765プロダクションには、3人の事務員がいる。
一人は音無小鳥さん。
765プロ立ち上げ時から勤めていて、私たちシアター組が所属する前から765プロの先輩たちを支える縁の下の力持ち。時々百合子さんみたいに妄想の世界に飛ぶのが玉に瑕。
一人は青羽美咲さん。
私たちシアター組の加入に伴って新しく採用された事務員さん。普段は音無さんの補佐をする傍ら、プロデューサーと一緒に私たちの面倒を見てくれたり、衣装のデザインや製作を担当している。私たちアイドルと歳が近いこともあってか(音無さんもまだ20代ではあるのだが)、プライベートな悩みや相談を彼女にする子も多い。
そしてもう一人、765プロには事務員がいる。
「おはようございます」
劇場の事務室の扉を開けてすぐ右、大きなモニターがある机が彼女の席だ。
彼女はパソコンのモニターに向けていた視線を私に移すと、ニコッと快活な笑みを浮かべて、手元に置いていたスケッチブックにマジックで何かを書きだした。
【静香ちゃん おはよう!(>▽<)】
「おはようございます、初音さん」
初音ミク。
彼女が765プロに勤める3人目の事務員である。
◆
765プロの事務員、初音ミクさんは喋れない。
杏奈のようにオフは口数の少ない子や、美也さんやひなたみたいにマイペースに喋る子はメンバーの中にもいるがそんなレベルではなく、ミクさんは全く声を出すことができないのだという。39プロジェクトが始動してもう1年になるが、シアターのアイドルでミクさんの声を聞いた子は一人もいない(もちろん私もだ)。そのため、普段はスケッチブックやトークアプリ、ジェスチャーやそのコロコロ変わる表情で私たちとコミュニケーションを取っている。
【今日は早いね どうしたの?】
「これからロケなんですけど、その前にプロデューサーに確認することがあって……プロデューサーはまだ?」
【社長さんと次のイベントの事でお話があるから、事務所の方に寄ってから来るって言ってたよ( ・∇・)】
このやりとりをするのにだって、小さなラップトップに文字を打ってこうして私と会話をしている。これが複数人で会話をするときや打ち合わせの時は、彼女の指は忙しなく動いてものすごい速度でキーボードを叩くのだ。
【プロデューサーさんには言っておくから、控え室で待ってれば?(・・?)】
「じゃあ、そうさせてもらいます。お願いしてもいいですか?」
【おっけー!】
そう打ち込んだ画面を見せると、彼女は任せなさいと言わんばかりに自分の胸をトンと叩いた。その仕草がなんだか子供っぽくて、なんだかおかしくなってしまった。
私がクスッと笑ったことにきょとんとした表情をしたミクさんになんでもないですと答えて、私は控え室へ向かった。
◆
初音ミクさんについて私が知っていることは少ない。
私たちがアイドルでミクさんが事務員ということもあるだろうが、それにしたって彼女のプライベートについて知っていることはほとんどない。いろんな楽器が弾けたり、ダンスも上手だったり、パソコンに強くて事務所のHPを作成・管理していたり、彼女は多彩な人物だということは知っている。しかしその才を得るに至った背景を彼女はほとんど語らない。出身地はどこだとか、今まで何をしてきた人なのかだとか、おそらくこの事務所の誰に聞いても彼女のパーソナルな部分を知っている人はほとんどいないだろう。かくいう私も、たまたま一度、お昼を一緒に食べるためにうどん屋さんに行った時、彼女がネギを山盛りにしたうどんを美味しそうに食べていたことからネギが好きなんだろうという曖昧な情報くらいしか持っていない。
謎多き事務員だ。私が脳内でミクさんについて改めてそう評したところでプロデューサーが控え室にやってきた。
「ごめんな静香。少し社長と次のライブイベントの打ち合わせをしててな。待たせちゃったか?」
「いえ、私も連絡の一つもせず来てしまいましたから」
そうしてプロデューサーと今後のレッスンの予定や今日のロケのことを確認し終わった後、どうせならと私はミクさんについて少し聞いてみることにした。
「プロデューサー、関係ない話ですけどいいですか?」
「ん?どうした?」
「その、変な質問ですけど、ミクさんって何者なんですか……?」
「なんだ藪から棒に……そもそもなんだ何者って」
「いえ、もう一年一緒に仕事をしてきましたけど、私ミクさんのことを何も知らなくて……ミクさんはあまり自分の話をしないので少し気になってしまって……」
「あー、なるほどなぁ。しかし何者……何者ときたか……」
その質問に、プロデューサーはふむ、と言って少し考え込むようなそぶりを見せた。いつも会話に関して言いよどむことがないから、この反応は意外だった。
「実は俺もあんまりよく知らないんだよなぁ。初音さんとは美咲さんが入る少し前に顔合わせして39プロジェクトの準備とかを一緒に進めてたんだけど、あんまりプライベートな話はしなかったし」
「え、美咲さんと同時入社じゃなかったんですか」
「あぁ。社長のスカウトで事務員になったみたいだな。最初社長が連れてきた時は新しいアイドル候補かと思ってびっくりしたけど。……そういえば社長もどこでミクさんと出会ったんだろう。親戚とかじゃなさそうだったし……」
うーんと考え込むプロデューサーの様子を見ながらやはり謎の多い人だと改めて思う。この調子だと小鳥さんや他の先輩方に聞いても同じ答えが返ってくるかもしれない。
「あ、でそう言えば一個あったなぁ」
「え?」
ふと、プロデューサーが思い出したように言った。
「美咲さんが入社した後に、社員の懇親会を社長が企画してくれて飲み会をしたんだよ。その時から初音さんは喋れなくてパソコンでやりとりしててみんなちょっと面食らってたけど、すぐ打ち解けてね。その時に美咲さんが聞いてたんだ」
『初音さんって、765プロに来る前は何をしてたんですか?私と同い歳か年下……ですよね?』
「……それで、ミクさんはなんて?」
「んー、それがなぁ……言っていいのかなぁ。静香、できれば内緒にしてくれよ」
「え、えぇ。分かりました……」
彼女は、自分の端末に文章を打ち込んでこう答えたという。
『【そうですね……ずっと、歌を歌っていました】』