千年の祈り   作:ドラ麦茶

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傀儡

 日曜日。教会では礼拝式が行われ、今日も多くの信者が集まっていた。いつものように礼拝堂で祈りを奉げ、聖歌を歌う信者たち。聖歌が終わると、次は、求導師が神の教えを説く時間・法説だ。求導師・牧野怜治は壇上に上がると、ゆっくりと信者たちを見回し、そして、話し始めた。

 

「――聖典・天地救之伝の、出村記第八章五節にて、時の求導師は、神王様より三十三の戒めを授かりました。その二十七番目の戒めに、『神の元において、男も女も等しく扱われる』というものがあります。これは言うまでもなく、男女平等を定めたものです。この時代、他の宗教では、男尊女卑が当たり前でした。女性は聖職者になれない、教育を受けることができない、職に就くことができない、果ては、『女性は神がお作りになった失敗作である』と公言する宗教家までいる始末です。宗教全体で女性を蔑視していたとも言えます。それに比べ、我らが神王様は古くから女性の権利を尊重していたのです。この『神の元において、男も女も等しく扱われる』という教えに従い、我が村では、男女ともに聖職に就くことができ、望めば教育を受けられ、あるいは職に就くこともできます。特に、職に関しては、近年、日本中で『男女分け隔てなく職に就けるよう法を改善すべきだ』という声が上がっています。終戦から二十年が経ち、ようやく国が動き始めたのに対し、私たちの村では、数百年も昔からそれを定めていたのです。これも全て、偉大なる神王様の導きがあってからこそ。神王様に、改めて感謝の祈りを奉げましょう」

 

 求導師が目を閉じて手を組むと、信者たちもそれにならって手を組む。そして、皆で神に感謝の祈りを奉げた。

 

 法説が終わると、食事会までの間自由時間となる。信者たちは交流を深めるため、集まっていろいろな話をする。要するに、お喋りの時間である。礼拝堂内では、信者たちがいくつかのグループに分かれ、それぞれお喋りを始めた。

 

 求導女の八尾比沙子は、信者たちのグループを順に巡り、話を聞いて回った。ある老信者のグループでは、戦後間もない頃どのような仕事をしていたかを聞き、別のグループでは、子供たちに将来どんな仕事をしたいかを訊く。そうやって、信者たちのグループをひとつひとつ順に巡っていたら。

 

 ――最近、屋敷の周りで奇妙な事件が起こっているの。

 

 こんな声を耳にした。

 

 声のした方を見る。礼拝堂の隅で、若い女が数人集まっていた。皆、えんじ色の着物を着ている。それは、神代家の女中が着る着物だ。奇妙な事件が起こっている屋敷というのは、神代家のことだろうか。

 

 羽生蛇村では、奇妙な事件が起こることは珍しくない。血の涙を流す化物の目撃情報は後を絶たないし、見えるはずのないものが見えたり、聞こえるはずのない声が聞こえたりする者も多い。あるいは、神隠し事件や、原因不明の土砂災害なども――頻度こそ少ないものの――定期的に起こっている。ただ、真相はともかく、それらはあくまでも、子供たちの怪談話の域を出ないのが現状だ。まともな大人ならば、一笑に伏すような話である。だから、若い者がこのようなウワサ話をしていても、別段気にするようなことはない。

 

 だが、そのウワサ話をしているのが実際に神代家で働いている女中たちとなると、聞き捨てはならない。

 

 話をしているのは、十五・六歳の若い女中だ。皆、神代家に住み込みで働いている。先ほど法説で求導師が話した通り、眞魚教では聖典によって男女の平等が定められ、望めば女性でも簡単に職に就くことができる。神の教えに従い、役所、病院、そして神代家が、積極的に女性を雇用しているのだ。だがこれは、逆に言えば、女性が働く先はほぼこの三つに限られるということでもある。また、村には高校が無いため、中学卒業と同時に働く者が多い。そのため、神代家の女中は十五・六歳の者が一番多いのだ(もっとも、その大半は一年とかからず辞めてしまうのだが)。まだ子供といってもいい年齢であるため、神代家の中で起こっていることを外で話す危険性を理解していないのだろう。ヘタなことを話すとクビどころでは済まないのだ。比沙子は小さくため息をつくと、女中たちに話しかけた。

 

「――なんの話をしているの?」

 

 比沙子が話しかけると、女中の一人が目を輝かせた。「あ、求導女様! 聞いてくださいよ! 最近、神代の屋敷の周りで変なことが起こってて、あたし、怖いんです!」

 

 もはや礼拝堂中に聞こえるほどの声だが、幸い、信者たちは各々のお喋りに夢中で、こちらを気にしている者はいなかった。

 

「えーっと、郁子ちゃん。話は聞くけど、もうちょっと、小さな声で話そうか?」苦笑いする比沙子。

 

 郁子は、女中になってまだ三ヶ月の少女だ。小中学生の頃から怪談話が好きな娘で、『羽生蛇村小学校七不思議』や、『村人三十三人殺し』などの話を、クラスメイトに得意げに話していた。

 

 郁子は、少しだけ声を潜めて話し始めた。「最近、屋敷の周りで、動物がいっぱい死んでるんです。カラスとか、野良犬とか」

 

「……え?」

 

 目を丸くする比沙子。予想外の話だった。神代家で変なことが起こっていると言うから、どこからともなく苦しそうなうめき声が聞こえるとか、夢で見たことが現実に起こっていたとか、そういう話だと思っていたのだ。

 

 これらの話は、新米の女中が必ずと言っていいほど経験することだった。原因も、比沙子には判っている。苦しそうなうめき声は、屋敷の地下から聞こえてくるものだ。屋敷の地下には当主さえも知らない秘密の地下道があり、そこに、常世に来ることを拒まれた歴代の神代の娘の魂がひしめき合っている。その声が漏れたのだろう。夢で見たことが現実に起こったのは、一時的に幻視の能力に目覚めたのだ。見たのは夢ではなく、現実の誰かの視点なのだ。だから、これらは特に気にすることではないのだが。

 

「……詳しく聞かせて」比沙子は郁子に話を促した。長く村々で暮らしている比沙子にも、神代家の周りで動物が多数死んでいるというような話は初めてだった。何かが起こっているのかもしれない。

 

 郁子は、声を低めて話を続けた。「朝、お庭とか、お屋敷の周りを掃除していると、必ず、野良犬やカラスの死骸が見つかるんです。その死に方も、なんだかおかしくて……自然に死んだとか、病気になったとかじゃないんです。みんな、頭から血を流して、苦しそうな、恨めしそうな、そんな顔をして、死んでるんです」

 

 怪談話をするかのような語り口に、女中仲間は不安そうな顔になる。比沙子も眉をひそめる。どういうことだろう? 神代の屋敷は、西ヶ原という地域にある。多くの村人が住む地域から少し離れた場所で、どちらかといえば山深く、カラスや野犬などは多い。死骸が見つかることもあるだろうが、それが短い期間に屋敷の周りで頻発しているとなると、確かに妙な話である。

 

 郁子はさらに話を続ける。「それで、三日前の話なんですけど、あたし、見たんです。夜中の二時くらいでした。トイレに行こうとしてたら……屋敷の奥に『開かずの扉』って、あるじゃないですか? あの中から、澄子さんが出てきたんです。こんな時間に、しかも開かずの扉の中で、何してたんだろう? って、不審に思って、あたし、隠れて見てたんです。そうしたら、澄子さん、手に、何か持ってるんですよ。黒い塊みたいなもの。その塊から、ぽた……ぽた……って、何か滴り落ちてるの。暗くてよく見えなかったから、目を凝らして見てたら、その黒い塊……血まみれの、猫の死骸だったの!!」

 

 郁子の話に、女中仲間は小さく悲鳴を上げた。

 

「澄子さんが、開かずの扉の向こうで、猫を殺してたってこと……?」女中仲間の一人が怯えた顔で言う。

 

「そうだと思う」郁子が頷いた。「その猫、ピクリとも動かなかったし」

 

 別の女中が口元を抑えた。「じゃ……じゃあ、屋敷の周りの、カラスや野良犬の死骸も、澄子さんが……」

 

「コラ。変なこと言わないの。澄子さんが、そんなことするわけないじゃないの」比沙子は、子供を叱るように注意した。

 

「でも、血まみれの猫の死骸を持っていたのは、確かなんですよ?」と、郁子が反論した。「あたし、この目ではっきりと見たんですから」

 

「その時は、暗くてよく見えなかったんでしょ? だったら、郁子ちゃんの見間違いかもしれないじゃない?」

 

「そんなことは……無いと思うんですけど……」

 

 急に声のトーンが落ちる郁子。なにやら自信がない様子だ。恐らく、少し話を大げさに言っているのだろう。彼女のような怖い話好きの少女には、よくあることである。

 

 比沙子は肩をすくめた。「まあ、何にしても、その話はあんまり外でしない方がいいわよ? じゃないと、郁子ちゃん、『特別な病院』に閉じ込められちゃうから」

 

「またまたぁ。『特別な病院』なんて、子供の怖い話じゃないですか」

 

「さあ? どうかしら? みんな、お屋敷で働く前に、当主様から言われなかった? 『屋敷の中のことは、決して外で話してはならない。さもないと……』って」

 

「…………」

 

 女中たちの顔から、さっと血の気が引いた。

 

 比沙子は含んだ笑みを浮かべると、不安そうな顔をする女中たちを残し、話の輪から離れた。まあ、あの娘たちはああ言っておけば大丈夫だろう。仮に郁子が外の人に話したとしても、子供じみた怪談話の延長にしか思われないはずだ。

 

 だが、話の真相は確かめておく必要がある。屋敷の周りで動物の死骸が見つかり、『開かずの扉』から、澄子が血まみれの猫の死骸を持って出てきた――郁子の話は多少脚色されているだろうが、全部嘘ということはないだろう。特に、澄子が『開かずの扉』から出てきたという点は、真実である可能性が高い。

 

 澄子は、神代家に十年以上仕えている女中だ。物静かで器量がよく、後輩の女中から慕われている。当主や夫人からも信頼されており、『開かずの扉』の向こうへ行くことを許された数少ない女中でもある。

 

『開かずの扉』の向こうに行けるのは、神代家当主や眞魚教の求導師、宮田医院の院長など、村の有力者だけだ。扉の奥には座敷牢があり、神の花嫁となる運命を背負わされた神代家の次女が、密かに育てられている。神の花嫁――美耶子は、今年四歳になる。澄子は、幼い美耶子の世話を任されている女中だった。

 

 比沙子は礼拝堂を見回し、澄子の姿を探した。澄子は、誰とも雑談することなく、一人、礼拝堂の椅子に座っていた。なにやら思いつめたような顔をしている。そう言えば、礼拝式中も心ここにあらずといった様子だった。比沙子は、澄子に声をかけた。

 

「……あ、求導女様……こんにちは」澄子は顔を上げると、生気のない声で答えた。

 

「澄子さん、なんだか今日は元気がないみたいだけど、何かあった?」

 

「いえ……特に何も……」

 

 力ない声で言って、目を逸らす澄子。言葉とは裏腹に、明らかに何かあった様子である。

 

「ちょっと、お話したいことがあるんだけど、ここじゃなんだから、あたしの部屋に来ない?」

 

 比沙子は、礼拝堂の奥にある自分の部屋に誘った。話の内容が神代の娘に関わるかもしれないので、誰かに聞かれるのは非常にまずいのだ。澄子は、戸惑いの表情を浮かべながらもついて来た。

 

 比沙子の部屋は六畳ほどの広さだ。中は、ベッドと机・椅子・箪笥(たんす)・本棚と、最低限度の家具しか置いていない。椅子はひとつだけなので澄子に譲り、比沙子はベッドに腰を下ろした。

 

「美耶子様の様子は、どう?」

 

 部屋に入って、何気なく訊いてみた。比沙子にしてみれば本題に入る前の世間話のつもりだったのだが、美耶子と聞いたとたん、澄子は大きく震えた。

 

「ど……どう……と、言いますと?」動揺した声の澄子。

 

「うん? ただ、元気にしてるかなと思って訊いただけなんだけど……ひょっとして、何かあった?」

 

「いえ、大丈夫です。美耶子様は、元気です」

 

「……そう。なら、いいんだけど……最近、屋敷の周りで小動物の死骸が見つかってるって話を聞いたから、ちょっと、心配で」

 

「だ……誰がそんな話をしてるんですか!?」

 

 急に大声を上げ、椅子が倒れそうな勢いで立ち上がる澄子。比沙子は、目を丸くして驚いた顔をする。

 

「あ……申し訳ありません、求導女様」澄子は決まりが悪そうな顔をし、椅子に座り直した。

 

「いえ、いいんだけど……澄子さんは、嘘をつけない性格ね。何かあったんでしょ?」

 

 比沙子は、澄子の顔を覗き込むように見た。澄子は無言で目を逸らす。

 

「大丈夫よ」と、比沙子は言って、そして続けた。「ここなら、誰かに聞かれることはないから。何か、困ってることや悩んでることがあるなら、話してみて」

 

 神代の次女の存在は極秘とされ、口外することは禁忌中の禁忌だ。ゆえに、澄子が何か問題を抱えていても、相談できる相手は極めて少ない。恐らく、比沙子以上に親身に話を聞いてくれる人はいないだろう。

 

 澄子は小さく頷くと、話し始めた。

 

「美耶子様が、猫を飼われていたのは、ご存知ですか?」

 

「猫を……? いえ、知らなかったわ」

 

 首を振る比沙子。神代の次女は生まれてから花嫁になるまでずっと座敷牢の中で過ごすため、少しでも寂しさを紛らわせるために、動物を飼わせるのはよくあることだ。しかし、美耶子が猫を飼い始めたというのは、まだ比沙子の耳には入っていなかった。

 

 澄子は「そうですか……」と言った後、続けた。「最近飼い始めたから、まだ求導女様にお知らせしていなかったんでしょう」

 

「それで……その猫が、どうかした?」

 

 比沙子は探るように訊いた。美耶子が猫を飼っていた――それは、先ほど礼拝堂で若い女中の郁子が言った「夜中に開かずの扉から猫の死骸を持った澄子が出てきた」という話とも一致する。郁子の話が本当ならば、その猫は恐らく。

 

 澄子の表情が暗くなった。「三日前、亡くなりました。飼いはじめて、まだ一週間も経ってないのですが……」

 

「そう……それは、気の毒だったわね。美耶子様も、気を落とされてるんじゃない?」

 

 澄子は首を振った。「いえ……別の猫を連れてきて、と、盛んにせがんで来るんです」

 

「……まあ、まだ四歳だし、『死ぬ』というのがどういうことなのか、よく判ってないだけよ。そのあたりは、ゆっくりと教えていかないと」

 

「そうかもしれませんが……ただ……」

 

「ただ……?」

 

「その、猫の死に方が、異様で……」

 

 異様――その言葉に、不吉なものを感じる。『変わった死に方』とか、『おかしな死に方』と表現はよく使われるかもしれないが、『異様な死に方』というのは、よほどの状態でないと使わないように思う。比沙子は、澄子の言葉を待つ。

 

 澄子は大きく息をのみ込み、言った。「頭が、潰れていたんです」

 

「――――」

 

 言葉を失う比沙子。頭が潰れていた? どういうことだろう? 何か、重いものが倒れて来たのだろうか? 比沙子は、美耶子が囚われている座敷牢には何度も足を運んでいる。十畳ほどの部屋と、ちょっとした日本庭園がある。部屋には箪笥(たんす)、庭には石灯籠があるが、神の花嫁に何かあっては大変なので、決して倒れないようになっている。無論、それにも限界はあるだろうが、屋敷が倒壊するほどの地震でもない限り倒れることはないはずだ。万が一倒れたとしても、猫が頭を潰すことなど、そうそうあることではない。

 

 澄子はさらに続ける。「庭の壁に、血が飛び散ってました。猫が死んでいたのは、その近くです。壁だけじゃなく、地面や、庭石や、石灯籠にまで、血飛沫が飛び散ってたんです。たぶん、こう……ガン! ガン! って、壁に、何度も頭をぶつけたんじゃないかと、思います」

 

 澄子は、猫が死んだ時の様子を再現するかのように、自分の頭を何度も振り、壁にぶつけるような仕草をした。

 

「ちょ……ちょっと、待って」比沙子は澄子の動きを止めるように言った。同時に、澄子の話を整理する。

 

 神代家の座敷牢に出入りできる者は極めて少ない。当主や近親者、一部の女中、そして、求導師や宮田医院の院長などの有力者だけだ。その中の誰も、あの部屋の中で猫を殺すような真似をするとは思えない。もちろん、なんらかの理由でその猫を処分する必要があった可能性も考えられる。しかし、わざわざ美耶子のいる部屋で、しかも壁に頭を打ちつけるなどという殺し方をする必要があるだろうか? もし、本当に猫を殺す必要があったとしたら、そういった仕事を行うのは宮田医院である。宮田医院ならば、美耶子に気付かれず猫を連れ出して殺すか、あるいは部屋の中で自然死に見せかけるか、いずれにしても、もっとスマートな方法を使うはずだ。

 

 外部の者がやったとは思えない。ならば。

 

 比沙子は、澄子の目を見た。「……それってまさか、美耶子様がやったの? つまり……猫を捕まえて、壁に、頭を打ちつけた……」

 

 外部の者がやったのでなければ、当然、その可能性が浮かんでくる。

 

 だが、澄子は首を振った。「あたしもそれを考えましたが、あり得ないんです」

 

「と、言うと?」

 

「すごく異様な死に方だったので、宮田医院の院長先生に頼んで、調べてもらったんです。院長先生が言うには、四歳の子供が猫を捕まえて、壁に頭を打ちつけることは考えにくいそうです」

 

「確かに、そうね。じゃあ、やっぱり外部の人が……?」

 

「それも考えにくいと、先生は言ってます。捕まえて殺そうとすれば、当然猫も暴れるでしょうから、犯人は顔や手を爪で引っ掻かれ、傷がたくさんできるはずなんです。でも、あの部屋に出入りできる人の中で、そんな傷ができている人はいませんでした。ただ一人、美耶子様の手に、小さな引っ掻き傷があったんですけど、それは、猫を飼い始めて間もない頃ならよくあることなんだそうです。さらに、宮田先生は猫の遺体も調べてくれました。もし、猫が誰かを引っ掻いたのなら、爪に皮膚片や血の跡が残っているはずで、場合によってはそこから犯人を特定できるかもしれないと。でも、特に不審な点は無かったそうです。爪だけでなく、体中のどこにも、捕まったり暴れたりしたような形跡は無かったと仰っています」

 

「――――」

 

 なんと言っていいか判らず、比沙子はただ澄子を見つめるだけだった。猫が壁に頭を打ちつけて死んでいた。それは、誰かが猫を捕まえて壁に打ち付けたわけではない。美耶子にも、外部の者にもできないことだ。ならば、なぜ猫は死んだのだ? 判らない。判らないから、言葉を発することができない。部屋はしんと静まり返り、どこか息苦しさを感じる。

 

 重苦しい空気に耐えられなくなったのか、澄子は一度深呼吸すると、言った。

 

「宮田先生が言うには……猫は、自分で壁に何度も頭を打ちつけて死んだとしか、考えられないそうです」

 

「――――」

 

 澄子の言葉は、部屋の空気をさらに重くしただけだった。

 

 猫が、自分から何度も壁に頭を打ちつけて死ぬ――そんなことがあり得るだろうか? そう言えば若い女中の郁子は、屋敷の周りで見つかった野良犬やカラスの死骸も、頭から血を流して死んでいたと言っていた。まさかそれも、自分から頭をぶつけたのだろうか?

 

 トントン、と、ノックの音がした。いきなりだったので、澄子はびくんと大きく身体を震わせて驚いた。比沙子は、大丈夫よ、と言って澄子を落ち着かせると、扉を開けた。求導師の牧野怜治だった。

 

「求導女様。そろそろ食事会を始めようと思うのですが」

 

「判りました。すぐに行きます」

 

 扉を閉めと、求導師の足音が遠ざかって行った。

 

 比沙子は澄子を見た。「ごめんなさい。あたしには、何が起こっているのか判らないわ。あたしの方から話を訊いたのに、なんの力にもなれなくて申し訳ないんだけど……」

 

「いえ、仕方ないです。それに、お話を聞いてくれただけでも、気が楽になりました」

 

「今度、あたしも屋敷に行ってみる。もしかしたら、何か判るかもしれないし」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 ずっと思いつめていた澄子の顔に、ようやく笑顔が浮かんだ。比沙子も安堵の息を洩らす。なんの力にもなれなかったが、澄子の心が少しでも楽になったのなら良かった。

 

 

 

 

 

 

 だが――。

 

 それが、澄子の笑顔を見た、最後となった。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 翌日、神代家で更なる異変が起こった。

 

 神代家の女中の一人が、部屋で死んでいるのが発見されたのである。

 

 女中は頭から大量の血を流した状態で発見された。床に血が広がると同時に、部屋の壁にも、大きく血の跡が広がっていた。どうやら、壁に頭を打ちつけて死んだらしい。

 

 その女中は豊子という名で、澄子と同じく、美耶子の世話を任された数少ない一人だった。美耶子に関わることなので、警察を呼ぶことはできない。代わりに、宮田医院の院長が呼ばれた。

 

 院長は、豊子の遺体および彼女の部屋を徹底的に調べたが、豊子が誰かと争った形跡は何ひとつ発見できなかった。

 

 豊子は、自ら壁に頭を打ちつけて死んだ――それが、宮田が出した結論だった。

 

 それを聞いた澄子が叫んだ。

 

 

 

「美耶子様です! 全部、美耶子様がやったんです! 猫を殺したのも、豊子を殺したのも、全部全部、美耶子様です!!」

 

 

 

 美耶子のことを口外することは許されない。澄子は、宮田医院に入院することとなった。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 さらに翌日。

 

 比沙子は、当主の許可を得て、美耶子に会うことにした。

 

 

 

 

 

 

「あ! 比沙子だ! 比沙子が来てくれた!!」

 

 比沙子が牢の中に入ると、美耶子は喜んで抱きついて来た。前回会ったのは一年近く前で、まだ三歳の頃だ。ひょっとしたら覚えていないかもしれないとも思ったが、ちゃんと覚えてくれていたようだ。

 

「お久しぶりです、美耶子様。大きくなられましたね」

 

 比沙子が頭をなでると、美耶子は嬉しそうに笑った。

 

 美耶子の部屋は、以前訪れた時とほとんど変わっていなかった。広さは八畳で、箪笥と机、大きな鏡台くらいしかない質素なもの。部屋の外は池や石灯籠などが置かれた庭がある。ちょっとした日本庭園のような雰囲気だが、塀の高さが通常の二倍以上あり、その上部に取り付けられた屋根が内側に大きくせり出すという、少々変わった形をしている。ここは座敷牢。塀を越えて外に出るのを阻むために、そのような作りになっているのだ。塀は、普段から掃除が行き届いているのか、汚れはほとんど見られない。だが、一ヶ所だけ、わずかに黒ずんだ染みがあった。あれは恐らく……。

 

「ねえ比沙子、遊んでよ」

 

 美耶子が袖を取って揺すったので、比沙子は考えを中断した。

 

「ええ、もちろん。今日は、美耶子様と遊ぶために来たんですから」

 

 笑顔で応えると、美耶子は「やったぁ!」と、手を上げて喜んだ。

 

 比沙子は美耶子と一緒に、お手玉やあや取りなどをして遊んだ。

 

 遊びながら美耶子の様子を探る。無邪気に遊ぶその姿は、普通の四歳の少女と何ら変わらない。

 

 ――猫を殺したのも、豊子を殺したのも、全部全部、美耶子様です!!

 

 澄子が言ったという言葉を思い出す。彼女がどういうつもりでそんなことを言ったのかは判らない。こうして見ている限りおかしなところは無いが、澄子も、何の根拠も無くそんなことを言ったりはしないだろう。

 

 その後もしばらく様子を見たが、やはり、不審な点は見られなかった。

 

 と、美耶子が、あや取りの紐を、ぽーんと放り投げた。

 

「……つまんない」

 

 唇を尖らせ、拗ねた顔をする。

 

「美耶子様?」

 

「比沙子、美耶子と遊んでるのに、違うこと考えているでしょ?」

 

「え? いえ、そんなことはないですよ?」

 

 そう答えたものの、実際比沙子は、ずっと美耶子や部屋の様子を探っていた。子供の勘は鋭い。見破られても仕方ないだろう。

 

 比沙子は、美耶子が放り投げたあや取りの紐を取った。「ごめんなさい、ちゃんとやるから、許してください」

 

 美耶子はぶんぶんと首を振った。「やだ。もう、あや取り飽きちゃった」

 

「じゃあ、別のお遊びをしましょうか? 何がいいですか?」

 

 比沙子は、用意したおもちゃの中からおはじきや毬をとって美耶子の前に差し出すが。

 

「やだ! もう比沙子とは遊ばない!!」

 

 美耶子は、ぱしん、と、比沙子の手をはらった。おはじきが畳の上に散らばり、毬は転がって庭に落ちた。

 

「美耶子様!」思わず大きな声を出してしまう比沙子。

 

 美耶子は、プイッと、横を向いた。

 

 小さくため息をつく比沙子。まあ、この歳頃の子供なら、些細なことで機嫌が悪くなるのはよくあることだろう。

 

 比沙子は庭に転がった毬を拾い、散らばったおはじきをひとつひとつ集めた。「判りました。今日のところは、帰ります」

 

 そう言うと、ふてくされていた美耶子の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「そうだ! ねえ、比沙子。お外に連れて行ってよ!」

 

「え? お外に?」困った顔をする比沙子。「ごめんね、それは、できないのよ。美耶子様のお父様に叱られるから」

 

「そんなの、お父様にナイショにしておけばいいよ。ねえ、お願い比沙子。お外に連れて行って?」

 

 美耶子は比沙子の袖を取り、おねだりするように何度も揺すった。

 

 神の花嫁となる神代家の次女は、存在を極秘とされ、戸籍にさえ記されることはない。当主の許可なく連れ出すことは決して許されず、当主が許可を出すこともまず無い。眞魚教の求導女にすぎない比沙子が、当主の意向に背くことなどできない。無論、それは表向きのことであり、実際にこの村を支配しているのは比沙子だ。美耶子を密かに連れ出すなど比沙子にはたやすいことだが、いまはそれをやる理由が無い。もし連れ出して美耶子の身に万が一のことがあれば、それは儀式の失敗に繋がる。儀式が失敗すれば村人の命が危険にさらさる。同時に、美耶子自身も常世へ旅立つ唯一の機会を失うのだ。結果、美耶子は肉体が滅びても魂が残り、永遠に現世を彷徨うことになる。

 

 袖を揺すって盛んにせがむ美耶子に、比沙子は言った。「ごめんなさい、美耶子様。お外に出るのは、大人になってから、ね」

 

 美耶子は、「えー? つまんなーい」と、頬を膨らませた。「比沙子って、豊子と同じこと言うんだね」

 

「え? 豊子さん?」

 

 豊子は、美耶子の世話を任された女中の一人だ。昨日、部屋で頭から血を流して死んでいるのが発見された。

 

「美耶子様、豊子さんにも、外に出してほしいってお願いしたの?」

 

 比沙子の問いかけに、美耶子は「うん」と頷いた。「でもね、豊子も、ぜったい、許してくれなかったの」

 

 世話を任されているとはいえ、一女中に過ぎない豊子が、美耶子を外に連れ出せるはずもない。そんなことをしようものなら、宮田医院への入院は免れないだろう。

 

「美耶子、何度もお願いしたのに、豊子は許してくれないの。何度も何度もお願いしたのに、ぜったい、許してくれなかった。それだけじゃなく、美耶子のこと、怒るんだよ? あたし、豊子なんて大っキライ! だから、死んじゃえ!! って言って、殺しちゃった」

 

 あまりに自然にその言葉が出てきたので、比沙子は聞き流しそうになった。

 

 ……え?

 

 はっとして、美耶子の顔を見る。今この子は、『死んじゃえ』『殺しちゃった』と、言ったのだろうか?

 

 美耶子は、豊子のことを思い出しているのか、不機嫌そうな顔をしている。だが、唇の端に、小さな笑みを浮かべているようにも見えた。それが、なんだか不気味だった。

 

 比沙子は不安を振り払うように小さく首を振った。大丈夫だ。『死ね』とか『殺す』という言葉は、子供が使うには問題があるが、実際にはどこの子でも使っているだろう。そこに、大きな意味がなど無いはずだ。決して本気で言っているわけではない。

 

 比沙子は美耶子の前にしゃがみ、目線を合わせた。「美耶子様。『死ね』とか『殺す』とか、そんな言葉、使っちゃダメよ?」

 

「なんで? だって、豊子は美耶子の言うことを聞いてくれないし、怒るし、死んでいいんだよ。豊子だけじゃないもん。犬やカラスも猫も、みーんな、死んでもいいの」

 

「えっ……と……」

 

 上手く言葉が出てこない比沙子。

 

 ……大丈夫。この子は四歳。生と死がどういうものか、まだよく判っていないだけだ。これから、ゆっくり教えて行けばいい。比沙子は、胸の内で自分に言い聞かせる。

 

 だが、一方で。

 

 ――猫を殺したのも、豊子を殺したのも、全部全部、美耶子様です!!

 

 澄子が言った言葉を思い出す。

 

 澄子は、なぜこんなことを言ったのか。そんなことを声高に叫べば、宮田医院への入院は免れない。神代家に十年も仕えている澄子なら、それくらいは理解していたはずだ。なのに、澄子は叫んだ。つまり、本当だと思う確信があったのか。

 

 確認する必要が、ある。

 

 比沙子は、美耶子の目を真っ直ぐに見た。「美耶子様、それは、どういうことかな?」

 

「うん?」美耶子は、無邪気な顔で首を傾げる。

 

「豊子さんに、『死んじゃえ』って、言ったの?」

 

「うん。美耶子が死んじゃえ! って言ったら、みんな、死んじゃうんだよ? 豊子だけじゃなく、犬やカラスも、猫も、みーんな、美耶子が殺したの」

 

「……なぜ、そんなことをしたの?」

 

「だって、豊子は美耶子のお願いを聞いてくれないし、犬やカラスはお家の周りで鳴いてうるさいし、猫は、あたしのこと引っ掻くんだもん」

 

 美耶子は、右手の甲を比沙子に見せた。三本の赤い筋が残っている。猫に引っ掻かれた傷だろう。

 

「これ、すっごく痛かったの。あの猫、全然美耶子になつかないし。だから、死んじゃえって言ったの。そしたら、あそこの壁に頭打って、死んじゃった」

 

 美耶子は庭の壁を指さした。白い石壁は、そこだけわずかに黒ずんでいる。あれはやはり、猫の血の跡だったのか。どんなに磨いても、一度染みこんだ血は、そう簡単には消えない。

 

 美耶子に視線を戻す。美耶子は、死んだ猫のことを思い出したのだろうか。また、唇の端に小さな笑みを浮かべ、「いい気味だよ」とつぶやいた。

 

 ……どういうことだろう? この子が死ねと言えば、その通りになる? そんなこと、あるはずがない……とは言えない。この羽生蛇村では、何が起こっても不思議ではない。ましてこの子は神代家の次女――神の花嫁となる娘だ。村の長い歴史の中で、神の花嫁が産まれつき特殊な能力を持っていることは、決して珍しいことではない。

 

 もし。

 

 本当に、「死ね」と言うだけで誰かを殺す能力が、美耶子にあるとすれば、それは――。

 

「――ねえ、比沙子?」

 

 美耶子に呼ばれ、比沙子は我に返った。

 

 美耶子は、無邪気な笑顔を浮かべて訊く。「澄子は、今日は来ないの?」

 

「澄子さん? ああ、澄子さんね。えーっと……」

 

 比沙子は頭振った。美耶子が言葉だけで人を殺せるなど、あるはずがない。確かに、神代の次女が特殊な能力を持って生まれることはあるが、それらは、わずかに幻視が行えるくらいだ。比沙子のように自分の意思で操ることはできないし、成長するにつれ消える。その程度のものなのだ。なのに、言葉だけで他者を殺す能力を持つなんて、あり得ない。

 

「ごめんね、美耶子様。澄子さん、ちょっと、病気になっちゃってね。病院で寝てるの。しばらくは、来られないかな」

 

「えー? つまんなーい。美耶子、澄子のことは大好きなのに」

 

「そうなんだ」

 

「うん! 澄子はね、美耶子の言うこと、なんでも聞いてくれるんだよ? 猫を飼いたいって言ったら飼わせてくれるし、猫を捨てて来てって言ったら捨てて来てくれる。新しい猫を連れて来てって言ったら、今度連れて来てくれるって約束してくれた。あ、そうだ! あたし、澄子にお外に連れて行ってもらおう! 澄子なら、きっと美耶子の言うこと聞いてくれるから。ねえ比沙子。澄子のこと、連れて来てよ」

 

 美耶子は、上目づかいに比沙子を見た。

 

「ゴメンね、それはちょっと、無理かな。澄子さんは、病気で寝てるの。美耶子様だって、病気の時は、ゆっくり寝ていたいでしょ?」

 

「うーん。そっか。そうだね」がっかりした顔になった美耶子だが、パッと、表情が明るくなった。「あ! じゃあ、比沙子が澄子になってよ! うん! それがいいよ!」

 

「え? あたしが澄子さんに? それも、ちょっと無理かな?」比沙子は苦笑いをする。

 

「えー? これもダメなの? あれもダメ、これもダメ。そんなんじゃ、美耶子、比沙子のことキライになっちゃうよ?」

 

 美耶子はじっと比沙子を見ている。

 

 ……どうも、美耶子は随分とワガママに育っているようだ。澄子や豊子は、きちんと教育をしていたのだろうか? ここは、きちんと叱っておいた方がいいのかもしれない。美耶子の教育方針に教会が口出しする権利は無いが、それくらいはしてもいいだろう。

 

 比沙子は美耶子の両肩に手を置き、美耶子の目を見て、叱ろうとした。

 

 だが。

 

「ねぇ。お願い、比沙子。澄子になって?」

 

 美耶子は、じっと比沙子を見ている。

 

「――――」

 

 比沙子は、その目に飲み込まれるような気がした。言葉が出てこない。頭の中に霞がかかったように、意識がぼんやりとする。

 

「澄子になってくれるよね?」

 

 美耶子は、じっと、比沙子を見ている。

 

 美耶子の目に飲み込まれる比沙子――いや、美耶子の意識が比沙子の中に入って来るのか。あるいは、自分の意識が美耶子に入っているのかもしれない。美耶子と同化しているのかもしれない。いずれにしても、比沙子の心は安らぎに包まれた。一面の野原で心地よい風を受けているような気分。あるいは、子供の頃、母の胸に抱かれて眠った時……そんな途方もない過去の記憶が呼び覚まされるほどに、比沙子の心は安らいでいた。このまま美耶子に身を任せれば、全てから解放されるような気がした。苦しみも、痛みも、憎しみも、何もかもを忘れられるだろう。だから、美耶子を受け入れることにした。全てを、美耶子の言うままに。

 

 全てを、美耶子の言うままに……。

 

「澄子に、なって?」

 

 美耶子は、じっと、比沙子を、見て、いる。

 

 比沙子の意識は失われ、そして――。

 

 

 

     ☆

 

 

 

「――はい。あたしは今日から、澄子です」

 

 比沙子は、抑揚のない声で答えた。

 

 美耶子は、「やったぁ!」と、ぴょんぴょんはねて喜んだ。

 

「じゃあ澄子、美耶子のこと、お外に連れて行って?」

 

 澄子となった女に向かって、美耶子は手を差し出す。

 

 神代の次女の存在は村では禁忌中の禁忌だ。口にすることすら許されない。まして外に連れ出すなど論外だ。

 

 だが、美耶子の言うことは絶対だ。逆らうことはできない。

 

「はい。承知しました、美耶子様」

 

 澄子となった女は、美耶子の手を握り――。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 比沙子の心の奥底から、別の者が目覚めた。

 

 

 

 

 

 

 比沙子は手を放し、その手のひらを、美耶子の顔に向けた。

 

 突然のことに目を丸くして驚く美耶子だが、その顔が、ぼんやりとしたものになる。次の瞬間、糸が切れた操り人形のように、ぺたんとその場に崩れ落ちた。

 

 比沙子は――いや、さっきまで比沙子だった者は、小さく息を吐くと、足元で小さく寝息を立てる美耶子を見つめた。

 

 ――なんなんだ、この娘は?

 

 美耶子の目を見ていると、引き込まれるような、あるいは、美耶子の意識が比沙子の中に入ってくるような感覚があった。そして、自我が失われ、美耶子の言うことに逆らえなくなった。()()()が目覚めたからなんとか逃れることができたものの、もしあのままだったら、美耶子に操られていたかもしれない。

 

 ……美耶子に操られる?

 

 背を、冷たいものが伝う。

 

 もしかしたら。

 

 女中の豊子も、美耶子を引っ掻いた猫も、屋敷の周りで死んでいた野良犬やカラスも。

 

 みんな、美耶子に操られていたのだろうか?

 

 美耶子の意思に従い、自ら壁に頭を打ちつけて、死んだのだろうか?

 

 美耶子の目を見ていたら、美耶子の意識が心の中に入ってくるような感覚があった。もしかしたら、思念のようなものを飛ばし、他者を操ることができるのかもしれない。長く村で暮らしている比沙子もそのような能力を見るのは初めてだが、驚くことではないかもしれない。この村では、何が起こっても不思議ではない。

 

 何にしても、この子は危険だ……そう思った。

 

 あたしでさえ操られるところだった。他の者を操ることは簡単だろう。今はまだ子供なので、好き嫌いで命を奪う程度で済んでいるが――無論、それだけで十分危険だが――今後成長し、知恵をつけると、さらに危険なことになる。この能力を使えば、村を支配することなどたやすい。神代の次女が村を支配するなど、あってはならない。この子は危険だ。危険なものは、早々に処分した方がいい。

 

 だが――。

 

 それは、不可能だ。

 

 神代の次女は、神に捧げなければならない。それが神の意思であり、逆らうことはできない。

 

 そもそも神代の娘は不完全ながらも不死だ。肉体は滅んでも魂が残る。魂が残れば、それだけで他者を操ることができるかもしれない。もしそうなったらかえって危険だ。肉体という束縛から解放されれば、どこにでも移動できる。それこそ、誰でも自由に操ることができるだろう。

 

 処分はできない。御印が下りるまで育て、神に捧げるのが一番だ。神の花嫁となるまで、せいぜい十年ほどだろう。そう遠くは無い。それに、こういった特殊な能力は、成長するにつれ消える可能性が高い。仮に消えなかったとしても、神の元に旅立てば、この娘は消滅する。

 

 だが、誰が育てる? 

 

 他の者に任せることはできない。それだと、花嫁になる前に多くの死者が出るだろう。あたし自身はそれでもかまわない。この村の人間はほとんどが眞魚教の信者だ。信者は神のしもべであり、神に命を捧げるのは当然であろう。美耶子を神の花嫁にするためならば、信者はすすんで命を捧げるべきだ。

 

 だが、(ひさ)は、決して許しはしないだろう。

 

 あの娘は、なによりも村人を思いやる優しい性格だ。村人が操られて殺されるのを、黙って見ているはずがない。

 

 これまで、久とは良好な関係を保ってきた。性格は全く異なるが、『神に花嫁を捧げる』という目的が一致しているため、お互い協力し合って来たのだ。あたしが村人に怪しまれずに行動できるのも、普段の久の存在が大きい。久も、困ったことがあればすぐにあたしに助けを求める。今、あの娘との関係を壊すのは、賢明ではない。

 

 ならば。

 

 あたしが育てるしかない。

 

 美耶子の言う通り、あたし自身が神代の女中・澄子となって。

 

 あたしなら操られる可能性は低いし、仮に操られたとしても、死ぬことは無い。

 

 また、あたしが澄子を名乗っても、それを疑問に思う者はいないだろう。村人は、あたしの正体に気付かないようになっている。あたしが千年以上生きていることに誰も疑問を持たないように、名を変えても、誰も気付かないようになっているのだ。実際、これまでも何度か名や仕事を変えたこともある。あたしが神代家の女中・澄子と名乗れば、村人は、それに疑問を持たないだろう。

 

 あたしが澄子になり、神の花嫁となる日まで美耶子を育てる。成長すれば能力が消える可能性が高いし、消えなくとも、これからきちんと教育していけば、悪用することはなくなるだろう。それが一番だ。

 

 だが、問題は。

 

 比沙子の人格の中には、神に花嫁を捧げる儀式を失敗させようとする者がいることだ。村が滅びることが呪いから解放される唯一の手段だと考えている危険な存在。儀式が近づくと、この人格が現れる可能性が高い。

 

 もし、この人格が現れた場合、美耶子をどう扱うだろう?

 

 想像もつかないが、何をするにしても、あたしにとって好ましくないことは間違いない。

 

 だが、それでも育てるしかない。

 

 あたしは、神に花嫁を捧げ続けなければならない。それが、村が呪いから解放される唯一の手段なのだから。

 

 ――神よ。どうか、お力をお貸しください。

 

 比沙子は胸の前で手を組み、祈った。

 

 美耶子は、比沙子の足元で、小さな寝息を立てている。

 

 この子が成長した時、村はどうなるのか。

 

 まさに、神のみぞ知るである。

 

 

 

 

 

 

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