怪異譚 鈴語り   作:紅野生成

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(完)遠い日の誓いを守る者

 この屋敷に留まれる最後の日も、若造は迷い込んだ小鬼達を相手に、庭を走り回っていた。

 それを楽しげに眺めながら主が酒を舐め、陽炎が魚を焼く。

 焼ける魚を待っているのか、主の傍らで丸まるシマが邪魔なことを除けば、辻堂にしては穏やかな時が流れていた。

 いや違うな。シマは主の隣で魚が焼けるのを待ったりはしない。

 あの捻くれた猫は、黒い毛むくじゃらが今帰るか、もう帰るかと庭に顔を出さずには居られないのではないだろうか。

 いやいやシマに限って、そんな心根を持ち合わせるはずもない。

 この世に限らずあの世でも一番薄情な、灰色の毛を持ったクソ猫なのだから。

 

 昨夜日が沈むと若造は、日が暮れる前に明日ここを立つと主に告げた。

 主は何も聞くことなく、頷いただけであった。

 今日になっても畏まった挨拶が交わされることもなく、若造は土を尻に付けながら走り回っている。

 どうしてこうも平常心でいられるのか、わたしには理解できない。

 阿呆がここを先代から引き次ぎ、大家となることをたとえ心の隅であっても決めたのか否か。それを考えると身の置き所がなかった。

 笑顔で去っていく小鬼どもを見送ると、若造は体を投げ出した。

 

「お疲れのようですね」

 

 微笑む主を見上げながら、若造が笑う。

 

「今度ここへ来るときまでに、体力をつけてきますよ」

 

 主がしげしげと若造の顔を覗き見る。

 

「ぼくはここの大家になろうと決めました。だから、これからもよろしくお願いします」

 

 驚いたような主の顔の中、唇がほころんで笑顔となる。

 

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。大家様」

 

 二人のやり取りを見ていた陽炎が、袖の端でそっと目じりを拭った。

 緊張の解けたわたしはというと、体が痺れてチンと鳴ることさえ叶わない。

 とにかくこれで、この辻堂は守られた。

 主のことは後々考えていけばいい。

 今はどうにもならなくとも、いずれいい案が浮かぶかもしれない。

 昼の膳に並んだのは、焼いた干物とこんにゃくの白和え。

 旨いうまいと食べる若造に、主は自分の小鉢も差し出した。

 

「そういえばこんにゃくの白和え、野坊主が食べたいといっていたよ。食べ損なったと知ったら、がっかりするかねえ」

 

「いつでも造りますよ」

 

 陽炎がうれしそうにいう。

 主から魚の端をもらったシマは、愛想のひとつもなく庭のどこかへ姿を消した。

 やはり黒い毛むくじゃらの安否を気遣っているなど、思い過ごしであったか。

 

「ぼくは気楽な商売なので、来年また顔を出します」

 

「少し遅らせたなら、その頃には、薄がいるかもしれませんよ」

 

 主がいう。

 是非に会いたい、と若造は空を見上げる。

 

「悟様、今年中にお会いするのは今日が最後でしょう。来年の今頃、またわたしの料理を食べにいらしてくださいませ」

 

 少し潤んだ目元を恥ずかしそうに隠しながら、陽炎はいった。

 

「うん、かならず」

 

 日が半分傾いだ頃、若造はここへ来た時の服に着替えて、裏戸の前に立っていた。

 屋敷で見知ったことは、人の信条も生き方も変えるほどのものと思うが、若造は相変わらずへらへらとした笑顔を浮かべている。

 歴代の大家様の足元にも及ばぬ男だというのに、今から辻堂の先が思いやられるというものだ。

 

「必ずまた来ます。別れは苦手なので、送らないでください。帰り道ならわかりますから」

 

「今からなら日が暮れる前に境界を越えられるから、心配はございませんね」

 

ふわりと吹き込んだ風に、主の着物の裾が捲れて淡い若草の裏地が顔を覗かせた。

 主が最後に釘を刺す。

 

「寄り道はなりませぬよ。日が暮れるまでに必ず、山向こうの境界を越えてくださいませ」

 

 若造はしっかり頷くと、手を振って屋敷を出て行った。

 見送りたがっていた陽炎も、我慢して屋敷の奥へ戻っていく。

 

「陽炎、少し早いけれどお酒を用意しておくれでないかい? 一緒に呑もうよ」

 

 主は一人庭の岩に腰掛ける。

 庭の小池で小さな魚がぽちゃりと跳ねた。

 まだ明るい空には、丸く白い月が浮かんでいる。

 

「しばらくは、寂しい日が続きそうだねえ」

 

 シマが庭をゆっくりと横切っていく。ふと立ち止まり、背を伸ばして欠伸をした。

 客が来ないなら庭に用などないであろうに、目障りである。

 

「それにしても悟様がいらっしゃらない間、子鬼達の相手を誰がするのさ?」

 

 主が横目でシマを見る。

 

「シマ?」

 

 主の気持ちを察したのか、シマはさっさと逃げていった。

 

「行ってしまったよ。薄情だねえ」

 

 主が笑う。

 陽炎が主の横の岩に腰かけ、酒を注ぐ。

 

「そういえば陽炎、あたしは何か大切な事を忘れている様な気がするのだけれど、何を忘れているのだろうねぇ」

 

「いやですよ、カナ様。物忘れですか?」

 

 陽炎も、手酌の酒を口へ運ぶ。

 それ以上の話もないまま、西の空が茜色に染まり始めた。

 ここはわたしの出番であろう。

 

 チリチリン

 

 わたしは最高の音で鳴ってみせた。

 

「鈴も無理をするんじゃないよ。文句を思う相手がいなくなって、寂しいだろう?」

 

 そんなことはない。

 明日からの静かな毎日を思うと、鈴の音も冴えるというものだ。

 黒い毛むくじゃらとて、戻らなければそれまでの者であったということ。

 わたしの鈴の音を曇らせる理由になどなりはしない。

 夜の闇の黒さを眺めると跳ね回る毛玉を思い出すが、そんなものは気の迷いである。

 

  リーン

 

 ふくれて鳴ったわたしの身を、主の指先がこつりと弾く。

 

「まったく、いじっぱりな子だねえ」

 

 主は思い違いをしている。わたしはあの阿呆が嫌いだ。

 シマと同じくらい嫌いだ。

 

「おや、悟様の気配が消えたよ。無事に境界を越えられたのだねえ」

 

 ほっとしたように、主が寸の間目を閉じる。

 すっかりむくれたわたしは主の腰帯で揺れながら、ひとりだんまりを決め込んだ。

 

 茜色の空が墨を流したような黒に染まるころ、いつもよりひとつ少ない膳が用意された。

 今はぽつりぽつりと陽炎と言葉を交わし、時折小さく微笑まれる主の姿が見られるが、あとひと月も経たぬうちに、夏の盛りを過ぎて陽炎は姿を消してしまうだろう。

 薄が姿を見せるまで、幾日も幾晩も、言葉一つなくひとり盃を傾ける主の姿を思うと、慰めにもならぬ己の身が恨めしい。

 日が暮れた途端、シマはぷつりと姿を見せなくなった。

 魚の匂いがなければ姿も見せぬとは、まっこと薄情なやつである。

 ゆるり、ゆらりと辻堂の時が流れていく。

 月がてっぺんに昇ろうかというころになって、主は座敷に入っていった。

 座敷に入っても、開け放った障子の間からひとり月を眺めておられる。

 陽炎もすでに姿を消していた。

 

「悟様がいらしたのはほんの束の間だったというのに、一人きりとはこんなにも静かなものだったかねえ」

 

 主の声を聞く者はいない。

 

   チリチリ

 

 鳴ったわたしに視線を落とし、主が微笑む。

 

「おまえが居てくれたのであったね、鈴よ」

 

白く細い指先でわたしの身を撫でながら、ひとつ息を吐いて主は静かに目を瞑った。

 

「ひとりは、寂しいですか?」

 

 庭から突如響いた声に、主が振り返った。

 襖からのぞく庭に、黒い人影が見える。

 口元を押さえる主の指が震えた。

 月明かりを背に庭に立っていたのは、とうにここを出たはずの若造であった。

 ふらりと立ち上がった主は、おぼつかぬ足取りで前へ進む。

 

「悟様、なぜここに?」

 

「ぼくは意気地なしですが、カナさん。あなたの策には嵌らないと決めたのです」

 

 障子の縁に手をかけて、主が膝から崩れ落ちる。

 

「悟様は確かに境界を越えられたはず。今の今まで、悟様の気配などなかった」

 

「それはぼくだけの力ではありません」

 

 場の空気が揺れ、樫の板張りの廊下の壁から野坊主の半身が現れた。

 その横に現れたのは、色の白い女であった。

 腰まであった黒髪はなく、尼のように剃り上げられた頭であった。

 

「おまえさんは、厠であった娘だね」

 

 主の問に女が頷く。

 

「そこにいるのですね。彼女がぼくの気配を消してくれました。ぼくはずっと屋敷の奥に居たのですよ」

 

 若造が手にした写真を主に見せた。

 

「これを見て、ぼくはカナさんより先に、いろいろと思い出したのです」

 

 主の目がこぼれんばかりに見開かれる。

 

「この写真を撮ったとき、先に全てに気づいたのはカナさんでしょう?」

 

 主の細い肩が大きく上下する。

 若造の手が前へと伸ばされ、主の頬にかかった黒髪をさらりと撫でた。

 目を見開いた主の肩がびくりと跳ねる。

 主の唇から速い息づかいがもれ、閉じた瞼で長い睫が月明かりに陰を落とす。

 

「思い出しました。己で封じた記憶でございます。なぜ戻ってしまわれたのです? 大家様のお役目は、通いで十分でございます」

 

 主の言葉にいつもの力はない。

 野坊主の言葉が蘇る。

 主はあの写真と共に、どのような記憶を封じたというのか。

 

「大家になることは既に承知しています。ぼくがここへ戻ってきたのは、昔自分で立てた誓いを守る為です」

 

 何か言おうとする主の唇が震えている。

 

「カナさん、ぼくが誰だかわかりますね」

 

 主が頷く。

 細い肩が尚更に小さく見えるほど、主は身を竦ませていた。

 

「ぼくは、あなたが命をかけて救おうとした男です」

 

「全て思い出しました……申し訳ございません」

 

 主は膝を正して座り、両手をついて頭を下げる。

 

「なぜカナさんが謝るのです?」

 

 主は指をついたまま、頭を上げようとはしない。

 わたしの心が痛みに軋む。

 

「あの日川へ沈みながら、あなた様はあたしを恨んでおいででした。死んで鬼となっても、決して忘れるものか。今際の際にあなた様は、あたしにそう言われたのです。恨まれても仕方がないこと。父は、罪も無いあなたに惨いことをいたしました」

 

 瞬くたびに、主の両目から涙が溢れた。

 

「ぼくに死に際の記憶がありません。でもカナさんに意見します。その男がぼくである限り、その言葉は恨み言ではない。断じてありません。ぼくがカナさんを恨むのなら、どうしてここに居るのでしょう」

 

「記憶がないのならなおのこと、どうして戻られました。あなた様は二度とここから出られない身となってしまわれた」

 

 若造はゆるりとした笑みを浮かべる。

 

「いったではありませんか。カナさんの策には嵌らないと決めたと。カナさんは幼いぼくを見て、探している男だと気付いた。だからこそ、記憶を封じてぼくをただの大家にしようとした。ぼくをこの辻堂や、そしてカナさんに縛られた人生を歩ませないようにと」

 

 俯いたまま主が口元を手で押さえた。

 そうだ、そうであった。

 主は求めた男を目の前にして、それでもなお男の幸せを願った。己の孤独と引き替えに、男の平穏な人生を守ろうとされた。

 

「無いのは死に際の記憶です。覚えているのですよ。道ですれ違うとき、微笑んでくれたカナさんの顔を」

 

 若造が静かに微笑む。

 

「だからこそ、ぼくははじめからやり直そうと思うのです。出会いから、やりなおしましょう」

 

 主が涙に濡れた顔を上げる。

 

「探し人であるぼくが、あなたと会いここに残ったら、ぼくとカナさんがどのような運命を辿るかは、既に野坊主さんから聞いています」

 

 主が半身を返して、野坊主を見やる。

 

「カナがそうであったように、今度はおぬしの為に全てを賭けるという、男がひとり現れただけのこと。これでわたしは、カナとの約束を守れたことになるであろうかな」

 

 野坊主の姿が壁に吸い込まれていく。

 主の肩が涙に揺れる。

 

「わたしは、悟様が闇に彷徨うことなく生きておられるなら、それで十分幸せでございました。これはあたしが己で選んだ道。どんな成れの果てが待っていようと、悟様を巻き込む気など、なかったのでございます」

 

「この辻堂での定めをあなたが選んだように、ぼくも自分の定めを選んだだけのことです。ここへきたとき、カナさんに髪の先、袖の先にも触れてくれるなといわれて、胸が痛かった」

 

「それは……」

 

「ぼくが触れたなら、封印したカナさんの記憶が蘇る。だから触れてくれるなといった。でもぼくの中の遠い記憶が疼いたのでしょう。今はこう思うのです。たとえ髪の先、袖の先にさえ触れられなくとも、あなたと共に居たいと」

 

 若造はゆっくりと歩み寄って、主の横に腰を下ろす。

 歴代の大家様はカナに触れることができた。若造は主の髪に触れたが、それは実際に触れたのとは意味が異なる。若造の手に、主のさらりとした黒髪の感触は伝わらなかったはずである。

 求める者と求められる者の間に生まれた、非情な理であった。

 

 

「やっと見つけたのですから、今度はぼくが側にいます。情けないことに肝心なことは何も覚えていませんが、こうすることで、ぼくはあなたへの誓いを守れるような気がするのです。どんな誓いかと聞かれてもわからないから、聞かないでくださいね」

 

 何をいっても若造の阿呆面は変らない。だが今宵だけはその阿呆面も、侠気ある男の顔にわたしには見えた。

 

「ぼくはずいぶんと長いこと、あなたが好きだったらしい。今も好きですよ」

 

 涙で顔を濡らしたまま、主が微笑んだ。

 辻堂に来て初めて、主は己の幸せを思って微笑まれた。

 

「わたくしもこれにて失礼いたします。そろそろ行かなくてはなりません」

 

 女の声に、主は立ち上がり側に歩み寄る。

 

「その髪、闇の者に売ってしまったのだね」

 

 頷く女の表情は、とても穏やかなものであった。

 

「髪は女の命というのは、言葉のあやじゃあないんだよ」

 

「わかっております」

 

「髪を失った女は、次に生を受けても女にはなれぬというのに。好いた男のために苦しんだ身で、女であることを捨てるなど」

 

 女は涼しげな笑みで首を振る。

 

「カナ様が笑ってくださったのですから、この髪など惜しくはありません。男に産まれるというなら、わたしを虐げた男どもより強くなって、端から蹴り倒して見せましょう」

 

 その言葉に主は笑った。笑って見せた先から、隠そうとした涙がこぼれる。

 

「カナ様、縁があったなら、またどこかでお会いいたしましょう」

 

 霧をかき消すように女の姿が消えた。

 女が立っていた場所を見詰めて、主は静かに頭を下げる。

 袖の裾で涙を拭いて、主は若造に向き直った。

 

「悟様、本当に良いのですね? もう後戻りはできませぬよ」

 

「ええ、本当にいいのですよ」

 

「本当に、どうしようもない御方だこと」

 

 何処に姿を隠して話を聞いていたのか、酒を持った陽炎が座敷に姿を現した。

 

  ミャー

 

 庭の隅でシマが鳴く。

 

 どしり がしり

 

 裏戸の向こうから聞こえる振動に、屋敷の庭が揺れる。

 わたしははっとした。

 二度とこの身に感じることは無いかも知れぬと覚悟した、ざわざわと金物のこの身が粟立つような気配。

 

 リリリーン リン リリーン

 

 わたしは、ありったけの力でこの身を鳴らした。

 

 どしり がしり

 

 何かを打ち付けるような振動は、なおも庭を揺らしている。

 はたと顔を見合わせた主と若造は、あっ、と声を漏らして裏戸へと走った。

 竹の塀の間に造られた裏戸を若造が押し開けようとしたとき、がしゃりと何かが割れるような音が響き渡った。

 続いていた振動がぴたりと止む。

 若造がそっと裏戸を押し開けた。

 

「クロ助!」

 

 叫んだ若造が表へと飛び出した。

 あとを追って道へと飛び出した主も、口元を押さえて息を吐く。

 道の向こうの草原に、黒い巨体を投げ打つように横たえているのは、黒い毛むくじゃらであった。

 

「しっかりしろ! クロ助!」

 

 駆け寄った若造が、クロ助の頭を抱きかかえる。

 鋭い眼光を持つ眼は、片方が潰れて完全に塞がれていた。

 抱きかかえた若造の手に、赤い鮮血がべたりとつく。

 

「カナさん、クロ助が!」

 

 黒い毛むくじゃらが、震える首を回して若造の頬を軽く舐めた。

 まるで大丈夫だと伝えているようであった。

 

 ぼん

 

 音が鳴ったかと思うと黒い毛むくじゃらは気を失って、若造の膝の上でだらりと伸びる。

 

「悟様、クロ助は勝ったのでございますよ。理に打ち勝ったのでございます」

 

 膝をついた主は、微笑みを浮かべてそっと黒い毛むくじゃらの背を撫でた。

 そしてはっとして、見開いた瞳の下口元を袖の裾で覆い隠す。

 

「カナさん、どうしたのです?」

 

 再び泣きそうな顔で、主は黒い毛むくじゃらを優しく撫でた。

 

「思わず駆け寄ってしまいましたが、この草原、わたしが立ち入れるはずのない場所でございます。とうの昔に、見えない壁に遮られ、道のこちら側には立ち入ることができなかったというのに……」

 

「まさかクロ助が?」

 

 主は草に手を這わせながら、何度も何度も頷いた。

 

「わたしでさえ、お伽噺と思っておりました。理に打ち勝った者は、ひとつだけ我が儘を許されるという言い伝え。クロ助は馬鹿でございます。命懸けで勝ち取ったというのに、己が望んだのは自由だけ。道の先を眺めるだけしかできぬわたしを哀れんで、隔てるものを僅かに打ち砕いてくれたのです」

 

 主が愛しそうに触れているのは、ただの草である。どこにでもある草だというのに、主には手の届かぬ夢であった。

 黒い毛むくじゃらが打ち砕けたのは、三畳分の広さがるかどうか。

 主にとっては、それで十分なのだとわたしは知っている。

 辻堂と前を走る道以外、主にとっては見えるだけの絵であったというのに、その草地に座り、草を撫でている。

 

「悟様、クロ助は大丈夫でございますよ。死なずに帰ったということは、必ず生きるということでございます」

 

「よかった」

 

若造も安堵の表情を浮かべた。

 騒ぎを聞きつけた陽炎も、黒い毛むくじゃらの姿を見て涙を流す。

 陽炎は涙を流しながら笑っていた。

 クロ助の自由に、そして主のささやかな自由に満面の笑みを浮かべる。

 

「クロ助、約束だから懐に入れてあげるよ。そのあとは、また座布団暮らしだからね」

 

 黒い毛むくじゃらを胸に入れて、辻堂へと戻っていく。

 シマがそしらぬ顔で庭を通り、若造の胸元をちらりとだけ見て姿を消した。

 黒い毛むくじゃらは、わたしにはできぬことをやって見せた。

 主の願いを叶えたのだから。

 感謝するとはいわないが、座布団に寝転んでいても我慢してやろう。

 元気になったなら、少しくらい跳ねても目くじらは立てずにいてやろう。

 あいつが現れた気配を感じてこの身を必死で鳴らしたのは、急な事の展開に驚いただけである。歓喜の音などでは決してない。

 

 ミャー

 

 庭の隅でシマが鳴く。

 

「悟様、明日はさっそく忙しい一日になりそうですよ」

 

「なぜですか?」

 

  ミャー ミャー

 

「日の出と共にここへ来ようと、小鬼が待ち構えているようにございます」

 

 主の言葉に、悟はぎょっとしたように目を見開く。

 

「それは、早めに寝たほうがよさそうですね」

 

「なりませぬ」

 

 腰を浮かしかけた若造を、主の声が制す。

 

「断腸の思いで意を決した、わたしの心遣いを無駄にされた罪は重いのでございますよ。今宵は、朝まで付き合っていただきます」

 

 頭を掻いて座りなおす若造をみて、女二人が笑い声をたてる。

 

「なにか肴になりそうなものを持ってまいりましょう」

 

「カナ様、わたしがいきます」

 

 陽炎が慌てて腰を浮かせる。

 

「いいから座っておいで」

 

 立ち上がった主の腰帯から、私を繋ぐ糸がするりと抜けた。

 畳に転がったわたしに、板張りについた阿呆の手が触れる。

 

 あぁ、わたしまでもが思い出してしまった。

 つまらぬことを思い出してしまった。

 

 

 男が今にも川へ落ちようと体を傾げたとき、わたしは男の腰帯にぶら下がっていた。

 助けようとして男の袖をつかみ損なった主の手が、宙に浮いたわたしを摑んだ。

 沈む男の口が動く。

 両の手が主を求めて前へと伸びる。

 

「死んで鬼になろうと、決して忘れるものか」

 

 まだ語る口は流れる水に呑まれ、声は届かない。

 男は己と共に娘も攫われ、襲われたのだと思っていた。

 もがく男の手に跳ね上げられた水の飛沫が、わたしの身にかかる。

 

 あぁ、解ってしまった。

 

 死にかけた男の想いが、主を想う気持ちが宿ったのがわたしであった。

 だからわたしは、若造が嫌いなのだ。

 己と根を同じくする魂を持つから、阿呆面が嫌いなのだ。

 だからといって、わたしは何も変りはしない。

 わたしは鈴。主を守りたいと想う気持ちは、誰にも負けぬ。

 死んだ男に劣ってなどいない。

 わたしの中に、浮世に届かなかった男の声が流れ込む。

 

 

 死んで鬼になろうと、決して忘れるものか

 世の果てまで彷徨っても

 必ずや探し出す

 次の世では、必ず守り通してみせよう

 鬼になろうとこの想い、決して消せはしないだろうよ

 

                            

                             (完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 このお話もとうとう完結です。
 最後まで付き合って下さった皆様、本当にありがとうございました!
 自分が好きで書いたお話ですが、受け入れられやすい内容ではないので、読んでくれる人が少しずつ増えてきて、本当に嬉しかったです。
 お気に入りをひとつ入れてもらう度に、百人分の元気をもらった気分でした(*^_^*)
 読んでくださった皆様に、心より感謝!
 ありがとうでしたヽ(^。^)ノ

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