「……………ん………」
暗闇の中、アリサの瞼がゆっくりと持ち上がっていく。本人には全く起きるつもりは無かったのだが、眠りについてから約二時間経過したところで彼女は自然と目を覚ましてしまっていた。
むくりと体を起き上がらせたアリサは暗い室内を見回す。
自分の隣のベッドでは同じ班であるラウラが眠り、彼女たちの向かいのベッドの方ではサラ教官がスヤスヤと寝息を立てていた。
(………下で水でも飲もうかしら)
なんとなく喉の渇きを感じたアリサは、下の階へ行くために他の二人を起こさないよう静かにベッドから出て部屋の扉を開けた。
慎重に扉を閉めてから下の階へと続く階段を降りていく。しんと静まった旧遊撃士ギルドには自分以外誰も起きていないと思っていた彼女だったが、一階にはもう一人この夜更けに起きている者がいた。
「リィン?」
「ん? ああ、アリサか。どうしたんだ?」
「ちょっと目が覚めちゃってね。あなたも?」
「はは、まあな」
声をかけたアリサにリィンは少し困った笑顔を見せる。頭の後ろを触りながらこうして笑うのが彼のクセというのを、この4ヶ月同じクラスで過ごしているアリサは知っている。無論、それも彼女が無意識のうちにリィンの事を目で追っていたというのが一番の理由なのだが。
一階に降りたアリサはそのまま台所へ行き、コップに水を注いだ。自分の思っている以上に喉が渇いていたらしくゴクゴクと喉を鳴らして一気にそれを飲む。コップ一杯に注がれていた水は一瞬で消えてしまった。
ふぅ、と一息ついてからコップを軽く水洗いして台所を離れる。そしてアリサはリィンの向かいのイスに腰掛けた。
「それで、一体何を悩んでいたのかしら?」
「え?」
「とぼけても無駄よ。あなたが一人で色々と考えてたのなんて顔を見れば分かるわ」
「………はは、さすがアリサだな」
実を言えばアリサがリィンの異常に気づいたのは今こうして彼の顔を見る前である。
ガイウスに次いで人や魔獣の気配を感じ取るのが得意なリィンであれば、アリサが階段から降りてくる前に彼女の気配に気づいている。しかし、先程のリィンはアリサに声をかけられるまでその気配に気づいてはいなかった。つまり、周囲の気配も気にせずに何か集中して考えていたということだ。
そして同時に、アリサもリィンが考えていた事についてある程度の察しはついていた。
「……イクスの事なんでしょ?」
「ああ」
やっぱりね、とアリサは心の中で呟く。
今から数時間前にイクス本人から聞かされた彼とマシロの過去。
断片的にはⅦ組メンバーも知ってはいたが、改めて本人の口から話されたその過去はあまりに悲惨なものだった。
人の過去に優劣など無い。
そもそも、いくら人の過去を知ったところでそれを他人である自分達がその苦しみを完全には理解することなど不可能。過去というのはそれぞれが価値あるものであり、その苦しみを真に理解できるのも当事者のみだ。
しかしそうだとしても、イクスの過去は悲惨すぎた。
様々な過去を背負っているⅦ組メンバーの中でも、たった一日で幼馴染以外の全てを奪われたというイクスの過去は聞いただけでも胸が哀しみで一杯になってしまうものであった。
かくいうアリサ自身もこんな夜中に目が覚めてしまったのはそれが原因で、リィンの性格をそれなりに把握しているアリサにとって、リィンがイクスの事で悩んでいたという結論に至るのはそう難しい事でもなかった。
イクスの名前が出た後、二人は再び彼の口から語られた過去を振り返っていた。
蛇口の締めが甘かったのか、沈黙が流れる空間には時折シンクに水滴が落ちる音だけが聞こえていた。
「実はさ、色々と振り返ってたんだ」
「何を?」
「入学式の時にイクスに会ってからのこと」
少し遠い目をしながらリィンは話す。
「入学式の時にエリオットやガイウスと一緒に旧校舎を探索してからイクスとも仲良くなって、たまにはラウラも一緒になって剣の稽古もするし、ある意味Ⅶ組の中だと一番仲が良いかもしれない」
「それは確かにそうね。学院だけじゃなくて寮でもあなたとイクスって一緒にいる事が多い気がするし」
「イクスもそう思ってくれてるといいんだけどな」
「え、どういう事?」
「色々と振り返っているうちに思ったんだ。もしかしたらイクスはまだ俺の事をちゃんと信頼してくれて無いんじゃないのか、ってさ」
「…………?」
リィンが言った事にアリサは戸惑った。
イクスと一番親しい関係であるリィンがそう思う理由がよく理解できない。側から見ればリィンとイクスは互いに信頼し合っていると思うのに、一体彼はどうしてそんな事を言い出したのか。
そのアリサの疑問に答えるようにリィンは話を続ける。
「思えば俺はイクスに助けられてばかりなんだ。4月の実習の時も夜にラウラの事で励まされて、つい最近だと旧校舎で暴走した時にも俺を正気に戻してくれた。それに、特別実習で別の班になった時は、あいつは別の班のリーダーも務めてくれている」
「それのどこが悪いの?」
「いや、別にそれ自体は悪いことじゃない、むしろ感謝してるくらいだ。―――問題は、俺がイクスを助けてやれた事がないって事なんだ」
「え―――」
「フィーとの関係に悩んでた時も、結局はイクスは自分でフィーと和解していた。悩んでいた時に話を聞いてやったこともできたはずなのに、俺はそれをしてやれなかった」
暴走していたリィンをイクスが正気に戻したという話はその時に意識を失っていたアリサには初耳だったが、それを除いてもアリサは今聞いたリィンの話に何か違和感を感じていた。
イクスの助けになりたいという一見すればいつものリィンらしいお人好しなセリフ。しかし、その中にはどこかいつもの彼らしく無い部分を感じる。
それが何なのかはっきりとわからない彼女は確かめるように彼に尋ねた。
「えっと、だからリィンはイクスに信頼されてないって思ったの?」
「ああ。何というか俺だけがイクスに助けられてばかりなのは不公平な気がしてさ」
アリサに再度尋ねられたリィンは少し歯噛みするような表情を見せる。
その表情を見た瞬間、アリサは自分の中で感じていた違和感の正体を理解した。
「―――そっか、リィンはイクスと対等になりたいのね」
「え……?」
「だって、イクスに助けられてばっかりって言った時の貴方、なんだか悔しそうな表情してたもの。不公平って言うのもそういうことなんでしょ?」
「俺がイクスと対等になりたい、か………」
イクスとの公平性を重視するような言葉に加えて、それに対して悔しがる表情。
いわゆるイクスへの対抗心というのがアリサがリィンに感じた違和感の正体だった。
基本的に温厚で誰に対しても親切な性格であるリィンが特定の人物にこだわるようなところをアリサは初めて見た。それはリィン本人も同様で、自分が知らずのうちにイクスへ対抗心を持っていたことに彼自身も驚いていた。
「でも意外ね。てっきり私は貴方がイクスに同情して、ずっと悩んでたと思ってたわ」
「いや、もちろん最初はイクスのことを心配していたさ。でも、色々考えるうちにイクスを助けたいっていう思いと、なんていうかあいつが羨ましいっていう気持ちが出てきたんだ」
「羨ましいって、何に?」
「その、自分でもまだはっきりしていないんだけど、イクスが明確な目標を持ってそれに向かって努力してるところとかかな。他にも色々あると思うけど、そういう自分に無いものを持っているのが羨ましいのかもしれない」
「……なるほどね」
リィンの言葉を聞いたアリサはいつかの夜を思い出していた。
満天の星の下、高原の爽やかな風を感じながら語り合ったあの日の夜のこと。
家族との関係で悩む自分の思いを聞いてくれたリィン。そしてその後で彼がアリサに語った彼自身の迷いや不安。
その中でリィンは4月の実習で話していた“自分を見つける”という彼の士官学院の志望理由について改めて話していた。
今となってはその理由も改めて理解できる。
貴族の養子として迎えられたという複雑な立場。それらもあって家族から逃げているような節があること。そして、彼の中に眠る正体不明の“力”。
それらとうまく向き合えずに逃げているのではないかという不安がリィンの中にはある。あの日の夜、アリサもリィンの言葉を借りて彼を励ましたものの、彼女と同様そう簡単に解決するような問題では無い。
そんな思いを抱えるリィンの一番の友であるイクス。
リィンとは別のベクトルで色々と背負っているイクスには幼馴染と交わした“約束”がある。彼が士官学院に入学したのもその約束を果たすため。明確な目的を持って進んでいるイクスの姿にリィンは人生で初めて羨望の感情を抱いていた。
「まあ、そういう思いも含めて、改めて俺はイクスの力になってやりたい。もし明日、本当にテロが起きる事になるのならイクスの故郷を襲った猟兵もいる筈だし、その連中と戦闘になるかもしれない。その時は俺があいつを助けてやりたいんだ」
「リィン……」
遥か彼方を見つめるような真っ直ぐな瞳。その瞳にアリサの目は吸い込まれていた。
普通の人よりも色々な悩みを抱えているくせに、そんな自分を後回しにして他人のことを気にかけようとするバカがつくほどのお人好し。
自由行動日以外でもいつも学院ではそうやって人助けのために学院内を走り回って、Ⅶ組の中でもみんなの中心になってクラスを引っ張ってくれている。
いつも人には頼りにされてるのに、自分のことになると人に頼ろうとしないで自分の中で抱え込もうとする。
(―――あぁ、そうか。多分、私はこの人のそういう所がほっとけなくて、そういう所が『好き』になっちゃったんだ―――)
アリサの胸の中でつかえていたものがスッと落ちる感じがした。
気づいた時にはもう遅い。アリサの中の恋心を縛り付けるものは無くなり、一気に燃え上がり始める。先ほどまでは聞こえていなかった筈の心臓の鼓動はドクンドクンと脈を打っている。
惚れてしまった相手の瞳は一体どこを見ているのか。その瞳の行き着く先に何があるのか。自分もそれを知りたい、可能であるならそれを支えてあげたい。
そんな溢れ出そうとする感情がそうさせたのか、アリサは自分でも知らずのうちに言葉が漏れてしまった。
「リィン、一つだけ訂正よ」
「え?」
「“俺が”じゃなくて“俺たちが”に訂正して。私たちⅦ組だってイクスの力になりたいのは同じ気持ちだと思う。貴方一人だけよりもみんなで協力した方が良いはずよ。それに―――」
「それに……?」
「―――私も貴方を助けてあげたい。貴方を支えてあげたいから」
そこまで言ってアリサの理性はようやく復活した。が、時すでに遅し。一度冷静になったアリサはたった今の自分の発言がとんでもないものだというのを理解する。
そして再び理性が吹っ飛び、顔を真っ赤にして訂正し始めた。
「あ、ああ、あのね、今のはその、違うの!変な意味じゃなくて、貴方を応援したいというか、心配になるというか―――」
マキアスやエリオットもびっくりの慌てっぷりを見せるアリサ。
それもそのはず、先ほど彼女がリィンに言った言葉は側から見れば告白のセリフ。さらに言えばプロポーズの言葉にもなりかねない。
これが普通の青少年であれば彼女から好意を寄せてもらっていると解釈してもおかしくない。そして自分もその気持ちに対しての返事をして、上手くいけばそのまま交際に発展する所だろう。
しかし残念なことに、アリサの惚れてしまった相手は超がつくほどの朴念仁であることを彼女は失念していた。
「はは、そんなに慌てなくても分かってるよ、アリサ」
「ふぇ―――?」
「アリサの後方支援は俺もいつも助けられてるからな。明日も頼りにしてるよ」
「後方、支援……?」
「ん?そうだけど、何か違うのか?」
一瞬、時が止まる。
リィンの返答を聞いてアリサが思ったのは、一体この人は何を言っているのか?という単純な疑問。想定外すぎる返答にアリサの頭は一瞬フリーズしていた。
そしてすぐにアリサはリィンがとんでもなく場違いな返答をしたのだということを理解する。
この男は先の自分の発言を戦闘中の後方支援の決意表明だと勘違いしているのだ。しかも冗談ではなく真剣に。それは彼の目を見ればわかる。
それを理解した瞬間、アリサの中でふつふつとリィンに対する怒りの気持ちが湧き上がり始めた。
「ええ、そうよ!せいぜい私は後ろで貴方やラウラを援護するわよ!それが私の役割ですし!」
「あ、あれ?アリサ、何か怒ってるのか?」
「別に!!」
「いや、絶対怒ってるだろ!?」
燃え上がっていた甘い恋心は何処へやら、完全に機嫌を損ねたアリサはリィンからプイッと顔を逸らす。さすがのリィンも自分がまた彼女の地雷を踏んでしまったことに気づいて慌ててその理由を問おうとする。
そんな彼らのやり取りを上で眺める者が一人。
「やれやれ、あの二人はまだまだ時間がかかりそうね」
いつからそこにいたのか、二階では女子部屋のベッドで寝息をたてていた筈のサラ教官がリィンとアリサの様子を見ていた。ちなみにリィンもサラ教官の気配にはまだ気づいてはいない。自分の気持ちに鈍い彼は気づいていないだろうが、彼は周囲の気配に気を配るのを忘れるくらいアリサとの会話に集中していた。
しかし、今のリィンがそれに気づくことはないだろう。彼がアリサからの好意に気づくのも、自分の中で芽生え始めている想いに気づくのもまだ先のこと。
いつの日かこの日のアリサの想いに彼が気づく日が来るのだろうか。今は誰もわからない。
サラ教官は微笑ましい青春の一ページをしばらく楽しむのだった。
リィンとアリサが語り合っているのとほぼ同時刻、帝都ヴェスタ通り旧遊撃士ギルド支部―――Ⅶ組B班の宿泊先でも何やら話している声が二つあった。
「どうしたの?今回の実習には来ないって言ってたじゃない」
「別にちょっとした気まぐれよ。アンタの言う『胸騒ぎがした』ってヤツかしら」
「そうなの?」
話し声の一つはB班のメンバーであるエマのもの。そしてもう一つはⅦ組のメンバーではない者の声。声の高さは女性っぽいものだった。
「ま、安心しなさい。アタシはバレないように離れて行動するから」
「それならいいんだけど………」
二階で眠る他のメンバーを起こさないよう必要最低限の声量で話すエマともう一人。明かりのついていない旧ギルド支部には二人の話し声の他に時折綺麗な鈴の音が聞こえていた。
「でも、来て正解だったかもね」
「え?」
「アンタも気づいてるでしょ。あの女、この街にいるわよ」
「………ええ、それは分かってる。私もここに来た時から姉さんの魔力を感じていたもの」
二人の会話の話題はエマの姉らしき人物の話題に移行する。
Ⅶ組のメンバーがエマがトールズ士官学院に来た本当の目的を知る者はまだいない。その目的の中には彼女が自分の姉を探すというものも含まれている。そしてもちろん、彼女に姉がいるということも誰も知らなかった。
「でも、さすがは姉さんね。街にある魔力の残滓は感じるけど、その魔力の出所を割り出せないよう上手く隠してる」
「隠蔽はあの女の得意分野だからね、そう簡単に見つかるはずはないわ。あのロゼですら手を焼くくらいだし」
「そうね。でもせっかくのチャンスだもの。せめて手がかりくらいはこの実習中に掴みたい」
「ま、明日はアタシの方でも探ってみるわ。アンタも実習ってヤツで忙しいでしょうし」
「ええ、お願い」
他のメンバーの知らない所で新たにもう一つエマの明日の行動が追加された。彼女と話す相手もどうやらそれに協力してくれるらしい。
明日の方針を固めた後、エマと話し相手の間に少しの沈黙が訪れる。
その沈黙の中、エマはとあることを考えていた。
「……ねぇ、セリーヌ」
「何よ?」
「私、このままでいいのかな?」
「はあ?何言ってるのよ、急に」
ポツリとエマが呟く。彼女の声は心なしか少し泣き出しそうな声にも聞こえる。
「良いも何も、アタシたちの使命はあの起動者候補を導くことでしょ。“最後の試し”が出現するまで下手にアタシたちの存在を知られる訳にいかないわ」
「わかってる。わかってるけど……」
エマの中で芽生え始めていた一つの迷い。
それは彼女が自分の本当の姿を隠したまま《Ⅶ組》の一人としてクラスに居ていいのかという罪悪感だった。
数時間前に聞いたイクスの過去。それ以外にも彼女以外のメンバーはそれぞれが背負っている過去を皆に打ち明けている。唯一自分だけが本当の姿を隠してⅦ組というクラスに所属している。
今まで聞いてきた中でもかなり悲惨な過去をイクスから打ち明けられたからなのか、エマの心は揺れ動いていた。
「とにかく!今はまだ話すべき時じゃないわ。アンタも明日は早いんでしょうし、さっさと寝なさい。それじゃあ、おやすみ」
「………うん、おやすみ」
綺麗な鈴の音とともに話し相手は闇の中に消えていく。薄暗い旧ギルド支部の一階にはエマだけになっていた。
「はぁ………」
こっちの気も知らないで、そんな愚痴を心の中でこぼす。
最初は使命のために入学した学院の生活にも慣れてきて、自分もⅦ組の一人として活動している。それだけに彼女だけが自分の事を隠しているという罪悪感はどうにも耐えられなかった。
自分は一体どうしたいのだろう。
そんな葛藤がエマの胸の中でぐるぐると渦巻いていると、不意に彼女の中である一言が再生された。
『でもさ、俺たちはエマのこと“仲間”だと思ってるぜ』
前にイクスから言われた言葉。それを言われたきっかけというのが、自分に友達がいないという彼の勘違いではあったが、エマの心にはその言葉は深く刻まれていた。
―――仲間―――
彼は自分のことをそう言っていたが、本当に彼以外のメンバーも自分のことをそう思ってくれているのだろうか。もしそうなら、やはり自分は不義理なことをしているのではないか。
たった二文字の言葉にエマの心は支配されていた。
その意味は知っているものの、それを自分自身で感じたことはなかった。そしてそれが自分にとって心地のいい言葉であることを彼女は知らなかった。
エマの心は揺れ動く。ゆらゆらと揺れる振り子のように。
ここにも一人、悩める若獅子の姿があった。
「うっし、こんなとこかな」
今日分のレポートを書き上げたイクスはペンを置いて大きく伸びをする。ずっと同じ姿勢だった体を後ろに逸らすと腰や肩あたりの関節がパキパキと音を立てた。
イクスの誕生日パーティーが行われて、そこで彼の過去をみんなに話してからすでに三時間は経っていた。今頃はA班とB班のメンバーも宿泊先で彼のようにレポートを書き上げている頃だろう。
イクスはB班のメンバーの後押しもあって今日は久しぶりに帰ったマシロの叔母の家に泊まることになっていた。彼が今いるのもそこにある自分の部屋。といっても、荷物は半分以上第三学生寮の自室にあるため、部屋の中にはあまり物がない状態だった。
レポートを書き終えたイクスは机を離れ、ベッドの方にダイブする。
叔母さんの気遣いで布団のシーツと枕カバーは交換してあり、新品独特の少し無機質な匂いが鼻の中に入ってくる。その匂いを堪能した後、イクスはごろりと反転してベッドに寝転がりながらぼーっと天井を見上げていた。
―――コンコン
部屋のドアが叩かれた。
その音に気づいたイクスはベッドから起き上がってそれに返事をする。ドアの向こう側にいる人物が誰なのかは分かっていた。
「入っていいぞ」
「失礼しまーす」
部屋の中に入ってきた人物はイクスの予想通り幼なじみのマシロだった。
いつもと違うとすればその服装が女学院の制服でもなければ私服でもない、薄いピンク色のパジャマ姿だということだった。
久しぶりに彼女の寝巻き姿を見たイクスはどきりと胸が熱くなるのを感じた。女学院に入り淑女としての美しさも兼ね備えた美少女は、寝巻き姿ですら一つのファッションのように感じる。我ながら単純だな、とイクスは心の中で自嘲した。
イクスの部屋に入ってきたマシロは何も言わずにイクスが座っていたベッドへと歩いて行き、そのまま彼の隣に腰を下ろす。
お風呂上がりだったらしくマシロが隣に座った瞬間、ふわりと彼女が使っているシャンプーのいい香りがイクスにも届く。それを嗅いだイクスはまたどきりと心臓が高鳴り、自分の単純さに辟易した。
「良かったのかな」
「何が?」
「いや、今日みんなに過去を話したこと」
自分の頭を一度冷静にするためにイクスはマシロに話を振った。真面目な話をしていれば、隣に座る美少女の魅力も少しは紛らわすことができると考えていた。
「イクスは後悔してるの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「じゃあ、何の問題も無いじゃない。イクスも今日話そうって決めてたんでしょう?」
「まあ、な」
自分たちの過去をⅦ組のみんなに話すことは実習が帝都に決まった時からイクスの中で決めていた。話すなら今日しかない、それぞれが自分たちの抱えているものを打ち明ける中で自分がこのことを話さないのは筋違いだと彼は思っていた。
しかし実際のところ、話してしまったはいいがそれに対するみんなの反応がどうもイクスの中で気になっていた。
あの日の出来事と自分たちが交わした約束、そして改めて士官学院に入学した理由について一通り話し終わった後、一同はすぐに何も言えなかった。
沈黙を最初に破ったのはリィンの「そうか……」という覇気のない声。
それ以降は他のメンバーもいくつか言っていたが、彼らも上手いフォローの言葉が出てこなかった。
結果的にイクスが「聞いてくれてありがとう」と言ってから一同も「話してくれてありがとう」という会話を交わし、夜も遅いから今日は一旦解散ということになっていた。
「なんか不安になっちゃってさ。明日の朝、いつもどおりにあいつらと顔を合わせられるのかなって」
「そっか」
明日は夏至祭初日。イクス達Ⅶ組もテロを防ぐために帝都を巡回しなければならない。最悪の場合、テロ組織と戦闘になることもあるだろう。そしてその時は《隻眼の狼》とも。
そんな時に上手く連携が取れなければ作戦の支障になる。自分のせいでそんな事態を招いてしまったらという不安にイクスは駆られていた。
そのイクスの不安を優しく包み込むように彼の手にマシロの手が置かれる。
「大丈夫だよ、きっと。私もまだⅦ組のみなさんとは知り合ったばかりだけれど、あの人達が頼りになるってことは十分分かるもの。イクスは違う?」
「いや、俺だってそう思ってるさ」
「なら心配しなくても大丈夫。イクスももう少し自分の“仲間”のことを信頼してあげて」
「“仲間”、か―――」
柔らかいマシロの手、そこから伝わってくる彼女の体温がゆっくりとイクスの不安を溶かしていく。
仲間という言葉を聞いて、イクスも自分の中に新たに暖かい気持ちが湧いてくるのを感じた。
「―――そうだな。俺ももっとあいつらのことを信じてみるよ」
「うん、よろしい♪」
イクスの言葉を聞いたマシロは満足げに笑った。その笑顔を見て、イクスもどこかホッとした気持ちを覚える。
自分の不安を聞いてもらって少し照れ臭くなったイクスは「あ、そうだ」とわざとらしく話題を変えて、自分の机の方に向かった。
「はい、これ。遅くなったけどマシロの誕生日プレゼント」
「あ―――」
引き出しの中から取り出した物をマシロに手渡す。綺麗にラッピングされたそれはイクスが渡し忘れていたマシロへの誕生日プレゼントだった。
「開けていい?」
「うん、どうぞ」
ラッピングを丁寧に剥がすと、現れたのは小さな箱。その中に入っていたものを見て、マシロは驚いたような声を上げる。
「これって―――」
「良いデザインだろ?マシロに似合うかなって思って買ったんだ」
イクスがプレゼントしたのは一つのペンダントだった。
羽のような形の飾りの中には小さなピンク色の宝石が一つ埋め込まれていて、ペンダント自体も派手なものでもないため私服にも合わせやすいだろうとイクスは考えた。値段はそれなりにしたものの、普段からそこまでお金を使うことも無いため出費はそれほど気にしなかった。
自分でも結構良いプレゼントをした、とイクスは自信を持って渡していた。
「ふふっ」
「どうした?」
「ううん。ちょっとびっくりしちゃった」
自分の贈ったプレゼントを見て何か笑いを堪えているようなマシロの表情にイクスは首をかしげる。すると、彼女も持ってきていた物をイクスに手渡した。
「はい、これ。私からイクスへのプレゼント」
「え、これって……」
「開けてみて」
マシロが渡してきたのはイクスへの誕生日プレゼント。しかし、その包装と大きさなどを見てイクスは驚く。まさかと思いながらイクスは恐る恐るその包装を解いた。
「あ―――」
「びっくりしたよ〜。まさかイクスもそれをプレゼントするなんて思ってなかったから」
箱の中に入っていたのは先ほどイクスがプレゼントしたペンダントと全く同じデザインのもの。一つだけ違うのは埋め込まれている宝石がピンク色ではなくスカイブルーのものだということだった。
実は二人は偶然にも全く同じデザインのペンダントをお互いの誕生日プレゼントとして用意していたのである。マシロがイクスのプレゼントを見て笑ったのもそれが理由だった。
「あはは、こんな事ってあるんだな」
「でも嬉しかったよ。なんだか離れていてもイクスと心が通じ合ってる感じがしたから」
「そうか、そうかもな」
二人はしばしの間、お互いの顔を見ながら笑い合った。
イクスもこの展開はさすがに予想していなかったが、これはこれで良いものだと思っていた。
「マシロ」
「何?」
少し落ち着いたところでイクスはマシロに話しかける。
先ほどまで感じていた不安はどこかに行っていた。
「約束するよ。俺は絶対強くなる。そして二人で一緒にロウフェルに帰るまで絶対に死なない。Ⅶ組のみんなと一緒に“道”を見出してみせるって」
「うん、じゃあ約束。絶対破ったらダメだからね」
イクスはマシロとまた新たな約束を交わす。
たとえあの猟兵達と戦うことになっても絶対に生き延びると。新たにできた仲間たちと共に成長すると。
そして夜は過ぎて行く。
それぞれの決意、想いを胸に運命の若獅子たちは次の朝を迎える。
運命の日が始まろうとしていた。
実習2日目はこれにて終了。次回からは実習3日目、夏至祭初日になります。
ターニングポイントである4章では、ここからさらに物語が加速し、展開も原作とは結構変わってきます。Ⅶ組それぞれもそうですが、結社や解放戦線、そして隻眼の狼など敵サイドの動きにも注目してみてください。
もしかすると、原作ではまだ登場していないあのキャラ達もこれから出てくるかもしれませんね。