ち抜いた。

 焼けるような痛みに呻く。拳銃を取り落としそうになるが、しっかりとグリップは握り締めたまま体を震わせて激痛に耐えた。

 何を、という声を無視してそのまま左膝も撃ちぬく。骨が砕ける音がした。あまりの痛みに呻き声が口端から漏れ出した。

 息を吐いて床に横倒しになり拳銃を遠くへ放り投げる。武器はもう何も持っていない。

 足を動かそうとすると軋んだ骨が削り合って傷口から血が噴き出た。それでも無理やりに動かそうとすると千切れた腱が悲鳴を上げるようにびくびくと痙攣する。無事に関節を破壊できたらしい。どうやってももうこの足では歩けはしないだろう。

 これで体の主導権をあのシュナイゼルが得たとしても、何もできはしない。

 地べたに横たわったシュナイゼルにとってフレイヤ起動を司るコンソールは巨大な城塞のように見えた。

「平和なんてどうでもいいんだ。あの父親が気に食わなかった。恨んだ。嫌いだ。死んでしまえばいい。よくも私の感情を奪ったと、怒りのあまり死んでしまいそうになる程に憎い。復讐したい―――死んでもいい。復讐さえ叶うのならば」

 シュナイゼルの声に返答は無かった。ただ呆れるような溜息が聞こえた。

 ふふ、とシュナイゼルは口端で笑った。理解できないだろう。それでいい。さようならだ。人間の屑め。二度と会うことも無いだろう。

 

 

 

 冷たい床に接している頬に温い感触がして何かと見ると、足から流れた血液が床を侵食して頬を濡らしていた。貧血のせいか荒くなる息をなんとか落ち着かせながら両手で両足を掴んで止血しようと試みる。

 しかし失血し過ぎたのか両手はがくがくと震えて強く力を籠めることは叶わなかった。掌が真っ赤に染まる。両足からは止めどなく血が流れ続ける。

 

 どうしてだろう。悲しい。復讐は成した。感情も取り戻した。何も後悔は無い筈なのに。

 死んでもいいと思った感情は嘘ではない。しかし怖い。両手足が寒気以外の理由でがくがくと震える。

 死んだらどうなってしまうのだろう。何もかもが消えて無くなってしまうのだろうか。何もない空間で一人。その想像は臓腑を凍らせるような恐怖に満ちていた。

 

 もう二度とルルーシュと遊んだり、ロイドの軽口を聞いたり、カノンと一緒に仕事をしたり、シャーリーの薄い紅茶を飲んだりすることはできなくなってしまう。

 

 集合無意識の中でスザクにギアスキャンセラーをかけるよう頼んだ時から死ぬ覚悟はしていた。しかしそれでも間近に死を感じると恐怖に体が竦む。

 

 両目からぽたぽたと涙を流しながら凍えているように身を捩らせた。寒い。

 死がひたひたと近寄る音がする。誰かに傍にいて欲しかった。誰でも良いから。一人は嫌だ。

「嫌だ、嫌だ……死にたくない、死にたくないようぅ」

 シュナイゼルはただ一人取り残された世界の中心で恐怖に打ち震えながら心から祈った。何に祈っているのかは彼自身にもよく分かっていない。

 

 ただ死にたくない。生きていたい。戦いが止むことの無い理不尽で残酷な世界で。

 感情のある人間として――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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