千年の祈り   作:ドラ麦茶

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禁教令

 羽生蛇村は、幕府が放った軍隊に包囲されていた。

 

 慶長十七年に布告された『禁教令』により、南蛮の国から伝わった宗教を信仰することは禁じられた。当初は布教の禁止や教会の取り壊し、外国人宣教師の国外退去、改宗命令に応じない者を投獄する程度のもので、信者を処刑することは極めてまれであった。しかし昨年、肥前国(ひぜんのくに)島原にて起こった農民信者の一揆をきっかけに状況は一変。幕府は南蛮国の宗教を邪宗門(じゃしゅうもん)と呼び、治安維持の名目のもと信者へ厳しい処罰を課すようになった。処罰を恐れた信者は信仰心を秘めるようになったが、幕府軍は信者の捜索を徹底的に行った。全ての民に神を描いた絵を踏ませ、密告者には高い報奨金を出し、そして、疑わしき者は容赦なく拷問にかけた。禁教令は、今や国を挙げた南蛮宗教への大弾圧と発展していた。

 

 羽生蛇村で信仰されている眞魚教は、幕府の言う邪宗門ではない。日本に南蛮国の宗教が伝わるよりもはるか昔に、この村で生まれた土俗宗教だ。しかし、江戸に幕府が開かれる以前、全国的に布教が広まった南蛮宗教の要素を取り入れることにより、眞魚教は南蛮宗教と酷似するものとなっていた。寺院を教会、布教を勧める者を求導師・求導女と呼び、信仰の象徴として『マナ字架』を掲げる宗教を、幕府が邪宗門と認めるのも無理はなかった。

 

 幕府軍は邪宗門の信者を投獄・処刑するよりも、捕えて棄教を促すことを目的としていた。棄教――すなわち、信仰を放棄させようというのであるが、その手段として用いられたのは拷問である。幕府軍は村人が逃げられないよう村を完全に包囲すると、村人を捕まえては過酷な拷問を課し、棄教を迫った。村人は信仰心の(あつ)い者ばかりであったため、簡単には棄教を認めなかった。故に、拷問は苛烈をきわめた。鞭打ち、石抱き、水責めなどはもちろん、それらよりもはるかに苦しい拷問も行われた。多くの村人は苦痛に耐えられず棄教を認めたが、抵抗を続け、繰り返される拷問の果てに命を落とす者も少なくは無かった。また、棄教を認め解放された者も、拷問による怪我が原因で数日以内に死亡することも多かった。

 

 眞魚教の総本山である不入谷(いらずだに)教会には、酷い怪我を負った村人が、連日のように運び込まれてくる。

 

 眞魚教の求導女・(ひさ)と、村でただ一人医術の心得がある四郎(しろう)は、次々と運び込まれる怪我人の治療に追われていた。

 

「……酷いものですね。なにも、ここまでしなくてもよいものを」

 

 四郎は村人の腕の傷に包帯を巻きながら、独り言のように言った。繰り返された鞭打ちによる傷は、皮膚を裂き、肉を削ぎ、骨まで達している。それでも、この村人の状態は良い方だ。鋸引きにより腕を失った者もいる。逆さづりの果てに血管が裂けてしまった者もいる。傷口に塩を塗りこまれ、あまりの痛みに発狂してしまった者もいる。教会の礼拝堂には、そういった患者が(むしろ)の上に何十人も横になり、苦しそうにうめき声をあげていた。

 

「信者の皆さんには、棄教を迫られたらすぐ認めるようにと言っているのですが……」四郎の治療を手伝いながら、久は言った。「このような状況ですから、信仰を捨てても、神は許して下さると」

 

 それでも、村人はなかなか棄教を認めようとしなかった。そんなことをしたら、たとえ神が許しても自分自身が許せない、と言うのだ。

 

 包帯を巻き終えた四郎は、次の患者の治療へ移った。「信仰心が篤いのは、それだけこの村の神の教えが素晴らしいということなのでしょうが……医者としては、命を危険に晒してまで信仰を持ち続けることを、美徳とは思えません」

 

 そう言った後、四郎はすまなさそうな顔をし、「求導女の久さんの前でこんなことを言うのは、申し訳ないのですが……」と、付け加えた。

 

 久は首を振った。「いえ、あたしも、同じ思いです。信仰を捨てるのは、信者の皆さんには、つらく、苦しいことかもしれません。でも、死んでしまっては、人はそこで終わりなんです。どんなにつらく苦しくても、生きてさえいれば、いつかきっと、報われる時が来る……あたしは、そう思います」

 

 四郎がじっと見つめていたので、久は思わず顔を伏せた。「すみません。ちょっと、大げさなことを言っちゃいましたね」

 

「いいえ。そんなことはないですよ。久さんの言う通りだと思います」

 

「ありがとうございます」

 

 久が礼を言うと、四郎は笑顔で頷き、次の患者の治療に移った。

 

 その患者は、両足が大きくはれ上がっていた。石抱きの拷問をされたらしい。ただ、顔色は悪くなく、痛みもあまりないと言う。

 

 しかし、四郎は足の具合を丹念に診て、骨が複雑な形で骨折していると診断した。すぐに治療を始める。

 

 久は、治療する四郎の姿を頼もしく見ていた。もし、この患者を四郎ではなく自分が診ていたらどうなっていただろう? 自分に医術の心得は無い。痛みが無いのならば安心と、患部を冷やす程度の治療しかしなかったかもしれない。そのまま状態が悪化すれば、両足ともに壊死し、切断を余儀なくされるか、最悪の場合、死に至ったかもしれない。

 

「四郎さんがいてくれて、助かりました」骨折の治療を終えた四郎に、久は言う。「これだけの怪我人。あたしだけでは、とても治療しきれません。こんな小さな村に来て頂けて、本当にありがたいです」

 

「いえ、そんな……お礼を言うのは、私の方です。都を追放された私を、村の人たちは受け入れてくれた。本当に、感謝しています」四郎は、照れくさそうに笑った。

 

 四郎は、五年ほど前まで江戸の都で医者を営んでいた男だ。南蛮国の進んだ医学をいち早く学び、都では名の知れた医者だったらしい。しかし、都の医者の中には、南蛮国の医学を認めない古い考えの医者も多く、それらの圧力によって、都から追放されたのだった。

 

 都を追われた四郎はこの羽生蛇村に流れ着いた。最初は閉鎖的な村人から避けられていたが、村で病人やけが人が出ると、四郎は積極的に治療を行い、その献身的な行動から、少しずつ受け入れられていった。今では村でただ一人の医者として、村人から一目置かれる存在である。

 

「今は、四郎さんが、みんなの心の支えです」久は、四郎に向かってそう言った。四郎がいなければ、多くの村人が命を落としたであろう。本当に、感謝している。

 

「そんなことはありませんよ」と、四郎は言う。「村人の心の支えは、やはり眞魚教です。みんなが信仰を捨てようとしないのは、やはり、眞魚教の教えが素晴らしいからだと思います」

 

 眞魚教の教えが素晴らしい――その言葉に、久は顔を伏せた。そんなことはない、と、心の奥で呟く。

 

 四郎は久の様子に気付かず、続ける。「幕府軍が、この村の宗教は邪宗門ではないと、判ってくれればいいのですが……村長(むらおさ)と求導師様に、期待しましょう」

 

 現在、村長と求導師は、幕府軍と話し合いを行っている。眞魚教が邪宗門ではないことを訴え、軍に撤退してもらうよう要請しているのだ。

 

「根気よく説明すれば、きっと、判ってくれますよ」と、四郎は言う。「この村の宗教は、南蛮国の宗教のような、国の治安を乱すものではない。村人の心を救い、穏やかに暮らすためのものであると」

 

 久はあいまいに笑った。

 

 四郎の言葉が、胸に刺さる。

 

 ――この村の宗教は、国の治安を乱すものではない。

 

 確かにそうだろう。眞魚教は、幕府を脅かすような真似は、決してしない。村の外への布教はしていないのだ。むしろ、村外への布教を、暗に禁じてさえいる。眞魚教はあくまでもこの村だけのものであり、決して、外に出ることはないだろう。幕府の脅威になることなど、あり得ないのだ。四郎はそれを知っているから、眞魚教を「すばらしい」と言う。

 

 だが、四郎は知らない。眞魚教の真の姿を。

 

 眞魚教では、数十年に一度、神に花嫁を捧げる儀式を行っている。村長の家に、神の花嫁にふさわしい娘が産まれると、その娘が初潮を迎えるのを機に、神に捧げられる。娘は神の世界――常世へと向かい、現世から消えるとされている。

 

 そう。神に花嫁を捧げる儀式とは、要するに生贄の儀式だ。眞魚教は、邪宗門と呼ばれても仕方がない宗教であった。

 

 この地に眞魚教が誕生して以降、この儀式はずっと行われてきた。生贄となった娘は数知れない。この儀式のことを知る者は、村長や求導師など、村の有力者の一部だけだ。四郎だけでなく、村の信者の多くが、知らない。

 

 眞魚教は、本当に人々の心の支えになっているのだろうか? 本当に村に必要なのだろうか? 疑問に思うことがある。罪のない娘の未来を奪い続けた。そして今、罪のない村人たちの生活を脅かしている。村人たちを傷つけているのは幕府軍だが、そもそも村に眞魚教が無ければ、こんなことにはならなかったはずだ。

 

 こんな宗教なら、いっそ――。

 

「……久さん、何か言いましたか?」

 

 四郎に呼ばれ、久は我に返った。考え事をしていて、独り言を言ってしまったらしい。

 

「いえ、なんでもないです」

 

 久は、患者の治療を続けた。

 

 教会の扉が勢いよく開き、「先生! お願いします!!」と、叫びながら、男が入って来た。その背には、求導師が背負われていた。求導師は眞魚教の最高責任者であり、村長と共に、兵の撤退を求め幕府軍と話し合いをしていたはずだ。その姿を見て、久は息を飲む。求導師は、右手の指を全て失っていた。いびつな傷口は、刃で斬り落とされたのではないだろう。火鋏(ひばさみ)のような物で挟み、ねじ切られたような傷だった。反対側の左手は、指どころか肩から先が失われていた。こちらも傷口はいびつで、恐らく、鋸で切り落とされたのだろう。額には火傷と思われる傷もある。いったい、何があったのか? 考えるまでも無かった。幕府軍は、話し合いに来た求導師を捕らえ、拷問し、棄教を迫ったのだ。

 

「出血が酷い。すぐに止血しないと」

 

 四郎は、求導師を筵の上に寝かすと、背負っていた男に、火をおこして()()()を熱するように言った。男は頷き、教会の外に出た。

 

「久さんは、指の止血を」

 

 四郎に言われたが、久は求導師の姿を凝視したまま、動くことができなかった。右手の指と左腕を失った求導師。しかし久は、両手の怪我よりも、額の火傷痕の方に目を奪われていた。その傷は文字になっており、『宗門改(しゅうもんあらため)』と読めた。それは、幕府が邪宗門を棄教した者に押す焼印である。

 

 つまりその火傷痕は、眞魚教の最高責任者である求導師が、幕府軍の拷問に屈し、棄教を認めたことを意味している。

 

「――久さん!」

 

 四郎の叫ぶような声で、久は我に返る。今は治療が先決だろう。布を取り出し、求導師の右手に当てた。布は、見る間に赤く染まっていく。左腕は四郎が止血しているが、どちらも布を当てる程度では気休めにもならない。

 

 しばらくして、男が()()()を持って戻ってきた。火にさらされた平たい鉄の刀身は真っ赤に焼けている。四郎は平てこを受け取ると、求導師の身体を押さえるように言った。男と久、そして、礼拝堂にいた比較的症状の軽い患者数人で、求導師の身体を押さえつけた。四郎は、熱した平てこを求導師の左肩の傷に当てた。傷口を焼くことで、止血するのである。その苦痛は想像を絶するが、他に治療法はない。言葉にならない悲鳴を上げ暴れる求導師を、久たちは押さえる。左の傷の止血を終えた四郎は、続けて、右の手の傷に平てこを当てる。全ての傷を焼き終えると、激しく暴れていた求導師はおとなしくなった。苦痛のあまり意識を失ったようだ。今はその方がいいだろう。久と四郎は、傷口に包帯を巻いて行った。

 

「……出血は止まりましたが、助かるかどうかは、私にも判りません。この傷では、あるいは……」

 

 四郎は言葉を濁したが、助からない可能性もあるということだろう。むしろ、助かる可能性の方が低いかもしれない。かなり深刻な状態だ。

 

 四郎は、求導師を背負って来た男を見た。「いったい、何があったのですか」

 

 男の話によると、幕府軍は最初から話し合いに応じるつもりはなかったようだ。出向いてきた求導師を捕らえ、拷問し、棄教を迫った。まずは爪を一枚一枚はがされ、それでも棄教を認めないと、今度は指を一本ずつねじ切られた。両手の指が無くなると、今度は鋸で左腕を切り落とされた。そして、次は右腕も切られるという段階になって、求導師は棄教を認めたのだった。求導師は額に『宗門改』の焼き印を押され、解放された。久は額にも包帯を巻いたが、すでに多くの者に見られたはずだ。礼拝堂は、不安と憤りが入り混じったざわめきに包まれている。眞魚教の最高責任者である求導師が幕府に屈し、棄教した。信者たちが動揺するのも無理はない。

 

「――今は、求導師様の回復を祈りましょう」

 

 四郎は、信者たちと、そして久に言い聞かせるように、少し強めの口調で言った。

 

 それでも、礼拝堂内のざわめきは治まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 求導師が棄教したという話は、あっという間に村中に知れ渡り、村人は、大いに動揺した。

 

 さらに昼過ぎ。幕府軍と話し合いをしていた村長(むらおさ)が解放されたことで、動揺はさらに広がった。村長はほぼ無傷だった。唯一の傷は、左の二の腕に押された『宗門改』の焼き印傷のみ。

 

 村長は、拷問される前に棄教を認めたのだ。それも、自分一人ではなく、村の信者全員の棄教を、幕府軍と約束したという。

 

 信じていたものに裏切られた――多くの村人は、そう思った。眞魚教は、千年近く昔からこの村に存在する。村人のほぼすべてが信者であり、眞魚教を信仰することは、村の人々には当然のことであった。それが、理不尽な弾圧により突然失われた。それも、求導師や村長という、眞魚教の上に立つ者の判断によって。

 

 だが久は、むしろこれで良かったと思っていた。意地を張って大怪我を負ったり、命を落としても、なににもならない。今は、村を存続させることが重要だ。久は、動揺する村人に、そう説いていった。幸い、若者や女を中心に、久の言うことに同意してくれる者も少なくはなかった。四郎も、久の考えを支持してくれた。

 

 夕方になり、良い知らせも入って来た。生死の境をさまよっていた求導師が、なんとか命を取り留めたのだ。容体は安定しているから、もう大丈夫だろう、と、四郎は言った。右の指と左腕を失ったことは残念だが、それでも、生きていることは喜ぶべきだろう。

 

 そう。どんなにつらく苦しくても、生きてさえいれば、いつかきっと、報われる時が来るのだから。

 

 村全体が棄教を認めたことで、いずれ幕府軍も撤退する。村は、苦境を乗り切ったのだ――そう、久は思った。

 

 しかし。

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 

 久と四郎は、教会への帰り道を歩いていた。その左腕には包帯が巻かれてある。包帯の下には、『宗門改』の焼き印がある。幕府軍によって押されたものだ。

 

「申し訳ありません。四郎さんにまで、つらい思いをさせてしまって」

 

 久は、四郎の腕を見ながら言った。村に来て日の浅い四郎は、まだ眞魚教の信者ではない。本来ならば焼き印を押されるいわれは無いのだが、四郎は、拒むことはなかった。

 

 村全体が棄教を認めたことにより、幕府軍は、村人全員に焼き印を押そうとした。しかし、村長たちが交渉し、なんとか代表者のみに留めたのだ。村長や求導女の久など、村の有力者や眞魚教に関係する者が集められ、次々と焼き印を押されていった。四郎は、村でただ一人の医者ということで選ばれたのである。

 

「いいんですよ。むしろこの傷は、私が村に受け入れられた証だと思っています」

 

 四郎は笑って答える。上辺の言葉ではなく、心の底からそう思っているような笑顔だった。

 

「久さんこそ、お辛いでしょう」久を気遣うような表情の四郎。「女性の身体に傷をつけるなんて、幕府軍も、酷いことをする」

 

「あたしは求導女ですから、仕方ないです。むしろ、あたし一人で事が済んで、良かったです」

 

 女で焼き印を押されたのは久のみだ。屈辱的なことであったが、村人を守るためならば我慢できた。

 

 村人全員の棄教が決まったことで、幕府軍はすでに撤退を始めている。しばらくは数十名の兵が残り、厳しく監視されるだろう。元の静かな村に戻れる日は、まだ遠いかもしれない。しかし、必ずその日は来るはずだ。どんなにつらく苦しくても、生きてさえいれば、いつかきっと、報われる時が来る。久は、そう信じていた。

 

 だが。

 

「せ……先生! 求導女様! た……大変です!!」

 

 血相を変えて駆けて来たのは、先日、教会に求導師を運んで来た男だった。

 

「ど……どうしたんですか……慌てて……」

 

 息を飲む久。男の様子から、ただ事ではないことが伝わってくる。

 

「きょ……教会に……火が放たれて……」

 

「――――!?」

 

 言葉を失う。

 

 教会に火が? なぜそんなことに!? 村は棄教を認めた。もはや、幕府軍に村を攻撃する理由はないはずだ。

 

 男は久の考えを読んだかのように、大きく首を振った。「幕府軍じゃありません……火を放ったのは、村の連中です……棄教を認めた求導師様は……その……異端者だと」

 

 久は、めまいを覚えた。

 

 教会に火が放たれた。それも、幕府軍ではなく。村の人の手によって。

 

 もう、幕府軍の脅威は無くなったはずなのに。

 

 せっかく、助かったのに。

 

 多くの犠牲を払ったが、これから少しずつ、元の村に戻るはずだったのに。

 

 四郎が駆け出したのを見て、久は我に返る。そうだ。呆然としている場合ではない。教会には、求導師をはじめとした、多くの怪我人がいる。ほとんどの者が、一人では歩くことさえままならない容体だ。

 

 救わなければ。

 

 久も、四郎の後を追った。

 

 だが、もう、遅かった。

 

 駆けつけた久が見たものは、天をも焦がすほどの勢いで燃え上がる教会だった。

 

 すでに、教会全体に火が回っている。もはや、手の施しようが無かった。燃え盛る炎は、教会の壁を、屋根を、そして、屋根の上に取り付けられた眞魚教の象徴・マナ字架を、焼く。

 

 教会の中には、何十人もの村人がいる。多くの者が、幕府軍に棄教を迫られ、それを拒み、命に係わる怪我をした者だ。連日のように運び込まれ、四郎と久が、治療し続けた村人だ。

 

 それが、燃えている。

 

 多くの村人の命が、失われる。

 

 同じ、村人の手によって。

 

 久と四郎は、その様子を、ただ茫然と見つめるしかできなかった。

 

「た……大変だ……求導女様……先生!!」

 

 丘の下から、別の村人が駆けてきた。「村の衆の暴動に乗じて、幕府軍の残党も暴れはじめました! 村に火が放たれ、金品を奪い、女は襲われて、逆らう者は、容赦なく殺されています!!」

 

 久は、村を一望できる教会そばの広場へ走った。

 

 眼下には、炎に包まれた村が広がっていた。

 

 村の男が、容赦なく殺される。

 

 村の女は、幕府軍の残党に襲われる。

 

 財は奪われ、老人も、子供も、容赦なく殺される。

 

 ここからは見えないが――久の目には、その様子が、はっきりと見えるようだった。

 

 四郎がその場に崩れ落ちた。「なぜ……こんなことに……」と、何度もこぶしを地面に叩きつける。

 

 不意に。

 

 久の胸の内から、笑いが込み上げてきた。こらえきれず、久は笑った。おかしくて仕方が無かった。村に火が放たれたことを伝えた男が、困惑した目を向けるが、それでも久は笑い続けた。

 

 目の前の光景が。今、自分の周りで起こっている出来事が。自分が、今までしてきたことが。

 

 全てが、滑稽に思える。

 

 だから笑った。笑うしかなかった。

 

 ――くだらない。

 

 自分は、今まで何をしてきたのだろう?

 

 求導女――救い、導く女。

 

 そんな名で呼ばれても、自分には、何も救うことはできない。誰も導くことはできない。

 

 村人が殺され、女は犯され、財を奪われても、自分は何もできない。

 

 村の危機に対し、自分は、何もできないのだ。ただ、黙って見ているしかない。

 

 でも――。

 

 それで、いいではないか。

 

 そう。

 

 これは、あたしがずっと望んで来たことなんだ。

 

 こんな村、無くなってしまえばいい。

 

 あたしはずっと、心の奥で、そう思っていた。

 

 この村があるから、あたしは、いつまでも縛られたままなのだ。

 

 村が無くなれば、あたしは解放される。

 

 あたしは、長く続いた苦しみから――本当に、長い間続いた、この村で生きる苦しみから。

 

 ようやく、解放されるのだ。

 

 どんなにつらく苦しくても、生きてさえいれば、いつかきっと、報われる時が来る――そんなことはあり得ないと、あたしは知っていたはずだ。

 

 そうだ。

 

 あたしは、この時を待っていた。

 

 この村が無くなることを。

 

 眞魚教が無くなることを。

 

 あたしは、ずっと待っていたのだ。

 

 はるかな昔から、ずっと――。

 

 がたり、と、なにかが崩れるような音がした。教会の方からだ。

 

 久は振り返る。

 

 四郎も顔を上げた。

 

 燃え盛る教会の中から、炎の塊が転がり出てきた。

 

 炎の塊――いや、それは人だ。教会の中にいた者が、脱出したのだ!

 

 すぐに四郎が駆け寄った。上着を脱ぎ、炎を消そうとはたく。男もそれを手伝った。やがて、火は消えた。

 

「火傷が酷い。すぐに治療します。井戸から、水を汲んできてください」

 

 四郎は男に言った。男は頷くと、井戸の方へ走っていった。

 

「久さんも手伝ってください!」

 

 四郎が叫ぶが、その声は、久には届かない。聞こえていない訳ではない。ただ、冷めた目で、四郎を見ているだけだ。

 

「久さん! 早く!!」

 

 そんな声で呼んでも無駄だ。久の胸にあった、村を救いたいという思いは、もう、燃え尽きてしまった。

 

 だから言う。

 

「治療なんて、無駄です」

 

 四郎の目が、患者から久に向く。久さん……何を言っているんですか……言葉にしなくとも、四郎の目は、そう訴えかけていた。

 

 だが久は、容赦なく、冷たい言葉を口にする。「ここで治療をして、助かったとしても、どうせ、誰かに殺されます。もし、誰にも殺されなかったとしても、いずれは死にます。人は、いつか必ず死ぬのです。今、あなたがその者の命を救うことに、いったいどれだけの意味があるというのです」

 

 自分でも不思議だった。さっきまでは、村人を救うためならば己の命さえ捨てる覚悟があったのに、今はもう、そんな気持ちは綺麗さっぱり消えている。あるいは、最初から無かったのかもしれない。最初から無かったものを、あると思い込んでいたのかもしれない。今の自分は、もう、求導女ではない。

 

 四郎が目を伏せた。

 

 意外にも。

 

「……久さんの……言う通りかもしれません」

 

 四郎は、久の言うことを否定しなかった。

 

「――――」

 

 それが久にも予想外だったので、言葉が出てこない。

 

 四郎は言葉を継ぐ。「都では、毎日のように、重い病に罹ったり、酷い怪我を負ったりする人がいます。私は、子供のころからそんな人たちを見て……そんな人たちを救いたくて、医者になろうと決意しました。町医者に弟子入りし、医者として独り立ちできるようになっても、南蛮国の進んだ医術を学びました。ただ、多くの人の命を救いたい一心で、医者になったのです。しかし、実際に医者になって判ったことは、医者には、救える命よりも、救えない命の方がはるかに多いということです。どんなに効能のある薬を飲ませても、どんなに進んだ治療を施しても、救えない命はあります。『死』というものに対し、医者は……人間は、あまりにも無力なんです」

 

 井戸から水を汲んできた男が戻ってきた。四郎は手ぬぐいを水に浸すと、患者の火傷傷に当てる。

 

「この患者の命も救えないかもしれない。治療を施すだけ、より苦しみを長引かせるだけかもしれない。でも、この人は、炎の中から脱出した。死ぬのが怖くて、死にたくないという一心で、教会の中から脱出したのです。目の前に生きようとする命があるのなら、私は救いたい。それが、医者である私の使命だと思います」

 

「…………」

 

 久は、黙って四郎の話を聞いていた。いつの間にか、聞き入っていた。

 

 四郎が久を見た。「久さん。あなたはどうですか?」

 

「あたし……?」

 

「あなたの使命はなんです? 何のために、求導女になったのですか?」

 

「あたしの、使命……」

 

「あなたのなすべきことを、どうか思い出してください」

 

 四郎は患者に視線を戻した。治療を続ける。その目には、何の迷いもない。目の前に救わなければいけない命がある。だから救う。己のなすべきことを理解している者の目だった。

 

 ――あたしのなすべきこと。

 

 どくん、と、胸の奥がうずいた。何かが目覚めようとしている。心の奥に潜んでいた、何かが。

 

 教会を見た。炎に包まれた教会は、今にも崩れ落ちそうだった。

 

 ぐらり、と、屋根に取り付けられてあるマナ字架が、大きく揺れた。

 

 そして、久の目の前に落ちる。

 

 マナ字架は、木の板を組んで作ったものだ。なのに、長い時間炎にさらされていたにもかかわらず、表面がわずかに焦げているだけだった。

 

 それはまるで、『神』が、久に何かを訴えかけているようだった。

 

 

 

     ☆

 

 

 

「求導女様! 先生! 大変です!」

 

 丘の下から、また、別の男が駆けてきた。「教会に火を放った連中が、今度は村長(むらおさ)の屋敷を襲っています! 娘が二人連れ出されました。幕府軍の残党に差し出すと!!」

 

 四郎が顔を上げた。「二人? 村長の娘は、一人ではなかったのですか?」

 

「はい。村の連中、みんな、そう聞いていました。しかし、屋敷の者の話では、もう一人は、生まれた時から屋敷の奥の牢に囚われていて、極秘のうちに育てられたと……」

 

 男は、久の顔を見て息を飲んだ。

 

「きゅ……求導女様……どういたしましょうか……」

 

 怯えるような口調で訊いてくる。

 

 二人の娘を受け取った幕府軍の男どもは、どうするだろうか? 村長の娘は若く、美しい。妹は、特に。そうなると……結果は、考えるまでも無かった。

 

 久は、大きくため息をつくと。

 

「……それは、ちょっと見過ごせないわね」

 

 独り言のようにつぶやき、村長の屋敷へ向かう。

 

「あの、求導女様……」

 

 男に呼び止められ、久は振り返った。「なに?」

 

 男は、恐る恐る言う。「その……大丈夫でしょうか……?」

 

「なにが?」

 

「おかしなことを言うかもしれませんが……求導女様が……なんだか……別人のように見えます。喋り方も……表情も……」

 

「そう? あたしはあたしだけど……まあ、そうかもしれないわね」そう言って、久は微笑む。

 

 それが、かえって男を怯えさせたようだった。

 

 久は構わず、再び歩き出す。

 

 ふと、左腕を見た。二の腕に巻かれた包帯の下には、幕府軍に押された焼き印がある。

 

 久は包帯をほどいた。『宗門改』の火傷痕が表れる。

 

 久は、右手でその火傷痕を掴むと。

 

 二の腕の肉ごと引きちぎり、投げ捨てた。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 村に放たれた炎が、夜の闇を焼く。

 

 幕府軍残党の(かしら)は、炎に包まれた村を高台の上から眺め、満足げに頷いた。小さな村だったが、(きん)宝物(ほうもつ)、食糧をかなり溜めこんでいた。思った以上の収穫だ。特に、村人が差し出してきた村長の二人の娘が上物だった。歳のころは、十四・五歳といったところだろう。二人とも、田舎の村には不釣り合いなほど美しい。特に妹の方は、生まれてから一度も太陽の光を浴びたことが無いかと思う程に、白く透き通るような肌をしていた。知り合いの奴隷商人の所へ持ち込めば、かなりの値が付くだろう。数年は遊んで暮らせるかもしれない。だがその前に、どうしてもその娘を味わわなければ気が済まなかった。だから、そうした。奴隷としての価値は大幅に下がったが、娘を味わえるのであれば安いものだった。いや、そもそも売り飛ばしてはもったいない。このまま自分の手元において、何度でも味わおう。その方が賢明だ。

 

 頭は高らかに笑った。これだから、邪宗門狩りはやめられぬ。信者を捕らえ、好きなだけ拷問し、財を奪い、女も自由にできる。やっていることはそこらの盗賊団と変わらないのに、その行為がお(かみ)から咎められることはない。

 

 炎に包まれた村では、村の男は次々と殺され、女は襲われ、子供は泣き叫びながら逃げ回っている。

 

「いいか! 一人たりとも逃がすなよ!」頭は、部下に向かって叫んだ。「一人でも邪宗門の生き残りを作ったら、国の治安が乱れるからな! 村もすべて焼き尽くせ! これは、お上の命だ!!」

 

 おお! と、部下たちが応じた。

 

 炎はさらに勢いを増している。小さな村だ。一晩もあれば、すべて灰になるだろう。

 

 だが、突然。

 

 村を焼いていた炎が、消えた。

 

 何が起こったのか判らない。風は吹いていない。雨も降っていない。なのに、本当に突然、炎が消えたのだ。村の炎だけではない。部下たちが手に持っているたいまつの炎や、置いてあるかがり火の炎も、すべて消えてしまった。月が照らす心細い明かりだけが、村の様子を映し出す。

 

「何をしている? 早く、もう一度火を点けろ!」

 

 へい、と、部下が応じた。石をこすり、たいまつやかがり火、家屋に火を点けようとするが、どうしても、火が点かない。

 

 と、向こうから、女が一人、歩いてくるのが見えた。

 

 赤い修道服を着ている。この村の宗教――眞魚教とか言ったか――の、求導女と呼ばれる女が着る服だ。女の身でありながら、右手に刀を持っている。刀身に月明りが反射し、ぎらりと光った。ひと目で価値ある刀だと判った。おそらく、名高い刀匠が鍛え上げたものだろう。恐れはしなかった。どんな名刀であろうとも、女の細腕で何ができるというのか。お宝が一つ増えただけの話だ。

 

「おい、なんだてめぇは?」頭は低い声で言った。年頃の女ならばそれだけで震えあがるはずだが、女に怯えた様子はない。

 

 部下たちが女を取り囲んだ。女よりも二回りも大きな屈強な男たちだが、それでも女は、表情すら変えなかった。

 

「――娘を返してもらうわよ」感情の無い声で言う女。あまりにも冷たい声だった。逆に、男たちの方が震え上がりそうだった。

 

 そんな訳は無い。この俺が、女ごときに怯えるなど――頭は、胸の内で自分に言い聞かせ、そして、顎を上げて笑った。「娘? 村長の所の娘のことか? それは聞けねぇな。あんな上物の女、手放すわけにはいかねぇ。てめえが代わりになるって言うなら、考えてもいいが……」

 

 頭は値踏みするように女の姿を見て、もう一度笑い声を上げた。「いや……あの娘の代わりにするには、ちょっと年を取りすぎているか」

 

 頭の笑い声に、部下たちも同じように笑った。だがそれは、どこか無理に笑っているような声だった。

 

 女は、相変わらず感情の無い、冷たい声で言う。「妹の方は好きにして構わないわ。もう、『実』としての価値は無くなったようだから。でも、姉の方は、次の『実』を産まなければならない。渡すわけにはいかないわね」

 

「けっ……何を訳の判らんことを」

 

「それと、忠告しておくけど、早く村から出て行った方がいいわよ? あなたが『実』を盗んだから、『神』はお怒りなの。すぐに立ち去らないと、二度と帰れなくなる」

 

「何が神だ……おい。面倒だから、さっさとやっちまいな」

 

 頭の命令に応じた部下が二人、女に向かって刀を振り上げた。

 

 女は、左手を部下に向けた。

 

 次の瞬間、部下の身体は炎に包まれた。

 

 頭は、自分の目を疑った。何が起こったのかは判らない。女が手を向けただけで、突然、部下の身体が燃え上がったのだ。炎を消そうと地面を転がる部下。他の部下も、上着を脱いではたいたり、水を掛けたりするが、それでも炎は消えなかった。やがて、部下は動かなくなった。

 

「てめぇ……何をした」頭は女を睨む。

 

 女は動じない。ただ、感情のありかが判らない笑みを浮かべている。

 

「ふざけやがって……ぶっ殺してやる!」頭は、刀を抜いた。

 

 女は、挑発するようにあごを上げた。「殺す? あたしを? 面白いことを言うわね」

 

 そして笑う。女が初めて見せた感情だった。だがそれは、かえって男たちの胸に恐怖を抱かせた。

 

 女が笑うのをやめた。また、感情が消えた。氷のような目で頭を睨む。「殺してみなさい。できるものなら」

 

「舐めるんじゃねぇ! おい! 殺っちまえ!!」

 

 頭の声で、部下が一斉に女に襲い掛かる。

 

 女は慌てなかった。一人目の部下の刀をかわすと、右手に持つ刀を振るった。女の細腕とは思えないほどの鋭い一閃だった。部下は自分の身に何が起こったのか判らないような表情で、その場に倒れた。二人目が女に襲い掛かったが、女は刀で受け止め、左手をかざした。部下の身体は炎に包まれ、地面をのた打ち回った後、動かなくなった。三人目は女の方から斬りかかられた。四人、五人と、斬られ、あるいは身を焼かれ、部下たちは次々と倒れて行く。女一人に、なに手こずってやがる……苛立つ頭。だが、六人目の刀が、女の背中を捉えた。女の顔が苦痛に歪む。しかし、女は倒れず、振り向きざまに背後の部下を斬る。そこへ、七人目の部下が跳びかかった。刀を女の腹に突き刺す。女が、口から血を吐いた。それでも、刀を振り上げる。そこへ、さらに八人目が刀を突き刺した。九人目、十人目の刀も、女の身体を貫く。

 

「よし! とどめは任せろ!!」

 

 頭は女の元へ走ると、その首めがけて、刀を振り下ろした。

 

 ごとり、と、女の首が地面に転がり。

 

 続いて、首を失った胴が、ゆっくりと倒れた。

 

 (かしら)は、冷たい(むくろ)と化した女を見つめた。薄気味悪い女だった。怖いもの知らずのこの俺が、不覚にも怯えてしまった。いや、そんなものは、一時的な気の迷いだ。たかが女一人に恐怖するなど、あり得ない。そう、自分に言い聞かせても、胸の内に生じた恐怖は、簡単には消えない。この女は何者だったのだ? 村に放った炎を消しさり、手をかざしただけで部下の身体が燃え上がった。まるで、炎を自在に操っているかのようだった。人のなせる(わざ)とは思えない。

 

 ……まあいい。女はもう死んだ。女が何者であったにせよ、殺してしまえば恐れることはない。

 

 ぽつり、と、頬に水滴が当たった。雨か? 空を見上げる。さっきまで月が煌々と輝いていた夜空は、いつの間にか、闇よりも黒い雲に覆われていた。舌打ちをする頭。おかしな村だ。部下の中にも、まだ動揺している者がいる。これは、早々に立ち去った方がいいかもしれない。

 

「おい。戦利品(ブツ)をまとめろ。とっとと引き上げるぞ」

 

 頭は部下たちを振り返り、そう命じた。

 

「――無駄よ。あなたたちは、もう逃げられない」

 

 背後で声がした。女の声だ。聞き覚えのある声。さっきまで聞いていた声だ。しかし、あり得ない。女は殺した。たった今、この手で首を斬り落としたはずだ。首を斬られて生きていられる人間などいない。だが、背後には、明らかに何者かの気配がある。振り返るのが恐ろしい。だが、振り返らずにはいられない。振り返った。女が立っていた。斬り落としたはずの首が、ある。感情の宿らない笑みを浮かべている。

 

「ひぃっ!」と、部下たちが情けない悲鳴を上げた。女に対する恐怖心が広がっていくのが判る。耐えられず、一人が逃げ出した。それにつられ、一人、また一人と逃げ出す。そうなると、もう頭にさえ止められない。

 

 女は、逃げる者に興味を示さなかった。恐怖に怯えた小者に用はない――そんな表情。あるいは、女の言う通り、もう逃げられないということなのか。

 

 女が、一歩近づく。

 

 頭は刀を構えた。

 

「化物め……」

 

 そうつぶやくと。

 

 女の顔に、一瞬だけ、悲しみが宿ったような気がした。

 

 その時だった。

 

 周囲に、獣の遠吠えのような、甲高い音が響き渡った。

 

 それは、空の彼方から聞こえて来るような、あるいは、地の底から響いてくるような、そんな音だ。聞いているだけで、胸の内に本能的な恐怖が湧きあがってくる。耳を塞いだが無駄だった。音は、容赦なく耳の奥を刺激する。あたまが痛い。まるで、木槌で繰り返し殴られているような痛みだ。あまりの痛みに、意識が遠のいていく。

 

 女が不敵な笑みを浮かべた。「時間切れよ。残念だったわね」

 

 女がなにを言っているのかは判らない。

 

 (かしら)は、意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 目覚めた時、周囲には、誰の姿も無かった。

 

 雨は降り続いている。空を見ると、厚い黒雲に覆われていた。光の気配はまるで無い。なのに、なぜか周囲の様子はぼんやりと見えた。

 

 どれくらい意識を失っていたのだろうか? あの女何者だったのか? どこへ行ったのか? 判らないことだらけだ。あるいは、全て夢であったのか。そんな気さえする。

 

 まあいい。こんな薄気味悪い村、長居は無用だ。とっととずらかろう。

 

 そばに落ちていた刀を拾い、歩き出そうとした。

 

 だが、足を止めずにはいられなかった。

 

 人の気配がする。それも、数多く。

 

 意識を失う前、自分は、邪宗門徒の暮らす集落にいた。財を奪うために火を放ち、村の男は一人残らず殺し、女子供は売れそうな者のみ連れ去り、残りは殺したはずだ。部下たちも逃げ去った。では、今この集落にいるのは、何者だ。

 

 びくん、と、身体が震え。

 

 一瞬、目の前に、呆然と立ち尽くす一人の侍の姿が見えた。

 

 背後に強烈な殺気を感じた。振り返る。村人が一人、右手に持った鎌を振り上げ、こちらに向かって来ていた。その顔を見て息を飲む。村人の肌の色は、まるで生気のないどす黒い灰色で、目からは、血のような赤い涙を流している。(しかばね)のような風体だ。

 

 屍は「ぱりらおうごうぞしの」と、意味不明な唸り声を上げて、襲い掛かってくる。

 

 恐怖よりも防衛本能が勝ったのは、曲がりなりにも幕府軍で兵を指揮する立場にあったからか。(かしら)は、屍が鎌を振り下ろすよりも早く、刀で斬った。屍は甲高い悲鳴を上げながら倒れる。だが、その悲鳴を聞きつけたのだろうか。集落にいた別の男たちが集まって来た。皆、鎌や(すき)(くわ)などの農具で武装している。皆、目から血の涙を流している。皆、屍のような風体をしている。頭は屍を斬った。一人、また一人と、斬り捨てる。だが屍は、斬られる恐怖を感じていないかのように、恐れることなく次々と襲いかかって来る。五人、十人と斬り捨てても、それでも襲ってくる。二十人斬ったところで気が付いた。一度斬り捨てたはずの屍がよみがえり、また襲いかかって来ていることに。

 

「くそおおぉぉ!!」

 

 頭はめちゃくちゃに刀を振り回し、走った。とにかくこの村から逃げ出さなければ。どこに向かえばいいのか判らないが、とにかく、山を下る道を走った。

 

 だが。

 

 走った先の道は、海に消えていた。馬鹿な!? この村は山の奥深くにあったはずだ。海からは、遠く何百里も離れている。海など存在しないのだ。それに、なんだ、この色は? 海の水は、まるで血のように赤い。

 

「言ったでしょ? もう、逃げられないって」

 

 あの女の声が聞こえた。どこだ!? 周囲を探るが、姿は見えない。

 

 山の上からいくつもの気配が近づいて来る。あの屍どもだ。逃げ場はない。覚悟を決め、頭は刀を振り上げて屍の群れに飛び込んだ。手当たり次第に斬っていったが、多勢に無勢だった。刀が折れた。それでも抵抗を続けたが、両腕を掴まれ、身動きが取れなくなった。屍の一人が鎌を振り上げ、頭の喉を掻き斬った。鋭い痛みと共に、血飛沫が飛び散る。だが、その痛みは一瞬だった。不思議なことに、血が流れれば流れるほど、身体の中に新たな力が流れ込んで来るような気がする。

 

 頭は、両脇を屍に抱えられ、赤い海まで連れてこられた。

 

 そして、水の中に沈められる。苦しくは無い。それはまるで、酒の海に溺れるかのような快感だった。

 

「……これで、大丈夫だろう」

 

「ああ。しばらくこうしていれば、すぐに大人しくなる」

 

「まったく……手間を掛けさせやがって」

 

「まあ、そう言うな。こんな奴でも、神は許して下さる」

 

 さっきまで意味をなさなかった屍の言葉が、理解できる。

 

 頭は、そのまましばらく、赤い海に身を任せていた。

 

 やがて、海から上がる。

 

 夜なのに、周囲はまるで昼間のように明るかった。空には光の布が風に揺れている。頭の周囲には、蝶のような生き物が、光の粉を撒きながら舞っていた。

 

 さっきまで薄気味悪かった村が、今は、楽園のように感じられる。

 

 

 

「――ようこそ。あたしたちの村へ」

 

 

 

 女の声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

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