虚無を宿した瞳が目の前にあった。知っている恐怖がそこにはあった。
垂れた長い前髪から覗かせるその眼は一見、何も映していない漆黒のように見えるがそれは違う。
その双眼は間違いなく俺の顔をじっと捉えていた。未知ではなく既知の
心臓の音がバクバクと煩い。瞬きも呼吸すらも忘れていつの間にか滝のように油汗が背中から流れた。
「前はって……何のことだ?」
緊張でカラカラに乾いた喉を唾で濡らして何とか声を絞り出した。
あり得ない。そんな事はない。大丈夫だ、何も問題ない。前回とは違う。
何度も何度も、同じ言葉を繰り返し言い聞かせて己を鼓舞した。自己暗示にも似たそれは、多少は効果があったようで、さっきよりは少しだけ呼吸を整えることができた。
冷静に。冷静に、だ。落ち着け。まだ何も確定していない。三玖の冗談か何かの可能性だってある。
「フータロー、寒いの?」
「な、なんのことだ」
「足、震えてるよ」
「ッ!?」
足元を見ると自分では全く意識していなかったが痙攣したかのように俺の足は小刻みに震えていた。
無意識に、まるで生物として生命を守る防衛本能とでも云うかの如く。
慌てて太ももを両手で抑えて何とか震えを抑え込んだ。気を抜けばきっと尻餅を付いて立ち上がれなくなる。
そうなれば終わりだ。その先に待ち受けるのはあの鮮血の────。
「大丈夫?」
「あ、ああ。問題ねえよ」
「本当に?」
「本当だ」
「ふふ、強がりはダメだよ」
「……なっ」
口元に薄く弧を描いた三玖が、あろうことか俺の胸に飛び込んできた。
足が震え、その震えを手で抑え込んでいた俺は当然それを受け止めれる術を持たない。
三玖に押し倒される形で尻餅をついてしまった。
「……っ! な、何しやがる!?」
「懐かしいね」
「はあ?」
「『前』もこうしてフータローの胸に抱き着いたでしょ? あの旅館で」
「────」
三玖の言葉に必死に積み上げていた思考が一瞬にして崩れ言葉を失った。決して聞き間違いなんかじゃない。
確かに、はっきりと、目の前の三玖は俺に告げたのだ。まだ未知である筈の俺の中で色濃く残る『思い出』の一つを。
「私を見つけてくれて、涙が溢れそうになっちゃって……本当に嬉しかったんだよ」
「お、俺は……んぐっ!?」
なんとか紡ごうとした言葉を物理的に封殺された。唇を塞ぐという強行手段を以て。
体力がない三玖が相手なら男の俺でも突き飛ばすことは可能だ。だが抵抗できない。
恐怖で体が動かない。震えて上手く機能しない。けど、抵抗できない理由はそれだけではない。
もし突き飛ばして三玖が怪我をしてしまったら。
そんな彼女に対する情で行動に移せなかった。今更ながら自分が姉妹達に対して甘いのだと嫌でも思い知らされる。この期に及んで気に掛けるのは自分の身ではなく相手なのだから。
分かっている。これが甘いなんて生易しいものじゃない事は。俺が姉妹達に抱く胸の疼きが何なのか、本当は理解しているんだ。
「んっ、はむ……」
ちゅぱちゅぱと音を立てながら三玖の舌が俺の口内を犯していく。
唇を啄み、歯茎を舐め、舌を絡める。
ただ茫然と三玖との非日常的な行為を受け入れながらも、思考はさっきよりも冷静さを取り戻ししていた。
単純な話だ。自分だけが『二度目』だなんて、そんな都合の良い話はない。ただそれだけの事だったんだろう。
俺は自分だけが都合の良い存在であると勘違いしてしまった。
或いは選択を間違えたのか。『二度目』の機会を得た時、あいつらを関わらないように立ち回る事も可能だった。そうすればこんな事にはならなかったのかもしれない。むしろそれが最善の選択だったろう。
だけど、そんな選択肢など俺には最初から存在しなかった。
あいつらは俺を正しく変えてくれた。独りだった俺に大切な事を教えてくれた。見失っていたものを取り戻してくれた。
だが俺はどうだ。あいつらに何をしてやれた? 何を与えてやれた? 何もないじゃないか。
それどころか間違った方向へと変えてしまった。これは罪だ。俺があいつらを変質させてしまった。
『あんな事』があったにも関わらず、俺はこうして三玖を拒む事が出来ない。いやむしろ『あんな事』があったからこそ、俺はあいつらを拒む事が出来なかった。
結局、負い目があるからだ。あいつらから逃げてしまった事に。変えてしまった事に対する罪悪感が。
もう一度、あいつらに関わろうと決めたのは逃げた事に対する罪滅ぼしと、俺を変えてくれた恩返しの為に。
……だからこの状況はむしろ都合が良い。
あの時、逃げてしまったあいつらに対してこうして今度こそ、ケジメを付ける事が出来るのだから。
「……聞いてくれ三玖」
「なに?」
幾分かの口付けを終え満足気に笑みを浮かべる三玖の肩を両手で掴んでその瞳をしっかりと見据えた。
「俺は……お前たちから逃げてしまった」
「うん。ずっと探していたんだよ」
「俺はお前たちを変えてしまった」
「そうだよ。フータローが私を変えてくれたんだ」
「本当に……すまないと思っている。黙って消えた事も。お前たちの気持ちから背を向けて逃げてしまった事も、全て」
「本当に、酷いよ。責任を取るって言ってくれたのに」
「……だから、二度目は、今度こそ逃げないと決めたんだ。思い出したのなら……それでいい。三玖、お前だけにでもちゃんと伝えるべき言葉を今、伝える」
前回の時も、こうしていれば良かったんだ。恐れず逃げず向き合って、あいつらの想いを正面から受け止めて、その上で自分の想いを伝えれば、きっと間違える事などなかった。
だから今度こそ言おう。半端な関係に区切りを付けて、良き友人同士になればきっと昔のように六人で笑い合う関係に戻れる筈だ。
「俺は……」
「いいよ。全部分かっているから」
決意を込めた俺の言葉は三玖の囁いた返事に掻き消された。
茫然とする俺に三玖は屈託のない笑みを浮かべる。その微笑みは俺が何度も見た、静かで優しい笑みだった。
「えっ?」
「フータローが何を言おうとしてるのか、分かっている」
「だが」
「安心して。もう前みたいな事はしないよ」
「……」
「私こそごめんね。前の事も、さっきの事も。フータローを怖がらせちゃって……でも前の事を思い出して、我慢できなかった。想いに蓋をできなかった」
「三玖……」
「フータローは、戻りたいんだよね。一花も二乃も四葉も五月も含めたみんなで笑い合っていた関係に」
「……ああ」
「私も同じだよ」
そっと差し出された三玖の手をまじまじと眺めた。
これは、どういう状況だ。どういう事だ。理解が追いつかない。感情が整理できていない。
目の前の三玖は、本当にあの『三玖』なのか? 全て思い出したというのに、それでもなお俺と同じようにあの平穏な日常に、楽しかった六人に戻りたいと、そう願ってくれているのか?
「私も、またみんなで笑いたいな。姉妹みんなで、フータローと一緒に」
「……だから、今度はちゃんと六人で、笑顔で、ね?」
その言葉が俺の耳に届くと同時に自然と体が動いていた。差し出された三玖の手を、俺は包み込むように両手で握りしめていた。
体は震え、何か生暖かい雫が頬を伝っていく感触があった。
許された、とは思っていない。思える筈がない。まだ何も成し遂げていないのに。
だけど『あの時』の三玖がこうして目の前にいて、俺と同じようにやり直しを願っていたと知れただけで、ただほんの少しだけ救われたような気がしたんだ。
◇
分かっているよ、フータロー。フータローが何を言おうとしたのか。
私の、私達の想いに全部決着を付けようとしたんだよね。
でも言わせないよ。言葉にさせない。だから私は『聞いていない』。聞いていないなら事実じゃない。なら問題はないよね。
でも安心して。嘘はついてないよ。フータローは私達六人でいたい。私達はフータローと一緒にいたい。ほら目的は同じ。
だから、きっと最後には幸せになれる。フータローの目指すようにみんなで笑顔に。
何も問題ないんだよ。フータローがあの女を想っていても、『今』は何も問題ない。
大事なのは未来だから。今はどうでもいい。それに、私は別に構わないよ。他に好きな人がいても、フータローが私達を好きになっちゃダメって道理はないんだから。
二乃は煩いだろうけど、でも私は気にしない。だって私の恋と想いはずっと変わらないから。
──フータローが他の人を好きになっても失恋したかどうかは私が決めることにするよ。
◇
「……なんだか静かですね」
四葉と五月。二人きりの放課後。静寂が支配する教室で先にぽつりと五月が呟いた。
「校舎には生徒も殆どいないですし、普段とは随分と違います」
「うん。テスト前だし他の生徒は軒並み帰ってるのかも」
「まあ、私達には関係ないですけどね」
「上機嫌だね」
「そりゃそうですよ。前回のテストではみんな赤点を回避できて、上杉君も私達の為に頑張ってくれましたし、私も頑張らないと」
今にも鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌な妹の様子に四葉ははにかんだ。本当に五月はよく笑うようになったと思う。
別に彼女が特段、無愛想という訳ではない。無愛想という評価ならそれは三玖の方が当てはまるだろう。
だが姉妹の母代わりを名乗り模範であろうとする五月が普段から気を引き締めている様を四葉はよく知っている。
気を抜くのは彼女が大好きな食事時くらいで、外では勉強以外は真面目な優等生だ。そんな彼女がこうして子どもの時のように無垢な笑顔を曝け出すようになったのはつい最近だ。
勿論、心当たりはある。間違いない。彼だ。
「そうだね……ねえ五月」
「なんですか?」
「私が呼び出した理由……分かってるよね?」
ようやく本題を切り出した四葉は親の仇を見るかの如く怨嗟の念が籠った眼でたった一人しかいない最愛の妹を睨み付けた。
ギチリと握った拳から骨が軋む音が鳴る。もし二乃のように爪を伸ばした手だったらきっと掌にそれが食い込んで血塗れになっていただろう。
「さあ? 心当たりはないのですが」
しかしそんな姉の視線を受けながらも飄々と涼しい顔を浮かべる五月に四葉は歯を食いしばった。
自壊しかねないほと圧の掛かった歯はぎちぎちと音を立てるその様はまるで獲物を狩る時に喉を鳴らす獣である。
こんな様、きっと他人には見せられないし何よりも愛しいの彼には絶対に見せはしない。
家族だから、姉妹だからこそ曝け出せる剝き出しの感情。純粋な怒り。冷静になどなれないし、なる必要もない。
「……そう。とぼけるつもりなんだ」
「とぼけるって何の話ですか?」
「言わないと分からないのかな」
「そう言われましても……あ、もしかして」
困ったように顎に手を当て考え込むようなポーズをする五月は何処かわざとさしく見える。それは四葉にとっては腸が煮えくり返るほど腹立たしかった。
そんな五月は数瞬の考慮の後、何かを思い出したかのポンと手を叩き笑みを浮かべた。
「私が上杉君と関係を持った事ですか?」
「──────」
完全に油断していた。相手があの五月だから。普段の五月なら何か後ろめたい事があれば目に見えて分かるように動揺を見せるのだと、そう思い込んでいた。
教室に呼び出した時に気付くべきだった。動揺した様子もなくただ静かに待ち構えていた彼女に揺るがぬ意志が宿っていた事に気付くべきだった。
感情を剝き出しに相手に牙を向けていたのは自分だけではない。
五月もまた自分に対して研ぎ澄まされた敵意の刃を向けていたのだ。
「どうしたのですか? 四葉」
「ッ!?」
予期せぬ先制攻撃に硬直していた四葉は挑発するかのように浴びせられた五月の言葉で冷静さを何とか取り戻した。
しかし冷静になれたのは一瞬限り。次の瞬間には先の言葉に対する怒りが沸々とマグマのように湧いて出た。
私の風太郎君と関係を持った? 噓でも万死に値する。いつから私の可愛い妹は長女のようになってしまったのだろうか。
そう嘆きながら四葉は五月に鋭い眼光を飛ばした。
「五月……冗談にしては笑えないよ」
「ふふ、まだ冗談だと思っているなら楽観的すぎて笑えますけどね」
見え透いた挑発だ。乗るな四葉。この手のやり取りは一花と顔を合わせる度に交わしてるじゃないか。
そう自分に言い聞かせるが感情はそう簡単なものではない。気付けば四葉は怒りのあまり近くにあったゴミ箱を蹴りで真っ二つに叩き割っていた。
空中にゴミが散乱する中、憤怒と憎悪を滲ませ五月に問うた。
「いくら鈍い五月でもさ、知ってるよね」
「何がですか?」
「私が風太郎君の事を好きだって」
「ええ、誰だって分かりますよ。だって四葉、上杉君と一緒にいると本当に楽しそうでしたから」
「覚えてる? 五年前の京都で出会った男の子の話」
「修学旅行の時ですよね。四葉、嬉しそうに自慢してましたね」
「その男の子が風太郎君なんだ」
「へえ、それは凄い偶然ですね」
「……ここまで言ってまだ分からないかな」
「何が?」
「偶然なんかじゃない。必然……ううん、運命なんだよ」
「運命、ですか」
「そうだよ。私と風太郎君は結ばれる運命なの」
そうだ。運命だ。宿命なのだ。自分と彼は結ばれる。京都で偶然出会い、約束をし、そして再会し、彼は自分を覚えてくれた。
これを運命と呼ばずして何と呼ぶのか。再会した時、同じ顔である自分達姉妹の中から彼はこの中野四葉を呼び出したのだ。それは彼が自分を見分けられた何よりの証拠。
愛があれば見分けられる。愛の証明。それを彼は再会と同時に見せつけた。ゲームセットだ。勝負はついた。試合終了。パーフェクトゲームだ。
ハナから他の姉妹に出番などなかった。それなのにあろう事か擦り寄り集ろうとする愚姉が三人もいて疲弊してたというのにまさか妹まで姉達と同じ過ちを犯すとは。
だから今日は五月を呼び出したのだ。既に勝負が決まっていると分からせる為に。
「ふ、ふふっ」
……だというのに何故、目の前の妹は嗤っているのだろうか。
「何が可笑しいの?」
「何がって、ふふっ、すみません。これを堪えるのは無理です」
「ふざけているの」
「だって……可笑しいじゃないですか」
「何が」
「四葉と上杉君は結ばれる筈の運命だったんですね……なら何故私と彼はこうして関係を持ったのでしょうか」
そう言って五月は懐からある物を取り出して四葉に見せつけた。彼女のスマホだ。そこに表示されている画像は四葉が思考が真っ白になるには十二分な威力があった。
彼女の視界に飛び込んでいたのは眠る風太郎にまたがり、よがり、見た事もない悦楽の表情を浮かべる五月の姿であった。
「う、噓だよ……こんな」
「何を言っているのですか。あなたも疑っていたから私を呼び出したんでしょう?」
最早怒りすら湧かず、あるのはただただ疑問だった。どうして、何故。どうにかしてそれを四葉は言葉にして絞り出した。
「な、なんで……」
「何故って一緒だからですよ」
「いっしょ……?」
「はい。私も上杉君が好きですから」
「風太郎君は私の……」
「この期に及んでまだそんな事を言うのですね」
やれやれと呆れたように嘆息しながら五月は四葉の眼を捉えながら一歩近付いた。
思わず後退った四葉であったが五月は構わず更に一歩前に出て距離を詰める。
それを何度か繰り返して気付けば四葉は教室の壁側まで追いやられていた。自分と同じ顔をしている五月が目と鼻の先にまで近づく。
この距離になってようやく気付いた。今日の五月は何かが違うと思っていた。それは眼だ。宿しているものが違うのだ。
一花が見せる執念の籠った炎ではない。虚無を宿した暗い瞳。だけどその瞳の奥底には執念以上に強い何かどす黒い意志が確かにギラギラと燃え盛っている。
「あなたに足りないものがあります……何だかわかりますか?」
「足りない、もの?」
「危機感、ですよ。あなた、もしかしてまだ自分が上杉君と結ばれると思ってるんじゃないですか?」
五月がそっと四葉の頬に触れる。何故か彼女の手がひどく氷のように冷たく感じた。
「運命じゃダメです。足りないんですよ。それだけでは」
「私一人じゃダメなんです。一花だけでも、二乃だけでも、三玖だけでも、四葉だけでも、私だけでも……五人で、みんなで」
添えらえた手はそのままに五月は四葉の耳元で囁いた。
「……だから早くあなたも思い出してください。あとは一花とあなただけですよ」
「何、が……」
「決まっているじゃないですか。上杉君との楽しかった思い出ですよ」
ふと、その瞬間。四葉の脳裏に深紅に染まり倒れる愛しい彼の姿が過った。