怪異譚 鈴語り   作:紅野生成

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8 子を想うも 待ち人を想うも女なり

 厚い雲が月を覆う夜、屋敷に灯された蝋燭が短くなり始めたころであった。

 

 ミャー

 

 月明かりの差さぬ障子の向こうで、シマの鳴き声が響く。

 蝋燭の灯りを眺めながら畳に身を横たえていた主が、その泣き声に身を起こした。

 

「お客さんかい?」

 

 蝋燭を片手に障子を開けた主は、手に持つ燭台をかざして庭を照らし、それから息を呑んだ。

 揺れる灯りにぼんやりと浮かんだ姿は、主でさえ言葉を失うほどに、醜怪な容貌の女であった。

 結い上げた丸髷はほつれ、腫れ上がって塞がった目の片方だけが薄く開いてる。

 人のものとは思えぬほどに、紫に腫れ上がった唇は膿んで血を流していた。

 

「道が見つかりませぬ。どうぞ、お助け下さいまし」

 

 細い琴音を思わせる声が、夜風に冷えた闇に響く。

 

「何を探しておられるのか?」

 

 塞がった女の目がびくりと瞬く。

 

「赤子、手放してしまった赤子を捜しております」

 

 言葉が漏れるたび、口の端から血が溢れる。

 

「その赤子のことで、己を責めておられのだねぇ」

 

「愚かな母でございます」

 

 骨のように細い指先が震えている。

 主はゆっくりと庭に下り、数歩女に近寄った。

 

「見たところ、裕福なお店のお内儀かと。なぜそのような姿になられたのか」

 

 女の着物からは水が滴り、華美ではないが品の良い鼠色の地に紅葉をあしらった着物は、濁流に流された跡のようにぼろぼろだった。

 

「商家に嫁ぎ、何一苦労のない毎日を送っておりました。ですが大火で何もかもを失いました。零落して慣れない長屋暮らしに身を落とした女の、慣れの果てにございます」

 

 眉ひとつ動かすことなく、主は女の話に耳を傾ける。

 

「旦那様も奉公人も、全て炎があの世へ持っていってしまいました。同じ町内にあった実家も焼かれ、残されたのはこの身ひとつと、腹に宿る赤子の命」

 

 腫れ上がった瞼の隙間から涙が零れる様は、突き出た岩の割れ目から染み出る湧き水を見るようであった。

 

「子を産んだものの手に職もなく、およそ働くなどということをしたことのない商家の娘として育ちましたから、その日の暮らしもままなりません」

 

 女の指が、薄い腹の上を静かに這う。

 

「この身が細る一方では、乳さえ満足にでませんでした。泣く子を抱えて川の縁で蹲っていたとき、見知らぬ男が声をかけてまいりました。手に余るなら、赤子を引き取るというのです。子供のできぬ大店の夫婦のために、内密で子を探しているのだと男はいいました」

 

「金子を積んで子供を買うなど、時代が時代なら良くあることだ。子のためにも、恥じた選択では無いと思うがねぇ」

 

 主の声が静かに庭に流れる。

 主の言葉に女は激しく首を振る。

 

「腹を空かせて泣く赤子を腕に抱き、悪いようにはしないという男の言葉は、仏の差し伸べた救いの手に思えたのでございます」

 

 消え入りそうなほどに俯いた、女の表情を伺うことはできなかった。

 

「坊やを手放したくはなかった。でもこのまま共倒れになるよりはと、そう思ったのでございます。たとえこの手で育てられなくても、坊やの命を繋ぎたかった」

 

 俯いた女の顎から、雫がぽたりぽたりと落ちては乾いた土に吸われていく。

 

「赤ん坊を、男に託したのだね?」

 

 主の言葉に女は小さく頷いた。

 

「坊やを腕に抱いた男は、疾風のごとく去って行きました。今生の別れにもう一度だけ、坊やの頬を撫でることさえ叶わなかった。それから三日の大雨が続き、抜け殻となっていたわたしは雨の止んだ夜に、坊やを手放した川の縁へとまいりまた。あの場所にいけば、坊やの香りが残っているような気がしたのでございます。ですが闇に紛れて流れてきたのは坊やの甘い香りではなく、聞き覚えのある男の声でございました」

 

 顔を上げわなわなと震える唇は、今から語ることが目の前で起こるのではないかと、そんな錯覚を覚えるほどに鬼気迫るものだった。

 

「声は近くにある橋の袂から聞こえておりました。坊やの無事を確かめようと駆けだしたわたしは、はっきりと聞き取れるほどまで近づいた男の話に、その場に竦んでしまいました。男のほかに、聞き覚えのない声の年配の男がおりました。嗄れた声の男です。大雨の後で荒れ狂う川の流れに紛れて聞こえるの言葉の一つ一つが、刃となってわたしの心を切り刻んだのでございます」

 

 女の口元で、血と涙が入り交じる。

 

 

 高値で買い取るといったのに、せっかく見繕ったガキを、気に入らなねぇと抜かしやがった。

 

――ほかに売りゃあいいじゃねえか。

 

 それまで誰が面倒をみんだよ? 泣いてばっかりで煩くてかなわねぇ。

 

――それで、赤ん坊はどうした?

 

 捨てたさ。この大雨のあとじゃ、色んなもんが流れてら。そこに赤ん坊が一人混じったくらい、わかりゃしねえよ。

 

 

「目の前が真っ暗になりました。大切な坊やの命を預けた相手が、どのような輩であったか、この時に知ったのでございます。目の前を濁流が流れておりました。この黒く冷たい流れの中に坊やがいるかと思うと、何も考えられなかった」

 

「身を投げたのかい?」

 

 主の声が低く響く。

 

「己の命を捨てようとしたわけではございません。あの濁流の中、坊やを捜そうとしたのでございます。愚かな母でございましょう」

 

「その姿、己を責め抜いた証であろうよ」

 

「責め抜かずになどおられましょうか」

 

 寸の間、主は辛そうに目を閉じた。

 開かれた眼差しには、優しい色が宿っていた。

 

「わたしはね、あなたは十分に母であったと思うのだよ」

 

 主の言葉に、女は嗚咽を漏らした。

 

「お客さんですか?」

 

 声に目を覚ました若造が、寝所からのんびりと顔をだす。

 

「悟様を起こしてしまいましたねぇ。今宵ここに居るのは、赤子を捜す母親でございます」

 

 若造に女の姿は見えないから、のんびりした調子で主の言葉に頷いている。

 

「この先もまだ、坊やを捜すのかい?」

 

 主の声に、女ははっきりと頷いた。

 

「坊やが愛しくてなりません。寒かったであろうと、この胸に抱いてやりたいのでございます」

 

「とてもお優しい声ですね」

 

 若造がいうと、驚いたように女は顔を上げた。

 

「声だけを褒めるなんて失礼でしょうか? ぼくにはあなたの姿が見えないから。

思うのですよ、この様に優しいお母さんの声を聞いたら、赤ちゃんは嬉しいだろうなと」

 

「何処にも居ないのでございます。どれほど捜しても見つかりません」

 

 若造が不思議そうに小首を傾げた。

 

「赤ん坊とは無垢なものです。仏様の元に招かれたに決まっているのでは?」

 

 女の晴れ上がった瞼が動く。

 

「そうであるなら、どんなに嬉しいことでございましょう。でも仏様の元では、わたしはもう坊やに会うことは叶いません。罪深い母親を、御仏はお許しにはならないでしょう」

 

 女の言葉に、若造は明るく笑う。

 

「赤ちゃんがお母さんを恋しがっているのに、それを許さない御仏などいるものですか。赤ちゃんが心穏やかに過ごしていると思えば、見えてくる道も違うのではありませんか?」

 

 若造の言葉に、女はそっと己の背後に広がる闇を振り返った。

 細い肩を巡らせ、己の通ってきた闇へと向き直る。

 ああぁ、女が息を漏らした。

 

「蛍のように、ゆらゆらと漂う淡い光が。あぁ、懐かしい坊やの香りがする」

 

 女はそっと、己の乳房に手を当てた。

 

「坊やの香りに乳が張ってきたのだろう? さあ、お行きなさい。坊やが待っているよ」

 

 背を向けた女が、何も無い闇に向かって一歩、また一歩と歩いて行く。

 

「きっと、お美しいお母さんなのでしょうね」

 

 女の姿が見えぬ若造が、呑気なことを口にした。

 

「ありがとうございました」

 

 闇に紛れてはまた姿を現す女が、僅かに振り返って会釈した。

 闇に溶けていく女の背を守るように、薄緑に光る蛍のような灯りがゆらゆらと舞っていた。

 最後に振り返った女の姿はきちりと髷を結い上げ、大きく丸い目を細めて微笑む、美しい母の姿であった。

 

 

 

 

 

 すっかり元気になった若造は、こまごまと屋敷の雑事をこなす陽炎の後をついて回っては、あれやこれやを手伝っている。

 はじめこそ遠慮しておろおろしていた陽炎であったが、今では諦めたのか若造を上手く使い回しているのだから、なかなかのものである。

 男子厨房に入るべからずなどという言葉は、今では骨董品の部類に入るのだろうか。

 若造がすることに口を出さない主は、まるで兄弟のように楽しげに働く二人の姿を、目を細めて眺めておられた。

 ここ数日の辻堂は平穏に包まれている。

 時折迷い込む子鬼はいたが、まるで自分の役目といわんばかりにしゃしゃりでる若造が相手をしてやり、夜が更けきる前には幼子らしい表情を取り戻して、みな己の行くべき場所へと去って行った。

 

「まさか瓦版が出回っているわけでもないだろうに、やけに子鬼が集まってくるようになったものだねぇ」

 

 そういって主は笑っておられた。

 以前にも子鬼が迷い込むことはあっったが、これほど数が増えたことなどなかった。

 どうやら主が美しく優しい笑みで諭すより、若造の阿呆面のほうが子鬼達の好みであるらしい。

 今日も夕暮れ間近に現れた三人の子鬼に振り回され、日が暮れきった頃にはよれよれの手ぬぐいみたいな様で、若造は廊下で大の字に転がっていた。

 

「お疲れですか?」

 

 半身を起こした若造の手に盃を持たせ、とくりとくりと主が酒を注ぐ。

 

「まだまだ若いつもりなのですが、子供にはかないません」

 

 頭を掻きながら若造がいう。

 

「悟様にしかできないことでございます。わたしはあの子らを諭して慰めることしかできませんが、悟様は違う。少ない時間で、子鬼らは生の喜びを知って去って行くのです。良き大人もいるのだと、この様に楽しいことがあるのなら、もう一度だけ産まれてみようかと、希望を心に抱いてここを後にするのですから」

 

「そのようなたいそうな事では。見ての通り、ぼくなど子鬼達に振り回されて、逆に遊ばれているような有様です」

 

 謙遜ではなく本気でそう言い放つ若造を、主は温かく見つめている。

 

「悟様、もうすぐ夕の善が並びますが、今宵はひとつだけ、いつもよりお膳の数がおおございます。ですが気になさらず召し上がってくださいませ」

 

 そこへちょうど陽炎が、湯気の立つ鉢を盆にのせて運んできた。

 並べられた膳はいつもよりひとつだけ多い。

 主と若造の分の他に、もう一つの膳が据えられる。

 

「お客様ですか?」

 

「いいえ、陰膳にございます。いつ戻るかわからぬ者を待ち、その者の膳を用意するのは、わたしの我が儘にございます」

 

 膳に並べられていく料理を見ながら、若造は頷いた。

 

「カナさんを待たせる人などいるのですね」

 

 主は袖で口元を隠してくすくすと笑う。

 

「待たされている訳ではございません。わたしが勝手に待っているのでございます。こんな女にも、影さえ忘れられぬほどに、大切に想う者がいるのでございますよ」

 

 若造は軽々しい己の言葉を悔やむようにすみません、と小さくいった。

 

「謝らないでくださいな。気にするようなことではございません。これは年に一度の風物詩、そんな風に思って下さいませ」

 

 察するところがあったのか、若造は食べ終わると早々に自分の寝所へ戻っていった。

 己の前に据えた陰膳に差す月の明かりを、ぼんやりと眺めながら主は手酌で酒を呑む。

 

「何処にいらっしゃるのやら。今宵はわたしの酌に、付き合ってくださいな」

 

 そういって主は、膳の隅に置かれた盃に酒を注いだ。

 その盃に口を付ける者はいない。

 一晩では呑みきれぬほどの酒を置いて、陽炎もどこかへ姿を消した。

 

 月明かりが照らす中、主はぽつりぽつりとひとり語る。

 前に陰膳を据えてから一年。その間にあったことを、時にひとり微笑みながら、つらつらと語っていく。

 それに答える者は、この屋敷には居はしない。

 終夜を通して相づちを打ったのは、庭でチリチリとなく虫の音だけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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