「起きてくださいアイン。ねぇ、起きてくださいってば」
アインが目を覚ましたのは、そんな声と体を揺すられる振動によってだった。穏やかな微睡みを振り払い顔を上げれば、そこは揺れる馬車の中。そして目の前には、心配そうにアインを覗き込むアヤメの姿があった。
「……ここは」
頭に靄がかかったように、アインの記憶は不明瞭だった。それが眠気の為か、それとも別の要因なのかは分からない。だが、なんとなく気持ち悪い気分だった。
「寝ぼけないで下さいよ、もう次の街に着くんですから」
「次の、街?」
「むぅ、やっぱり目が覚めてませんよね」
揺れる馬車の中、仕方がないといった様子でアヤメが立ち上がる。そしてそのまま手を伸ばし、アインの両頬をむにむにと伸ばし始めた。もののついでと魔法も併用して、アインの中に残る眠気を飛ばしにかかる。
「これで目は覚めましたよね!」
「肯定、する。だが待ってほしい。状況が、把握出来ない」
笑顔のアヤメと対極的に、困惑といった表情のアインがそう言った。実際に、アインの中にある蟠りのような何かは健在。何故自分がここにいるのかすら、正直に言って理解出来ない状況だった。
「忘れるなんて、酷いですよ。ママとパパのお墓参りしてから、私と旅をしたいって言ったのアインじゃないですか」
「そう、か。……いや、認識した。確かそうであったな」
蟠りを塗り潰すように、にわかに当時の記憶がアインのうちに蘇った。そうだった。あの街でひと悶着あったものの、当方達は2人で墓に挨拶して、それから一緒に旅をするように……
「待て、いや、何か足りなくないか?」
「まだお昼ご飯食べてませんから、それじゃないですか? 次の街って観光スポットらしいので、一緒にお弁当食べましょう」
「そうか……? いや、そうだな。認識した。食べようか」
何か、何か足りない。そんな薄っすらとした違和感を除けば、平和で、いつも通りの光景だった。なにせ、アヤメが笑ってくれているのだ。それほど、アインにとって嬉しいことはなかった。
「……?」
今の自分の思考はなんだと、霞みがかった思考回路が回転を始める。いまの考えであれば、そう、まるで普段アヤメが笑ってなどいないような──
「アイン?」
「問題ない。少し、考え事をしていただけだ」
「ですか、なら良かった」
そんな考えは、花が咲いたようなアヤメの笑顔の中に溶けて消えていった。
「えっと、その。お昼食べようって言った私がなんなんですけど。ここ、ちょっと雰囲気的に、居辛いですね……」
「同意する。当方たちが、場違いのように感じてしまう」
そんなこんなで街をめぐる一足先に、お昼を食べるためにと立ち寄った街の観光名所。大きな噴水を中心に花が咲き誇り公園となっているそこは、確かに美しい場所であった。ただしこの平和な場所で観光名所となれば、所謂デートスポットと化すのも必定であった。
「レンゲソウとか、水仙とか、彼岸花まで生えてます。節操なしですね」
「当方には花の分布は理解しかねる……が、それでもここが混沌としていることは理解できる」
まるで誰かが人為的に、いや無計画に作ったような花畑。いつだったか自分はこんな、無秩序な花畑を見たような……そんなない筈の思い出がアインの脳裏にちらついた。
しかしその考えが終点に至る前に、キュッと意を決したように手を握ったアヤメが言う。
「ま、まあ、お腹も空きましたし食べましょうか」
「肯定する。当方も、随分と何も食べていないような気がする」
「で、ですよね!」
焦ったように誤魔化しながら、アヤメは手に下げていたバゲットを開いた。そこに収まっていたのは、綺麗に整列したサンドイッチ。その中でも一際目立つ、肉を挟んであるそれを最初にアインに手渡した。
「「いただきます」」
食べた途端口の中に広がるのは肉の香りと、僅かに香草のような香り。それが肉の脂のくどさを上手く消していた。
「パセリをちょっと散らしてみたんですけど、どう、ですか?」
「とても美味しいと当方は思う」
「よかった……」
肩を撫で下ろしてアヤメが言う。それでも下ろした髪の毛をくるくると弄っており、何処と無く落ち着かない様子だ。
「どうかしたのか?」
「えっ、あ、いや、何でもないです。はい、なんでもないですよ?」
そのあまりに不自然な様子にアインが話しかけるも、アヤメは慌てて両手を振って誤魔化した。どこかアヤメの頬が赤く染まっているのは気のせいではあるまい。
「なんでもないことはないと断定する。頬が赤い、風邪でも引いたか?」
「そ、そうじゃないですよ。でも、この場所が場所だから、そう見られてるのかなーって……」
ちらりとアヤメが目線を向けた先には、それぞれ思い思いの時間を過ごすカップルの姿。端から見れば自分たちも、そう言う関係と見えなくもない。
「で、でも、私アインとなら──」
何かアヤメが言葉を口にしようとした瞬間、噴水が噴き上がる。場に歓声が満ち、何事かと振り向けば、見知らぬ男女がプロポーズに成功している場面だった。
「どうかしたのか?」
「いえ、なんか気分が削がれちゃいました」
口を膨らませて不満をアピールするアヤメに、アインは首をかしげる。何か言おうとしていたのは確かだが、それでここまでふて腐れるものなのだろうかと。
「ご飯食べ終わったら、ちょっと1人で行きたい場所があったので別行動しません? その後はまた、ここで待ち合わせということで」
「当方は構わない」
「ならそうしましょうね!」
そんな疑問は残りつつも、話を畳みかけたアヤメに押されるようにしてアインは頷いてしまったのだった。
「ならば時間は、」
どうするのか。アインが聞こうとした瞬間だった。世界を揺るがすような、極めて激しい振動が走り視界が暗転した。同時、一瞬だけ記憶の靄が晴れる。
だが1秒と経たずに暗転は復旧して、いつのまにかアインは噴水の前で待ち合わせの時刻になっていた。なにも世界は変わりなく、ただアインの中に「そういうことだったのか」という実感1つを残して。
「ごめんなさい、アイン。待たせちゃいました?」
そんなアインの前に姿を現したのは、つい先程まで見ていたのとは別の服装をしたアヤメだった。獣耳の邪魔にならないようなベレー帽を被り、白い大きなリボンがあしらわれた上着、フリフリのついたスカート、ブーツも普段の無骨なものからシューズと呼ぶべきものに変わっている。化粧でもしていたのだろうか、普段と比べればその姿は、明らかに女性としての面を強くしていた。
先程まででのアインであれば、確実に見惚れていたであろう美貌。本人は常に卑下しているが、明らかに整った顔立ちの少女が自分を彩ればそうもなるという、少女と女性の中間にある美しさ。
だが、誰のおかげかは知らないが、アインの靄に包まれていた記憶は、既に全て蘇っている。つまり己が今ここに至る前、ニードヘッグが撃墜された所までの記憶が。であれば、ここが現実ではないことくらい容易に想像がつく。
「いいや、待ってなどいない。それに似合っていると断定する」
「そ、そうですか? 嬉しいですけど、恥ずかしいですね」
照れるように言うアヤメを眼中から外して、アインは1つ嘆息する。
「ああ、当方の知るアヤメが着飾って、笑顔を見せてくれたのならば」
「アイン? なにを言って」
「
困惑するアヤメを、その奥にいる何者かを見つめてアインは言った。
「当方の知るアヤメは、そんな幸せそうな笑顔は浮かべない。当方が主人と仰ぐのは貴様ではない。アヤ・ティアードロップと名乗っていた頃から同行する、アヤメ・キリノという女性だけだ」
真っ向から今の幸せを否定したアインの前に、世界がバラバラと崩れ去る。夢は夢、現実ではないのだと。魔剣の能力を正攻法で、真正面から打ち破り、アインの意識も現実へと浮上する。
◇
そして最後の1人のリィンが目を覚ましたのは、
頭には同級生のアヤメとアインの2人と自分は仲が良く、いつも楽しく過ごしている。両親は自分を愛してくれている。などと、巫山戯た設定までもが書き加えられていた。
「確かにこれは、余が望んでいる生活なのだろうな」
誰も居なくなり、斜陽が射し込む教室の中。
自分を役職でも、番号でもなく、個人として親しくしてくれる相手。身を削ってまで治す必要のない魔界。立場から発生する責務の、正当な理由で無制限の放棄。平和な日常。そして何より、自分を愛してくれる両親と、自分の存在を認めてくれる友達。確かにリィンにとって望むものの全てが、ここには存在していた。
「余もアヤメを笑えぬな」
幸せとは、と聞かれて今しがたまで体験していた生活がぱっと思いつく程度には、リィンにとってもここは名残惜しい世界だった。心なんてものは、とうに磨耗しきったと思っていたはずなのに。
「だがな……余は、それでも余でしかないのだ。他の何者にも慣れぬ、時代遅れのガラクタでしかない」
誰に向けたわけでもない独白が、夕方の空気に溶けてゆく。ここは魔剣が作り出した世界。幸せな夢に沈める世界。だからこそ、魔剣の担い手すら個々の夢には干渉できず、極論ここには自分しか存在しない。虚構で、まやかしで、何処までも優しい幻想郷だ。
「だがな、あまり余を舐めるな」
誰よりも早く魔剣の影響に気が付いたのは、それてもリィンであった。雰囲気が切り替わる。これまでの少女然としたものから、全てを擦り潰すような荒々しい龍のそれへと。
「それとも、その程度すら気付けぬほど脳が腐り落ちたか?」
何せ彼女は知っているのだ。自分を取り込むこの魔剣が誰のものであるか。どんな効果を持っているのか。そして現在地が何処にあるのか。それが魔族の王、
例えその力を本人が望んでおらず、そもそも事故で得てしまった呪いのような物であっても。
「なあ、魔剣アムネシア、魔剣オネイロイ」
魔剣としての咒を告げられたことで、組み上げられた能力の異界が揺らぐ。
言葉を1つ紡ぐごとに世界が軋む。
世界が悲鳴をあげる。
リィン・█・█・█████████████という存在に、大罪も元徳も飲み込んだ龍の重さに、耐えきれず魔剣によって紡がれた幻想が崩れていく。
「いや、改めて名で呼ぶべきか。フォーアフート・アインス、ズーへ・アインスよ」
言ったところで分からないであろうな。そう誰に向けるでもなく呟いて、リィンの目が剣呑な気配を纏った。
夕陽が割れる。空が裂ける。大地が捻じ切れ、建物はテクスチャを剥がされたように粉々に散ってゆく。挙げ句の果てに世界に穴が空いたかのように地面が抜け落ちた。
そんな崩壊の只中、地面だった場所を落下しながらリィンが言う。
「押し通らせてもらうぞ」
最後通告を告げて、自身のスキルから抜きはなったのは異様な魔剣だった。
細く僅かに反った、赤く長い刃の刀。明らかに他の魔剣とは別格の存在感を持つそれが完全に姿を現した瞬間、ただでさえ壊れかけの夢の崩壊が加速する。
「刃金に満ちよ、我が祈り──希望の
魔王のみが使える魔剣の詠唱の始まり。他の魔剣と変わらぬ、誰もが知る句を口ずさんだ瞬間、完全に世界が崩壊した。
瞬間、引き戻された意識は現実の肉体へと帰還する。見渡せば最後の記憶と違わず、場所はニードヘッグの頭部操縦室。墜落の衝撃でひしゃげた装甲等に左半身は潰されて、腕に至っては千切れてしまっていた。
「まあ、気にする必要もないであろう」
他の2人なら重症であろうそれも、リィンにとってはさしたる問題ではなかった。何せ根本的に種族から2人とは別物だ。痛みなんて意識すればカットでき、夢の続きのように握った魔剣を降れば、ひしゃげた金属は素振りでもするように裂けバラバラに崩れ去る。千切れた腕は、適当に引っ付けて魔法を使えば再生した。
「頭部から首までで大分衝撃は殺した。であれば、アヤメもアインも無事であろう。起きよ、ニードヘッグ。お前様も、ただで殺られるタマではなかろう?」
『ザー……ザッ、システム再起動。ニードヘッグ起動します』
所有者の言葉に反応して、ニードヘッグが再起動する。瞬間、壊れた魔剣は壊れたまま直されたが故に、自動的に
「リィン、無事ですか!」
直後、アヤメとアインの2人が勢いよく操縦室へ入ってきて……魔剣を持った自分の姿を見て、アヤメの動きが止まった。
ああ、やはり
「アヤメが考えていることは間違いではない。これは真魔剣ディーアボロスであるし、余が今代の魔王だ」
ただまあ、とそこに一言付け加える。
「守るべき国も民もない、力も偶然手に入れただけの、ガラクタの王だがな」