村を、酷い飢饉が襲っていた。
春から、ずっと雨が降らない。もう、一〇〇日を超える。これほど雨が降らないのは五百年ぶりのことだと、誰かが言った。
五百年前――それは、この地に神が降臨した年だ。
古い文献によると、五百年前にも大きな飢饉があった。蓄えていた食糧は底を突き、山や森の木々は枯れ、川は干上がり、多くの村人が死んだとされている。そんな時、天から巨大な三角錐の岩と共に神が降臨し、人々に食糧を与え、村を救ったのだ。村人はその偉業をたたえ、巨石の近くに社殿を建て、神を祀った。それが、この地の宗教――眞魚神社の始まりである。
このような経緯があり、村では、常日頃から飢饉に供え、食糧を備蓄していた。この時代、飢饉は決して珍しいものではなく、眞魚神社ができてからも何度も飢饉があったが、なんとか切り抜けてきた。
だが、この年の飢饉は、それらとは比べ物にならないほど酷いものだった。まさに、五百年前の再来と言えるほどに。
幸い、事前に備蓄していた食糧は五百年前の時よりもはるかに多く、飢えで死んだ村人はまだわずかだった。だが、それも時間の問題だろう。残された食糧は、決して多くはない。すでに全ての村人に行き渡るだけの量はなく、罪人や下人など、身分の低い者から飢えはじめている。あと一ヶ月雨が降らなければ、食糧も底を突く。そうなると、飢えはあっと言う間に村中に広がるだろう。
だが、村人はまだ絶望していなかった。
――神は、必ず救いの手を差し伸べてくださる。
誰もが、そう信じていたから。
だから、神に祈る。
眞魚神社には、今日も多くの村人が集まっていた。
かつて神と共に降臨した巨石は、眞魚岩と名付けられ、神と共に信仰の対象となっていた。眞魚岩の側には祭壇が組まれ、その前で、
覡の後ろでは、集まった村人も神に祈っている。満足な食事をしていないため骨と皮だけになった手を擦り合わせ、血の気のないかさかさの唇で祈りの言葉を言い、髪の抜け落ちた頭を下げる。それを、何度も繰り返す。衰えた身体には酷な動きだ。体力のない老人を始め、倒れる者も少なくない。
倒れた村人の看病をするのは、眞魚神社の巫女・
「――さあ、ここで、少し体を休めてください」
祭壇から少し離れた場所に
祭壇の前では、覡と村人の祈祷が続いている。もう何日も祈りを奉げているが、雨が降る気配も、神がお言葉を授けてくれる気配も無かった。村人はもちろん、覡の顔にも、疲労の色は隠せない。
久から粥を受け取った老人が、生気のない表情で言った。「巫女様、我らがこれほど苦しんでいるのに、なぜ、神は助けてくれないのでしょうか?」
久は少しだけ困った顔になったが、すぐに笑顔を浮かべ、答えた。「神は、我々が本当に追い詰められたときしか救いの手を差し伸べてくれません。簡単に助けていては、我々のためになりませんからね。大丈夫です。このまま祈りを奉げ続ければ、必ず、救いは訪れます。ですから、希望を捨てないでください」
「そう……ですね……ええ、そうですとも」
久の言葉に励まされたのか、老人の表情が少し明るくなった。
久は優しく微笑むと、次の村人に粥をよそい、励ましの言葉をかける。
祈りを奉げてください。
救いは訪れます。
希望を捨てないでください。
だが。
久は村人を励ましながらも、心を痛めていた。
久には判っていた。どんなに祈りを奉げようとも、神は決して答えてくれないだろう。
この村の神は、飢えに苦しむ村人を、二度と救ってはくれない。
だから、神に頼らず、我々自身でなんとかしなければいけないのだが、何をどうすればいいのか、久には判らない。蓄えていた食糧は、もうほとんど残っていない。水は、干上がった川をさかのぼって山の奥深くに入り、残ったわずかばかりの水溜りから汲み出して運んでいる。食糧も水も、村人全てには行き渡らず、神社を預かる
もちろん、死人を食べるのも、人を殺すのも、決して許されることではない。
だが人は、飢えるとなんでも食べる。生き残るためには、なんでもする。
久はそれを――身をもって知っていたのだ。
祈祷はさらに三日続いたが、やはり雨が降る気配はなく、神も、何も告げてはくれない。
村人の中には、神に不信感を抱く者も出てきた。
「なぜ、神は我らを助けてくれない」「これほど腹を空かせているというのに」「神は、我らを見捨てたのか」
祈祷を続ける覡の背後で、声を潜めて話す村人。初めの内は数人で、他の村人に睨まれると口をつぐんだが、時間が経つにつれ、その人数は増えて行く。どれだけ祈っても救いが訪れる気配がないのだから、それも仕方ない。
さらに三日が経ち、それでも雨が降る気配はない。不審を抱いた村人の声は、すでに覡の耳にも届くようになっていた。
十日目。ついに、耐えかねた村人が叫んだ。
「――覡様! 我らがこれほど苦しみ、救いを求めているのに、なぜ神は答えてくれぬのです!!」
祈祷が中断され、覡は、叫んだ村人を振り返る。一人が叫ぶと、他の村人も、「そうだ! なぜ答えてくれない!」「なぜ雨は降らない!」「神は我らを見捨てたのか!」と、同じように声を上げ始めた。止める者は、もういなかった。
「それは……」と、覡は言い淀んだ。答えることはできなかった。覡は、祈り、神の声を聞く者であるが、本当は、何も聞いてはいない。祈りを奉げるふりをし、自分の言葉を神の言葉と偽り、伝えているだけだ。もちろん、そんなことを言うわけにはいかない。
「神は何もしてくれないのか!?」「我らは見捨てられたのか!?」「答えよ! 覡!!」
村人が詰め寄る。もはや、覡が村の長であることなど関係なかった。当然だろう。これまで村人は、飢えに供えよという神の教えに従い、農作物のほとんどを眞魚神社に納めてきた。だが、実際に飢饉になると、蓄えた食糧を優先して食べるのは、覡や村で身分の高い者たちだ。その上、どんなに食糧が少なくなろうとも、神は救いの手を差し伸べてくれない。村人の不満が爆発するのも無理はなかった。
「なぜ何も言わぬ、覡!!」「神はもういないのか!!」「我らを騙していたのか!!」
さらに詰め寄る村人。今にも暴動を起こしそうなほどに殺気立っている。
追い詰められた覡は、苦し紛れに叫んだ。
「村の中に、悪鬼に魂を捧げた者がいる! 悪鬼が村に呪いをかけているのだ! 村が飢饉に襲われたのも、神が何も答えてくれないのも、全て、その悪鬼と、悪鬼に魂を捧げた者が原因だ!!」
覡の言葉に、村人は顔を見合せ。
そして、力強く頷いた。
村人は、悪鬼に魂を捧げた者を探し始めた。
その者を捕え、処刑すれば、神は救いの手を差し伸べてくださる。我らは、腹いっぱい食べることができる。そう信じて。
真っ先に疑われたのは、巫女の久だった。
無理もない。
村人は、満足な食糧を得られず、皆やせ細り、骨と皮だけのような状態だ。蓄えた食糧を優先して食べてきた覡でさえ、決して十分な量ではなく、長い祈祷もあり、かなりやつれている。
それに比べ、久の姿は、飢餓が始まる前と何ら変わりなかった。久も巫女として祈祷を行い、倒れた村人の看病も行っている。その間、何かを口にしている所を見た者はいない。なのに久は、全く衰える様子がなかった。肉付きは良く、肌は染みひとつ無いほど美しい。悪鬼に魂を捧げ、村中に呪いをかけ、悪鬼から加護を受けているのだ――誰もが、そう思った。
無論、久は悪鬼に魂を捧げてなどいない。満足な食事もしていない。むしろ、飢餓が始まって以降、久は自分の食べるべき水や食糧を、全て村人に分け与えていた。水の一滴、粟の一粒も口にしてはいない。どんなに喉が渇き、飢えようとも、久は決して命を落とすことがないのだから。だが、それを言っても、誰も信じはしないだろう。むしろ、それこそが悪鬼に魂を捧げた証だと言われかねない。
「あの女を捕えろ!」「神の使いのふりをして、人心を惑わす女」「悪鬼に魂を捧げた女を罰せよ!!」
村人は口々に叫んだ。普段、久のことを慈悲深い女神のような女と慕う村人の姿は、もう無かった。あの女を処刑すれば我らは救われる――あの日、久から粥を受け取った老人も、一緒になって叫んでいた。
久は村人に囚われ、覡の前に引き出された。
「覡様! あたしは、悪鬼に魂を捧げてなどおりませぬ! それは、覡様もご存じのはずです!」
久は訴えたが、無駄であった。村人は、久の処刑を求めている。そうすることで、神が救いの手を差し伸べてくれると信じている。もはや覡にも止められない。下手に久をかばうようなこと言えば、処刑されるのは自分になる――覡の胸には、そういう恐怖があった。
「その女の首をはねよ!!」
覡が命じた。
刀を持った男が現れた。久は、村人の手により無理矢理跪かされる。首を差し出す格好となった久の横で、男は刀を振り上げた。
「覡様! お願いです! あたしの首をはねても、何も変わりません!!」
久の訴えは届かず。
刀は振り下ろされた。
久の首が地面に転がる。
続いて、主を失った身体が、どさりと倒れた。
村人は、久の首と身体を無言で見つめていたが。
「悪鬼に魂を捧げた女は死んだ! これで、神は我らを救ってくださるだろう!!」
覡の言葉に、村人は手を叩き、歓声を上げた。
「さあ! 祈祷を再開するぞ!!」
再び眞魚岩の前に跪こうとした覡や村人の表情が凍りついた。
久の首が、転がり始めた。
誰も触れていない。地面も揺れていなければ、風さえ吹いていない。
なのに、久の首はまるで斜面を下るかのように、ごろごろと転がる。
人々は、恐怖にひきつった顔で、その様子を見つめる。
転がった先に、久の身体があった。
人々が見つめる先で、久の首は、元にあった場所で止まった。傷口と傷口が、ぴたりと合う。その傷が消えていく。まるで、時が戻っているかのように。
そして――。
久が顔を上げた。首と胴は、完全に、元に戻っていた。
村人が一斉に悲鳴を上げ、久から遠ざかった。
「悪鬼だ! 悪鬼の力だ!!」「やはりこの女が災いの元凶だ!!」「ああ! 神よ!! お救いを!!」
ある者は怒声を上げ、ある者は救いを求め、ある者は泣き叫び、ある者は武器を振りかざす。
「違います! これは……違うのです!!」
久の言葉は、恐怖に怯える村人には届かない。
「処刑せよ! 何としてでも、悪鬼の女を処刑するのだ!!」
覡の声で、久は捕えられ、再び刀が振り下ろされた。今度は首だけでなく、両手、両足、胴も斬り捨てられた。だが、それでも久を処刑することはできない。しばらくすると、斬り捨てた部位は元に戻り、久はよみがえる。どんなに斬り刻んでも無駄だった。村人はますます恐怖し、その恐怖は、狂気となって、久に向けられる。絞首、火あぶり、あるいは、頭を叩き潰す……あらゆる処刑法が用いられた。それでも久を処刑することはできなかった。誰もが、久が悪鬼に魂を捧げたと疑わなかった。
処刑法も尽き、久を殺すことはできないと悟った時、村人の一人が思い出した。自分たちが、飢えていたということを。
そして目の前には、どんなに斬り刻もうとも、決して死ぬことがない女がいる。
村人が、刀で久の右腕を斬り落とした。
久は苦痛に顔をゆがめるも、その傷はすぐに塞がり、元に戻ろうとする。
村人は、久から斬り放した腕を、じっと見つめる。
柔らかそうな二の腕。滴り落ちる血。もはやそれは、人の腕には見えなかった。人の腕であろうと関係なかった。
その、肉付きの良い二の腕に、喰らいついた。
肉の柔らかさを味わい、血で喉を潤し、骨をしゃぶる。村人は、楽園に誘われたかのような至福の顔で、久の腕を喰らった。
村人の半数はその行為に嫌悪を抱いたが。
残りの半数は、彼の行為に続いた。
左腕が斬り落とされた。
続いて、右足。
さらに、左足も。
腹に喰らいつく者もいる。
胸の肉を削ぎ落す者もいる。
すぐに再生が始まる。斬り落とされた手足が生え、腹の肉も、胸の肉も、元に戻る。そして、また斬り落とされ、食べられる。何度斬り落としても、何度食べても、すぐに元に戻る。
これこそが神の恵みだと、誰かが言った。腹を空かせた我々に、神が永遠の食糧を与えたくれたのだ、と。
駄目だ。あたしの身体を食べてはいけない――久の言葉は届かない。村人は、久の身体を貪る。止められないことは判っていた。人は、飢えればなんでも食べるのだ。五百年前の、自分のように。
あのとき久は、この地に降臨した神を、食べた。
そして、神の血肉を得た久は、神と同体となった。
だから。
久の血肉を食べることは、神の肉を食べることと同じなのである。
あたしの肉を食べてはいけない!!
久の叫びは決して届かない。村人は、久の身体を食べ続けた。
陽が中天に差し掛かる頃、久の叫びは、獣の断末魔の叫びとなり、村中に響き渡った。
久の肉を食べた者が、頭を押さえて苦しみ始める。
「苦しい」「頭が割れる」「神よ! 救いを!」
村人は、救いを求めて天に手を伸ばすが、その声は、どこにも届かない。
やがて、目から、鼻から、口から、血を流し、そして、息絶えた。
「この女を地の底へ埋めよ!!」
覡の命により、久は手足を縛られ、そして、地中深く埋められた。
☆
――――。
地の底で。
――なぜだ?
久とは違う、別の者が、目覚めた。
なぜ、このような目に遭わねばならぬ。
神の血肉を口にする、その禁忌を犯した。
だが、その罪を悔い、五百年もの間、罪を償い続けた。
神の血肉を天に返すため、自分の娘たちの命を捧げ、そして、村人にも尽くしてきた。
その結果が、これなのか。
五百年もの長い間償い続けた結果が、この、冷たい地の底なのか。
これでは、もう罪は償えぬ。何もできぬ。
あるいはこれも、神が与えた罰なのか。
五百年償い続けた彼女に、更なる罰を与えるのか。
それが、この村の神なのか――。
ならば。
彼女を決して許しはしない神など、あたしはいらぬ。
彼女の与えた愛を理解せぬ者たちも、あたしはいらぬ。
神の許しなど、もういらぬ。
どんなに償おうとも、決して彼女が許されぬのならば。
神も、村人も、いらぬ。
全て、滅んでしまえばいい。
――そうだ。
贖罪など、いらぬ。
神に尽くそうとも、村人に尽くそうとも、全て無駄だったのだ。
彼女の罪は、決して許されない。
彼女の受けた呪いは、決して解けない。
この村の呪いは、決して解けない。
ならば。
神も、村人も、この村も。
そして、彼女自身も。
全て、あたしが滅ぼすしか、ない――。
憎しみは、炎となって燃え上がった。
そして――。
村は、炎に包まれた。
眞魚岩が、燃える。
眞魚岩の前に組まれた祭壇も、燃える。
眞魚神社の社殿も燃える。
すでに枯れ木ばかりとなった森が燃え、村人の住まいが燃え、そして、村人も、燃えた。
それは、久の――いや、元は久だった女の、憎しみの心が生みだした炎だった。
――これでいい。
女は思う。
これで終わる。
村の全てが燃え尽きれば、終わる。
最後にあたしが燃えれば。
本当に、全て終わりだ。
女は、最後に、自分自身に火をつけた。
炎は、燃え続けた。
だが――。
全てを焼き尽くすことは、できなかった。
炎が消えた時、そこに、眞魚岩と、久自身が残っていた。
☆
久は泣いた。
この呪いから、決して逃れられぬことを悟り、泣いた。
空を見上げる。
神は、あたしに何を求めているのだ。
神への償いも、村人への償いも、何も生まない。
全てを滅ぼすこともできない。
ならば、神はなぜ、あたしに永遠の生を与えたのだ。
決して許されることのない罪を、あたしは、いつまで償い続ければいいのだ。
あるいはそれこそが、あたしに与えられた罰なのか。
神は、なにも答えてはくれない。
代わりに、雨が降る。
燃え尽きた森と、燃え尽きた村と、燃え尽きた人々と、そして、燃え尽きなかったひとりの女とひとつの巨石に、雨が降る。
全て遅い。
もはやこの地に、雨はなんの恵みももたらさない。
雨は降り続き、久の心は冷たく凍えた。