少年は常人では捉えることのできない速度で細い投擲剣を振るう。
対する黒ジャケットの男は武器など持たずに己の拳のみでそれを相手する。士郎に足を切られてから十秒ほど、彼の足は完治しかけていた。すでにハンデはない。
両者の技量は到底素人に測れるものではなく、理解もできないほど高次元の戦いだった。ある程度武術の心得がある凜でさえも動きを追うだけで精一杯。二人がどのような駆け引きをしているのかまではわからない。
「少し離れましょう」
花蓮が凜に提案する。
「彼一人であの怪物を?」
「士郎なら単独でも問題ありません。それに私たちがいては邪魔になるだけです」
「――――」
反論はない。まだ一分も戦闘を見ていないが、凜はこれが自分が介入できるような戦いではないということはわかっている。
「――わかった。綾子、移動するわよ」
「…………」
綾子は目の前の光景を呆然と眺めていた。
「ほら!」
「あ…」
凜に手を引っ張られて彼女も歩き出した。
その瞬間、
「――――!」
男の重い拳を正面から受けた士郎が吹き飛ばされる。ロビーの方向だ。
「士郎…」
***
通路を数メートル吹き飛ばされたところで士郎はなんとか足を踏ん張りブレーキをかけて止まった。
「――鍛錬は怠ってないけど実戦がないとやっぱり鈍るな。いつもやっていることをどんな時でもできるようにしたいもんだ」
この数十秒戦った士郎から出た感想はそれだった。
まともな死徒との戦闘は久しぶりになる。戦闘の感覚がいまいち掴めていない。
今の殴りも何とかガードができたが下手をすれば内臓を持ってかれていた。以前ならこうはならなかっただろうと、士郎は自分の未熟さを再確認する。
「ここは…ロビーか」
背後を見ると開けた空間があった。入口の近く、つまりロビーだ。ヴェルデは吹き抜け構造になっているため二階からロビーの様子を窺える。彼の背後が開けた空間になっているのはそのためだ。
「ここまで来たなら様子を見ておきたいな…」
もう少し背後に下がれば一階のロビーが見える。悲鳴などは聞こえないのでまだ危険にはさらされていないようだが、念のために目で見て確認しておきたい。
「でもそんな暇ないか」
死徒である人外は紳士のように整った歩調で歩み寄ってくる。
「まさかこんな極東の地で代行者と出くわすとは。まったく…運がいいのか悪いのか」
外国人とは思えない悠長な日本語。
黒鍵を見て士郎が代行者なのだと死徒はすぐにわかったようだった。
「――この結界を展開したのはお前か?」
「なんだ、話すのか。問答無用で殺しにかかってきたから会話はしないのかと思っていたぞ」
「先に手を出してきたのはあんただろ」
「手を出していなくても私を発見したら貴様は殺しにきただろう」
「それが俺の役割だからな」
「ふむ。役割か」
その後に男は小さな声で「つまらないものだな」と言葉を続けた。
「それよりも死徒、俺の質問に答えろ」
「…お前の言った通り結界を張ったのは私だ。魔術を少しかじっているのでな。それと私には名前がちゃんとある。リカルドだ。そう呼べ」
死徒――リカルドは否定もせず結界は自分が張ったのだと認めた。
「魔術師でもある死徒か。リカルド、なんであんたはこんなところで結界まで展開させて半死徒を増殖させてるんだ」
「なに、単純なことだよ。血が欲しいだけだ」
「だから人が多いここを?」
「その通りだ。わざわざ人間が集まる休日まで待った甲斐があった。平日よりも数が多い」
血を多く集めるならのが目的ならばこの土地でこの日のここ以上に適している場所はないだろう。
「なぜわざわざ冬木で血を集める。ずっとここにいたわけじゃないんだろ。多く集めたいなら他にもいい土地はあるはずだ」
そう、血を吸うだけなら日本の冬木市までくる必要はない。大量に日本で集めるなら地方都市ではなく東京に行った方が効率的だ。
「ここまで来たのはあるものに依頼されたからだ。血を吸ったのは……まあ正直依頼とは関係ないな」
「関係ない?」
「ああ。言葉通りだ」
驚くほどに素直にリカルドは質問に答えているが、偽りはない。そう感じられた。
「私の方から質問させてもらうぞ……と、その前に名前だ。私が名乗ったのだから貴様も名乗れ」
「――言峰…言峰士郎だ」
「言峰士郎…か。なるほど承知した。短い間になるだろうがその名で呼ぶとしよう」
かみしめるように彼は士郎の名前を復唱した。
「それで言峰士郎。私からの質問だ。かつてこの地にあったどんな願いもかなえると言う万能の願望機について知っているか? いや、教会の人間なら知っていて当然か。質問を変えよう。『
「――――」
万能の願望機。それは聖杯戦争において勝者だけが手に入れられる聖杯のこと。彼はそれがどこにあるのか士郎に質問した。
「――十年前に破壊されてる。今はもうここの聖杯は存在していない」
「ほう…」
十年前の聖杯戦争で冬木市に設置された『第一の聖杯』は破壊されてしまった。
つまりリカルドの求める願望機は存在していない。
「…あの人間に聞いた通りだな」
その答えがわかっていたかのようにリカルドは笑う。
「さて、お互いに最低限の確認は済んだだろう。続きを始めよう」
「
士郎は新たに黒鍵を作り出し、構えた。
本編は残り二話です。過去編もあと一話書いてあるのでそちらを投稿したらしばらくは休みになると思います。