キュゥべえをドス黒く煮込みました。
休日の過ごし方は主に三つ。惰眠を貪るか。娯楽に費やすか。佐倉の遊びに付き合うか。フェーズワンを実行している時、それは睡魔を撃退するべく鳴り響いた。アラームを設定した覚えはない、黙示録のラッパだろうか。
–––コネクト。
誰からの着信でもこの曲に設定している。
携帯の着信音に睡魔の邪魔をされて、僕は意識も朧げに手に取る。
通話ボタンを押し、天使の声で悪魔の囁きが耳を突く。
『……私よ、二木君。少しいいかしら?』
「–––ただいま電話に出ることができません。ピーッと鳴りましたらお名前とご用件をお話しください」
意識は一瞬で覚醒した。
いったいどうして『暁美ほむら』が僕の携帯の電話番号を知っているのか、途轍もなく嫌な予感がしたので留守番電話サービス偽装をしてみたが相手は動じることなく冷淡に告げる。
『そう。もし聞いていて私と話したくないのならそれでもいいわ。ただし、覚悟だけはしておくことね』
一種の脅迫の後、続けて……。
『今からモールのカフェテラスまで来なさい。私を一分でも待たせたら……どうなるかわかってるわね?』
いや、わからん。
電話が切れた。僕は何時だと思ってるんだ、と悪態を吐きながら通話終了後、時間を確認する。時計の針はちょうど十二時を回るくらい。のそりと起き上がった後に毛布を見てみれば、何故か不自然な膨らみが……そっと捲ってみると佐倉が寝ていた。きっと起こしに来て寝てしまったのだろう、猫みたいに気まぐれなやつだ。起こさないように気をつけて仕度をすると部屋から出る。
「遅いわ。何分待たせたと思ってるの?」
カフェテラスで暁美さんを見つけるなり、重い足取りで向かう前に彼女は僕に気づいて罵倒を浴びせてきた。
「……いえ、これでも急いだ結果ですよ」
女王陛下に失礼があってはいけないと口調が丁寧になってしまうのは仕方のないことだろう。クラスの男子どころか女子までたまにそうしてしまうくらいなのだから。
「時間にルーズな男は嫌いよ。32分の遅刻」
「……以後気をつけます」
これでも寝起きで準備して自転車を全速力で漕いできたのだが……。
「まぁいいわ。時間がないし急ぎましょう」
「あの、せめて飲み物を買う余裕くらいは……」
「なら、これでも飲んでなさい」
そう言って女王陛下が差し出したのは飲みかけのドリンクである。コーヒーの良い香りが漂っている。どうやら二本目のようで、受け取ったそれはまだ温かかった。
「……それは間接キスをしても良いということで?」
「次言ったらストローを鼻に突っ込んでコーヒーを鼻で飲ませるわよ」
僕は強行されないように急いでコーヒーを飲み干す。
心做しか、コーヒーはブラックのはずなのに甘い気がした。
悠然と歩く女王陛下の背後に側仕える僕。いや、下僕。彼女は我儘に振舞っているようだが実は違う、度々チラリとこちらを盗み見ては歩く速度を落としたりと気を使う仕草を見せる。暁美さんはあまり素直になれない性格のようで、そうとくれば扱いなど至極簡単でとっつきにくいところも意外と可愛く思えてきた。内心で彼女の可愛さにニコニコと微笑みを浮かべていると彼女は唐突に口を開く。
「……まったく、あなたが中々私を指名しないせいでオフの日に呼び出す羽目になったわ」
悪態を吐いた。だが、その割には夏も間近な黒のワンピースといつもの制服ではないところ、呼び出す前に身だしなみはきちんとしてきたらしい。黒が似合うなぁと少し感動してしまったほどだ。その彼女は「どういうつもりよ?」と視線で投げ掛けてくる。
「いや、もう別に必要ないかなと」
「……それは私に魅力がないって言ってるのかしら」
「一応言っておくけど、佐倉も呼び出してはないからね」
「……ふん」
一人除け者にされて拗ねているらしい暁美ほむら。案外可愛いところもあるものだ。
「まぁ、それは置いておこう」
「どうでもよくないわ。私の営業成績に関わるのよ」
「どうでもいいとは言ってない。それに暁美さんを指名する人はいるでしょ。可愛いんだし」
一瞬頰を紅潮させ、睨まれた。
「残念ながらあなたが思っているような顧客はいないわよ。私が銃を取り出すといつも逃げるのよ」
「……いや、普通はそうだと思うよ」
サイコパスかよ、とは言わない。
「でも最近は何故か奇妙な変態ばかり私の客になるのよね。銃を押し当てられて喜ぶクズとか」
客の方がヤベェ奴だった。
「その度にキュゥべえに用立てて何度排除したことか」
「キュゥべえ?」
「今にわかるわ。私達を管理しているのはそいつだって覚えておいて」
なるほど、と一応納得したふりをしておく。
「それで僕を呼び出した要件は?」
「あら、用がなくちゃ呼び出してはいけないの?」
「……別にそんなことはないんだけど。まさか暁美さんが僕に会いたいから、なんて理由で呼び出したわけはないと思ってさ」
「えぇまったくもってその通りね。なんで私があなたと休日に会わなくちゃいけないのか懇切丁寧に教えて欲しいくらいね」
呼び出したのは彼女なのにこの言い草。これもツンデレと思えば可愛いものである。
どこか不満そうに暁美さんは鼻を鳴らす。
「ところであなたは私達の仕事をどこまで知っているのかしら?」
これが本題に最も近く、与えたもうた試練の一つなのだろう。これを間違えば暁美さんから愛の鞭が飛んでくるかもしれない。
「夢と希望を届ける仕事ってところかな」
「……はぁ」
呆れたようなため息を吐かれた。
「軽いアルバイト程度に思ってるのね。心外だわ」
「……僕はこれでも割と気を遣ってるんだよ。迷惑をかけないように」
「……迷惑客と金を落とさない客が一番困るのよね」
「ねぇ、それ今日のこと言ってる?」
毎回料金はちゃんと払ってるのに。今日のことに関しては別に仕事でもなんでもないはずだ。
そう思っていれば、辿り着いたのは駅前の如何わしい裏通りだ。昼間だというのに露出高めのお姉さんが道行く男達を籠絡している。ラブホに大人のバーとかその他色々、密集地帯で様々な客引きが行われていた。
一人では歩けないような大人の歓楽街を先導する暁美ほむら。彼女は突然振り返るとぴたりと僕の前に立ち止まる。僕は軍隊のようにぴたりと彼女の目と鼻の先で立ち止まった。
「私達の仕事はね、一種の負債を抱えて始まるの。私達はある願いの代償に働かなくちゃいけないのよ。だから私達は、程度が違えどキュゥべえには逆らえない」
「負債?」
女子中学生が抱える負債とは。
こんな小さな少女が抱える負債とは、想像がつかなかった。
そんなわかりかねた僕に呆れたような表情でしかし懇切丁寧に接してくれるのが彼女である。
「例えば、美樹さやかなら大切な幼馴染のために、二度とヴァイオリンを弾けないはずの腕を治療する為、キュゥべえに願いを叶えてもらい莫大な借金を背負ったの。当然、上条恭介の家では抱えきれないほどの莫大な借金をね」
「……うわぁ」
それほど好きだったのだろう。そう思うと、親友に対するどうしようもない遣る瀬無さ、さやかに対する同情心が芽生えてしまった。今度からもっと優しくしてやろう、さやかには。上条にはもう少し辛辣に当たってもバチは当たらないはずだ。
「まぁ、負債の話はどうでもいいわ。キュゥべえにとって重要なのは束縛することで負債の内容は重ければ重いほどいいわけだから、今からあなたに話すのに理由は大なり小なりあると理解してくれればそれでいいってことよ」
再度歩き始めた暁美さんの後を追う。
「そう、あとは負債を返すだけの簡単なお仕事と思っているところ悪いけれど、その裏で実は私達にはノルマが課せられているわ」
「……人件費もバカにならないからなぁ」
「あれを見なさい」
そう言って暁美さんは僕の首根っこを掴むと強制的にピンクのネオン街の方を向かせる。首が捻れて大変な音が鳴った気がしたが、せっかく目を逸らしていた大人の世界に嫌でも視線を当てさせられれば、僕は借りてきた猫のように大人しくなった。
視線の先には客引きをする女性がいる。ただそれだけで、僕は不明瞭な現状において首を傾げるのは致し方ないだろう。
「綺麗なお姉さんですね」
「あれを見てそんな感想を聞いているわけじゃないのだけど」
「他の女に目をくれる男を演じてほしいのかと」
「確かに最低ね。私の前で他の女に見惚れるなんて」
グリグリと背中を肘で突かれる。身を翻し暁美さんの背後に回る。それを数回繰り返したところで「よく見なさい」と叱咤された。
「あれが私達の成れの果て……。つまり、キュゥべえに負債を抱えてノルマを達成できなかった人間よ」
冷ややかな視線で同情とも哀れみとも読み取れない表情をしていた。いつものクールな暁美ほむらだ。
「私達はノルマの達成が出来なければ、嫌だろうが何だろうが身売りでもしなくちゃならなくなる。それでもダメなら、いっそ人身売買でどこかの国へ売られるのよ。否応無しに。それを私達は魔女堕ちと呼んでいるわ」
「……ここって少なからず平和な国で、スラム街ではないはずだけど」
「普通なら警察が黙っていないでしょうね。でも、キュゥべえに法は無力よ。それにあの狡賢い獣は私達が逃げられないよう首輪をつけているのよ。本当に忌々しい」
言われて首を見た。首輪もチョーカーも見当たらない。
視線に気づいた暁美さんに睨まれる。
「バカね、今のは比喩表現よ。さっきの負債の話したでしょ?あれがある限りやめたくてもやめられないのよ。まぁ、美樹さやかほど重い負債を抱えているわけではないけれど」
「別に本気で首輪を探したわけじゃないよ。暁美さんに着けたら可愛いんだろうなって」
足を踏まれた。威力は軽く踏む程度のものだった。ただし、浅いとはいえヒールだった。
「–––おまえたちなにをしている?」
そんな寸劇じみた戯れ合いをしてると背後から声がかかった。
思わず振り向いた先にいたのは、体育教師ゴリラである。
そして、此処は歓楽街。その上最悪なことにビジネスでもカプセルでもないホテルの前。さぞかし僕らが仲良くホテルに入ろうとしているところに見えたのだろう。
暁美さんとアイコンタクトで会話をする。
目を離した瞬間、暁美さんは走り出した。
「あっ、おい!」
叫んだゴリラ、咄嗟に後を追う。
暁美さんはヒールで走り難いだろう。見るからにもつれながら必死になって足を動かしている。僕は走り出したゴリラの足元に足を突き出して転ばす。
そうして、拙い足取りでよたよたと走る暁美ほむらを横抱きに抱えると全力でその場を離脱した。
「…はぁ…はぁ」
逃げた先は住宅地。腕の中では暁美ほむらが僕の首に手を回し身を委ねている状態、そろそろ下ろそうとすると鼻先を彼女の艶やかな黒髪が擽った。
地に降りた彼女はスカートの裾を伸ばし、乱れた髪を手櫛で整える。仕草がどこか扇情的で思わず目を逸らした。
「……さて、魔女堕ちまでは話したわね」
僕の息が整ったのを確認して暁美さんは歩き出す。その後をのろのろとついていく。
「けれど、魔女堕ちに関しては彼女達は知らないわ」
「……どうして?」
「どうしてもなにも旨い話で釣るのがあいつのやり方なのよ。そういうとこは伏せておいて、引き返せなくなったところで開示して絶望する様をせせら嗤っているのよ」
だとしたらなぜ、彼女はそんな事実に辿り着いたのか。
「私が知ったのも偶然、誰かの話を立ち聞いただけよ。でも、それを確認するのも、誰かに相談するのも怖かった」
肩を震わせ怯えた様子で蹲りそうになり、どうにか彼女は踏み止まった。
「幸いなのは私とまどかは負債なんてあってないくらいの軽いものだったことね。そのせいでキュゥべえも手をこまねいて私達に首輪を着けようと躍起になっているわ。私達が絶望する様が見られないのが悔しいのよ、きっと」
「それは良かった」
「良くないわ。だからこそ、あいつは私達に首輪をつけたがっているの。そして、ついに行動を起こしやがったわ。私達の着替え中の写真を盾に脅してきやがったのよ。ノルマ達成しなかったら写真をばら撒くぞって。しかもノルマはいつもの倍よ」
キュゥべえめ、どうやってそんなお宝写真を手に入れたのか。分けて欲し–––って今はそんな場合ではないな。
告白した暁美さんの頰は真っ赤だった。それこそ林檎のような可愛らしい色ではなく、怒りを交えて恥辱に染まっている。
「……噂をすれば、ね」
彼女の視線の先には一つのアパート。その前には黒服の男達の姿が。
「ついて来なさい」と暁美ほむらが先導するのを僕は黙ってついて行く。
アパートの階段を上がり、二階へ。そこにはやはり黒服の男二人組。そして、手摺の上に黒服の小さな白い獣がちょこんと座っていた。真っ赤なルビーの瞳。
–––あれはなんだ?
衝撃過ぎて言葉が出ないで立ち尽くしていると、小さな獣は吠えた。
「まったくわけがわからないよ。お金がかかるのを知っていながら買ったくせに、代金を支払わないなんて。人間ってのは自分勝手だなぁ。少女の時間を買ったくせにさぁ」
オラオラしてる小さな獣。
暁美さんは悠然とその獣に近づいていった。
「こんにちわ、キュゥべえ」
「なんだ、ほむらじゃないか。こんなところでどうしたんだい?」
「ちょっと彼とデートよ」
「そうか。ボクは今、借金の取り立て中だよ」
見てわかる。だが、わからん。なぜ獣が喋るのか。
おそらく、直感的にあいつがキュゥべえなのだろう。暁美さんも言ってたし。
一人納得していると部屋の中から声が返ってきた。
中年男性のような、低い声。
「そこにいるのはほむらちゃんかい?いるんだねそこに!」
興奮した様子の男の声。数秒と待たず、開かずだった扉が開く。そうして出てきたのは少し痩せた感じで見るからに中年な男性だ。暁美さんを見るや即座にまくし立てた。
「ほむらちゃんからも言ってやってくれよ。僕らの間には愛があるから、お金で契約なんてしてないって!」
……とんでもなくやばい奴だった。
僕は見て見ぬ振りをする。暁美さんは僕の隣に来ると腕にしがみついてきた。それもあざとく怖がったように魅せる。僕は温度差にときめきも何も感じなかった。
「だ、誰だよその男!」
僕が男だとわかるや激昂する男性。
その怒りの矛先はやはり僕のようだ。
「…はぁ。キミは彼女を借りるために計二百万のツケを支払っていないね」
「……な、なんだよ、こいつは」
「さて、会則に則りキミには地下での労働生活及びそれで返済が見込めない場合は臓器売買も辞さないけれど、返済するアテはあるかい?」
「し、知るかよそんなの!」
「やれやれだ、地下帝国で反省するといいよ」
キュゥべえの宣言で横にいた二人組の巨漢が動き出す。中年男性の両脇を抱えて何処へかずるずると連行していく。
「……あれ、どこに連れて行かれるの?」
「地下帝国さ。肉体労働と地獄のような生活が待っている。まぁ、君は滞りなく支払いは済ませているようだから無縁だろうけどね」
答えたキュゥべえは「じゃあ、また機会があれば」と去って行く。残されたのは僕と暁美ほむらの二人のみ。
「写真とデータは地下帝国にあるわ。もし上手くデータを消すことができたなら……いえ、できなくても、私のできることならなんだってする」
そんなお願いをされて断れるわけがない。
最初から、僕に選択肢を与えておいて選択なんてできなかったのだ。
代案があるとするならば、キュゥべえとやらを保健所に連れて行くか、絶滅危惧種として保護させることだろうがどれも現実的ではないため口に出すのはやめておいた。
魔女堕ちは設定のみで登場人物達が陥ることはありません。
基本的に甘酸っぱいことしていくのが方針ですので。