本の虫と髪切り虫のお話 作:てる
真夏には珍しいひんやりとした午前のこと。
私と阿求は店の前に敷いた筵の上にせっせと
本を並べていた。
古書特有の少し黴臭い、けれど珈琲のようにどこか私達を惹き付ける香りが辺りに漂う。
「暇だわー。ねえ阿求、なんか一発芸やってよ」
「そんな事言ってる『暇』があるなら手を動かしなさい。まったく何で私が虫干しを手伝わなきゃいけないのよ」
そう、今日は楽しい楽しい虫干しの日…嘘です、楽しくはない。
今は曇っているが、龍神様の像によると昼からはからっからに晴れるらしい。
なら涼しい午前中に本を並べておいて、虫干ししなさいと言うのが親からのお達しだ。
そうは言っても鈴奈庵の蔵書の量は半端ではない、というか多分昼までに間に合わないだろう。
こういう労働力が足りない時にはどうすればいいか、答えは一つだ。
「ちょっと市木さん引っ張ってくるから、続きやってて」
「早く戻ってきなさいよ、あんたは面白そうな事があったらすぐ仕事をほっぽり出すんだから…」
阿求が不安そうに私に念押しする。
失礼な、向かいから呼んでくるだけなのに。
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「えぇーーっ!?」
「声が大きいってば、小鈴ちゃん」
素っ頓狂な声を上げる私を彼がそっとたしなめる。
「…ごほん、もう一回いいですか?」
「朝走ってたらさ、女の子に『これ読んで下さい』って手紙渡されちゃった」
冷静に考えよう。
手紙が何だというのだ、只の紙切れに過ぎないではないか。
そもそも何が書かれているか分かったものじゃない、そうだ、封筒を開けたら中からこう恐ろしい妖怪とか炭疽菌とか飛び出してくる罠に違いない!
「『他の人には見せないで欲しい』って言われたんだけど何かな、ファンレターかな。一度仕事した人の顔は忘れないんだけど」
「あれじゃないですか、不幸の手紙。同じ文面を何人かに回さないと死んじゃいますよー、ってやつ」
「じゃあ他の人に見せなかったら死んじゃうじゃない。とりあえず小鈴ちゃんにまず回してから……」
騒々しい音を立ててドアが開かれた。
逆光を背に仁王立ちしているのは…阿求だ。
「やあ阿求ちゃん、おはよう」
「あれ、あんた何しに来たのよ」
「何しに来たのよ、じゃないわよ。私に仕事を押し付けておいてちっとも帰ってこないんだから。
まあいいわ、女が男にこっそりと渡す手紙、これ即ち」
わざわざ一拍溜めてから、阿求がかっと目を見開いた。
「恋文よ!!」
ないないと手を振る私、恋文…恋文ねえ…とぶつぶつ呟く彼、勘定台の上ですやすやと眠るしらたまくん。
煮え切らない私達の反応に苛立ちを感じたのか、阿求は彼に指を突き付けて、
「さっさと読んでしまえばいいんですよ、勿体ぶらずに」
「別に勿体ぶってた訳じゃないけど…そうだね、とりあえず開けてみようか」
封筒自体は特に何の変哲もない一般的な白いものだ。
他には宛名代わりなのか『髪切り虫の床屋様へ』と大きく書かれているだけ。
やっぱり恋文にしては無粋すぎる気がする。
中から手紙を取り出すと彼が難しい顔をして読み始めた。はてさて一体何が書いてあるやら。
「読めない」
私と阿求がガクッと崩れ落ちる。
「なんですか、読めないって」
「だってこれ見てよ。達筆ここに極まれりって感じの字じゃない、これ?」
飾りっ気のないこれまた白い便箋に蚯蚓がのたくったような字でびっしりと書き込まれていた。
その密度と荒々しい筆跡は恋する乙女、というよりは不幸の手紙の方が若干近いような気がする。確かにこれでは普通の人には読めまい、普通の人には。
「ふっふっふっ、市木さん、とうとう私の真の力を目撃する時が来ましたね」
彼は怪しげに含み笑いをする私に怪訝そうな目を向けた。
「阿求ちゃん、なんか小鈴ちゃんがおかしくなっちゃったんだけど」
「小鈴はですね、有り体に言えばどんな文字でも読めるんですよ」
「何それ、初耳なんだけど!?」
驚愕する彼を気にもとめず、私はその手紙に意識を集中する。乱雑な文字が少しずつその意味をじわじわと形作り始めた。
「…分かりましたよ」
二人が興味津々に顔を近づけてきた。彼らの脳内にこの可能性は予測されていただろうか。
「果たし状です、これ」
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「…整理しようか、今朝僕が健康のために走っていると」
頭を抱えながら彼が始める。
「突然見知らぬ女の子に手紙を渡され」
阿求が言葉を継ぐ。
「しかしその手紙は果たし状だったのであった」
私が締める。
「おかしいって、そもそも果たし状って何さ」
「まあ分かりやすく書きますと」
雑紙と筆を手に取ると二人にも読めるように書き直す。
『突然の手紙を送った非礼をまず詫びたい。自分は《髪切り》という者である。
貴殿の事は文々。新聞を読んで知ったのだが、
少々無礼が過ぎるのではないか、つい先日やって来たような者が幻想郷一の床屋を名乗るとは。
私は古よりこの地で散髪稼業を生業としてきた。その誇りに懸けて貴殿に決闘を申し込む。
付きましては今日の日が暮れる頃、妖怪の山の麓にお越し頂きたい。
なお道中には獣だの何だの色々出るので安全な路を同封しておく。』
要するに散髪妖怪が、お前の態度が気に食わないから妖怪の山で決闘だ、という事らしい。
ご丁寧に封筒の中に手描きの地図も入っている。
彼は困惑した顔で、
「小鈴ちゃん、僕が新聞に載ってたって初耳なんだけど」
「奇遇ですね、私も市木さんが幻想郷一の床屋なんて名乗ってたのは初耳ですよ」
名乗ってないって、と否定しながら彼が店の奥から革のトランクケースを引っ張り出してきた。鋏やいつも使っている道具をその中に詰め始める。
阿求が何をしているのか尋ねると、
「決まってるじゃない、決闘しに行くんだよ」
「え、行くんですか!?絶対やめた方が良いですって、夕飯のおかずを提供しに行きたいなら別ですけど」
彼は悪戯っぽく微笑んでぬけぬけとこう言った。
「古の先達に学べるかもしれないんだ、こんなチャンス逃せないよ」
「あ、私もついていって良いですか?」
こんな面白そうな事に首を突っ込まずにいられる訳がない。が、彼は難色を示した。
「駄目だってば小鈴ちゃん、妖怪の山って危ない所なんでしょ?そんな所に連れていけません」
「そんな所に行くつもりなのに何言ってるんですか。大丈夫ですって、地図まで付いてたんだから」
涼やかに風鈴が静寂に花を添える。彼はしばらく腕組みしたまま目を瞑ると、
「分かったよ、行かない。小鈴ちゃんが付いてきちゃったら大事だからね」
えぇー、と不平を言う私、ほっと胸を撫で下ろす阿求、勘定台の上ですやすやと眠るしらたまくん。
彼は手紙を机の上に放り出すと、
「虫干しするんでしょ、手伝うよ。早くしないと日が暮れるよ」
案外あっさりと彼は引き下がった。
飄々としている振りをして心中では妖怪に恐れをなしていたのかもしれない、私をダシにして回避するとは中々の策士だ。
まあ私としては虫干しの労働力が増えるに越したことはないのだが。
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やっぱり成人男性の膂力には目を見張る物がある。永遠に続くかのように思われた作業が三時のおやつ前には終了してしまった。
鈴奈庵の埃っぽい店内で、三人並んで最中を食べていると彼が、
「そう言えば僕に手紙を送ってきた《髪切り》って誰なんだろうね」
阿求がフフンと鼻を鳴らす。
まずい、これは阿求の長ったらしい薀蓄披露の前兆だ。総員退避せよ、と言う前に、
「髪切りという妖怪は昔から文献の中にもよく出てくるんですよ。江戸時代に『百怪図巻』なる絵巻物が書かれたんですがね」
「ほうほう」
「人が気付かない間に髪を切っちゃうんですよ。男女無差別に髷を落とされる怪異が頻発したそうです」
彼はポンと膝を打って、
「それは凄いなあ、腕がいいってレベルじゃないね。切られた事にすら気付かないなんて…」
目をキラキラと輝かせている。
その輝きは、はっとするほどの純粋な好奇心に満ちていた。
彼が他の大人と違って見える理由に少し近付けたかもしれない。
眩しさすら感じる少年のような感性と、どこか澱んだ気怠げな雰囲気。
反発し合うはずの二つの性質がどろりと混ざって、話しているだけでどこか心地良くなってくる、これが彼が前に話していた美容師トーク術なるものだろうか。
「さてと、昼寝でもしてから仕事に備えようかな。それじゃお疲れ様」
彼は私達にひらひらと手を振ると欠伸混じりに店へと戻っていった。
その様子はいつもの彼と変わりなく、よもやこの後あの事件を引き起こすようには見えなかった。
そう、後に『外来人は皆気狂いなのか事件』と呼ばれるあの出来事を。
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二人と別れてから店で帳簿の整理をしていると、例によって彼が借りていった雑誌の返却期限がきている事に気が付いた。
内緒にしておいてがっぽり延滞金をせしめても良いのだが、それはあんまりか。
虫干しも手伝ってもらったことだし、と日も沈み始めた中、私は彼の店に向かった。
こういう時お向かいさんってのは便利だ。
ぼんやりとしながらドアを開けようとすると、鍵がかかっている。
よく見ると張り紙がしてある。
『用事があるので今日はもう閉めます。
明日には戻ってこられる筈です、ごめんね。
髪切り虫の床屋』
開いた口が塞がらない。
まさか、まさかとは思うが行ったのだろうか、決闘をしに妖怪の山に。
急いで店先に置いてある観葉植物をひっくり返す、彼がこの裏に予備の鍵を置いてある事はリサーチ済みなのだ。
お邪魔しまーす、と声をかけて中へ押し入る。
これじゃ泥棒みたいじゃない、と思いながら店内を歩いていると、やっぱりない。
机の上に放り出されていた筈の地図、荷物を詰めていたトランクケース。
これは大変だ霊夢さんに相談しないと、と急いで店を出ようとした時、店の奥が煌々と光っているのが見えた。
どうせ慌てて出ていったから消し忘れたに違いない、しょうがないなあと奥に足を踏み入れてから気付く。
……店には何度も訪れているが、彼が住んでいる空間、つまりこの奥に入っていった事は一度もない。
好奇心が首をもたげた。
ちょっとだけのつもりでそっと中を窺う。
思ったよりも簡素で、四畳半にちゃぶ台、綺麗に畳まれた布団に小さな本棚があるだけ。
布団の上でしらたまくんがすやすや寝ているのはご愛嬌。
外の本で見た『刑務所』に近いものを感じる。
店として使われているスペースと違って遊び心も何もない。
何か面白い物でも出てこないかと少し期待していたが、『事実は小説より奇なり』とはいかないようだ……いや、ちゃぶ台の上に一冊の帳面が置いてある。
手にとってみるが、特に変わった様子もない。
ぺらぺらと捲ってみると、綺麗とは言い難いが味のある字で文章が綴ってある。
どうやら日記のようだ。
良くないとは思うけど好奇心に勝てず、最初の頁から読み始めてしまった。
けれど内容はなんて事のない、至って普通の日常だ。
私と賭けをしたことや祭りに行ったこと、そんな些細な出来事も事細かに綴られている。
書き口が上手いのか、ついつい読み続けていたがその内ある事に気が付いた。
…字がどんどん乱雑に、稚拙になっていく。
最近の日付に近い物では罫線に合わせて書く事も出来なくなっていて、その豹変ぶりに薄ら寒さすら感じる。
何かに魅せられるように私は頁を捲る手を止められなかった。
そしてとうとう最後の日付、昨日に当たる頁には────
────こわい
頁の右下に子供のような金釘文字でうっすらと、ただ一言そう書いてあった。
帳面を震える手で元の場所に置く。
これは本当に彼が書いたものなのか、最後の言葉の真意は何なのか、疑問がシャボン玉のように浮かんではまとまらずに消えていく。
今頃になって湧いてきた罪悪感と、知らぬ間に一線を超えてしまったような訳の分からない後悔に包まれながら私は店を後にした。
それでも私は神社に向かう、彼の為に。
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髪切り虫の床屋から少女が立ち去って数刻後のこと。
夜の帳が下りきった里の中を灰色の外套に身を包んだ壮年の紳士が歩いている。
杖の音を立てて進むその姿は異常なまでの穏やかさに満ちていた。
彼は髪切り虫の床屋の前にやって来ると、しげしげと張り紙を眺めた。
そしてつまらなそうにため息をつくと、
「訪ねた日に限って留守とはつくづく縁がないものだ。仕方ない、次の楽しみに取っておくとしようか」
──ではまた、
誰ともなく呟いて彼は月明かりの中、暗がりに消えていった。
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「まだかな、妖怪の山って」
夕焼けに紅く染まりながら地図を片手に市木はひたすら歩く。
その姿はいつもの着流しではなく彼がこの地に来た時に身に着けていた洋装、シンプルな白のボタンダウンシャツに黒のスラックスを着こなしている。
彼にとってはそれが正装、唯一の外の名残。
なぜ彼は危険を犯してでも妖怪の山を目指すのか。
答えは簡単だ、ただ後悔したくないだけ。
命も名誉も彼にとっては特に意味を持たない。
全ては自分が納得出来る生き方を貫く為に、青年はただただ歩みを進めるのだ。