社会人になった理樹は、恭介のもとに転がりこみ、同棲生活を始めていた。
その心に、深い憎しみをたたえながら。
※理樹のナルコレプシーは治っていません。
棗恭介。
僕は、彼の肉体に走る古傷をなぞる。胸から腰にかけて、一文字に縫い合わされた事故の傷跡。
僕こと直枝理樹をはじめ、恭介の妹・棗鈴、幼馴染の井ノ原真人、同じく宮沢謙吾。
同じ学校に通っていた僕ら幼馴染は、修学旅行の途中でバスの事故に遭った。
僕らはまだ子供だった。青春の真っただ中にいた。
ただ仲間との楽しい生活を疑いもせずに受け入れていた。楽園のような世界が突然無くなってしまうことなんて考えてもいなかった。
だから、地に足のついた現実に目を向けたとき、絶望の底に落とされたんだ。
バスによって引き起こされた事故と、こんなに楽しい時間が永遠に続かないということ。
彼のおかげで、僕は今、現実を生きている。現実に目を向けることで、その厳しさを受け入れることで恩恵を受けている。
恭介は、子供であり続けようとした僕の目を覚まさせてくれた。その行為は、本来、感謝するべきことなんだろう。
でも僕は違う。
絶対に許さないよ。恭介、きみを。
◇
急になんだよ、と彼はくすぐったそうに笑う。
まだ日は長いとはいえ、秋だ。あまり夜遅くまで起きていると風邪を引く。
ベッドサイドに置いたランプで読書をしていた恭介は、よみかけの本に栞をはさんだあと、こちらに向き直る。
バスローブを這う手のひらの主……僕に向けて、わざとらしくしかめ面をしてみせた。
視線がからまると、あの初夏と変わらないあどけなさで笑う。――その表情に、少しの疲れをにじませて。
至近距離で見る彼の髪は飴色に透けている。歳を重ねるにつれて色素が薄くなってきたが、変わらず美しいと思う。
同じ色の睫毛を、かがり火が揺れるたびに瞬かせた。
「なんだ、構ってほしいのか?」
「まぁ、そうかな。久しぶりに一緒に寝られるし」
嘘だ。
伸びてきた腕を甘んじて受け止める。小柄な僕は恭介の胸にすっぽりと納まってしまった。
とうに成人している身としては恥ずかしい。頬に小さくキスを落とされて、ついでに瞼の上にまでされてしまって、こういう部分が変わらないなぁ、などとぼんやり思ってしまう。
僕が大人と呼ばれる年齢になってから五年。
先んじて社会人になった恭介の元に転がり込むかたちで、同棲をはじめた。
最初は猛反発された。それも覚悟していた。理由の見当もついていた。
それは、あの事故のことで僕が変な気を遣っているのではないか、ということだった。
変な気を遣っているとは、ようするに独り立ちの手伝いをしてくれた兄貴分の顔を立てているということ。
ほぼ正解。
そんな中身の伴っていない気持ちのなんと空しいことだろう。
そして、聡い恭介は見透かしてもいた。
けれども僕は嘘の告白をやめなかった。好きだ。黙っていたけれど、昔からずっとそうだった。パートナーになりたい、傍にいさせて、と。深く追及せずに彼は頷いた。「わかった」、と。
そうやって、恋人もどきの関係が始まった。
僕たちの恋人もどきの関係はこうだった。
恭介は会社で外回りの営業を任され、ときおり出張で留守にする。僕は進学をあきらめ、専門職についた。持病と身体の負担を考え、自宅勤務の仕事をひきうけることにした。畑違いの営業職の事情はさっぱりわからないが、すれ違う時間が多いことだけは、普通のカップルと違うと知っている。
そして、週末に帰ってきた恭介と食事をともにし、時に朝となく昼となくベッドの上で愛し合う。――
長い出張で留守を任されるようになってから、恭介に身も心も甘やかされることが多くなった。
こうしてベッドに野郎がふたりで寝転ぶのも一週間ぶりだ。ふたり暮らしなのだから、けちらないでキングサイズにしておけばよかった。安物のベッドがきしむ。
やにわに闇が濃くなった。手のひらが僕の寝間着のなかにすべりこむ。恭介の身体は思ったよりも冷たかった。
「ねえ恭介」
「なんだ」
「僕のこと好き?」
「当たり前だろ」
見え透いたことを言うなぁ。
◇
事故で負った怪我……その命をかろうじてつなぎとめた手術の後、そして退院した後も、彼はしばらく鎮痛剤を携帯していた。
リトルバスターズのみんなの前では決して見せることはなかったけれど、それでも社会人になり勤め人になってからも服用していることを、僕はよく知っていた。
だけど、彼はもう痛みを感じないはずだった。
――痛覚過敏、という言葉を耳にしたことがある。
理論上、傷口が完治し、実生活で支障がなくなっても、痛みをともなう症状のことだ。簡単にいえば、脳が引き起こしている錯覚。心理的なものが大きい。
人によっては、触られると想像するだけで痛い、らしい。
バスの事故から、かなりの年月が経っている。もし、彼が鎮痛剤をありもしない激痛の保険代わりに持ち歩き、こそこそと隠れて飲んでいるのだとしたら、それはとても滑稽なことだ。
恰好がつかないだとか、周囲に気を遣わせたくないとか、そんな理由で隠しているのではなく、薬を飲むことに何かしらの後ろめたさを感じているということだ。
周囲にひとことふたこと事情を説明すれば、彼の人望ゆえに理解してくれる。望めば助けの手を差し出してくれるだろう。だが彼はそれを拒んだ。
状況的に見れば、このまま彼の症状は良くなるどころか悪化していくだろう。
しかし、と僕は同時に思う。これは、僕にとって都合のいい展開でもあった。
だって、これは恭介が事故のことを忘れないでいてくれる証拠だから。あの虚構世界のことを忘れないでいてくれる証拠だから。
恭介が自身が犯した罪を忘れないでいてくれる、ということは、僕にとって何よりの救いなのだ。
僕は、恭介にただ信じていて欲しかっただけなんだ。
出会ったころから変わらず、恭介を慕っているということを。どの世界にいても、愛し続けるということを。
虚構世界で永遠に暮らす、それでよかったじゃないか。何が不満なんだ。どうして、僕にわざわざ現実をみさせる真似なんかしたんだ。よりにもよって、あんな残酷な方法で僕を試そうとする真似なんかしたんだ。
恭介と一緒にいられるのだったら、僕は夢を見たまま死んだってよかったんだ。
恭介、きみのことは今でも憧れているし、尊敬しているし、好きだ。
愛している。心の底から、誓って本当だ。
だから、同じくらいに憎んでいる。
きみが痛がる顔、もっと近くで見ていたいな。
自分の罪に気づけ。ほんの少しでも長く苦しめ。
ときどき彼の傷跡を確かめていたのは、そういう理由があった。
◇
「――ぁ」
ひとつになっていた熱が離れていく。人間、二十五を過ぎると体力が落ちていくというが本当らしい。
僕はベッドにうつ伏せになる。恭介は、もう限界だというように僕を抱きしめたまま荒く息をついていた。
後始末をする気力もないらしい。
腹の中、腸のあたりがひきつるように痛い。こんなことをする日はいつも異物感と痛みは伴うものだ。けれど、今日のように荒々しいのは、それこそティーンエイジャーがするような向こうみずな行為だ。
「きょうすけ……やりすぎだよ」
「ん……」
返事は来ない。ただ、頭を擦りつけるだけだ。まるで、甘えたがりの子供のように。
やはりこういうことをすると古傷が痛むのだろうか、と思った。だとしたら、もしかして。
僕はランプが載っているテーブルの上に手を伸ばした。何度か宙をかいたけれど、それにたどり着く。表面がデコボコした薄い板、プラスチックに包まれた白い錠剤。鎮痛剤だ。
山と積まれた本と、よみかけの本の陰に隠れていた。やっぱり、用意していたんだ。
ふと、魔が差した。
デコボコの一つを指で押し込み、粒を出す。手のひらに転がったそれを、水もなしに飲みこむ。
「おい、待て――」
衣擦れの音に気づいた恭介が顔を上げた。僕の喉が上下するのを見て、顔から血の気を失っている。
大丈夫だ。ただの痛み止め。今、僕が飲んだら、腸の違和感はきっと薄れるだろう。それに、恭介にとっては気休め程度の錠剤じゃないか。僕に気づかれたところで、ひとつふたつ無くなったところで、どうってことはない。
はは、と笑おうとしたところで、……突然、それは現れた。
ナルコレプシー。
意識が遠のいていく症状。いや、違う。これは……?
「理樹、だめだ、吐き出せ」
恭介の声が遠くに聞こえる。目の前が歪み、彼の端正な顔が二重にも三重にもぶれていく。
どうしたんだ恭介、そんな顔をしちゃってさ。ちょっとした悪戯がばれたくらいで、子供はそんな深刻な顔をしないでしょ。
結局、襲い来る眠気をどうすることもできなかった。
僕は、彼の抱えていた不安とともに、深い闇の中に落ちていく。
◇
目がさめたとき、いつかのように恭介は僕の手を握っていた。
始まりは何ということもない出来事だった。会社で信頼を寄せられるようになってから、仕事が増えた。何時間寝ても疲れが取れにくくなり、その手の病院に行くしかなかったのだと。
「なんで言ってくれなかったの」
「言ったら理樹は今頃どこにいた」
「それは、――」
僕には両親がいない。親戚はいるが、頼れる家族とは言えない。
大学を卒業した後、僕はすぐに会社に就職した。持病があるから、自宅でもできる仕事を選んだ。もし、親戚の家にやっかいになっていたら、いくら仕事についているからとはいえ気まずさはぬぐえなかっただろう。
では、独り暮らしは? 独りでいるときに倒れたら。有事の際はどうなる?
「恭介……」
じゃあ――望むと望まないとを関わらず、僕は恭介のもとに行かざるを得なかったってことじゃないか。
いや、違う。僕は選んで恭介のところに行ったんだ。彼を苦しめるために。
背中が急激に冷えてきた。じゃあ、事故でできた傷は? いつも持ち歩いている鎮痛剤は? 全部僕の気のせいだったのか。思い込みだったのか。
思考をさえぎるように、恭介は耳元で囁いた。
「なあ、理樹。俺のことが好きなんだよな」
「うん……」
「それ以上のことは考えなくていいだろ」
ゆっくりと声の主に視線を向ける。紅い瞳は怪しい色をたたえていた。微笑みに、しかしあどけなさはない。いつも見ていた表情でもない。
蜘蛛の糸とは、このことを言うのではないのだろうか。
いつの間にか張り巡らされていて、気づいたときには逃げ出せない。獲物を屠る罠は、こときれる寸前まで犠牲者を捉え続ける。
「あの薬は本当さ。……ただ、今はそれほど必要じゃない」
握った僕の手の平を胸から腹にかけて添えて、ぐいぐいと押さえつける。古傷のあたりだ、痛むはずだ。
「やめて、そんなことしたら……」
「もう何も感じない。理樹は気づいてなかっただろ。でも、それでいい」
あれは――演技だったのか、恭介。
全部仕組まれていたのか。
僕よりもはるかにたくましい体躯が覆いかぶさってきた。逃げられない。
かすれた声が脳の中に直接ひびいてくるようだった。
「俺は理樹を愛してる。どんな場所にいても。理樹も同じだろ?そう思ってくれるから、ここにいるんだろ?」
「…………」
何も答えられない。
伸びてきた手が、僕の指のひとつひとつに絡みつく。まとわりついてくる。
「なぁ、理樹。俺たち、これからもずっと一緒だよな」
「…………うん」
彼の安堵する気配がした。
僕は、……僕は、僕の肩口に頭をうずめる恭介を見て、安心してしまった。
「今日の晩御飯、何にしようか」
あの世界の続きを、始めよう。