靴ひもを結ぶ。固く、解けないように。
少年は一度だけ後ろを向いた。心配そうな母の視線に少しだけ申し訳なく思う。
「いってくるよ。お母さん」
レッドは言った。
「……必ず、帰ってくるんだよ」
ためらいがちな母の声。心配に陰る親としての愛情。そしてなにより
子供がポケモンを持っていかないという不安。
10歳になれば旅立つ。世間では当たり前のことだが、わが子にいたっては違う。それも悪い方にである。少年が持っていくのはバックと傷薬。それだけだった。ポケモンどころかボールすらない。
「本当にポケモンを持っていかないのかい?」
「ははっ、昨日オーキド博士からもらった火がついたトカゲは逃がしたじゃないか」
レッドは昨日町の著名人であるオーキド博士に呼び出されポケモンをもらった。オーキド博士については一度物理的に倒したことがあるが、幸いにそのあたりの記憶がなくなったらしく、何もいわず選別としてくれた。
本当はあのコラッタとの勝負の日にくれるはずだったのだが。レッドが戦いの傷を癒すため一週間伸びてしまった。別にもらわなくてもよかったのだが、レッドは人間に捕まっているトカゲに同情してもらい。逃がした。
「じゃあ、もう行くよ」
レッドはにこっと笑って玄関を出る。
少年は旅へ。その狭かった世界を広げるために行く。
見上げた青空に透けた雲が、彼の行く先に先回りしている。少年は少しだけ目を細めて、歩き始める。雲に追いつけるように。
――マサラタウン近郊の草むら――
「とどめだっ!」
レッドの体当たり。ポッポは倒れた。
レッドは足元に転がった鳥に目を落とした。彼の服はところどころほつれている。それこそ戦いの跡だろう。
「かぜおこしか……おそろしいわざだった」
おそらく駆け出しのトレーナーでも言わないであろうことをレッドは言った。彼の頬をすーと一筋の線を引いて血が落ちていく。レッドはごしごしと顔を擦った。
疲れはあるが、レッドは気分がいい。やせいのポケモンとの死闘に打ち勝つたびに体に力がみなぎることを彼は実感していた。
「これが、レベルアップか……」
体を駆けめぐる満足感にレッドは興奮した。拳を握って空へ掲げてみる。太陽の光が彼の目には眩しい。それも心地が良いものだった。
まるで世界最強になったような気分。レッドでも違うことはわかる、しかし少年はどこまでも上ることができるような気がする。レッドは少しだけはにかみながら拳を下ろす。
レッドは歩き出した。隣町のトキワシティはすぐそこだった。
――トキワシティ――
遠くの山が肩を組むように長い山稜を作っている。あの下は有名な「セキエイコウゲン」だろう。レッドはトキワシティの街中を歩きながら思った。
トキワシティの建物は少なく、街の規模はマサラタウンに毛をはやした程度だろう。しかし、カントーの端にあるマサラタウンよりは開けている。
一度立ち止まる。レッドは「セキエイコウゲン」にある方をじっと見つめた。
夢の場所。真の強者だけがたどり着ける場所。それが少年の見つめる先にあった。
近いのに遠く。遠いのに近い。そんな感覚を抱かせるほどに開けた視界が少年の前に広がっている。
「……」
レッドは歩き出した。歩き続けていたらいつかはたどり着けるはずだ。そう胸に思いをしまいこむ。
まずはこのトキワのジムに挑戦しようと、少年は意気込んだ。
ジム。それはポケモンジムのことだ。
カント―地方にはポケモン協会が公認した8つのジムがあり、それぞれ8人のリーダージムを守っている。いずれも強者であり、彼らを倒すごとにもらえる「バッジ」をあつめるとセキエイコウゲンへ行くことができる。
そしてその先にいる4人の実力者――四天王――を倒すことによって、その地方の覇者、つまり「チャンピオン」になることができる。
「閉まってる……」
レッドはがっくりと肩を落とした。まずはと思ってきたジムは閉まっていた。休みなのか閉鎖なのか、それもわからない。近くにいた人に聞いたところずいぶん前から閉まっているらしい。
ジムは入り口がしっかりと鍵をかけられ。小窓は汚れなのか中が見えない。
レッドは何となく足元の小石を蹴った。気合を入れた分だけ拍子抜けしてしまったのだ。仕方なく踵を返して彼は戻ろうとする。少なくともジム戦ができないのならば、ここに用事はないのだ。
「レッドじゃないか。おまえもここに来たのか」
レッドが振り向くとそこには黒いシャツにポーチを腰に付けた少年がいた。
「グリーン……ひさしぶりだね」
少年の名はグリーンと言う。あのオーキド博士の孫にしてレッドの幼馴染だった。
グリーンはにやりと笑って近付いてきた。
「俺様も、このジムに挑戦してやろうと思ってきたんだけど……二日待ってもジムリーダーが帰って来やしねえからさ。そろそろ次の町に移ろうとしてたんだ」
だけど、とグリーンは区切って。
「レッド。お前に会えてよかった」
「よかった?」
「ああ、そうさ。このまま引き下がったんじゃあ、よっきゅーふまんだぜ。お前もそうだろ」
グリーンがレッドに指をさした。
「勝負だ、レッド」
グリーンの切れ長の目がレッドを見据える。
「じじいからポケモンをもらったんだろ。聞いたぜ。俺様はその二日前にもらってお先にけーけんを積ませてもらったから、レッドじゃ相手にならねえかもしれないけどな」
ふふんとグリーンが鼻を鳴らす。レッドを見下しているというよりも元々の性格がこうなのであろう。ちなみ「じじい」とはオーキド博士のことである。しかし、レッドはポケモンなどという軟弱なものは持っていない。
レッドは言う。
「逃がした」
「は?」
「オーキド博士からもらったトカゲなら、自然に返した」
レッドの思いがけない言葉にグリーンはしばし呆然として、言う。
「じゃあ。お前はここまでどうやってきたんだ?」
レッドは腕をまくり、グリーンに見せる。
「これで、来た」
「ぶわっははあはっは」
まじかよとグリーンは大きく笑った。膝をばんばんと叩き涙が少し目元に見える。レッドはむっとした。グリーンの反応はおかしくはない、冗談と思っても不思議ではない。しかしレッドは何匹かのポケモンを実際に倒している、それが小さな少年の誇りとしてレッドの中にある。馬鹿にされて黙ってはいられない。
「勝負だ、グリーン」
ムキになって言うレッドにグリーンはははと笑いを収めながら。涙をふく。そして腰からボールを取り出して言葉を返す。
「いいぜ……ていうか勝負を仕掛けたのは俺様じゃんか」
からかってやろうとグリーンは思う。
レッドが腰を落として肩を出して、前傾に構えた。
くくとなおもグリーンは笑い。ボールを投げる。
光が飛び、シルエットが浮かび上がる。甲羅に青く丸い顔。
「ぜにぜに」
ゼニガメである。
「じゃ、レッドせんせいお手並み拝見とい」
レッドが右足を蹴る。グリーンの予想を超える。
「ぜに!」
レッドのたいあたり。ゼニガメにダメージ
ゼニガメは体格差に飛ばされて地面に転がる。そして素早く身を起こす。
ゼニガメの目つきが変わった。レッドを敵であるとやっと認識する。
遅い。レッドの追撃。走り寄ったレッドが肩をゼニガメに叩きつける。さっき同じように弾き飛ばされて転がるゼニガメ。
「ゼニガメっ。てめえ本当にポケモンを使わずに来たのかよ!!」
手持ちのポケモンに遅れグリーンはレッドの力に気が付いた。声に焦り、頭に危機感。
レッドはさらに右足に力を込めて地を蹴る。ゼニガメへの三連撃。
「っ。ゼニガメ、なきごえだ!」
「ぜにいいいい」
急な大声にレッドは目測を誤り、ゼニガメが急いで回避する。
「くっ」
レッドは勢い余って姿勢を崩した。一瞬足を止めてゼニガメへ向き直る。
「ゼニガメっ。おまえもたいあた……」
声が届いて動くポケモン。意思が体を動かす人間。速さは歴然としている。
レッドは体重を落としてたいあたりを行う。ゼニガメよりも速い。
「よけろお」
グリーンの声でゼニガメが口からあわを出してかろうじて避ける。だがレッドは学習している、避けられることを予想した華麗なターン、そこからの突進。レッドのたいあたりが体勢の整わぬゼニガメを弾き飛ばす。ゼニガメの口から水が飛び、水しぶきが上がる。それにまじってあわがとぶ。
「とどめだっ」
レッドがかろうじて立ち上がったゼニガメへ最後のたいあたりをくりだす。だだっと体重を乗せた疾走。ゼニガメは避けられないだろう。
ゼニガメのあわ。レッドにダメージ。
「ぐあああ」
レッドの目の前でいきなり、ぱんと「あわ」がはじけた。彼は何とか踏みとどまって前を向く。だが――
ゼニガメのあわ。レッドにダメージ。
「ぎゃ」
背中で何かがはじける音。何かに強く押されるような衝撃。レッドは倒れないように踏みとどまる。それが限界。
そこでレッドは気が付いた。あたりに浮く「あわ」に。
「焦ったぜレッド」
少しふらつくレッドに声がかかる。グリーンの声。
「俺様が編み出した防御法をこんな形で披露することになるとなんてな」
レッドが目を向ける。グリーンが立ち。その前でゼニガメが構えている。彼らとの距離は五メートルもない。十分にレッドの間合い。だが彼は踏み出せない。
レッドの周りに大小の「あわ」が空気に乗って流れる。それらには必殺の威力はないが触れれば爆発する。まるで機雷のようだ。
「俺様のゼニガメにダメージを受けたら泡を吐けって教え込んだんだ。どうだ? 近付けねえだろ」
ぎろとレッドがグリーンを睨む。戦闘で気がたった彼は強く言う。
「だからどうしたんだっ。近づけないのはゼニガメだって一緒だろう!!」
グリーンは首を少し傾げちっちっと指を振る。そしてそのまま指をレッドに向けて。
「俺様がそんなバカなことするわけねえだろう。行くぜっ、ゼニガメ」
ゼニガメが息を吸うように口を大きく開ける。そして前へ体を倒した。
「みずでっぽう!!」
いきおいよくゼニガメの口から飛ばされた水流が「あわ」の結界を越えてレッドの頭部に直撃する。ふわりと彼の足が浮く。水流に「もっていかれる」。
がんとレッドは頭から倒れた。上からぱらぱらと水滴が落ちてくる。
目の前が歪む。軽く脳が揺れる。
「ぐぅ……」
レッドは何とか身を起こした。まがった形をしたゼニガメがさっきより遠くにいる。いや曲がっているのはゼニガメではない。彼の視界だ。
立ち上がれそうにはなかった。一瞬の油断が招いた危機に、体が反応しない。膝立ちになり虚ろな目でレッドはグリーンを睨み、そしてレッドは
肩を構えてゼニガメに向かい合う。
まだだと言わんばかりにレッドはありったけの力をかき集めた。立ち上がれないならば立ち上がる必要はない。ただあそこまで。ゼニガメまで数歩、地面を踏み込めればいい。それだけで立ち向かえる。
「おい……レッ……あきら……あわ……」
グリーンが何か言っている。レッドの耳はそれを解しない。どうでもいい。
ふらつく体を意思が支え、勝利への道を一足に飛ぶ。レッドにはもうそれだけが認識できる全て、それでよいと思う。
レッドが地面を蹴る。たいあたりだ。
一歩。ゼニガメが構え、グリーンがあわてる。
二歩。ゼニガメだけがレッドの目に映る。
三歩。ゼニガメの顔が膨れる。みずでっぽうを撃とうとしているのだろう。
ぱん。レッドの頭の中で音が響く。泡に結界に飛び込んだのだろう。後ろから押されるように衝撃を受ける。つまり背中であわがはじけたのだ。痛みはあるがレッドは、こう思った。
――ありがとう――
衝撃がレッドに勢いをつける。痛みは感じない。もうやつに
ゼニガメに勝てればいい。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお」
咆哮。レッドが叫ぶ。ゼニガメの膨れた顔が前へ突き出される。
みずでっぽう。必殺の水流が青い螺旋を描きながらレッドに迫る。
だがレッドは止まらず水流へ向かう。足がみちりと音を立てる。
瞬間、レッドの脳裏にかつてのライバルの姿がよぎった。コラッタ。彼の雄姿。それを無意識になぞる。
たいあたりが速さを増していく。数秒にも満たない攻防の中での進化。
――電光石火。
水流をレッドの速さが切り裂く。その先へ。驚くゼニガメへ。渾身の一撃を叩きつけた。
ゼニガメがジムの壁に打ち付けられた。一瞬遅れてグリーンの声が響く。
「ゼニガメっ!」
レッドは地面へ倒れた。ぜえぜえと少しでも空気を取り込もうとする。肺と心臓が激しく動く。だがレッドは薄く笑った。勝ったのは、僕だ。と心で呟く。それでも、しばらくは動くことはできないだろう。
限界を超えた速度に体が悲鳴を上げていることが彼にはわかった。自分の体だから、当たり前かもしれない。
「戻れ、ゼニガメ」
グリーンがゼニガメをボールへ戻す。そしてつかつかとレッドの元に近づいて彼を見下ろした。
「たいしたもんだよレッド。今回は俺様の負けってことにしといてやるよ」
微妙な言い方。「してやる」という言葉にレッドは目だけでグリーンに抗議する。声を出すのもおっくうだ。
「そんな顔すんなよ、レッド。これは一応ポケモンバトルなんだろ? じゃあ俺様の言ったことで間違いはねえよ」
だってよとつづけ。
「俺様の手持ちは三匹だぜ」
「!」
二匹。レッドは倒さないと勝ちを得られない。グリーンが「してやる」と言ったのは間違いではない。たとえグリーンの手持ちでゼニガメが最強でも今のレッドにはどんなポケモンにも太刀打ちする力はない。
どう反応していいかわからずに困惑するレッドにグリーンはポーチに手を入れて。ぽんと何かを投げる。レッドの前に手帳のようなものと傷薬が落ちる。
「姉ちゃんから地図だってよ。必要になんだろ、これから。……じゃあ、俺様は行くぜ、ゼニガメを鍛えなおさないといけないしな」
じゃっとグリーンが走り去る。遠くで一度振り返って。
「ばいびー」
とだけ言いいながら。
レッドとグリーン。長い戦いが始まる。
ゼニガメLV8撃破。レッドは電光石火を少しだけ使えるようになった
ポケモントレーナーとして力をつけてきています。レッド君。