怪異譚 鈴語り   作:紅野生成

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 和風ホラーみたいにおどろおどろしいことは少ないと……思います。
 完全に独立したお話ですが、自作品にでてくる庭の遠い過去を描いたような内容になっています。
 初めましての方は単品の怪異譚として、もしもあちらも見たことがあるという方が通りすがってくださった際には、あの庭の過去を覗くような気持ちで読んでいただけると幸いです。
ちょっとだけ黒い靄のかかった、和風ダークファンタジー……かな?

*完結後の(改)は編集で誤字脱字を直しただけで、内容に変わりはありません。



1 男の内に飼われるモノ

 わたしは鈴である。そして名も鈴という。いつからこうしているのかはわからない。

 気付けば、己は鈴であった。

 ぼんやり揺れているには、長すぎる時間が過ぎたように思う。正直、この世に存在することにさえ飽きがきた。

 それでもやすやすと土塊に戻れるわけもなく、こくり、かくりと揺れるしかない。

 ふと長すぎる時の一部を、意識的に切り取ってみようかと思い立った。

 わたしの声は主にさえ聞こえやしないから、寂しい一人語りにすぎない。

 それでも、暇つぶしにはなろうかと思う。

 

 

「少し日が長くなったねぇ、鈴よ」

 

 庭の岩に腰掛けた、主の袖がぺらりと風にはためく。単の着物一枚では、この夕暮れにさすがに小寒いであろうと息を吐く。

 

 チリン

 

 ひと揺れして答えたわたしに、主は切れ長の目を向けて薄く微笑んだ。主にわたしの声は聞こえない。それでも、わたしがここに居ることは知っておられる。

 

「おや、誰か来たようだ」

 

 主はすいと立ち上がり、裏の木戸から表へでた。

 この古家の界隈に客人などありえない。生きてここへ入れるのは大屋様のみ。わたしはひとり、ない首を傾げた。

 その大屋様はひと月前に……。

 

「新しい大屋様はわたし達に、まだここに居ても良いといってくださるか」

 

 そういうことか。

 

 チリリン

 

「おや、鈴は心配かい?」

 

 紅を薄くひいた口元に、白い指先を当てて主が笑う。

 道の先にまだ人影はない。乾いた土を擦る、主の草履だけがしゃりしゃりと音を鳴らす。

 道に落ちる茜の色が濃くなった頃、右へと折れる道の先からふらりと人影が現れた。

 一枚の紙っぺらと周りの様子を見比べながら歩く姿は自信なさげで、明らかに道に迷っている風だった。

 

「あれかねぇ」

 

 主は誰にいうでもなく、ぽつりと言葉を落とす。

 主の姿に気付いて駆け寄ってきたのは、見知らぬ人影の方だった。

 

「すみません、道に迷ったのですが」

 

 若い男の体の線は細く、他人を見つけて心底ほっとしているようだった。

 

「このような夕暮れにどちらへ?」

 

「この先にあるはずの、辻堂と呼ばれていた旅籠跡を探しているのですが、似たような景色の中、方向がわからなくなってしまいました」

 

 風になびいた僅かな髪が、微笑んだ主のほの赤い口元を目隠しする。

 

「迷ってなどおられませんよ。ここはすでに辻堂にございます」

 

 主の言葉に若い男はきょろきょろろ辺りを見回し、そしてはっとしたように口を半開きにした。

 

「人に出会えたことが嬉しくて、周りを見ていなかったようです。こんなに大きな屋敷が建っていたなんて、でも、さっきまでは藪だったのに」

 

「お探しの辻堂は、お借りしている我が家にございます。まいりましょうか」

 

 己の目に納得がいかないのか、いまだ首を傾げる若者を誘って主が歩き出す。少し遅れて若い男もついてきた。

 

 

 リーーン

 

「不満そうだねぇ」

 

 低く鳴ったわたしに向けて、主がそっと囁く。

 

「そうおいいでないよ。ここまで一人で入ってきただけでも、上出来じゃないか」

 

 うっすらと笑いを含んだ主の声に、呆れてわたしは黙り込んだ。この先の全てがこの若造の度量にかかっているというのに、密かに楽しんでいる場合ではないだろう。

 主の悪い癖だとわたしは思う。

 明日を思い煩うことなく、許される範囲内で存在しようとする潔さは、言い換えれば諦めなのではないだろうか。

 主には何一つ諦めてなど欲しくない。わたしは鳴りそうになるこの身を、必死に押し留めた。

 道すがら双方口をきくことはなかった。

 背後を警戒することなく歩みを進める主。

 何を疑うことなく、その後ろをついていく若い男。

 その間で思い煩うは、能無しの愚かな鈴。

 屋敷の周りをぐるりと囲む竹の塀をみて、男はほう、と声を漏らす。

 

「とても江戸の時代に建てられたとは思えない。もっと傷んでいるかと思っていたのに、きちんと手入れされているのですね」

 

 木戸に撫でられて、少しばかり伸びすぎた地草がさりさりと音を立てる。

 

「住む者がいて家は生きるものにございます。わたしどもでも、少しは役に立っているのでしょう」

 

「あなたの他にも、どなたか住んでいるのですか?」

 

 主は立ち止まり、すいと半身を返して男を流し見る。

 

「それは後に、ご紹介することとなりましよう」

 

 男を座敷へ通し、主は奥へと進んで酒を盆にのせる。

 

陽炎(ようえん)がいてくれたら、何か旨いものでもこしらえてくれるのにねぇ」

 

 主は残念そうに肩を竦め、火の上の網で魚を炙る。

 焼けた魚と酒を手に座敷に戻ると、男は縁側に腰掛けて庭を眺めていた。

 

「何もありませんが、どうぞ」

 

 勧められた酒に小さく頭をさげ、意を決したように居住まいを正した。

 

「女性がお住まいの所に、こんなことをいうのが失礼なのは百も承知ですが、今夜だけ、ここに泊めていただくわけにはいかないでしょうか? この夜道を帰る自信がないのです」

 

 叱られた童子のように背を丸める男に、主は静かに声をかける。

 

「そのような遠慮など。居てくださって構いませんよ」

 

 申し訳ない、と男は更に頭を下げる。

 

「ただ、ここに居ていただくには、守っていただきたい約束ごとがございます」

 

「どのような?」

 

「この屋敷のどこへいかれても構いません。ですがこの屋敷に住まう者には、触れないでいただきたいのです。たとえ着物の袖、髪の先であってもでございます」

 

 若い男は慌てて首を振る。

 

「そのような失礼はけっして!」

 

 慌てて弁解しようとする様子を、主はそっと手の平で制す。

 

「約束していただけますか?」

 

 男は黙って深く頷いた。

 それを見て、主は春の蕾のように口元を綻ばせる。

 

「では一杯どうぞ」

 

 わたしは主の腰帯にぶら下がったまま、そっと身を潜めて話の先を見守った。

 

「いずれ、あなた様のような方がいらっしゃると思っておりました。先代の大屋様が、この辻堂を譲る者は決めていると申されておりましたから」

 

 男は、不思議そうに首を傾げる。

 

「確かにぼくの物になりそうですが、父は遺言も残していません。譲るなど……ひと……言もいっては……」

 

 男の手から盃が落ちる。芯が抜けたように体が弛緩して、ごろりと畳に転がった。

 

「こうも申しておりました。策を巡らさずとも、たとえ望まなくとも、この辻堂はあなた様の手に落ちると」

 

 寝息を立てる背中に羽織を一枚掛けてやり、主は庭へと繋がるふすまを開ける。

 

 リーン

 

「お酒に薬を少々、心配はいらないよ。明日の朝には、酔いつぶれただけと思って目を覚まされるだろう」

 

 こんな頼りない若造など、このまま山の土に返してしまえば良いものをと、わたしは手足の無い己に悪態を吐く。

 

「今宵くらいは静かにお休みいただきたい。鈴もそう思うだろう?」

 

 チン

 

 主の言葉といえども、不満なものは承諾しかねる。

 わたしが静かな夜を願うのは、この若造の為ではない。

 主にも心休まる、そんな夜があって欲しいと願うからだ。

 

 ミャアー

 

 庭で猫が鳴いた。庭の闇を月だけが照らしている。

 

「シマかい? これはどうやら、手酌で一杯の酒を呑む暇もなさそうだねぇ」

 

 若造を匿うように、主は後ろ手に障子を閉じた。

 

 

 

 ミャー ミャー

 

 庭の小池に満月の映る、明るい夜である。

 小池の横で四つ足を踏ん張って鳴く、シマと呼ばれた猫の横に一人の男が立っていた。

 

「お客さんだねぇ」

 

 主はゆっくりと庭に下り、男との間に少しだけ間を置いて立つ。

 

「ここへは自分の足できたのかい? おまえ様は自分が何処の誰なのか、わかっておいでなのかねぇ」

 

 男はゆっくりと首を横に振った。

 冷えた夜風が、かさかさと木々の葉を揺らす。

 

「気付けばここにおりました。ここの噂を耳にしてはいたものの、どう足掻いても辿り着けなかったのでございます。ところが突然に辿る道筋が見えたのでございます。火玉のようなものが、ふらりふらりと揺らぐあとを追ってまいりました。見えるはずのないこの目に、確かに見えたのでございます」

 

 主は訝しげに目を細めた。

 

「おまえ様をここへ誘ったのが何者なのか、それが気にかかる」

 

「わたしはここに居てはなりませぬか?」

 

 男の声から体から、失望の色が立ち昇る。

 

「構いやしませんよ。ここは辻堂と呼ばれる旅籠。あらゆる者達が立ち寄り、風のように去っていく場所。おまえ様が望むなら、この先の道を抜ける手助けをしようじゃないか」

 

 男は腿にぴんと伸ばした手を当て、深々と頭を垂れた。

 

「ところで頭に巻いたその布は? 目を患っていたのかい?」

 

 男は大きく頭を振る。

 乱暴に巻かれた布の端が、染みついた煤を撒き散らすようにひらりと揺れた。

 

「わたしは根無し草でございます。この布をどうして巻いたのか、それさえも覚えてはおりません。何の必要もないかもしれない、ただの布きれにございます」

 

 この様子では男は自分がどのような状態か、まったく解っていないのだろう。  焼け焦げた島物小袖には切られたような裂け目がそこここにい口を開け、そこから覗く肌は、赤い傷口を痛々しく残していた。

 目にも傷を負っているなら、血染みのひとつもありそうなものだが、煤けた布にはそのような跡は見られない。

 小池に映し出された月の影を裂くように、魚がパシャリと水音を立てて跳ね上がる。

 尾に跳ね上げられた池の水が、傍らに立つ男の目元にかかった。

 あっ、と男は小さく声を上げた。

 そして目の周り覆う布を、引き裂かんばかりに掻きむしる。

 

「痒い、痒い!」

 

 その様子を見て主は、さっとシマに目を配る。

 足音もなく、シマが男の側から身を引いていく。

 

「痒い、痛いほどに痒いのです!」

 

 狂ったように掻きむしる男の前へ、主はすっと一歩寄った。

 

「その布、取ってはなりませぬ」

 

 主の張った声が、夜の庭に響く。

 

「痒い、たまらない! 痛い! 痒い!」

 

 男の耳に、もはや主の声など届いてはいない。

 主がもう一歩歩み寄ろうとしたその刹那、男の右の中指が浮いた布の下にもぐり込み、易々と巻かれた布が頭から外れた。

 布がゆるゆると解け、動きを止めた男の首にぶら下がる。

 

「あぁ、なんと愚かな」

 

 男の眼が夜風に晒されたとき、目の前に居たのは主であった。

 役者のように整った男の顔が苦しげに歪み、やがてそれは自嘲へと変わった。

 

「やっとの思いでここまで辿り着いたものを」

 

 主は月明かりに照らされた美しい顔の眉根を寄せ、睫を伏せたまま一歩、また一歩と後退る。

 

「全てを、思い出したのだねぇ」

 

 もう伸ばしても手が届かぬほどに、主と男の間は開いていた。

 

「月とは、こんなにも美しいものでしたか……」

 

 夜空を見上げて、男は微笑む。

 

「もう、わたしにして差し上げられることは、ないのでしょうねぇ」

 

 主の言葉に、男は深く頷いた。

 

「この旅籠へきた以上、後ろめたい過去を隠すつもりはありゃしません。わたしは女に騙されましてね、そりゃ美しい女だった」

 

 男の語りが、夜霧のようにしんしんと庭の闇に染みていく。

 

 

 

 わたしは表店の跡継ぎで、店の者からは若旦那と呼ばれておりました。

 藥師問屋を営んでおりましたが身代はそれなりで、父の溜め込んだ金が蔵に眠っている、そんな家に生まれたのでございます。

 暇をみては足を運んでいた小料理屋に、ある日新しい女が入ってきましてね。どの客にも愛想のいい、そりゃあ器量の良い女でございました。

 一目で惚れてしまいましてね、女の方もわたしに気があるのがわかっていたから、ある日時を見計らって声をかけました。

 わたしに気があるのは確かなのに、飯を食いに行こうという誘いにさえ女はなかなか首を縦に振ってはくれませんでね。

 今思えばあの時すでに、わたしは女の術中に嵌っていたのでございましょう。

 

 初めて女が誘いに乗ってくれたときには、それこそ天にも昇る思いでして、蜆汁の具を多くして奉公人に振る舞い、酒までつけたものです。

 あぁ、蜆汁は丁稚も喜ぶ蜆汁といわれたくらいでして、最後の残り物しかあたらない丁稚達にも鍋底に沈む具があたるからと、たいそう喜ばれたのですよ。

 おっと、話がそれてしまいましたな。

 いくら惚れたといっても、女を娶るなどわたしの立場では無理なこと。

 親が決めた相応の家柄である娘と、祝言を挙げる日がくるのはわかっておりました。

 

 だからせめて、女に少しはまともな暮らしをさせてやりたかった。

 

 わたしは女に、うちの店に来るように勧めたのでございます。

 聞けば病気の母親を抱えているというじゃありませんか。

 他の者の手前、給金を上げてやるわけにはまいりませんから、わたしの懐から小遣いをやるつもりでおりました。

 早くに母を亡くしておりましたから、父やわたしの身の回りの世話をさせようと考えたのでございます。

 誘いをかけて十日ばかり、女がよろしくお願いしますといってきました。

 嬉しかった。

 女はそれは甲斐甲斐しく働きました。

 最初は渋い顔をしていた父も、ひと月ふた月と経つうちに働きを認めて、いい娘を見つけたものだと褒めてくれたものです。

 

 桜の季節が終わり蝉時雨も去り、木の葉が散り始めた頃でございました。

 最初に異変に気付いたのは、大部屋で寝ていた奉公人。

 その千切れんばかりの悲鳴に、わたしは跳ね起きました。

 焦げ臭さを感じて庭へでようとしたわたしは、己の目を疑いましたよ。

 お店から火の手が上がり、飛んだ火の粉がわたしの居る離れにも火を付けておりました。

 煙に巻かれながらも何とか父を助けようとしましたが、火の回りは早く父の寝所に近寄ることさえ叶いません。

 燃えさかる炎の向こう側に逃げ惑う奉公人達の姿が見えましたが、どうにもしてやることはできなかった。

 

 どこにいるのか。

 

 すぐに女の顔が浮かびましたが、逃げ惑う者の中に見慣れたその姿はございませんでした。

 何とか外に逃れようと火の手の薄い方へ逃げたわたしは、蔵の錠前が外れ、重い戸が開いているのを見つけたのでございます。

 賊に火を放たれたのだと気付いて、わたしは身を震わせました。

 抜けた腰を引き摺りながら這って、やっと裏の木戸まで辿り着いたわたしは、そこで見つけてしまったのです。

 臆病者で腰を抜かして這ってなどいなければ、見過ごしていたはずの物を。

 それは干支を模った根付けでございました。

 ありふれた根付けにございます。

 そして、わたしがあの女に送った根付けでございました。

 そのときわたしは悟ったのでございます。

 あの女は、引き込み女であったのだと。

 呆けたまま立ち上がり、ふらりふらりと表にでました。

 打ち鳴らされる半鐘が聞こえた気もいたしましたが、燃え崩れるお店も、見捨てたも同然の父や奉公人のことも、何もかもが遠い出来事のように思えたのでございます。

 

 わたしの心に鬼が巣くったのは、このときやもしれませぬ。

 

 それから七日の間、物乞い同然に身を落としてわたしは女を捜しました。

 当てもなく遠く本所深川まで足を伸ばしていたわたしは、一軒の煮売り屋の店先に何気なく目をやって、ぶるりと身を震わせました。

 わたしから全てを奪った神仏が哀れに思ったのか、慈悲をかけたのか。

 煮売り屋の店先で総菜を眺めていたのは、見間違うはずもなくあの女でございました。

 総菜を買って店を後にした女を、わたしはこっそりつけました。

 戻った先にひとりで居るのなら、問い詰めてから迷わずに殺すつもりでございました。

 女は町の外れにある、小さな荒れ寺に入っていきました。

 逃すまいと気が急いて、そのまま女の後を追って寺の中に飛びいった。

 

 間が悪いとは、ああいう事をいうのでしょう。

 

 あの日取った金を分けるために、賊が雁首をそろえておりました。

 わたしはそのど真ん中に、ひとり丸腰で飛び込んだのでございます。

 わたしを見て女は寸の間驚いた表情を浮かべましたが、その後に見せたのは、にたりと下卑た笑みでございます。

 女が指ひとつ動かしただけで、ごろつきどもが一斉に得物を手に襲いかかってきたのですから、素人のわたしなどひとたまりもありゃしません。

 引き込み女は、盗賊頭の色だったようで。

 四方八方から切り込まれるわたしを見て、女は笑ったのでございます。

 押し寄せる賊の腕の隙間から、妖艶なその微笑を見ていたわたしは、女が憎くて、恨めしくて、なのに……。

 

 美しいと、思ってしまったのでございます。

 

 浅間しい己の男心に、心底嫌気がさします。

 流れる血に視界が霞んでいく中、わたしは一心不乱で鬼神に祈祷いたしました。

 今ここであの女を殺れるなら、この魂が朽ちるまで美しい女を目にはしないと。

 願を掛けたのでございます。

 

 ドスッ

 

 胸をさされた息苦しさと引き替えに、心の臓が収まる辺りから熱が湧き上がり、それは喉元を焼ながら、わたしの腕に力を与えました。

 わたしは己の右胸に突き立てられた刃物を抜くと、無茶振りして周りの者を薙ぎ払い、ひとり立っている女に向けて、手にした刃物を投げたのでございます。

 

 刺さったんですよ。

 女の首のど真ん中に。

 

 ごろつきどもは慌てて女の元へ駆け寄りました。

 死にかけたわたしのことなど、どうでも良かったのでしょうよ。

 わたしはその隙に、床に落ちていた細長い布で己の目を塞いだのでございます。

 息も絶え絶えで、逃げることなど叶いません。

 ですから死んだ後のことを思って、目を塞いだのでございます。

 わたしは今でも、鬼神が願いを聞き入れたのだと信じております。だからこそ、誓いは守らねばなりません。

 死んだら四十九日はこの世を彷徨うというじゃありませんか。

 その間に町を歩く美しい娘を、目にしてはならないと思ったのでございます。

 今になって思えばせめて生きている間、という誓いにするべきでしたかねぇ。

 あの世にも行けず、生まれ変わることも叶わないまま長い時が流れ、わたしは己が何者であるのかさえも忘れておりました。

 あの女のことも、死に際のことも。

 この身に巣くっていたのは、理由さえ忘れた憎しみという怨念のみだったのでございましょうか。

 まったく、くだらない身の上にございます。

 

 

 

 男の語りが終わると、小池で魚が小さく跳ねた。

 

「そのような目にあっても、おまえ様はまだ、その娘に惚れていらっしゃる」

 

 主がいう。

 

「愚かな男と、お笑い下さい」

 

「おまえ様は、鬼神との約定を破ってしまわれたと?」

 

「ええ、布を解き、あなたを見てしまった」

 

 月が、流れる雲に身を隠す。

 男の背後で、暗い小池の水面がふつふつと泡立つ。

 泡立つ水面から細く黒いモノが湧き出て、男の足から胸へと這い上がった。

 

「後悔しちゃいないのかい?」

 

 ゆっくりと後退りながら主が問う。

 黒い糸状の影は、男の頭まで覆い尽くそうとしていた。

 

「後悔しておりません」

 

 いまや黒い影と化した頭部の中、男の眼だけが僅かに白く覗いている。

 男の足が引き倒され、足元から影と共に小池の中へと引きずり込まれていく。

 ズルズルと、嫌な音が庭に響く。

 

「男とはまっこと、厄介なモノを己の中に飼っているのだねぇ」

 

 男の体が小池の闇へと引きずり込まれ、水面から覗くのは黒い影に染まった頭部のみ。

 

「最後に目にしたのが……あなたで良かった」

 

 影に絡まれた隙間から、白い目が嗤う。

 ぽちゃりと音を立てて、男の姿は完全に呑まれて消えた。

 雲を逃れた月明かりが、波紋を広げる水面でゆらりゆらりと揺れていた。

 

 

 

 




 読んで下さった方、ありがとうございます。
 次回も覗きにきてください……て、そんな方がいてくれるのだろうか(笑)
 誰もいなくても、完結はしますです。
 
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