片想いエントロピー増大則   作:外清内ダク

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02.逓信

 

 

「ミルクが先か、紅茶が先か。本場英国では200年もそんな論争が続いている。くだらないことだって思うかい? でも、そんなくだらない戦争ごっこを、みんな案外愉しんでいるのさ」

 童顔の店主は私を籐の椅子に座らせ、ミルクティーを勧めてくれた。ふたり分を注いだところで、お茶菓子がないことに気付き、奥の給湯室に引っ込んでいく。

 私は飲み物に口をつける気にもなれず、非現実的に居心地の良い雑多な店内を見回した。そこら中の戸棚に、正体不明の品々が並んでいる。小さな陶器のカエル――生きているように艶めかしい。束にして吊り下げられた、見たこともない色彩のドライフラワー。アルファベットとも漢字ともつかない謎の文字を背表紙に箔押しされた古書。それから、透明な瓶――中には無数の小石が浮いていて、銀河系めいた渦巻き運動を続けている――馬鹿な! ありえない。なんの手品だろう。

 私は好奇心を抑えきれず、瓶の側面にそっと人差し指を伸ばした。突然、小石の渦が爆発的に広がり、私に襲いかかるかに思え、私は驚いて手を引っ込めた。

「噛みついたりはしないよ。でも、彼我の距離について敏感なんだ」

 店主が戻ってきた。瓶の蓋を開け、中に、赤い半透明の正二十面体――1から20の数字が刻まれている。サイコロだ――を入れてやった。すると小石の渦は二十面サイコロに飛びつき、突いたり蹴っ飛ばしたりして転がしだした。

「ゲームが好きな子でね。ダイスか何かを入れてやれば、いつまででも遊んでいられるらしい」

「それ……なんなんです?」

「命のかたち。この世に有り得る世界の、無数の表象のひとつ――きみ自身が直面しているものと同様にね」

 店主が向かい側に腰を下ろす。私はこのとき、すでに彼の一挙一動から目が離せなくなっていた。謎めいた言葉遣い、噛み合わない会話、暗くて深い海のように何もかも飲み込んでしまう静かな眼差し――()()()()()()

「“1と無限大以外の自然数に意味はない”――という言葉を知ってる?」

 私はかぶりを振った。店主がうなずいて続ける。

「世界がひとつしかないと考えることは妥当だ。なぜなら観測しうる世界は自分が見ている()()のみだから。しかし仮にこの世にもうひとつの世界の存在を想定するなら、無限の広さを持つ可能性の空間に、無限個の世界が存在しうることになる。

 君が世界と思っているものは、実のところ、ひとかたまりの宝石の、ひとつの切子面(ファセット)に過ぎないんだ。その宝石は一個の人間が把握するにはあまりにも大きすぎて、たいていの場合、無数に存在する表層のうちのたったひとつしか認識することができない」

「それが“彼”――?」

「君は思いのほか聡明だ」

 店主が満足げに微笑み、改めて紅茶を勧めてくれた。私は飲んだ。胃レントゲンを撮る前に硫酸バリウムを一気飲みするようにだ。不気味な白濁液としか思えなかったミルクティーも、口にしてみれば意外に甘い。

 私の飲みっぷりを愛おしそうに眺めながら、店主が先を続ける。

「鏡はいつだって(ポータル)なんだ。ここではない何処かに繋がっている――しかし、必ずしも望ましい繋がり方をするとは限らない。

 君は“彼”の世界を観てしまったが、“彼”の世界と交わることはできない。なぜなら君の()る世界は()()だから。

 それはどうにもならないことなんだ。時が未来へ進むように。真空が電磁波を伝えるように。あるいは――」

「エントロピーが増大し続けるように……」

 店主は哀しそうにうなずいた。

 私は噛みついた。

「でも不可能じゃないわ! 理論上は、充分に長い時間をかけて準静的に断熱変化を行えば……」

「おや」

「そもそも断熱系でなければ! 宇宙全体では増大しても、私たちだけの系と捉えるなら減少させることだって!」

「おやおや。これは(たと)え話なんだよ。

 まあ、でも、実のところ君の言う通りではあるんだ。小さな例外は存在しうる。だくだくと流れる激流の中にも、ひととき遡る水がある……」

「それをください。何を支払えばいいですか? 命ですか?」

「そんなものは要らないよ」

「願いを叶える代わりに命を奪うんでしょ? 聞いてるわ。体が石ころになったとか、人形に変えられてしまったとか……」

「うーん、そんな噂になってるのかい? これは風評被害だなあ」

「私は本気なのよ!」

 私はテーブルを叩き、立ち上がった。獣のように牙を剥いて店主に詰め寄った。ミルクティーがカップの中で揺れる。濁った液面に私の影が落ち、激しく左右に揺れ動いて私の中の感情の荒波をそのまま描き出す。

 店主はしばらく、私の目をじっと見つめていたが、やがて無言で席を立ち、奥の戸棚から束にした短い棒のようなものを持ってきた。テーブルに置かれたそれを、私はまじまじと見た。これは……矢、だろうか? 先端には、鏃の代わりに丸い小石。後ろには、矢羽の代わりに二枚の小さな長方形の板。長さは20cmにも満たないくらい。弓につがえて射るには短すぎるし、ダーツにしたって刺さりそうもない。

「《光陰の矢》。時空の理を超えて溢れ出る想いのかけら――その運び手だ。この矢に手紙を結わえ付けて、(ポータル)の向こうへ投げるといい。君の心は伝わるだろう。

 だが、気をつけたまえ。“矢”が伝えてくれるのは()()()()()()。本当に、ただそれだけなんだよ」

 私は矢束を手にとった。

 木製の矢軸は、私の手のひらにしっとりと馴染んだ。まるで遥か遠い昔から、ずっとこの手の中に収まっていたかのようだ。不思議な懐かしさを覚えながら、矢束を胸に抱き寄せた。伝えてみせる。必ず私の想いを伝えてみせるのだ。

 たとえそのために、他の何を犠牲にしようとも。

 

 手紙を書いた。こんなの何年ぶりだろう。自宅には便箋はおろかペン一本さえなく、私はまず文具店に駆け込んで道具を買い揃えるところから始めなければならなかった。半日をかけて、半透明で桜色で中央がわずかに膨らんだ緩い紡錘型のペンと、浅葱色の蔦植物が縁に絡みついた柄のレターセットを手に入れた。それで私は書いた。きっと何度も書き直すだろうことは目に見えていたので、便箋の予備はたっぷり買い込んでおいた――そして、そのとおりになった。

 どんなことを書いたのか、正直に行って、私は覚えていない。私の中で暴れ狂う感情の粒子は、恐るべき力積を心の外殻にぶち込み続け、ついに小さな亀裂を作ることに成功し、怒涛のように溢れ出した。制御不能の熱運動、それが私の言葉であるらしい。

 エントロピー増大則だ。あの店主とのやりとりが思い起こされる。書けば書くほど、思えば思うほど、私の心はひとつにまとまるどころか、千々に乱れて取り留めがなくなっていく。エントロピーは時間の従僕。私の乱雑さは時と共に単調増加していく。彼が好き。彼が好き? 彼が好き! シンプルに思える慕情は、しかし書くたび形を変えていて、細かく細かく分解して、私の内部全体に広がっていくのだ。

 ようやく満足が行く(と、少なくともそのとき思えた)ものを書き上げて、それを封筒にしまった。糊付けをしたところで、私は何を書いたのか忘れてしまった。忘れたが――もうそんなことはどうでもよい。

 テープで矢軸に封筒を貼る。

 気が付けばもう満月が子午線にかかる時刻で、私は青白い防犯街灯だけを頼りに、噴水広場へ走った。

 泉の中に、彼が見えた。

 彼は眠っていた。自宅のベッドの上で、横になり、胎児のように丸まって、静かに呼吸していた。普段の凛々しさからは想像もつかない、あどけなくてかわいい寝顔。

 私は息を止め、矢文をそっと水面につけ、そして――手を離した。

 矢が水中に沈む。するとどうだ。池に映されていた映像の中に突然矢が現れ、彼の寝ているそばにストンと落ちたではないか。私は声を挙げた。飛び上がった。もう一度見た。間違いない。確かにベッドの上に、彼の隣に、私の手紙が添い寝している!

 私は走り出した。興奮してしまって、走らずにいられなかったのだ。矢は時空を超えた。彼は手紙を読むだろう。私の想いは伝わったのだ! いや、それどころではない。私は想いを()()()()()。これからいくらでも、心のおもむく限りだ!

 

 それからというもの、私は書いた。書いた。書いた。彼が好きだと書いた。彼のコーヒーに口をつける仕草が好きだと書いた。彼の部下に指示を飛ばすさまが好きだと書いた。彼の、目下の人間や取引相手に対して偉ぶらないところが好きだと書いた。彼のまばたきが好きだと書いた。彼に撫でられたいと書いた。夜、動悸が激しくて眠れないとき、彼のことを思うだけで安らかになれることを書いた。私の好きなことを書いた。私がどんなひとと付き合ってきたかと書いた。その連中と比べてどれほど彼が優れているかを書いた。彼が好きだと書いた。また書いた――

 不思議なことに、魔法堂で買った矢は、使っても使ってもちっとも減らなかった。それどころか増えているようにさえ思えた。それが魔法なのだろうか。それともエントロピーだから増大するとでもいうのだろうか。馬鹿な。いずれにしたってありがたいことだ。私には書くべきことが無限に存在していたし、それはたかだか有限の手紙ではとても伝えきれるものではないのだ。

 私は時に、彼が私の手紙を読むさまをじっくりと見守りもした。彼は徐々に私からの手紙に慣れていくようだった。初めは驚いていた。それはそうだろう、どこか見えないところから突然矢文が降ってくるのだから。しかし今では彼も、私が手紙を投げる時間帯や曜日(もちろん、私の休日や仕事の前後に偏る)を把握していて、その時刻が近づくと、あたりをキョロキョロと見回したりして、私からの手紙を心待ちにしてくれているように見えた。

 彼はもはや、私のことを知っている。私がどんな人間で、どんな人生を歩んできたか知っている。私の気持ちも知っている。その事実、私が彼の中の一部を構成できたという事実は、少なからぬ悦びを私に与えてくれた。私は彼の中に含まれた。私は彼だ。でも、彼は私じゃない。私の中にあるのは、彼のほんの一部。私が見ている彼の一面だけなのだ――

 そこで私は、あるとき、手紙にこう書いてみた。

【あなたからお返事がもらえたらいいのに】

 無論、そんなこと望むべくもないことは、店主の話で分かっていたのに。

 

 なのに、それは唐突に来た。

 ある朝、目覚めてみると、私のそばに矢が一本落ちていた。束から転がり落ちてしまったのかな? と思って拾い上げてみて、その根元に、紙が括り付けられているのに気づいた。

 ぞっとした。

 セックスなんかよりも、ずっとずっと激しい、脊髄をしたから突き上げられるような、快感だ。

 それは彼からの返信だったのだ。

 

 

 

(つづく)

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