前半は映画を大まかに元にして書きました。
赤き荒野より、約束の花へ
――――その物語は、決して華やかものではなかった。
夢のような出会いを鮮烈に生きるでもなく、凛々しくも優しい生き方を魅せてくれるものでもない。
見ようによっては醜悪で、酷く悍ましい物語。
何もかもが傷だらけの、痛ましい物語である。
己の心を殺して、或いは知らずに生きる少女と少年の物語。
けれど、それは紛うことなく――確かに〝ヒト〟の物語だった。
誰かの為に生きて、それが全てで良いと思っていた少年と、
醜くなった自分を卑下し続けながらも、それでも生きていたいと願った少女。
ヒトとしての本質を失った子供と、誰よりもヒトらしく狂った子供。
どの路よりも傷ついて、剣を失い、力など無いまま少年は進む。
傷は深まり、その
戦況は絶望的。
街はどこもかしこも闇に呑まれ始めていて、『悪』がこの世界を埋めていく。
自分ではどうしようもない。失った物ばかりを数えるような時間だ。
しかし、そんな中でも、二人の絆が、お互いの傷を埋めていく。
進み続けるこの路で、守りたいもの。
ソレがなんであるのか、少年は考えるまでもない。
出会ったときから傍にいてくれたその少女を、己の守りたいものが何であるのかをしかと知る。
決してソレは、遠く輝きを放つ理想の待つ星の
決してソレは、己を導いてくれる鮮烈で凛々しき煌めきでもない。
だが、ソレは―――ずっと傍にいてくれた温もりで、少年が帰るべき日常の象徴だった。
……けれど、その象徴が失われようとしていた。
救えない、このままにしていてはいけない。
二者択一。――誰かを守るのか、全てを犠牲にして彼女を守るのか。
少年の選びたいと願う答えは決まっていた。
選ばなくてはいけない答えも決まっていた。
……そして、少女が、もしかすると選んでしまう答えも分かっていた。
器となり、壊れ行く儚い春の花。
街々を覆い始めた『悪』の胎動。
正義はどちらなのか、考えるまでもない。
選ぶべきは一つ。だが、そんなものは関係なかった。
きっとそれは、間違いなのだろう。
しかし、きっと少年は〝これ以上、失いたくない〟と感じていた。
何時か、その
ならば、これはきっと――そのための選択。
――――そうして少年は、少女の為だけにその理想を捨てる。
自分の全てを、彼女の為に捧げると決めた。
その為ならば、例え世界を敵に回そうとも必ず守る。
ブリキの騎士は、そうして機械的な理想ではなく、〝誰か〟ではない〝たった一人〟の為に生きると決め、戦いの道を進んでいく。
例えその道が、どんなものであっても――――たった一つ、もう揺らぐことの無い、確かな心を抱いて。
***
流れゆく物語は、確かに痛ましい。
けれど、確かに彼らはヒトを取り戻していく。
そのことが嬉しくもあり、ほんの少しだけ嫉妬にも似た思いを持たなくもない。
自分への救いとなった二つの物語。
その全てを、ある一側面に置いて捨ててしまうようなものだから。
でも、それ以上にやはり嬉しい。
息子の歩む道の最後まで見て行こう。
今度はもう、間違えない。ここは地獄だ、確かに地獄だ。
大事で、必要な地獄の一つだ。
だからこれを越えて行こう。
「……これが、君の最後の答えなのかい?」
「―――いいや。これまでを全て含めて、俺があるんだ。
みんなと歩んだ、俺が……」
「……フン。未熟者が、言うようになったものだ」
僕の、息子たちと一緒に。
――――物語の幕が、
*** 『家族』の温もり
始まりは、ほんの少しだけ早く――
少年の家に、ある少女がやって来た。
光を写そうとしないような、影を感じさせる少女。
彼女を初めて見たとき、少年は彼女に、髪で顔を隠すような、俯きがちな印象を受けた。
だがその実、彼女は非常に頑固だと思い知ることになる。
始まりは自分のミスだったけれど、その出会いも唐突だったけれど。
でも、確かに――温かな時間を、彼は彼女からもらった。
ほんのささやかな幸せ。
小さな変化だったが、それでも確かに……少年にもう一度、居場所のようなものが生まれていくのを感じていた。
恩人の残してくれた自分の家。
静かで暗い、無人の家路。
一人鍵を開け、一人過ごす夜までのひと時。
決意の痕でしかなく、必ず少年を待って居てくれる人は、もういない。
――――だけど、
『おかえりなさい。先輩』
そうして言ってくれる度に、壊れている心が軋みを上げる。
感じてはいけない筈なのに、嬉しさを感じている自分がいる。
幾つもの矛盾をもって、突き放すべきだったのかもしれない。
それが正しい理想。
自分が、自分でいる存在理由の全て――。
誰から見られようと、恥じるつもりなどない夢。
……しかし、彼は彼女には敵わない。
誰よりも頑固なはずの『正義の味方』はいつの間にか、たった一人の少女に負けていたのである。
そうして彼の日常は形作られて行き、帰るべき場所がもう一度。確かに、少年の中に生まれていた――――
***
まるでそれは時計の針。
一秒一秒を刻むように、一歩、また一歩と近づいてくる崩壊の予兆。
壊れていく器は紛い物。
名に冠された花のように、血を吸いながら色を増す。
長き年月を重ねられた泥が、少女の傷を侵していく。
心に巣食っていた恐怖や嫉妬、怨嗟と憎悪が悲鳴を上げる。
この物語は、少年の物語だった。
けれど同時に、少女へ繋がる絆を問うた物語でもあったのである。
***
始まりの夜、少年は再び死の淵へ。
赤き少女は彼を救い、蒼き剣は彼の元へと参じた。
青き槍兵を退け、戦いの場は教会へと移る。
白き少女は狂気を謳い、少年は三度剣の前に立つ――。
ここまでは変わることはなく、路はそれまでと同じ。
だが、この時少年は友と相対することとなる。
己の中にある劣等感を晴らすかのように、条理外の戦いという酒に酔いながら、彼は少年に戦いを挑む。
しかし、結果は敗走。
清廉なる剣は、堕ちた女神を呆気なく退け、少年はますます友の傷を抉る。
何が悪かったという訳ではなく――。
おそらくは全てが悪く、何もかもが間違っていて、そして正しかった。
そんな混沌を示すかのように、戦いの嵐はこれまでとはまるで異なる
少年は再び教会へと足を運び、己の理想とした父の
それでもなお、まだ歩き続ける少年。
剣とまた手を取り、絆を紡ぐ。
赤き少女とも再度巡り逢い、手を取った。
だが、それだけではまだ、此度の戦いを越えられない。
迫る『悪』の影。
暗躍する蟲のさざめき、執念の化け物と、その一側面を見る。
そして、――――己が剣との、別離。
奪われたのでも、負けたのでもなく。
文字通りの意味で、戦いの中に呑まれていく。
失い、失くした路の中で、少年は次第に、自分の道が分からなくなる。
〝どうしたらいい、切嗣――――解らないよ。一体、どうしたら……『正義の味方』になれる?〟
訊ねたい相手はもういない。
そして、その問いかけに応えてくれる者は誰もいない。
戦い続けた先に、何かが思っていた。
が、もうそこには何もない。
守れると思ったものを守れるだけの力など無く、矮小な己の中には、始まりに通った地獄と同じ――空の心と、空の両手だけがあった。
***
「俺は、本当にちっぽけな存在だった」
小さく、困ったように僕の息子はそう呟いた。
この声に、何と返せばいいのか……。ここまで来ておいてなお、僕はまだ言葉を持ち合わせられていなかった。
すると、傍らにいた『彼』が――いや、もう一人の僕の息子が、その言葉に応えを返す。
「……当然だ。そもそも初めから、オレたちにはそんな力など無かった。
ここまでの路は、運が良かっただけ。――そして何より、彼女たちのおかげだ」
「あぁ、解ってる。
だから、一人きりになって、初めて分かったんだ。
俺一人の力が、俺自身の力が、どこまでなら届くのかが……」
「――そうか」
その応えに、噛み締めるように声を返す。
二人の声が交わされる度、じわりじわりと何かが伝わる。
彼らの心が、この物語を更に進めて行く。
「さあ、最後とはいえ……ここからが佳境だぞ、爺さん。――――着いて来れるか?」
「……あぁ、着いて行くとも。シロウ」
そして、再び場面は変わる。
そこには、この路では救われなかった蒼き騎士王が、『
数多のサーヴァントたちを呑み込んできた泥が、彼女を選ぶ。
いずれ来たるその覚醒を待ちながら、悪性の泥に侵され、清廉なる蒼き剣は黒く染まっていく――――
合わせるように、再び狂気に酔いながら友は少年を学び舎へ呼び出す。
*** 隠し事と、その痛み
壊れていく器を、
散り始めた花を、
最後に染めるきっかけになった戦い。
――――軋む世界。
取り戻せたのに、また――その温もりは掌から零れ落ちていく。
一体、どこまで転がり落ちるのか。
醜さはその心を染めていく。
願ってはいけない想い、願い続けていた希望。
何方も届いてはいけない、届かなくなってしまう。
知られたくなかった真実が、赤く、血に染まるように学び舎を染めていく。
始まった暴走。
何もかもが溶けていく様な、感覚を与える霧が学び舎を巡り――。
壊れていく、散っていく花を、どんないびつな形であろうと守ろうとして、騎兵がその封印を解放する。
――――瞬間、全てが凝固した。
そこから先の意識は漠然としている。
ただ、悲痛な声が少年の耳に届く。
いやだ、と。
その声が、聴きなれたその声が、脳裏に残った。
しかし、その先にある事の成りははっきりとせず、ただ選択の時がやって来る。
真実、
理想、
選択、
運命、
そして、その最後の解答へ――――
*** 逡巡する思考と答え ~守りたい理由~
――――暗がりの公園で、少年は一人思考していた。
祈ることさえ、今の自分にはできない。
祈るなど、今の己には罪科でしかない。
……そんな考え方を、未だに引きずっている。
言われたことは酷く正しく、きっと――間違っているのは、自分だ。
善悪ではなく、責任。
その所在はどこにあるのか、と。
淡々と言われ、答えはあっさりと出た。
出そうとするまでもない。
当然のことで、当たり前の事なのだから。
でも、それは。……それは、つまり。
――――ここまでに投げられた言葉を反芻する。
神父に指摘されたのは、己の怠慢。
彼女に同情するな、と、そう言われた。
祈ることは罪だと言われた。
所詮は他人でしなく、彼女の痛みを共有することなど出来ない。また、その資格さえないのだと。
今の『間桐桜』にとって、『衛宮士郎』は害敵でしかないと。
語られた真実は、今となっては半ば予期していたものだった。
彼女の手に令呪が宿ったときと同じように、静かに受け入れられてしまう。
……けれど、それこそが己の怠慢。
彼女を案じているつもりで、その実、全く彼女のことを見ようとしていなかった己の罪の証そのものだった。
〝あの娘はお前にそれを知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。
魔術継承の名を借りた凌辱がどれほど続いたのかは知らん。
だが――身近にいながら、それに気づけなかったものに何が出来る。
此処で祈る資格がないというのはそういうことだ。それでも間桐桜を想うのならば席を外せ。今のお前に出来ることはそれだけだ〟
言い負かされたのではない。
この時自ら席を立った理由は、結局のところ、神父の指摘が至極正しかったからだった。
そして、立ち去るしかないこの背に、奴は追い打ちのように言葉を投げる。
抱いた理想を知る奴は、その為の選択をせよと暗に告げてくる。
あの時――慎二と初めて相対した夜、美綴はライダーに襲われた。
幸いセイバーがライダーを撃退したことや、目の前にいる神父のおかげで彼女は助かったが、一つ選択を誤れば彼女は死んでいただろう。
助かったのだから、善悪で語っているわけではないと神父は言う。
ただ、責任の所在はどうなるのだろうか、と。
それは、このままでいることを許さない糾弾。――否、この身がそれを許容出来るのかという問いであり、これ以上の惰性に浸らせない戒めの言葉。
〝そう、今後の話だ衛宮士郎。
このまま間桐桜が回復したところで結果は同じだぞ。
正気を取り戻せたとしても、いずれ同じことが起きる。
――――その時お前は、いったい
返せる言葉など無く、逃げるように出口へと向かう。
だが、奴はその逃走の真似事を許さない。
出来るはずなどないと知って、是非を問う。
〝衛宮士郎。お前がマスターになった理由を覚えているか。
お前は『正義の味方』になるといった。
ならば決断を下しておけ。
自身の理想、その信念を守る為――――衛宮切嗣のように、自身を殺すかどうかをな〟
その言葉はまさしく最後通牒そのものだった。
衛宮士郎が決して逃れることの出来ない、選択。
ここら先に足を進めるために、選ばなくてはならない。
自分の信念を問う。偽物の路を貫けるのかどうか、最後までその偽善者でいられるのかどうかを。
その思考に蓋をするように、教会の戸を閉じる。
外へ出ると、雨の匂いがした。
灰色の空の下。広場には人影はなく、
そこに、主の元を離れて、静かに待っていた男がいた。
普段毛嫌いしているにも関わらず、何故ここで待っているか――なんて、正常な疑問は浮かばない。
不思議なくらい当たり前。
まるでここで最後に待ち構えていなければならないのだと受け入れてしまえるくらい、彼がそこで待っていたのは自分にとって当然だった。
赤い外套を纏った騎士は、無言でこちらを見据え、何かと決別するように一度瞼を閉じる。
そして、彼は――――
〝分かっているな、衛宮士郎。
お前が戦うもの。お前が殺すべきものが、誰であるのかということを〟
誰よりも、或いは自分以上に。
此方が出すべき答えをカタチにした。
その言葉だけで心臓が凍り付く。
……分かってはいる。
この身が戦いに身を委ねた理由、その根底は無関係な人間を巻き込むマスターを止める為だった。
二度と、〝
そう決断し、セイバーの力を借りた。
今更それを覆すことなど出来る筈も無い。
ならば、ならば今――――誰を第一に止めるべきなのか? 嫌でも答えは、既にこれ以上ない程に明白だった。
浮かぶ答えは明白で、これ以上ない程に選ばなくてはならない
けれど、声はカタチを成すことなく、喉は潰れたかのように全身を弛緩させていく。
力を、気迫を、生きるための理由を。
何もかもを失っていく様な此方を見ても、赤い騎士はいつものように皮肉の一つも飛ばそうとしない。
ただ、黙っている。
此方の迷いを知っているかのように、或いは、迷えなかったことを思い返すように。
が、何時までも不甲斐無く、優柔不断なまま迷う此方を相手にしていられなくなったのか、突き放すように自身の決断を口にする。
〝…………では好きにしろ。私の目的は変わった。アレが出てきた以上、もはや私怨で動く時ではない〟
呆然と、口から小さく音が漏れ出す。
何かを知っているような口ぶりに、答えを持っているかのような口ぶりに、ほんの少しだけ疑問のようなものが生まれる。
だが、勿論彼はそんなものをくれるわけではなかった。
〝……これは忠告だ。
お前が今までの信念を守るのならそれでいい。
だが――もし違う道を選ぶというのなら、『衛宮士郎』に未来などない〟
それはこのままなら自分は死ぬということか、と問う。
が、そう言いながらも、向こうが言いたいことは薄々解っていた。
この先に未来などない。
自分を殺せるはずなどない。
言いたかったのは、そういうことなのだろう。
……自分を殺せない。確かに、それは間違っていない。
死ぬことはできるだろう。
死を賭してしまうことだって出来る。
でも、この身は――その
そもそも、それが出来ていたならば――――いや、出来てしまっては、それは自分ではなくなってしまう。
〝自らを閉ざすことを死というのならばな。
そうだろう? 『
断言された声に嘲りはない。
そこには何かの決意と、虚しさだけが込められている。
後悔を重ね、その旅路を渡って来た男は、確かにこの身が成し得ることの限界を知っていた。
〝衛宮士郎がどの道を選ぶのかなど知らん。
だがお前が今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら――――その
迷いに縛られ、その背を追うことは出来なかった。
選べない。選び取ってはいけない。
何故ならこの身は、その義務に生かされている。
選んでしまう道は分かっている。……なのに、決められていない。
***
そうして迷いの中を亡者のように彷徨い、何時しか変えるべき
位置的には、酷く半端な場所である。
だが、未だ選ぶことの出来ない、中途半端な場所を迷う自分には似合いの場所だと思った。
――答えを。答えを出さなくてはいけないというのに、頭の中はぐちゃぐちゃで、何を考えるべきなのかも定まらない。
搔き乱された
出ることがない答え。出すべき答えを急き立てるかのように、幾つもの言葉がまた反芻されていき、その何もかもが『衛宮士郎』をないまぜにしてくる。
〝――――アレは性的虐待を受けている。
間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない。間桐桜は清らかな
「…………うる、さい」
聞こえてくるそれを、圧し留めようとした。
そんなに繰り返さなくても分かっていると。
魔術師の端くれとして、それがどんなことなのか、桜がどんな目にあって来たかなんて、そんなこと――――
〝――――あの娘はお前に知られまいとしながら、常に救いを求めていたはずだ。それに気づかなかった男に、彼女を想う資格はない――――〟
痛い所を突かれ、図星を突かれ、認めたくない現実から目を逸らそうとした。
けれど、自己を正当化することさえ出来ない。
どんなに声をあげても、どんなに否定しても、結局。
その苛立ちは、結局――。
自分は、言われるまでもなく、そんなことを。
「うるさい、うるさい、うるさい……っ! 分かってる。お前に言われなくても、そんなことは――――!」
…………そんな、ことを。
どうして、気づけなかったのか。
「くそ――――くそ、くそ、くそ――――っ!!」
ぎり、と噛み締めすぎた奥歯が砕けた。剥き出しになった神経を噛み潰しても、脳に突き刺さるような痛覚さえ、頭の
彼女の姿が浮かぶ。
記憶の中の彼女は、確かに笑っていた。
そして自分はそれを甘受していたのだ。
何も知らず、それがどんな痛みの上に成り立つモノなのかも知らずに。
ただ、微笑んでいる彼女の傷だらけの強さに、甘えていただけだった。
今となっては、あの笑顔が本物か偽物かなんてどうでも良い。
あんなふうに笑っていた裏に、桜が痛みを隠していたのだと思うと、その元凶を殺したくなる。
「間桐、臓硯――――!」
許せない。
償いなんていらない。今すぐにあいつを桜の前から排除したい。
だって、全部あいつの所為だ。
臓硯さえいなければ、桜は普通の女の子として暮らせていた筈だった。体に刻印虫なんてものを植え付けられることもなく、マスターになることもなかっただろう。きっと慎二だってあそこまで取り乱さず、今まで通りやって行けたはずだ。
だから、
あいつさえいなければ、こんなことには――――
募る恨み。
これまで、ここまで何かを恨んだことなんてなかった。
これまで、ここまで何かを憎んだこともなかった。
ここまで何かを、無かったことにしたかったこともなかった。
夢想、憎悪、憤怒、切望。
その全てを拳に込めて、ベンチに叩きつける。
学校で付けられた左手の傷が開いて、赤い血が白いベンチに零れていく。
鮮やかのその色彩が目に入って、意識が戻る。
「未熟者――あいつさえいなければ、何が、どうなったっていうんだ」
自分の馬鹿さ加減に、ほとほと愛想が尽きた。
いくら恨んでも、憎んでも。
結局、それは……
「……それこそ、関係ない話だ。他人に責任を押し付けて、なにを」
楽になった気でいるのか。
桜が何をされたのか、あいつが何をしてきたのかはもう否定しない。
考えるだけで悍ましく、まるで蛇の下にでもなめとられたかのように、大切なものを奪われたかのような嫉妬が走る。
でも、それだけだ。
それで自分自身の咎は消えない。
気づかなかったのは、それを出来なかったのは、他ならない自分なのだから。
そんな事さえ、気づけていなかった。
「――――違う。気づけなかったんじゃない。俺は、」
そんな事さえも嘘偽りだ。
……こんな自分に、何が解っていたというのだ。
あぁ、そうだ。――気づいていたなんて、解っていた筈なんていうのは嘘だ。
ただそう思いたかった。自分に都合の悪いことは、どうでないと解釈していただけだったのだから。
間桐臓硯が、慎二にライダーを託した。
なら、桜に何もしていないわけもない。
――――桜は、
そんな言葉に踊らされて、苦い真実よりも、甘い言葉に酔っていた。
……何て、間抜け。
何もかもが自明の理。ほんの少し手を伸ばせば届いた推測だ。
実際、行き付いても驚きはない。
すんなりとその事実は、自分の中に入ってくる。
それが余計に腹ただしい。
考えまいとしていたのは、自分にとって都合がいいからだ。
気づいてしまっては立ちいかないと解っていたから、目を逸らした。
そう、だった。
けれどもう気づいてしまった。
もう、取るべき道は決まっている。
人々にとって間桐臓硯が『悪』であるのなら、『正義の味方』はそれと戦わなくてはならない。
その手先となってしまうだろう桜も、例外ではない。
だが、仕方ないことなのだ。
そのために魔術を習い、この戦いに足を踏み入れた。
人々を救い、二度とあのような
この目的があったからこそ、自分はここまで生きてこられたのだから――――
〝――――先輩。もしもわたしが悪い人になったら――――〟
桜は傷つけたくないし、同情もしている。
出来ることなら救いたい。
しかし、彼女が災いを呼ぶというのなら――――
〝――――はい。先輩になら、良いです〟
思い浮かんできた言葉に、思わず吐き気を催した。
迷うことはない。
排除するだけの、ことだ。
なのに、どうして……。
「う――――、ぶっ…………! は――――、う、っ、ぐ――――!
あ――――はあ……はぁ、はぁ、はぁ――――」
こんなに必死になって、吐き気を堪えているんだろう。
やるべきことは、これ以上ない程にはっきりしている。
それこそが『正義の味方』だ/それのどこが、『正義の味方』だ。
救いを求める誰かを知らず、反対に支えられていた。
今となっては救う術を知らずに、こうして迷う羽目になっている。
自分は何も出来なかったのだ。
だからこうして、迷っている。
このままでは、彼女を救うことは叶わない。
他の誰を守ることも出来ない。
だって、その上には――――。
見ず知らずの街の人々を守るためには、桜を……こう思うのも、おこがましいのかもしれないけれど……家族を、犠牲にしなければならない。
だが、それが正しい『正義の味方』の姿だ。
大勢を救う。
そのために、少数を切り捨てるのだとしても。
確かに、それは正しい選択だ。
……なら、何を迷う?
今すぐに、正しいなら、その先に行けるだろう?
自分のことだなら自分で決めろ/決められもしないなら、突き動かされるだけの機械になれ。
それが、自分の――理想だろう?
そうして、吐き気の中でぼんやりと迷いを反芻して、どのくらい経ったのか分からなくなるくらい時間がたった。
……もう、これ以上、くだらないことを煩悶している時間はない。
手術が終わったころに戻る、と凜は言っていた。
街には雨の匂いが立ち込めてくる。振り出す前に戻って、教会で桜の容態を聞いて、それで――――
そう思ったところに、
「シロウ、あそぼ!」
ドン、と。
唐突に後ろから抱き着かれたのを感じた。
誰なのかは、振り返らなくても判る。
この公園で出会うのは、決まって白い雪の妖精。
月夜に映える美しい銀色の髪と、闇を差すような赤い瞳を持った少女。
この戦争に置いて、狂戦士を従えた冬の姫、イリヤだった。
「えへへ、びっくりした? 街を歩いてたらシロウがいたから、つい声を掛けちゃった」
楽しそうに笑う声は、無邪気に澄んでいて、鈴のように響く。
けれど、
「――――――」
その無邪気さが、今は辛い。
身勝手ではあると判っていても、今は誰も、目の前でなんて笑ってほしくなかった。
……誰かの為に、生きると。手の届くところで悲しむ人を救いたいと。
そう決意していたはずの身体は今、何よりも欲しかったはずのそれを拒絶していた。
黙ったままのこちらにむっとして、イリヤは小さな淑女のように、男性に求める礼節を説く。
「あ。何よシロウ、無視しちゃって。話しかけてるのに俯いたままなんて、女の子に失礼だよ」
だが、それに応えられるだけの力は、残っていない。
「…………」
……静かにしてほしい。
正直なところ、誰かに構っている余裕もない。
それでも、イリヤは自分に
「むっ。シロウってば! 人の話はちゃんと聞かなくちゃダメなんだからね!」
「…………イリヤ。悪いけど、今そんな余裕ないんだ。遊ぶなら一人で遊んでくれ」
「ええー? せっかく会えたのに、それじゃ詰まんない。あれからシロウここに来てくれなかったし、今日を逃したらまた来ないに決まってるもん」
いつの日だったか、そういえば確かに、そんな約束をした覚えは微かにあった。
だけど、今は交わした約束すら、酷く鬱陶しく感じられる。
「……別に毎日って約束したわけじゃない。それにもう夜だぞ。マスターは、夜になったら殺し合うんじゃないのか」
何時かここであったとき、確かに少女はそういっていた。
〝ええ、わたしとシロウは敵同士よ。いつか夜に出会ったら、あの時の続きをするしかないもの。
だからぁ、わたしに殺されたくないなら、先にわたしを殺さなきゃダメだよ? シロウ〟
だからという訳でもないが、字面に間違いはない筈だった。
でも、その言葉は、決してそんなものから生み出されたものではなく、酷く身勝手な想いから生み出されたものである。
苛立ちと相まって、棘を含ませた言葉を返す。
邪険に言った途端、そうと気づき、先ほどまでの吐き気が戻ってくる。
自分がただ楽になりたいから、それだけの理由でイリヤを追い払おうとしている自分に、嫌悪した。
だが、そんなものは彼女には全く関係ないらしい。
言葉の棘など意に介することなく、寧ろ此方の言い分こそ不思議だといわんばかりに、きょとんとしている。
「なんで? シロウはもうマスターじゃないでしょ? だから、今夜は見逃してあげるけど?」
「っ――――マスターじゃないって、イリヤ」
「ふふーんだ。わたしに知らないコトなんてないんだから。シロウはセイバーを失って、リンはライダーにやられかけたのよね。けどライダーのマスターが倒れたから、残りはあと二人だけでしょ?」
楽しげに、何もかもお見通しだというように、彼女は軽く答える。
「――――――」
イリヤにしてみれば、特に含みはないのだろう。
だけどそれは、無邪気なはずの彼女の笑みはまるで、桜の容態を笑っているかのように見えて――――
「もう勝敗は見えたも同然だもの。ライダーのマスターは自滅するだろうし、アーチャーだって大したことないわ。
セイバーがいなくなった以上、わたしのバーサーカーに勝てるヤツなんていなくなったの。
ね、だから遊ぼっ! シロウはもうマスターじゃないから、特別にわたしの城に招待してあげる」
――――気づけば、
無遠慮に抱き着いて来たイリヤの笑顔に苛立って、激情のままに、その小さな
「うるさいっ……! そんな暇はないって言っただろう、遊びたきゃ一人で遊べ!」
「きゃっ……!?」
幸いなのか、イリヤが地面を転がるようなことはなかった。
だが、明らかに体格差がある以上、突き飛ばされた方のイリヤに、まったく何もなかったという訳にはいかないだろう。
しかし、今更後悔しても遅い。
「ぁ――――」
イリヤは立ち尽くしたまま、信じられないものを見た様に呆然としている。
……裏表のない純粋な好意を、苛立ちに任せて跳ね除けてしまった。
まるでそれは、親が子供を拒絶する行為に近い。
信じてくれたものを裏切るような、或いは無に還すような行い。
これで終わってしまった。――――今までイリヤが抱いていてくれた思いを、全て台無しにしてしまったのだから。
「――――――」
イリヤは黙って此方を見つめてくる。
怒るでもなく、手を上げたことを罵るでもなく、ただ静かに、彼女はこちらを見つめていた。
「………………」
静かなその視線に耐えられなくなり、また顔を俯かせる。
謝ることも、それ以上拒絶することも出来ない。自分の中にあるのは、最低なことをしてしまったという罪悪感だけ。
もう、何も判らなくなってしまった。
これまでの自分が、これ以上ない程にぐしゃぐしゃになってしまう。
何もかもを失くしていく中で、これまで繋いできた偽物さえも失いそうになった、その時だった。
信じられないことが、起こったのは――。
「ごめんね、シロウ」
髪に小さな温もりが置かれたのを感じる。
それが何かは、考えるまでもなく分かった。
そう、それはイリヤの手。
さっき突き放した筈の……酷い突き放し方をしてしまった筈の少女の小さな手が、愛しむように優しく、自分の頭を撫でていたのだ。
「え……?」
顔を上げる。
見えたのは、イリヤが心配そうな顔で、此方の顔を覗き込む姿。
あまりの驚きに、凍り付いた心臓が、急に溶かされたような気がした。
「……イリヤ。お前、怒らないのか……?」
突き放してしまったのに、それでも彼女は自分を嫌わなかった。……否、まるでそれは、嫌ってくれない、とさえ言われている様で……。
「怒らないよ。
だって、シロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん。
だからわたし、シロウが何したって士郎の味方をしてあげるの」
「――――――」
その言葉に、目の前が真っ白になった。
……たった一言。
それだけの言葉で、ガツンと、頭の中をキレイさっぱり洗われた。
「俺の、味方――――?」
此方の驚愕をよそに、彼女は易々とこちらの想像のはるか先を飛び越えていく。
「そうよ。好きなこのことを守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから」
誰かの味方。
何かの味方をするということの動機を、あっさりとイリヤは口にした。
その言葉に、再び揺らぐ。
「――――――」
……それが正しいのかどうかは、本当は判っている。
これまで守り続けて来たモノと、今守りたいもの。
どちらが正しく、どちらが間違っているのかくらいは判る。
それらを知って尚、理解して尚――衛宮士郎は、その答えを選ぶ。
これ以上、自分を偽れない。
そのまま進んでしまえば、必ず後悔する。
小さく、華奢な少女の手が、それを教えてくれた。
責任の所在や、善悪の有無。
そんなモノに追われることよりも、
その手から零れゆく他の何よりも、
桜を失うことの方が、重い。
決意など要らない。するまでもない。
〝――――俺はただ、桜を守りたいだけなんだから〟
胸に渦巻いていた靄は、もうどこにもなかった。
何気ない言葉が、その迷いを吹き飛ばしていく。
「――――ああ。好きな子を守るのは当たり前だ。そんなの、俺だって知っている、イリヤ」
「でしょ? シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」
嬉しそうに笑うイリヤ。
その無邪気さに、本当の勇気を貰った。
選択が間違えているのかどうかは、まだ判らないままだ。
けれど、絶対に後悔はしないだろうということだけは、分かった。
「ごめんイリヤ。俺、そろそろ行かないと」
イリヤに別れを告げ立ち上がり、行くべき場所を目指す。
背を押してくれた小さなお姫様は、優しく笑みを浮かべて、また背を押してくれる。
「そうだね。そういう顔してるから許してあげる。また今度会おうね、シロウ」
「ああ。またなイリヤ。それと、ありがとう」
最後にまたその微笑みを背中に浴びて、教会へと向けて走り出す。
迷いを振り払うように、雨が降り始めた道を走り続ける。
絶対に正しいかどうかなどという確証は、当然得られない。
それでもたった一つだけ、確かなことがある。
――――『衛宮士郎』は、『間桐桜』を失いたくない。
住む者がたった一人きりになったしまったあの家で、いつでも待っていてくれる存在になっていた少女。
後輩だと、友人の妹だと。
そう自分を誤魔化し続けていないといけないほどに、傍に居て欲しい存在。
だが、そんな騙しは通用しない。
既にそんな状況ではなくなってしまった。
自分にとって、何が良いのか判らなくなって――もう何も考えられなくなったのならば、あとはもう、唯一無二の気持ちを信じるだけ。
ただ、あの時のアーチャーの言葉。
〝だがお前が今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら――――その
そんな予言めいた言葉だけはまだ、頭の中に僅かに引っかかっていたままだった。
*** 消えぬ疵、罅だらけの心
蟲が蠢く音がする。
壁を這い、躰を引きずる音だ。
暗く湿った密室。この家に置いて、少女に初めて与えられた部屋。
此処へ来るたび、手に入れた温もりを否定されてしまうような気がする。
所詮、嘘だというのに。
あの家にいるのは嘘。――でも、嘘であっても、偽りであったのだとしても。あそこにいる間だけは、自分を取り戻せている気がした。
何時の日か、この身の汚れを告白することもあろう。
仮にそんなことがあったのだとしても、争うことだけはないと思っていた。
……想うことだけは、出来るのだと思っていた。
例え、そこにいる事は出来なくても、その時までは。
けれど、何故――どうしてこうなってしまったのか。
戦いの渦に、巻きこまれていく。
騎兵はこの手に宿った聖痕により招かれ、兄は魔術の聖戦に酔っている。
そして、この家に巣食う化け物は――――
〝そうさな。お主が望むのならば、一人や二人は慰み者にしてもよいぞ〟
〝支障がない者ならば、生かしておいても構わない〟
〝なんじゃ、それでも不満か? ……まったく困った娘よな。そのように臆病だから手に入るモノも手に入らぬのだ。よいか、今回のはよい機会だぞ? 欲しいものは、力尽くで手に入れればよいのだ〟
甘く、好々爺めいた言葉が耳に届く。
頭の中で、微かに浅ましい希望が生まれていく。
計算されたものかどうかなど、関係はない。騙されてしまうのは、いつでもこの弱い心だ。
……そう。結局、臆病なだけの自分には。
汚泥に塗れた自分には、決して手に入ることの無い望み。
切望して、仮に叶ったのだとしても。
きっとその結末は、彼にとっても酷いものになる。
……戦え、ない。
そういって、殻に閉じこもろうとする。
また逃げようとして、強いられることに耐えようと、身を縮ませる。
しかし、それを知っているかのように、呆気ない程あっさりと、強いるはずの事柄を放棄しようといった。
告げられた言葉に、息を呑む。
どこまでが真意なのか、本気なのかはわからない。
が、確かに彼女の言い分は受け入れられていた。
振るえていた身体は止まり、暖かい安堵が胸に広がっていく。
このままなら、ただ耐えているだけでいいのだと。
そうなると思った、その時――――
〝しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依代の中では、
姉の名が、化け物の口から出てくる。
その時、魔が差した。
直感的に、感じ取る。
あの人なら、必ず勝つだろう。
姉はそういうヒトだ。
何時だって、欲しいものは全部手に入れて、それが当然だといわんばかりに颯爽と通り過ぎていく。
その名の通り、凛とした出で立ちを微塵も崩さずに強く、美しいまま……。
立ち止まったままの此方になど気づきもせず、此方が欲しいと望んだものを全て持って行くのだ。
あの人は、必ず勝つ。――――勝って、しまう。
でもそんなものはもう慣れた。
嫌という程に慣れた。
どうでも良い程に慣れたのだ。
とっくの昔、あの人の妹だった頃から、ずっと。
そんなものとっくに慣れていたんだ。
しかし、言葉は無防備に解きほぐされた隙間に潜り込む毒に変わり、胸の中をかき乱していく。
歪んでいく視界。
胸を差す棘のような小さな痛み。
厭な感覚は次第に自分の中の全てを変えてしまう。
穢れた自分を、さらに壊していく。
けれど記憶はそこで留まり瞼を開ける。
目を覚ました場所は見知らぬ場所で、ただ助かったのだけは判った。
だが、それもほんの一時の引き延ばしに過ぎないと知る。
追い打ちをかけるように、外から姉と彼の声が聞こえてきた。
片や、殺し救うという。
片や、守り救うという。
でも、皮肉にもそれが出来ないのは誰よりも一番知っていて、理性と本能がせめぎ合う。
生きたい。
死にたい。
そんな自分の弱さが情けない。
何もかもが恐ろしくなって、怖くなって――。
自分が無くなる。
誰かを殺してしまう。
何方も嫌で、何も決められない。
詰まる所、己は最後まで臆病者のままなのだと理解したとき。
降りしきる雨を透かした窓を割り、神の家から、大切な人たちから逃げ出した。
もう、誰も助けてなんてくれない。
助けなんて、救いなんてどこにもない。
それどころか、帰る場所さえない。
……帰りたい場所は決して帰れぬ場所へ変わり、帰りたくない魔窟は、いつか必ず連れ戻される地獄。
自分から進むことなんて出来ない。心は弱わり行くだけで、悲鳴を上げる事さえできない。これまでと何も変わらない。
そのまま、泥の中に沈むだけ。
正しいかのか、間違っているか。それさえも解らなくなって立ち尽くす。
雨の中、一人きりだ。
何時しか帰りたいと願った人の温もりは程遠く、最も欲した温もりはそれ以上に遠い。
こんな自分を守ってくれる場所はない。
こんな自分に味方などいるはずもない。
当たり前だった。
もう慣れたことだ。
だけど、……だけどまだ。
世界は未だに、この身を見捨てない。
楽になどしてくれない。
雨音の中、その声が、響く――――
「――――桜」
*** たった一つきりの宝物
守る。
必ず、守る。
ただそれだけしか、もう何もなかった。
どんな被害が出るのか、どんな結末になるのか、それは後で考える。
楽にしてやることも、助からないのだと認めることも、それは確かに正しかった。
正しく、そして強い。
本当なら、俺に相手を糾弾することなどできはしない。
出来る筈も無いが、それでもこの時ばかりは売り言葉に買い言葉。
絶対に、引くわけには行かなかった。
イリヤのくれた答え。
胸にくくった、一本の決意。
それを守り、貫き通す。
たとえ、どんな結果になるのだとしても、後悔だけはしない。
そんな、選択を――――。
――――冬木市を渡る橋の下にある公園。
そこに、彼女はいた。
空を覆う雲は雨を注ぎ、曇天となったその色彩はまるで今の自分たちの心の様。
「桜」
「だめ、こないでください……!」
今までにない程、強く拒絶される。
思わず足を止める。
雨の向こうに見える彼女は顔を伏せていて、スカートをぎゅっと握り締めている。
己を恥じる罪人のように、彼女は今にも消えてしまいそうだ。
それが、酷く辛い。
……その姿に、これ以上近づけなくなる。
彼女が自分から顔を上げるまでは、決して近づいてはいけないと感じとった。
「――――桜」
「……帰って、ください。
いま近づかれると、わたし――――何をするか、分らない」
声は震えていて――
雨の冷たさと、罪悪感から桜は震えている。
直ぐに払拭することは出来ないだろう。
今できるのは、ただ。
「――帰ろう、桜。おまえ、風邪治りきってないだろ」
彼女が切り離そうとしている場所から、それでも手を差し出すだけ。
けれどその言葉は、
「……先輩」
雨を擦った髪が揺れる。
唇を噛み締め、絞り出すように、桜は――
「帰れません。……今更、どこに帰れっていうんですか……?」
悲しみよりも、むしろ憎しみを混じらせた声ではっきりと言い捨てる。
「――――桜」
その苦しみは、決して解からないものだ。
これはまさしく、知り得ないこと。
……祈る資格がない。
これが、そう。――――これまで失うなんてことすら想像しなかった、怠惰へのツケ。
気づかなかったから、遠くへ行こうとしてしまう。
気づけなかったから、何時までも彼女は自分で咎を背負おうとしてしまう。
「良いんです先輩。わたしなんかに、無理に構う必要はありません。
……だって、もう知っているんでしょう? わたしがなんなのか、わたしの身体がどうなっているのか、全部聞いたんでしょう? なら――――もう、これで」
終わりだ、と。
白い息が音にならない言葉を告げていた。
けど、そんなもの俺には関係ない。
「――馬鹿言うな。俺が聞いたことなんてどうでも良いことだ。俺が知っている桜は、今まで一緒にいた桜だけだ。
それがどうして、こんなことで終わったりするんだよ」
「……だって、終わっちゃいます。
先輩。わたし、先輩が思ってるような女の子じゃないんですよ? 貰われた先で小さいころからよく分からないものに触れられてきました」
肘に爪を立てるその行為は、自らに沁みついてしまった穢れを罰するような、自虐的なものだった。
「それだけじゃないです。わたしは間桐の魔術師で、先輩にそのことをずっと隠してました。
……マスターになったときも黙っていて、先輩がセイバーさんを連れて来た時も、知らん顔して騙してたんです。ほら。だってその方が都合がよくて、先輩に怒られないじゃないですか」
「――――桜」
「でも本当、馬鹿ですよね。そんなので誤魔化せる筈なんてないのに、それでも騙しとおせるって思ってたんですよ?
自分の身体にお爺さまの蟲が棲んでいても大丈夫だ。自分を確かに持っていれば負けないって思いこんで、あっさり負けちゃいました。
……あの時かけられたの、毒でも何でもない、暗示のようなものだったんですよ? わたしは、そんなのをかけられただけで自分が分からなくなって、先輩を傷つけたんです」
吐き出されていく想いは、酷く苦しいもの。
これまで、自分が見ようともしなかったもの、そのものである。
吐露されていくソレを受けて、やっとそのツケがなんであるのか、ようやく解ったような気がした。
「……遠坂先輩は正しい。わたしは臆病で、泣き虫で、卑怯者です。こうなるって判ってたのに、お爺様に逆らうことも、自分で終わらせることも出来なかった。
痛いのがイヤで、怖いのもイヤで、〝みんな〟より〝自分〟が大切過ぎて、死ぬ勇気も持てなかった……!」
……泣いている。
でも、桜はただ泣いているだけ。
泣いて、どうしたらいいのか判らなくなって、余計に悲しくなっているだけだ。
その罪は、彼女だけのもの。
だけどそれは、罰することを是とされない罪。
しかし、逃れることも出来ない罪。
誰も裁いてくれない罪は、真に罪足り得ない。やり直すことの出来ない、深みにはまってしまうだけだ。
「――――――」
そのことを感じ取って後悔した。
今まで、一度も桜の泣き顔を見たことがなかった――その意味を。
こんな風に、自分を攻めることでしかなけない意味を、どうしてもっと早く気づけなかったのか、と。
「泣くな――――桜」
雨音に邪魔されて、まだその
「だから――――全部、わたしが悪いんです。
わたしはお爺様の操り人形で、何時さっきみたいに取り乱すか分からなくて、いつか、きっと取り返しのつかないことをします。そんなわたしが、何処に帰れるっていうんです、先輩……!!」
彼女はそうして、自らを追い詰めていく。
……誰も桜を責めていない。
だからこそ、彼女は自分で自分攻めるしかない。
自分が悪人だと。悪い人間なのだと責めて、罰を与えるしかないから。
「――――だから、泣くな」
何時か桜が言っていたことを思い出す。
自分は臆病だから、強引に引っ張ってくれる人がいい、と。
それがどういうことなのか、やっと判った。
守りたいもの。
自分にとって大切なもの。
失うことさえ、思いつかなかったもの。
それを、これ以上泣かせたくないのなら。
その手を引いて、彼女を今からでも、日の当たる場所まで――――
「ごめんなさい、先輩。わたし、ずっと先輩を騙してたんです。
けど、いつも思ってました。わたしは先輩の傍にいていい人間じゃない。だからこんなのは今日限りにして、明日からは知らない人のフリをしようって。
廊下でであってもすれ違うだけで、放課後も他人みたいに知らんふりして、夜も、ちゃんと一人で家に帰って、今までのことは忘れようって……!」
……ごめん。
気づけなくて、ごめん。
ずっと、泣かせてしまって――ごめん。
「でもできなかった……! そう思っただけで体が震えて、すごく怖かった。怖くて、死のうって決めた時より怖くて、先輩の家に行くのを止められなかった。
先輩をだますのも、それをやめてしまうのも恐くて、周りはみんな怖いコトだらけで、もう、一歩も動けなくなって、どうしたらいいか分からなかった……!」
でも、こうして知ることが出来た。
彼女は、知らなかった方がいいというけれど。
――それだと、俺はきっと、ずっと桜を泣かせたままだった。
「……馬鹿ですよね。こんなこと、何時か絶対判っちゃうのに。判っちゃった時はもう遅くて、わたしは二度とあの
その方が先輩の為で、わたしもきっと、これ以上は悲しくなくなるって、これ以上泣かなくていいってわかっていた、のに――――」
だから、もうこれ以上は泣かせられない。
誰も桜を責めず、桜が自分で自分を責めるしかないというのなら。
「でも――それでも、隠していたかった……!
先輩との時間を、これからも守っていたかった……!
わたし、わたしにとってはそれだけが、意味のある事だったのに、どうして……!」
他の誰が許さなくても、たとえ桜自身が許さなくても――――彼女の罪を、俺が代わりに許し続けるだけだ。
「あ――――――」
冷えた身体を抱きとめる。
……回した腕は、酷く頼りなかった。
強く抱きしめることも出来ず、桜を抱き寄せることも出来ない。
……俺には、桜を救うことは出来ない。
ただこうして、傍に居て欲しくて、傍にいてやることしか出来ない。
雨に濡れた身体は、どちらも冷たい。――――だけど確かに、この腕の中に、消えて行こうとする熱があった。
彼女の証が、そこに在る。
消え得てしまいそうなそれを繋ぎとめるように、抱きしめていた。
「先輩、わたし――――」
か細い声が、雨音の中であっても、はっきりと耳に届く。
まだ、桜の涙は止まらない。
だから、その涙を止めるための言葉を探す。
この胸に生まれた――
「もう泣くな。桜が悪いヤツだってコトは、よくわかったから」
「――――――」
息を呑む音。
罪悪と後悔の混ざった戸惑い。
それを否定するように、精一杯の気持ちを告げる。
「――――だから、俺が守る。
どんなことになっても、桜自身が桜を殺そうとしても――――俺が、桜を守るよ」
「せん、ぱい」
「――――約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる」
……抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
今はただ、触れ合うだけでも。
この誓いは、何よりも固いものであると告げるように。
「…………」
それにどれだけの効果があったのか。
雨に濡れ、冷たく強張っていた桜の肩から力が抜けていく。
……桜は、彼女が何を行ったのだとしても、やっぱり今までと変わらない桜だった。
抱きとめた感触も、肌の熱さも変わらない。
お互いの吐息は白く、雨音の中に融けていく。
呼応するように、降りしきる雨は、いつしか勢いを止めていた。
―――その、凍えた夜の中で、
「駄目です、先輩――――それじゃきっと、先輩を傷つける」
桜は懺悔するように、そういった。
「――――――」
雨が止んでいく。
夜は真冬のように冷たく、言葉と共に熱を失おうとしていく。――――けれど、桜は抱きとめた腕を振りほどかない。
……そうして、
「先輩を、傷つけるのに――――」
――――こうしていたい、と。
頬を濡らす最後の雫と共に、桜は言った。
絞り出すように告げられたその声に、新たなものが生まれる。
これが恋というものなのか、愛なのかは知らない。
ただ――この恋の終わりは、報われるものではないと。
そんな確信めいた予感が、胸の裡から離れなかった。
だが、それでも構わないと少年は思った。
先程口にした決意は微塵も揺らがず、失いそうだった花を取り戻した心は、初めてその色を生み出している。
誰かのものでも、まして強いられたものなどではなく――――
その想いは、確かに彼だけのモノだった。
こうして、ブリキの騎士は理想を捨てる。
偽物でしかなかった心に、灯された炎が燃え上がった。
たった一つ、己の全てを賭けた想い。
裡に抱く願いは、もう偽りではない。
――――こうして、一つの選択が終わった。
けれど、これが終わりではない。
此処は始まり。
先へ続く、〝本当〟を始めた偽物の物語への入り口。
黒き春の花。
その物語は、ここから本当の始まりを経るのだから――――