千年の祈り   作:ドラ麦茶

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海送り・海還り

 羽生蛇村では、毎年冬に『海送り』と『海還り』の儀式を行っている。

 

 旧暦の大晦日、黒装束に身を包んだ村人が、村の中央を流れる眞魚川に身を沈める。これが『海送り』だ。川の中で、村人は一年に犯した罪を悔い改め、(けが)れを祓い身を清めるのだ。

 

 そして、穢れを祓い終えた村人が、年が明けると同時に岸辺に上がるのが『海還り』である。岸に上がった者は神の恩恵を受けたとされ、村人から酒や料理などを振る舞われるのだった。

 

 その年も、眞魚岩のある中州には多くの村人が集まっていた。実際に川に入る人、岸に上がった人をもてなす人、儀式を見物する人……みんな、儀式を前に気分が高揚している様子だ。海送り・海還りは、ちょっとしたお祭りのような雰囲気だ。

 

 黒装束を着た村人――つまり、これから川に入る人は、準備運動を行っている。季節は冬。山間の村である羽生蛇村は、深夜の気温は氷点下となる日がほとんどだ。今年は雪の日が多く、例年よりさらに気温が下がっている。そんな中、凍てつくような眞魚川に身を沈めるのだ。入念に準備をしないと危険だ。風邪を引くどころの騒ぎではない。水の冷たさで心臓が止まってしまう可能性だってある。

 

 日付が変わる一〇分前になった。黒装束の村人たちが水辺に向かっていく。だが、まだ川に身を沈めるわけではない。まずは足だけを入れ、手で水をすくい、足からふくらはぎ、腿、腹、胸、と、身体に水を擦り込むようにして、ゆっくりと時間をかけ、冷たさに慣れていく。それを何度か繰り返した後、これまたゆっくりと、川の中央へ進んでいく。海送りの儀式は寒中水泳とは違う。水に身を沈めても身体を動かすことはできない。ただ祈るだけである。流れる水はどんどん体温を奪っていく。そのため、水に入っている時間は長くとも三分と決められていた。

 

 そして。

 

 日付が変わる――つまり、旧暦の正月になった。冷たい川に身を沈めていた村人が岸に上がり始めた。『海還り』の儀式の始まりだ。岸辺では、たき火、酒、温かい料理、そして、待っていた村人たちが、温かい笑顔で迎えてくれた。

 

 

 

 

 

 

「――どんどん食べて、身体を温めてくださーい。お酒を飲むのも良いですが、時間が経つとかえって体を冷やすので注意してくださいね」

 

 大鍋で作った料理をお椀によそいながら、眞魚教の求導女・八尾比沙子は、川から上がった村人たちに呼びかけ、料理を渡して行った。大鍋の料理は、羽生蛇村の冬の郷土料理・羽生蛇鍋である。大根やサトイモなどの根菜と鶏肉を真っ赤なスープで煮込んだものだ。この赤いスープは、赤みそと赤唐辛子を混ぜて作ったもので、美味しい上に身体の芯から温まると評判だ。夏の郷土料理である羽生蛇蕎麦とは大違いである。

 

「相変わらず、求導女様の作る羽生蛇鍋は身体に染み入りますなぁ。わしは、これを食べるのが楽しみで、毎年儀式に参加しているようなものですから」

 

 海還りを終え、たき火のそばで羽生蛇鍋を食べていた初老の信者が笑いながら言った。

 

「いつも参加していただけるのはありがたいですが、決して無理はなさらないでください」

 

 比沙子は笑顔で答えた。この信者は間もなく五十歳を迎える。冬の寒さがどんどん身体にこたえる頃だろう。

 

 海送り・海還りのように、真冬の川や海に身を沈める行為は、科学的に見ても健康に良いとされている。事前の準備を入念に行えば心臓まひなどの危険は少ないが、それでも、その危険性をゼロにすることはできない。歳を重ねれば、その分危険も増すだろう。

 

 比沙子に無理をしないよう言われた初老の信者は、「そうですなぁ」と言って視線を上に向け、何か考えるような仕草をした後、続けた。「しかし、私はこの儀式を行わないといけません。なにせ、一年に犯した罪が多すぎますから」

 

「そうなんですか?」

 

「ええ。食べ過ぎ、飲み過ぎ、運動不足。毎年眞魚川に入って穢れを祓わないと、死んだとき常世に行けませんから」

 

 初老の信者は肩を揺らして笑った。比沙子も口元を抑えて上品に笑う。

 

 だが、その後。

 

 比沙子は視線を落とすと、誰にも気づかれないような小さなため息をついた。

 

「そう言えば、求導女様――」

 

 信者の声に、比沙子は視線を上げた。「はい、何でしょう?」

 

「求導女様は、海送り・海還りをしたことはないんですか?」

 

「あたしですか? まだ無いんですよ」

 

「そうなんですか。求導女様が儀式を行うところを見てみたいと思ったんですが、まあ、求導女様には洗い流すような穢れは無いでしょうなぁ」

 

 そう言って、初老の信者はまた豪快に笑う。

 

 比沙子も上品に笑って付き合い。

 

 そしてまた、誰にも気付かれないようにため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 ほどなく儀式は終了となったが、その後、多くの者は上粗戸の公民館に移動し、もてなしという名の宴会を続けた。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 その年の夏――八月三日。

 

 

 

 村を、大きな土砂災害が襲った。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 異界に飲み込まれた蛭ノ塚の県道333号線で、比沙子は、赤い海の浜辺にたたずむ屍人たちを見た。

 

 時刻は深夜〇時。海の向こうからサイレンが鳴り響く。

 

 そのサイレンに導かれるように、屍人たちは赤い海に身を沈める。

 

 また、それと入れ替わるように、赤い海から岸へ上がる屍人たちもいる。

 

 本物の、海送り・海還りの儀式である。

 

 不死の呪いを受けている羽生蛇村の村人は、死ぬと、この異界へやってくる。そこで屍人となり、サイレンに導かれ、赤い海に身を沈める。罪を洗い流すために。

 

 そして、約六時間後に再びサイレンが鳴ると、罪を流し終えた者は赤い海と同化し、完全に消滅する。神に許され、常世へと旅立ったのだ。

 

 罪を洗い流せなかった者は岸へ上がる。その際、人型の屍人から、犬型の屍人、昆虫型の屍人など、姿が大きく変わることになる。それは、少しずつ罪を洗い流し、神の世界へ近づいている証だ。

 

 これが、本当の海送り・海還りの儀式だ。現世で行っている儀式は、これをまねたものに過ぎない。

 

 比沙子は、赤い波打ち際に立った。

 

 ――求導女様は、海送り・海還りをしたことはないんですか?

 

 いつかの信者の言葉が頭に浮かぶ。

 

 あの時、嘘をついた。海送り・海還りの儀式をしたことは、ある。何度も。

 

 比沙子は、一歩ずつ、ゆっくりと進み、赤い海に身を沈める。

 

 そして、そのまま海に身を任せた。

 

 

 

 

 

 

 数時間後、再び、サイレンが鳴った。

 

 

 

 

 

 

 岸へ上がる比沙子。

 

 比沙子の姿は、海に入る前と、何ら変わらなかった。

 

 罪は、まだ洗い流せない。

 

 

 

 

 


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