神代家の次女は、生まれながらにして神の花嫁となることが定められている。その存在は極秘とされ、戸籍にさえ記されることはない。生まれてすぐ、屋敷の最も奥まった場所にある座敷牢に入れられ、神の花嫁となる日――聖婚の儀式まで、そこで暮らすこととなる。会うことができるのは、神代の一族と、花嫁の身の回りの世話をする数人の女中、そして、眞魚教の求導師・求導女、宮田医院の院長など、村の有力者に限られていた。そのような境遇だから、当然、心を許せる友人はできない。会いに来るのは大人ばかりだ。唯一の同年代である姉も、滅多なことでは会いに来ない。花嫁になる時期が近づくほど、妹は姉に憎しみを抱くようになるからだ。
そんな花嫁の心を癒すため、いつの頃からか、花嫁には動物を飼わせることが多くなっていた。犬や猫はもちろん、ウサギやブタ、小鳥、座敷牢にはちょっとした日本庭園もあるため、池で鯉や亀を飼うこともできる。花嫁は、望めば大抵の動物を飼うことができた(無論、危険の無い範囲に限られる。かつて熊を飼いたいと言った花嫁がいたそうだが、さすがにそれは許されなかったらしい)。花嫁は、唯一の友と言える動物と共に、決して長くはない時間を牢の中で過ごす。
だが、その代の神の花嫁・
「動物をこの狭い牢の中に閉じ込めるのはかわいそう」
そう答えるのだった。
だが、その笑顔の中に、微妙な寂しさが混じっているのは、誰の目にも明らかだった。
動物の代わりなのか、美夜子は、別の物を望んだ。
ピアノを弾いてみたい、という。本を読んで興味を持ったらしい。
花嫁の生涯は極めて短い。座敷牢内でできることは限られるが、望みは可能な限り叶えてあげるのが慣例だ。当主が許可をしたので、数日後、決して広くはない座敷牢に、大きなグランドピアノが運び込まれた。ピアノどころか音楽の知識などかけらも無い当主が、金に物を言わせてとにかく一番良いものを、と、入手したのだ。美夜子はまだ七歳。小さな身体には有り余る大きさだったが、喜んでピアノを弾きはじめた。最初はただやみくもに鍵盤を叩くだけで、演奏と呼べるようなものではない。だが、世話をする女中の中にピアノの知識のある者がいたので、その者が指導すると、すぐに簡単な曲を弾きこなすようになった。やがて、もっと難しい曲を弾きたがるようになる。少し難易度の高い曲を教えても、すぐに覚え、また別の曲を望む。それを繰り返し、十歳の頃には女中の手には余るようになった。本格的に指導すれば、世界的な演奏者になる可能性もある。だが、専用の講師を雇うのはさすがに許されなかった。もちろん、どんなに才能があろうと牢の外に出ることは許されない。それ以降、美夜子は独学でピアノを弾き続けた。神の花嫁になる頃には、誰もが聴き惚れる腕になっていた。
「ピアノは、楽譜を通じて作曲者と会話することなの」
そう、美夜子は言う。
作曲者がこの曲で伝えたかったことは何か、それぞれの楽章・パートに込めた思いは何か、それを知るために、鍵盤を通して語りかける。弾き続けることで、やがて答えが返ってくる。
その繰り返しを、何年も続けてきた。数えきれないほどの曲を弾いた。ピアノを与えられた日から、毎日、欠かすことなく。
「――だから、あたしはこの部屋に一人だけど、たくさんの人と会話しているの」
そう言って、美夜子はまた、微妙な寂しさを含んだ笑みを浮かべる。それをごまかすためか、必ず最後に「本に書いてあったことの受け売りなんだけどね」と言って、おどけて舌を出すのだった。
その日、眞魚教の求導女・八尾比沙子は、久しぶりに美夜子と会うことが許された。座敷牢のある区画へ行くと、ピアノの音色が聞こえてきた。激しく駆け巡るような伴奏と振幅の大きい旋律だ。鍵が開けられ、比沙子が中に入っても、美夜子は気付かずピアノを弾き続ける。比沙子は声を掛けず、そのまま曲に耳を傾けた。比沙子はピアノの演奏に関しては素人同然だが、教会でパイプオルガンを弾いているため、楽曲に関する知識はそれなりに持っていた。この曲は、フレデリック・ショパンの『革命のエチュード』だ。祖国の革命が失敗した時の感情を込めた曲だと言われている。美夜子の奏でる旋律にも、悲しみや怒り、憤りといった感情が含まれている。心が揺さぶられる演奏だが、比沙子は小さくため息をついた。求導女という立場から、比沙子は年に数回は美夜子と会うことができる。小さなころは、心が安らぐ穏やかな曲、あるいは、楽しくなるような陽気な曲を好んで弾いていたが、年々、悲しみや怒りを表現した曲を弾くことが多くなっている。激しい感情を表す曲は難易度が高くなる傾向にあるため必然とも言えるが、それだけではない、美夜子の内に秘めた感情が現れているようにも思える。演奏している時の美夜子の顔も、楽しそうには見えない、曲と同じく、悲しみや怒りがにじんでいる。
美夜子はもうすぐ十五歳になる。御印は、まだ下りない。歴代の神の花嫁の中でもかなり遅い方だ。だが、その日は必ず訪れる。避けることはできない。その日が近づくにつれ、美夜子の弾く曲は、より悲しみや怒りが増していく。
楽曲が後半になると、作曲者の心の乱れを表すかのように、演奏はより複雑になる。そして最後に、それまでの全ての感情をひとつにしてぶつけたような力強い響きで、美夜子は曲を弾き終えた。
比沙子は少し迷ったが、小さく拍手をした。それで、ようやく美夜子は比沙子がいることに気が付いた。
「あれ、比沙子? 会いに来てくれたんだ。嬉しい」
そう言って、笑顔を浮かべる。
「本当に上手になったわね。一流の演奏家みたいよ」
「そう? なら良かった。あたし、他の人の演奏をあんまり聴いたことがないから、自分が上手なのか、判らないんだよね」
笑顔のまま言った。皮肉、というわけではない。ただ純粋に思ったことを言っただけだ。実際、牢から出ることができない美夜子は、他の者の演奏を聴くことは無い。美夜子にピアノの基礎を教えた女中も、今は神代家を去った。比沙子はピアノを弾けない。ピアノとオルガンは、全く異なる楽器だ。美夜子に会える者でピアノの知識がある者はいない。だから、美夜子のピアノが本当に上手なのか、正確なところは判らない。
だが、誰もがその音色に聴き惚れ、心を動かされるのは確かだ。技術的なことは判らないが、少なくとも、人を引き付ける魅力があるのは間違いない。比沙子の言葉に、お世辞や嘘は無い。だから美夜子も、素直に受け入れてくれる。
褒められて笑う美夜子の顔が、不意に曇った。
「こうやってピアノを弾けるのも、あとちょっとなんだね」
その顔に、はっきりとした悲しみが浮かぶ。
「……花嫁になるのが、怖い?」
美夜子は首を振った。「怖くはない……と思う。そうしないといけないのは、判ってるつもり。でも……」
美夜子は口をつぐんだ。
納得はできない――そう言いたいのかもしれない。
比沙子は、千年以上前に犯した罪で不死の呪いを受けた。比沙子の直系の子孫である神代の娘もまた、死ぬことはできない。常世に来ることを神に拒まれているのだ。受け入れてもらうには、神の花嫁になるしかない。花嫁の儀式は、不死の呪いを受けた神代の娘が唯一死を迎える機会なのである。同時に神の怒りを鎮め、村を災害から救うためでもあった。
代々、神代の次女にはこの話をしている。物心ついた頃から、繰り返し、何度も。何も説明せず監禁し、時が来たら有無を言わせず奉げているわけでは、決してない。
だが、この話をしても、納得できない者がほとんどだ。花嫁になるのを拒んだあげく、逃げ出す者も少なくない。花嫁にならなければその先に待つのは永遠の苦しみだけだが、それが判っていても、逃げ出さずにはいられないのだ。
その点で、美夜子はかなり冷静だと言えた。神に奉げられる時期が近付くと、通常、花嫁は全てのものを憎むようになる。花嫁を監禁した家族、自分たちの安息のために生贄を奉げようとする村人、そんな残酷な運命を背負わせた神……。無論、眞魚教の求導師・求導女も例外ではない。比沙子も、これまで数えきれないほどの神の花嫁から恨まれ、憎しみの言葉をぶつけられた。だが、美夜子はそんなことはない。こうして比沙子とも親しくお喋りをしている。求導師や宮田医院院長、父や姉との関係も、決して悪くない。このような神の花嫁は、比沙子にとっても初めてだった。
「誰かを憎んだってしょうがないってことは、判ってるの。花嫁になるのを拒んだって、いつかあたしは、みんなの前からいなくなる。だったら、みんなに笑顔で見送られたいし、みんなにも、笑顔のあたしを覚えておいてほしいの」
迷いの無い目で言う美夜子。言葉だけではなく、心からそう思っている目だ。死を受け入れるには、美夜子はあまりにも若い。だが、千年以上の時を生きてきた比沙子だからこそ、人の幸せは決して生の長さだけで決まらないことを知っている。美夜子にはピアノがあった。決して長くはない人生だが、その全てをピアノに奉げてきた。人生でやるべきことを見つけ、迷いなくそのすべてを奉げることができる人は、そう多くない。比沙子でさえ、千年以上続けてきた自分の行為にいまだ迷いがある。美夜子は、比沙子ですら叶えられなかったことを、この狭い座敷牢とわずか十数年の生の中で叶えたのかもしれない。
だからこそ――その笑顔に混じる微妙な悲しみを取り除きたかった。
その比沙子の思いに気付いたように、美夜子は、「ただね……」と言って、続けた。「一度でいいから、みんなの前でピアノを弾いてみたかったなって、思うの」
美夜子の笑顔が、今度ははっきりと陰る。
そして、続けた。
「ピアノは、あたしの生きた証みたいなものだから」
美夜子は、愛する人の胸に顔をうずめるかのように、鍵盤の上に顔を伏した。いくつかの音階が混じった音が牢内に響く。それはどこか、美夜子の悲しみに寄り添うような響きだった。
美夜子に御印が降りたのは、それから数日後のことだった。
報せが届くと、教会は、三日間をかけて眞魚岩の中州に祭壇を組み、御神体を運ぶ。通常、四日目の夜に聖婚の儀式を行うようになっている。
だが、このときの儀式は、一日遅らせることになった。
比沙子が、儀式の前に、美夜子にピアノを弾かせてほしい、と、当主にお願いしたのだ。
村の長い歴史の中でも、そのようなことを行った例は無い。誰もが認められるはずがないと思っていた。しかし、当主はあっさりとこれを認めた。比沙子にとっても意外だった。特別なことはしていない。その気になれば比沙子は当主でさえ従わせることができるのだが、そのような特殊な力を使うこともなかった。
美夜子の部屋のグランドピアノが運び出され、眞魚岩の中州まで運ばれた。
聖婚の儀の夜。
眞魚岩の前に、村人たちが二列になって並び、神の花嫁となる美夜子を迎える。花嫁の衣装である黒のドレスを着た美夜子は、決意に満ちた顔で歩く。眞魚岩の側にあるピアノへ向かって。
そして、ピアノのそばに立った美夜子は、村人を振り返り、深く頭を下げた。
拍手を贈る村人。盛大な拍手、とは言えない。秘祭とも呼ばれるこの聖婚の儀式は、大半の村の者が、その詳細について知らない。式に集まった村人は二十人程度だ。
それでも、美夜子は笑顔で拍手に応え、そして、静かに椅子に座った。
時間をかけ、ゆっくりと準備を整え、やがて鍵盤の上に手を置いた。目を閉じた。
この演奏が終われば、美夜子は神の元へ旅立つ。彼女の生は、終わる。
それでも。
美夜子は、わずかなためらいも見せず、弾きはじめた。
美夜子がこの日の演奏に選んだ曲は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『悲愴』。難聴者として知られるベートーヴェンが、耳に異常を感じ始めた頃作った曲である。ベートーヴェンは、自分の楽曲に自分で表題を付けることはほとんど無かったというが、『悲愴』は、彼自身が表題を付けた数少ない楽曲のひとつだ。彼がそこにどのような思いを込めたのかは判っていないが、耳が聞こえなくなる自分の人生を表したのではないか、との見方が強い。
『悲愴』は、三つの楽章からなり、それぞれが異なる曲調となっている。
第一楽章は、重々しく、ゆっくりとした序奏から始まる。その表題通り、まさに悲壮感が漂う曲調だ。だが、序奏が終わると曲調は一変し、駆け抜けるような速さになる。焦りや切迫感を感じさせる曲調だ。曲が進むごとにその激しさを増していくが、またそれが一変し、序奏のような重々しい曲調に戻る。だがそれも、また激しい曲調へと変わる。それをもう一度繰り返し、第一楽章は終わる。
わずかな間をおいて、美夜子は次の演奏へ移る。
第二楽章は、第一楽章から一転して、穏やかに慰めるような曲調になる。第一楽章のような緩急の変化は無い。だが、穏やかな中にもどこかもの悲しさを感じる部分もある。絶望的な状況の中に癒しを見つけた、そのような曲だ。
第三楽章でも、また曲の雰囲気は変わる。第一楽章のような悲壮感や、第二楽章の癒しとも違う、全体的に悲しみが漂う。だが、その中にも、どこか強い決意や意志を思わせる旋律だ。
三つの楽章からなる『悲愴』。美夜子は、一心に弾き続ける。
――ピアノは、楽譜を通じて作曲者と会話することなの。
美夜子が常に言っていたことを思い出す。あの狭い牢の中で、幾度となくこの曲を弾いてきただろう。その中で、美夜子はどのような話をしたのだろうか。どのような思いを抱いたのだろうか。
美夜子はこの曲に、自分の短すぎる人生を重ねている――のだろうか。
美夜子の奏でる音色が、響き渡る。
川の真ん中にある中州だ。専用の音楽館のように、音響効果など全く計算されていない。
だからこそ、美夜子の奏でる音色を遮るものは、何も無い。
美夜子のピアノは、中州を越え、森を越え、村中へ届くはずだ。
ピアノの演目としては決して長くはない、時間にしてわずか十分程度の演奏が、終わった。
信者たちの拍手が贈られる。
誰もが、涙を浮かべて、美夜子の演奏を讃える。
美夜子はピアノの前に立ち、深く――深く、頭を下げた。
そして、顔を上げ、笑みを浮かべた。
悲しみの無い、心の底からの笑顔。
生を全うした――とは言えない。もっと多くの曲を弾きたいはずだ。もっと多くの人に聴いてほしいはずだ。心残りは、数えきれないほどあるだろう。
だが、彼女が、十五年の生を全力で生きたことは、間違いない。
だからこその笑顔だった。
美夜子は、神の元へ旅立った。
村人の祝福に送られて。
最期まで笑顔のまま。
何度も、何度も、「ありがとう」と、言いながら。
旅立つ直前、美夜子は比沙子に向かって、ひときわ大きな声で、ひときわ美しい笑顔で、「本当に、ありがとう!!」と、叫んだ。
それは、彼女の長すぎる生の中でも、たった一度だけの、花嫁からの感謝の言葉だった。
美夜子が旅立った後も、村人の拍手は止むことなく、いつまでも続いた。