やさしく迎えてくれるのは
海鳥達だけなのでしょうか?
――暑い、夏の日のことであった。
敵機動部隊の援軍により、ハワイ攻略作戦は失敗した。大和以下、連合艦隊は損害を受けながらも海域を離脱し、泊地へと帰投した。被害は決して軽微なものではなく、喪失した艦娘も何人かいた。だが、慣れていることだ。皆何も言わない。
安否が知れず、未だ帰らない艦娘など大勢いる。だが、願わずにはいられない。彼女が無事であること。海の上に在ることを。
管制塔にはいつにない重く冷たい雰囲気が立ち込めていた。腕に包帯を巻いた秋月は、何も言わずに仁王立ちする提督の傍に寄り添っている。
その空気の重さたるや、夜に降りる霜の如く。しかしそんな柔らかさは持ち合わせない、黒い淀みのような気持ちの悪いものだった。
しかし、その空気を切り裂くように大淀が声を上げる。
「水上電探に反応有り! 小型の艦艇が一隻湾内に侵入して来ます!」
「えっ……」
それを聞いた途端に、軍服の男は管制室を飛び出して行く。
「司令官!」
秋月もそれを追い、杖をついて歩き出す。その様子を見て、大淀は何か呆れたような、しかし安堵のため息を一つつく。
彼女は居直ると、レーダーに映る反応を確認する。すると、眉根を寄せて困惑した表情を見せた。
「これ、は……」
か細い声を出す。
青のパターン。それが示す符号は、考えつくあらゆる可能性の内、■■なものを導き出すファクターだった。
急ぎ、大淀は泊地にサイレンを鳴らす。それは彼女の帰還を祝福するものだろうか。
「こんな……こんな、ことが……」
眼鏡を外し、滲む視界を拭う。彼女は少し聡明すぎたのだ。誰よりも早く、彼女は独り泣いた。
夕陽が海を照らす。サイレンが鳴り響き、提督に遅れて他の艦娘たちも港へと集まってきた。
傷ついた者たち、誰かに肩を貸す者たち、車椅子に乗る者たち。先の海戦の傷跡が残る彼女らも、その体に鞭を打ってたった一人の艦娘の帰還を喜んだ。
遠く水平線の向こうに、小さな影が見える。
「帰ってきた……司令官、帰ってきましたよ、あの子! ほら、やっぱり!」
秋月が涙を堪えて声を張り上げる。他の艦娘も歓声を上げ、泊地に風が吹く。
提督が迎えに行ける者はいるかと呼びかけると、「私が!」と声を放ち、艤装した初霜が我先にと海面へ走って行った。
やがて、帰ってきたその駆逐艦の姿がはっきり見え始める。逆光を受けるその姿は、だが、不思議に青の光を纏っていた。
歓声が止む。泊地はしんと静まり返り、研いだ刃のような静寂が辺りを包んだ。サイレンは、遠く意識の外に響くばかり。
初霜は動くことができず、その場に立ち尽くす。海に沈む日を背にした彼女は――涼月は、港まであと数メートルのところで止まった。
「提督……皆さん。 涼月、ただいま帰還しました。 ご心配をかけて申し訳ありません」
ぺこりと、頭を下げる。そのいつもと変わらない仕草が、余計に不気味だった。
がちん、がちん。金属がぶつかり合う音がする。秋月が気になって見てみると、それは黒い顎に変貌した長10cm砲が、歯を開けたり閉じたりする音だった。
照月は知っている。この噎せ返る磯の香り。海水に濡れたその白い髪。奴らの特徴だ。知っている。
初月は、涼月の瞳から溢れる青の光を目の当たりにし、吐き気を催してそこにうずくまった。
初霜はそれでも彼女の手を取ろうとして、しかしその腕が鎖に絡まれていることに気付いた。
提督は、肩を震わせる。ただ、それだけ。
「……? どうしたのですか? あの、姉さん……提督。 私、帰ってきましたよ。 こうして、あなたの元へ……ねぇ。 なんでみんな、そんなに怯えているのですか?」
――壊れている。誰もがそう思った。
だが、誰も何も言えない。言えるはずがない。
サイレンは鳴り続ける。敵襲来のサイレン。深海棲艦の来訪を告げる、そのサイレン。
「……ほら、私、沈まなかったんです。 艤装は損傷してしまいましたが、修理できる範囲です。 艦首だって、ほら。 提督……」
傷を隠し、精一杯の笑顔で涼月は言う。
その笑みが眩しかったのだろうか。提督は、帽子を深く被る。
「」
呟く。誰にでもなく。
「…………」
涼月は、面食らったように一瞬止まり、しかしそれでも笑顔を絶やさなかった。
「どうして……どうして、ですか。 提督。 こうして、私は帰ってきたじゃないですか。 一言、『おかえり』と言ってくだされば……私は……私は……」
「」
提督は、己を殺した。もう温かい血が流れぬよう、冷たき刃で、心臓を串刺しにした。人間らしい言葉を発さぬよう、喉を掻ききった。誰も抱き締められぬように腕を切り落とし、誰彼も見つめぬよう目を潰した。
噛み締めた唇から血が流れる。彼が流す、最後の人間の血。
「………………」
初霜の魚雷発射管に、九三式酸素魚雷が装填される。重苦しい音が鳴り、初霜が啜り泣く声をかき消した。
「やめろ、やめてくれ」
誰かが震える声で言う。初月だ。体中傷だらけなのに、それでも前へ歩こうとする。それを照月が肩を掴み、押し留める。
「なん、で……初霜さん……てい、とく……。 私、こうして……帰って……」
自らの手を見下ろし、そこで涼月は初めて気付いた。変貌した艤装と、海の中にいるような冷たい感覚。青い炎に包まれた視界。多くの獲物を前に、今か今かと指令を待つ長10cm砲の姿。
そして思い出す。敵艦載機の急降下爆撃を受け、その時に感じた熱、痛み。それがフラッシュバックする。海に沈むというコト。
「ぁ、ああ、あああぁぁあ…………」
後ずさる。理解した、自分に何が起きたのか。ジブンが今、ナニモノなのか。
こんな簡単なことに気付けないとは、私はなんて頭が悪いのだろう。自嘲し、涙を流した。
「」
提督は言った。道を、教えてやってくれ、と。
滝のように、初霜の頬を伝うものがあった。海に流れ続け、いずれは溢れてしまうのではないかと。金属音と共に、発射管が角度を調整する。この距離だ、外す訳が無い。それが何らかの儀式であるかのように、秋月は感じた。
「帰ってくるって……私は、約束を……果たしたのに……。 提督の……あなたのお邪魔になるのなら……」
青い涙を流す。海に落ちて、ほんの少しだけ塩分濃度に影響を与えた。
秋月が崩れる。照月は目を伏せ、初月は耳を塞いだ。
それでも、彼だけは真っ直ぐに涼月を見つめ続ける。
『――――海鳥?』
『はい、泊地でよく飛んでいるのです。 あの子たちの鳴き声を聞くと、帰って来たなぁって感じがして……』
『ああ、よく鳴いてるな。 好きなのか?』
『ええ、
『なら、俺は船を出してもっと沖で待っていてやらないといかんな』
『え……? で、でも危険ですし……』
『何を言う。 海鳥たちに、お前を先に迎えられては面目が立たないからな。 一番にお前を迎えるのは、俺だ』
『提督…………』
幸せな夢を見ていた。
秋月姉さんがいて、照月姉さんがいて、お初さんがいて、
掛け替えの無い時間。空白を埋める記憶。極彩色の世界。
この手に抱き締めた暖かい感触。煙草の匂い。優しい笑顔。みんなみんな、とても幸せで。
辛いことも、痛いこともあった。仲間が沈む様を見た。何隻もの敵を沈めてきた。血を流し、火傷をして、本当の痛みを知った。もう帰らない彼女たちを想い、心の痛みを知った。
それでも。それでも、それでも、それでも――――。
だから、だから――――――
「――さようなら、提督。 涼月は、幸せでした」
笑顔。魚雷。初霜。涙。叫び。初月。水飛沫。夕暮れ。伸びる手。届かない。秋月。照月。
もうもうと立ち上がる水蒸気が晴れて、もうそこには何の姿もなかった。
誰も彼もが口を閉ざす。立ち尽くした提督に初月が殴りかかり、数人がそれを止めようとしていた。
あれだけけたたましかったサイレンが鳴り止む。波の音と、海鳥たちの歌。誰かが泣きじゃくる声。
太陽は水平線の彼方に沈み、空が憂いの暗青を纏いつつあった。
海鳥だけが、優しく空を鳴く。
おかえりなさい、おかえりなさい、と。
誰も言えなかった言葉を、彼らの代わりに紡ぐように。
【完】