片想いエントロピー増大則   作:外清内ダク

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01.水鏡の底の恋人

 

 人混み大ッ嫌いな私があえて噴水広場のカオス的騒音真っ只中に乗り込むのは、恋をしているからに他ならない。桜町スマイルアーケイドからサンクトゥムB.A.M.A.を抜け、列柱のバスターミナルを横切ったところに目的の噴水池はある。私はスカートの裾をコウテイペンギンの翼めいてバタバタさせながら、早足に池のほとりまで突っ切った。息が切れる。小刻みに波打つ水面に、私の紅潮した顔が揺れている……

 ひととき、池の水が仄光(そくこう)を放つかに思え、私は仁王立ちのまま、その奥に目を凝らした。

 私の恋人は、()()()()()

 四十手前、背の高い指の長い男性が、水の中に映し出された。いや、そのリアリティは単なる映像のレベルを超えて、体温、息遣い、胸の鼓動までが伝わってくるかのようだ。

 彼の歳は私の推定に過ぎない。自分より10以上は歳上っぽいな、と見積もっただけだ。目尻には深い皺があったし、頭も薄くなりかけていて、肌は硬質な岩を思わせる。だがそれらは断じて老いではない。経験が導く力強さ、冷静さ、立ち居振る舞いから漂う絶妙な上品さが、“渋味がかった”という形容ぴったりに彼を匂い立たせている。彼は仕事中だった。何かトラブルが起きているらしかった。声は聞こえなくとも、彼が矢継ぎ早にしかし穏やかに指示を飛ばして、日常のちょっとした難局を乗り切っているのが見て取れた――

 私は暫し、立ち呆けて、彼の仕事ぶりに見惚れた。

 

 池の中に見知らぬ男性の姿が見える――この不思議な現象に出会ったのは、今から半年ほど前のことだ。少々嫌なことがあって、この噴水べりに座り込んで、スマホで手軽な自殺の方法を検索していたとき、ふと気配を感じて水面を見てみると、そこに彼がいた。

 はじめはびっくりしただけだった。好みの外見ではあったが、欲情をそそられたわけではない。それはずっとあとの話だ――あの頃の私は完全に疲れ果て、性欲らしきものとは無縁になっていたから。私は、最初に目の錯覚を疑い、次に自分の正気を疑い、どうやら妄想ではないと知ると(本当に? もちろん確信はないが――常にそうであるように)、興味を掻き立てられた。なぜ、水の中に映像が見えるのだろう? 一体この人は誰なのだろう?

 答えを求めて、私はそれから連日のように実験を繰り返した。まず、私以外の人間にも彼が見えるのか――NO。たとえばスマホなどで録画することは可能か――YES! 不思議なことに、録画したものなら私以外にも彼が見えるらしい。では、その映像を見せれば彼を知っている人が見つかるのではないか――NO、今のところ。

 私の極めて極めて狭い交友関係の中では、彼に繋がる手がかりを得ることはできなかった。そこで私は休日のたびにこの噴水に通い、池の中を日がな一日覗き続け、わずかな情報も見逃すまいと目を凝らした。

 彼は会社員。たぶんコピー機か何かを扱う営業をしている(この会社、知ってる! 前にうちと取引してたけどコストカットで切られたとこだ)。友達と喋るよりひとりでのんびりするのが好き。休みの日はドトールでル・グィンやタニス・リーを読む(どこのドトールだろう? 知らない店舗)。飲むのは夏でもブレンドのM、ブラックで……

 純然たる野次馬根性でしかなかった私の執着は、いつのまにか、彼自身への淡い愛着に姿を変えつつあった。私は彼の毅然とした孤独に憧れた。職場でも誰に振り回されることも、誰を振り回すこともない、淡々として自由。プライベートでの友人はごく少なく、女性の影も見えないが、それを気にしている風もない。私にはとてもできないことだ。いつも上司の一挙一動に怯え、同僚の些細な言葉に悪意を読み取り、大学時代の友人の大半とも疑心暗鬼の末に縁を切ってしまった、こんな私には。

 私は、彼の孤高に惚れた。

 だから、会いに行ってみることにした。噴水の中で見ました――なんて、頭おかしいと思われるに決まっていた、けれど。

 

 私がときどき見せる病的な行動力は、いともあっさりと、彼の勤めるオフィスに私を連れて行ってくれた。会社名が分かっているのだから、その営業所をシラミ潰しに当たるのは容易い。二件目であっさりと、見覚えのあるビルを発見した。私はたっぷり2時間ほどためらったあと、意を決して突撃した。面食らうスタッフたちに、録画した彼の映像を見せた。彼らはそろって首を傾げた。曰く、こんな人知らない。でもこの内装は確かにうちの建物らしい……この映像、どこで撮ったんです?

 私は弱い小動物ならではの鋭敏な感覚でもって、自分に向けられた不信の目を察知した。私は適当な言い訳をして逃げ出した。盗撮か何かを疑われただろうか。警察を呼ばれたかもしれない。当分このあたりには近寄りたくない。

 しかし、建物は映像通りなのに、彼がいないとはどういうわけだろう。いや、彼だけではない。あのオフィスにいたスタッフたちも、彼の周囲にいつもいる面々とは全く別人だ。いったいこれはどういうことなのだろう……

 帰り道の途中、私はドトールを発見した。言うまでもなく、彼が休みのたびに通っているあの店だ。とりあえず入ってみた。ブレンドのMを頼み、ブラックのまま口をつけた。生まれて初めて飲んだブラックコーヒーは、想像を絶する苦さだった。カフェインが脳に回り、私を不愉快に酔わせていく。私はテーブルの上に上体を横たえながら、霞のかかった頭で考えた。

 彼はいない。会社にも、ドトールにも。

 ひょっとしたら――この世界にも? まさか――?

 

 それから2週間後の今日。私はひとつ、心当たりを当たってみるつもりで街に出た。その心当たりというのが、悪い噂の絶えない、命さえ危ぶまれるところだったから、私は、最後の別れのつもりで、この噴水まで彼に会いに来たのだ。

 しかし、彼の凛々しい働きぶりを見ていると――身体の中から正体不明の力が湧き上がってきた。

 ――死んでたまるか。

 私は固く拳を握り、泉の中の彼に、自分に作れる最高の笑顔を向けた。

「絶対、あなたに想いを伝えてみせる」

 私は大股に歩きだした。

 向かう先は、大通りから一本外れた狭い裏路地。80年代から塩漬けにされているようなオフィス・ビルが不気味な石像めいて立ち並んでいるあたりだ。その中の一軒に入り、軋む階段を登り、埃の付着した蜘蛛の巣の下をくぐって、重苦しいスチールのドアの前にたどり着く。

 一度だけ、噂に聞いたことがある。裏通りにずっと昔から存在する、本物の黒魔術の店。多大なコストと引き換えに、人が心の奥底に抱えている願望を叶えてくれるのだという。無論、そんな荒唐無稽な話、仮にも理学部出身として、信じているわけではなかったが――

 私は、ドアを押し開けた。

 ドアベルの音を聞き、窓際に佇んで外をじっと眺めていた男――少年? いや、若く見えるだけだ――が、ゆっくりと振り返った。

「やあ。いらっしゃいませ」

 男が微笑む。悪魔そのものの美しさで。

「最近、屋号を考えたんだ。こんなふうに名乗れると格好いいなと思ってね。

 ――ようこそ、“ヤドリギ魔法堂”へ」

 

 

(つづく)

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