刈割の丘の上にある眞魚教の教会では、毎週日曜日に礼拝式を行っている。礼拝堂には、今日も多くの信者が集まっていた。
式は、神に祈りを奉げることから始まる。礼拝堂の奥に掲げられている巨大なマナ字架に向かって手を組み、今日まで無事に過ごせたことを感謝し、明日からも無事に過ごせることを願うのだ。そして、皆で聖歌を歌う。聖歌とは、神を讃え、神に奉げる歌である。眞魚教においては、奉神御詠歌とも呼ばれていた。
聖歌を歌い終わった後は、
壇上に立った求導師は、信者たちに一礼すると、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「――今日も礼拝式にお集まりいただき、ありがとうございます。皆様の前で神の教えを説くなど、まだまだ私などには荷が重いのですが、私も求導師となった身。未熟ながら、精一杯勤めさせていただきます」
求導師の声には、まだ幼さが残っている。求導師・牧野慶は、今年十七歳だ。信者たちは小さく笑いながらも、温かい目で見守り、彼の言葉を待った。
「皆さんは、昨日の夜、何を食べられましたか?」
慶は礼拝堂をぐるっと見回した後、祭壇の前に座っている恩田夫妻を見た。「恩田さん、いかがですか?」
「はい」と、妻が答える。「昨日は、鶏の空揚げと、サラダを作って食べました」
恩田家には、美奈と理沙という小学校高学年の双子の姉妹がいる。もしかしたら、姉妹の大好物なのかもしれない。今日は姉妹の姿はない。昔は親子そろって式に参加してくれていたが、最近は夫婦だけで来ることが多くなった。そういう年頃なのかもしれない。
「なるほど。では――」
慶は、恩田夫妻の隣にいる前田一家を見た。前田一家は、両親と娘の三人で、毎週礼拝式に来てくれている。慶は、四歳になったばかりの娘の知子に話しかけた。「知子ちゃんはどうかな? 昨日の夜は、何を食べたの?」
「えっとね……ハンバーグ!」知子は片手を挙げ、元気よく答える。「お母さんのハンバーグ、とってもおいしいんだよ!!
「そっか。それは、一度食べてみたいね」
「うん! 求導師様、今度、知子の家に食べに来て!」
屈託ない笑顔で言う知子に、母親は「こ……こら、知子。失礼よ」となだめた。礼拝堂は、みんなの笑い声に包まれた。
慶もしばらく笑った後、視線を信者全員に戻した。「ちなみに私は、佐々木さんのお魚屋で買ったサバを焼いて食べました。この時期は、脂がのってて美味しいんですよね。こんな風に、我々は、生きて行くうえで毎日何かを食べますが、それらはすべて、元は命あったものです。私が昨日食べたサバは、ほんの数日前までは元気よく海を泳いでいたはずです。恩田家で食べた鶏のから揚げも、前田家で食べたハンバーグも、ニワトリやブタやウシの肉からできていて、それらは当然、生きていました。当たり前の話なのですが、普段、そんなことを考えて食事をしている人は少ないでしょう。我々は、生きて行くために他の命を糧にしています。中には、菜食主義で肉や魚などを食べないという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、野菜などの植物も、太陽の光や、水、土から栄養を採り、成長します。やはり、命ある存在と言えるでしょう。我々は、多くの命の上に成り立っているのです。我々は生きているのではなく、生かされている。そのことに感謝しましょう。日々の感謝無くして生きるは罪です。祈りましょう」
慶は胸の前で手を組み、目を閉じた。信者たちもそれにならう。皆で感謝の祈りをささげ、法説の時間は終わりとなった。
法説が終わった後は、一時間ほど時間をおいて食事会となる。それまでの時間は礼拝堂を解放し、信者同士で交流することを勧めている。要するに、村人の井戸端会議の時間だ。
「――本日の法説は、いろいろと考えさせられるものがありました。求導師様も、まだ若いのに立派に職務を果たされていらっしゃる」
求導女の八尾比沙子に、中年の女性信者が話しかけて来た。比沙子は「ええ、そうですね」と、笑顔で応えた。
「先代の求導師様が亡くなられて、もう四年ですか」女性信者は昔を思い出すような顔になった。「今の求導師様の姿を見れば、先代も安心でしょう」
「はい。慶様は、先代の遺志を立派に受け継いでいます。先代が成し得なかったことも、彼ならきっと、成し遂げてくれるでしょう」
「そうですか。それは良かった」
「これも、支えてくださる皆様のおかげです」
比沙子は笑顔で応えながらも、心の内では小さくため息をついていた。求導師は順調に育っている――表向きは、そう見えるだろう。今日の法説も、最初から最後まで淀みなく話すことができていた。多くの信者が、まだ若いのに立派だと思ったかもしれない。
だが、それは表向きだけだ。裏では、牧野慶は何とも頼りない存在である。彼は、比沙子がいないと何もできない男だった。今日の法説も、実は比沙子が事前に用意したものである。慶はそれを丸暗記し、機械的に話しただけに過ぎない。恩田夫妻や前田一家に話しかけ、返ってきた答えに対して即興で話を展開させたようにも見えるが、実はそれさえも、比沙子が用意したシナリオ通りだった。昨晩、恩田家が鶏のから揚げを、前田家がハンバーグを食べたことは、事前に調べて判っていたのだ。現世でも幻視ができる比沙子には、彼らが何を食べたのか知るなど簡単なことだった。今日の法説は予定通りに進んだが、もし、恩田家や前田家が何を食べたのかすっかり忘れていたり、別の家族が割り込んで答えたりしていたら、慶はしどろもどろになっていたことだろう。
先代の求導師が早くに亡くなったため、牧野慶が跡を継いだのはわずか十三歳の時だった。求導師の責務を負わせるにはあまりにも若いが、比沙子が後見人となり、一人前の求導師になれるよう教育してきた。慶は非常に気弱な性格で、求導師のような人を指導する立場には明らかに向いていなかったが、書物などを読んで短期間で暗記する頭の良さと、言われたことを忠実に実行する器用さを持ち合わせていた。だから、比沙子の指示があれば立派に職務を果たせるが、指示がなければ何もできない。牧野慶は、そういう人間なのである。
もっとも、それは比沙子があえてそういうふうに育てたから、という点が大きい。自分の思い通りに動いてくれる求導師は、比沙子にとっては都合が良い存在なのだ。ある意味では。
比沙子はしばらく女性信者と求導師の成長について話をしていたが、信者はふと思い出したように「そう言えば、宮田医院の坊ちゃんの話は、聞かれましたか?」と言った。
「司郎君のことですか?」顔を傾ける比沙子。
宮田医院には、慶と同い年の、司郎という名の子供がいる。同い年――というより、二人は元々双子の兄弟だった。一九七六年に『吉村』という信者の家に生まれたのだが、その年の夏、村を襲った大きな土砂災害で両親が亡くなったのをきっかけに、兄は教会へ、弟は宮田医院へ引き取られたのである。
「院長夫人が、よく愚痴をこぼしていますよ」と、信者は声を潜めて続ける。「『求導師様は立派に職務を果たされているのに、うちの息子は、いつまでたっても何もできない』って」
宮田医院は、神代家や教会に次ぐ村の有力者である。当然のごとく眞魚教の信者であり、礼拝式には一家そろって毎回参加してくれていた。
比沙子は礼拝堂を見回した。院長夫人――宮田涼子と、司郎の姿はない。法説の時はいたはずだ。この後食事会があるから、帰ったということはないだろう。
気になった比沙子は、ウワサ話好きの信者の話を適当に切り上げ、涼子と司郎を探すため外に出た。玄関のそばで立ち話をしていた信者たちに訊くと、二人が教会の裏に歩いて行くのを見たという。比沙子は教会の裏へ向かった。
すると。
「――本当に、求導師様は立派に育ちました。あなたとは、大違いです」
角を曲がったところで涼子の声が聞こえてきた。足を止める比沙子。教会の裏には村を一望できる広場がある。そこに、涼子と司郎はいた。思わず建物の陰に身を隠す比沙子。涼子の不機嫌そうな声から、どうやら司郎が叱られているようだ。
「申し訳ありません」
低く、それでいてはっきりと聞き取れる声で謝る司郎。その声には抑揚がなく、感情が込められていない。表情も同じだった。何の感情も浮かんでいない顔。叱られているのに、反省する様子も、悲しむ様子も、憤る様子もなかった。双子の兄である慶は非常に感情が豊かだ。信者と話す時は笑顔になり、比沙子に叱られた時はこの世の終わりを迎えたかのような悲しそうな顔になる。今の司郎とは正反対だ。双子である二人は同じ顔であるはずなのに、まるで別人のようだ。
反省の色が感じられない司郎の様子が癇に障ったのか、涼子の声がさらに不機嫌になる。「なんですか、その態度は。あなたはいつもそう。謝罪の言葉は口にしても、反省も何もしていない」
「そのようなことはありませんが……そう思わせてしまったのならば、申し訳ありません」
やはり、司郎は淡々と答える。
「……まあ、それは構いません。宮田家の男には、そういう面も必要でしょう。ですが、
「…………」
口をつぐむ司郎。
涼子は腕を組み、顎を上げた。「そうやって、仕事の話になるとすぐに黙り込む。いつまでもそれでごまかせると思っているのですか?」
「そのようなことはありませんが……そう思わせてしまったのならば、申し訳ありません」
さっきと同じ言葉を、さっきと同じ口調で答える司郎。まるで機械のようだ。
涼子は大きくため息をついた。「親を馬鹿にして……本当にあなたは、悪い子。なぜ、あなたのような子を引き取ってしまったのでしょう。もう一人の子……求導師様は、素直な良い子に育っているというのに」
感情の無い司郎に対し、涼子は内から感情が滲み出ていた。決して良い感情ではない。思うように育たない息子への苛立ちや、素直に育っている兄・慶への嫉妬といった、負の感情。
血のつながった兄と比べられたからだろうか。司郎の顔が、わずかに歪んだ。
それを、涼子は見逃さなかった。攻める隙を見つけたかのようにニヤリと笑う。「捨てられていた双子の兄弟を、私たちは拾った。兄は教会へ。弟は病院へ。それは、単なる偶然。私が引き取ったのが、たまたま弟だっただけのこと。あの時、私が兄を引き取っていれば、宮田家は安泰だったのに。ねぇ?」
ねっとりと身体に絡みつくような声の涼子。その表情は、獲物を見つけた蛇を思わせる。
比沙子は小さくため息をついた。よその家庭の教育方針についてどうこう言う資格など自分には無いが、あの涼子の言い方は、明らかに良くない。黙って見ているワケにもいかないだろう。
「――ああ、涼子さん。ここにいらしたんですね」
比沙子は、いま涼子たちを見つけたかのように装い、広場に出て行った。「もうすぐ食事会が始まります。皆さん、礼拝堂でお待ちですよ?」
比沙子に気付いた涼子の顔が、普段の表情に戻った。「これは求導女様。申し訳ありません。すぐに参ります」
司郎に対する態度とは一転し、涼子はうやうやしい様子で頭を下げた。村での立場的に、教会は宮田医院よりも上である。
比沙子は微笑んで応えると、今度は司郎を見た。「さあ、司郎君も、早く。求導師様も待ってるわ」
「いえ、せっかくですが――」と、涼子が口を挟む。「司郎は大事な用がありますので、これで失礼させていただきます」
そして、涼子は司郎を見て、冷たい口調で続けた。「――司郎。あなたは先に病院へ戻って、昨日の仕事の反省をしていなさい」
「……はい」
相変わらず無感情な顔と声で返事をする司郎。涼子はまだ何か言いたげだったが、比沙子がいる手前、ふん、と、鼻を鳴らすだけに留め、礼拝堂へと戻って行った。
「では求導女様、僕は、ここで失礼します」
機械的な口調でそう言って、機械的な様子で頭を下げる司郎。そして、そのまま帰ろうとする。
「あ、待って、司郎君」比沙子は司郎と呼び止めた。「少し、お話ししていかない?」
親子以上に年の離れた比沙子にそんなことを言われ、少しは戸惑うかと思ったが、振り返った司郎は全く感情を乱すこともなく、「いえ。母に、病院に戻るよう言われましたので」と答えた。
「少しくらい良いじゃない? お母さんのことなら心配しないで。もし、何か言われたら、あたしと話してって言えば、大丈夫よ。お母さんは、あたしの言うことには逆らえないから」
冗談っぽく言ったが、これは本当のことだった。この羽生蛇村において、教会は病院よりも上の立場だ。そのことは、涼子も、そして司郎もまた、よく知っている。
「判りました。では、少しだけ」
比沙子と司郎は、村を見渡せる広場に腰を下ろした。
表向き医者を目指している司郎は、慶とは違う学校に通っている。隣街にある医大の付属高校だ。比沙子はまず、学校の成績や交友関係など、当たり障りのないことを訊いてみた。司郎は淡々とした口調ながらも、ちゃんと話してくれた。
しばらく雑談をつづけた後、涼子について訊いてみることにした。
「さっき、お母さんが仕事のことについて話してたみたいだけど、何があったの?」
「…………」司郎は口をつぐんでしまった。
「なにか、失敗しちゃったとか?」
司郎はしばらく沈黙する。その表情は相変わらず乱れないが、彼なりに迷っているのかもしれない。
やがて司郎は、「申し訳ありません。言えません」と、短く言った。
「お仕事に失敗した話とか、思い切って話しちゃえば、意外とスッキリするものよ?」
「いえ、この件は、教会は知らずとも良いことですから」
つまり――宮田医院の裏の仕事ということだろう。
宮田医院は、表向きは村唯一の病院として村人の健康を守る存在であるが、その裏では、神代家や教会のため、村人の拉致監禁や、現世に現れた屍人の処分といった、非合法な行為を行っている。言わば、村の暗部を担う存在だ。
司郎の様子と涼子の話から察するに、宮田医院に裏の仕事の依頼があったのだろう。教会は何も依頼していないから、恐らく神代家だ。涼子は依頼された仕事を司郎に任せたが、司郎にはうまく行えなかった……そんなところだろうか。宮田医院の裏の仕事に失敗は許されない。もっとも、まだ十七歳の司郎に任せるくらいなら、さほど重要な仕事ではないだろう。うまく行えなかったとしても、大きな問題はない。恐らく司郎の義父がフォローしたはずだ。
比沙子は裏の仕事の件にはそれ以上触れず、話題を変えることにした。「――お母さんは、厳しい?」
「はい。とても厳しいです」
意外にも、素直に認める司郎。
しかしその後、淡々とした口調で続ける。「ですが、僕は将来、父の跡を継いで宮田医院の院長となる身です。村にとって重要な責務を負う立場になります。母の厳しさは、当然のことだと思います」
実に模範的な回答である。
だからこそ比沙子は気付いた。
その表情、その喋り方、一切感情がこもらないその裏に、本当の気持ちが押し込められている。
一卵性の双子である慶と司郎は、元々ひとつの命であったものがふたつに分かれたのだ。本来ならば、司郎も慶と同じく感情豊かな人間であるはずだ。しかし、母・涼子の歪んだ育て方により、その豊かな感情を胸の内に押し込み、無感情という仮面をかぶってしまったのかもしれない。良くない傾向だ。押し込められた感情は、決して消えることは無い。溜まりに溜まった末、いずれ爆発するだろう。その時、司郎の感情が向けられるのは、司郎をそんなふうに育てた母親か、それとも、ずっと比較されてきた兄・慶か。いずれにしても、悲劇的な結末を迎えるのは目に見えていた。このままではいけない。少し、司郎の心の負担を和らげた方がいいかもしれない。
比沙子は、司郎の顔を見て、ゆっくりとした口調で話し始めた。「お母さんが司郎君に厳しくするのにも、理由があるのよ。お母さんはね、宮田医院に嫁入りしてから、なかなか子供を授からなくて、苦労したの」
「え――?」
司郎の顔に戸惑いが生じた。それは、彼の顔に初めて感情が宿ったように見えた。
比沙子は続ける。「お母さんが、先代求導師様の妹だっていうのは、知ってるわよね? 教会から宮田家に嫁いだのは、涼子さんが二十三歳のときだったわ」
当時は子供を生むのが女の仕事だと言われていた時代だ。宮田医院のような古くから続く名家は特にその風潮が強く、涼子は、一刻も早く子供を授かろうと努力をした。しかし、なかなかうまくいかなかった。そのことを、義母――司郎のお
「そうなん……ですか」司郎は、比沙子の話を噛みしめるように聞いていた。
「ええ。それで、嫁いでから十年経って、ようやく男の子を授かったんだけど、十七年前の災害で、その子も
「それで、僕を引き取った……」
「そうね……でも、だからといって、司郎君への愛情が無いわけじゃないけど、ちょっと、気持ちが歪んじゃったのかもしれないわね。それだけ、お祖母ちゃんからの重圧が強かったのよ」
「…………」
「でもね、そのお祖母ちゃんも、宮田家に嫁いでからなかなか子供を授からなくて、苦労してたの。司郎君のひいお祖母ちゃんに、たくさん小言を言われてたみたい」
そして、そのひいお祖母ちゃんもまた子づくりに悩み、義母から小言を言われ続けていた。
その義母も、そのまた犠母も、同じく。
宮田家に嫁ぐ女はいつもそうだ。子を産むことを強要されながら、なかなか子を授かることができない。遺伝的な問題があるのか、あるいは、因果律で定められているのか。恐らくは後者だろうと、比沙子は思っている。どちらにしても、子供を授かりにくいのは嫁一人の問題ではないのだが、いつの時代も、まるで嫁だけが悪いような目で見られる。
比沙子は、そんな宮田家の嫁の悩みを、代々聞いてきた。
そして、そんな母親に育てられた息子の悩みも、また。
「嫌なんです」
司郎がポツリとつぶやいた。聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。だからこそ比沙子には、それが司郎の本音なのだと判る。
「……お母さんのことが?」表情がよく見えるよう、比沙子は司郎の顔を覗き込む。
司郎は小さく首を振った。「宮田家の……本当の仕事をするのが、嫌なんです」
「……そっか」
「僕は、物心ついた時から、将来は父の跡を継いで医者になるものだと思ってました。そのことは、とても嬉しかったんです。村の人が病気になったり、怪我をしたとき、治療をする。医者は、村人の健康を守り、生活を守る仕事です。そんな仕事をしている父を、心の底から尊敬していました。でも、宮田医院の仕事はそれだけじゃなかった。病院で村人の治療をする一方で、裏では、村人を傷つけるようなことをしている。それが……たまらなく嫌なんです」
「ええ……判るわ」
比沙子はそれ以上何も言わず、丘の下に広がる村の景色を眺めた。
宮田家が裏で行っている仕事は主にふたつ。神代家の行う秘祭の真実や比沙子の正体に気付いた者を捕え、地下牢に監禁すること。そして、現世に現れた屍人の処分である。それらの仕事を行うために、格闘術や重火器等武器の取り扱いを学び、尋問術や拷問術を覚え、逆に尋問や拷問に耐える訓練なども行っている。まさに、村の暗部を担う存在だ。
だが、それらはこの村にとって必要なことでもある。神代家の秘祭――神に花嫁を捧げる儀式は行わなければならない。儀式を行わなければ神の怒りを買い、村は大きな災いに襲われ、多くの村人の命が失われる。儀式は、村を災いから守るためのものでもあるのだ。同時に、神代の娘を解放することにもなる。神代の娘は、魂は不死だが肉体は滅びる不完全な不死だ。その魂を消滅させるには、神の花嫁になるしかない。
比沙子の正体に気付いた者を監禁するのも、結果的には本人のためなのだ。村人は、比沙子の正体に気付かないようになっている。比沙子の正体を周囲の人々に話したところで、誰も信じない。名を変え、姿を変え、永遠に生き、村を見張っている女――そんな話、誰が信じるというのか。気がふれたと思われるだけだ。それでもしつこく主張し続ければ、異端者とみなされ、迫害される恐れがある。それよりは、宮田医院に閉じ込めておく方が安全なのだ。
現世に現れた屍人の処分は、当然行わなければならない。屍人は、放っておけば生きている人間を次々と襲う。屍人は不死の存在だから、捕えて閉じ込めておくしかない。屍人はかつてこの村で暮らしていた人なのだから、かわいそうだと思う感情はある。だが、彼らは知能が低いので、監禁されていることを苦痛とは思わないのだ。閉じ込めておけばいずれ異界に戻るチャンスもある。時には比沙子がこっそり異界に連れて帰ることもあった。
宮田医院は村に必要な存在だ。彼らが手を汚すからこそ、村人は平和に暮らすことができる。
だが、それは司郎には言わない。どう言い繕おうとも、宮田医院が村人を傷つけているという事実は変わらないだろう。
だから、代わりに。
「……医者は、救える命よりも、救えない命の方が多い」
遠い記憶の奥底から掘り起こした言葉を口にした。
「え?」と、顔を上げた司郎に対し、比沙子は続けた。
「もう何年も前に、村のお医者様が言った言葉よ。司郎君のひいひい……もっと前のお祖父ちゃんにあたる人かな? その人も、司郎君と同じく、みんなの命を救う医者になるのが子供のころからの夢だった。まだ小さなころから町医者に弟子入りして医術を学び、その頃の日本ではまだ一般的ではなかった海外の進んだ医術も積極的に勉強したの。でもね。やっぱり、医者ができることには限界があるのよ。どんなに効果のある薬を飲ませても、どんなに進んだ治療を施しても、救えない命はある。『死』というものに対し、人間は、あまりにも無力なの。その人は、そう言っていた」
それは、三百年以上昔。南蛮国の宗教を禁止する『禁教令』のもと、眞魚教が幕府より弾圧されていた時代の話だ。なぜそんな古い話を比沙子が知っているのか――当然湧きあがるはずの疑問だが、司郎は何も言わない。恐らく、不審に思うことさえないだろう。この村に住む者は、比沙子が永遠の命を持っていることに気付かないようになっているのだから。
比沙子はさらに続けた。「でもね、こうも言ってたの。『目の前に生きようとする命があるのなら、私は救いたい。それが、医者である私の使命だ』って」
「医者の……使命……」
司郎は、その言葉を胸に刻みつけるようにつぶやいた。
「あたし、思うの。確かに、今の宮田医院は、裏で医者とはかけ離れた仕事をしている。でも、そうなったのにも意味があるんじゃないかって。同じように、司郎君が養子になって宮田医院の跡継ぎになったのも、たぶん、何か意味があるんだと思う」
「僕が、宮田医院に引き取られた意味……」
「司郎君が本当に宮田医院の仕事が嫌なんだったら、やめてもいいと思う。お父さんやお母さんが認めてくれるかは判らないけど、もし本当にやめるのなら、あたしは司郎君に協力する。でもね。あたしは、司郎君が院長になって、この村がどうなるのか、見てみたい。だって、司郎君みたいな優しい人が院長になるのって、初めてのことだもの。まして、宮田医院の院長と教会の求導師様が双子の兄弟だなんて、村始まって以来のことだわ。そこには、きっと大きな意味があると思う」
「…………」
比沙子の話を聞いた司郎は、一度視線を落とした後、丘の下に広がる村の景色に目を移した。そのまま無言で村を眺める。その顔には相変わらず何の感情も浮かんでいないように見えるが、さっきまでとは明らかに違う表情。迷いが消えたような顔――そう思うのは早計かもしれないが、そうあってほしいと思う。
比沙子はそれ以上何も語らず、しばらく二人で村を眺めた
やがて。
「――あ、いたいた。求導女様!」
教会から、中年女性の信者がやってきた。「求導師様が困ってますよ? 求導女様がいないから食事会を始められないって」
「あ、ごめんなさい。すぐ行きます」
信者にそう言った後、比沙子はお尻の埃を払いながら立ち上がった。司郎も立ち上がる。
比沙子は司郎を見た。「ごめんね、なんかあたし、ワケがわからないこと言っちゃったかも」
司郎は首を振った。「いえ、そんなことはありません。お話できて、良かったです」
「そう? なら、良かった」
比沙子はにっこりと笑った後、「じゃあ、あたしは戻るね」と告げて、教会へ向かった。
だが、少し進んだところで後足を止め、振り返った。「――お母さんが、司郎君と求導師様を比べることがあっても、気にしちゃダメよ?」
「え?」
「求導師様――慶はね、ちゃんとしているように見えるかもしれないけど、本当は、どうしようもない甘えん坊なの。あたしがいないと、何もできないのよ? 昨日だって、法説で何を話せばいいか判らないって、泣きついて来たんだから」
「そうなのですか?」
「ええ。今だって、あたしがいなくなってあたふたしてると思うの」
「それは、ちょっと見てみたいですね」
そう言った司郎の顔に、初めて、年相応の笑顔が浮かんでいた。
その笑顔に、比沙子は満足げに頷いた。「たぶん、司郎君の方がずっと大人だわ。だから、劣等感とか、コンプレックスとか、持たなくていいからね」
「判りました」
大きく頷いた後、司郎は。
「今日は、本当にありがとうございました」
深く、頭を下げた。
後日、比沙子は宮田医院を訪ねた。
「わざわざお越しいただかなくとも、御用でしたらこちらから伺いましたのに」
客間に通された比沙子にお茶を出す涼子。宮田家の客間はクラシックな雰囲気の洋間だ。床一面に真っ赤な絨毯が敷かれ、中央に大理石のテーブル、それを囲むようにソファーが置かれている。部屋の奥には振り子式の大きな柱時計が時を刻み、その隣の大きな窓からは、レースのカーテン越しに柔らかな日差しが差し込んでいる。
涼子は、比沙子の前の席に座った。「それで、今日はどういったご用件でしょうか」
出されたお茶を一口すすった後、比沙子は小さく首を振った。「そんな他人行儀な喋り方、やめましょ?」
「――え?」
「教会とか病院とか、そんな立場は忘れて、昔みたいに楽しくお喋りしましょうよ。ね? 涼子ちゃん」
目を丸くして戸惑う涼子に、比沙子は、悪戯っぽい笑みを向けた。
宮田医院の院長夫人である涼子は、教会の先代求導師である牧野怜治の妹だ。当然、嫁入りするまでは教会で育った。それはつまり、比沙子とは家族同然の仲だったということである。
戸惑いの表情を浮かべていた涼子だったが、すぐに引き締めた。「昔は昔、今は今です。教会は、病院よりも上の立場ですから」
「そんな固いこと、言わなくてもいいのに」比沙子は肩をすくめた。「ま、いいけどね。用は、司郎君のことについてなんだけど」
「はい? 司郎について、ですか?」
またまた目を丸くする涼子。そんなに意外な用件だろうか? 比沙子と涼子は、双子の兄と弟を引き取って育てている身だ。母親同士お話をするのは、別に不思議なことではないはずだ。
だが、考えてみたら、涼子と子供についてゆっくり話をしたことなど、これまで無かったように思う。驚くのも無理はないかもしれない。
比沙子は続けた。「今日は、求導女ではなく、同い年の息子を育てている母親として、話をしに来たの。この前の日曜、教会の裏で司郎君を叱ってたところ、見てたんだけど、ああいう叱り方は、良くないんじゃないかな?」
それを聞いて、涼子の顔はあからさまに不機嫌になった。「なんの話かと思いきや……お言葉を返すようですが、いかに教会が病院より上の立場とは言え、息子の教育方針にまで口出しする権利はないと思いますが」
「だから、今日は求導女ではなく、母親としてお話しに来たんだってば」
「どちらにしても同じことです。余計な口出しは控えて頂きましょう。私は、宮田家の嫁として、一刻も早く、息子を一人前に育てなければならないのですから」
「司郎君は、宮田医院の表の仕事と裏の仕事の
「何が精一杯なものですか。司郎はまだ、一人で仕事のひとつもできない。あれで、どうして院長など務まるでしょう。このままでは、私はご先祖様に顔向けできません」
「何をそんなに焦っているの?」
「焦ってなどいません」
比沙子の意見にも、主張を曲げない涼子。言葉と視線がすれ違う。
比沙子は小さく息を吐くと、一度お茶をすすって喉を潤し、そして言った。「……涼子ちゃん。もう、お義母さんはいないんだよ?」
『お義母さん』という言葉に、涼子は一瞬、大きく震えた。
「な……何を言っているのです」声も震えている。
「今も見られていると思ってるんでしょ? お義母さんに」
「――――」
涼子は言葉を失った。目に見えて動揺している。比沙子の言葉は、核心を突いたようだ。
比沙子には判っていた。涼子は、義母――先代の院長夫人に、今も怯えている。
宮田家に嫁いだものの、涼子はなかなか子を授かることができなかった。一時は離縁の話が出ていたとも聞く。宮田家における離縁とは、単に籍を外され、家を出て行くといった単純なものではない。村の暗部を担う宮田家には、外部に知られてはいけないことが多くある。離縁された者は、病院の地下牢に監禁され、二度と日の目を見ることは無い。
涼子は、宮田家から離縁を言い渡されることに、ずっと怯えていたのだ。
特に義母は、涼子にとっては悪夢のような存在だった。嫁いでからずっと、早く子を産むよう口うるさく言われ続け、涼子の心はどんどん追い詰められていった。義母からの重圧は、涼子の心を壊してしまったのかもしれない。
そんな義母も、数年前に亡くなった。
だが涼子は、今も義母の影に怯えている。義母がまだこの家にいると思っている。司郎を一人前に育てられるか、ずっと見張られていると思っている。
だが、それはあり得ないのだ。義母は死に、この世から消えた。未練を残し、成仏できない魂が現世を彷徨っているなどということは、決して無い。
様々な怪奇現象が起こる羽生蛇村だが、幽霊とか霊魂というものだけは、基本的に存在しないのだ。
村人は、死んでもすぐに常世へ行けるわけではない。まずは異界に行き、そこで屍人となる。そして、生前と同じような生活を送りながら、海送り・海還りの儀式を行い、前世の穢れを祓うのだ。穢れを祓い、神に認められた者は、常世へと旅立つことができる。これが、この村の絶対的な仕組みである。
だから、義母の魂だけが現世に残るということは、羽生蛇村ではありえないのだ。
ただひとつの例外は、神代家の娘だ。神によって常世に来ることを拒まれている神代家の娘は、肉体は滅びても魂は滅びない存在だ。現世、もしくは異界で、永遠に彷徨い続けることになる。神代家の地下室には、歴代の神代の娘の魂が、今も多く彷徨っている。
しかし、涼子の義母は神代家の娘ではない。なんらかの原因により神代の血が混じったということもあり得なくはないが、少なくともこの家に義母の魂はいない。比沙子は、消滅できずに彷徨う魂を見ることができ、その声を聞くこともできる。比沙子が見る限り、この家にも、そして村のどこにも、義母の魂はいない。だから、涼子が義母の姿を見ているとするならば、それは、『宮田医院の跡継ぎを産み、育てなければならない』という重圧が生みだした幻覚に過ぎないのだ。
「お義母さんは、もういないの」比沙子は、ゆっくりと教え諭すように言う。「涼子ちゃんを追い詰めている存在がいるとすれば、それは涼子ちゃん自身よ。自分で自分の心を追い詰めているの。その影響で、司郎君まで追いつめられている。このままだと、いつか取り返しのつかないことになるわ」
柱時計が時を刻む。涼子は何も答えない。答えないが、その胸の内は、時計の振り子のように揺れ動いているのが判った。
どれくらい黙っていたか、やがて涼子は。
「何のことか判りませんわ」小さく言って、湯呑を持った。「お義母さまは亡くなった。そんなことは判っています。なぜ、亡くなった方に、私が怯えなければならないのです」
「……涼子ちゃん」
「お義母さまは関係ありません。これは、私自身の問題です」
「涼子ちゃんの問題?」
「私には、時間が残されていないかもしれない」
比沙子は、はっとした表情になった。「病気の……こと?」
涼子は静かに頷き、手に持っている湯呑を口に運んだ。
涼子は一度、大きな病を患ったことがある。司郎や慶が中学校に通い始めた頃だ。その頃、涼子の兄である先代求導師が亡くなったのだが、病で入院していた涼子は葬儀に参列できなかったのを、比沙子はよく覚えている。涼子の入院生活は長く続き、何度も手術をした。一時は生死の境をさまよったこともある。
涼子は湯呑をテーブルに置いた。「私は、司郎を一人前の院長に育てなければなりません。兄のように、半人前の息子を残して死ぬわけにはいかないのです。でも、私自身、いつまで司郎のそばにいてあげられるか判らない。だから、怖いのです」
「――でも、今は元気じゃない」比沙子は、涼子を励ますため、明るい口調で言った。「再発の心配も、今は無いんでしょ? 経過は良好だって、聞いているけど」
「それが判っていても、怖いのです。病は、またいつ再発するか判らない。次に再発したら、今度は助からないかもしれない。考えまいと思っても、考えてしまうのです。司郎を一人前に育てないまま死んでしまったらと思うと、怖くてたまらないのです。比沙子さんは、大きな病に罹ったことがないから判らないかもしれませんが」
そう言われ、比沙子は視線を落とした。確かに、その怖さは比沙子には判らない。病で死ぬ心配がない比沙子に、死への恐怖は無い。半人前の息子を残して死ぬこともあり得ない。どんなに息子――慶が長生きしようとも、必ず、比沙子は慶を看取ることになる。
「……懐かしいですね」
不意に、涼子の声が明るくなった。
顔を上げる比沙子。
涼子の顔には笑顔が浮かんでいた。「私が宮田家に嫁ぎ、なかなか子供を授からなかった時も、比沙子さんには、いろいろと話を聞いてもらいました。覚えていますか?」
「もちろんよ。涼子ちゃん、なかなか子供を授からなくて、苦労したものね」
「あの時も、私は焦っていた。早く子供を生まなければいけないのに、なかなか授からない。お義母さまが見ている……今と変わりませんね」
「涼子ちゃん。あの時と今とは――」
比沙子の言葉を遮るように、涼子は首を振った。「判っています。でも私は、司郎――最初の子供が生まれた時、心の底から安堵しました。それは、ようやく子供を生み、宮田家の嫁としての務めを果たすことができたからではなく、ようやくお義母さまの重圧から解放されたと思ったからです。あの時の私にとって、子供は、自分の命に代えても護るものではなく、義母から自分の身を守るためのものでした。そんな風に考えていたから、私は司郎を喪ってしまった。あれは、神が私に与えた罰だったのかもしれません」
「涼子ちゃん。そんなことは、絶対にないわ」
力強い口調で言う比沙子。涼子が最初の子供を喪ったのは、十七年前に村を襲った土砂災害が原因だ。つまり、神に花嫁を捧げる儀式が失敗したことが原因であり、元をたどって行けば比沙子が原因ということになる。もちろん、それを言うことはできないし、言ったところで信じてもらえない。
涼子は目を伏せた。「……そうですね。私たちの神は、そのような陰湿な罰を与えるようなお方ではありません。今のは失言でした」
今度は比沙子が目を伏せる。神は、涼子が思っているよりもずっと陰湿だ。もちろん、そんなことは言えない。
「――でも」と、涼子の声が再び明るくなった。「焦っていては、私はまた同じ過ちを繰り返すかもしれません」
顔を上げた比沙子に、涼子は続けた。「比沙子さんの言う通りです。私は、お義母さまの影におびえ、一刻も早く司郎を一人前にしなければと焦っていた。また、あの時のように悲しい思いをするのはごめんです。司郎の教育方法については、少し考え直してみましょう」
そう言った涼子の顔には、母親の優しい笑みが浮かんでいた。
「ええ、それがいいと思う」比沙子も優しく微笑み、涼子に応えた。
柱時計が、ポーンポーンと鳴った。窓から差し込む陽の光は、いつの間にか比沙子の足元にまで届いている。
「――時間が経つのって、早いものね」比沙子は、しみじみとした口調で言った。「ついこの間まで、涼子ちゃんも小さな子供だったのに。今ではお母さんになって、あたしと、子育てについて話してる。本当に、あっという間だったわ」
「それだけ、お互い年を取ったということでしょう。年を取ると、時間が経つのが早く感じると言いますから」
「そうかもね」比沙子は肩をすくめて笑った。
涼子も頬を緩めて応えたが、不意に真顔に戻り、黙り込んでしまった。なにやら考え事をしているような様子。
「どうしたの? 涼子ちゃん」比沙子は涼子の顔を覗き込んだ。
「……そう言えば、変ですわね」
「何が?」
「今、比沙子さんと、こうして、子育てについて話していることが、です」
「それの、なにが変なの?」
「いえ……さっきも言った通り、私は、まだお義母さまが生きていた頃、なかなか子を授からないことを、何度も比沙子さんに相談しました」
「ええ、そうよ?」
「嫁ぐ前は、宮田家でちゃんとしていけるか不安で、これも、何度も相談しました」
「それまで他人だった人と暮らすことになるんだもの。ましてあの頃は、親が嫁ぎ先を決めたら、娘は逆らえなかった時代。会ったこともない人たちと一緒に住むんだから、悩んで当然だわ」
「学生の頃は、宿題を見てもらったことがあるんです」
「そうね。でも、涼子ちゃんは成績優秀だったから、あたしが教えることなんて、あんまりなかったけど」
「子供の頃、兄にイタズラされて泣いていたら、比沙子さんが慰めてくれて、兄を叱ってくれた」
「ええ。涼子ちゃんのお兄ちゃんは、子供の頃は結構やんちゃだったから、手を焼いたわ」
「思い返してみると、私は、比沙子さんに育てられていたように思います」
「まあ、あたしもずっと教会にいるから。血の繋がりは無いけど、涼子ちゃんにとっては、もう一人のお母さん、って感じかな?」
「でも今は、養子ではありますが、同い年の息子を育てている。同年代の母親……いえ、見た目だけなら、比沙子さんの方がひと回り年下に見えます」
「そう? そんなに若く見えるのなら、嬉しいな」
「比沙子さん。あなたは一体、いくつなのですか?」
「さあ? 忘れちゃった。まあ、涼子ちゃんより年上なのは確かね」
「私、今年で五十になったのですが、それよりも年上だと仰るのですか?」
「ええ、そうよ? それの、なにが変なの?」
「いえ……別に変ではありません」
「そう? なら、いいけど」
比沙子は飲みかけのお茶を飲み干し、テーブルに置いた。
そして、涼子を真っ直ぐに見て、含みのある笑みを浮かべる。「ちなみに……あたしの年齢のこと、他の人には言わない方がいいよ? さもないと……」
涼子もお茶を飲み干し、比沙子と同じ笑みを浮かべた。「――ええ、気を付けますわ。『特別な病院』に閉じ込められたら、たまりませんからね」
柱時計が時を刻む。二人は、しばらく無言で見つめ合う。
そして――。
なんだかたまらなくおかしくなって、どちらともなく吹き出し、二人で笑い合った。