羽生蛇村の住人は、ほぼ例外なく眞魚教を信仰している。
ほぼ例外なく――つまり、例外もいる。
例えば、合石岳のふもとに住む志村一家。
志村家は、村で代々猟師を営んできた。眞魚教を信仰しない理由を、彼らは語らなかった。無神論者という訳ではない。猟師という職業柄、彼らは山に入ることが多いが、その際、祈りを奉げるような仕草をしているのを見た者は多い。何に対して祈りを下げているのかは定かでないが、恐らく、山の神や森の神と言った存在だろう。あるいは、山そのものに畏敬の念を抱いているのかもしれない。自然や自然現象など、あらゆるものに神が宿ると考える『神道』である。日本全土に古くから根付いている考え方で、これも、宗教のひとつである。
羽生蛇村でも信教の自由は認められているため、必ずしも眞魚教の信者である必要は無い。だが、信者でない者は異端視され、村で孤立してしまうのも事実である。志村一家は、住宅街から離れた合石岳のふもとにぽつんと居を構え、村人とのかかわりを避けるかのように静かに暮らしていた。だがそれは、決して村人から爪はじきにされているという訳ではない。眞魚教の信者ではない志村家だが、多くの村人から一目置かれる存在でもあった。猟の腕が確かだからだ。
猟師の主な仕事は山に入り野生動物を狩ることだが、それだけで生計を立てられるものはまずいない。どんなに腕の立つ猟師でも不猟のときはある。特に冬は多くの動物が冬籠りをするため、姿を見かけることすらほとんど無い。だから猟師は、猟に出ないときは山で茸や山菜・木の実などを採って業者に売ったり、冬になると街へ出稼ぎに行くなどの副業をしている。最近では、普段は農業や個人商店を営んだり、工場や役場で働くなど、猟師自体を副業とする者も多くなってきた。
そんな猟師たちの重要な仕事のひとつが、害獣の駆除である。
山間に位置する羽生蛇村は、野生動物との関わりが深い。山から下りてきた獣が農作物を食い荒らすなど頻繁にあるし、時には人に危害を加える獣もいる。熊や猪に襲われると命にかかわる。そんな獣を駆除する猟師は、いわば生活を護る存在であり、その中でも秀でた腕を持つ志村家は、村人から頼りにされる存在なのである。
志村家で猟をしているのは、家長である吾一と、その息子・晃の二人だ。
吾一は猟師となって三十年以上の古豪だ。特に熊撃ちを得意とし、仕留めた熊の数は百を超える。それは、村で熊撃ちを生業にしている猟師の中でも群を抜いた数だった。
息子の晃は、今年二十二歳になる。幼いころから父に憧れ猟師を志していたが、父から「お前は猟師に向かない」とずっと言われ続け、なかなか認めてもらえなかった。それでも、十四歳の頃より半ば強引に父について山に入り、雑用をこなしながら猟を学んだ。初めて銃を持たせてもらったのが二十歳のときだ。もっとも、父に一人前と認められたというわけではない。一人で山に入ることは禁じられ、今でも父について猟をする日々だ。相変わらず父からは、「お前は猟師に向かない」と言われ続けている。その言葉通りなのか、銃を持って二年の間、晃が熊を仕留めたことは一度も無かった。
その年の秋。
山の木々が朱色に染まり、熊が冬籠りの支度を始めようかという季節、眞魚教の求導女・八尾比沙子は、合石岳の鉱山近くで、志村親子が何やら言い争いをしているのを見た。
「――あの時俺の言う通りにしていれば、あいつを仕留めることができたはずだ」息子の晃が、父の鼻先に指を突きつけて言う。「どうしてあんたは、頑なに俺の言うことを否定するんだ」
感情がむき出しの晃に対し、父・吾一は冷静だった。「だからお前は、猟師に向かないと言うんだ」と、冷たく言い捨てる。
「返答に困ると、いつもそう言うな、親父は。俺だって、イノシシやタヌキくらいは何度も仕留めている」
息子の言葉を、父は鼻で笑った。「その程度の小物を仕留めたくらいでいい気になるようでは、やはり山に入る資格はない。偉そうな口を利くのは、熊の一頭でも仕留めてからにしろ」
「俺が熊を仕留められないのは、親父が撃たせてくれないからだろうが!」
「お前に熊を撃つことはできない。お前は、熊のことを何も判っていない」
「何を!?」
感情が高ぶった晃は、今にも手が出そうな見幕だ。そうなる前に、比沙子は二人に声をかけた。
「こんにちは、志村さん。お二人とも、何かあったんですか?」
比沙子を見る晃。その目から、父に向けていた敵意が消える。「ああ、求導女様。お見苦しい所をお見せして、申し訳ありません。ちょっと、猟で問題がありましてね。父が、あまりにも頑固なものだから、つい興奮してしまいました」
先ほどの父に対する態度から一変。晃はうやうやしく頭を下げた。
「――晃、その女に関わるなと、何度も言ったはずだ」
吾一が低い声で言った。晃とは正反対の、敵意に満ちた視線を比沙子に向けている。
「誰と話そうと俺の勝手だ」晃はまた父の鼻先に人差し指を突きつける。「親父が教会を嫌うのは勝手だがな、それを家族にまで押し付けるな。教会に行かないせいで、俺やおふくろが、村でどれだけ苦労していると思ってる」
「…………」
口をつぐむ吾一。表情が曇っている。返す言葉を見つけられないように見えた。
羽生蛇村において、眞魚教信者でない者は異端視され、時には迫害されることもある。猟師として一目置かれている志村家はそこまで酷いことにはなっていないが、村で孤立していることは間違いない。毎週日曜の礼拝式や、冬に行う海送り・海還りなど、眞魚教が行う集会や儀式に参加しないので、村人とのつながりが薄いのだ。村では眞魚教が関係しない集会も数多い。猟友会の会合や、晃がまだ学校に通っていた頃の母親同士の集まりだ。そのような場所で、志村家の者が肩身の狭い思いをしているのは、比沙子にも容易に想像できた。特に、猟友会の会合は、晃のような若い猟師には、情報を交換したり教えを請うたりする絶好の場所だ。だが、父・吾一は、会合に参加しないどころか、そもそも猟友会に入っていないのである。「集団で猟をするのは好きではない」というのが理由だ。晃自身は父の反対を押し切って猟友会に入ったが、そこでも晃は孤立してしまっているのだろう。猟師として一目置かれているのは、あくまでも父・吾一なのだから。
眞魚教を信仰しないおかげで、晃たちが村で肩身の狭い思いをしているのは確かだ。逆に言えば、眞魚教を信仰さえすれば、そんな思いをすることもないだろう。
口をつぐんだ吾一に、晃は追い打ちをかけるように続けた。「親父がなんで教会を嫌うのかは知らないけどな、この村に住んでいるなら、村の風習に合せるくらいのことはするべきだと思うぜ。それが集団生活ってものだろ? 一人で暮らしたいなら、村から出て行けばいいだろ」
「晃君、それは、言い過ぎよ」比沙子は、晃をなだめるように言う。「村に住んでいるからと言って、眞魚教を信仰しなければいけないわけではないわ。教会としても、信仰を強要したりしない。もちろん、教会に来てくれるのなら、あたしは大歓迎だけど」
晃は比沙子を見た。「ええ、ぜひ、そうさせてください」
「晃――」吾一が、怖い声で言う。「お前は、父親よりもその女の言うことを聞くのか」
吾一の言葉を、今度は晃が鼻で笑う。「今まで父親らしいことは何もしていないくせに、なにを偉そうに」
「…………」
再び口をつぐむ吾一。彼は、決して口が達者ではない。元々猟師には口数が少ない者が多いが、比沙子の知る中でも、吾一は特に無口な男だった。
やがて吾一は。
「……勝手にしろ」
吐き捨てるように言い、そして、鋭い視線を比沙子に向けた後、去って行った。
「申し訳ありません、求導女様。父が、失礼な態度を」晃は再び破顔し、比沙子に視線を戻した。
比沙子は首を振った。「いいのよ、気にしてないわ。それよりも、お父さんに対してあの言い方は、良くないわよ」
「いいんですよ。親父には、あれくらい言わないと判らない。まったく……どうして父は、あんな頑なに眞魚教を嫌うんだか」
比沙子は何も言わず、ただ、曖昧に笑うだけだった。
吾一が眞魚教を信仰しない理由に、比沙子は心当たりがあった。恐らく吾一は、比沙子の正体を知っている。比沙子が、永遠に歳を取らないことに気付いているのだ。
羽生蛇村に住む者は、比沙子が年を取らないことに気付くことは無い。これは、村にかけられた呪いのひとつだ。
だが、原因は不明だが、ときどき比沙子の正体に気付く者がいる。特に志村の一族には、昔からそういった者が多いように思う。
もっとも、比沙子の正体に気付いたからと言って、その者にどうこうできるほど、村の呪いは簡単ではない。永遠に歳を取らない女――そんなこと言っても、誰も信じない。気がふれたと思われるだけだ。それでもしつこく言いまわると、狂人として囚われ、宮田医院の地下牢に監禁されるだけだ。恐らく、吾一にもそれが判っているのだろう。だから、声を上げて事を荒立てようとせず、教会に関わらないよう、村はずれで静かに暮らしているのかもしれない。
「ところで、どうしてお父さんと喧嘩になったの?」話題を変えるため、比沙子は晃に訊いた。
「求導女様にお話するようなことではないんですが……親父のせいで、獲物を逃がしてしまったんです」
晃の話によると。
二人が熊を撃つため山に入ったのは一週間前のことだった。当初は三日で山を下りる予定だったそうで、食糧もその分しか持たなかった。二人は熊を求めて三日間山を歩いたが、熊を仕留めることはできなかった。それは決して珍しいことではない。どんなに腕が立つ猟師でも、必ず熊を仕留められるとは限らない。むしろ、一年に一頭仕留めれば十分なため、三日程度の山入りでは、熊を仕留める方がまれだった。それに、山の獲物は熊だけではない。猪に鹿、狸に野兎などは、熊ほどではなくとも、十分な金や食糧になる。
だが、今回山に入った吾一と晃は、それらの獣を仕留めることもできていなかった。
それどころか、姿を見ることさえ無かったのである。
このまま山を下りることはできない。晃は、山に残ることを父に提案した。持参した食料は三日分だが、不猟を察知した二日目の夜から食べる量を減らしたため、まだ一日分近く残っている。山菜や木の実などを採れば、後三日は山にこもって大丈夫だった。吾一も、これには同意した。
それからさらに二日、二人は獲物を求めて山を歩いたが、やはり、仕留めるどころか姿を見ることさえなかった。焦る晃に対し、吾一は冷静だった。山に入ればこんな日もある。自然を相手にすることだから仕方がない、と。だが、晃はその言葉を受け入れることはできなかった。年の瀬も近いこの時期に獲物を仕留めることができないと、生活に関わってくる。冬になると獲物を仕留めることはさらに難しくなる。山間に位置する羽生蛇村では、冬は雪に閉ざされ、山に入ることすら危険だった。このままでは年を越せないかもしれない。なんとしても、獲物を仕留めなければ。
さらに一日が過ぎた。山に入って六日目――つまり、昨日。
その日も朝早くから獲物を求めて山を歩いた二人だが、やはり、獲物の姿を見ることはなかった。それどころか、小鳥やカラスの鳴き声さえ聞くことも無かった。そう言えば、秋も深まった時期だというのに、昨晩は虫の鳴き声さえしなかった。山の様子がおかしい、と、吾一が言った。すぐに山を下りた方がいい、とも。晃には、父の言葉が信じられなかった。仮にも村で一番腕の立つ猟師とされている父が、六日間も山にこもって兎一匹仕留めることができなかったあげく、山に恐れをなし、帰ろうと言うのである。眞魚教を信仰していない自分たちが村で迫害されないのは、猟師として一目置かれているからだ。このままでは、それさえも失ってしまう。晃は父の意見に猛反対し、獲物を求めてさらに山深くに足を運んだ。吾一も、さすがに息子一人を残して山を下りるわけにはいかないと思ったのか、仕方ないという顔でついてきた。
二人がようやく獲物を見つけたのは昼過ぎだった。なだらかな岩肌の斜面にできたくぼみに、熊が一頭、横になっていた。かなりの大物だった。晃たちがいる場所から二百メートルほど離れているため正確な大きさは判らないが、一般的に見かける熊よりも二回りも大きいように思える。仕留めれば、当分金や食糧に困ることはないだろう。一刻も早く仕留めたい晃に対し、吾一は冷静だった。彼はまず風向きを確認すると、熊からは見えない岩陰に身を隠し、荷をおろした。そして、銃に弾が込められていることを確認する。どうやら、ここで熊を仕留めるようだ。と、言っても、今この場から熊を撃つわけではない。彼らが持っている銃は遠射ができるライフルではなく、旧式の村田銃だ。熊を確実に仕留めるためには数十メートルまで距離を詰める必要がある。吾一の猟は、待ち伏せが基本だった。獲物が向こうから近づいて来るのを、じっと待つのである。
晃は、父のこの猟の仕方を常々疑問に思っていた。獲物の方から近づいて来るのを待つなど消極的過ぎる。そもそも熊が近づいて来るとは限らないではないか。そんな不確実な方法よりも、熊が眠っている間に近づき、仕留めた方が確実だ。晃は、それを吾一に提案した。だが吾一はそれを受け入れなかった。あくまで、ここで待ち伏せすると言う。父の頑固さを身に染みて知っている晃は、仕方なく、父に従うことにした。だが、一〇分が経ち、三十分が経ち、一時間が経っても、熊は眠ったままだった。吾一も動こうとはしない。晃は、無性に腹が立った。ここでただ待っている間に、熊を仕留める機会は何度もあったはずだ。晃には、ただ時間を浪費しているだけにしか思えない。こちらから近づいて行って仕留めよう、と、もう一度提案した。だが、吾一は認めない。
何度かそんなやり取りをしていると、熊が首をもたげた。目を覚ましてしまった。もう、眠っている間に近づいて仕留める方法は使えない。吾一が銃を構えた。晃も、銃口を熊に向ける。熊が目を覚ましてしまった以上、父の言う通り、こちらに近づいて来るのを待ち、仕留めるしかない。
だが、熊はその場から動かなかった。盛んに鼻をひくつかせ、周囲を見回す。起き上がったかと思うと、その場をうろうろと歩き回る。
晃はどうすべきかを考えた。父は、あくまでも熊がこちらに近づいて来るのを待って撃つらしい。しかし、熊がこちらに向かって来るかどうかは判らない。もし反対側に移動したら、逃がしてしまう可能性もある。晃は、自分がおとりとなって熊を誘導することを提案した。熊の前に出て行っておびき寄せ、吾一に仕留めさせるのだ。あるいは、反対側に回り込み、挟み撃ちにする方法もある。どちらにしても、ここでじっと待つよりは、熊を仕留める確率は高いはずだ。だが父は、黙れ、と言っただけだった。話を聞く気も無いらしい。はらわたが煮えくり返る思いだったが、なんとかこらえ、父を説得してみた。もちろん、父は自分の考えを曲げようとはしない。
そうこうしているうちに、熊が動き始めた。晃が危惧した通り、熊は、晃たちがいる場所とは反対側、岩の斜面を登り始めたのだ。
晃は、すぐに熊の後を追おうとした。六日間も山を探索してようやく見つけた獲物だ。ここで逃がすわけにはいかない。
だが吾一は、銃を下ろすと、銃から弾を抜き取り、帰るぞ、と、短く言った。信じられなかった。まだあの熊を仕留めることはできるのに、それを放棄すると言うのだろうか。当然のごとく晃は猛反対したが、やはり、父は訊く耳を持たなかった。勝手にしろ、と言い残し、荷物をまとめて斜面を下りて行った。晃は父を殴りつけたい衝動に駆られたが、そんなことをしている間に熊に逃げられてしまう。晃は熊の後を追った。しかし、岩場の斜面は晃の思っていた以上に登りにくく、対して、熊は苦にすることも無くすいすいと登って行く。引き離される一方だった。やがて熊の姿は、山の稜線に消えた。間もなく陽が暮れる。食料もわずかしか残っていない。晃には、これ以上熊を追う術は無かった。悔し紛れに地面に転がっていた小石を蹴り上げる。やはり、熊が眠っている間に近づいて仕留めるべきだったのだ。逃げられたのは、全て父のせいだ。
その日は父に対する怒りでろくに眠れるまま夜を過ごした晃。夜明けと同時に山を下り、そして、鉱山の近くで父と会い、口論になっていたところに、比沙子がやってきた、という訳だ。
「本当に、父の頭の固さには困ったものですよ」晃は、忌々しげに言った。「俺の言う通りにしていれば、絶対に、あの熊を仕留めることができていたはずなんです。求導女様も、そう思うでしょう?」
比沙子は、うーんと唸るだけだった。長年この村に住んでいる比沙子だが、猟に関してはまるで素人だ。吾一と晃、どちらの方法が正しかったのかなど、判るはずもない。話を聞く限り晃の言うことは正しいようにも思えるが、所詮は本人の主張なので、どこまで信じていいのかは判らない。
「……まあ、なんにしても、喧嘩は良くないわよ? お父さんにはお父さんのやり方があるんだし。それに、お父さんが村で一番の猟師だというのは確かなんだから。あまり反発せず、学べることは学んだ方がいいと思うけど」
比沙子がそう言うと、晃は露骨に表情を歪めた。「親父のやり方は古いんですよ。昔からの猟の方法にこだわり、別の方法を探ろうともしない。もっと効率よく獲物を狩る方法があるはずなのに。新しいことに挑戦する勇気がないんです。ああいうのを、老害と言うのでしょう。まあ、見ていてください。俺は俺のやり方で熊を仕留め、すぐに親父以上の猟師になって見せますよ」
比沙子は肩をすくめた。いつの時代も、年長者と若者が対立する図式は変わらない。そして、晃のように年長者を強く批判する若者ほど、自分が歳を取ると「最近の若い者は――」と言いだすのだ。
その後も、しばらく晃の愚痴に付き合った比沙子。不満をぶちまけて気が晴れたのか、晃は満足げな表情で家路についた。もっとも、家に帰って父の顔を見ると、また喧嘩になるかもしれない。比沙子は小さくため息をつき、教会へ戻る道を歩いた。
村で大きな騒ぎが起こったのは、それか三日後のことだった。
早朝。山へ山菜取りに出かけた若い姉妹が、熊に襲われたのである。
姉妹は山菜取りに夢中になり、熊の接近に気付くのが遅れた。姉が気付いた時には、熊はすでに数十メートルにまで近づいていた。姉は妹とともに走って逃げたが、それがいけなかった。熊は、本能的に逃げる者を追う。そして、その足は自動車並みに早い。妹は何とか逃げることができたが、姉は逃げることができなかった。姉が熊に引き倒される。助けを求める姉だが、妹には何もできなかった。妹は、泣きながら逃げた。
妹は近くの民家に逃げ込み、そこから警察に通報された。そして、駆けつけた警官と共に、熊に襲われた現場へ戻った。
姉妹が山菜取りをしていた場所は、それほど山深い場所ではなった。蛇ノ首谷にある折臥ノ森付近。羽生蛇鉱山やダムの建設現場よりも浅い場所だ。近くには鉱山で採れた錫を選鉱する工場もあり、人通りは決して少なくない。そんな場所まで熊が下りて来ることは極めてまれだ。
姉の姿は無かった。代わりに、べっとりした血が地面に線を引いていた。血の跡は、茂みの中に消えている。熊が娘の身体を引きずって行ったのは明らかだった。
警官はしばらくどうするべきか考えたが、追うのは危険だと判断した。警官は熊や山に関する知識に乏しい。猟友会に連絡し、猟師やハンターが来るのを待った方がいい。妹は泣き崩れたが、どうすることもできなかった。
すぐに各所に連絡され、人が集められた。村の一大事と言うことで、猟師やハンターだけでなく、神代家や教会、宮田医院の院長先生など、村の有力者も集まった。その中には、比沙子と志村父子の姿もあった。
娘が襲われた現場を確認した猟師たちは、一様に首をかしげた。娘のものと思われる血の跡が、茂みの中に消えている。熊が娘を襲い、その身体を引きずって行ったと思われるが、なぜそのような行動に至ったのが判らないと言う。
羽生蛇村近辺に出没する熊はツキノワグマだ。熊の種類の中では小柄な方で、性格は憶病。警戒心が強く、人間の気配を感じると逃げて行くことが多い。もちろん、羽生蛇村をはじめとした多くの山間地域で、人がツキノワグマに襲われた事件は多くある。それらは、人と熊双方が接近に気付かず、突如遭遇してしまったため、驚いた熊が攻撃行動に出てしまったためである。熊の方から人に近づいて襲うことはまず無い。
また、ツキノワグマは雑食性ではあるが、主に食べるのは木の実や果実などの植物だ。あるいは、アリやハチなどの昆虫も好んで食べる。動物の肉を食べることもあるが、鹿や猪などの死骸を食べるのがほとんどだ。生きている動物を襲って食べることは、まず無い。
だが、今回村に現れた熊は、山菜取りに夢中になっていた娘を襲い、茂みの中に引きずり込んでいる。食用に持ち帰ったとしか考えられないのだ。ツキノワグマがそのような行動をしたなど、聞いたことがない、と、猟師たちは口をそろえて言った。
ただ、熊は学習能力が高い生き物でもある。なんらかの理由で人の肉の味を知った熊が、人を襲って食糧とすることを覚えた可能性も、考えられないことはない。
何にしても、この場に大勢でいるのは危険だった。熊はまだ近くにいるかもしれない。村人は一旦その場を離れ、現場近くにある選鉱所の休憩室を使わせてもらい、これからどうするかを話し合うことにした。
妹の話によると、熊は二メートルを超える大物であったらしい。もっとも、恐怖に駆らた人の目はあまりあてにはならない。このような場合は、しばしば相手を大きく見誤るものだ。猟師たちは一・五メートルから一・七メートルくらいと推測したが、それでも大物であることは変わりない。
不意に、志村晃が、「あの時の熊だ!」と叫んだ。その場にいる多くの者が何を言っているのか判らなかったが、父・吾一と、比沙子にだけは、晃が何を言わんとしているのかが判った。
晃は、先日の猟での出来事を話した。六日間山を渡り歩いたが獲物を獲ることができず、ようやく山肌に大きな熊を見つけたが、父が消極的な猟法を用いたため、逃がしてしまった。熊の体長から見て、あの時の熊で間違いない。娘が熊に襲われたのは父のせいだ、と。
憤る晃を、比沙子はなだめた。晃たちが逃がした熊と娘を襲った熊が同一であるとは限らない。仮に同一であったとしても、娘が熊に襲われたのは吾一のせいだとするのは、あまりにも酷だ。
興奮する晃を何とか落ち着かせ、これからどうするかを話し合う。時刻は正午を少し回ったところだ。娘が熊に襲われたのが朝の七時頃らしいので、すでに五時間以上経っている。妹を案じて誰も口にしないが、姉が生きている可能性は極めて低いだろう。それでも、一刻も早く熊を見つけ、処分する必要がある。もし本当に熊が人間の肉の味を覚えたのだとしたら、また村人を襲う可能性があるからだ。だが、山間にある羽生蛇村は、陽が暮れるのが早い。日没まで五時間もないだろう。その間に見つけられるかは疑問だった。
不意に、吾一が立ち上がった。わし一人で山に入るから、お前たちはここで待機していてくれ、と言う。何人かの猟師が同行を申し出たが、吾一は、一人で十分だ、と、断った。要するに、足手まといだということだろう。猟師たちは一様に不快そうな顔になったが、誰も文句は言わなかった。熊撃ちに関して、村で吾一以上の腕を持つ者はいない。熊は極めて用心深く、気付かれずに接近するのは神経を使う。彼より腕の劣る者が同行しても、熊に気付かれる可能性が高まるだけだということは、誰しも理解しているのだ。
ただ一人、息子の晃だけが、自分も一緒に行くと譲らなかった。親父一人には任せられないと言う。意外にも、吾一は「勝手にしろ」と言っただけで、強く反対はしなかった。
比沙子はふと、吾一は吾一なりに今回の事件について責任を感じているのかもしれない、と思った。先ほど晃は、娘が熊に襲われたのは、四日前に熊を仕留めることができなかった吾一のせいだ、と言った。それはあまりにも短絡的な考えではあるが、もし、吾一たちが見た熊と娘を襲った熊が本当に同一であるならば、四日前に仕留めていれば今日娘が襲われることが無かったのは間違いない。そして、一・五メートルを超える巨大熊など、そうそういるものではない。
吾一と晃は銃を持って来ていたため、簡単な点検を済ませただけで、十二時半頃には選鉱所を出た。全員で、娘が熊に襲われた現場に向かう。吾一は、陽が暮れるまでには一度戻る、と皆に告げ、地面の付いた娘の血の跡を追い、息子と共に茂みの中へ入って行った。
だが。
陽が落ち、午後八時を回っても、二人は戻って来なかった。
猟師が山に入った場合、獲物が獲れないと当初の予定を変更して長く山にこもることは珍しくない。だが、今回は猟ではなく、娘の捜索と熊の駆除が目的だ。戻ると言った時間に戻らないのは、何かあった可能性が高い。
猟師たちは、吾一たちを捜索すべきかを話し合ったが、それは危険だという結論に至った。今夜の空は厚い雲に覆われている。月明りさえ届かない山の中は、まさしく闇に閉ざされているだろう。熊は昼に行動することも少なくはないが、基本的には夜行性だ。今夜山に入るのはあまりにも危険だし、人手も足りない。朝になるのを待ち、ふもとの街の警察や猟友会に応援を要請して山狩りをするのが良いだろうということになった。吾一は村一番の猟師だ。約束した時間に戻って来ないからといって、滅多なことは起こらないだろう。
比沙子は、自分がどうすべきかを考えた。ずっと、妙な胸騒ぎを感じている。山で何かが起こっている。二人を捜索するなら早い方がいいと、直感的に感じていた。だが、危険であることは明らかだ。やるならば、自分一人でやるべきだろう。比沙子は幻視の能力を使うことができる。夜の闇は行動の妨げにならないし、半径一キロくらいならば瞬時に捜索することが可能だ。何より、比沙子は熊に襲われて命を落とすことがない。たとえ食われたとしても、肉の欠片ひとつからでもよみがえることができる。
だが、比沙子には山や熊に関する知識がまるでない。山は広大だ。いかに特殊な能力を持っているとはいえ、やみくもに歩き回っても、吾一たちを見つけることは難しいだろう。
――でも、
比沙子は知っている。この村で、山や熊の習性に最も詳しいのは、吾一や、他の猟師たちの誰でもない。所詮、彼らの知識はわずか数十年の時間で得たものに過ぎない。
それに対し、
比沙子は目を閉じ。
――お願い。力を貸して。
心の奥底に眠る、別の存在に、助けを求めた。
そして。
☆
心の奥底から目覚めた別の存在は、目を開け、小さくため息をついた。まったく……あの
比沙子は、村人たちに気付かれないようそっと離れると、一人、山へ向かった。
少し山道を進むと、道端に小さな石碑が置かれてあった。男女が並んで立つ姿と、眞魚教のシンボルであるマナ字架が浮き彫りにされた像・道祖神だ。
道祖神とは、街や村の境、峠などに奉られ、疫病や悪霊などの災いが侵入するのを防いだり、旅に出たり山へ入る者が安全を祈願するための神様である。
比沙子は像の前に跪くと、手を組み、祈りを奉げた。たとえ夜の山であろうと比沙子の身に危険が及ぶことなどあり得ないのだが、今の彼女は、何よりも神を崇める存在だった。
祈りを奉げ終えた比沙子は、再び歩き始めた。
だが、数歩進んだところで、足を止める。
道祖神像を過ぎた瞬間、違和感を覚えた。この山には何度も出入りしている。それこそ、千年以上も昔から、何度も。自分の庭と言っていいほど全てを知り尽くしているはずだが、今は、まるで他人の家に上がりこんでしまったかのような居心地の悪さを感じる。
それは、一言で言うならば。
――空気が、騒がしいわね。
比沙子は、胸の奥で呟いた。
確かに、山の中で何かが起こっているようだ。
☆
ごつごつとした岩肌の斜面にある大きな岩の陰に身を潜め、志村晃は周囲の気配を探っていた。接近するものがいれば、すぐに銃で撃つつもりだった。だが、その手は大きく震えている。こんな震える手では、銃弾を命中させることなど不可能だ。晃は震えを抑えようとするが、それは意識で抑えられるものではない。
空は厚い雲に覆われ、周囲は深い闇に閉ざされていた。視覚は役に立たない。火をおこす道具は持っている。だが、それを使うことはできない。火をおこしたところで得られる視界はせいぜい数メートルだ。この闇の中で、その程度の視界がなんの役に立つだろう。逆に、相手に居場所を教えるだけだ。火をおこすことはできない。神経を研ぎ澄まし、周囲の気配を探る。砂利を踏む音、流れてくる匂い、あるいは、空気のわずかな動きさえ感じ取ろうとする。だが、五感は鈍り、何も感じることができない。周囲に誰もいないとも考えられるが、もし、そうでなかったら……相手はこの闇の中に潜み、気付かないうちに背後に忍び寄っているのかもしれない。そんな恐怖に駆られ、晃は背後を振り返った。そこは闇が広がるばかりで、何も無い。もちろん、それで安心などできない。相手がこの闇に紛れていることは、十分に考えられる。相手は、夜の闇は行動の妨げにならない。対して、晃たち人間は、闇の中では恐ろしく無力だ。晃は、経験が浅いとはいえ猟師である。獲物を狩る側であるはずだが、今の立場はまるで逆――自分が狩られる側であるように思えて仕方がなかった。
晃は、闇の中で一人、追い詰められた小動物のように震え続けた。
村娘を襲い、連れ去った熊を追って山に入った吾一と晃だったが、吾一は一時間も経たないうちに、「山の様子がおかしい、すぐに下山した方が良い」と言いだした。もちろん、晃はこれに反対した。これまで何度も猟に入っている山だ。いつもと何も変わらない。天候も良好だ。山の天気は変わりやすいと言うが、今のところその気配もない。仮にこれから天候が悪化したとしても、それがどうしたと言うのだ? 山の天気は変わりやすいからこそ、猟師たちはその変化に慣れている。悪天候になるたびに下山していては、獲物を仕留めることなどできはしない。晃には、山の何がおかしいのか理解できなかった。このまま何もしないまま山を下りることは考えられない。娘を連れ去った熊を仕留めることができなければ、自分たちは猟師としての信頼を失ってしまうかもしれない。眞魚教の信者でない自分たちがこの村で暮らしてこられたのは、猟師としての信頼があったからだ。その信頼さえ失ってしまうと、もう、村で生きて行くことはできないだろう。何が何でも熊を仕留めなければならない。
なのに。
父は、すぐに下山するべきだと主張し続ける。晃には、父が何かに怯えているように見えた。信じられなかった。仮にも村一番の猟師と評されている父が、山の中で怯えているのである。晃は失望した。最近は喧嘩が絶えないとは言え、子供の頃から父に憧れ、父のような猟師になりたかった。父こそが目標であり、父のような猟師が理想だった。その目標と理想を壊された気がした。
だから、父のことを「臆病者」と罵って、一人で熊を追うことにした。
熊を追うには熟練の技が必要だ。猟師としての経験が浅い晃にその技術はまだ無いが、今回、熊を追うのは容易だった。地面には、襲われた娘のものと思われる血の跡が点々と続いている。それをたどるだけでいい。
晃は、気持ちが高揚していることに気が付いた。このまま行けば、熊を仕留めることができるかもしれない。猟師になって二年。ようやく自分の手で熊を仕留めることができるのだ。しかも、通常よりも二回りほど大きな熊――父が恐れをなすような熊を、この俺が仕留めるのだ。そうなれば、自分を爪はじきにしてきた村人たちを、村の猟師を、何よりも父を、見返すことができる。不純なことだが、今の晃には、熊に殺された娘の仇を討つとか、万が一生きている可能性に賭けて早く助けるといった気持ちは無かった。娘が生きていようといまいと、どちらでも良かった。自分はただ、熊を追い詰め、撃ち殺すだけだ。晃は、高ぶる気持ちを抑えつつ、血の跡を追う。
三十分ほど歩いただろうか。晃は、大きな杉の木が一本立つ場所にたどり着いた。周囲は大型の笹の葉――いわゆる熊笹が密生する茂だ。木の根元の熊笹は荒々しく倒されている。熊が踏み倒したのだろう。茂みの中にぽっかりと穴が開いているような場所だ。そこに、何やら得体の知れない大きな塊があり、それを中心に、深い朱色をした液体が水溜まりのように広がっていた。
晃は眉をひそめた。それが何であるか、しばらく判らなかった。
だが、徐々に理解していく。それと同時に、晃の高揚した気持ちは、急激に萎えていった。
それは、人間の身体だった。気付くのに時間を要したのは、それがあまりにも現実離れした姿になっていたからだ。頭と胴、そして、手足が揃っていたならば、すぐに人の身体だと判っただろう。だがその身体には、両手と右足が無かったのである。周囲を見ると、肉が削げ落ち、骨がむき出し状態の右腕が転がっていた。左腕と右足は、周囲のどこにも無かった。どこに行ったのかは、晃には想像もつかない。
血溜まりに浮かぶ身体は更に損傷が激しかった。衣服は荒々しくむしりとられ、両の乳房は削げ落ち、腹は引き裂かれ、内臓が引きずり出されている。四肢の内で唯一残された左足も、太腿の肉がほとんどそぎ落ちていた。対して、頭部には大きな損傷はなかったが、それがかえって晃の恐怖心を煽った。目は白目をむき、開いた口から舌が垂れ下がっている。擦り傷こそあるものの、肉は削げ落ちていない。だからこそ、これが探していた娘であることは疑いようがなかった。
頭以外の肉がほとんどそぎ落ちた娘の身体――いや、そぎ落ちた、という表現は正しくない。そぎ落ちたのならば、周囲にその肉が転がっているはずだ。周囲にはわずかな肉片が確認できるのみだ。娘の肉はそぎ落ちたのではない。娘を襲った熊によって、喰われたのだ!
たまらず、晃は嘔吐した。胃の中の物をすべて吐き出した。それでも嘔吐は止まらず、胃液さえ吐き出し、涙さえ出てきた。娘が熊に喰われたことを考えなかったわけではない。だが、これほど凄惨な光景を目の当たりにするとは思っていなかった。
がさり、と、熊笹が揺れる音がした。父が追って来たのだろうか? そう思い、晃は音のした方を見る。
薄茶色の体毛に覆われた巨大な熊が、茂みの中からのっそりと姿を現した。
晃は、銃を構えるのさえ忘れ、現れた熊をただ凝視していた。
熊は、四つん這いでこちらに向かって来る。
晃は動くことはできない。銃を構えるか、その場から逃げるか。何かしらの行動をすべきなのだが、体中が強張り、指一本動かすことができなかった。ただ、その場に立ち尽くすのみ。
晃の前で、熊は二本足で立ちあがった。晃の背丈をはるかに超える大きさだ。通常の熊より二回り大きいどころではない。二メートルをはるかに超え、重量は百貫に届きそうだ。
熊が右手を振り上げた。その手は岩のように大きく、爪は鉈のように鋭い。頭部に振り下ろされたら、頭蓋が砕ける――いや、へたをすれば、頭が地面を転がるだろう。
銃声が響いた。
同時に、熊の肩から血が飛沫となって周囲に飛び散る。熊の身体が大きく揺らいだ。
そして。
「――晃! 走れ!!」
父の声が聞こえた。
声のした方を見ると、銃口を熊に向けた父がいた。
熊も父を見た。怒りを発するように大きく吠えると、父の方へ駈け出した。
再び銃声が鳴るのと、熊が父に覆いかぶさるのは、ほとんど同時だった。
「逃げろ! 晃!!」
再び父の声。
瞬間、晃は駆け出していた。
どこをどう逃げたのかは覚えていない。晃は、森の中をとにかく走った。木の枝が衣服を裂き、熊笹の葉が皮膚を裂くが、構わず走る。少しでも、あの化物から遠ざかるために。陽が落ち、周囲が闇に包まれ始めたところで、ようやく足を止める。いつの間にか森を抜け、ごつごつとした岩肌がなだらかな斜面になっている場所にいた。見上げると、斜面の中央に大きなくぼみがある。見覚えのある場所だ。四日前、父と共に巨大な熊を発見し、逃がしてしまった場所だ。晃は恐怖に震えた。熊は山にいくつかの休み場を持っており、同じ場所を何度も使う習性がある。四日前にここで見た熊と今日遭遇した熊は、恐らく同じであろう。つまり、あの熊はここに戻ってくるかもしれないのだ。すぐに逃げなければ。そう思うが、夜の闇はどんどんその濃さを増している。陽は完全に山の陰に隠れてしまった。見上げると、空はいつの間にか厚い雲に覆われ、月や星の明かりさえ無い。周囲が完全な闇に閉ざされるのは時間の問題だ。そうなれば、移動は極めて危険だ。晃は、ここに留まるのと闇の中を移動するのはどちらが危険であるかを考え、留まることを選んだ。山において、悪天候や夜など条件が悪い時、むやみに移動するのは自殺行為に等しいことを、晃は嫌と言うほど知っている。幼い頃からずっと、父にそう言われてきたのだ。晃は近くにあった大きな岩の側に腰を下ろした。
どれくらい時間が経ったのか、もう判らない。間もなく夜が明けるのか、あるいは、まだ日没から間もないのか。それすらも判らない。ただ銃を抱き、周囲の気配を探る。あの熊はどこにいるのだろう。闇にまぎれ、こちらの様子を窺っているのかもしれない。晃のことなど意に介さず、遠く離れたねぐらで静かに眠っているのかもしれない。父はどうなったのだろうか? 晃が最後に見たのは、熊の巨体が父に覆いかぶさる所だった。あれは、熊に襲われたのだろうか? だとすれば、父の命は絶望的だ。逃げ出したことが、大きな後悔となって晃の心を苦しめる。だが、仕方なかったのだ。あれほどの巨大熊を前に、自分ごときに何ができるだろう? 父も「逃げろ」と言った。自分は、それに従っただけだ。あそこで逃げなければ、二人とも殺されていただろう。仕方がなかったのだ。そう、自分に言い聞かせても、後悔は消えない。
いや。父が死んだと考えるのは、まだ早いかもしれない。
晃は思い出す。熊が覆いかぶさる前、父は銃を撃っている。村で一番の猟師である父が狙いを外すとは思えない。あのとき父は熊に襲われたのではなく、倒れた熊の下敷きになっただけかもしれない。ならば、父が生きている可能性は十分にある。熊は百貫を超える大物だから、下敷きになれば無事では済まないかもしれないが、それでも死ぬ可能性は低いだろう。そう考えると、晃の心はいくらか楽になった。だが、楽観はできない。今すぐ確認に向かいたいが、夜の闇がそれを許さない。夜明けまで待つしかない。少し眠っておくべきだろうか? あのとき父が熊を射殺したのであれば、いま眠っても危険は少ないだろう。だが、もし射殺していないのであれば、眠るのはあまりにも危険だ。熊は夜行性の生物だ。眠っている間にこの場に来る可能性は、十分にある。
これからどうすべきか、いま何をすべきか、晃には、なにも判らない。晃には、猟師としての経験があまりにも足りない。助言をくれる者も、今はいない。もし父がいたら、どうすればいいか教えてくれただろうか? 無口な父は何も教えてくれないかもしれない。それでも、父がそばにいてくれるだけで、恐怖は大幅に和らいだだろう。皮肉にも、晃はこんな状態になって初めて、父の存在の大きさを知った気がした。
がさり、と、砂利を踏む音が聞こえた。
身をすくめる晃。周囲を見回しても何も見えない。神経を研ぎ澄ます。がさり。また、砂利を踏む音。この闇の中に、何者かがいる。何者だ? 考えるまでもない。あの熊だ! 銃を構える晃。砂利を踏む音は近づいて来る。晃は音の方向探ろうとする。だが、恐怖は晃の感覚を著しく狂わせる。正面から聞こえるようにも思えるし、右から聞こえるようにも思える。背後から聞こえるような気もする。砂利を踏む音はひとつなのに、周囲を囲まれているような錯覚。音は近づいて来る。たまらず、晃は引き金を引いた。銃声が闇に響き渡る。砂利を踏む音が聞こえなくなった。やったか? そんな訳はない。再び、砂利を踏む音が近づいて来る。外した。晃の持つ猟銃は旧式の村田銃だ。弾の装填数はたった一発しかない。予備の弾は懐の中だ。取り出そうとする。だが、焦って弾をばら撒いてしまった。周囲は闇だ。地面に手をつけても、弾なのか砂利なのか、もう判らない。
突然、闇の中から手が出てきた。
それが、晃の銃を掴み、強く引っ張る。
「ひぃっ!!」
情けない声を上げ、晃は唯一の武器である銃を手放してしまう。
晃の銃は、闇の中に消えた。
その闇の中から。
「……まったく。相手も確認せずに撃つなんて、あなた、猟師失格ね」
女の声がした。あまりにも予想外だったので、晃は何度も瞬きをする。
不意に、空を覆う厚い雲が途切れた。月明かりが、闇の中に隠していたものを浮かび上がらせる。目の前に女が立っていた。赤い修道服を着て、赤いベールをかぶっている。手には、いま晃から奪った銃を持っていた。
「求導女……様……?」
確認するように言う晃。村から遠く離れたこんな山奥、しかも真夜中に、比沙子が一人で現れたことが信じられなかった。
「今度あたしに銃を向けたら、命は無いと思いなさい」比沙子は、奪った銃を晃に差し出した。
銃を受け取りながら、晃は眉をひそめた。赤い修道服から求導女の八尾比沙子だと思ったが、別人だったのだろうか? そんなことを思う。今の口調、まるで比沙子らしくない。もう一度よく見た。間違いなく比沙子である。それでも、別人のように思えて仕方なかった。理由はすぐに判った。目だ。普段から村人を温かく見守る優しさが、今の比沙子の目には無い。晃を見る今の比沙子の目は、例えるならば、汚らしいごみでも見るような目だ。晃の知る限り、比沙子はあんな目はしない
「……あの……求導女様、ですよね?」思わず問うた。
「他の誰に見えるって言うの?」冷たい口調で答える比沙子。
「いえ、別に……」
そう言ったものの、疑問は消えない。よく似た別人が来たのではないかと思える。だが、いまの比沙子には、それを問うことを許さない雰囲気があった。だから晃は、別のことを問うた。
「求導女様、どうしてここに……?」
「気が進まなかったけど、あなたたちを助けに来たのよ」煩わしそうな声で答える比沙子。「それで、父親はどこ? 一緒じゃなかったの?」
比沙子に問われ、晃は顔を伏せた。「判りません。熊に襲われるところは見ましたが……」
「……詳しく話しなさい」
比沙子に促され、晃は昼間の出来事を全て話した。山に入ってすぐ、父が、「山の様子がおかしい」と言って、下山しようとしたこと。自分はそれに反対し、一人で熊を追ったこと。娘の遺体を発見したが、直後に熊に襲われたこと。間一髪のところで父親に助けられたこと。
話を聞いた比沙子は、ふん、と、鼻を鳴らした。「……それで、父親を見捨てて逃げ出し、真っ暗な中、一人でびくびく怯えてたってわけね。情けない」
晃は、心外だと言わんばかりの目で比沙子を見た。「怯えていたわけじゃないです。俺はただ、夜の山ではむやみに動かない方がいいと、父から教わっていたから、それに従っただけで……」
「まあ、それは間違っていないわ」
「それに、まだ父が死んだと決まったわけではないです。父のことだから、あのとき熊を倒していたのかもしれません」
それは、比沙子に状況を説明すると言うよりは、自分に言い聞かす言葉だった。あの時――熊が父に覆いかぶさる直前、父は銃を撃っている。あれは父が熊に襲われたのではなく、父の銃に倒れた熊の下敷きになっただけだ。そう信じたかったのだ。
だが。
「残念だけど、それは無いわね」
比沙子は、冷たく言い放った。
なぜ、そう言い切れるのだろう? 晃は睨むように比沙子を見る。
比沙子は晃の視線など意に介さずに続ける。「熊は、ここから一キロほど南にいる。腹が膨れたからでしょうね。機嫌良さそうに眠っているわ」
「なぜ、そんなことが判るのですか」
「幻視よ。聞いたことくらいはあるでしょ?」
幻視。この村に古くから伝わる特殊能力だ。他人の視界を覗き見ることができると言われている。もちろん、伝説やおとぎ話の類であり、本当に存在するはずがない。晃は、からかわれているのだと思い、小さく笑った。
だが、比沙子は笑みを浮かべることなく、さらに続ける。「まあ、信じる信じないはあなたの自由だけど、幻視を使えば、周囲数キロくらいは瞬時に探索できる。あたしはここに来るまでに、何度も幻視を行ったけど、あなたと熊以外の視界は見つかっていない。状況から、あなたの父親は熊に殺されたと考えるのが自然ね」
「――――」
言葉を失う晃。父が熊に殺された……そんなことはあり得ない。父は村一番の猟師だ。熊ごときに殺されるはずがない。比沙子がいい加減なことを言っているに違いない。そもそも、幻視が使えるなど馬鹿げている。他人の視界を覗き見る能力。そんなもの、あるはずがない。
そう思う反面、胸の奥には、比沙子は嘘などついていないという思いがあった。父はもう生きていない……晃は、心のどこかでそう考えていたのかもしれない。それが、比沙子の言葉で確信に変わった。一度そう考えると、もう、そうとしか思えない。ならば、比沙子が言う幻視の能力も存在するのではないか。比沙子は嘘などついていない。いい加減なことを言っているわけでもない。根拠、といえるほど強いものは無い。ただそう思うだけだ。しいて理由を上げるならば、晃の持つ『勘』だ。
「……本当に、父は死んだんですか」もう一度、確認するように問う。
比沙子は冷たく、「ええ、そうよ」と答えた。
父が死んだ――その言葉を、胸の内で噛みしめる晃。悲しくはなかった。むしろ、怒りが込み上げてきた。四日前のことを思い出す。あの日、晃と父はこの場所にいた。ここから、斜面のくぼみで眠る熊を仕留めようとしていた。あの時の熊と今回の熊は同じであろう。ならば、あのとき熊を仕留めていれば、娘が襲われることはなく、父も命を落とすことはなかったはずだ。
晃は顔を伏せ、小さく笑った。「自業自得ですよ。四日前、ここであの熊を仕留めていれば、こんなことにはならなかった。あの時熊を逃がしたのは、父の失態です。俺の言う通りにしていれば、あの熊は仕留めることができたんだ」
比沙子が顎を上げた。「残念だけど、それは無いわね。四日前の話は聞いているわ。あのとき熊を逃がしたのは、あなたのせいよ」
晃は顔を上げ、比沙子を睨んだ。
「なぜ、そんなことが言えるんですか!?」
思わず叫ぶ。熊を逃がしたのはあなたのせい――猟や山に関する知識がない求導女にそんなふうに言われるのは、極めて心外だった。
「いいわ。未熟なあなたに、特別に教えてあげる」
比沙子は晃をあざ笑うかのように言うと、顔を上げ、斜面の上にあるくぼみを指さした。「四日前、熊はあのくぼみの中で眠っていた。そうだったわね?」
「ええ、そうです。眠っている間に近づいて撃てば難なく仕留められたのに、父はそれを認めなかった。熊が目覚め、向こうから近づいて来るのをこの場で待つ、と言ってきかなかったんです。そんな消極的な方法で確実に仕留めるなんて無理なのに。父は憶病者で、古い猟の仕方を変えようとしなんです」
「それは違うわね。この場合、あなたの父親のやり方は最適な方法よ。熊は極めて鋭い嗅覚を持っている。たとえ眠っていたとしても、気付かれずに接近するのは難しい。あなたのような未熟な猟師が一緒なら、なおのこと。それよりも、熊が目覚めるのを待って、近づいて来たところを撃つ方が無難だわ。ここは、風が常に上から下に流れている。匂いで気付かれる可能性は無い」
そう言われ、晃は初めて斜面を下って来る風の流れに気が付いた。いや、それは風などと呼べるほどの強さではない。本当にわずかな空気の流れだ。あのとき父は、このわずかな風を感じていたのだろうか。
晃は、否定するように首を振った。「でも、熊が目覚めても、こちらに来るとはかぎらないじゃないですか」
「そうかもしれない。でも、こちらに来る可能性の方が高いわ。眠りから覚めた熊は、喉を潤すために水場に移動することが多い。この斜面の下には沢がある。目覚めた熊がこちらに来る可能性は、八割から九割ってところでしょうね」
「なぜ、この下に沢があると判るんですか?」
「地形を把握しながら移動するのは当然でしょう? まさかあなた、そんなことも考えずに山を歩いていたわけ? 呆れるわね」
「…………」
返す言葉がない晃。確かに、山を歩いている間に何度か川を越えたが、獲物を探すことばかり考え、地形など考えてはいなかった。父は、そこまで考えて移動していたのだろうか。
「……でも、目覚めた熊は、斜面の上に移動しました。結局、父の勘は外れたんじゃないですか」
晃は、最後の反論を試みた。だがそれも、比沙子の言葉に踏み潰される。
「それは、あなたが騒いだからでしょ。おとりになるならないで、父親ともめたんでしょ? 熊は聴覚も敏感よ。わずかな音も聞き分ける。気付かれて当然ね。熊は基本的に臆病だから、人間が騒いでいたら、遠ざかろうとするものよ」
「――――」
返す言葉はもう無かった。比沙子の言うことは、あまりにも的確だ。
「もう判ったでしょう?」と、比沙子は追い打ちをかけるように続けた。「四日前、熊に逃げられたのはあなたのせい。その結果、その熊は娘とあなたの父親を襲った。あの時熊を仕留めていればこんなことにならなかったと言うのなら、二人が死んだのは、あなたのせいよ」
比沙子の言葉が胸に突き刺さる。晃は、まるで死刑を宣告されたかのように頭を垂れた。
同時に、昨日の昼、蛇ノ首谷の選鉱所で熊の対処について話し合った時、父が「一人で山に入る」と言ったのを思い出した。あれは、愚かな息子が犯した失態の責任を取るためだったのだろうか。
比沙子が小さくため息をついた。「まあ、それはいいとして……妙だわ」
「何が、ですか?」顔を上げる晃。
「あの熊よ。あまりにも大きすぎる。少なく見ても二メートル以上はあるわ。毛の色も茶色だし……どう見ても、ツキノワグマじゃないわね」
日本に生息する熊は二種類。ひとつはツキノワグマ。本州から南、四国、九州まで、広く生息している。羽生蛇村近辺に出没する熊もこれだ。熊としては小柄で、大きくても体長一・五メートル程度。体毛は黒く、その名の通り、胸に三日月のような白い模様があるのが特徴だ。性格は憶病。人を襲うこともあるが、決して獰猛な生き物ではない。
それに対し、もう一種の熊は……。
比沙子は、重い口調で言った。「あれは……
「――――」
晃は、言葉を失った。
羆――日本に生息する陸上動物の中では最も大きく、成体は体長二メートルを超えるものがほとんどだ。体毛は茶色。非常に獰猛な性格をしている。ツキノワグマが人を襲うのは、突然人と遭遇した時など偶発的な例がほとんどだが、羆は人を捕食対象とし、積極的に襲うことも少なくない。
だが、羆は北海道のみに生息する生き物だ。本州以南には存在しない。動物園から逃げ出したというのなら別だが、羽生蛇村はもちろん、ふもとの街やその近隣にも、動物園は無い。
「なぜ、こんな所に羆がいるのでしょうか……」
晃の問いに、比沙子は肩をすくめた。「見当もつかないわね。まあ、今さら驚きはしないわ。あたしはこの村で長く暮らしてるけど、こういうよく判らないことが起こるのは、珍しくないから」
確かに、村では昔から奇妙な事件が多発している。土砂災害や豪雨災害など頻繁に発生するし、神隠し事件や化物の目撃談なども後を絶たない。「村が呪われている」と言う者もいる。これまで晃は、そういった話を子供じみた怪談話だと一笑に付していたが、羆が現れたとなると、それらの話もまんざら嘘でもないのかもしれない。
「……父が、『山の様子がおかしい』と言っていたのは、こういうことだったんでしょうか?」
「そうね。今日の山は、普段とは明らかに違う。空気が騒がしいわ」
「空気が……騒がしい……?」
「ええ。あなたは、何も感じないの?」
そう言われ、晃は周囲を見回した。薄闇に包まれた岩場の斜面。秋の夜明け前のひんやりとした空気が漂っているだけで、何も感じない。
そんな晃の様子を見て、比沙子は呆れたような顔になった。「……あなたの家系は、昔から勘が鋭い人が多いはずだけど、あなたは違うみたいね」
「…………」
「山には、多くの生き物が暮らしている。獣はもちろん、鳥に魚、昆虫、植物、あるいは、土や岩、川の水の流れ、たちこめる霧、空を覆う雲……全てが、呼吸をしているの。『山の息遣い』と言えば判りやすいかしら? それを感じられないようじゃ、父親のような猟師にはなれないわよ?」
「……そうかもしれません」
晃は顔を伏せた。父から言われ続けた「お前は猟師に向いていない」という言葉が、今さらながら胸に深く突き刺さる。
比沙子は小さくため息をついた。「まあ、あたしにはどうでもいいことだわ。それより、これからどうするかよ。熊は満腹感に浸っているみたいだから、しばらく今の場所から動かないでしょうね。とりあえず、夜が明けるのを待って、山を下りましょう」
晃は首を振った。「駄目です。山を下りたら、熊を見失ってしまう。そうなったら、また誰か襲われるかもしれない」
「……なら、どうするの?」
晃は、銃を握りしめた。「俺が、倒します」
比沙子が小さく笑う。「あなたには無理よ。犠牲者が一人増えるだけだわ。一度山を下り、人を集めて山狩りをするのが無難よ」
「求導女様は、そうしてください。俺は、一人でやってみます」
決意を込めて言う晃。娘や父が殺されたのが自分のせいであると判った以上、村人に合わす顔が無い。それに、確かに村人たちで山狩りをする方が、熊を仕留められる可能性は高いだろう。だが、村人にまた被害が出る可能性も出てくる。それだけは何としても避けたかった。もちろん、自分などにあの熊を仕留められるとは思えない。それでも、手や足に銃弾の一発でも撃ち込み、弱らせておけば、後々村人が倒しやすくなるだろう。
比沙子は、また肩をすくめた。「まあ、好きにしたら? 信者でもないあなたがどうなろうと、あたしには関係ないから。あたしはただ、あたしの中の別の存在があなたを助けろと言うから、仕方なく来ただけ」
「求導女様の中の、別の存在……?」
晃は、比沙子の言葉を胸の中で吟味し、そして言った。「それは、求導女様の中に別の人間がいる、ということですか?」
そう言っては見たものの、そんなことがあり得るのか、自分でも疑問だった。だが、そう考えると、今の比沙子がいつもと別人のように思えるのも納得がいく。高圧的な態度と、熊や猟などに関する深い知識。今の求導女は、村人から『慈愛に満ちた聖母のような女性』と称される比沙子では、決してない。
「へえ? かなり舌足らずな説明だったはずだけど、そこまで理解するなんて。あなた、頭は悪くないようね」
比沙子の顔に笑顔が浮かぶ。それは、今までのどこか人を見下したような笑いではなく、感心したかのような笑みだった。
比沙子は腕を組んだ。「いいわ。ご褒美に、少しだけ助言してあげる。熊はしばらく今の場所から動かない。でも、あなたの方から近づいて仕留めるのは、まず不可能。必ず気付かれるわ。熊を仕留めるならば、待ち伏せが基本。あなたの父親のやり方と同じよ」
晃は、大きく頷いた。
比沙子はさらに続ける。「あの熊はかなり大きい。その分食欲も旺盛だろうけど、人間二人を一度に食べてしまうとは思えない。羆は、食べきれない食糧を地中に埋めておく習性があるの。あとで掘り起こして食べるためにね。父親が襲われた場所の周辺を探してみなさい。どこかに埋められているはずよ。そこで待つの。熊は、必ず現れる」
「――判りました。求導女様、ありがとうございます」
晃は、深く頭を下げた。
東の空が白み始めた。かなり長い間話していたようである。周囲はかなり明るくなっていた。これならば、移動に支障はない。
晃は比沙子と別れると、斜面を下り、父が襲われた場所へ向かって走った。
晃が熊と遭遇した場所に戻ってきたのは、陽がやや西に傾きかけた頃だった。連れ去られた娘が食い荒らされ、父が襲われた場所。荒々しく踏み倒された熊笹の上に広がっていた血溜まりはすでに渇き、どす黒い塊となっている。食い荒らされた娘の身体からは腐臭が漂い始めており、乾いた血の匂いと混ざって晃の胃の奥を刺激した。
比沙子の話によると、熊は、食べきれなかった父の身体を近くに埋めているらしい。晃は、昨日父が襲われた場所に立った。父の遺体は無く、比較的新しい血溜まりが広がっていた。そして、遺体を引きずったと思われる血の跡が、熊笹の茂みの中に消えていた。
すぐに血の跡をたどろうとした晃だったが、数歩進んで足を止めた。すぐ側に父の猟銃が落ちていたのだ。父の銃は、村田銃の中では最も後期の型である二十二年式だ。晃の村田銃が装填数一発なのに対し、二十二年式は八発も装填することができる。晃は父の銃を拾い、状態を確認する。損傷した形跡はなく、弾もまだ六発残っている。問題なく撃てそうだ。銃の腕が未熟な自分には、装填数は多い方がいい。晃は、父の銃を借りることにした。
茂みをかき分け血の跡を追う晃。しばらく進むと、茂みを抜けて沢に出た。緩やかな水の流れがカーブしている内側の河原だ。血の跡は、水辺から少し離れた場所で終わっていた。近づいて確認すると、土は柔らかく、一度掘って埋めたものに間違いなかった。この下に、父が埋まっている。そう思うと、晃の胸には複雑な思いが浮かぶ。父を失った悲しみはもちろんだが、父の命を奪った熊に対する怒りや、村一番の猟師であった父が熊に殺されたという事実に対する怒り、さらには、父の真意に気付けなかった自分に対する怒りもある。様々な感情が交じり合い、晃の目から、いつの間にか涙があふれていた。晃はしばらくその場に立ちつくし、泣いた。
だが、感傷に浸っている場合ではない。
涙を拭い、周囲を確認した。前日、比沙子が言った熊が眠っているという場所は、ここら南西に一キロから一・五キロほどの場所だ。熊がこの場に戻って来るならこの方向からだ。反対側の水辺に、ちょうど身を隠せそうな大きな岩があった。風は南から北へ流れているが、時折別の方向から強く吹き付けることもある。風向きが定まっていない。もし、熊が接近した折、晃が隠れている場所が風上になれば、匂いで気付かれるかもしれない。そう思ったが、改めて地形を考慮し、あまり問題は無いだろうと判断した。この河原には父が埋められている。父の匂いが、自分の匂いを隠してくれるだろう。晃は岩陰に身を潜めた。ここで、あの熊が来るのを待つ。
どれくらい待てばいいのか、晃には見当もつかない。晃の猟の経験は浅く、知識は少ない。そのわずかな知識もツキノワグマに関するものであり、羆のことは何も知らない。どれくらいの感覚で食事するのか、どの程度の行動範囲を持つのか、どの程度の距離で撃つのが理想か、どこを狙うのが良いか……判らないことだらけだ。だから、考えるのをやめた。判らないことをいくら考えても無駄だ。知識が少ないのは、もうどうしようもない。ならば、少ない知識で戦うだけだ。晃は、相手をヒグマと考えず、極めて大きなツキノワグマだと思うことにした。そして、父の猟のやり方を思い出す。十四歳の時より父について山に入っていた晃。誰よりも、父の猟を間近で見てきた。その記憶は、必ず役に立つはずだ。
冬も近いこの時期、熊の食欲は旺盛だ。何度も食事をし、厳しい冬を迎える準備をする。ならば、どんなに腹が膨れていようとも、数日中にはこの場に現れるだろう。それまでこの場に留まることができるだろうか? 山に入る際に準備した食糧は一日分、父の分と合わせて二日分になる。山に入ってすぐに熊に襲われ、その後はずっと逃げていたため、まだ手をつけていない。切り詰めれば五日はもつはずだ。川の側なので水は問題ないし、森に戻れば木の実や野草も手に入る。食料の心配はしなくて大丈夫だろう。
続いて晃は、熊がこの場に現れる時の様子を思い描いた。茂みから現れた熊は、周囲を警戒しながら父を埋めた場所まで行き、掘り返す。その時に撃つのが理想だ。父が埋められている場所は、ここから二十メートルほどだ。父が熊を撃つ距離は二十メートル以内だった。父と自分の腕前を考えると、もう少し近い方が良いだろう。だが、こちらから近づくのは無謀だ。向こうから来るのを待つしかない。食事を終え、喉を潤すために沢に近づいた時が勝負だ。
晃は、もう一度父の銃の状態を確認する。弾は確かに込められている。銃身のどこにも損傷はない。それでも、なんらかの理由により弾が発射されない可能性は十分にある。それは、どんな銃にも言えることだった。晃は念のため、自分の銃もすぐに撃てるようにし、側に置いた。
準備は整った。あとは、相手が現れるのを待つだけである。晃は、ひたすら待った。
その時は、晃が思ったよりも早く訪れた。
二日目の夕方だった。熊笹の茂みがガサガサと揺れたかと思うと、茶色の毛並みの熊が、のっそりと姿を現したのだ。思わず声を上げそうになり、晃は慌てて口を抑えた。まずは何よりも落ち着かねばならない。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そして、静かに銃を構えた。引き金に指を掛ける。焦るな。引き金を引くのはまだ早い。熊はまず地中に埋めた餌を掘り起し、食べ、そして、沢へ向かうはずだ。撃つのはその時。二十メートル以内――できれば十メートル程度までは近づけたい。晃は、はやる気持ちを抑え、待つ。
姿を現した熊は、晃の予想に反し、その場から動こうとしなかった。盛んに鼻をひくつかせ、匂いを嗅ごうとしている。こちらの存在に感づいているのだろうか? いや。風は、茂みから沢へ向かって流れている。つまり、こちらが風下だ。仮に風向きが変わったとしても、すぐ側には父の遺体がある。匂いで気付かれる恐れはない。相手はただ用心深いだけだ。焦らず、待てばいい。そう、胸の内で言い聞かせた。
だが、それでも熊は動こうとしなかった。鼻をひくつかせたかと思うと、周囲を見回し、耳を小刻みに動かす。こちらの存在には気付いていないはずだが、明らかに何かを警戒している。まずいな、と思った。熊は憶病な生き物だ。この場に危険を感じたなら、近づくのをやめるかもしれない。茂みに戻ると逃げられてしまう。今この場で撃つべきだろうか? 晃と熊の距離は三十メートル以上。遠射のきかない村田銃でも撃てない距離ではないが、晃の腕前では不安だ。だが、逃げられては意味が無い。どうすべきか……考え、晃は相手が羆であることを思い出した。臆病なツキノワグマと違い、極めて獰猛。しかも、人間の肉の味を知っている。こちらが姿を現せば、襲って来るのではないか……そんなことを考えたが、すぐに思い直した。それは、自らをおとりにするということだ。少し前の晃ならばすぐに実践しただろうが、今はひどく愚行に思える。自分は、父の猟のやり方を守る。晃は息を殺し、相手が動くのを待った。
――と、周囲を警戒していた熊の動きが、不意に止まった。そのままじっとして、動かない。
どうしたのだろう? 晃が疑問に思った瞬間。
びくん、と、晃の身体が大きく震えた。
同時に、目の前に別の映像が浮かぶ。岩陰に隠れ、銃を構えている若い男の姿――晃自身だ。
それは一瞬の出来事で、映像はすぐに消えた。なんだ? 今のは?
熊が、大きく吠えた。
そして、こちらに向かって走って来る。気付かれた!!
だが、晃は自分でも不思議なほど落ち着いていた。熊が迫ってくる恐怖が無いわけではないが、それよりも、これは熊を仕留める絶好の機会だという思いの方が強かった。相手の方から近づいてきている。十メートル程度まで引きつけ、引き金を引くだけだ。晃は銃を構えたまま待つ。熊が地面を踏む振動が、晃の足にも伝わってくる。距離が詰まる。焦りは……無い。熊との距離が十メートルまで詰まった。今だ! 晃は引き金を引いた。銃声が耳の奥を、硝煙が鼻孔を刺激する。熊の身体から血飛沫が飛び散った。同時に、前のめりになって倒れる。やったか? 熊の姿をよく確認しようと、晃は銃身から顔を離した。
その瞬間、熊は起き上がり、再び晃に向かって走り出した!
まずい! 再び銃を構え、引き金を引いた。だが、この土壇場で晃の未熟さが現れた。彼は焦るあまり、狙いを定める前に引き金を引いてしまったのだ。弾は熊の身体をかすめることもなかった。次の弾を撃つ余裕は無かった。熊は晃の目の前に二本足で立ち、巨大な手を振り上げた。
晃は、己の死を覚悟した。やはり、自分などにこの熊を仕留めることはできなかった。当然かもしれない。相手は、あの父でさえ仕留めることができなかった熊なのだから。それに、未熟な自分にしてはよくやった方だと思う。
晃は、最期に少しだけ、父に近づけた気がした。それだけで満足だった。
突然。
熊の身体が、炎に包まれた。
何が起こったのか判らない晃は、ただ茫然と立ち尽くす。
熊は苦しそうに吠え、その場を転がり回った。炎を消そうとしているのか。だが、炎は消えるどころか、ますます勢いを増して燃え上がる。
やがて、熊は動かなくなった。
その瞬間、今まで勢いよく燃えていたのが嘘のように、炎は霧散した。
消えた炎の向こうに、赤い修道服を着た女が、手のひらを熊に向けた状態で立っていた。
「――あなたにしてはよくやった方だけど、最後の詰めが甘かったわね」
修道服を着た女――八尾比沙子は、手を下ろすと、ゆっくりと晃の方へやってきた。
ぺたり、と、その場に崩れ落ちる晃。
助かった、という安堵感は無い。何が起こったのか? という疑問も無い。幻視を使い、炎を操るこの女は何者なのか? という思いも無かった。晃の胸にあるのは敗北感。自分はあの熊との戦いに敗れたのだ。未熟な身としてはよくやった方だと思うが、それでも、戦いに敗れたことに変わりない。やはり、自分は猟師に向いていないのだろう。父の言う通り。
「……まあ、そう気を落とすことも無いわよ」
思いがけない優しい言葉に、晃は顔を上げた。
比沙子は倒れた熊に近づくと、頭を指さした。「あなたの撃った弾は急所を捉えている。これが普通の熊だったら、確実にあなたの勝ちだった」
比沙子が指さした先を見る。確かに、熊の額には大きな穴が開いていた。脳天を撃ち抜かれてどうして動くことができたのかは判らないが、今の晃には、それを考える気力も無かった。
比沙子は小さく微笑むと、熊の身体を掴んだ。その細腕のどこにそんな力があったのか、軽々と熊の身体をひっくり返すと、ナイフを取り出し、熊の腹を切り裂いた。そして、手早く作業し、熊の体内から胆のうを取り出す。
「熊を仕留めた証として持ち帰りなさい」
そう言って、晃に渡した。
熊の胆のう――いわゆる熊の胆は、貴重な薬品となるため、肉や毛皮などとは比べ物にならないほど高く売れる。ましてこの熊の胆は羆のものであり、ツキノワグマのものより二回り以上大きい。恐らく一年は金に困らないであろう。
「後の処分はあたしがやっておくわ。あなたは、もう山を下りなさい。早くしないと、二度と帰れなくなるかもしれないから」
晃はゆっくりと立ち上がると、荷物をまとめた。
そして、比沙子に向かって頭を下げた。「求導女様。いろいろと、ありがとうございました。おかげで、父の仇が討てました」
「礼なら
晃は大きく頷くと。
「求導女様。俺は、ひとつ約束します」
胸の奥の決意と共に、言った。「求導女様が何を言っているのか、あなたの正体はなんなのか、この村で何が起こっているのか、俺には判りません。でも、俺は決して、それらのことを詮索しません。あなたが何者であろうと、俺は、求導女様のことを信じます」
「……そう」
比沙子は、そっけなく言っただけだった。
「では、失礼します」
晃はもう一度頭を下げると、歩きだした。
が、ふと足を止める。
――父の遺体を持ち帰るべきだろうか?
そう思った。
だが、少し考え、やめておくことにした。父は、自分に今の姿を見られたくないだろう。そんな気がした。
それに。
山ならば父も安心して眠れるはずだ。
川上から、強い風が吹いた。これまで吹いていた風よりも、冷たい。
晃は、山に冬が訪れたことを悟った。
☆
山を下りた晃は、熊の胆を業者に売り、その金を、熊に襲われた娘の家族に渡した。
☆
その後も、晃は村で猟師を続けた。数年後には嫁を娶り、そして、子をもうけた。
数十年の時が流れた。あの日の約束通り、晃は比沙子の正体については口をつぐみ続けた。
時が経つにつれ、なんとなくではあるが、比沙子の正体が判って来た。恐らく比沙子は何百年も前から生きており、村で起きている奇妙な事件は、全て、比沙子に原因があるのではないか、と。
また、村では数十年に一度、村の有力者である神代家が怪しげな祭事を行っているのだが、それは、裏で比沙子が取り仕切っているということも。
晃だけでなく、晃の親族もまた、そのことに気付き始めた。特に、晃の従兄弟は「この村は呪われていて、その原因は比沙子にある」と、声高に叫んだ。また、成人した晃の息子も、従兄弟の考えに同調し始めた。
晃は、そんな二人に対し「求導女様のやることに口を出すな」と言い続けた。それは、あの日約束したから、というのもあるが、何よりも、比沙子がやることは全て村のためだと信じていたからだった。
その後、晃の従兄弟は宮田医院に監禁され、息子は、儀式が原因と思われる土砂災害により、行方不明となった。
これがきっかけとなり、晃も比沙子に対して不信感を抱くようになったが。
それでも、晃はあの日の約束を守り、最期まで比沙子のやることに口出しはしなかった。