トリノ
男がいた。
彼にあこがれるヒーローはいない。
彼に目指すべき星はない。
彼に貫くべき正義はない。
そして、
彼は剣ではない。
彼は正義の味方ではない。
――彼は死神だ。
だが…そんな彼にも約束はあり、守るべき人がいた。
***
イタリア、トリノにて。
「血が……血が欲しい…」
190センチほどの身長の大男――ブノラは道を歩きながら呟く。
最近までただの人だった彼は、数日前に何者かに襲われ人間とは異なる存在に変化した。
誰にそうされたのかは不明。だがもうそんなことはどうでもいい。最初は自分の体の何かが変化したことに困惑したが、今では何度も人を襲い食欲にも似た血を吸いたいという吸血衝動に抵抗することなく吸血を行っている。路地裏などの人通りの少ないところに来た一般人を襲っているのだ。
「まだ足りない…」
すでに今日は三人の血を吸っているがそれでも彼は満たされない。
「――いい獲物だ」
先程から後をつけていた少女が暗い路地裏に入っていった。
他に人がいるような気配はない。完全に一人だ。
「――――」
これを逃す手はない。ブノラは少女を追う。
興奮からか足取りはだんだん早くなっていく。一歩、また一歩と距離をじわじわと縮めていく。
「ご馳走だ…」
白髪の少女を追いながらそんな言葉が漏れ出る。
彼に起きた変化は、身体的なものもあったが内面的な変化もあった。人間を人間だと思わなくなってしまったのだ。正確に言うのならば、同族ではないと認識するようになった。だから人がどれほど苦しもうが気にしない。変化してから加えられていた吸血衝動のままに行動する。
「――――」
もう少しで手が届く。少女は目と鼻の先だ。
「………」
肩を掴んだ。ブノラの力は人間だったころよりもはるかに上。掴まれた人間はいくら抵抗しても逃げ出すことは不可能。
いよいよ獲物を喰らう。少女が肩を掴まれたことに対して一切の反応をしないことが気になりはしたが、ここまできてしまっては止まれない。
少女の首筋に鋭い歯が生えた口を近づける。そして少女に噛みつく――
「あ…れ……?」
――ことはできなかった。
口を近づけようとしているのに頭が動かない。どれだけ頭を動かしてもビクともしない。まるで頭でも掴まれているような圧迫感があった。
「………」
なぜそのようなことになっているのか、理由は簡単。ブノラは本当に頭を鷲掴みにされているのだ。いつのまにか自分の横にいた少年の右手によって。
「その汚い手で…触れるな……」
頭が動かせないので顔を見ることはできない。しかし少年の声からは明確な怒りがうかがえる。
「ぐ、がが…ガ――!」
握られる力がだんだん強くなっていく。このペースで力を強めていけば、あと十秒もしないうちに頭を握りつぶされる。
「…士郎。そのまま潰したら手が汚れるわ」
「――そうだな。 」
小声で少年が何か言葉を口にしていたがブノラには聞き取ることができなかった。
その後すぐに背中から細い刃物を入れられ体を裂かれる感覚を味わいながら、ブノラの命は終わりを迎えた。
***
「――これで死亡…。こいつも半端な死徒だったか」
命という中身が詰まっていない、上半身を真っ二つに裂かれた男を少年――言峰士郎は観察する。
「大本の排除は成功したのだから向こうの援護に向かいましょう」
男に肩を掴まれていた白髪の少女――言峰花蓮は士郎にそう提案する。
「……あっちはもう大丈夫だよ」
士郎がその必要はないと移動しようとしていた花蓮を止める。
「――? どういうこと?」
「それは――」
「士郎くん、花蓮さん。こちらは……終わっているようですね」
士郎でも花蓮でもない別の人物の声。声の主は、路地を挟む建物の屋根の上から二人のもとへ飛び降りた。降りてきたのはショートカットで士郎たちと同じく修道服のようなローブを着た少女。
「シエルさん。そっちは終わったのか?」
少女の名前はシエル。二人の知り合い…同僚であり友人と言ったところだ。
「はい、終わりました。それよりも二人には親の方を任せてしまったようでしたけど大丈夫でしたか?」
「ええ、士郎のおかげで苦戦することなく」
「半死徒だったからな」
彼は苦戦するほどの力量の持ち主ではなかった。士郎と同じ役職についている者ならば誰でも無傷で殺せるだろう。
「無事で何よりです。それにしてもまた半死徒でしたか…」
彼女は二人が無事であったことを確認して安堵するとともに、表情をこわばらせた。
「――とりあえず教会の方に戻って報告を済ませましょう」
花蓮の提案でひとまず報告をするため教会に戻ることにした。
***
「ごちそうさまでした!」
食事を終え、銀色のスプーンを置いたシエルは満足している様子だった。
「士郎くんの作るカレーは相変わらずおいしいですね」
「どうも」
今まで自分が磨いてきた料理の腕を褒めてもらうのは素直に嬉しかった。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。おかわりは?」
「いいんですか?」
「気にせずどうぞ。シエルさんの為に大量に作ったんだから」
「では、遠慮なく」
大好物のカレーを前にして喜びを隠せていない。
「今日は助かったよ」
「気にしないでください。困った時はお互い様ですから。それにいつもカレーをごちそうになっているのでそれのお礼だとでも思ってください」
今回彼女が士郎と共に作戦をこなしたのは偶然だった。というのも彼女がイタリアを訪れたついでに士郎の家に遊びに来たところ、ちょうど友人の二人に命令が与えられていたので本来関係ないシエルがその任務を手伝ったのだ。
「はあ…」
皿に盛られたカレーを食べ終わったところでシエルが深いため息をついた。
「どうかしたの?」
そんな彼女を見て花蓮が質問する。
「……はい。近々仕事で日本に行くことになったんですよ」
「あら、それは奇遇ね。私たちも任務で日本に行くことになってます。来年の春からですが」
「ええ!? そうなんですか? それは驚きです」
シエルだけでなく士郎も驚いていた。現在の日本の状況からして、彼女のような存在が呼ばれるようなことはないと思っていたからだ。
「今回の任務は難しいものなのですか?」
詳しい概要まで聞く気はないがどの程度の仕事なのかを花蓮は聞く。場合によってはこれからの教会の動きに絡むことになるかもしれない。
「難易度的にはどう高くないと思います。そもそも私がやらなければならない仕事なので高くても低くても必ずやりますが」
真剣なシエルの目を見て仕事の内容は大体掴めた。彼女の体の話は軽く聞いているので察しはつく。
「じゃあなんでそんなに憂鬱そうに?」
どうやらシエルのため息の原因は仕事の辛さからではないらしい。
「場合によっては長期間滞在することになるかもしれない…つまり士郎君のカレーが食べられないんですよ…」
やはりカレーだった。
頻繁というわけではないが定期的に二人の家にカレーを食べにくるシエルにとって長い間士郎の作るカレーを食べられないのは苦痛なのだろう。
「…任務から帰ってきたらたくさん作るから、それまで我慢してください」
「はい! 楽しみにしていますね!」
容姿相応の無邪気な笑顔を見せるシエル。これで士郎よりも年上なのだから驚いてしまう。
「まあでもその任務はカレー以外の食べ物を好きになるいい機会になるんじゃないか? 日本は美味しいもの多いからな。しかも今は時期的に食欲の秋だ。ちょうどいいだろ」
「そうですね。シエルは少しカレー以外のものを食べるべきです」
シエルのカレー好きは二人も少し引くレベルのものだったりする。
「それは無理です。カレーがないと生きていけません」
「そこまで!?」
思わず椅子から立ち上がり士郎が大声でツッコミを入れる。流石にカレーが生死に関わってくるとは思ってもなかった。
「――士郎君たちはなぜ日本に?」
ひと段落したところで今度はシエルの方から質問した。
「なぜとは?」
「いえ、日本は他の国と比べて死徒の数が少ない方ですから。士郎くんと花蓮さんに命令が下るとなると余程のことがあったのではと思ったのですが」
シエルのように特別な事情があるのならともかく、士郎と花蓮に日本行の任務を任されていたのは驚きだった。
「――私たちの主な任務は冬木市の調査です」
「なるほど……」
魔術を管理し、隠匿し、発展させる魔術協会。全ての異端を消し去り、人の手に余る神秘を正しく管理することを目的としている聖堂教会。その二つの組織が共に警戒している土地が世界に三か所ある。そのうちの一つが日本の冬木市。悪夢が起こった場所。
「士郎くんは…いいんですか?」
彼の過去を知っているシエルは心配そうな声で聞く。
「いいもなにもないよ、それが俺の仕事だから」
「………」
普通の人間として生きる道を捨てた彼には仕事を選ぶことはできない。シエルも同じだ。だから士郎の生き方に口をはさむことはできない。
「――――そうだ。シエル、イタリアと日本以外の国の状況はどうなっているんですか?
最近はアレの数が増えてきてここから動くことが少ないから情報を教えて欲しいです」
花蓮が話題を変える。決して明るい話ではないが、
「増えることなく、減ることもなく。つまり変わっていないです。理由は不明ですが減らした分だけ増えてしまっています」
「体感では増えてる気がするんだけど……変わっていないのね。それと南米の方に変化は?」
「そちらも変わらずです。あの生命体は動くことなく南米を半壊させた時と同じ状態で停止しています」
「――――」
「――――――」
士郎もシエルに質問をした花蓮も何も言うことはなかった。
「――――仕事の話はこの辺にしておきましょう」
仕事について話はどうも暗くなってしまう。
シエルを含め三人とも別に望んでいないので話題を変えることにした。
***
時計を見る。
「――そろそろ帰りますか」
話題を変えた後は会話の内容は明るいものになり、気付けば時間はあっというまに過ぎていった。
これは三人で会話するとよくあることだ。何気ないただ会話が自分たちを普通の人間のように思わせてくれるため、つい時間を忘れてしまう。いつもならこのまま士郎たちの家に泊まるのだが、次の任務のための用意があるらしくシエルはこの日はもう帰ることにした。
「今日も美味しいカレーをありがとうございました。また来ると思うのでその時はよろしくお願いします」
「いつでもどうぞ」そう士郎が言うと「はい!」と笑顔で言って少女は家から去って行った。
月姫は漫画だけで原作を触ったことがないのでカレーの人のキャラにそんなに自信がないです。彼女のキャラについては大目に見てやってください。