時刻は昼過ぎである。窓を通して太陽光が屋内へ明るく差し込んでいた。光が強すぎて暑くなってしまうというのも考えものだが、しかし天気が良くて空が明るいというのはやはり気分が良いものだ。そんな中、廊下で提督が艦娘達と雑談をしていると、自分の背中をトン、と小突く者がいた。
(ああ、これはあいつだ……)
振り向けばそこに居たのはやはり山城。そしてこれもまた例のごとくというか、表情からは何となく不機嫌そうな印象を与えてくる。ただし、その辺りが伝わるのは提督だけのようで、艦娘達は気づかない。
「お疲れ様です!」
「ええ、お疲れ様」
山城が微笑みと共に艦娘達に挨拶を返している。この鎮守府にとって、彼女はエース級の実力の持ち主と言っても過言ではない。水上機を巧みに使いこなし、凶悪とさえ言える火力で敵を粉砕してしまう。場合によっては持ち前の火力はそのまま、空母の助けを借りずに単独で制空権を抑えてしまうのだから、他の艦娘にとっては大いに頼り甲斐のある存在であった。だから多くの艦娘の尊敬を集めるのも当然と言える。今の彼女を見て、元々は「不幸型」と呼ばれていた時期もあったのだと言ってみても眉をひそめられるだけであろう。
当然、彼女をそこまでの存在に育て上げたのは提督であるのだが、そんな彼女の提督への態度はと言えば辛辣であった。いや、辛辣である事自体は着任してから変わらないのだが、最近はその辺りが特に厳しいのだ。
具体的に言えば、他の艦娘と楽しく雑談している最中に何故かいきなり背後に回って肘打ちを食らわせてくるのである。力を加減してくれているので、痛いと言う程では無いが、当然ながら気分は良くない。
ついでに言えば、彼女は結構頻繁に提督を飲みに誘ってくれるのであるが、最近のそう言った場での彼女は提督をなじるような発言が増えている。提督自身は山城に対して悪意を込めて何かをしていた記憶は無く、どうして彼女の態度が変化しているのかが分からない。
艦娘達は会話を切り上げ、提督と山城に挨拶をして自分の持ち場へと戻って行く。二人きりになった途端、山城が、
「昨日の約束、ちゃんと守って下さいね?」
と低い声で囁いた。
「……分かってるよ」
と、提督も内心うんざりしながら返答する。
「今からでいいか?」
と提督が問えば、
「ええ」
とだけ山城も返し、二人は執務室へと向かった。
この二人に何が起こったのか。それを説明するにはまず時計の針をこの前日の晩にまで戻さねばなるまい。
その時、二人は鳳翔が営業する居酒屋で酒を酌み交わしていた。例によって山城が提督を誘ったのである。ただ、山城が提督をなじるかのような発言をするのも相変わらずであった。
「ほーんと、みんな提督みたいな男のどこがいいんでしょうね?」
酔いの回った山城が管を巻いている。現在のシラフの山城はそれほどでも無いが、着任当初の山城はスレきっていた。元々彼女は第二次世界大戦で戦没した戦艦山城の生まれ変わりであるが、大戦時の彼女の評判は決して芳しくなく、歴とした戦艦であるにもかかわらず、一説には当時の帝国海軍関係者からも「本来、戦争で使ってはならないフネ」とまで言われて酷評されていたと言うのであるから、そんな記憶を引きずる彼女の心が荒むのもやむを得ないと言えた。今でこそ提督の指揮の甲斐もあって航空戦艦としての実力を存分に発揮し、自信も取り戻したように見える彼女だが、この場のような提督との二人きりでの酒の席ではこうやってスレていた時期の山城が顔を出す。
「み〜んな提督にベタベタしちゃって、男見る目無いですよねえ?」
「……そうかもなあ」
提督は聞き流す。こんな風に悪態をついてはいるが、別にそういった話題ばかりではなく、実に下らない笑い話を振ってきたりして笑って過ごせるから彼女と飲むのは提督も結構楽しかったりする。でなければ誘いを受けると言う事自体がそもそもあり得ない。
が、その日の山城は特に手厳しかった。
「提督も提督ですよ。他の女に囲まれてヘラヘラしちゃってだらしないったらありゃしない」
「別にヘラヘラしてるつもりはねーんだけどなー……」
「うっわ、自覚ないんですかあ? ああいう時の提督の顔見てるとこっちが情けなくなるんですけどお?」
「いや、どんな顔してるか自分じゃわかんねーし」
「そーゆー他人事みたいな態度が良くないって言ってるんです!」
なんだか今日の山城はきついなあ、などと思っていると、
「大体、軍人だったらもっとピシッとしてて下さいよお。普段着で誰かも分かんないのに制服姿がらしくないとかシャレになってないんですけどお!」
国防に携わっている事を誇りに思っている人間として、外見から全否定されてしまった提督は一瞬ではあるがカチンときてしまい、思わず言い返す。
「テメエだって人のこと言えんのかよ? 乳と尻にプヨプヨのエロい肉なんか付けやがってどっかに出荷でもされるつもりかあ?」
そう言った瞬間、提督は自分の発言を後悔した。いくら酒の席での軽口のつもりだったとはいえ、女性相手にはあまりにも酷すぎる言動を取ってしまった事に気付いたからである。山城は先程とは打って変わって無表情になっているが、この場合の彼女は相当怒っているのがそれなりに付き合いの長い提督には分かる。
「……提督?」
「……はい」
「よく、ご覧下さい。今、私の手元には、キンキンに冷えたビールをなみなみと注いだジョッキがございますね?」
「ございますな」
「このビールを提督の頭にぶっかけますれば、そのゆるい脳みそも多少は冷えるものではあるまいかと愚考いたします次第でございますが、如何でございましょう?」
「いえ、既に存分に冷えておりますゆえ、ご配慮は不要に存じますよし。……つーか、言い過ぎました。ごめんなさい」
そんなやり取りがあった為、山城から「明日、お詫びとして自分の言う事を一つ聞け」と約束させられてしまったんである。その時になって何を言われるのかは分からなかったが、相手を思い切り傷つけるような発言をしてしまっている訳だし、その事に罪悪感を覚えている提督にしてみればいくら何でも断るという選択肢などありえなかったのである。
「……で、やる事ってのがこれ?」
「別に良いじゃないですか」
山城は執務室のソファに寝そべり、同じくソファに座っている提督の足に頭を乗せてのほほんとしている。
そう、山城は提督に膝枕をしろと言う要求を出してきたのである。とんでもない苦痛を伴う要求でもされるんじゃないかと内心では冷や汗をかいていた提督にしてみれば肩透かしを食らった気分であるが、山城の考えている事がさっぱり分からない。
ちなみに、この鎮守府の雰囲気も以前は比較的ピリピリとしていたのだが、最近は深海棲艦の活動そのものが低調になっているおかげで今では穏やかなものとなっている。だから提督も艦娘達もかなり時間に余裕が取れるようになっているし、日が高い時間でもこんな事が出来たりするんである。
「あ、お腹さすってもらっていいです?」
「おう」
「あー、そこそこ」
何だか気持ちの良さそうな山城。
(猫かなんかみてえだなコイツ)
提督がそんな事を考えていると、
「……お腹にはお肉ついてませんよね?」
と聞いてきた。
「ああ、ついてないぞ」
むしろ鍛えられた腹筋の感触さえ感じられる。
「じゃあ足の方は、どうでしょう?」
片足を上げて提督に見せてくる。元々山城の服はスカートが短い。提督の視界が捉えたのはお腹同様きちんと鍛えているとわかる至極健康的な太ももである。
俺の事、男として見てねえよなあコイツ、などと思いつつ、
「普通に綺麗だよな、お前の足」
と答えると、山城はホッとした顔をしながら、
「だったら『肉ついてる』とか変な事言わないでくれます? 知らないうちに食べ過ぎたりしてたのかと……」
と言った。どうやら提督の発言がきっかけになって自分が太っているのではないかと気にしてしまっていたらしい。で、自分には余計な脂肪などついていないという事を提督に直接確認させる為にこんな行動を取っているという事のようだ。
(変な所でズレてるんだよな……)
太っていない事を確認させたいだけならこんな事などしなくてもよかろうに。そんな風に思いながら、
「じゃあ、そろそろこれもいいか?」
と言って膝枕を止めようとした所、
「ダメです!」
と山城に却下されてしまった。
「太っているかどうかとは別です。お腹撫でるのも続けて下さいね?」
「仕方ねえなあ……」
やっぱコイツ分からんわ、などと思ったが、昨日の発言の詫びがこれであるなら安い物であろうし、お腹を撫でられて心持ちうっとりとしている山城が何だか可愛らしく思えてきたので無理に止める気にもならなかった。
だからしばらくの間続けていたのだが、流石にいつまでもという訳にはいかないだろう。
「山城、いい加減もう終わりにしようぜ?」
気まずそうな顔でそう言う提督とは対照的に、山城はもはやとろんとした表情になっていた。
「何でですかあ? 今日の残作業って後はもう扶桑姉様が仕上げた書類に目を通して判押すだけですよねえ?」
「あー、その扶桑姉様がだな?」
そう言って提督が指差した先には書類を手に苦笑いをしている扶桑の姿があった。
「え……」
驚きのあまり、扶桑を見つめたまま硬直してしまう山城。提督の膝枕があまりに心地よかったのか、執務室に扶桑が入室していた事に気付かなかったらしい。一瞬の間を置いて、勢いよく起き上がった彼女は、
「ね、ねねねね姉様! こ、これは、ち、違うんですっ!」
と、舌をもつれさせながら言う。
「私はまだ何も言っていないのだけれど……」
そう言いながら微笑ましげに山城を見つめる扶桑。
「て、提督も何か言って下さい!」
「えー? 山城の希望で膝枕してたんだから何も言う事無くねえ?」
「そうじゃなくてっ!! えーとえーと!」
一人アタフタとしている山城をよそに提督と扶桑は書類のチェックに入る。
「うん、問題ねえな。今日もお疲れ」
と言って提督はポンと書類に判子を押した。
「ありがとうございます。……あと、提督」
「ん?」
「山城の事を悪く思わないで下さいね? あの子、私以外に甘えられる相手が出来て嬉しいんですから」
そう言う扶桑に、
「ね、姉様! 何言ってるんですかあっ!!」
と山城が顔を真っ赤にして言うが、それに対して提督が、
「んー、なんとなくそんな気がしてたんだけどなー。やっぱそうなのかー」
と言ったので、山城は、
「あーもーっ!!」
と言いながら顔を天井に向けて両手でガシガシと頭をかきむしり始めてしまった。
その翌日、提督が新人として入った艦娘の演習の指揮を終えて執務室に戻って来ると、何故か耳かきを持った山城がソファにスタンバイしていた。
「……山城さんや? それは誰の真似だい?」
「真似とかじゃないです! 提督も私に甘えてくれないと不公平ってだけです!」
「まあ、あれだ。俺が膝枕してやってだらしない顔してる所を姉様に見られたのが恥ずかしいってのは分かるんだが……」
「それを言わないでくださいっ!!」
赤面しながらポンポンと自分の足を片手で叩く山城。さっさと自分に耳掃除されなさいという合図である。
特に断る理由も無いので素直にソファに寝そべり、山城の足に頭を乗せてみる事にする。すると山城が耳掃除を始めた。
「あ、今変な事言ったら鼓膜ぶち抜きますんで」
「堪忍してつかあさい……」
言動が表面上ツンケンしているのは相変わらずだが、彼女なりに気を遣っているのはなんとなく提督に伝わってくる。
二人ともしばらくは無言のままであったが、やがて山城が言った。
「……提督、すいませんでした」
「うん? 何がだ?」
「今まで提督にきつく当たってたじゃ無いですか。やっぱり、謝らなきゃって思って……」
「ああ、その事か……」
「それで、言い訳になっちゃうんですけど……その、姉様が言ってた通りなんだと思います。提督に会う前までは、甘えられる相手って姉様だけだったので……」
暗い声で山城が言う。ここに来るまでの扶桑型姉妹の境遇を考えればやむを得ん事かもしれんな、と提督は思った。元々は基本設計の拙さを問題視され、冷や飯を食わされ続けていた姉妹なのである。
「私が嫌だと言うのであれば、それははっきり言ってくれても……」
と山城が言いかけた時、提督はそれを遮って言った。
「そんな訳ねえだろう。それどころか謝んなきゃいけないのはこっちなんだからな」
「え?」
意外すぎる提督の発言。
「一昨日飲んでた時の話でしたら、私はもう気にしてませんけど」
「いや、その事じゃねえんだわ」
じゃあ、一体なんだろう、と山城は思った。何か提督に酷い事をされたか、と聞かれても、彼女にはこれといった心当たりはない。
「ぶっちゃけて言うと、俺もお前に甘えてる訳だよ」
提督はそう言うが、甘えられていると感じた事はない。むしろ甘えてばっかりの自分に嫌気がさしてきていたから、今日こうやって提督に耳掃除をしてみたりしているんである。
「お前、ドックに入れられるのって結構不満だろ?」
「ええ、それはまあ……」
「で、ウチの場合、お前をドックに入れちまってる事が多い訳だ」
「それは、私の修復に時間がかかってしまうからですよね?」
「修復に時間がかかるのは練度が高けりゃ他の奴らも同じだろ?」
「それは、そうかもしれないですけど……」
提督は何を言いたいのだろうか。
「はっきり言って、お前の出撃の頻度ってウチの中じゃかなり高いんだわ。特にここ一番って時は大体お前か扶桑を登板させちまうしな。だから怪我させる頻度も上がっちまうし、ドック入りさせるたびに悪いなと思ってる訳だ」
山城にしてみれば、戦闘に関して実績を上げたいという一心でここまで来たが、提督は十分と思っているどころか、彼女に余計な負荷をかけてしまっているのではないかと気にしていたらしい。
「ほんとこれは俺の拙い部分なんだけどな。まあ、ロードマップとでも言うのかなあ……これまでもそうだったんだが、艦娘の育成のプランの組み立て方が悪くて艦隊の戦力のバランスがいまいち取れてないって所があってさ。お前ら並みに仕事出来る奴らが育って来てない訳よ」
そう山城に語りかける提督は視線を真っ直ぐ前方に向けたまま、
「出来るだけお前の負担を減らしてやりたいとは思ってるんだけど、当面はそうもいかなくてな。だから、お前をまたドックに放り込む真似をしちまうかもしれんが……どうかよろしく頼む」
と言って、後は黙り込んでしまった。聞いていた山城は結局無言のままであったが、その表情にはかつて見せた事がない穏やかさがあった。
それから数日経ったある日の事、提督は例のごとく艦娘達と雑談に興じていた。話の内容に区切りがつき、挨拶をしてその場を離れていく彼女達を眺めている提督。
『カプリ』
突如として首筋に妙な感触が走ったが、誰が何をやらかしたのかはこれまでの経験からすぐに分かった。
「山城ぉ! てめえまたっ……!」
「ふふふ……」
案の定、提督が振り向くとそこには立ち去って行く山城の後ろ姿があった。耳掃除の一件以来、他の艦娘と楽しそうに話している提督をいきなり肘で小突くなどという真似はしなくなっていた山城であるが、その代わりに誰も見ていないタイミングを見計らって提督の首に軽く噛み付いて歯型をつけていくようになったのである。
「ったく、コレ痕が目立つからやめてくれって言ってんのによお……」
提督がぼやいている。そんな彼のぼやきを背中で聞いた山城は、
「クスッ……だから、ですよ。やめる訳ないじゃないですか」
と実に楽しそうな表情でそう呟くのであった。