幸せ狂の灰被り   作:Needles Island

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 灰の姫は自覚した。それが恋だということを。そして、王子の何もかもに相応しくないことを理解していたから逃げ出した。
 まだ間に合う。何故なら灰の姫は未だ王子に何一つ伝えていない。自分の名すら伝えていないのだから。


幸せ狂の自覚

(これが、恋なの?)

 アシュレイは困惑しながら周囲の声を聞いた。どちらも互いに想い合っていて、お似合いだと。そういう声で溢れていたからだ。アシュレイにはこの浮き立つ気持ちが恋だとは思えなかった。胸を締め付けられるような苦しみも、今が確かに幸福だから終わる可能性の高いこの状況に寂寥感を覚えているだけに違いないと。

(この、苦しいのが。寂しいのが恋だというの?)

 それがあり得てはいけない感情だと、さすがのアシュレイも弁えていた。しかし、幸せになるためには嫉妬や羨望などもっての他だったはずのアシュレイが、自信がここにいる理由がそれ以外に見つからない。

 この場においてアシュレイがカレラス男爵家の人間であることを知っているのはクレアだけ。ヘザーは欠席していて、クレアは曖昧に笑っているだけであるから実質どこの馬の骨なのかすら誰も把握していない。何故かクレアは似合わない派手な黄色いドレスを着ていて、アシュレイの方を見向きもしなかったがその理由はアシュレイには分からない。

 だが、アシュレイにとっては都合が良い。誰にも知られていないということは、忘れられやすいということだ。まず身分が違いすぎる。この国において貴族は六つの家格に分けられている。公爵、侯爵、辺境伯、伯爵、子爵、男爵である。そのうち男爵家は見ての通り最下位。将来王妃になるのであれば最低でも辺境伯か侯爵位にはあるべきだ。男爵令嬢アシュレイは全く相応しくない。

(だから、たとえこれが恋だとしても叶えちゃいけない。願っちゃいけないのよ)

 だからこそ王子のこの問いにもアシュレイは答えられないのだ。

「君は不思議な姫だね。せめて名前だけでも……教えてはくれないだろうか」

 その言葉にアシュレイは胸を締め付けられるような思いをした。知られてはならないのだ。王子と結ばれる未来などあり得ないと分かっているから。確かに王子と結ばれればより幸せになれるだろう。だが、男爵令嬢には無理だ。

(そうよ。誰かを殺してもこの場所には絶対に立てない)

 だからアシュレイは泣きそうな顔で王子にこう答えた。

「私は……本当は、貴方に相応しい姫君などではないのです。叶わない夢を見ているようなもの。どうか、この夢が覚めないように名前は呼ばないで下さいませ」

 そう言って顔を伏せるアシュレイに王子は問いを重ねることは出来なかった。それほどに庇護欲をそそる姿だったのだ。ただし王子は内心で身分の低い家の令嬢とアシュレイとを照合する作業に入っていた。こんな令嬢がいれば絶対に覚えているはずだと。

 勿論この王子の思考は全くの無駄だ。何故ならアシュレイはまだ一度も王子と会ったことがない。舞踏会に出たのもこれが初めてだ。目の前の女と、まだデビューもしていない男爵令嬢など結び付くわけもないし、結びつけられても困る。

 だからこそアシュレイは自分のことを知られたくなくて淡く微笑んだ。

「殿下。私に……夢を。今夜限りの夢を見せて下さいませんか?」

「……私は……諦めない。君を諦めはしないから」

 低くそう呟いた王子に手を握られ、音楽が始まる。そのリズムに乗ってアシュレイは踊った。

(この曲が最後よ。これで、終われば、平穏に……戻るの)

 王子の手を握る力が強くなるが、アシュレイはそれに気付けない。自分のことだというのに制御しきれない気持ちが、王子の手にすがる形で表れていることなど認識できていないのだ。

 曲の終わりまで聞いたアシュレイは、即座に王子の手を振りほどいて逃げ出した。

「ま、待ってくれ!」

 王子の叫びもアシュレイを止めることはできない。残されているのは王子が必死に掴んだアシュレイの嵌めていた手袋のみ。精緻な刺繍がされたそれが、市販のものではないことをアシュレイだけが知らなかった。

 

 そして、そこに使用人達が『アシュレイ=ブランチ・ウィーター=カレラス』という彼女の本名を飾り文字の刺繍で記していることも。

 

 幸せを求めるアシュレイにとっての唯一の誤算は、即物的なことを求めるあまり令嬢としての嗜みをさわり程度にしか学ばなかったことだ。学んでいれば、後々面倒なことを運ぶだろう手袋を残していくことはなかっただろう。

 

 そう。アシュレイは飾り文字が読めなかったのだ。

 

 勿論、使用人達もアシュレイがその文字を読めないことを知っている。だからこそ手口に目立たないように刺繍していた。出来るだけ小さく、じっくり見なければ分かる人にすら読めないようにしてあったのである。

 そして、王子がそれに気づかないわけがない。本来であれば使用人達が誰のものか間違わないための目印だったものは、王子と踊った姫へと導く標となる。

 

 王子は知らない。これが、殺戮の始まりになることなど。




 何で、どうして、私、私私私私私私……私、は、ダメよ。釣り合わない。身分が違いすぎるから無理よ。これが恋なのだとしてもダメ。無理よ。望むだけで叶いっこないの。だだだだだだだから、あ、ああああああ、諦、め、な……きゃっ!

 諦め、なきゃ、幸せ……に、なれない……よ。

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