千年の祈り   作:ドラ麦茶

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夢みる少女

 眞魚教では、日曜の朝、礼拝式を行っている。信者たちが教会の礼拝堂に集まり、祈りと聖歌を捧げ、求導師が神の教えを説く。村には熱心な信者が多く、毎週多くの信者が集まり、賑わっていた。

 

 その日、式を終えた比沙子は、礼拝堂に恩田美奈が残っているのを見た。式が終わった後も信者たちが教会に残っておしゃべりするのは珍しくはないが、美奈はそういったおしゃべりの輪に加わるわけでもなく、一人、なにやら思いつめた表情で椅子に座っている。

 

 恩田美奈は十八歳の信者で、毎週欠かさず礼拝式に参加している。もっともそれは、信仰心が篤いのとはちょっと違う。式には、宮田医院の院長先生も毎週参加しているのだが、どうやら美奈は、その院長先生に密かに憧れているらしく、彼に会うのが目的のようなのだ。不純な動機とも言えるが、まあ、年頃の娘にはよくある話だし、そのような理由であっても、式への参加は大歓迎だ。礼拝式は、信者同士の交流を目的としているのだから。

 

 美奈には、理沙という双子の妹がいる。美奈と一緒に毎週来てくれるが、そう言えば、今日は見かけなかった。何かあったのだろうか? 気になった比沙子は、美奈に話しかけた。

 

「こんにちは、美奈ちゃん。今日は、理沙ちゃんは来ていないの?」

 

「あ、求導女様。こんにちは」ぺこりと頭を下げる美奈。「理沙は、家に居ます」

 

「珍しいわね。体調が悪いの?」

 

「いえ、そういう訳ではないんですが……」美奈は少し迷ったような表情をして、続けた。「昨日、ちょっとケンカしちゃって、なんだか気まずいんです」

 

「あら? そうなの」小さく笑う比沙子。二人は子供の頃からずっと仲良しで、いつも一緒だった。仲がいいからこそ喧嘩をすることもあるが、一晩経てばもう仲直りしているのが常だった。

 

 だが、今日の美奈の思いつめた表情は、いつもの小さな喧嘩とは訳が違うように思う。

 

「ケンカの原因は、なに?」比沙子は訊いてみた。

 

「大したことじゃないんですが、進路のことで、ちょっと……」

 

「進路……そっか。もう、高校三年生だもんね」しみじみという比沙子。少し前は小さな子供だったのに、時が経つのは早いものである。

 

 羽生蛇村には高校が無いため、美奈は、ふもとにある街の高校に、毎日バスで通っている。確か、看護師になるために、看護科を専攻しているはずだ。通常の高校とは違い五年制で、就職はまだ先だが、恐らく宮田医院に勤めることになるだろう。村にある病院は宮田医院ひとつだけだ。閉鎖的な村なので、村人以外の看護師が働くことはない。美奈なら問題なく採用されるだろう。

 

 理沙の方はどうだっただろうか? 理沙も美奈と一緒の高校に通っているが、学科は普通科のはずだ。将来何になりたいとか、具体的な話を聞いたことはないように思う。

 

 美奈が、小さくため息をついた。「理沙に、進路をどうするのか訊いても、判らないって言うんです」

 

 理沙が専攻する普通科は三年制だから、今年で卒業だ。今は五月。進学にせよ就職にせよ、さすがに何も決めていないのはまずい時期だ。

 

「クラスで何も決めていないのって、理沙だけみたいなんです。あたし、一年の時からずっと、進路は早く決めた方がいろいろ有利だ、って、言ってたんですよ。なのに、まだ何も決めてなくて……そんないい加減な気持ちでいるのに腹が立って、つい、キツイこととか言っちゃって、それで、ケンカになっちゃいました」

 

 高校で看護科を専攻した美奈は、中学卒業時にはすでに看護師になると決めていたのだろう。当時から、彼女は宮田医院の院長先生に憧れていた。動機にやや不純な面はあるものの、美奈の言う通り、進路を早めに決めるのは悪い事ではない。そんな美奈からすれば、卒業が近づいているのにまだ何も決めていない妹が心配になり、口うるさくなってしまうのも仕方ないだろう。

 

「うーん」

 

 比沙子は唸り声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 理沙のことが気になった比沙子は、会って直接話を聞いてみることにした。上粗戸の商店街にあるバス停で、理沙が帰って来るのを待つ。夕方六時のバスが停まり、理沙が降りてきた。一人だった。比沙子は、声をかけた。

 

「こんにちは、理沙ちゃん。美奈ちゃんは、一緒じゃないの?」

 

「あ、求導女様。こんにちは。お姉ちゃんは課外授業があるので、あたしだけ先に帰ってきました」

 

 普段なら下校時間が違っても、残って二人一緒に帰ってくるはずだ。どうやら、まだ仲直りしていないらしい。

 

「美奈ちゃんから聞いんだけど、進路のことで悩んでるんだって?」

 

「え?」と、目を丸くする理沙。「いえ……悩んでるって訳じゃ、ないんですけど……」

 

「進学するのか就職するのか、まだ何も決めてないって、美奈ちゃんが言ってたわ」

 

「もう……お姉ちゃんたら、余計なことを言って……」

 

「ふふ。可愛い妹のことが心配なのよ。それに、何も決めてない、っていうのは、違うんじゃないかな?」

 

「え?」

 

「理沙ちゃんのことは小さな頃から知ってるけど、そんな無計画な子じゃなかったはずよ? 真面目で、しっかり者で……どちらかと言えば、美奈ちゃんの方がいいかげんな所があるわよね」

 

「――――」

 

「いつだったか、美奈ちゃんと理沙ちゃんが、夏休みの宿題で、夜、月下奇人の花の絵を描いたの、覚えてる?」

 

「あ、覚えてます。確か、小学校四年生のときです」

 

「あのとき、理沙ちゃんは最後までちゃんと描いたけど、美奈ちゃんは途中で寝ちゃって、起きた時にはもう花がしぼんじゃって描けなくて。仕方ないから、理沙ちゃんの絵を見ながら描いたわよね」

 

「あはは。そんなことも、ありましたね」

 

「しっかり者の理沙ちゃんが、進路について何も考えていないなんてことはあり得ないと思うな。ホントは、将来やりたいことがあるけど、事情があって言えない――そんなところじゃないかしら?」

 

 比沙子は、理沙の顔を覗き込むように見た。困ったような表情の理沙だったが。

 

「……求導女様には、かなわないですね」

 

 諦めたように笑い、そして、話し始めた。「あたし、将来、デザイン関係の仕事をしたいんです」

 

「デザイン関係……そっか。理沙ちゃん、絵が得意だったものね」

 

 記憶を探る比沙子。確か、理沙が小学四年生のときに描いた月下奇人の絵は、コンクールで金賞を受賞したはずだ。

 

「それで、美術系の大学に進学したいんですけど……」と言って、理沙は顔を伏せた。「ウチ、貧乏だから、学費を出してもらえるか判らなくて……それに、ふもとの街には美大なんて無いから、村を出ないといけないと思うんです。そんなの絶対、お父さんとお母さんが認めてくれるわけがない」

 

 だから、言い出せないのだと言う。

 

「仕方ないですよね」理沙は、自嘲気味に笑った。「そもそも、あたしがデザイナーなんてなれるわけないし。諦めて、村で適当に就職しようと思ってます」

 

「…………」

 

 比沙子は、黙ってただうなずくだけだ。

 

 言いたいことは山ほどある。やりたいことがあるのに、挑戦しないで諦めたりしたら、いつかきっと後悔する。夢を簡単にあきらめてはいけない。

 

 だが、自分にそんなことを言う資格なんて無いことを、比沙子はよく判っている。比沙子が言っても、それは上辺だけの言葉だ。それでは、理沙の心には響かないだろう。

 

 だから、違うことを訊いた。「美奈ちゃんには、相談しないの?」

 

 理沙は首を振った。「お姉ちゃんに言っても、反対されるだけだし」

 

「そうかなぁ? そんなことは無いと思うけど」

 

 比沙子は、懐から時計を取り出した。そろそろ次のバスが来る時間だ。

 

 しばらくすると、バスが到着した。美奈が乗っているはずだ。

 

 バスから降りた美奈は、二人を見て目を丸くした。「理沙……求導女様……」

 

 比沙子は、悪戯っぽく笑う。「美奈ちゃん、ちょうど良かった。今、理沙ちゃんの進路について、話していたところなの」

 

「え?」驚いた表情の美奈。

 

 比沙子は、「ほら」と言って、理沙の背中を押した。「さっきの話、美奈ちゃんに、言ってみて」

 

「え……でも……」

 

「大丈夫。どんなことがあったって、美奈ちゃんは、絶対、理沙ちゃんの味方だから」

 

 理沙はためらっていたが、やがて、話し始めた。将来デザイン関係の仕事に就きたいと思っていること。そのために、村を出て美術系の大学に通いたいこと。でも、学費が高くて親に反対されるだろうから、諦めようと思っていること。

 

 それを聞いた美奈は。

 

「そんなの、絶対ダメ!!」

 

 商店街中に響くような大声で叫んだ。買い物客や仕事帰りの人が、何事かと振り返る。

 

「お……お姉ちゃん……声が大きいよ」

 

 口元に人差し指を当てる理沙。しかし、美奈には通じない。

 

「やりたいことがあるのに挑戦もせずに諦めたら、いつか絶対後悔する! そんなのダメ! 確かに、お父さんお母さんは反対するかもしれないけど、任せて! あたし、絶対に説得して見せるから!!」

 

 鼻息も荒く宣言する美奈。妹の力になれるのが、よほど嬉しかったのだろう。理沙が恥ずかしそうに制するが、お構いなしだ。

 

 比沙子は、二人の様子を微笑ましく見ていた。

 

 

 

 

 

 

 理沙から、東京にある美術系の大学に合格した、と報告を受けたのは、十二月の、暮れも押し迫った頃だった。

 

「大変だったんですよ、両親を説得するの」理沙は、笑いながら言った。

 

 やはり、一番の問題になったのは学費だった。美大は一般的な大学よりも学費が高い。理沙の両親の収入ではとても払うことができず、大反対されたらしい。理沙はこの時点で諦めようとしたのだが、美奈は諦めなかった。学費が高いのが問題なら、安く済む方法を探せばいい。美奈は、進路指導の先生や卒業生など多くの人に相談し、近くで開催される進学相談会にも片っ端から参加した。奨学金や夜間学校、あるいは、大学は諦めて学費の安い専門学校に通う、など、様々な方法を検討し、最終的に、今の大学に決めた。夜間学部のある大学なのだが、なんと、昼間は大学の事務員として働くことができるのだそうだ。両親の経済的負担はかなり抑えることができる。美奈は再び両親を説得した。経済的負担が抑えられるとは言え、それでも、決して学費は安くない。美奈は根気よく説得を続けた。最初は諦めようとしていた理沙も、自分のために奮闘する姉の姿に心を動かされた。理沙は、胸の内に秘めていた思いを両親に話した。子供のころから絵を描くのが好きだったこと。ずっと、将来は絵に携わる仕事に就きたいと思っていたこと。そして、大学に通わせてほしいと、お願いした。二人の愛娘にここまでお願いされては、さすがに両親も認めざるを得なかった。

 

 その後、理沙は猛勉強し、見事に合格を勝ち取ったのである。

 

「全部、お姉ちゃんのおかげです」理沙は、目を輝かせて言った。「お姉ちゃんがいなかったら、あたし、とっくに諦めてました」

 

 比沙子は大きく頷いた。「そうね……美奈ちゃん、本当に頑張ってたもんね」

 

「はい。どんなに感謝しても、感謝しきれません。あ、もちろん、あの日話を聞いてくれた求導女様にも、感謝してます」

 

「あたしは、何にもしてないわよ」

 

「いえ、本当に、ありがとうございます」

 

 理沙は、深く頭を下げた。

 

「じゃあ、春からは、東京で一人暮らしを始めるんだ?」比沙子は訊いた。

 

「そうなります」

 

「そっか……夢を叶える、第一歩だね」

 

「そうですね。働きながら大学に通うのは簡単なことじゃないと思いますけど、あたし、ガンバってみます。応援してくれた、お姉ちゃんのためにも」

 

 理沙は、決意に満ちた顔でそう言った。

 

 

 

 

 

 

 そして、春。

 

 無事、高校を卒業した理沙が、東京へ旅立つ日が来た。

 

 比沙子は、美奈と一緒に、バス停まで見送りに行った。

 

 旅立つ前の理沙の表情は、決して、明るくはない。これから始まる新しい生活に、期待よりも、不安の方が大きいようだ。当然だろう。外部から隔離されたようなこの村で育った少女が、東京で一人暮らしを始めるのだ。不安にならない訳がない。

 

「求導女様は、生まれてからずっと、この村で暮らしているんですよね?」

 

 バスを待つ間、理沙が、比沙子に訊ねた。

 

「ええ、そうよ」

 

「村を出ようと思ったこと、無いんですか?」

 

「あたし? あるわよ? 何度も」

 

「え、そうなんですか!?」口元に手を当てて驚く理沙。

 

 比沙子は、含んだ笑みを浮かべる。「あら? 意外だった?」

 

「はい。求導女様は、村の誰よりも、この村のことが好きなんだって、思ってましたから……」

 

「そんなことないわよ。あたし、こんな田舎村、大キライよ。何度出て行こうと思ったことか、もう、数えきれないわね」

 

「へえ。そうなんですね」

 

「でも……無理ね。あたしは、この村でやらなければならないことがあるから……」

 

「そうですよね……求導女様は比沙子さん一人だけだから、いなくなると、みんな困ります」

 

 比沙子は理沙から目を逸らし、自嘲気味に笑った。比沙子が村から出て行かない真の理由を、理沙が知るはずもない。

 

「――怖いんです」

 

 つぶやくように言った理沙の言葉に、比沙子は顔を上げた。

 

「怖いって……東京で暮らすのが?」

 

「それもありますけど……お姉ちゃんとか、求導女様とか、学校の先生や、先輩……みんなのおかげで、あたしは東京の大学に通うことができました。お父さんお母さんも、最初は反対したけど、でもそれは、学費が払えないからであって、決して、あたしが大学に通うことに反対だったわけじゃないんです。今の大学が決まってからは、誰よりも応援してくれました。いろんな人のおかげで、あたしは、大学に行けるんです。それなのに、もし、ダメだったら……学校での勉強について行けなかったら……お仕事で大きな失敗をしちゃったら……都会での生活に馴染めなかったら……みんながあたしのためにしてくれたことを、全部無駄にしちゃうんじゃないかって思うと――」

 

 比沙子は、理沙の言葉を遮るように、「大丈夫よ」と、力強く言った。

 

「え?」

 

「理沙ちゃんには、叶えたい夢があるんでしょ? デザイナーになるって、夢が。だったら、余計なことは考えず、その夢に向かって、全力で努力すればいい。夢を叶えることが、みんなに対する恩返しになるんだから」

 

「――――」

 

「理沙ちゃんなら、東京に行っても大丈夫。きっと、夢を叶えられるわ」

 

 比沙子の力強い言葉に。

 

「――はい」

 

 理沙は笑って頷いた。もう、迷いは無かった。

 

 

 

 

 

 

 そして、理沙は旅立って行った。

 

 

 

 

 

 

 嘘をついた。

 

 ――理沙ちゃんなら、東京に行っても大丈夫。きっと、夢を叶えられるわ。

 

 それはあり得ないことだと、比沙子は知っている。

 

 東京に出ても、彼女はきっと、村に戻って来るだろう。早ければ、一年も経たないうちに。

 

 理沙には絵やデザインの才能があるのかもしれない。真面目で努力家だから、夢を叶えるのは難しいことではないだろう。普通ならば。

 

 だが、どんなに才能があろうと、どんなに努力をしようと、全て無駄だ。彼女は村に帰ってくる。それは、最初から定められたことだ。彼女は、この村に生まれた。村で生まれた者は、決して、村の外に出ることはできない。誰であっても。

 

 この村は、呪われている。

 

 村の神は、村人が外に出ることを、決して許さない。

 

 だから、例え村を離れても、いつかは戻って来る運命なのだ。

 

 村の者は、誰も、外に出ることはできない。比沙子のように。

 

 

 

 

 

 

 理沙が村に戻ってきたのは、それから三年後の夏だった。

 

「ダメでしたね」と、理沙は苦笑いで言った。「東京で暮らし始めてすぐ、なんだか無性に村に帰りたくなったんです。ホームシックっていうんですかね? 絶対に夢を叶える! って、意気込んで村を出たのに、ホント、情けないですよ」

 

 それでも、理沙は三年頑張った。昼は大学で働き、夜は授業。下宿に帰っても寝るだけだ。休日も勉強しないと授業について行けない。そんな状態だったから、友人はできない。心が安らぐ時が無い。あるとすれば家族からかかってくる電話だが、心配させてはいけないから相談することもできない。慣れない生活、孤独感、そして、強烈な帰郷心。それでも、夢を叶えず村に帰ることはできないという責任感で、頑張り続けた理沙。最後の方は、おかしくなりかけていたと言う。

 

「そんな時、電話で、お姉ちゃんから『帰って来てもいいのよ?』と言われて、あっさり心が折れました」

 

 東京でつらい生活をしていることは、家族の誰にも話していない。それなのに、美奈だけは全てを判っていたようだった。

 

 理沙は大学をやめ、村に戻ってきた。

 

 それでいい、と、比沙子は思う。村に帰りたいという衝動を抑え続けると、取り返しのつかないことになりかねない。

 

 村の小学校で教師をしている高遠玲子がそうだった。彼女も、この村に生まれた。教師になるのが夢だった彼女は、高校卒業後、体育大学に進学。教員免許を取得し、採用試験にも合格。無事、東京の小学校で教師になれた。その後、結婚。娘も生まれ、そのまま教師を続けていたのだが、二年前に起こった娘の水難事故を期に離婚し、村へ帰ってきた。

 

 彼女も、東京に出てすぐ、村に帰りたい衝動に襲われたはずだ。しかし、仕事があり、夫も子供もいる。彼女は村へ帰りたいという衝動に逆らい続け、東京で暮らし続けた。理沙同様、最後の方はおかしくなりかけていただろう。娘にDVをしていたというウワサもある。

 

 そして、娘の水難事故が起こった。誰もが不幸な事故だと思ったが、比沙子だけは知っている。あの水難事故は、村へ戻って来ない高遠に対する罰だと。彼女は村に帰る衝動に逆らい続けたため、神から罰を受けたのだ。

 

 高遠のような悲劇が理沙に起こらなかったのは幸運だった。村に戻って来るのがもう少し遅ければ、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。

 

「求導女様にも応援してもらったのに、こんな結果になって、本当に、申し訳ありません」理沙は、比沙子に向かって、深く頭を下げた。

 

「そんなことないわよ。あたしなんて何もしてないし。理沙ちゃんは、頑張ったんだから」

 

 顔を上げた理沙の目には、涙が浮かんでいた。「――みんな、優しいんです。美奈も、お父さんお母さんも、誰も、あたしを責めないんです。あたしのワガママで大学に通わせてもらって、卒業さえできず逃げ帰ってきたのに」

 

 比沙子は首を振った。「理沙ちゃんは逃げたんじゃないわよ。むしろ、夢に向かって、逃げずに挑んだんだから。結果は残念だったけど、胸を張っていいと思うわ」

 

「そんなことありません。でも……そう言ってもらえると、嬉しいです」

 

 理沙は泣きながら笑った。いい笑顔だった。

 

 後悔はない……はずはない。夢を叶えることができなかったのだ。理沙が悪いわけではないが、そのことを本人は知らない。自分の努力が足りなかった、心が弱かった、そう思っているはずだ。

 

 だが、それでも理沙は笑うことができた。それは、夢に向かって全力を尽くしたからこそできる笑顔だ。その笑顔を、比沙子は美しいと思う。夢を叶えるために全力を尽くす――自分には、決してできないことだから。

 

 

 

     ☆

 

 

 

 一筋の光さえさすことの無い地下道を、比沙子は一人、明かりも持たずに歩いていた。そこは真の闇だが、比沙子の目には、ごつごつとした岩壁と天井と床が、ぼんやりと見える。比沙子の目は、どんな暗闇でも見通すことができる。それは、『幻視』という能力だった。他人と同調し、その人が見ている視界を自らの視界として見る能力だが、闇の中でも目が利くという側面もあった。

 

 狭く長い地下道を進む比沙子。湿気を多く含んだかび臭い空気が身体にまとわりつくようだ。比沙子は、あまりの不快さに表情を歪めた。いや、不快なのは地下道の空気ではない。比沙子の身体にまとわりついているのは、この地下道を漂う怨みの念だった。

 

 ……苦しい……。

 

 ……痛い……苦しい……。

 

 ……なぜ……このような目に遭わなければならぬ……。

 

 ……助けて……。

 

 ……憎い……。

 

 ……貴様が……憎い……。

 

 この場所には、死しても成仏でない魂が無数に彷徨っていた。いや、正確に言うならば、その魂は死んではいない。まだ、生きているのだ。身体が滅びても、精神は生き続ける――そのような存在だ。宿るべき肉体を失っても、その魂は黄泉の国へ旅立つことができない。永遠に、この地下を彷徨い続ける。

 

 比沙子は、大きくため息をついた。

 

 ――相変わらず、うるさいわね、ここは。

 

 彷徨う魂に対して、比沙子は何もできない。耳を塞いでも無駄だ。亡者たちの声は、耳の奥に張り付くように、比沙子に付きまとう。亡者たちも、比沙子に対して怨みの言葉をぶつける以外にできることは無い。それが判っているから、比沙子は亡者たちの声を無視して、ただ歩き続ける。

 

 やがて、階段が見えてきた。亡者たちの怨みの声も、地下から出てしまえば、もう聞こえることは無い。比沙子は階段を上がる。階段の先は、石造りの天井に阻まれている。天井には(かんぬき)がはめられてあり、それを外すと、横にスライドするようになっている。ちょうど、扉が横倒しになっているような状態だ。扉を開けると、眩しい光が差し込んで来た。比沙子は、亡者の彷徨う地下道から、外に出た。

 

 そこは、一〇メートル四方の小さな庭だった。比沙子のすぐそばには石灯籠がある。先ほど比沙子がずらした扉の上に立っていた物だ。地下道の入口を隠すための物である。

 

 庭の中央に池があり、真ん中に木組みの橋が架かっている。橋の先には飛び石が並び、大きな家屋まで続いていた。ちょっとした日本庭園という雰囲気だ。庭を囲む塀は不自然なまでに高い。比沙子の身長の五倍はあるだろう。さらに、塀の上の屋根は、外側よりも内側に大きくせり出している。それは、外から中に入る者を拒むのではなく、中から外に出る者を拒むように作られていた。

 

 踏み石の先は縁側となっており、その上で白い大きな犬が伏せていた。縁側の向こうには八畳の部屋がある。部屋の中は箪笥(たんす)と机くらいしかない質素なものだ。

 

 部屋から廊下に出るための扉は、太い木を格子状に組んだ物だ。かなり頑丈な作りで、ちょっとやそっとでは壊れない代物だ。庭の塀同様、中から外に出るのを拒むために作られている。

 

 ここは、座敷牢だ。

 

 この羽生蛇村において、絶大な権力を持っている神代家。その屋敷の、最も奥まった場所に、この牢はある。

 

 縁側の上の白い犬が、比沙子の気配を感じ、首を上げた。予期せぬ侵入者に驚き、庭に飛び降りて、威嚇するように吠えた。

 

「……ケルブ、静かに」

 

 座敷の中から声がした。とたんに、白い犬は吠えるのをやめ、その場に伏せた。

 

 座敷の中央には、長い黒髪の少女が一人、座っている。まだ子供のあどけなさが残る顔が、警戒するような表情になった。

 

「誰だ……?」

 

 比沙子は池の橋を渡り、少女に近づいた。「久しぶりね、美耶子様」

 

 神代美耶子――神代家の次女だ。彼女は生まれてからずっと、この座敷牢に囚われている。その存在は極秘とされ、戸籍にさえ載っていない。村で美耶子のことを知っているのは、神代家の者と、教会や宮田医院など、村の一部の有力者のみだ。

 

 神代家の次女は、代々、花嫁として神に捧げられることが運命づけられている。美耶子も、三日後の夜、眞魚川の中州で行われる儀式によって、神に捧げられる運命だ。

 

 比沙子が近づくと、美耶子は驚いた顔になった。

 

「お前は……求導女……」

 

 比沙子の姿を確認した美耶子。しかし、顔は比沙子の方を向いていない。彼女は、自分の目で比沙子の姿を確認したわけではない。美耶子は生まれながらに目が見えない。それでも比沙子の姿を確認できるのは、自分の目ではなく、白い犬の目を通じて比沙子の姿を見ているからだ。美耶子もまた、比沙子と同じく幻視の能力を持っていた。

 

「どうやってここに来た……」敵意と戸惑いが混ざったような声の美耶子。

 

 比沙子は小さく笑った。「この石灯籠の下、地下道があるの。知らなかったでしょ? もうずっと使われてないから、当主さえも知らないでしょうね」

 

「…………」

 

 言葉を失う美耶子。どう応じればよいのか判らないような顔だ。彼女にとって儀式を執り行う教会は憎むべき存在だ。その教会の求導女である比沙子が、誰も知らない地下道の存在を教えている。その真意を測りかねている様子だ。

 

 比沙子は言葉を継いだ。「この地下道は、教会とか、病院とか、眞魚岩の中州とか、村のいろんな場所に繋がってるの。ここを通ると、外に出られるわよ?」

 

 美耶子は一瞬驚いたが、すぐに敵意のこもった表情に戻る。「ふん。儀式が近いから、あたしに同情でもしたのか? 余計なお世話だ。いまさら、外に出てどうなる? どうせあたしは、神様とやらに捧げられるんだろ? そういう運命に生まれたんだ」

 

「そうかもしれないわね。でも、その運命に、逆らってみたいとは思わない?」

 

「……なに?」

 

「あなただって、ずっと運命を受け入れてきたわけじゃないでしょ? 自由を夢見たことくらい、あるはずよ」

 

「――――」

 

 美耶子は何も言わない。だが、その沈黙が答えだ。

 

 比沙子は続ける。「今、眞魚岩の中州では、儀式の準備が行われている。祭壇はもう組みあがっているから、後は、儀式の前夜、御神体――神の首を、奉納するだけ」

 

 美耶子は比沙子の話を黙って聞いている。相変わらず、比沙子の真意を測りかねているようだ。

 

 比沙子は、最も重要なことを話した。「御神体の奉納は儀式の前夜に行われる。それが終われば、翌日の夕方まで、祭壇には誰も近づかない。その間に、御神体を壊しなさい」

 

「なんだと!?」

 

「御神体が無くなれば儀式は失敗する。そうなれば、あなたは自由になれるかもしれない」

 

「お前、何を言っているんだ!?」

 

「チャンスは儀式当日の朝しかないわ。せいぜい頑張りなさい」

 

 伝えたいことは伝えた。比沙子は地下道に戻ろうとする。

 

「待て」美耶子が呼びとめた。「なぜだ? なぜ、そんなことをあたしに教える? お前は、儀式が失敗してもいいのか?」

 

「さあ? どうかしら? 儀式なんて失敗しても構わないとも思ってるし、なにがなんでも儀式を行わなければならないとも思う。ときどき、自分でも何をしているのか判らなくなるの」

 

 比沙子は美耶子から目を逸らし、空を見上げた。本当に、私は何をしているのだろう。何がしたいのだろう。自分でも判らない。儀式が近づくと、いつもこうだ。心が不安定になる。今日、美耶子に地下道について教えたことを、明日には後悔するかもしれない。教えたこと自体忘れるかもしれない。自由を求め逃げ出した美耶子をもう一度捕え、自らの手で神の元に送るかもしれない。どうなるのかは、比沙子にも判らない。

 

 ただ、これだけは言える。

 

 比沙子は、美耶子に目を戻した。

 

「私は、あなたが全力で生きようとする姿を見てみたいと思った――ただそれだけよ」

 

 その言葉に。

 

 初めて、美耶子の顔から敵意が消えた。

 

 比沙子は小さく笑うと、美耶子に背を向けた。「まあ、どうするかはあなたに任せるわ。神の花嫁としての運命を受け入れるのならば、それでもかまわない。じゃあね」

 

 比沙子は、再び地下道へ戻った。教会へと続く道を歩く。

 

 美耶子はどうするだろう。比沙子の言葉を信じ、外に出て、御神体を壊すだろうか? それとも、神の花嫁としての運命を受け入れるだろうか?

 

 どちらでも構わない。どちらにしても、運命は変えられない。彼女は神に捧げられるだろう。それは、最初から決まっていることだ。

 

 だが、それでも。

 

 ――生きるために、全力を尽くしてみなさい。

 

 比沙子は心の奥で呟き、闇の中を歩き続ける。

 

 

 

 

 

 

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