事務員の初音さん
765プロダクションには、三人の事務員がいる。
一人は音無小鳥さん。
765プロ立ち上げ時から勤めていて、私たちシアター組が所属する前から765プロの先輩たちを支える縁の下の力持ち。時々百合子さんみたいに妄想の世界に飛ぶのが玉に瑕。
一人は青羽美咲さん。
私たちシアター組の加入に伴って新しく採用された事務員さん。普段は音無さんの補佐をする傍ら、プロデューサーと一緒に私たちの面倒を見てくれたり、衣装のデザインや製作を担当している。私たちアイドルと歳が近いこともあってか(音無さんもまだ二十代ではあるのだが)、プライベートな悩みや相談を彼女にする子も多い。
そしてもう一人、765プロには事務員がいる。
「おはようございます」
劇場の事務室の扉を開けてすぐ右、大きなモニターがある机が彼女の席だ。
彼女はパソコンのモニターに向けていた視線を私に移すと、ニコッと快活な笑みを浮かべて、手元に置いていたスケッチブックにマジックで何かを書きだした。
【静香ちゃん おはよう!】
「おはようございます、初音さん」
初音ミクさん。
彼女が765プロに勤める三人目の事務員である。
◆事務員の初音さん
765プロの事務員、初音ミクさんは喋れない。
長く綺麗な深い浅葱色の髪。
シルエットだけで彼女と分かる特徴的な大きなツインテール。
キレイに通った鼻筋と整った顔立ち。
すらと美しいスレンダーなスタイル。
アイドルもかくやというビジュアルを持った初音ミクさんは、765プロダクションに勤める事務員の一人である。
青羽美咲さんよりも若いミクさんはシアターメンバーの多くと年が近いこともあり、特に高校生以下のメンバーから懐かれている。
しかしてその実、初音ミクさんは言葉を話せない。
杏奈のようにオフは口数の少ない子や、美也さんやひなたみたいにマイペースなテンポで喋る子はメンバーの中にもいるが、ミクさんの場合はそういう話ではない。それが病気による物なのか事故や怪我による物なのかは分からないが、ミクさんは全く声を出すことができないのだという。39プロジェクトが始動してもう一年になるが、シアターのアイドルでミクさんの声を聞いた子は一人もいない(もちろん、それは私もだ)。そのため、普段はスケッチブックやトークアプリであったり、ジェスチャーを用いて私たちとコミュニケーションを取っている。
【今日は早いね 何か予定あったっけ?】
ミクさんは、慣れた手つきでサラサラとスケッチブックにマジックで文字を書き、私に見せてきた。
「これからロケなんですけど、その前にプロデューサーに確認することがあって……プロデューサーはまだ?」
【次のライブのことで、イベント会社の人と外で打ち合わせしてから来るって言ってたよ】
このやりとりをするのにだって、私との会話のテンポを損なわないように素早く、しかして丁寧にスケッチブックに文字を書いている。これが複数人で会話をするときや打ち合わせの時は、彼女は小さなラップトップのチャットアプリを使ってその指を忙しなく動かし、すごい速度でキーボードを叩くのだ。
【プロデューサーさんが来たら知らせておくから、談話スペースで待ってれば?】
「じゃあ、そうさせてもらいます。お願いしてもいいですか?」
彼女は返事代わりに「任せなさい」と言わんばかりに自分の胸をトンと叩いた。その仕草がなんだか子供っぽくて、なんだかおかしくなってしまった。
私が思わず笑ってしまったことにきょとんとした表情をしたミクさんに、なんでもないですと誤魔化すように答えて、私は事務室を後にした。
初音ミクさんについて、私が知っていることは少ない。
私たちがアイドルで、ミクさんが事務員という立場の違いもあるだろうが、それにしたって彼女のプライベートについて知っていることはほとんどない。いろんな楽器が弾けたり、ダンスも上手だったり、パソコンに強くてウェブ関連の業務を担っていたりと、彼女が多才な人物だということはこの事務所では周知の事実だ
しかしその才を得るに至った背景を、ミクさんはほとんど語らない。
出身地はどこだとか、今までお仕事は何をしてきた人なのかだとか、お休みの日のこと
だとか。
おそらくこの事務所の誰に聞いても彼女のパーソナルな部分を知っている人はほとんどいないだろう。
かくいう私も、たまたま一度、お昼を一緒に食べるためにうどん屋さんに行った時、彼女がネギを山盛りにしたうどんを美味しそうに食べていたことくらいしか知らないのだ。
765プロの謎多き事務員。
それがアイドル達の間でのミクさんについての総評だ。
私がそうしてミクさんのことに意識を飛ばしてしばらくしたころ、バタバタと忙しない足音と共にプロデューサーが談話スペースにやってきた。
「ごめんな静香。待たせちゃったか?」
「いえ、私も連絡の一つもせず来てしまいましたから」
そう言ってもらえると助かるよ、とプロデューサーは笑った。私が座っていた小さなソファから打ち合わせのためのテーブルスペースに移動して、プロデューサーと今後のレッスンの予定や今日のロケのことを確認し終わった後、どうせならと私はミクさんについて少し聞いてみることにした。
「プロデューサー、関係ない話ですけどいいですか?」
「ん、どうした?」
「その、変な質問ですけど、ミクさんって何者なんですか……?」
私の奇妙な質問に、プロデューサーは困った表情をした。
「なんだ藪から棒に……そもそも何者ってどういうことだ?」
「いえ、もう一年近く一緒に仕事をしてきましたけど、ミクさんのことを何も知らなくて……。ミクさんはあまり自分の話をしないので、たまにみんなとそういう話になるんです」
「あー、なるほどなぁ」
合点がいった、とプロデューサーは大仰に頷いた。
「しかしそうだなぁ、何者ときたかぁ……」
私の質問に、プロデューサーはふむ、と言って少し考え込むようなそぶりを見せた。いつも会話に関して言いよどむことがないプロデューサーが、珍しく言葉を選んでいるように見えた。
「実は、俺もあんまりよく知らないんだよなぁ。美咲さんが入社してすぐに初音さんが入ってきて、39プロジェクトの準備とかを一緒に進めてたんだけど、あんまりプライベートな話はしなかったし」
「え、初音さんって元々765プロの社員さんじゃなかったんですか?」
「あぁ、社長の紹介でウチに来たんだよ。最初社長が連れてきた時は新しいアイドル候補かと思ってびっくりしたけど」
プロデューサーはその時のことを思い出すように、宙をぼうっと眺めながら続けた。
「最初は美咲さんと一緒に小鳥さんの補佐を頼むつもりだったんだけど……美咲さんも初音さんもどっちも多才な人だから、色々任せてみようってことになって今の形に落ち着いたんだ」
「そうなんですか……社長の紹介というと、ミクさんと社長って親戚とかなんですかね」
「いや、そんな話は聞いてないなぁ……社長の性格なら、親戚だったら最初にそう紹介するだろうから、仕事の繋がりでウチに転職したんじゃないか?」
プロデューサーの答えを聞いて私は思わずうぅんと唸ってしまった。この調子だと小鳥さんや他の先輩方に聞いても同じ答えが返ってくるかもしれない。
この調子だと小鳥さんや他の先輩方に聞いても同じ答えが返ってくるかもしれない。
「あ、でも一回気になることを言ってたなぁ。初音さん」
「え?」
ふと、プロデューサーが思い出したように言った。
「プロジェクトが始まる前に……大体最初のオーディションの企画を立ち上げる前に、社員の懇親会を社長が企画してくれて飲み会をしたんだよ。その時から初音さんは喋れなくてパソコンでやりとりしててみんなちょっと面食らってたけど、すぐ打ち解けてな。その時に美咲さんが聞いてたんだ」
『初音さんって、765プロに来る前は何をしてたんですか?私と同い歳か年下……ですよね?』
「……それで、ミクさんはなんて?」
「んー、それがなぁ……内緒ですって一回はぐらかされちゃったんだけど、その時初音さんもお酒飲んでたから、ぽろっと言ってたんだよ、【また歌いたいなぁ……】って」
本人にその気があるなら絶対スカウトするのになぁ、と呑気に言うプロデューサーの言葉がやけに部屋に響いた気がした。
◆三月十四日
765プロの事務員、初音ミクさんはとても面倒見がよくノリのいい性格をしているということに気がついたのは、プロジェクトが動き出してしばらくしてのことだ。
ある時は環や昴のやんちゃに付き合っていたり。
ある時は亜美や真美のいたずらに一緒になってケラケラ笑っていたり。
ある時は宿題をしている子達に勉強を教えていたり。
ミクさんが誰かと一緒にいる光景は珍しくない。
39プロジェクトが始まって、サポートについてくれる二人の事務員のうち一人が喋れないというのは、私たちにとって大きな戸惑いの一つだった。最初こそみんな変に遠慮していたり、距離感を測りかねている部分もあった(あの志保でさえミクさんと話すときは変に気を使っていたくらいだ)が、ミクさんはそのハンディキャップを感じさせないくらい積極的にコミュニケーションを取りに来る明るい人だ。彼女の持ち前の快活さとノリの良さはすぐに私たちとの距離をぐんと縮めた。
今日だってシアターに顔を出すと、琴葉さんや紗代子さんの勉強を見ているミクさんの姿があった。
「あ、静香ちゃん。おはよう」
「おはようございます。ミクさんも、おはようございます」
【おはよー静香ちゃん】
「お二人は……勉強ですか?」
「うん、そろそろテストも近いから」
「最近はレッスンや仕事も増えてきて、あんまり勉強の時間が取れないって紗代子と話してて……少し時間が空いたからミクさんに勉強を見てもらってたの」
【二人とも熱心で教えがいがあるね!】
チラと机の上を見ると、数冊の参考書とノートが広げられていて、そこに注釈やアドバイスが細かく書かれたポストイットがいくつも貼られていた。琴葉さんのでも紗代子さんのとも違うから、ミクさんの文字なのだろう。あまり癖のない読みやすい字だった。
「ミクさん、高校生の勉強も教えられるんですね。未来や杏奈に時々勉強を教えてたのは知ってましたけど」
「ミクさん教え方上手なの。解説も分かりやすくて」
【理系科目はまかせろー】
そうラップトップに打ち込んだ文字を見せながら、ミクさんは得意げな顔をしてシャドーボクシングをしてみせた。机の上に置かれた参考書の表紙には有名大学の受験対策用と書かれており、高校の授業よりもレベルが高い問題集のように見えた。
「大学受験レベルの問題を解けるって、ミクさんって一体何歳なんですか……?」
気になった疑問をそのまま口に出して見ると、ミクさんは明らかに動揺したようにピシリと固まった。琴葉さんも紗代子さんもミクさんの年齢は気になったようでじっと答えを待つようにミクさんを見つめた。
私たち三人からの視線から白々しく目を逸らしてミクさんは口笛を吹く真似をした。口からはスースーと隙間風に似た音が虚しく鳴るばかりだ。
【え、永遠の16歳ってことで……】
引きつった笑いを浮かべながらミクさんは答えた。高校3年生の勉強を教えられる段階で16歳は無理があるだろうと私はじとっとした視線をミクさんに送り続ける。
「ミクちゃんごめんなさい、次のライブで使う衣装と道具が届いたから、一緒にチェックしてくれませんかー!?」
ちょうどその時、部屋の外から美咲さんがミクさんを呼ぶ声が聞こえた。ミクさんは返事がわりに「ピンポーン!」と正解の効果音を鳴らして(ミクさんは時々こういうコミュニケーションもする)、「勉強頑張ってね!」とポストイットに書き残すと、私たちの視線から逃げるように部屋から出て行った。
「に、逃げた……!」
「あはは、タイミング悪かったね……」
私の悔しがる様子に二人は苦笑いを浮かべている。ミクさんは付き合いがいいとは言ったが、彼女は彼女でプロデューサーと同じくらい多忙な人だ。シアターの定期公演やイベント公演の演出や映像の製作など、彼女が演出面で担当している仕事は多い。その隙間の時間で私たちを構い倒しているのだから、妙な尊敬すら覚えてしまう。
「しかし静香ちゃん……」
「未来たちが言ってのは本当だったのね……」
紗代子さんと琴葉さんは私の様子に若干の呆れを交えた声で言った。
「…… 未来が何か言ってたんですか?」
「最近静香ちゃんがミクさんにお熱で構ってくれないーって。翼も拗ねてたよ?」
「未来ちゃんは『私がミクさんと仲良くなりにいけばいいよ!って言ったからちょっと言い出しづらい』とも言ってたけどね」
その言葉に私はえっ、と固まる。
「……そんなに私、ミクさんばかりでした?最近……」
「志保が『最近の静香はミクさんの姿見るとすぐ後ろをひっついていく』って呆れるくらいには」
「…………」
志保にまでそんなことを言われるとは。顔が急激に熱くなっていくのを感じる。
「でも静香ちゃんの気持ちも分かるよ。ミクさん人気者だから、意外としっかり話す時間ないもんね」
「単純に、ミクさんが忙しいっていうのもありますけどね」
「でも、なんで静香ちゃんは急にミクさんと仲良くなろうと?」
「いや、元々悪かった訳じゃないですけど、あんまりミクさんのことよく知らないなぁと思って……」
私のその言葉に、琴葉さんと紗代子さんはうーんと唸った。
「確かにミクさんのこと、私もあんまりよく知らないかも……」
「そういえば私もあんまり……恵美やエレナはよくちょっかい出しに行ってるけど」
「何してるんですかあの二人……」
意外といじりがいがあるって言ってたよ、と琴葉さん。大人のスタッフであるミクさんをそんな風に扱ってもいいのだろうか。
「ところで静香ちゃんは、どうして控え室に?レッスン?」
「あぁ……せっかくだからミクさんをお昼にでも誘おうと思ったんですけど……行ってしまったので……」
「あー……タイミング悪かったね……」
「日を改めることにします……」
◆四月二日
普段のミクさんは私たちのサポートをしてくれる頼れる大人なのだが、時折ミクさんの行動には奇行が見え隠れすることがある。他人の趣味や癖なんかを「奇行」と言うのはあまりいいことではないとは自覚しているが、それでもそう思わせる時がある。
「ミクさんまたご飯ネギだけですか!?ダメですよ、ちゃんと食べないと!」
今だって、美奈子さんに今日のお昼のメニューに関して注意されている。このやりとりも一度や二度ではなかったはずだと私は記憶している。
ミクさんの好物はどうやらネギのようで、彼女の食事シーンに立ち会うと必ずと言っていいほどネギを食べている。先日改めてミクさんを食事に誘ってうどん屋さんに行った時も、またもやネギを山盛りにトッピングしており、もはやネギの付け合せにうどんを食していると言っても過言ではなかった(その時の私の心境はとても複雑だった)。トッピングやおかずとしてネギを食べているならまだマシなもので、間食や残業時の夜食の時にはスナック感覚でネギを丸々一本丸かじりしていることも少なくはない。一度麗花さんとその場面に立ち会った時、あまりの絵面に二人して言葉を失ってしまった。
そんな偏った食生活を、765プロのカロリークイーン(奈緒さん命名)こと美奈子さんが見逃すはずもなく、美奈子さんは時々ミクさんに(半ば押し付けるように)お弁当を作ってきているのだった。
「さぁさぁミクさん、今日は回鍋肉弁当ですよ!大盛りを用意しましたから、しっかり食べてくださいねー!」
【み、美奈子ちゃん、気持ちは嬉しいけど、この3人前くらいあるお弁当は私にはちょっと多いかな〜って……】
「何言ってるんですか、ミクさんは働き者なんですから人一倍食べないと!大体今日のミクさんのお弁当またネギだけじゃないですかぁ。いつか倒れちゃいますよっ」
【ネギは完全食だから……】
そんな訳ないでしょうと美奈子さんは突っ込む。二人の成り行きを見守ってた美咲さんもうんうんと頷いた。
「ミクちゃんは放っておくと本当にネギしか食べないから、美奈子ちゃんがお弁当持ってきてくれると安心します……ネギが好きなのはいいですけど、そのうち倒れちゃいますよ?」
「いや美咲さん、そんなお母さんみたいな……」
美咲さんの言いぐさに私は思わず呆れてしまった。その顔立ちの幼さとノリのよさから、実年齢よりも(恐らく)若く見られているミクさんではあるが、まさか同僚である美咲さんからもそんな扱いをされているとは思わなかった。
美咲さんのあんまりな言葉に、ミクさんはぷんぷんという擬音が見えそうな分かりやすい怒り方をした。
【別にネギしか食べてないわけじゃないよ!】
「じゃあミクちゃん、昨日の晩御飯は何食べたんですか?」
【……深谷ネギの炒め物】
「やっぱりネギじゃないですかぁ!!」
美奈子さんはさらに目を爛々と輝かせて、お弁当を机の上に広げ始めた。当のミクさんはどうやら観念したのか苦笑いで山盛りのご飯と回鍋肉をただただ見つめていた。
しかし、美奈子さんや美咲さんが心配するのも分かる。ミクさんは他のアイドルと比べてもスレンダーな体型をしているし、事務服もパンツスーツなこともあってか体の線が細い。モデル体型といえば聞こえはいいが、ライブ前の多忙な日が続けばいつか倒れると考えてしまうのは無理はないのかもしれない。
「食が細いわけではないんだけどねぇ……」
「ネギが占めるウェイトが大きいだけでは……」
「おかわりもありますから、沢山食べてくださいね!」
【の、残ったのは持って帰ろうかな……】
ネギが入ってると分かった途端ご機嫌になったミクさんはモリモリと回鍋肉を口に運んでいるようだし、食べられない訳ではなさそうだ。
「ミクちゃん、ほぼ毎食ネギ食べてるけど、あんまり匂いとか気になりませんよね」
【最大限気を使ってますから。周りに迷惑かけません!】
「ネギに対するそのバイタリティの高さはなんなんですか……」
「でも可憐ちゃんは時々ミクちゃんを見て『あっ……』て顔をする時があるから気をつけてね?」
【!?】
ガーンという効果音を鳴らしてミクさんはオーバーな動作でうなだれた。匂いで福袋の中身を嗅ぎ分ける可憐さんを基準にしたら大変だなと、心の中で小さく笑った。
ミクさんとこうして話してみると、コミカルでオーバーな仕草をすることが多いと気づいた。喋れないというハンディキャップの中で自分の感情を瞬間的に伝えるために、文章よりも顔文字や演技じみた動きでコミュニケーションを取っているのかもしれない。ミクさんと意識して関わろうとしていなければ、きっと気づけないままだっただろう。
ふと、プロデューサーにミクさんのことを聞いた時のことを思い出す。
歌いたいとぽつりと零していたというミクさんの過去。歌っていたということは、ミクさんが喋れないのは生まれついてのものではないのかもしれない。声が出なくなった理由は病気か、事故か、それとも他の要因なのか。
もしも。
もしもミクさんが、普通に喋ることができたなら、彼女はどんな声で、どんな口調で、どんな言葉を選んで話すのだろう。
回鍋肉を頬張るミクさんを見ながら、私はぼんやりとそんなことを考えた。
◆四月十八日
普段空いた時間で私たちアイドルとコミュニケーションを欠かさず、時にノリよく遊んでくれたり時に相談に乗ってくれたりしてくれるから忘れがちだが、ミクさんはあれでなかなか仕事が忙しい人だ。
そもそも765プロは職員の数が少ない。アイドルは52人いるのに対して職員は社長を含めてたった5人。律子さんが時々プロデューサー業務を兼任していたり、元々事務員志望だったこのみさんが臨時で書類を捌いている(事務仕事をしているときはアイドル業とは別にお給料が発生しているとはこのみさん談)とはいえ、少ない人数で業務を行うために、765プロの事務員はそれぞれ担当する業務がはっきり分かれている。
プロデューサーは営業や企画で私たちの仕事を取ってくる。小鳥さんは経理や書類業務を行い、美咲さんは小鳥さんの補佐と衣装の製作や監修。そしてミクさんは公演の演出や映像・音響諸々を担当している。
こうしてみるとライブがなければ比較的暇なのではないかと思ってしまうが、公演のセットリストの一曲ごとに演出を考えたり、演出に使う映像を作ったり、それについてプロデューサーや私たちを交えて打ち合わせをしたり、公演当日には機材の設営から音響周りのチェックを行ったりと、その作業量は膨大だ。
加えて事務作業が回らないときはそっちを手伝ったり、ライブ前には作業の合間を縫って私たちのレッスンを見てくれたりと、ミクさんの業務は多岐にわたっている(事務員というよりはもはやお抱えのクリエイターと呼んだ方がいいのかもしれないが)。
プロデューサーや小鳥さんたちはミクさんの負担が大きいのではと心配しているが、本人曰く好きでやっているからといつも笑っている。
そんな訳で、シアターの定期公演を二週間後に控えた今日。ミクさんは一日パソコンにかじりついて作業しているようだ。午後のレッスンを終えて劇場に戻ってみると、私が来たことに気がつかないくらい集中しているのか、モニターを見ながらあぁでもないこうでもないと表情を変えながらキーボードを叩いている。
ミクさんは一度集中しだすと止まらないとプロデューサーを筆頭に色んな人が言っていた。あるときは昴と海美さんが野球をし出した部屋で平然と作業をし出したと言っていたし、ある時は亜美と真美にいたずらされても気づかずパソコンとにらめっこしていたという(あまりに反応がないものだから、途中からミクさんに気づいて貰うためのギリギリを攻めるチキンレースになっていたと後に二人は語った)。
だから、私が特別静かにしなくてもミクさんは気づかないんだろうけれど、集中している人の側で普通に過ごすのはどうにも気が引けたので、私はなるべく忍び足でソファまで移動すると、しばらくミクさんの作業を眺めてみることにした。
いつも私たちと接する時のニコニコとした表情と、目の前の無表情にモニターを見て目を細めている表情にギャップがあって、思わずドキリとした。ミクさんの机の上には次の公演の資料や、プロデューサーや業者さんと打ち合わせをした内容がまとめられた書類が乱雑に広げられていて、時折ミクさんはそちらにも視線を向けながら作業を続ける。午前中からこの調子で作業していたのなら、もしかしたら昼食も取らずにずっと作業をしていたのかもしれない。
ふと、どうやら作業が一段落したのか、うーんと伸びをしたミクさんとパッチリ目があってしまった。ミクさんはいつの間にかいた私に少し驚いたようだが、にっこりと笑って口の形でお疲れ様、と伝えてくれた。私もそれに返すように「お疲れ様です」と小さく返した。
【来てたなら、声かけてくれればよかったのに】
「随分集中してましたから、声かけるのも悪いかなと思って……今は何を?」
【次の公演で、みんなの曲中に流す映像を調整してたの。プロデューサーさんと打ち合わせして、実際のアイドルのパフォーマンスに合わせた映像にしてみようって話になってね】
「……セットリスト全曲分、ミクさん一人でやるんですか?」
【流石に全部修正する訳じゃないし、そんなに大きな変更もないから大丈夫だよ】
「せめて休憩は取りながらにしてくださいね……美奈子さんがまた大きなお弁当作って来ますよ」
【あはは……気をつけるよ】
ミクさんは誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべながら、ラップトップにそう打ち込んだ。
【そうだ、さっき静香ちゃんのソロ曲の映像も調整したんだ。時間あるなら、ちょっと見てくれない?】
「え、いいんですか?」
【本人からの意見が一番聞きたいからね】
ミクさんは動画の編集画面を立ち上げて映像をモニターに映した。調整したと言う映像は確かにエフェクトの出るタイミングだったり色合いだったりとが以前のものよりも手が加えられているように思えた。
【サビの入りに合わせるようにしてエフェクトを追加してみたんだけど、どうかな】
「そうですね……ここのダンスが上に腕を振り上げるような動きなので、音よりもそっちに合わせた方が映像も映えると思います」
【あー、そこプロデューサーさんとも話したんだよねー。もう一回プロデューサーと相談してみるね】
こういった映像の小さな打ち合わせをするのは初めてではないので、私は思った意見をストレートに伝えた。ミクさんは意見されて気分を損ねるような人ではないし、物作りに懸ける姿勢は本物だ。必ずアイドルにも意見を聞いて、なるべくアイドル側の要望を取り入れようとしてくれるので安心して意見が言える。
そうして二人でしばらくまたあーだこーだと意見を交わしあっていると、先日のあの疑問が私の中に不意に蘇って来た。ミクさんが以前歌を歌っていたことの真偽を確かめたいと言う気持ちが、再び浮上してきたのだ。
何度か聞こうとタイミングを伺っていたのだが、さすがに不特定多数がいる状況でプライベートな、それもハンディキャップに関わることを無神経に聞く気にはなれなかった。幸い今ここにはミクさんと私だけだし、部屋の外に他の人の気配もない。質問するにはちょうどいいタイミングのように思えた。
「あの、すみません。ミクさん」
【ん、どうしたの?】
「ミクさんは––––」
765プロに来る前に、歌を歌っていたんですか。
なんで、声を失ってしまったんですか。
そう聞こうとしたけれど、ミクさんのその翡翠の瞳を前にして、純粋にこちらを見るそのまっすぐな視線を前にして、私のその質問は声になるのをやめてしまった。
今、ミクさんに声のことを聞いたら、彼女の歌のことを尋ねてしまったら、なんだかミクさんが次の日にはどっかにふっといなくなってしまう気がした。
「––––いえ、なんでもないです。すみません」
私は口をついて出かけた質問を誤魔化すように、下手な笑みを浮かべた。
ミクさんは不思議そうな顔をしたが、またモニターに目を移すと私と意見を交わす態勢に戻った。
私は以降、ミクさんに同じ質問をする気にはなれなかった。
◆五月十五日
事務所に顔を出して見ると、いつものデスクにミクさんは居なかった。
お休みをもらっているのかと思ったが、デスクの上にはミクさんの私物や飲み物が入ったマグカップ(どこから見つけてきたのかネギのイラストがあしらわれている)が並んでいて、さきほどまでそこで作業していた痕跡を残していた。
「あ、静香ちゃん。おはようございます!」
「おはようございます、美咲さん」
書類整理をしていた美咲さんにあいさつをして、ぐるりと部屋を見渡す。私の他に誰か来ていると思っていたが、どうやら美咲さん一人だけのようだ。
「ミクさんは今日はお休みですか?体調を崩したとか……」
「ミクちゃんですか?ちゃんと来てますよ。ただ、作業が行き詰まっちゃったみたいで……」
「あぁ……」
その美咲さんの言葉でミクさんがどこにいるのか察しがついた。
「じゃあ私、少しミクさんの様子を見て来ます。この調子だとまた引きこもって作業しそうですから」
「お願いね静香ちゃん。できれば、ちゃんとご飯食べるように言っておいてくれませんか?」
「……またお昼抜いたんですか、ミクさん」
「集中しちゃうといつものことだから……」
これには美咲さんも呆れ顔だ。あの人の集中するとそれ以外のことがおざなりになるのはいつものことだが、ほどほどにしてもらわないと本当に倒れてしまう。
これは後で美奈子さんに報告だなと心に決めながら、私はミクさんがいるであろう場所に足を向けた。
いつだったかミクさんを765プロお抱えのクリエイターなどと評したことがあったが、創作力や発想力が求められる作業をしていると、やはりミクさんも作業に行き詰まることがある。そうなった時、ミクさんはシアターに設けられたレッスン用の防音室に引きこもる。集中すると周りの音なんか気にならなくなるミクさんだが、ここに引きこもる時は集中力が散漫になっている時のようで、自ら外部の音をシャットアウトしているようだ。
だけど、ミクさんがここに引きこもる理由はもう一つある。
防音室の前まで来ると、不自然にくぐもったピアノの音が漏れてきた。ドアについている小窓から中の様子を覗くと、やはりピアノを引いていたのはミクさんだった。
シアターにいくつかある防音室には、小さなアップライトピアノが一台ずつ備え付けてある。普段はここでボイストレーニングや台本読みなどをやっているのだが、ミクさんは時々ここを作業スペースとしている。そして作業が行き詰まった時に、気晴らし代わりにピアノを弾いているようだ。今も仕事が手につかないようで、緑の髪を柔らかく揺らしながらミクさんはピアノを弾いていた。
ドアの小窓からしばらく様子を眺める。漏れてくるピアノの曲はミクさんの気分でコロコロ変わる。モーツァルトを弾いてるかと思えば765プロのアイドルの曲を弾いたり、歌謡曲になったかと思えば私の知らないバラード調の曲に変わったりする。
私は、ミクさんの弾くピアノが好きだ。演奏技術的なことなら私や歌織さんの方がうまく弾けるのだろうが、ミクさんの好きな曲を好きなように自由に弾いている様なピアノは、なんだかミクさんらしい気がして時々聴きたくなるのだ。
まぁ、こういう機会がないのが残念なのだけれど。
演奏が一区切りするのを待って、私は強めにドアをノックして部屋に入る。音に気づいたミクさんがこっちを振り返って迎えてくれた。
【あれ、静香ちゃん!もしかして探させちゃった?】
「お疲れ様です。美咲さんから、ミクさんがまた引きこもってるって聞いて……作業、あんまり進んでないんですか?」
【そうなんだよ……ちょっとアイデア出しが進まなくて……】
「美咲さんが心配してましたよ。またお昼抜いたんですか?」
【あー、そういえば食べてないかも……】
「ほら、とりあえず一回休憩してください。何か食べないと脳に栄養回りませんよ」
【さっきまで休憩してたみたいなものだけどね】
片手でラップトップに文字を打ち込みながら、ミクさんはやさしく鍵盤を撫でた。白く細い指が軽く触れて、小さくソの音が鳴った。
「ミクさん、ピアノだけじゃなくて他の楽器も弾けますよね。ギターとか」
【うん。ギターにベースにドラムに、あとサックスとか】
「それだけできたら、ミュージシャンとか普通に目指せそうですけど……」
【あはは、ありがとう。でも器用貧乏なだけだよ。静香ちゃんもピアノ弾けるんだよね?】
「えぇ、あとヴァイオリンも」
【いいねぇ。今度セッションでもしようか。ジュリアちゃんも誘って】
ルンルンとわざわざ文字で打ち込んでミクさんはニコニコと笑う。作業の邪魔をしちゃいけないと少し罪悪感があったが、気分転換になったのなら結果的によかったのかもしれない。
少しして、またミクさんはピアノを弾き始めた。さっきと同じように、曲がジュークボックスのようにコロコロ変わるピアノ。
バラード、ロック、クラシック、またロック。
知らない曲が時折混じるピアノを、ミクさんは小さく微笑みながら弾いた。
私はミクさんが作業を再開するまでの束の間の旋律を、隣で横顔を見つめながら聞いていた。
◆七月二十九日 昼
39プロジェクトでは、定期公演と銘打ってライブを行っている。
事務所が自前で劇場を持っている強みともいうべきか、ローテーションでメンバーを選出することでライブの経験を積むことができる上に、お客さんにも気軽にライブへ足を運んでもらえるようにと、月に数回765プロライブシアターでライブを行なっている。
アニバーサリーライブや先輩たちのツアーライブほどの規模ではないが、自分の努力の成果を定期的に試せる環境というのは貴重なもので、メンバー全員が自分の出番のある公演では気を引き締めて臨んでいる。
そんな定期公演を前日に控えたとある日。
ステージの設営のために多くの人がバタバタと走り回るその様子に、劇場はいつもとは違う忙しなさを見せていた。
アニバーサリーライブ後の初めての定期公演は、アニバーサリーライブで初めて765プロシアターを知った人たちをがっちりファンとして捕まえる大事な公演になる、ということはプロデューサーから聞いてはいた。しかしステージの設営をしているスタッフさんたちを実際に見て、私はそれを肌身で実感していた。
設営のためにライブ会場のあちこちを動き回ってるスタッフの中心で絶えず指示を出し続けているプロデューサーの様子を見れば、今回の定期公演がいつもより力の入ったものであることが分かる。
もちろん会場はいつも定期公演を行っている劇場のステージだし、スタッフさんの顔ぶれも一年間劇場でのライブを支えてくれた面々だ。だけど、劇場に漂う空気が、スタッフさんたちの間に走る緊張感が、やはり次の公演がいつものライブとは違うことを示していた。
私はというと、立ち位置の確認のためにステージを一通り見て回った後、舞台袖の位置から会場設営の様子を眺めていた。
「初音さーん、レンタルの機材今届きましたー!」
【スピーカー類は打ち合わせ通りステージ周りにとりあえず運び込んでください。照明類の機材が届いたらまた教えてください!】
「えーと、……はい、わかりました!」
【機材を全て運び込んだら音響機材は設営始めてください。音響の設営と並行してすでに設置してあるモニター類のテスト始めるので映像班は十分後に集まってくださーい!】
もちろん、ミクさんも忙しなく会場を駆け回るスタッフの一人だ。ミクさんが喋ることができないことを知っているスタッフさんがほとんどなので、チャットを使ったコミュニケーションも比較的スムーズだ。機材の調整などのリアルタイムでの指示が必要な場合は美咲さんやプロデューサー、あと音響機材を覗きに来たジュリアさんとかが初音さんの指示を文字通り『代弁』するのだが、細かい指示がいらない基本的なことは私たちとコミュニケーションを取るときと同じくチャットで行っているようだ。今もステージ設置された大きなモニター機材のテストを行うと言うことでスタッフさんに指示を出した後、ミクさんは美咲さんを探しに行った。
パタパタと忙しなく鳴る足音のリズムに合わせて、彼女の長いサイドテールが右へ左へゆらゆらと揺れる。私はステージの上からその翠の軌跡を目で追いかける。こういう設営の作業を、ミクさんはとてもやりがいを持って行っているように見えた。映像や音響の機材をいじっている時のミクさんの様子は、小説について語っている百合子の表情に似ている。一度ミクさんにお仕事の話を聞いてみたいと思ってはいたが、いざ聞くとなったらマシンガントークならぬマシンガンチャットに圧倒される覚悟は必要になるかもしれない。
スタッフさんの一人に呼ばれて裏手に行くミクさんの背中を見送っていると、静香、と背後から声をかけられた。振り返ってみると、不機嫌そうな表情をした志保が立っていた。
「ミーティング、もう始まるわよ。プロデューサーさんが呼んで来いって」
「えっ、もうそんな時間?」
慌ててスマートフォンで時間を確認すると、予定されていたミーティングの五分前だった。軽く設営の様子を覗きに来たつもりだったのだが、思っていたよりも長く居座ってしまっていたらしい。
「ごめんなさい、すぐ行くわ……探させちゃった?」
「別に。多分初音さんのところだろうってみんな言ってたわ。プロデューサーさんも、劇場のステージにいるだろうって言ってたし」
それを聞いて私は二の句が継げず、うっ、と言ううめき声に似た何かしか喉から出てこなかった。どうやら私はこの数ヶ月で、ミクさんの後ろを付いて回る雛鳥のように認識されているようだ。
「私、そんなにミクさんにべったりかしら……」
「私でさえ一周回って微笑ましく思えてくるくらいにはべったりよ、最近。ほどほどにしないと、鬱陶しく思われちゃうんじゃない?」
「なっ、ミクさんはそんなこと思わないわよ!」
「それぐらいあなたと初音さんは一緒にいるのよ。それに、そろそろ未来と翼が拗ねるんじゃないの?」
「……確かに騒がれそうね、少し気をつけるわ」
「そうしなさい。雛鳥に雛鳥が連なってカルガモの行進みたいになる前にね」
「誰がカルガモよ!」
そう言うと、ここで初めて志保は図星を突かれた私の表情を見て面白がるように笑った。今度は私がむすっとした表情になる番だったようだ。
「早くミーティング行きましょう。もうすぐ始まるんでしょ」
「ミーティング忘れてたのは静香じゃない」
「うるさいっ」
私と志保はステージを後にして、早足にミーティングへ向かった。
◆
明日の公演で、通常のステージパフォーマンスの他、新しい試みとしてピアノの弾き語りをやることに決まったのは、アニバーサリーライブが終わってすぐのことだった。二年目からは今までよりも様々な挑戦をしていくということで、その先駆けとして私と歌織さんによるピアノの弾き語りが企画されたのだった。
弾き語りのリハーサルはステージパフォーマンスのリハーサルとは別口でやるようで、MCや通しのリハーサルが終わった後に、私と歌織さんはステージに残っていた。
「私たちの弾き語りはライブの中盤ごろだったけど、リハーサル別になっちゃって大丈夫かしら……?」
「機材の搬入の関係で、どうしても後になっちゃったみたいです。あとでプロデューサーに進行を聞きに行きましょう……それに、照明や演出も確認したいって言ってました」
「ミクちゃんが?」
「はい」
ステージの上に視線を向けると、ミクさんが照明さんと相談しながらピアノの位置を調整していた。映像演出も私たちのために新しく作ったとも言っていたし、ミクさんとしても私たちの弾き語りのパートには力を入れているようだ。
「ミクちゃん、すごいわね。私はあんまり設営の様子って見ないのだけれど……いつもあんな風に動いてるの?」
「はい、いつも設営の時は会場を右へ左へ動き回ってますよ」
パタパタと右へ左へ駆け回りながら、ミクさんはテキパキと指示を出す。
今回の公演のときも、アニバーサリーライブの時も、それより前の定期公演の時も。
同じようにミクさんは他のスタッフさんたちと一緒に私たちのための舞台を作り続けていた。
「歌織さん」
「うん?」
「明日……がんばりましょう」
「……ふふっ、ええ。成功させないとね」
私のすこし震えた声に、歌織さんは少しだけ笑って応えた。
◆七月二十九日 夜
鳴り止まない歓声、万雷の拍手、揺らめく色とりどりのペンライト。
アンコールを終えたステージから見る景色を、涙で滲みそうになる目を拭って目に焼き付ける。
隣にいる未来と翼と目を合わせお互いに微笑みあった。
『本日はご来場、ありがとうございました!!』
皆で声を合わせ、客席に向けて深々と頭を下げた。
迎えた本番、定期公演のステージは成功に終わった。
◆
ダンスも歌も、ピアノの弾き語りによるソロステージも、大きなミスなく終えられたことに確かな達成感を感じていた。楽屋に戻った今も、昂ぶった心と火照った体の熱は収まる様子を見せない。それぐらいの達成感が、私の体を満たしていた。
私と歌織さんの弾き語りが終わった後、ステージ裏でいきなり私に抱きついてきた未来を始め、シアターのメンバーやスタッフの方々から沢山感想をもらえたことが、その達成感が私だけが感じている根拠のないものではないことを証明してくれていた。あの志保からもぶっきらぼうにではあるが「よかった」と一言貰えたくらいだ。
何より、ミクさんはライブが終わった私たちを涙をこらえた顔で迎えてくれた。そういえばアニバーサリーライブの時も同じだったなぁとその時はぼんやりと思っていた。「ライブの度に泣いてたら世話ないよ〜」と恵美さんにからかわれ【そりゃ泣くよ〜】と結局泣き出してしまったミクさんを見て、私たちは思わず声を揃えて笑ってしまった。
ライブ後の楽屋ではみんなで写真を撮ったり着替えを始めたり、ライブの反省点を話し合ったりと思い思いに過ごしていた。かく言う私もライブ後の熱に浮かされしばらくぼーっとしていてようやく着替え始めたところだ。衣装はクリーニングに出す都合上早めに着替えるように、と律子さんから言われていたのを思い出し、私は着替えの手を早める。「律子さんに怒られるわよ」と写真やおしゃべりに夢中で未だ着替えていないメンバーに声をかけると、皆一様に「しまった」という顔をして、慌てて着替えを始めていた。
そのタイミングで、楽屋ドアが控えめにノックされた。「みなさん、今入っても大丈夫ですか?」とドア越しに美咲さんの柔らかい声がした。
「今着替えている人もいるので、できれば素早く入っていただけると……」
「あぁ、いえ。中に用があるわけじゃ無いのでここからで大丈夫です。ミクちゃんを探してるんですけど、そちらの部屋にいますか?」
「ミクさんですか? いえ、ここにはいませんけど……」
思わず楽屋の中をぐるりと見てみるが、特別広いわけではないでは楽屋の中には当然ミクさんの姿はない。ライブ後でテンションが有り余っているこのメンバーの中にミクさんがいたら、色々とちょっかいをかけられているだろう。
「そうですか……それじゃあ、もし見かけたら私が探してたと伝えてくれませんか?」
「分かりました……私、もうすぐ着替えも終わるので、よかったら探してきましょうか?」
「本当ですか? ……それじゃあお願いしてもいいですか? ミーティングルームでプロデューサーさんと社長さんが呼んでいると伝えてもらえるだけでいいので」
「分かりました。着替えが終わったら探しに行きます」
お願いしますね、と言い残して、美咲さんはパタパタと小走りに離れていった。私は途中だった着替えを手早く済ませるためカバンの中から荷物を取り出す。ふと視線を感じて振り返ると志保が呆れ顔でこちらを見ていた。
「なによ志保、変な顔して」
「……いや、ほんと最近の貴女って初音さんのことになると……」
その言葉にハッとして周りを見ると、控室にいた皆はニヤニヤとした表情で私を見ていた。
「いや、違っ、だって何も言わずいなくなっちゃうなんて心配じゃない!?」
「はいはい、私も着替え終わったら一緒に探してあげるから、貴女はさっさと行ってきなさい」
呆れたように志保は言うと、野良猫でも追い払うような仕草で私に探しに行くように行った。そのぞんざいな扱いについて言いたいことはあったが、それは後回しだと言うことはわかっていたのでグッとこらえた。
私は簡単に着替えと身支度を済ませて楽屋を出た。いつものミクさんなら今頃機材の搬出をしているか、今日の演出の反省会をスタッフさんと行なっているころなのだろうけれど、美咲さんもそれは知っていることだろう。わざわざ私たちの楽屋まで訪ねてきたということは、そのどちらにもミクさんはいなかったということなのだろう。
とりあえず手当たり次第に近くの部屋を覗いてみたが、当然そこにミクさんの姿はない。ならば一応念のためとステージ袖まで戻ってみたが、そこでは機材の搬出の作業を進めているスタッフさんたちの姿があるだけだった。近くのスタッフさんの何人かにミクさんのことを尋ねてみたが、やはりミクさんの行方については知らないようだった。
「あ、いたいた。静香ちゃん!」
「歌織さん……?」
次はどこを探そうかと考えていると、後ろから歌織さんがパタパタと駆け寄ってきた。
「私も着替えが終わったから、ミクちゃんを探そうと思ったのだけど……もう見つかった?」
「あ、いえ、まだ見つけられていなくて……いそうなところは粗方探したつもりなんですけど……」
「そう……プロデューサーさんもミクちゃんを探してて、私も手伝いに来たの」
「そうなんですか……携帯に連絡もまだ無いんですか?」
「ええ、美咲ちゃんの方にもまだ来てないみたい……でも、静香ちゃんが見つけられないとなると、ミクちゃんどこにいったのかしら……?」
「あの、歌織さん。みんなもそうなんですけど、私のこと一体なんだと思ってるんですか……?」
近いうちに私に対するこの認識について、一度抗議する必要があるかもしれない。私が心の中でそう決めたところで、「そういえば」と、歌織さんは何かに気づいたようだった。
「今機材の片付けをやってるみたいだけれど、まだ運び出し自体はやってないのよね?」
「え……? あぁ、そうですね。トラックの積み込みもまだ始まってないみたいですけど……」
「私もさっきステージの様子を見に行ったのだけど、ピアノがなかったの」
「ピアノが……?」
歌織さんが言っているピアノとは、今日の公演で使ったグランドピアノのことだった。
私と歌織さんの弾き語りのために用意されたグランドピアノだが、流石にポンと購入するだけの予算はプロジェクトには無いようで、今日のためにレンタルされたものだったはずだ。
「確か私たちの弾き語りが終わったあと、袖にはけてたはずですけど……無かったんですか?」
「えぇ、私が行った時には……打ち合わせの時に、ピアノはいつものところとは別の業者さんに借りたってミクちゃんとプロデューサーさんが言ってたから、まだ運び出されてないと思うんだけど……」
「……もしかしたら、ピアノの運び出しにミクさんが付き添ってるのかもしれないですね」
今回グランドピアノを公演で使用するにあたって、レンタル業者と打ち合わせをしていたのもミクさんだったはずだ。業者さんと搬出の段取りを改めて確認していても不思議では無い。
歌織さんもその考えに至ったようで、お互いに目を合わせると早足にミクさん探しを再開した。
グランドピアノを一時的にでも置いておける広さのある部屋は、劇場にある部屋のなかでも限られている。ましてや、搬出のためにある程度出入口へ近いところになるとなおさらだ。さっきまでミクさんを探し回っていたのは比較的小さめの部屋に絞っていたので、そこまで手が回っていなかったのだ。
あたりをつけた部屋の前まで行くと、扉から証明の光が薄く漏れていた。中でなにやら作業をしているであろう音も聞こえて来たので、少なくとも中に誰かいることは間違いなかった。
私と歌織さんはほっと胸をなでおろした。中に誰がいるかはまだ分からないのだが、もう私たちのなかではミクさんが部屋にいるものだと半ば確信していた。
「よかった、やっとみつかったわね」
「本当です。……ミクさんも、持ち場を離れるなら一つ連絡でもしてくれればいいんです」
「ふふ、つまり心配してたのね、静香ちゃん?」
「……早くミクさんに声をかけて私たちも戻りましょう。この後私たちもミーティングあるんですから」
私は歌織さんの言葉をワザとらしく無視して、扉をノックしようとした。
La-------…………
しかし、部屋の中から聞こえてきた「誰か」の歌声を聞いて、思わずノックする手が止まった。後ろを思わず見ると、歌織さんも目を見開いて驚いていた。
私は音を立てないようそっと部屋の扉を少しだけ開いた。隙間から中を覗くと、やはり部屋の中にいたのはミクさんだった。
彼女はピアノの鍵盤をポンと一つ叩くと、鳴らした鍵盤と同じ音階の音を歌っていたのだ。
ド、レ、ミ、ファと一つ一つ音階を確かめるようにしながら、ミクさんは確かに歌っていた。少しかすれて、音階が上がって行くにつれて喉が締まり苦しそうな声に変わっていったが、まるで一条の光のようにまっすぐなそれは、確かに歌声だったのだ。
私と歌織さんは、しばしその光景を呆然と見ていた。お互いに何も言えなかった。扉の隙間からはミクさんの背中しか見えなかったが、声を出し歌う彼女の背中からはどこか鬼気迫るものがあり、声をかけることがためらわれた。
だが、その沈黙も長く続かなかった。鍵盤の音階がラの音を叩いた直後、まるで発作でも起きたかのようにミクさんは激しく咳き込んだ。最初はピアノにもたれ掛かるように耐えていたが、すぐにその場にしゃがみこんでしまった。
「ミクさん!」
「ミクちゃん!」
その姿を見てようやく、私たちは部屋に駆け込んだ。歌織さんはすぐに「大丈夫?」と声をかけ、落ち着かせるように背中をさすっていた。私たちに気づいたミクさんは、いたずらがバレた時の子供のように、バツの悪そうな、気まずそうな苦笑いを作ったが、すぐにまた咳き込んでしまい苦悶の表情を浮かべた。
「私、プロデューサーと風花ちゃん呼んでくるから、静香ちゃんはミクちゃんをお願いね!」
「は、はい! わかりました」
歌織さんはそう言い残すと走って部屋から出て行ってしまった。
部屋には未だ苦しそうに咳き込むミクさんと私だけが残った。
私はたくさんある言いたいことを無理やり飲み込んで、ただミクさんの背中をさすり続けるしかなかった。
◆七月二十九日 初音さんの消失
歌織さんが風花さんとプロデューサーを連れてくる頃には、まだ浅く呼吸を繰り返しているものの、ミクさんの様子はすっかり落ち着いていた。
【ちょっと風邪気味だっただけだから】と二人相手に誤魔化してはいたが、それが嘘であることは私と歌織さんだけが知っていた。
歌織さんはミクさんの調子が悪いくらいにしか伝えていなかったのか、風花さんもプロデューサーもミクさんの言葉を疑うことはなかった。ミクさんの働きぶりは事務所の皆が知るところであったので、過労が祟って体調を崩したと判断された。
呼ばれてきた風花さんやプロデューサー、騒ぎを聞いてかけつけたこのみさんや律子さんに「ミクさんは働きすぎだ」と怒られながら、ミクさんは申し訳なさそうに早退していった。そのまま使ってない有給を消化しろと集まった大人組に言われ、ミクさんはしばらくお休みをとる運びとなった。
ミクさんの背中を見送ったあとも、私は数十分前の出来事を忘れることができずにいた。あまりにもぼーっとしすぎたからかプロデューサーや他の子に(なんとあの志保にまで憎まれ口なしに)心配させてしまった。ライブ後のミーティングや打ち上げ中もこの調子だったのは、事務所のみんなや家族に気を使わせてしまったかもしれないと後から反省した。
だけどそれほど、今日のあの出来事は私にとっては衝撃的なことだったのだ。
しゃべれないはずのミクさんの歌声は、彼女が早退した後も打ち上げが終わり帰宅した後も耳に焼き付いた様に頭から離れなかった。
ミクさんは話すことができないんじゃなかっただろうか。
意外と幼さを残した声をしていた。
どうして今までしゃべらなかったのか。
歌うことは好きなんだろうか。
私たちの歌を聞いてどう思っていたんだろうか。
プロデューサーや社長はこのことを知っているのだろうか。
つまるところ、私はミクさんの『声』に心を奪われてしまっていたのだ。
ただ音階をなぞるだけの歌声に心を動かされるという経験は、千早さんの歌声を聞いたとき以来の衝撃だった。
だけど、今の今まで歌声どころかしゃべることさえ人前でしなかったということは、それなりの理由があることは明確だった。
プロデューサーや社長ですら把握していない事情に、はたして付き合いが長いとは言えない自分が軽々と踏み込んでいいものなのだろうか。
自室のベッドに寝転がりながら、あーでもないこーでもないと自問自答する時間が続いた。こういう時、未来や翼の行動力や(良い意味で)考えなしで素直なところが羨ましくなる。二人に相談してみようかと思いスマートフォンを手に取ってみるが、「もっと素直になろうよ!」「当たって砕けろ!」といった答えが返ってくるのは簡単に予想ができた。
「──そうよね、こういう時は素直に、よね」
こういうときに変に捻くれてしまうと余計に拗れてしまうというのは、これまでのアイドルの活動を通して分かったことだ。こう言う時こそ変に背伸びせず「子どもらしい素直さ」を出してみてもバチはあたらないだろう。
今度事務所に行ったら、ミクさんに聞いてみよう。
──しかし、予め知らされていたお休みが明けて一週間経っても、ミクさんは事務所に顔を見せることはなかった。
◆八月八日
体調不良により、ミクさんがしばらくお休みすることになった。
その連絡は、ミクさんの休みが終わり久しぶりに顔を合わせるはずだった日の朝に、プロデューサーの口からもたらされた。
事務所でその話を聞いた私たちは動揺を抑えられず、ざわめきが広がった。
「ミクさん、大丈夫でしょうか……」
「そんなに具合悪いの……?」
「社長に連絡があって、どうやら過労……仕事のし過ぎで疲れが溜まっちゃったみたいなんだ。本人は大丈夫って言ってるみたいなんだけど、大事をとって社長がしばらくお休みするように言ったそうだよ」
心配の声をあげた星梨花と環の言葉に、プロデューサーは柔らかく答えた。ほっ、と安心したように場の張り詰めていた空気が緩んだ。
「ただ、どれくらい休みが長引くかは分からないんだ。みんなも初音さんのことが心配だと思うが、今は初音さんを休ませてやってくれ」
以上、とプロデューサーが短く告げて話は終わった。
もう少し何か教えてくれてもいいじゃないか、と私はプロデューサーに詰め寄りたかったが、プロデューサーの表情からミクさんを心配していることは分かった。恐らくプロデューサーも、私たちに今話したこと以上のことは知らないのだろう。
私がそんなことを考えていると、未来と翼が声をかけてきた。
「静香ちゃん大丈夫?怖い顔してるよ」
「ミクさんのこと心配なのは分かるけど、力抜きなって〜」
「……大丈夫よ、流石に迷惑はかけられないわ」
「プロデューサーさんの話だとお見舞いも難しそうだしねー……」
話しかけてきた二人は、いつもの快活さは身を潜めたように沈んだ表情をしていた。二人ともミクさんとは仲良くしていたことを私は知っていた。特に未来は39プロジェクトに参加した当初からよく相談に乗ってもらっていたようで、時には個人的に歌やダンスのレッスンを見てもらうこともあったようだ。
翼についても、自分が暇なタイミングにミクさんに構ってもらいに行ったり、新しい服や小物を自慢していたのを私は覚えていた。
「過労って働きすぎのことってプロデューサーさん言ってたよね?早く治るといいけど……」
「ミクさんいないとつまらないなぁ」
「つまらないって……ミクさんをおもちゃみたいに言わないの」
「じゃあミクさんが戻ってきたら、みんなでお出かけしようよ!私ミクさんの私服どんなのか気になるんだよねぇ〜」
「あ、翼それいい!」
「ちょっと、ミクさんがいないのに勝手に決めたらダメでしょう!」
「え〜いいじゃん、ミクさんも断らないってぇ〜」
そんな会話を未来と翼と続けてみて、二人はミクさんだけでなく私も心配していることに、そしてこのダル絡みともとれる会話が私を元気づけるためのものだということに、心の中の冷静な部分が気がついていた。
未来と翼なりの気遣いの形なのだろうと、私は思わず少しだけ笑いがこぼれてしまった。二人の素直さを見習って、ミクさんが戻ってきたら未来と翼の案に乗ってお出かけをねだってみるのもいいかもしれない。
何より一度、あの日ライブが終わった後のミクさんの歌声を、もう一度聴いてみたいとお願いしてみようか。
この時の私はそう考えていた。
一週間が経っても。
二週間が経っても。
ミクさんは、戻ってこなかった。
◆八月二十九日
最初こそミクさんがいない事務所に違和感を覚えたものの、しばらく経てば皆なんとなくその状況に慣れ始めていた。私も多分に漏れずその一人で、自分がなんだか薄情な人間になってしまったような感覚を覚えつつも、そう感じることも仕方がないと誰に言うわけでも無いのに言い訳を心の中で重ねていた。
こうもお休みの期間が長引くと、このままミクさんは765プロの事務員を辞めてしまうのでは無いかと皆心配していた。プロデューサーが言うには社長や小鳥さんが時々連絡を取ったり会いに行ったりしているようで、消息不明という訳ではなさそうだった。だが、ミクさんの連絡先を知らない私は、直接ミクさんとコミュニケーション取れない時間がしばらく続いていて、自分の中の不安な気持ちが占める割合が日に日に大きくなっていくのを感じていた。もちろん、仕事を休んでいる人に無闇に連絡を取るべきでは無いと分かってはいるが、それでも近況の一つくらい知りたいし、何より自分がミクさんの帰りを待っていることを知ってもらいたかった。
そのことをある日のレッスン終わりに、未来との会話の中でこぼすように相談してみたところ、未来はその丸い目をぱちくりと瞬かせて私にこう言った。
「静香ちゃん、ミクさんの連絡先知らなかったの?」
「ええ、大人の人に連絡先を自分から聞くのは失礼だと思って……仕事の連絡はプロデューサーとしてるでしょう?聞くタイミングもなかったのよ」
「私知ってるから、教えてあげようか?」
未来の言葉に思わず私は「は?」と声が出てしまった。
「なんで未来がミクさんの連絡先知ってるのよ!?」
「ほら、私ミクさんにレッスン見てもらってたからその時に。それに、翼も前に聞いたら教えてくれたって言ってたよ?」
「未来だけじゃなくて翼も知ってるの!?」
「逆にあれだけミクさんと仲良くなろうとしてたのに、なんで連絡先聞いてないの静香ちゃん……」
未来は少し呆れたように私にそう言った。
だって、年上の大人に連絡先教えてくださいって言うのちょっと緊張するじゃない。
「ミクさんはそう言うの嫌がる人じゃないって」
「それはそうかもしれないけれど……それとこれとは話が別なのよ」
「ほら、とにかく連絡先教えてあげるから、一回メッセージ送ってみたら?」
「いや、他人の連絡先を勝手に教えちゃダメでしょう!」
「静香ちゃんならミクさんも怒らないよ。それに一言『元気ですか』って聞いてみなよ」
じゃあ、頑張って!と、言うと未来はそそくさとその場から出て行ってしまった。携帯を見てみると未来からミクさんの連絡先がメッセージアプリに届いていた。
そうして今。私は自室でミクさんにメッセージを送るか送らないかでもう三十分近く悩んでいた。画面に映るメッセージアプリのミクさんのアカウントを開いては、閉じて。開いては、閉じて。なんて文章を送ろうか、そもそも本当に送っていいものか、怒られてしまったらどうしようかと悶々と悩んでいた。が、未来にここまでお膳立てしてもらって何もできませんでしたでは、そろそろ本当に呆れられてしまいそうだ。
意を決して、私は一言だけ送ってみることにした。
──お疲れ様です、静香です。お身体は大丈夫ですか?
絵文字もスタンプもない、ただ簡素な一言。
それだけを送ってようやく、私は詰まっていた気持ちを解放するように一つ大きくため息をついた。もう少し何か文章があってもよかったかなとと画面を眺めていると、すぐにそのメッセージに既読の文字がついた。
「うそ、もう!?」
こんなに早くメッセージを見られてしまうとは思わず動揺する。ミクさんからのリアクションを待つ間、どんな返事が来るだろうか、困らせただろうかと気が気でない時間が数分続いた。
そうして返ってきたメッセージにはただ一言、普段のミクさんを知る身としてはとても簡素に思える文章が届いた。
──明後日の20時に、あの時の部屋に来てください。
ただ一言だけ、そう送られてきた。
◆八月三十一日
ミクさんが言う「あの時の部屋」とは、ミクさんが倒れてしまったあの大部屋のことだろう。私はミクさんからメッセージが来たことを他の誰にも打ち明けないことにした。メッセージには特に一人で来るようにとは書いていなかったが、私とミクさんだけの秘密のような気がして、誰かに伝える気にはなれなかった。
私は両親に「打ち合わせで帰りが遅くなる」と誤魔化して、私はあの公演の日にグランドピアノが置いてあった大部屋へと向かった。途中プロデューサーや他のアイドルに見つからないように気をつけながら進むのは、なんだか自分がいけないことをしているような気持ちにさせた。
指定された部屋の前まで来ると、あの日と同じように扉の隙間から薄く光が薄暗い廊下に漏れていた。変に緊張して乾いてしまった喉に生唾を飲み込んで、私はゆっくりとドアを開けた。
部屋にはやはりあの日と同じように、ミクさんがそこに立っていた。普段のパンツスーツではなくスキニーパンツにカットソーの出立ちのミクさんは、部屋に入ってきた私に気がつくといつもの快活な笑みではなく、消え入りそうな微笑みを私に向けた。
ミクさんは傍らのグランドピアノに少し体を預けて、「久しぶり」と口の形だけで私に伝えた。
グランドピアノ。そう、グランドピアノだ。
あの公演の日レンタルされて、すでに返却されたはずのグランドピアノが、部屋の真ん中にその存在感を主張して堂々と鎮座していた。
私はミクさんが本当にそこに居たことの驚きと、グランドピアノという予想外のものを目の当たりにしたことへの動揺をグッと飲み込んで、かろうじて「お久しぶりです、元気でしたか」と返すことができた。
私のその言葉に、ミクさんは曖昧な笑みだけで応えた。
「ミクさん、もう体調は大丈夫なんですか?」
ミクさんは何も応えなかった。
「未来も翼も、みんなも。ミクさんのこと待ってますよ」
ミクさんは何も応えなかった。
「……今日、どうして私を呼んだんですか?何かあったんですよね……?」
ミクさんは何も応えなかった。
「ミクさん──」
ポーン、と。
ミクさんは返事代わりにするように、グランドピアノのラの鍵盤を叩いた。
──La-------…………
次いで、まるでオーケストラのチューニングのように、鍵盤の音に合わせるように、ミクさんの喉からラの音が絞り出された。
そして。
ミクさんと私の目が合うと、またいつもとは違う微笑みを私に向けて、ミクさんの指が鍵盤を叩き始めた。
私の知らない静かなバラードの曲。ミクさんが時々気晴らしに弾いていた曲の一つだったはずだ。
そこに、私の知らないメロディーがミクさんの口から乗せられた。
時々苦しそうに声が掠れ、歌詞が聞き取れない箇所もあるが、それでも確かな歌声がピアノに乗せられていた。
ミクさんは目を閉じて歌声を絞り出すようにしながら、ピアノを弾き語る。バラードの次はポップソング、その次はジャズ調の曲。その次は凄い速さで鍵盤を叩いて歌う早口の曲。
ミクさんは時々声を詰まらせながらも、観客が私だけの弾き語りを続けた。
私は、もうやめてくれと叫んで演奏を中断させたかった。
なんで、と問い詰めてやりたかった。
なんでそんな、もうこれが最後かのように歌うんですか、ミクさん。
命を燃やすようにして鍵盤を叩き声を絞り出すミクさんのライブは、時間にして三十分にも満たなかった。
だけどその短い時間で、ミクさんは何かを伝えようとして、私をここに呼び出したのだ。
演奏がようやく終わって、我慢できず座りこんで啜り泣く私の肩を、ミクさんは優しく抱きしめた。
そうして、それが数十秒か数分か続いて、ミクさんは私を置いて静かに部屋を出て行った。
事務員の初音ミクさんを見たのは、その日が最後になった。
◆それから
ミクさんと私だけのライブがあった日からしばらくして、ミクさんは無期限で休職することが決まった。
他のアイドルのメンバーにとってはやはりショックだったようで、ミクさんの身を心配する声と、もう戻ってこないんじゃないかと不安がる声が上がった。
私はやはりか、と奥歯を少し噛んだ。私の近くにいたメンバーがちらと私の表情を伺うようにこちらを見てきた。私は表情を隠すようにして、少し俯いた。
あの日、ミクさんが歌声を通して何を伝えたかったか、私はついぞ咀嚼できないままでいた。鬼気迫る覚悟のような、沈み切った諦念のような、燃え上がる怒りのような歌声は、今も私の脳裏で残響を繰り返していた。
また何か連絡が入ったらすぐに知らせるから、とプロデューサーは言っていた。最初にミクさんがお休みすることになった時と同じく、必要最小限のことしか伝えられていないのだろう。社長に詰め寄れば何か教えれくれるだろうかと思ったが、社長は情に厚い性格だから何も教えてはくれないだろうとも思った。
あの日以降、ミクさんから連絡はない。私もメッセージを送っていないし、ただミクさんとのトークルームを開いては通知を確認するだけの日が続いた。
そうして、ミクさんのいない日が一ヶ月、二ヶ月、半年と過ぎて、ミクさんのいない事務所の景色が日常になっていたころ。
プロデューサーが珍しくアイドル全員を集めてのミーティングの場を設けた。
人数が入るスペースがないからと劇場の中に集められた私たちは、その場にプロデューサーだけでなく小鳥さんや美咲さん、それに社長と裏方の社員さんが揃っていることに驚いた。
皆が集まったことを確認すると、社長はステージの前に出てわざとらしくコホンと咳払いを一つして切り出した。
「えー、突然だが。我が765プロにまた一人、アイドル候補生が増えることになった」
その知らせに、私たちはざわついた。
765プロは恒常的なアイドル候補生を募集してはおらず、私たちのプロジェクト開始から新たにオーディションをやっていたという情報もなかった。
私たちが動揺している様を見て、プロデューサーや小鳥さんたちはにやにやと笑いを堪えているように見えた。
「はいはいはい!新しいアイドルってどんな子ですか!」
「環よりお姉さんが来るの!?」
未来や環たちが手を上げて、私たち全員の疑問を代弁するように社長に質問した。
社長は、私たちをぐるりと見渡すとニヤリと笑って、「君たちもよく知ってる人物だよ」と答えた。
「おうい、入ってきてくれたまえ!」
その声とともに劇場後方の扉が開いた。
コツコツと足音のなる方を振り向いてみると、皆がその人物を見て驚きのあまり何も言えなかった。
浅葱色の綺麗な髪。
特徴的な大きなツインテール。
薄い色素の翠の瞳。
あの日から姿を見せていなかった、初音ミクさんがそこにいた。
ミクさんはまるで何もなかったように私たちの前まで歩いてきて、社長の横に立った。社長は悪戯が成功したかのような笑みを浮かべて、驚く私たちを見ていた。
ミクさんは一人一人と目を合わせるように私たちを見渡すと、すぅと息を吸い込んでこう言ったのだ。
「──はじめまして。アイドル候補生の、初音ミクです」
その後のことは、特にここで語るべくもないことなのだが。
少なくとも、誰も彼もが駆け寄って行って、みんなにもみくちゃにされた一人の「後輩」がいたことだけは、はっきり言っておこうと思う。
了
これにて本作は完結です。
ちょっとした気持ちで書き始めたものが思っていたよりも沢山の人に読んでもらえたようで、本当に嬉しかったです。
感想も全てに返信することはできていませんが全て読んでいます。ありがとうございます。
とても励みになりました。
通販について何件かお問い合わせいただいておりますが、イベントで余部が出ればboothでの通販を考えています。
その際は私のTwitterと活動報告で告知させていただきます。
また、活動報告に本作の構想や設定について少し書いています。
蛇足にはなりますが、気になる方は見ていただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。