夕方、神代家の女中・澄子は、小学校の図書室を訪れた。この小学校の図書室は、児童だけでなく村の住人なら誰でも利用することができるため、手が空いたときよく訪れているのだ。
図書室では、女の子が一人、真剣な表情で本を読んでいた。入ってきた澄子にも気づかないくらい集中している。あれは、吉川菜美子ちゃんだ。この小学校の五年生である。
「こんにちは、菜美子ちゃん」
澄子が声をかけると、菜美子はパッと顔を上げ、「あ、澄子さん。こんにちは」と、ぺこりと頭を下げた。菜美子は本を読むのが大好きな子で、この図書室で会うことが多く、澄子とは読書友達だった。
「随分熱心に読んでたみたいだけど、何の本?」
「あ、これです」
菜美子は本の表紙を見せた。『羽生蛇村民話集』とある。その名の通り、羽生蛇村に古くから伝わる民話を集めたものだ。
「あら、懐かしいわね」澄子は微笑む。
「澄子さんも、読んだことがあるの?」
「まあ、そうね。大好きよ、その本」
「そうなんだぁ。あたしもこの本、大好きなの。もう、三回も読んじゃった」にっこりと笑う菜美子。
何度も読んでいる――そう言われ、澄子は嬉しくなった。「そうなんだ。どのお話が好き?」
「うーん、いっぱいあるけど、『空から降ってきた魚』が、一番かなぁ」
『空から降ってきた魚』は、飢饉のとき、空から奇妙な形の魚が降って来た。空腹に耐えかねた村の娘がその魚を食べると、神様から怒られた。娘は魚を食べたことを悔い、これから魚を一匹ずつ返すと約束し、許しを乞うた――という話だ。
「そのお魚は、たぶん、神様の大事なペットだったんだね」と、菜美子は言った。「それを、娘が勝手に食べたから、神様は怒ったんだと思うの」
「そうかもしれないわね。菜美子ちゃんも、もし、空からお魚が降って来ても、絶対に、食べちゃダメよ?」
「えー? 空からお魚が降って来るなんて、ホントにはおこらないよー」
菜美子と澄子は、二人で笑った。
「この本、すごく面白いんだけど――」と、菜美子は話す。「ちょっと、よく判らないお話も、あるんだよね」
「そう? どのお話?」
「うーんとね……」菜美子は民話集をめくり、『まな板の上の赤子』と書かれたページを開いた。「このお話とか」
『まな板の上の赤子』は、眞魚川で漁をしていた老人が、網にかかった亀を川に放したことで、恩返しをされる話だ。川の底の宮殿に招かれた老人は、そこでもてなしを受けるが、出された料理の中に、まな板の上に乗った赤子があった。老人はそれを食べずにこっそり持ち帰ると、井戸の中に捨てた。
澄子は、うーん、と、唸った。「そうね。そのお話は、ちょっと難しいわね」
「うん。どういうことなのか、全然判らなくて」
「菜美子ちゃんは、もし、まな板の上に乗った赤ちゃんの料理を出されたら、食べる?」
「えー? 赤ちゃんは、食べちゃダメだよー」
「そうだよね。だから、『まな板の上の赤子』っていうのは、絶対に食べちゃいけないもの、を、表しているの」
「ふーん、そうなんだ。でも、なんで亀さんは、おじいさんに、食べちゃいけないものを、食べさせようとしたの?」
「それはたぶん、罰ね」
「罰?」
「ええ。そのおじいさんは、若い頃、自分の赤ちゃんを、食べちゃったんじゃないかな」
それを聞いて、菜美子は目を丸くして驚いた。「ええ! 赤ちゃんは食べないよ!」
「それが、食べるのよ」澄子は声のトーンを落とし、低く、それでいて力強い声で言った。「今の時代の人には判らないかもしれないけど、飢饉が続き、空腹が続いたら、人間は、なんでも食べるの。それが、奇妙な形の魚であっても、自分の赤ちゃんであっても、生きるためなら、食べるのよ」
「…………」
菜美子が言葉を失ったのを見て、澄子は笑った。「あはは。ごめんなさい。ちょっと、怖かったかな?」
菜美子はぶんぶんと顔を振る。「そんなことないよ! 菜美子はもう年長さんだから、怖くない!」
強がって言う姿が可愛くて、澄子はもう一度笑った。
「それにしても澄子さん、そんなこと、よく知ってるね」菜美子は感心したように言う。
「そうね。その本については、たぶん、村の誰よりも詳しいわ」
「へえ。そんなに、何回も読んだんだ」
澄子は何も言わず、ただ笑った。何回も読んだという訳ではない。その民話集は、澄子が書いた物なのだ。村に伝わる民話をまとめたというだけではない。そもそもそれらの話自体、澄子が村で経験したことを元に書いたのである。
「じゃあ、もうひとつ、教えて」菜美子が言う。
「いいわよ。なんでも訊いて?」
菜美子はパラパラとページをめくった。「このお話なんだけど……」
それは『
「ああ。そのお話は、特に難しいわね」澄子は頷いた。「そのお話、実は、さっきの『空から降ってきた魚』と、繋がってるの」
「え? そうなの?」
「ええ。『水蛭子神社のはじまり』では、人魚が村に流れ着いたから、ご飯を食べさせてあげた、っていうお話だけど、実際は、『空から降ってきた魚』の話の通り、村の人が、人魚を食べちゃったの。でも、それは絶対に食べちゃいけないものだったから、食べたことを隠すために、『水蛭子神社のはじまり』のお話を作った――」
不意に。
澄子の中で、別の何かが目覚めた。
☆
急に黙り込んだ澄子に、菜美子は首をかしげる。「澄子さん、どうしたの?」
澄子は我に返り、首を振った。「ううん。なんでもない。ゴメンね。その話のことは、あまり詳しくないの。だって、あたしが生まれるより、前の話だから」
「えー。そんなの、当たり前だよー」
澄子の言うことを冗談だと思ったのだろう。菜美子は、けらけらと笑った。
「さあ、菜美子ちゃん。もう遅いから、今日は帰りなさい」
菜美子は壁に掛けられた時計を見て驚く。「あ! ホントだ! もう下校時間過ぎてる!」
菜美子は慌てて帰り支度を整えると、民話集の貸し出しカードに名前を記入した。「家でゆっくり読もうっと。じゃあ、澄子さん、さようなら」
ペコリと頭を下げて、菜美子は走って帰っていった。
一人、図書室にたたずむ澄子。
さきほどの『水蛭子神社のはじまり』について、考えていた。
あたしが生まれる前の話――菜美子に言ったことは本当だ。水蛭子神社は、眞魚教よりも古い歴史を持つ。眞魚教は、澄子が作ったものだ。一三〇〇年前、この地降臨した神を、澄子は食べた。その罪を、償うために。
だから、眞魚教よりも古い水蛭子神社は、澄子が生まれるよりも前――一三〇〇年以上前から存在することになる。『水蛭子神社縁起』も、一三〇〇年以上前から伝わることになる。
その、『水蛭子神社縁起』が、絶対に食べてはいけない物を食べてしまったことを――空から降ってきた魚を食べたことを隠すために作られたものだとしたら。
澄子が罪を犯すより前――一三〇〇年以上前の時代に、村の誰かが、澄子と同じ罪を犯していたことになる。
それは誰だ? その者は許されたのか? あるいは、まだ許されていないのか? 許されていないのならば、どこにいるのだ?
――――。
澄子は首を振った。やめよう。これは、考えても仕方がない。
澄子の記憶はあいまいだ。ときどき、自分が誰なのかさえも忘れてしまう。当然だ。一三〇〇年という時間は、人が記憶を保つには、あまりにも長すぎる。記憶が間違っていることは、十分に考えられる。水蛭子神社が眞魚教よりも古いというのが、澄子の思い違いかもしれない。神社自体は澄子が生まれるより前にあったが、『水蛭子神社縁起』の話は、後から澄子が作ったのかもしれない。罪を犯した澄子はまず水蛭子神社を作り、その後なんらかの理由で眞魚教を作ったのかもしれない。
いずれにしても。
澄子にとってはどうでもいいことだ。仮に、本当に澄子より前に空から降ってきた魚を食べた者がいたとしても、見ず知らずの誰かが犯した罪など、考える必要は無い。大切なのは、あたし自身が許されるかどうかなのだから。
澄子は、窓から外を見た。北の方角。合石岳の頂き付近に、薄く光る小さな物体を見た。
神に花嫁を捧げる日が近いことを、澄子は悟った。