これは物語の始まる前のお話
少年と少女の忘れられない、忘れてはいけないある日の思い出
これから始まるもう一つの軌跡、その前奏である
コォン、コォンと何か堅いもの同士がぶつかる音が室内に響く。
どうやら音の正体は木製の剣がぶつかり合っている際のものらしく、それを振っているのは試合形式の稽古をする二人の剣士だった。
向かい合う剣士のうちの一人は歳が17、8といったくらいの若い女性剣士、それに相対するのは女性剣士よりも更に若い少年剣士。年の差や性別など様々な違いがある二人の剣士に唯一共通していたのは、双方ともに木剣を2本ずつ構えているということであった。
「やあああっ!」
気合い十分な掛け声と共に少年剣士が地を強く蹴る。
風のような速さで突進していく少年剣士とは対照的に女剣士の方はその場から一歩も動かずただ静かにその時を待っていた。
みるみるうちに二人の距離が縮まり、烈風を纏った少年の剣が女性剣士に迫っていく。しかし、その一撃を待ち構えていた女剣士が許すはずは無かった。
「フッ―――!」
待ち構えていた女剣士は少年の一撃をいとも容易く弾き返す。その衝撃で先に攻撃を仕掛けた少年は体勢を崩され隙が生まれてしまった。
だが、この展開は少年の方も想定済みである。
体勢を崩された少年は敢えて勢いに任せてそのまま回転を始めた。先程の技はこの展開に持っていくための囮であり、本命は今放とうとしているもう一つの技の方だった。
回転の勢いも加えられた渾身の一撃。決まった―――と少年は思ったが、彼の目の前にいる人物はそこまで甘い相手ではない。
「―――遅い」
女剣士がそう呟いた瞬間、少年の左手に衝撃が走った。
コォンという音と一緒に空中へ打ち上げられたのは少年が握っていたはずの木剣。少年の頭が遅れて左の剣を失ったと認識した途端、今度は続けざまに右手の方に強い衝撃が加わりもう一方の剣も宙を舞った。
「勝負あり、ですね」
「………はい。参りました」
木剣を喉元に突き当てられた少年の両手には既に剣は無い。残念そうな表情の少年は自らの敗北を認め、その勝負は決着した。
「はぁ……。結局今日も姉上から一本も取れませんでした……」
勝負が終わり、その場に座って落ち込む少年。
彼の名はイクス・ライガスト。
エレボニア帝国北東部に位置する小さな町《ロウフェル》にある《ライガスト男爵家》の長男として生まれた帝国男子。そして同時に、帝国でも珍しい《双剣》を主流とした剣術の流派《ライガスト流》の初伝を修める若き剣士でもあった。
「そう落ち込むことはありませんよ。最後の攻撃も発想自体は悪くありませんでした」
「本当ですか、姉上!」
イクスに“姉上”と呼ばれている女剣士が落ち込んでいた彼に声をかける。
彼女はユスティア・ライガスト。
ライガスト家の長女であり血の繋がった弟イクスとは8歳年の離れた姉弟関係にある。
尊敬する姉から褒められたイクスは思わず嬉しそうに尋ねたものの、彼女の話はまだ終わっていなかった。
「あくまでも発想だけです。技のキレや体捌きなどはまだまだ。私から一本取りたければ、より一層の精進が必要ですね」
「……はい」
姉に褒められたと思ったのも束の間、弟弟子の指導役も務めているユスティアから厳しいお言葉を貰ったイクス。
8歳も年の離れた姉は既にライガスト流の中伝を修めているばかりか、その若さで早くも奥伝に至ろうとしている天才。彼らの父によればイクスも姉に負けない程の剣才を持っているとは言われるものの、こうして毎日のように黒星が続けばいまいちその実感も湧かなかった。
一体自分はいつになったら姉から一本取れるようになるのだろうか、そんなことを考えながら立ち上がったイクスは弾き飛ばされてしまった双剣を拾い上げて姉の方に視線を向ける。
剣士として十分に鍛えられていながら、女性としての美しさも兼ね備えている洗練された肉体。整った顔立ちは母に良く似ており、剣を振るう時に邪魔にならないよう首元辺りで切られた髪は、イクスや父の髪色である紺色と母の銀髪が混じった『蒼銀』とでも言うべき珍しい色だ。
もう少しすれば思春期になるイクスにとって、間違いなく美人の部類に入るであろうこの美しい女剣士が自分の姉だというのはたまに信じられなくなる時がある。
流石に実の姉に対して恋愛感情を抱くようなことは無いものの、ふとした時に現れる姉の美しさに見惚れてしまうことは少なくなかった。
そんなイクスの視線に気づいたのか、ユスティアは不思議そうな表情でイクスの方を見返した。
「イクス、どうかしましたか?」
「あ、いえ、何でもないです」
「そうですか。では、今日の稽古はここまでにしておきましょう。私も母上の手伝いがありますから」
「手伝いって……一体何のです?」
「それは無論、今日の宴の準備ですよ」
「あ、なるほど」
今日は七耀暦1196年7月25日。
帝都ヘイムダルでは夏至祭が行われている時期であろうこの日はイクスの10歳の誕生日であった。ユスティアの言う宴とは、イクスの10歳の誕生日を祝う誕生日パーティーの事である。
日課である姉との稽古に夢中になっていたイクスはすっかり忘れていたが、今日は彼も待ち望んでいた日であった。
というのも、今までは1ケタだった自分の年齢が今日でようやく“10”という2ケタの数字になるという事が嬉しかったのだ。まだ成人したというには早すぎるが、それでも10歳になるというのは彼を少しだけ大人の仲間入りをしたような気分にさせていた。
稽古を終えた後、ユスティアは手早く木剣を片付けて道場の掃除を始めていた。掃除とは言っても日頃から稽古の後にはキレイにしている道場はほとんど汚れは無く、軽い拭き掃除程度で終わるものだ。
しかし、稽古が終わった後は必ず本人達で掃除をするのが剣士としての礼儀。汗を拭き終わったイクスも早速道場の掃除を始めようとした時、ある人物がそこに姿を現した。
「―――おや、丁度終わった所だったか」
「あ―――」
「ち、父上……!」
ライガスト家とその道場とを繋ぐ出入り口から入ってきたのは、イクスと同じ紺色の髪の持ち主の男性。イクスとユスティアの父にしてライガスト家現当主、ノイン・ライガストだった。そしてその後ろには彼の妻でありイクス達の母でもあるシルヴィア・ライガストの姿もある。
「父上、お体の方は……」
「もしかして今日は調子が良いんですか!」
「ああ、絶好調だとも。これなら久しぶりに稽古をつけてやることも―――」
「何を言っているのですか、あなた。午前中はずっと横になっていたではありませんか」
「むぅ……しかし今日くらいはだな」
「父上……」
イクス達の父ノインはイクスが生まれてからすぐにとある病を患ってしまっていた。
その病は治療法が発見されていない不治の病であり、それと何年も闘い続けているノインは全盛期に比べて体力がかなり落ちてしまったばかりか、数年前からは剣を振れる日も体の調子が良い時だけになるほど病魔に身体を蝕まれていた。
普段イクスが姉と二人だけで稽古しているのもこれが原因の一つで、ライガスト流が現在イクスとユスティアの二人以外に弟子をとっていないのにも影響していた。
イクスの誕生日ということでノインも気丈に振る舞ってみせていたが、彼も家族に余計な心配をかけたくはない。そう思ったノインは心配そうに見つめるイクスの頭を優しく撫でる。
「……まぁ、剣は振れずとも今日の宴には私も参加するつもりだ。イクス、お前にも色々と話すべきことがあるからな」
「話すべきこと?剣の事に関わることですか?」
「そうだな……当たらずも遠からずと言ったところか」
「???」
意味深な父の言葉を聞いたイクスは思わず首をかしげた。
剣術の流派がある家だからだろうかイクスと父が話すときは大抵剣に関わる話題になりやすい。病を患ってしまったと言ってもその腕は一流の剣士のものに変わりなく、イクスよりも実力が上である姉ユスティアでさえノインから一本取るのは難しかった。
剣士としても尊敬する父に少しでも早く追いつきたいイクスが父と話すともなれば、剣の話題になるのは自然なことであった。
その父から自分に剣の話とは違うことを話さなければならないと言われても、イクスには正直言って何の話をするつもりなのか見当もつかなかった。
「その話は夜に改めて話そう。宴は夕方に子爵閣下の屋敷で行う予定だからそれまでは好きに過ごすと良い」
「じゃあ、僕も宴の準備を――」
「何を言っているのです。あなたは祝われる側なのですから手伝う必要はありませんよ」
「せっかくの良い日和なのですから外で遊んで来てはどうですか?」
「外、ですか」
ユスティアが言った通り、窓の外には気持ちの良い青空が広がっていた。
時間帯もまだ2時を過ぎたばかり、今から郷の友達を誘って遊んでも宴が始まる夕方までは十分に時間がある。
ここは言葉に甘えて外に遊びに行こうかなぁ、そうイクスが考えた時――
「イクス、いるかしらーー?」
「おや、この声は……」
「丁度良かったかもしれませんね」
玄関の方から聞こえてきたのはイクスの名前を呼ぶ元気な少女の声だった。その声が聞こえた後、今度はパタパタと小さな足音がイクス達のいる道場の方へ近づいてくる。そしてすぐに可愛らしい足音の主が道場に姿を現した。
「こんにちは、おじさま、おばさま!」
「やぁ、こんにちは」
「ようこそいらっしゃいました、マシロお嬢様」
「ユスティアお姉さまもこんにちは、稽古中でしたか?」
「こんにちは、マシロちゃん。稽古なら丁度今終わりましたよ」
「そう、それは良かったわ!」
ホワイトブロンドの髪を揺らす少女は輝くような笑顔で順々に挨拶をしていく。爽やかなペールブルーのワンピースに麦わら帽子を被った少女はまるで人形のような可愛らしさがある。
そんな少女は稽古が終わったことをユスティアから聞くとより一層嬉しそうな表情で目的だった少年に話しかけた。
「こんにちは、イクス。それとお誕生日おめでとう!」
「うん、ありがとうマシロ」
少女の名はマシロ・ガーデニア。
ロウフェルを管理する《ガーデニア子爵家》の一人娘であり、イクスの同い年の幼なじみでもある。
「おじさま、今日はお体の方は大丈夫なんですか?」
「はは、心配要りませんよ。むしろ今日は絶好調なくらいで――」
「あなた?」
「………はい」
「そうですか……。あまり無理はなさらないでくださいね?」
「――承知しました。お心遣い感謝致します」
ガーデニア家とライガスト家は古くから親交のある家同士であるため、普段の会話ではお互いに多少砕けた口調で話していることが多い。
しかしいくら家同士が親しい間柄にあるとはいえ、ガーデニア家はライガスト家よりも上の爵位を持ち、さらにこの土地を管理する領主でもある。
爵位が下にあるライガスト家の人間がガーデニア家の人間に畏まった言葉遣いを使うのは珍しいことでもなく、それは無論その家の娘であるマシロにも例外は無かった。
「それで今日はどうしましたか、マシロちゃん?何やらイクスに用事があったようですが」
「あ、そうだったわ」
少し空気が硬くなってしまったと感じたユスティアは気を取り直してマシロがライガスト家に来た理由を尋ねる。すると、再び明るい表情に戻ったマシロはその笑顔をノインとシルヴィアの方に向けた。
「おじさま、おばさま。この後イクスを連れ出してもいいかしら?」
「ええ、構いませんよ」
「本当? じゃあイクス、これから私とデートに行きましょう!」
「えっ!?デ、デート!?」
「そうよ、今日はあなたの誕生日でしょ。だから、デートが私からの誕生日プレゼント!」
満面の笑みを浮かべる幼なじみからのまさかのプレゼントにイクスは思わず目を丸くする。
同い年で家同士も親しい関係にあり、イクスとマシロは物心ついた時から一緒にいる。今ではもはや一緒にいることが当たり前にさえなっている二人は、まだ小さいながらも男女の関係には違いない。
そんな二人がお互いに相手に好意を抱くのはそう難しい話でもなく、特にマシロの方はその好意を積極的にイクスだけでなく周囲にも見せていた。
そういった方面の気持ちを出すのが少し恥ずかしいイクスは、こうしていつも積極的で無邪気なマシロに振り回されるのが多かった。
「ふふ、素敵な誕生日プレゼントを貰いましたね、イクス」
「これ以上無いプレゼントではありませんか」
「か、からかわないでください!」
やけにニコニコした顔でこちらを見る姉と母。こういう時こそ日頃から鍛えている沈着冷静の心得を発揮すべきところではあるのだが、赤面するイクスは全くもってその動揺を隠しきることが出来なかった。
「宴は夕方からガーデニア家の屋敷で行うから、二人とも日暮れまでには郷に戻ってきなさい。くれぐれも魔獣が出るところまでは行かないようにな」
「はい、父上」
「それじゃあ、イクスはまず服を着替えてくること。私は外で待っているから!」
稽古で汗をかいていたイクスに一度着替えてくるよう忠告してからマシロは再び玄関の方へ戻っていった。イクスもシルヴィアに促され家に戻り、道場にはユスティアとノインの二人きりになっていた。
「父上」
「どうした」
ユスティアは静かに父に話しかける。話しかけられたノインはユスティアが自分に尋ねようとしている事にある程度察しはついていた。
「その、先程イクスに話すべき事があると言っていましたが、もしや“あの事”について話すおつもりなのですか?」
「うむ、その通りだ」
「……やはりですか」
父に尋ねたユスティアの表情は喜びや不安など様々な感情が入り混じった複雑な面持ちだった。それを見たノインは彼女に言い聞かせるように語りかける。
「お前の心配も分からなくはない。本来ならお前と同じようにあと2、3年経ってからイクスにも伝えるつもりだったからな」
「でしたら何故……」
「私の身体もいつまで保つかわからないからな。せめて私が生きている内にイクスにも私の口から伝えなければならないと思ったのだ」
「……ぁ……」
あくまで冷静に告げる父にユスティアは何も言えなかった。
彼女も父の病が数年前に比べて確実に悪化しているのは理解している。認めたくは無かったが、いつ父が剣を握れなくなってしまう日が来てもおかしくなかった。
「ユスティア、万が一の事かまあればイクスの事は任せるぞ」
「……っ……。はい……!」
誰よりも悔しくてたまらない筈の父はそれを微塵も感じさせずに真っ直ぐな瞳でユスティアを見据えていた。その目を見てハッとなった彼女は目を逸らさずに強く頷く。
やはり自分の目標とする剣士の背中は遠い―――改めてユスティアはそう感じるのだった。
「今日も暑いなぁ」
外に出た瞬間、イクスは思わず呟く。
夏本番になったことで一層元気を増した太陽は、高い青空から地上をジリジリと照りつけている。先月まで続いていた雨のせいで出番が少なくなっていた太陽はそれを取り返すかのようにここ数日は常に空から地上を見下ろしていた。
ロウフェルは帝都などに比べればそれほど暑くはならないのだが、夏がそれほど得意ではないイクスにとっては今日も十分に暑かった。
「あはは、ペロってばくすぐったいよ〜」
イクスがぼーっと青空を眺めていると、そのすぐ近くでマシロの声が聞こえてきた。
「マシロ、お待たせ」
「あ、やっと来た」
「ワンッ!」
声が聞こえてきた方向はライガスト家のすぐ横、そこにはイクスを待っていたマシロと彼女と遊んでいた一匹の犬がいた。犬の名前はペロ、ライガスト家で飼っている犬でその名付け親はマシロだった。
元々は野良だったところを偶然イクスとマシロが見つけ、イクスの家で飼う事になったその犬は良く人を舐めるからペロという単純な名前をマシロに付けられていた。人懐っこい性格のペロは特にイクスとマシロに懐いており、マシロもライガスト家に来ては必ずペロと遊んでいた。
「さてと、それじゃあ行きましょうか。またね、ペロ」
「クゥーン……」
「ごめんな、明日一杯遊んでやるからそれで勘弁してくれ」
「ワン!」
二人が出かけると分かりペロは一瞬寂しそうな声を出したが、イクスが撫でながら話しかけるとその言葉を理解したのか元気よく返事をした。
自分達を見送る愛犬に少しだけ罪悪感を感じながらイクスはマシロと一緒にロウフェルの町の方へと歩き出した。
《花の町》と呼ばれるロウフェルはその名の通り花卉栽培も含めた園芸農業が盛んな場所で、町の至る所に一年中様々な種類の花が咲き乱れる美しい町である。小さな町の高台になっているところには他の建物よりも大きいガーデニア家の屋敷が建っていて、他にも町には教会や幾つかの店もある。
《ヒイロスギ》という赤っぽい色の杉の木を使った木造住宅と色とりどりの花で溢れるその風景は、絵本に出てくるようなカラフルな町並みでイクスもその風景が好きだった。
そんな長閑な風景を見ながら歩いていると不意に二人に声がかけられる。
「おや、坊ちゃんにお嬢様。お出かけですか?」
「ごきげんよう、カズラさん」
「坊ちゃんはやめてくださいよ、カズラさん。僕だってもう10歳なんですよ」
「ハハ、これは失礼しました」
声をかけてきたのは町でパン屋を営んでいる男性だった。ロウフェルで採れた小麦や果物などを使ったその店のパンは町の人から多くの人気を集めており、もちろんそのパンはイクスやマシロの家でも食べられているものである。
特にイクスのお気に入りは秋に採れるブドウをふんだんに使ったブドウパンだった。
気さくな性格の店主であるカズラは二人に挨拶すると、店の前で二人に待つように言ってから店の中に入って行った。そして待つ事数分、彼は茶色い紙袋を持って店から出てきた。
「お待たせしました。どうぞ、坊ちゃん」
「あ、この匂い……」
「もしかして、蜂蜜パイですか!」
「ええ、私からの誕生日プレゼントという事で」
イクスが受け取った紙袋はほんのり暖かく、中からは食欲をそそる甘い香りが匂ってくる。
このパン屋の名物の一つである蜂蜜パイ、その出来立てをカズラは二人に渡していた。
「ありがとう、カズラさん。とっても嬉しいです」
「いえいえ、こんな物で良ければ幾らでも差し上げますよ。出来立てですから冷めない内にお召し上がりくださいね」
「ええ、そうさせてもらいます」
「では、また夕方に。私も宴には腕によりをかけたパンを持っていきますので」
蜂蜜パイを手渡したカズラは今度は夕方の宴用のパンを焼くため店へ戻っていく。大好きな蜂蜜パイを貰った二人は早速どこで食べるかを話しながら歩き始めた。
「ねぇイクス、せっかくだから“あそこ”に行って食べるのはどうかしら」
「そうだね、あそこなら魔獣も出ないし」
「決まりね。それじゃあバーベナおばさんのところで飲み物を買ってから行きましょう」
そう言ってマシロは絹糸のように綺麗な髪をなびかせながら駆け出した。イクスも置いていかれないようその後ろを追っていく。
イクスが紙袋を落としてしまわないようしっかりと持ちながらマシロの後をついて行っていると、彼の目の前で突然マシロが何かにぶつかった。
「いたた……」
「マシロ!大丈夫?」
「うん、お洋服がちょっと汚れちゃったけど」
尻餅をついたマシロに慌ててイクスが駆け寄る。幸い彼女にケガはなく、ワンピースが少し汚れただけだった。
幼なじみの無事を確認してイクスがほっと一安心していると、彼らに一人の男が声をかけた。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん」
その声を聞いた瞬間、ゾクリとイクスにこれまで感じた事のない悪寒が走った。
その声は人の声の筈なのに全くもって生気が感じられない。感情を一切感じない不気味なほど無機質なその声は、ヒトではない何か別のモノが発しているのではないかとさえ思える。
どうやらマシロがぶつかったのは曲がり角から出てきたその男のようだったらしい。ぶつかったマシロにかけた言葉自体は別段変なものでもなくむしろ優しげな言葉ではあったが、イクスはその声の主に何か異質なものを感じ取っていた。
「ごめんなさい、ぶつかってしまって」
「いや、構わないよ。ケガが無くて何よりだ」
「…………」
マシロと話すその声の主をイクスは無言で見ていた。
少し汚れた灰色のズボンに上には若干季節外れにも思える真っ黒なフード付きのポンチョ。そのフードを被った男の片目には《眼帯》があり、もう片方の目はまるで何も映し出していないかのような感情の全く感じられない異質な瞳だった。
その男を見れば見るほど心臓が早鐘を打つ。イクスの中の危険信号がかつてないほど反応していた。
「君たちはこれからどこかに行くのかい?」
「ええ、ちょっと遊びに行ってくるの」
「そうか、それは楽しそうだ。じゃあ、『パーティー』に遅れないようにね」
言葉とは裏腹に全く笑っていない目でイクス達を見てから男はその場から去って行く。その後ろ姿をイクスはじっと見つめていた。
「イクス、どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
「そう?ならいいけど」
変なことを言ってマシロを怖がらせるのも良くないと思ったイクスは敢えて何も言わなかった。マシロは不思議そうに彼を見たが、それを追求することなく再び歩き出し始める。
イクスがマシロの後を付いて行こうとした時、彼はふと先程の男の言葉を思い出した。
(あれ、そういえばあの人何で今日宴があるって知ってたんだろう……?)
最後に男は『パーティー』に遅れないように、とイクス達に言っていた。
間違いなくロウフェルの人間ではないあの男が自分の誕生日を知っているはずがない。何か言いようの無い胸騒ぎがしたイクスは男が去っていった方に振り向いたがそこには既に誰もいなかった。
「イクスーー?」
「あ、うん、今行くよ」
立ち止まっていたイクスにマシロが声をかける。それを聞いたイクスは慌ててマシロの方へ向かって行く。
イクスの中の胸騒ぎはまた続いていた。