8. 黙っているというのは、嘘をついているのと同じだ
「……う、」
「目が覚めたか」
C.C.の声にルルーシュは身を起こした。
目を開くと、寸断なく周囲の景色を映す液晶画面がちかちかと光っている。ブゥウウゥンと静かな唸り声を上げる機械類は怒っているようだ。蜃気楼の中か。固い床に横たえられていたせいで体が痛い。
「……C.C.、何があった?」
「このコンタクトを付けろ」
「コンタクト……?」
「ギアスの乱発を防ぐためだ。説明は後でするから、」
操縦桿を握りながらC.C.はコンタクトケースをルルーシュへと放り投げた。
突然投げられた小さなケースを戸惑いながらも受け取って、言われたとおりに眼球へ貼り付ける。コンタクトが角膜に馴染むよう何度か瞬きを繰り返しながら、混乱で沸き立つ脳を落ち着かせようと試みた。
何があった。記憶がどこか朧気で、足元がふわふわしているような現実との乖離感がある。しかしそのままじっとしていると段々と頭も落ち着き、肉体と感覚の乖離感も徐々に治った。
床に座り、記憶を絞り出そうと息を吐く。何が起こった。
記憶が確かなら、ナナリーがギアス嚮団に誘拐され、GPSからギアス嚮団の本部を割り出して黒の騎士団で襲撃したんだ。そしてナナリーは黄昏の扉の向こうにいると聞き、急いで向かうと、途中でV.V.の死体を見つけた。
黄昏の扉に辿り着くもビスマルク卿とモニカ・クルシェフスキーに行く手を阻まれ、ジェレミアとカレンに任せた。その隙にC.C.の能力で黄昏の扉の向こう、虚数空間であるCの世界へ向かったんだ。
そこは美しい黄昏の世界で、ナナリーがシャルルに囚われていた。だからナナリーを助けようとしたんだ。なのに拒絶された。
ナナリーはシャルルの手を取ったのだ。
そしてスザクがフレイヤを……
そうだ。フレイヤだ。シュナイゼルがニーナに命じて作成させた、原子レベルまで物体を崩壊させる、コードを消滅できる可能性のある唯一兵器。
弾けるように立ち上がってメインカメラと繋がるモニターに縋りついた。喉が引き攣るように息を飲みこむ。現実と俄かには信じ難い光景が広がっていた。
荒涼とした氷の大地に、巨人が掌で大陸を掬い取ったような穴が空いている。大地と宙の境目はナイフで切り取ったように鋭く、穴の中は何の残骸も残っていない。完全な空白空間が広がっていた。元々そこに都市とも呼べる巨大な施設が存在したことを示す名残は何も無かった。
耳に煩い程の風が吹き荒んでいるのは、一時的に巨大な真空状態が出現したことによる二次的災害によるものだろう。
「ナナリー……」
ぼんやりと呟く。実のあることは何も考えられなかった。
ただ、あの場所にいたナナリーが脱出できた可能性は皆無であるという、体を圧し潰すような事実がルルーシュに圧し掛かっていた。
もうナナリーはこの世界にいない。
自分が何よりも守らないといけなかった、誰よりも愛する妹が。
生きる意味など無いとシャルルに否定された自分の、唯一の存在意義が、いなくなってしまったのだ。
手足の末端から溶けていくような気がした。それは至極当然の感覚だった。ナナリーがいなくなってしまったのに、自分が生きているだなんて。
自然災害にも匹敵する光景を前にして黒の騎士団員も我を忘れていた。だが団員の多くはブリタニアとの激戦を生き残った猛者であり、自失の時間はそう長くは無かった。
目の前の光景が夢ではなく、現実だと受け入れた団員は我先にと蜃気楼へ通信を繋ぐ。蜃気楼のコックピット内に各部隊長の焦りと怒気の籠った声がガンガンと叩きつけられる。しかしルルーシュはぼんやりとしたまま、巨大な半円球状に穴の開いた大地を見つめていた。
『ゼロ、指示を!』
『何が起こったんだ、ゼロ!なんとか言ってくれ!』
『仙波が、ゼロ、卜部も巻き込まれて……嘘だろ、まさか』
『井上がぁあ!!ゼロ、ゼロ、早く救助隊を組織してくれ!!』
『おい、一体何人死んだんだよ……ゼロ、俺達はどうすればいいんだ、指示を、』
騒めく声にルルーシュは暫く何も反応も返せなかった。それだけの心理的余裕が無かったのだ。
だが今よりもさらに最悪に至る可能性に思いつき、ルルーシュは元々白い顔をさらに青く変色させて通信機に縋りついた。
自分の騎士へと通信要請を送る。1コールも待たずに通信は繋がった。
通信が繋がった瞬間にルルーシュは肺の底に淀んでいた息を吐いた。ジェレミアは生きていた。吐きそうな程の安堵感が込みあがった。
「ジ、ジェレミア、ジェレミア、無事か?怪我は無いか?」
『私は問題ありません。ゼロ様はご無事であらせられますか?』
無事か、と聞いたものの、ジークフリートからは無傷の蜃気楼が目視で確認できる。ジェレミアが確認したかったのはルルーシュの心理的側面における傷跡だった。
ナナリーの生存が最早絶望的である以上、無事な訳が無いと分かり切ってはいる。しかしカレン以外他の団員は誰も知らないルルーシュが抱える痛みにジェレミアは触れる義務を感じていた。
ルルーシュにとってナナリーは単なる妹ではない。実父に生を否定されたルルーシュにとって、ナナリーを護ることだけが明確な存在意義だった。ナナリーを護るという理由があったからこそ祖国に捨てられても、親友であるスザクと敵対することになっても、唯一の騎士である自分が死んだと思っても、ルルーシュは真っすぐ前を向いて歩いて来れたのだから。
「ジェレミア、ナナリーを探せ」
その言葉はジェレミアが予想していた命令と一言一句違わなかった。だが予想以上にルルーシュの声は悲痛に満ちていた。
その声は通信の繋がっていた他の黒の騎士団にも伝えられていた。
慌ててC.C.が強制的に通信を切ったものの、一度伝えられた言葉は取り消せない。無線通信の向こうにいた黒の騎士団幹部は、ナナリーとは誰だ、救助活動より優先する理由があるのか、そもそもどうしてゼロは新参者のブリタニア人の安否を真っ先に確認するんだと疑問を生んだ。
しかしルルーシュは黒の騎士団幹部が疑惑の芽をつけたことに気づく余裕も無く、ジェレミアに繋がる通信に取り縋った。
『しかしゼロ様、もう……』
「頼むジェレミア。お願いだ。お前にしか頼めないんだ。ナナリーは死んでないんだ。ナナリーは俺の妹なんだから、俺より先に死ぬわけがないんだ。生きているんだ。絶対に、生きているんだよ」
通信越しに聞こえた引き攣るような嗚咽と、歯を食いしばる軋む音に、ジェレミアにできることは『イエス、ユアマジェスティ』と答える以外に何もなかった。
■ ■ ■
フレイヤ爆発の二次的被害の影響か、見渡す限り雲は一欠片も浮かんでいない。地面を這うように動く太陽に照らされて雪原が眩しいほどに光っている。しかし雪盲を恐れるような体ではないため、ジェレミアは上空から大地をじっと睨み、アッシュブラウンの髪の一筋でもないかと探した。
漠々とした南極大陸の上空をジークフリートが飛ぶ。
藤堂により救助隊が組織されてはいるものの、フレイヤの影響力圏内には文字通り何も残っていない。救助対象は見当たらず、遺体すら消し飛んでいる。
真下にはお椀状に抉れた大地が広がるだけだ。他には何もない。せめて遺品だけでも、と救助隊が雪を払いながら何か落ちていないかと探している。揃って顔は沈鬱で、墓場の掃除でもしているようだった。ジェレミアの心境も彼らと似たり寄ったりだ。
ルルーシュの心の支柱であるナナリーが死んだとなれば、彼女の精神は酷いダメージを受ける。それに個人的にも長い間仕えたナナリーの生存を願っている。しかし現実的にはナナリーの生存は絶望的であり、捜索する場所すら消滅していた。
上空を無意味に数回旋回していると、抉れた大地の斜面に金の装飾が施されている青い瞳のKMFが立っているのを見つけた。そしてその程近くにダークブラウンの髪をした人物が項垂れている。
ジェレミアはランスロットの隣にジークフリートを降ろした。
耐寒装備の必要のない機械の体であるため、コックピットから抜け出てそのまま極寒の大地を歩く。
枢木スザクは南極用の耐寒装備を身に着けているようだったが、日本人らしい小柄な体格は風に吹かれて折れそうに見えた。それは彼の体格というよりもその心情によるものだったかもしれないが。じっとフレイヤ跡地を見て身じろぎもしない枢木スザクは痩せ枯れた樹氷のようだった。
「満足か?」
ジェレミアの言葉に枢木スザクは肩をびくりと震わせて振り返った。
「……ジェレミアさん」
「復讐は成ったぞ、枢木スザク。ユーフェミア皇女殿下を殺害したV.V.は死んだ。君の手によりギアス嚮団も壊滅した。もうこれでギアス嚮団の嬲り者になる人間はいなくなるだろう」
それで、とジェレミアはスザクの隣に立った。
「満足か、枢木」
「分かりません。僕のしたことが正しかったのかさえ……今は……」
スザクの言葉はこれまでになく弱弱しかった。ふるふると頭を振る。
フレイヤにより数万人が死亡し、その中にナナリーがいたことをスザクはシュナイゼルから聞いた。
液晶画面に映っていたシュナイゼルの顔は感情が無かった頃と似た完璧な無表情だった。彼は機械のように淡々とフレイヤによる被害をスザクに伝えた後に、勝手にフレイヤを持ち出して実戦で使ったスザクの処分は後に通達するという一言を添えた。
それが酷く重い罪であることをスザクは願った。スザクは今、断罪を求めていた。
どうして自分はこうなってしまったのだろう。スザクはフレイヤ跡地に注いでいた視線をずらして、隣に立つ騎士然とした姿をしたジェレミアを見上げた。
6年前はジェレミアを父と同じ大人の男だと思っていたが、あの時のジェレミアと今の自分は3歳しか違わない。今や能力的にもそう大きな違いはないだろう。むしろ戦闘能力という点では自分の方が圧倒的に優れている。
あの時のジェレミアにあって今の自分に無いものは何だろうか。ルルーシュのために人を殺してその後も表情一つ変えずにいたこの人と、自分は、一体何が違うのだろうか。復讐を心に決めた自分は、一体どうすれば良かったのだろうか。
「ジェレミア卿ならどうしましたか?もしもルルーシュが……もしも6年前ルルーシュが日本に送られて来た時に、日本人に殺されていたら。やはりあなたも僕と同じようにみんな殺してやろうとしたでしょうか」
「仮定は仮定に過ぎない。だがもしそうなっていたら、私は日本人を恨んで恨んで恨み切って家畜のように扱い、獣を追い立てるように殺し、ナンバーズを心底軽蔑してとことんまで差別していたかもしれない。もしかしたらフレイヤで綺麗に皆殺しにした枢木よりもずっと酷いことをしたかもしれないな」
ジェレミアはスザクを見降ろした。その眼はぞっとするほど冷たく輝いていた。
「しかしどれだけの人間を殺し尽くすことになろうとも、私はお前のように後悔したりはしない」
この言葉は比喩でも冗談でもないとスザクは心底から確信した。この人はルルーシュのためならば、ルルーシュを害すること以外のことなら何でもするだろう。
オレンジ色の瞳は照らされた雪の光を反射して小さな光を角膜の表面に幾つも浮かべていた。右目はまだ生身のままだというのに、まるで網膜が電気的に発光して常に周囲を分析しているように見えた。もしそうであるのなら、彼は全ての物事をルルーシュにとって有益か、無益か、それとも敵かに分類しているに違いない。恐ろしい男だと思った。ジェレミアの能力ではなく、その狂信的なルルーシュへの忠義は常人には理解不能な域に達しており、だからこそ恐怖を感じた。
自分のユーフェミアへの忠誠がジェレミアのそれに劣るとはちっとも思わない。しかしスザクはジェレミアと違い、心のどこかで復讐なんてしてもユフィは絶対に喜ばないという恐ろしい事実を感じていた。復讐を終えた今だからこそ、全身を燃やし尽くそうとしていた憤怒が鎮火して、その冷酷な事実が顔を表しているのだった。
その事実に直面して、スザクは今になって自分のしたことに恐怖を感じ始めていた。
フレイヤに巻き込まれたギアス嚮団所属の戦闘員、非戦闘員、嚮団に囚われていた被害者、嚮団に飼われていたギアスユーザー、巻き込まれた黒の騎士団員。全て合わせれば数万人に達する。
その数はブラックリベリオンの犠牲者数より遙かに多く、行政特区日本の暴動に伴う犠牲者数より遙かに多い。
あれほどまでに頑張った行政特区日本では誰一人救うこともできず失敗したというのに、フレイヤを持ち込んだだけでこうも簡単に何万人もの人を殺せるとは。
乾いた笑いが込みあがった。
人を救うよりも、人を殺す方がずっと楽だ。もしくは、自分は人を助ける才能には恵まれず、人を殺す才能だけは多大に持ち合わせているらしい。
そんな自分がユフィの騎士になって、何を成そうとしていたのか。
結局自分ができたことは、ユフィの名の下に大量の死体を積み重ねることだけだった。誰一人として救わずに。
笑い声は段々と大きくなって周囲に響き渡った。遺族のせめてものよすがとなるだろう遺品を探すために地面を這いずり回る救助隊は、スザクの異様に高らかに響き渡る笑い声を聞いて顔を歪めた。
ジェレミアは無言で笑い続けるスザクを見据えていたが、自分にできることは無いと悟りジークフリートへと戻ろうとした。だが去って行くジェレミアの後ろ姿にスザクは笑いを収めて問いかけた。
「ジェレミアさん、あなたは僕の父親を殺したことも後悔していないのですか?」
枢木ゲンブを自分が殺したことを知っていたのかと、ほんの微かにジェレミアは表情を驚きの形にした。しかしそれは一瞬のことだった。
「ああ」
「ルルーシュの命令で殺したんですか?」
「違う」
「では何故。ジェレミアさんは理由も無く非戦闘員に暴力を振るうような人では無いでしょう。ルルーシュの命令でもない限り、あなたは例え敵対国の首相であっても無暗に殺すような人じゃない」
何故殺したのかと問われて、あの薄暗い寝室での悍ましい記憶が噴出するように蘇り、ジェレミアの中で6年間ずっと燃え続けている怒気が再燃した。爪が掌に食い込む程に握りしめた。
少しでも気を抜けばスザクの目の前で、彼にとっては尊敬の対象であろう父親をありとあらゆる罵倒で侮辱してしまいそうになり、ジェレミアは辛うじてまだ残っている冷静さをかき集めて舌に乗せた。
「私は……君の父親が心底気に食わなかったのだ。まるでルルーシュ様とナナリー様を奴隷のように扱い、あんな粗末な家に住ませて、碌に食事もとらせなかった。高貴な血を引く皇族であらせられるあのお二方をあのように冷遇する男など無惨に死んで当然だ。ブリタニアと日本が開戦すれば首相である枢木ゲンブの警備は厚くなると思い、そうなる前にと腹いせ代わりに殺したんだ」
「腹いせ代わり……」
「そうだ。だから、君の父親の仇は私だ。ルルーシュ様ではない」
その言葉は決して嘘では無かった。
ルルーシュは枢木ゲンブを殺せとは命じたが、人間としての原型を無くすまで切り刻んで惨殺しろとは命令しなかった。ジェレミアが命じられてもいないのに枢木ゲンブに出来得る限りの苦痛を味わわせて惨殺したのは、あの男がルルーシュの純潔を弄んだことへの復讐であり、腹いせだった。
そのことへの後悔は全くない。あるとすればもっと無惨に殺してやりたかったという昏い怒りだけだ。
しかし生前の枢木ゲンブの所業がいかに許し難いものであったにせよ、枢木スザクからしてみれば自分は父親の敵であることに変わりは無い。あんな屑であってもスザクの父親ではあったのだ。それもシャルルと違って養育の義務をきちんと果たした、立派と言えるかどうかは分からないが父親と呼ばれて然るべき存在だった。
スザクが自分へ怒りを向けるのも当然、復讐しようとするのも当然。
ルルーシュの騎士としての役割がある以上そう易々と殺されてやる気は無いが、罵倒ぐらいは聞いてやろうとジェレミアは続くだろうスザクの怒気に溢れる言葉を待った。
だがスザクは黙って首を横に振った。
「――――もう、分からない」
「何が?」
「何が良いことなのかも、何が正しいのかも……僕はあなたに怒る権利はあるのかもしれないけど、でも、怒ることが正しいことなのか分からない。あなたに、怒りを向けたいのかさえも分からないんです」
両手で顔を覆ってその場に座り込むスザクがあまりに哀れで手を伸ばしそうになったが、ジェレミアはその手を途中で握り、ジークフリートへと踵を返した。
自分が伸ばした手に何の価値があるというのか。同じか、下手をすれば彼以上に血塗れの手で慰めたところで何の救いにもなりはしない。彼は傷の舐め合いなど望んでいない。
自分だけではない。ルルーシュやシュナイゼルも、黒の騎士団も、ブリタニア軍も、皆手を血塗れにしながら祖国や愛する人のために戦っている。白く美しいまま必死に戦おうと足掻いていた手は、この世界のどこにも存在しない。彼の血塗れの手を拭えるユーフェミアの手はとっくに失われてしまっていた。
もう遅いのだ。彼も自分もルルーシュも、血塗れの手を携えて、触れるものすべてを血で濡らしながら生きて行くしかないのだ。
ナナリーを探すために飛び立ったジークフリートを見上げて、スザクは夢見るように小さく呟いた。
「――――僕は、人を殺すことしかできないんだ」
■ ■ ■
ルルーシュは合衆国日本の政庁に備え付けられているゼロの私室に閉じ籠っていた。ソファに座り込んで顔を両手で覆い、もう数時間も微動だにしない。
フレイヤによる影響で多くの死者が出た。合衆国日本の国防に関する業務も溜まっている。すぐに対応しなければならない案件が山のように積みあがっている。
しかしそうと知りながらもルルーシュはまだナナリーのいない現実に帰って来ることが出来ないで居た。
もしかするとこれは全て夢なのかもしれないとルルーシュは半ば本気で思っていたのだ。ルルーシュの意識は現実から離れ、自分に都合の良い夢を彷徨っていた。
ルルーシュの意識はほんの数日前まで続いていた平凡な日の夜明けまで飛び立ち、クラブハウスの自室にある柔らかなベッドの上に横たわっていた。
もうちょっとで朝が来るからそろそろ起きなければならない。起きたら咲世子さんにお願いしてコーヒーを淹れて貰って、ジェレミアに今日の業務内容を纏めておくよう命令して、その後にナナリーを起こしに行くんだ。
ナナリーの髪は豊かな上に癖毛で、セットするのに手間がかかる。髪の端まで丁寧に梳いて、ヘアブローで寝癖を直して、最後は花の匂いのするヘアオイルで整えることが毎日の日課に組み込まれていた。
その時間が好きだった。最愛の妹が自分に甘えている事実をダイレクトに感じることができたから。
櫛を手にしてソファに座るナナリーの髪を一房手に取る。アッシュブラウンの髪の感触は滑らかで、腰に至る程に長い。自分とは違う女性らしいロングヘアは眩しいくらいに綺麗だ。
髪を痛めないように丁寧に梳くと、寝ている間に絡まった髪束が整列して波を打った。自分の手で美しく整えられた髪を撫でながら今日のナナリーの髪型を思案する。
「今日はどんな髪型にしようか。ハーフアップはこの前やったしな……そうだ、この前簪を買ったんだ。ナナリーに似合うと思って」
髪ゴムやシュシュと一緒に準備していた漆塗りの簪を手に取る。桜花の飾りがついたシンプルな簪は清楚なナナリーの雰囲気によく似合った。
ナナリーに見せようとソファの前に回ると、彼女は寂しげな顔でこちらを見上げていた。
「ナナリー?どうしたんだ?」
切なげに目を細めるナナリーを見ていると、心臓に氷を詰め込まれたような寒気に襲われる。どうしてナナリーは、こんなに悲しそうな顔をしているんだろう。
次の瞬間、ナナリーの顔は蝋のように溶け落ちた。驚く間もなくその下から全く違う顔が湧き上がる。
可愛らしいナナリーの顔を押しやる様に生まれ出てきた顔は、とんでもなく醜悪な顔だった。そしてどこかで見たことがある。それは自分の顔だった。
自分の顔はこんなに醜い顔だったのかとルルーシュは驚き、一体ナナリーはどこに行ってしまったんだと焦った。
「ナナリー、」
ルルーシュが目を開けると、そこには誰もいなかった。一人自分がソファに座っているだけだ。
ナナリーはどこへ行ったんだ。周囲を見回すがどこにも見当たらない。しかしついさっきまでソファで髪を梳いていたのだからそう遠くには行っていないだろうと部屋を歩き回る。だがゼロの私室に備え付けられている寝室にも、バスルームにもいない。
「ナナリー、ナナリーどこだ」
声を上げながら部屋の隅から隅までを探した。だがナナリーの姿の影さえ無い。この短時間でどこへ行ってしまったのかと頭を抱える。
もしや外に出てしまったのかと思うが、そういえばそもそもここは黒の騎士団が所有する斑鳩の中だ。ナナリーがいる筈が無い。
ナナリーがいるとすればクラブハウスだろう。今日も学校はあるのだからすぐに髪を整えて、車いすを押して中等部棟まで送り届けてあげないと。早くしないと遅刻してしまう。慌ててクローゼットにしまっていた学生服に着替えて部屋を出た。
部屋の外ではC.C.と南、そして朝比奈が言い争っていた。南と朝比奈は揃って顔に強い不満と不信を浮かべて、敵でも見るような目つきでC.C.を睨んでいる。しかしC.C.は常の飄々とした態度のまま腕を組み、挑発しているのではないかと疑う程の尊大な口調を崩そうとしなかった。
ゼロの愛人としかC.C.を認識していない南と朝比奈の眼には、ゼロの代理人のように振る舞うC.C.の態度は越権行為甚だしく映り、苛立ちのあまり米神に血管を浮かばせていた。
「だからゼロは体調が悪いんだ。暫くは部屋から出られん。何度も同じことを言わせるな」
「体調が悪いって、死にかけてるわけでもないんだろう?藤堂さんがゼロの代わりにずっと救助隊の指揮を執ってるんだ。本当はゼロがしなきゃいけない仕事だってのに……それに合衆国日本の黒の騎士団員へも指示を出さないといけないのに、それすらしない。ゼロはそこまで藤堂さんに任せるつもりなのか」
「この緊急事態に何も指示を出さないどころかずっと私室に引き籠るだなんてゼロはどうしたんだよ。本当に体調が悪いんなら医務室に行くべきじゃないのか?」
「あいつは顔を晒せないんだから医者にも掛かれないんだよ。お前たちの言った事はゼロに聞いてみるさ。だからさっさと帰れ」
しっしっと虫を払うように手を振られて、朝比奈は顔を紅潮させてC.C.へ詰め寄った。華奢なC.C.が朝比奈にぶん殴られると冗談では済まない。おまけにC.C.はゼロの愛人なのだ。南は焦って朝比奈を止めようと肩を掴んだ。
だがゼロの私室の扉が開いて3人の視線はそちらに向いた。ようやくゼロが部屋から出てきたのかと思ったのだ。
しかしそこから出てきたのはゼロではなく、学生服に身を包んだ青年だった。青年は驚くほど目鼻立ちが整っており、同性愛者でない朝比奈と南でさえ一瞬陶然としてしまう程の美貌の持ち主だった。
言い争う3人を視界にも入れず、その青年は早歩きでその場を通り過ぎようとした。だが正気に戻った朝比奈が青年の肩を掴んだ。掴んだ肩は細くて柔らかく、軍人の類ではないようだった。
「おいおいなんだよあんた。ブリタニア人だな。どうしてゼロの部屋から出てきたんだ。何者だ」
恫喝めいた口調に怯える様子も無く、青年は徐に朝比奈を見上げた。深い紫色をした瞳と朝比奈の瞳が合わさると青年は笑みの形に唇を作り、指を押し当てる。中性的な美人の艶のある仕草を目の当たりにした朝比奈はのぼせるように顔を赤く染め上げた。
「俺はゼロとはちょっとした知り合いなんだ。個人的な、な。黒の騎士団に関わる者じゃない」
その声はハイティーンの青年にしては少し高めだった。おや、と違和感を感じた南は青年の顔と、そして服に隠された体つきを見やった。小さな顔に繋がる喉には喉仏は無く滑らかで、肩幅は狭く、厚みは薄い。胴体部の服は布が少し余っていて腰に括れがあることを示している。
制服で上手く隠しているようだが、よく見ればすぐに分かることだった。
「そうか。あんたもゼロの愛人ってわけか?」
軽蔑交じりの南の言葉に朝比奈は首を傾げた。
朝比奈の眼に映るその青年は明らかに男性だった。確かに容姿は中性的だが、女性にしては身長が高く、胸の膨らみは全く無い。声は確かに高めだが個人的差異の範疇に入る。そして何より一つ一つの動作が力強く機敏で、拭いきれない男性的な雰囲気があった。
「何を言ってるんだ南。こいつはどう見ても男じゃないか」
「いや、服装は男子生徒っぽいけど女の子だろう?体つきが違う」
言い合うも、しかしお互いに確信は無かったために、誰かに異なる意見を言われると実は違うのではないかと思い始める。どっちなのかと2人は青年の頭の先から爪の先までを眺めた。しかし服の上からでははっきり明言するだけの診断材料は見つからない。
くすぐったくなるような視線に苦笑を返して、青年はおい、とC.C.に声をかけた。
「悪いが俺はちょっと席を外す。家に帰るよ」
「―――分かった。しかし何故?」
「家に帰っているかもしれないから」
その言葉を聞き、C.C.は南や朝比奈の前で表情を変えないよう眉間に力を込めた。
ナナリーはCの世界に閉じ込められて永久に出ることは敵わない。だからクラブハウスに行っても無駄だ。
そう言うのは簡単だ。だがそう言ってもルルーシュはその言葉を現実とは受け入れないだろう。
好きに行動させて、現実を受け入れるまで待つしか無い。C.C.は一つ頷き、そうか、とだけ返した。
そのままくるりと踵を返してその場を去ろうとした青年に、朝比奈が待て、と声をかける。
ゼロの私室への入室を許可されているのは現在C.C.とカレン、そしてジェレミアしかいない。だが今、この青年がその中に加わった。秘密主義者のゼロに関わる人物として朝比奈はこの美貌の青年から出来得る限りの情報を得たかったのだ。
「まだ話は終わっていないぞ、君はゼロの何なんだ。未成年に見えるが、まさか本当に愛人か?」
「下品な妄想だな。品性が知れる。まあ妄想するのは個人の自由ではあるから好きにすればいいさ。だが貴公の妄想に付き合う程に私は暇では無いのでね、失礼させて貰おう」
氷細工めいた繊細な容姿に似合わない挑発的な言動が飛び出して、南と朝比奈が一瞬言葉を失った隙にルルーシュは足早にその場を去った。
二人は後を追おうとしたがC.C.が道を遮る。面倒くささと不機嫌さが混ぜ合わさった顔をしていた。
「あいつはゼロの知り合いの、ただの合衆国日本に帰化した元ブリタニア人だ。詮索しても何も出ては来ないさ」
「あのブリタニア男と同じくゼロの個人的なお友達って訳か?」
「そうだ。まあ、本当にただのお友達かどうかはその下品な妄想にお任せしようか」
C.C.は付き合いきれないと肩を竦めて扉の向こうへと逃げ去った。
その場に残った南と朝比奈は、姿を消した美人2人の去った方向をそれぞれ見て舌打ちを零した。
「こんな時に愛人と遊んでるのかよ、ゼロは」
「それも美人2人とな。いい御身分だ。まるでブリタニアの貴族みたいな生活じゃないか」
朝比奈のあまりの言いように南は眉を顰めた。
ゼロが部屋に引き籠っている現状に不満はあるが、ナンバーズを散々に虐げたブリタニア貴族とゼロを同列に見るのは侮蔑が過ぎる。
ゼロは紛れもない世界の英雄であり、黒の騎士団が寄って立つ術なのだから。世間一般から見れば彼を愚弄することは、これまでの黒の騎士団の活動が愚弄されることに等しかった。
「……流石に言葉が過ぎるぞ。今はあれだが、ゼロは俺達のトップじゃないか」
「今まではな。でも職務を果たしていない今もその地位に立つ権利があるのかどうか」
「朝比奈、誰が聞いているか分からないんだ。それ以上は、」
ガンッ、と何かが床にぶつかる音が聞こえて、2人ははっとその方向へ首を向けた。
通路の陰に誰かが隠れてる。床にはカメラが転がっており、さっきの音の正体はカメラが落ちた音であるようだった。
「誰だっ」
南の誰何に応える声は無く、ただ落としたカメラを拾うために陰から男が歩み出てきた。長身を折り曲げてカメラを拾い上げて傷がついていないか確認する。
隠れて陰から一部始終を見ていた男はディートハルトだった。彼はその場に残っている2人の同僚を意識にも上さずに、額に冷汗を浮かべながらカメラを再生してゼロの私室から現れた美貌の青年の姿を確認した。
彼はその中性的な美しい容姿に、9年前に一度ヨーロッパ戦線で見かけたブリタニアの皇子の姿を重ねた。
「……ルルーシュ殿下?」
あまりに似ている。いや、もう同一人物としか思えない。あんな天使のように美しい容姿がこの世に2つとあってたまるか。
さらによくよく思い起こすと、あのゼロの個人的な知り合いだというジェレミアという男にも見覚えがあるような気がする。もしかするとあの男はルルーシュの部下ではなかったか。
ディートハルトが一度だけ邂逅した小さな皇子は僅か9歳ながら軍の指揮官として辣腕を奮い、英雄としての片鱗を垣間見せた。言い換えればあの少年は、ゼロに成り得るだけの可能性を秘めていたのだ。
「ふ、ふふ、」
口端から笑いが零れた。まさかという思いと、あの少年ならばやりかねないという予測が混ぜ合わさってディートハルトに歓喜を齎した。
もし予想が当たっているとするならば、ルルーシュという青年の人生は嵐を突き進む小舟のように激しくもドラマティックな旅だっただろう。是非その人生の全貌を知りたい。そして記録に残したい。そして全世界に放映したい。
ディートハルトをディートハルトたらしめる、極限の混沌(カオス)を映像化することへの欲望が渦を巻いて波打っていた。
「おいお前、何を」
「正しく、カオス!ゼロとは想像以上のカオスだ!」
絶頂しているように全身を震わせるディートハルトから南と朝比奈は数歩離れた。
前々から変なブリタニア人だと思っていたが今は完全な不審者にしか見えない。あまり近寄りたくない。全身をうち震わせて恍惚としている姿は、なまじ容姿が優れている分そこらのホラー映画並みに怖い。
しかし2人にドン引きされていることを気にもせず、そもそも気づきもせず、ディートハルトはハンドカメラを掲げるように持ち上げてくるくると回った。
「そうと知ったならばこうしてはいられない!早々に資料を集めなければ!まずは6年前の日本の情勢と、ルルーシュ殿下がどのような酷い扱いをされていたのか、そこからどのようにして這い上がったのか……!ああ、血が滾る!やはりジャーナリズムの仕事とはこうでなくては!」
「……おい、まさかヤクはやってないよな?」
ぼそっと呟いた南にディートハルトは溌溂とした良い笑顔を向けて、高らかに言い放った。
「ジャーナリズムとはそんなものより遙かに創造的な快楽だ!凡人には体験できない混沌を自らの手で視覚化し、事実として世界に押し広げる万能感に比べればそのようなモノは子供の玩具だ!ふふ、やはりゼロは素晴らしい……っ、では、失礼させて頂こう!」
ディートハルトは目をLEDライトのように輝かせて、二人の返事も待たずにスキップでもしそうな勢いでその場を後にした。
唖然としてその後姿を見送っていたが、朝比奈はディートハルトの言葉を思い返してぽつりと呟いた。
「ルルーシュ殿下……殿下ってことは、皇族か?」
「それってさっきの青年が皇族かもしれないってことか?確かに貴族っぽい綺麗な顔をしてはいたが、」
「ああ。ルルーシュ……聞いたことがあるような無いような」
記憶の端にそんな名前が引っかかっているような気がして朝比奈は頭を掻いた。
6年前、ブリタニアが日本に攻め込む大義名分となった皇族が確かそのような名前だったような気がする。朝比奈は端末を取り出してその名前を検索にかけた。
検索結果はすぐに表れた。華麗なるブリタニア皇族の略歴は公にされており、勤勉なブリタニア臣民が皇族の家系図を纏めたサイトは幾つもある。その中の一つに入り込むと、その名前はすぐに見つかった。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。9歳から軍務に携わり主にはヨーロッパで辣腕を奮った、幼いながらも優秀な指揮官。
12歳の時に母親が死亡し、喪も明けないうちに日本へ留学する。留学先の日本人から虐待を受けて僅か12歳で夭逝。共に留学していた妹のナナリー・ヴィ・ブリタニアも同様に日本人の手で殺害され、9歳で夭逝する。もし生きていれば現在17歳。
あの青年はハイティーンといった年齢であったし、性格はともあれテレビ屋としては優秀なディートハルトが顔を間違えるとは思えない。
黙り込んだ朝比奈に南はまさかといった表情で声を荒げた。
「おい、それってゼロがブリタニアの皇族と繋がってたってことか?」
「それどころじゃないぞ。そういえばあの青年、身長はゼロと同じくらいだった」
「っ、おいおいおい、それこそまさかだろう!そんな、」
そんな、の後に言葉は続かなかった。朝比奈は浅く笑みを零した。
すぐにルルーシュとやらについて調べなければならない。ブリタニア皇族ならば写真の一枚くらいは残っているだろう。あの青年が皇族のルルーシュであるかどうかはすぐに分かる。
そしてもし本当にゼロがブリタニア皇族であったのならば、多くの幹部はゼロがそのまま黒の騎士団の頂点に居座ることなど容認できないに違いない。そうなれば黒の騎士団の頂点の座は藤堂に移る。藤堂以外に候補となるような人物は扇ぐらいだろうが、あの凡庸な男がそんな大役を果たせるとは思えない。
藤堂が黒の騎士団を率いて歩む。その想像は朝比奈を高ぶらせた。
日本軍においても黒の騎士団においても藤堂は優れた才覚を存分に活かすことが敵わず、常に二番手以降に追いやられていた。藤堂を信頼し、信望さえしている朝比奈にとってこの現状は耐え難いものだった。
藤堂がとうとうその能力に相応しい地位を得るという想像は朝比奈の体を歓喜で満たした。
クラブハウスに向かいながらルルーシュは微苦笑を零した。
失敗した。ゼロが皇族だとバレたかもしれないな。
まあそれならそれでいいか。気持ちの良い解放感に幾分かの罪悪感を混ぜて、ルルーシュは春先に囁く小鳥のような笑い声を上げた。
バレたならバレたでいいや。そうなればもう後のことはシュナイゼルとキョウト六家、新しく設立される日本政府、そして藤堂に全部任せてしまおう。
もうこれ以上自分には戦う必要なんて無いのだから。合衆国日本は設立したし、神聖ブリタニア帝国はシュナイゼルが皇帝になればそう悪い方向には向かわない。ギアス嚮団だって壊滅した。V.V.は死んで、シャルルだって死んだ。長い間自分達を脅かした問題は、もう全て解決した。
よし、決めた。もうこのままクラブハウスに戻って、二度とここには帰らない。血と鉄が混じった重苦しい臭いや、人命を背負って挑む戦場とはもうおさばらだ。
これからは大学に進学するなり就職するなりして、ペンや言葉で戦うんだ。疲れたらナナリーと遊んで、辛い事があったらジェレミアに甘えよう。生徒会のメンバーともたまには会って、声が枯れるまで笑いたい。
これからはそうやって平和に暮らしていくんだ。
政庁を出ていくルルーシュの足取りはこの上無く軽かった。