自然災害はどうしても自分は大丈夫だと思いがちですが、被害に遭ってからでは意味はないので避難指示が出た場合は自分で判断せずにしっかりと自分の身を守ってくださいね。
「これは……!」
甘みの強い茶葉の香りが鼻を抜けていく。喉を通った後には甘みから一転して爽やかな風味に変わり、まだ眠っていた体を芯からゆっくりと温めていった。
「どうでしょうか、イクス様?」
「いえ、完璧です。まさかあの茶葉をこんなに上手く淹れられる人がいるとは……」
「ふふ、それは光栄でございます」
今飲んでいる紅茶の茶葉は、俺が個人的に集めている中でもかなり癖のあるものだ。お湯の温度や淹れ方にも注意しないと、この紅茶の美味しさである芳醇な旨味が逃げてしまい、それどころか渋みが出ることもある。素人が淹れれば、まず間違いなく失敗すると言われるほど扱いの難しい種類なのだ。
紅茶には少々うるさい俺でもこの茶葉を使う時は未だに気を使う。俺も自分が負けているとは思っていないが、この味を出せるシャロンさんは中々高い技術を持っていることは明らかだった。
とはいえ、俺が張り合えるとしたら紅茶くらいしか勝ち目はないだろう。
俺の目の前に広がっているのはトーストやスクランブルエッグなどの定番のものに加えて、サラダなどの副菜もある。トーストに塗るジャムなども様々な種類が揃えられている上に、紅茶やコーヒーなどの飲み物もそれぞれに用意されていた。
今までの第三学生寮での朝食は当番制でやっていて、朝はそれぞれ時間もないこともあり用意するメニューも種類も少なく似たようなものばかりが出ていた。しかし、今朝俺たちの前に広がっている朝食は、品数も豊富な上にそのどれもが高級ホテルで出てきてもおかしくないほどの味だった。
「ふむ、正直私の家で出る朝食よりも美味だな」
「ああ、俺の家でもこれほどのものは中々出ない」
「そ、そうなのか?」
「ユーシスがそう言うのなら、やはりこれはかなり美味しいのだろうな」
「………(パクパク)」
「フィーちゃん、そんなに急いで食べたら喉を詰まらせますよ」
テーブルにつく他のメンバーも皆同様に高級ホテル顔負けの朝食を楽しんでいる。公爵家の出身であるユーシスの舌を唸らせるほど、この朝食は満足のいくものだった。しかも、それがこれから毎日味わえるというのだから驚きだ。
そんな中、ツンとした表情で未だに朝食に手をつけていない者が一人。
「…………」
「お嬢様、きちんと朝食は摂らないと倒れてしまいますわ」
明らかにご機嫌ナナメといった表情のアリサだった。ラインフォルト家の使用人であるシャロンさんが第三学生寮の管理人となったことで、自動的に自らの家名が明らかになってしまったアリサは、昨日の夜にシャロンさんに一通りの抗議をしてからずっとこの調子だ。
ユーシスをはじめとして何人かはアリサの家名にはあらかた予想はできていたが、やはり彼女の家は帝国最大の導力メーカーである《ラインフォルト社》を取り締まる《ラインフォルト家》だった。
下手をすればその辺の貴族よりも資産家であるラインフォルト家であればシャロンさんのようなメイドがいてもおかしくない。アリサも貴族の多いトールズ士官学院で目立たないために家名を伏せていたのだろう。
そんなアリサもシャロンさんのことを嫌っているわけではない様子であるため、俺たちはリィンの時のようにこの問題もいずれ解決するだろうと思っていた。
それどころか今回の件はもっと早く決着がつきそうだ。
「……とにかく、私はあくまで反対だから。母様も忙しいんでしょうし、シャロンが付いていた方が――」
「ふふっ、さすがアリサお嬢様。離れていてもお母様のことを気にかけていらっしゃるんですね?それでこそ、わたくしが心よりお仕えする大切な方々ですわ♡」
「べ、別に気にかけてなんか――」
「あ、お嬢様。大好物のアプリコットジャムをたくさん作って来ましたわ。せっかくですからシャロンがトーストにお塗りしましょうか?」
「え、ホント!?――じゃなくて!子ども扱いしないでってば!」
アリサはシャロンさんのことを認めようとはしないという態度を見せようとはしていたが、どうやらシャロンの方が何枚も上手らしく、アリサは完全にシャロンさんのペースに乗らされている。それに、シャロンさん特製のアプリコットジャムが本当に好きだったようで、結局アリサはトーストにジャムを塗ってもらっていた。
(こりゃ、大分賑やかになりそうだな)
突如現れた第三学生寮の管理人はすでにこの空間に馴染みつつあった。
「――それで、なんでクロウ先輩までいるんですか?」
「おいおい、なんか俺だけ扱いが雑じゃねーか?」
「いやだって、クロウ先輩ですし」
「どう言う意味だよ!?」
トワさんをはじめとした先輩方の中にいたクロウ先輩に何故ここにいるのかを尋ねると、クロウ先輩はジト目で自分だけ他の3人と扱いが違うと不平を漏らす。
俺は基本的には年上の人に敬意を払うようにはしているが、リィンの一件などもあってかこの人はあまり敬意を払っていなかった。なんというかクロウ先輩はサラ教官と同じ感じがするのだ。
「あはは、イクス君もクロウ君と仲良くなって良かったよ」
「いや、トワよ、俺も先輩としての威厳っつうものがあってだな……」
「フッ、それについては諦めたまえ」
「うーん、確かにクロウに敬意を払うのは難しいんじゃないかなぁ」
「って、ゼリカにジョルジュもかよ!?」
先輩達は一年の時からの交友関係とあって、即興で漫才じみたやり取りをする。そのテンポの良さからも彼らがともに気の知れる仲間だということを表していた。
シャロンさんの豪華な朝食を食べてから数時間後、俺は先輩達と一緒にトリスタの街道まで来ていた。いや、来ていたというよりは連れて来られたというべきだろう。朝の部活を終えた俺は自由行動日の残りの時間をどう過ごすか考えていたところ、俺を見つけたアンゼリカ先輩に半ば連行されて来たのである。
「それにしても《導力バイク》って、跨ってみると結構安定感がありますね」
「ああ、パワーのある導力エンジンでマシンが横転しないようにマシンそのものの重量も重くしてあるからね」
「ま、それでもスピードはかなり出るがな」
俺を連行したアンゼリカ先輩はの頼みは俺に《導力バイク》のテスト走行をして欲しいということだった。アンゼリカ先輩と一緒にいたジョルジュ先輩によれば、この導力バイクはアンゼリカ先輩専用のセッティングになっているらしく、アンゼリカ先輩のデータだけではマシンの性能を客観的に分析できないそうだ。
そこで、客観的なデータを取るために導力バイクに乗るのはもちろん“初めて”である俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
「さて、操作方法は先ほど説明した通りだが何か他に聞きたいことはあるかな?」
「いえ、多分大丈夫です」
「フフ、まあこういうのは“習うより慣れろ”だからね。どうか思い切って、そいつを転がしてきてくれ」
「アンの言う通りだけど、とにかくまずは安全第一を心がけてくれ、イクス君」
「了解です!」
改めて自分がこれを動かすと思うと緊張はしたが、操作方法はアンゼリカ先輩から一通り教わっている。アンゼリカ先輩の言う通りあとはやってみるしかないだろう。
俺の了解を得た先輩達は導力バイクから少し離れたところで俺の発進を見守っている。少し緊張しながら、俺はエンジンを起動させた。
「これは……結構迫力あるな」
エンジンをかけると導力バイクが振動し始めた。その振動は小刻みながらも力強く、腹に響くような感覚だ。エンジンをかけただけでもこのマシンがかなりのパワーを持っていることが感じられる。
(クラッチはOK、ギアは1速でアクセルグリップを回して――)
アクセルを開けた瞬間、ドルルンという音と共に導力バイクがさらに唸りだす。あとはクラッチレバーを放せば発進するはずだ。
(そして、クラッチレバーはゆっくりじわっと放す!)
聞いていた操作通りにレバーを放すと導力バイクは滑らかに動き出し、ぐんぐんと速度を上げていく。出発地点である場所から先輩達の姿が見えなくなるのに時間はかからなかった。
「おお……!」
エンジンを唸らせながら軽快に走る導力バイクは俺にかつてないほどのスピード感を与えてくれていた。馬のスピードにも負けない速度で走り続ける導力バイクに、俺は初めて馬に乗った時にも勝る高揚感を感じている。これほど心が踊る感覚を味わうのはいつぶりだろうか。
「さてと、それじゃあそろそろギアチェンジといきますか!」
導力バイクのスピード感に慣れてきた俺は更なる興奮を求めて走行テストの一つである『ギアチェンジ』を試みることにした。
(まずはアクセルを一旦放して、クラッチレバーを素早く握る。その間にギアを上げて、もう一度ゆっくりじわっとレバーを放せば――)
聞いていた手順で俺はギアを上げる。今度も上手くいってくれたようで、クラッチレバーを放すと導力バイクはさらにスピードを上げた。
「すげぇ……!これぞまさに“風になった気分”ってやつだな!」
街道にある木や導力灯が次々と俺の視界を通り過ぎていく。全身に受ける風がまるで自分を風そのものに変えてくれているような感覚を覚えさせた。
そしてしばらく走ったあと、俺は走行テストの最後の項目である『停止』をすることにした。
「停止位置はあの辺が目標だな」
少し先に見える導力灯の横あたりを目印にして俺はブレーキをかけ始める。
(ブレーキは前輪が強めで後輪は軽め――!)
記憶を頼りに俺はブレーキをかけた。先ほどまで風のように走っていた導力バイクは徐々にスピードを緩めていき、俺が目印にしていたあたりでピタリと止まってくれた。
「うっし、成功!」
初めて乗るマシンを完璧に乗りこなすことができていた俺は思わずガッツポーズを決める。俺は久々に童心に帰った心地になっていた。
正直もう少し乗っていたかったが、全ての走行テストの項目を終えたため俺は先輩達のところに戻ることにした。導力バイクをゆっくりとターンさせて通ってきた道を再び走り出す。
俺は導力バイクのスピード感を少しでも味わうために、1速からギアを上げて先輩達のもとに戻るのだった。
「どうもお疲れ様、イクス君」
「それで、実際に乗ってみた感想はどうだった?」
無事に戻ってきた俺は早速アンゼリカ先輩たちに乗った感想を聞かれた。尋ねられた俺は少し早口になりながら導力バイクの乗り心地を話す。
「最高ですね!乗っている時のエンジンの力強さもそうですけど、なんといってもあのスピード感!まさかこんな感覚が味わえるマシンがあるなんて思ってませんでしたよ!」
俺は心に残っているこの熱を少しでも言葉にしようと気持ちが熱くなる。ただ、悔しいことにこの感動を上手く言葉にできるほどのボキャブラリーを俺は持っていなかった。それでも尚必死に感動を伝えようとする俺を見て、トワさん達が笑い始める。
「ふふ、良かった。イクス君も元気になったみたいだね」
「え?」
「君はここのところ元気がなかっただろう?それを心配していたトワの提案で君に少しでも楽しんでもらおうとこの走行テストを頼んだのさ」
「はは、どうやらトワの思惑どおりにいったみてーだな」
「良いデータも取れたみたいだし、こちらとしても良かったよ」
「先輩方……」
俺は中間試験の勉強をトワさん達に見てもらっていた。自分としては普段通りに振舞っているつもりだったが、先輩達には俺の元気がないことが気づかれていたようだ。先輩達の思いやりを受け取った俺は感謝するとともに自分が恥ずかしくなった。
「この依頼も元々はリィン君に頼む予定のものだったが、君に楽しんでもらえたのなら何よりだ」
「ま、今度はリィン後輩と一緒にでも走行テストをやってみたらどうだ?」
「それはいいね。詳しいデータを取るためにも色んな人が乗った時のデータがあった方が助かるし」
改めてこの人たちが自分のことをきちんと見てくれていることを思い知った。クロウ先輩についても少しは評価を上げてもいいかもしれない。
「イクス君、何があったのかは敢えて聞かないけど、私たちのことならいつでも頼っていいからね。もちろん、Ⅶ組のみんなもだよ!」
「……ありがとうございます」
そう言ってトワさんは小さな体で胸を張る。俺が感謝していたからか、トワさん達はさっきまでよりも大きく感じた。
「ふう、もうすっかり夕暮れ時だな」
テスト明けの自由行動日が早くも終わろうとしていた。空は綺麗なオレンジ色に染まっており、気温も適度に下がって風が涼しい。
導力バイクの走行テストを終えたあと、俺は図書館で時間を潰していた。本来ならリィン達とあの旧校舎の探索を行うところだったが、リィンも俺に気を使ってくれたのか今回は俺を旧校舎探索に誘うことはしなかった。そのため、俺は久々に夕方までじっくりと読書を楽しむというゆったりとした午後を過ごすことが出来ていた。
正直、旧校舎の探索に参加できなかったことは気にしていたが、ここはリィン達の好意を素直に受け止めるべきだろう。今の俺にできるのはどうやってフィーとの関係にケリをつけるかだ。
そんなことを考えながらトリスタの街を歩いていると、俺の後ろから声がかけられる。
「あら、君も今帰り?」
「サラ教官、戻ってきたんですか」
そこにいたのはサラ教官だった。彼女は昨日からどこかに出かけていたようで、俺たちはその行き先は知らなかった。まあ、遊撃士関係でどこかに行っていたのだろうとは予想していたが。
俺はせっかくなので、そのままサラ教官と第三学生寮に戻ることにした。夕暮れ時のトリスタを歩きながらサラ教官と他愛もない話をする。
「君はテストの調子はどうだったの?」
「まあ、自分の中でそれなりの点数は取れたと思いますよ」
「それは上々ね♪」
サラ教官はハインリッヒ教頭に日頃から色々と文句を言われているらしく、今回の試験で俺たちがいい結果を残せばその鼻を明かせるから頑張れと思いっきり自分の思惑を交えた期待をしていた。まあ、サラ教官に恩を売るわけじゃないが俺たちも今回の中間試験は各々頑張っているため、いい結果が期待できる筈だ。
そんな話をしているといつの間にか学生寮の前まで来ていた。第三学生寮に戻ろうとした俺にサラ教官は声をかける。
「――君の過去についてはあたしも資料でしか知らないから詳しいことは知らないわ。ただ、フィーのいた猟兵団と君の過去はおそらく関係ないはずよ」
「え――」
突然告げられた言葉に俺は動きを止める。俺に話すサラ教官の口調はいつもより優しく感じた。
「さてと、晩御飯は何かな〜」
「……あ、ちょっと待ってくださいサラ教官!今のはどういう――」
立ち止まっていた俺を置いてサラ教官は先に寮に戻っていく。俺は慌ててそのあとを追ってさっきの言葉について聞こうとしたが、それは叶わなかった。
「――お帰りなさいませ。イクス様、それにサラ様」
「…………!」
「あ、シャロンさん。ただいま戻りました」
俺たちを出迎えてくれたのはシャロンさんだった。挨拶しないのも失礼であるため、俺は慌ててシャロンさんに挨拶する。そして、俺は横にいたサラ教官の表情が少し険しくなっているのに気づいた。
「――初めまして。ラインフォルト家より参ったメイドのシャロンでございます。皆さまの身の回りのお世話などをさせていただくのでどうか宜しくお願いします」
「……これはご丁寧に。ひとつ質問なんだけど……“初めまして”だったかしら?どこかで会ったような気が“そこはかとなく“するんだけど」
(何だ……?)
初対面であるはずの二人の間に流れる空気はどこかピリついていた。俺がその空気に違和感を感じていると、シャロンさんがいつもどおりの笑顔で答える。
「いえ、初対面なのは間違いないと思います。よろしくお願いします。“サラ・バレスタイン”様」
「ええ、こちらこそ。“シャロン・クルーガー”さん」
サラ教官も負けじと満面の笑みでシャロンさんに挨拶する。初対面であるはずの二人はなぜか互いのフルネームを強調するように呼んでいた。