千年の祈り   作:ドラ麦茶

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老人と少年

 その老人は、いつも、丘から村を眺めていた。

 

 長年、村で米農家を営んで来た老人だった。刈割の丘の中腹に田んぼを持っており、春になると土を耕して水を引き、夏の初めに苗を植え、秋になったら収穫する――そんな生活を、何十年も続けてきた。九十歳を越えた今でも、毎日、仕事に励んでいる。そして、夕方に仕事を終えると、田んぼの近くにある原っぱに腰掛ける。そこで、陽が山の陰に隠れるまでの時間、丘の下に広がる景色を眺めるのを日課にしていた。

 

 村人のほとんどがそうであるように、その老人も、眞魚教の信者だった。田んぼのそばには、木の板を組んで作った眞魚教のシンボル・マナ字架が立てられてある。仕事を始める前、今日も一日無事に過ごせるようにと祈り、仕事を終えた後、何事もなく無事に過ごせたことを神に感謝する。それもまた、老人の日課だった。

 

「本当なら、毎日教会まで通いたいのですが、最近、足腰がめっきり弱ってきましての。申し訳ないことです」

 

 老人は、皺だらけの顔をほころばせながら言った。夕方、いつものように原っぱにたたずんでいたところを、通りかかった比沙子が声をかけたのだ。

 

「そんなことないですよ。毎日お祈りを捧げるだけで、十分です」

 

 比沙子は笑顔で言った。教会は、この丘の上にある。車で通えるような道はなく、舗装さえされていない細い山道や石造りの階段を上らなければならない。九十を越える老人が毎日通うのは無理というものだ。それでも老人は、週に一度の集会には、必ず顔を出してくれる。

 

「それに――」と、比沙子は続ける。「まだまだお元気じゃないですか。今日も、お仕事をされたんでしょう?」

 

 比沙子は原っぱのそばの田んぼを見た。季節は春。田んぼに水を張るために、土を耕す時期である。冬を越えて硬くなった田んぼの土は、もう半分ほどが掘り起こされていた。耕運機を使うとは言え、決して楽な作業ではない。高齢化が進むこの村でも、九十歳を過ぎても農業を続けているのは彼だけだった。

 

「まあ、米作りだけが私の生きがいですからのう」老人は、照れくさそうに笑う。「身体が動く間は、続けるつもりです」

 

「でも、無理はなさらないでくださいね。お仕事は大切ですが、それで身体を壊されては、意味が無いですから」

 

「田んぼで死ねるなら本望ですわい。こんなじじぃ一人死んだところで、悲しむ人もおりませんしの」冗談とも本音ともとれることを言い、老人はまた笑った。

 

 老人は、丘のふもとにある小さな家に一人で暮らしている。家族はいない。かつては北の田堀地区に息子夫婦と幼い孫が住んでいたが、二十七年前、村を襲った大規模な土砂災害に巻き込まれて亡くなった。長年連れ添った妻も、もう十年以上前に天寿を全うした。他に頼れるような身内もいない。老人はそのことを、「老いても誰に迷惑をかけることも無いので、気が楽です」と笑って言うが、この歳で身寄りがないのは寂しいことだろう。

 

「あの世で家内や息子夫婦が待っているかもしれんのですから、早く行ってあげねばとは思うのですがの」また、冗談とも本気ともとれるようなことを言う。

 

「そんなことおっしゃらず、長生きしてください。おじいさんがいなくなったら、寂しがる人はたくさんいますよ」

 

「そうじゃとええが」

 

 村の米農家で最高齢の老人は、みんなから一目置かれる存在だった。米作りで困ったことがあれば、まずこの老人に相談し、老人は長く培った知識で的確な助言を与える。近年の村の米作りは、この老人が支えていたと言っても過言ではない。

 

 西の山の頂に陽がかかり始めた。山間にあるこの羽生蛇村は、陽が暮れるのが早い。この辺りの地域は街灯もまばらで、夜は足元さえ見えないほど真っ暗になる。

 

「――さて、暗くなる前に帰りますかの」老人はズボンに付いた土埃を払いながら立ち上がった。

 

「はい。どうか、お気をつけて」

 

「求導女様も、お気をつけてお帰り下さい」

 

 深く頭を下げ、農道を下りて行く老人。待つ者のいない家へと向かう老人の背中は、どこか小さく見えた。

 

 

 

 

 

 

 ある日の夕方。田んぼのそばを通りかかった比沙子は、老人の隣に少年が座っているのを見た。確か、下粗戸に住んでいる少年で、この春から小学校に通い始めたはずだ。

 

 老人と少年は、二人で村を眺めている。

 

「こんにちは。今日は、お連れさんがいるんですね」比沙子は声をかけた。

 

「ええ、そうなんですよ」老人は笑いながら答える。「わしが毎日ここに座っているのを、学校帰りにいつも見ていたそうです」

 

「うん。おじいさんが毎日なにをしてるのか、気になって」少年は、子供特有の好奇心に満ちた目を輝かせる。

 

「何をしているという訳でもない。ただ、村を眺めているだけじゃ」老人は、眼下に広がる景色を見つめながら言った。

 

「ふうん」

 

 少年も景色を見る。なだらかな丘の斜面を下るように棚田が広がり、その中央に、水を引くための用水路が流れている。その向こうには、村の中で最も建物が密集した荒戸地区の商店街や住宅街、そして、村の中央を流れる眞魚川も見えた。

 

 少年は、再び老人を見た。「でも、おじいさんは、毎日ここにいるよね?」

 

「ああ、そうじゃな。毎日、ここから村を眺めているよ」

 

「飽きないの?」

 

 少年は悪意のない顔で訊いた。純粋に、疑問に思ったのだろう。

 

 ここから見える景色は綺麗だ――初めて村を訪れ、この場所からの眺めを見た人は、きっとそう思うだろう。人によっては、感動さえするかもしれない。

 

 だが、どんなに綺麗な景色も、いつも眺めていれば慣れてくる。感動も薄れていく。それは当然のことだった。まして少年は、この村で生まれ、育った。少年にとっては見慣れたいつもの景色であり、そこに価値を見出せないのも無理は無い。

 

 老人は、ほっほっほと笑い、そして続けた。「飽きることはないさ。ここから見る景色は、いつも違っているからの」

 

「そうなの?」

 

「そうじゃとも。例えばの――」老人は、用水路のそばの道を指さした。道端に、軽トラックが停められてある。「あの車は、昨日は停まっていなかった。誰の車かは、ここからでは判らんが、まあ、村の誰かのものだろう。家から運んで来た苗を、田んぼに植えているのかもしれない。そういう時期じゃからの」

 

「うん」

 

 その軽トラックの横を、赤いランドセルを背負った女の子が通った。

 

 老人は、その女の子を指さした。「あの子は毎日川沿いの道を通って家に帰るが、今日はなにやら楽しげな顔をしておる。学校で、いいことがあったのかもしれんのう」

 

「えー? そんなこと、ここから見て判るの?」

 

「判るんじゃよ――と、言いたいところじゃが、本当にいいことがあったのかは、訊いてみないと判らん」

 

 老人は、愉快そうに笑う。

 

「まあ、そういうことを考えながら見ていれば、飽きることはないのう」

 

「ふーん」

 

 少年はよく判らないような表情で頷いた。

 

「ボウズには、ちょっと難しい話かもしれんの」老人は少年の頭を撫でた。

 

 老人が仕事終わりにこの場所から村を眺めはじめたのは十年前――長年連れ添った妻が他界した頃だったと、比沙子は記憶している。それまでは、仕事を終えるとすぐに家に帰っていた。それはつまり、老人もこの景色に価値を見出すまでに、それだけの時間がかかったということでもある。

 

 西の山の頂に陽がかかる。もうすぐ、陽が暮れる。

 

「さて、そろそろ帰るとするかの。ボウズも、暗くなる前に帰った方が良いぞ?」

 

 少年は「はーい」と手を挙げて応えると、走って農道を下りて行った。

 

 

 

 

 

 

 それから夕方になると、老人と少年が二人で村を眺めているのを、よく見かけるようになった。

 

 老人は仕事終わりに、少年は学校の帰り道に、原っぱに座り、村を眺める

 

 老人は、「今日はあの田んぼに苗が植えられた」とか、「今日は眞魚川の水の量が多いのう」とか、普段と違うところを見つけては少年に説明し、「そういった小さな変化が積み重なって、村は、少しずつ変わっていくのじゃよ」と、言った。

 

 少年は、「うーん」と唸って、首を傾けた。あまりピンと来ていない様子だ。やはり、少年には難しい話だろう。

 

 ただ、老人と話をする少年は、いつも楽しげだった。

 

 それからも、老人と少年は、二人で原っぱに座っていることが多かった。その度に比沙子は、ほほえましい思いで見ていたのだが。

 

 夏のある日、比沙子は、老人が田んぼで倒れているのを見つけた。

 

 すぐに医者を呼んだが、すでにこと切れていた。夏の強い日差しにやられたのだろう、と、医者は言った。

 

 老人には身寄りがいなかった為、葬儀は比沙子が中心になって行った。小さな葬儀だったが、それでも、農家仲間や近隣の住人が多く集まり、在りし日の彼をしのんだ。

 

 その中には、あの少年の姿もあった。

 

 棺の中で眠る老人の姿を、少年は不思議そうに見つめていた。『死』というものの意味を理解するには、まだ早いのかもしれない。

 

 棺が墓地に運ばれ、土に埋められるまで、少年の表情は変わらなかった。

 

 

 

 

 

 

 葬儀から数日後、比沙子は、田んぼのそばの原っぱに、あの少年が一人で座っているのを見つけた。「こんにちは」と、声をかけると、少年は、少しさみしそうな声で、「こんにちは」と返事をした。

 

「おじいさんのことを、考えていたの?」比沙子は、少年に訊いてみた。

 

 少年は「うん」と、頷いた後、「みんな、おじいさんは死んだ、っていうけど、死ぬってどういうことなのか、よく判らなくて」と、言った。

 

「……そう」

 

「きゅうどうめさま。おじいさんは、どこに行ったの?」

 

 いつものように、純粋に疑問に思ったことを訊く。

 

 比沙子は、少年の問いに、とっさに答えることができなかった。眞魚教の教えでは、死者は、常世と呼ばれる神の世界に旅立つとされている。そこは、あらゆる苦しみから解放された理想郷であり、神に祝福された者だけが行くことができるのだ。

 

 少年の両親も眞魚教の信者であり、求導女としては、この話をするのが正しいのかもしれない。

 

 だが、今の少年に、この話はひどく似つかわしくないように思えた。

 

 だから。

 

「――おじいさんは、遠いお空の上に行ったの」

 

 そう教えてあげた。

 

「空の上?」

 

「ええ。そこから、いつも村を見ているわ」

 

「僕のことも?」

 

「ええ」

 

「ふうん」

 

 少年は、空を見上げる。雲ひとつ無い、一面青の世界が、どこまでも続いている。

 

「そうかぁ、お空の上にいるんだ」

 

 少年は、納得したように――そして、すごく嬉しそうな顔で、いつまでも空を見上げていた。

 

「――でも、きゅうどうめさま」

 

 しばらく空を見上げていた少年は、ふと思い出したような顔で、比沙子を見る。

 

「なに?」

 

「もう、おじいちゃんは、この広場に座ってることはないんだね」

 

「そうね」

 

「……さみしいね」

 

「ええ……さみしいわね」

 

 少年の瞳から、涙がひとしずくこぼれ落ちた。

 

 比沙子は、そっと、少年を抱きしめた。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 少年が帰った後も、比沙子は広場にたたずんでいた。

 

 丘の下に広がる村を眺める。

 

 老人が見ていた村の景色は、毎日変わっていた。

 

 少年が見る村の景色は、老人の死をきっかけに、大きく変わった。

 

 しかし、比沙子が見る村の景色は――何も変わらない。

 

 それは昨日と同じ景色であり、一週間前も、一ヶ月前も、一年前も、十年前も、百年前も、千年前も、同じ景色だった。

 

 ――あたしが見るこの景色は、いつか変わるのだろうか。

 

 判らない。

 

 だが、いつか変わると信じて。

 

 比沙子は、生きていくしかない。

 

 たとえそれが、千年先であっても。

 

 たとえそれが、永久に変わることがなくても。

 

 

 

 

 

 

 西の山の頂に陽がかかる。もうすぐ、陽が暮れる。

 

 

 

 

 

 

 今夜、村は、『神』を迎える。

 

 

 

 

 

 

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