Fate/Zero Over   作:形右

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 HFルートの回想終わりです。
 
 映像化されてないので原作を元にしたんですが、説明とか戦闘とか、かなりそのまんまなので規制に引っかからないか心配。しかもクソ長いという。
 この辺が回想を書こうと思ったときに技量不足を痛感するとこでした。


 ともかく、今回がっつりHFのネタバレあります。
 ゲーム未プレイ・未視聴等々で、ネタバレNGの方はブラウザバックを推奨しております。
 それでもよろしいという方はお進みくださいませ。


第二十五話 ~願われた悪、〝天の杯〟~

 

 

捨てた理想、たった一人を守るということ

 

 

 

 夜の公園で、小さな少女から勇気を貰った。

 夜の公園で、一人の少女の為に夢を捨てた。

 そして、『正義の味方』を目指した少年は、たった一人の少女を守ると決める。

 

 進み行く物語は、その先へ――――

 

 離れて行こうとする少女を取り戻した夜、その代わりをするように少年は、少女と決別することになった。

 日常の象徴はその手の中に留まり、先を照らす輝きは二つとも掌から零れ落ちて行った。

 これまでの路で、ずっと少年の傍らにあったそれらは、すべて無くなった。

 取り戻した代わりに、少年の進むための力はこれ以上ない程に小さくなる。

 代わりに訪れたのは、これまでを忘れそうなほどに穏やかな時間。

 ともすれば、今事の時が戦いの渦中であると忘れそうなほどに。

 万事順調とは言い難いが、それでも確かに取り戻せたものがある確信が持てた。

 ……けれど、同様に失ったものもあったことを思い知る。

 だが、それでも止まることはなく。

 彼は進む。

 その先に、明確な破滅を予感しても――。

 確かな想いを胸にして、後悔の無い選択を続けていくために。

 

 ――――しかし、その路は決して簡単ではない。

 

 その軋みを見せつけるかのように、泥に沈んだ杯は少年に現実を見せつけ始めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 冬木の郊外にある深い森。

 俗に御伽の森などと謳われるそこには、かつて五つの魔法の一端に届いた『冬の聖女』の一族のしつらえた城がある。

 

 その城には、此度の戦いにおける主がいる。

 

 最強の狂戦士を従えた、冬の姫。

 決断を下した、あの雨の日。選ぶべき選択(こたえ)に惑っていた少年に道を示した少女がいる。

 少年は少女に会いに行くために森へ足を踏み入れた。

 この戦争における共闘を望んだというのもあるが……正直に言えば、本当はそんなことよりもあの夜のお礼を言いたかったというのが本音だ。

 もちろん、前者が下心でないかと言えば嘘になるのだろう。

 人は人を簡単に信頼に値させようとはしない。それは、間違ってはいない道理の一つだ。

 だが、しかし――。

 あの時、彼が彼女に貰ったその勇気。

 アレを受けて尚、そんな下卑た思いに囚われるというならば、たとえ愚かであろうが、馬鹿げたくらい真っ直ぐな心で返したいと少年は思ったことだろう。

 そう思いたくなるほどに、あの優しさに報いたい。

 自分にとって、最も大切なものを守るために踏み出す勇気をくれた彼女だからこそ。そんな思いで向き合いたいと、そう願っていた。

 

 ――――けれど、やはり先行くべき道は決して楽には進まない。

 

 決別した筈の少女は、一晩過ぎて憑き物が落ちたかのようにあっけらかんと傍らに居座り始めた。

 ……悔しいことに。

 言い分に間違いはなく、また相も変わらずその在り方(本質)を嫌うことが出来ない。

 長らく自身の憧れだった彼女だからこそ、そんな強さに変わらず心のどこかを引かれていた。

 が、それは軋みのほんの序章。

 寧ろそれ自体は好ましいといってもいい程に些末なことだ。

 言うなれば前奏曲。

 本題に入るために必要な前置きに過ぎないものであり、崩壊を告げる予兆は、もっと別にある。

 ――その時、森が震えた。

 彼方より、まるで爆発めいた音が聞こえてくる。

 決して近くはないのに、まるで台風じみた何かが暴れているような感覚が伝わって来た。

 それがなんであるかは、考えるまでもない。

 始まりの夜に遭遇した、この森にいる少女が従えているこの戦争における最大の力。

 岩山のような様は、まさしく暴力の化身。

 つまり、この震えは――

 

「――――バーサーカー。どうやら一歩遅かったようね、わたしたち」

 

 傍らの少女が淡々と呟く。

 それを受けて、少年もまた感じた嵐の方向へ目を向ける。

 驚きこそしたが、決して不自然なことではない。

 この戦いに置いて、残っているマスターは残り四人。

 冬木の街に巣食う化け物。此処にいる少女と城の主。そして、少年が守りたい少女。

 その内の一人は此処にいて、もう一人は確実にあの家にいる。

 ならば必然、戦っているのは残りの二人。

 もうマスターではない少年に、赤い少女は問う。

 行くか、行かないか、と。

 当然の如く、答えは決まっている。

 戦いを終わらせるために始めた闘いであると共に、あの妖怪が襲っているのがあの少女(イリヤ)であるならば、彼に行かない道理はない。

 森を走りだした少年と少女。

 冬の少女の元へ向かう二人を待ち受けるのは、軋みの一端。

 歪められた戦争(たたかい)の、最奥に触れた者。

 そう。木々を震わせるのは、何もけたたましい狂戦士の咆哮だけではなかった。

 

 ――――振るわれた漆黒の剣閃と共に、泥に侵された少年の剣が、激しい嵐を巻き起こし始める。

 

 

 

 ***

 

 

 

 御伽の城を飛び出した少女は、長きに渡る因縁の相手と対峙していた。

 

 目の前にあるのは、一度も会ったことはない枯れ木のように朽ちて行く身体をした老人。

 そんなモノを彼女らは見たことがない。――けれど、深く見知っている男。

 彼女の記憶の根底。その大本たる原初にこそ、本来のそれがある。

 故に、両者にとって、この初の邂逅は、決して穏やかなものとは言い難い。

 とりわけ、少女の――否、彼女が継承せし器の守り手の側としては、醜く腐敗したその魂との邂逅は、今の少女に思うところがないのだとしても、決して喜ばしいものなどではなかったのだった。

「――――マトウゾウケン。聖杯に選ばれてもいないモノが、マスターの真似事をしているのね」

「ほ。聖杯に選ばれる、などとつまらぬことを。聖杯はマスターなど選ばぬ。聖杯とは受け皿にすぎぬもの。そこに意思があり聖別するなどと、おぬしまで教会の触れ込みに毒されたか」

「………………」

 愉快そうに笑う老人を、少女は冷淡な瞳で見つめる。

 ……確かに、老人の言い分には間違いはない。

 聖杯は選ばない。

 マスターは聖杯に選ばれ集うのではなく、そもそもの前提――この戦争におけるルールそのものが逆なのだ。

 故に、教会の触れ込みによって歪められたそれは、聖杯が遂げるべき結果を遡るようなものであると言える。

 聖杯は、ただ注がれるだけのもの。

 マスターは儀式における装置でしかなく、

 揃えられた英霊という七つの魂を順に『器』に注ぐための目印であり、サーヴァントはただ〝門〟を開くためのもの――――

 けれど、

「……ふん。貴方こそ脳を毒されたんじゃないの、ゾウケン。

 器となる〝聖杯〟に意思はないけど、マスターを選び出す〝大聖杯〟には意思があるわ。もともとこの土地に原型があるからこそ、貴方たちは英霊を呼び出して聖杯を満たそうとした。

 ――――ま、当事者である貴方がソレを忘れるぐらいだから、マキリの血は衰退したんでしょうけど」

 少女の声はどこまでも冷たい。

 そこには疑いようのない嘲りが込められていたが、老人はそれを笑って受け止め、彼女の声に応えた。

「いやいや、心配には及ばぬ。マキリの衰退もここまでよ。ことは成りつつあってな。予定では次の儀式で行うはずじゃったが、今回は駒に恵まれての。ワシの悲願はあと一手で叶おうとしておる」

 この戦いは貰う。

 マキリがこの戦いに置いて聖杯を手にする、と。

 老人の言い分は、端的に言えばそういうことだろう。

「そう。なら勝手にすれば? わたし、貴方に興味はないわ。わたし以外の『器』なんて気に入らないけど、どうせ失敗するんだし。邪魔はしないから、おとなしく地の底に戻ったら?」

 だが少女にとって、そんなことに興味などない。

 偽りの器がどうなろうと、決して自分たちには及ばない。ある種の矜持のようなものがそこに在る。

 突き放すように老人へそう言い、失せろと告げた。

 老人の方も、別に()の彼女へ思うところはない。

 だが、

「言われるまでもない。この老体に日の光は辛いのでな、ことが済めば早々に古巣に戻る。

 だが――――やはりのう、こうも上手くいきすぎると逆に不安が大きくなる。万が一のため、おぬしの身体を貰い受ける。ここで聖杯(おまえ)を押さえておけば、我が悲願は盤石じゃ」

 枯れかけのような老人に鬼気が灯る。

 傍らに控える白い髑髏の面を付けた黒装束が面を上げかけるが、地を蹴る前に動きを止めた。

 

「――――――」

 

 場に静寂が流れる。

 見るまでもなく、考えるまでもなく判るだろう。

 どうあっても倒せない。

 己がひとたび踏み込めば、この身は一太刀の下に両断される、と。

 黒装束の暗殺者は、少女を守る巨人に完全に気圧されていた。

「……ふん。主に似て、臆病なサーヴァントね。そんなに死ぬのが怖いなら戦わなければいいのに。貴方といいゾウケンといい、そんなに自分の命が大事?」

 自身の守護者(バーサーカー)に臆したらしい暗殺者(アサシン)を前に、少女は呆れたように言葉を投げる。

「――――――」

 白い面から言葉は返ってこない。

 代わりに、その主の方から高らかに返答がなされた。

「ああ、大事だとも! 我が望みは不老不死、こやつの望みも永劫に刻まれる自身の名でな。我らは同じ目的の為、こうして邁進しておるという訳だ」

 しかし、

「……正気なの、貴方。聖杯にかける望みが不老不死ですって?」

 その返ってきたその答えに、少女は明らかな嫌悪を瞳に浮かべた。

 が、彼女の反応に老人の口元が歪む。

 その罵倒。その罵りこそを待っていた、とでも言うかのように。

「当然じゃ。みよ、この肉体(からだ)を。刻一刻と腐り、腐臭を放ち、肉ばかりか骨をも溶かし、こうしている今も脳髄は劣化し蓄えた知識を失っていくのだ。

 ――――その痛み。生きながらに腐る苦しみがお主にわかるか?」

 なるほど。

 言っていることは尤もだ。

 だが、そんなものは同情に値しない。寧ろ同情すべきは、そんな状態(カラダ)になってまで生に執着しておきながら、今の自分を受け入れられずに醜く足掻き続けていることそのものだろう。

「……自業自得でしょう。ヒトの身体は百年の時間に耐えられない。それを超えようというのだから、代償は必要だわ。それに耐えられないなら消えればいい。苦しいのなら、死ねば楽になるんじゃなくて?」

 醜くなり下がるくらいなら、潔く終わりを迎えろと少女は言う。

 すると、

「――――――カ」

 老体が震える。

 魔術師(ゾウケン)は咳をするように背中を振るわせたあと。

 

「カカ、カカカカカ……! やはりそう来たかアインツベルン!

 貴様らとて千年続けて同じ思想よ! 所詮人形、やはり人間には近づけなんだ!!」

 

 そう、心底おかしそうに哄笑を上げた。

 

「……なんですって?」

 怪訝な顔で彼女は問い返す。

 それを受けた老人は、先程の嘲りを返すようにこう語った。

「――――たわけめ。よく聞くがよい冬の娘よ。

 人の身において、死に勝る無念などない。腐敗し蛆の苗床となる肉の痛みなど、己が死に比べれば脳漿の膿に等しいわ。

 自己の存続こそが苦しみから逃れられる唯一の真理。死ねば楽になるなどと、それこそ生きていない証ではないか。

 だからこそおぬしは人形にすぎぬのだ。その急造の身体ではあと一年と稼働()つまい。短命に定められた作り物に、人間の煩悩は理解できぬということだ……!」

 無念を、真理を、ヒトが超えられない枷だからこそ、望むのだと語る。

 故に、五百年の妄執に駆られた化け物は、ヒトの抱くその積年の願望を理解できない人形如きが、と少女を嘲笑った。

 しかし、そんな言葉などでは彼女を揺らせない。……否。仮に他の誰を絆せたのだとしても、偽り塗り固めるように見せつけることが出来たのだとしても、他ならない彼女だけは、絶対に揺らすことが出来ない。

 始まりを知る者であり、ただ造られただけの命ではない彼女だからこそ。

 その醜さの根底にあった輝きを知るからこそ、その言葉は見るに堪えない。

「――――ええ、理解できないわ。貴方は人間の中でも特例だもの。そんなに長く生きたくせに、自分の寿命を受け入れられないなんて、狂っているとしか思えない。

 ねぇ。貴方、そんなに死にたくないの?」

「無論。ワシは死ぬ道理(ワケ)にはいかん。このまま死にたくはない。まだ世に留まり、()()()()()()()()()()()。だがそれも既に限界。故に腐らぬ体、永劫不滅の器が欲しい。

 ――――その為に」

「その為に聖杯を手に入れようというの? ――()()()()()()()()()()()()()()()?」

「カ、死が恐ろしくない人間がいるのかね?

 よいか、如何な真理、如何な境地に辿り着こうと無駄なこと。自己の消滅、世界の終焉を克服することは出来ぬ。

 最期に知っておけ。

 目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くというのなら――――何者をも、例え世界そのものを犠牲にしても手に入れるのが人間だとな……!」

「――――じゃあ貴方は、()()()()()()()()()()に、()()()()()()()()()()()()()っていうの?」

 最期の通告。

 だが、もう既に目を失った地中(もうもく)の蟲には、それを写し得ない。――知ることなど、思い出すことなど、出来ない。

 

「応よ。それで我が望みが敵うというのなら、世界中の人間を一人一人殺して回っておるわ。

 ――――人の強欲は尽きぬもの。

 おぬしとて木々の一本一本が寿命を延ばす妙薬とすれば、この森など瞬く間に食らい尽くそう。たとえそれが、僅か一日足らずの延命だとしてもな。

 己が一日の為に世界の一部を殺していく。

 その願望には、この森だけでは飽き足らず世界中の木々を殺すこととなろう。

 その伐採(おこない)によって世界(たにん)が滅びようと知ったことではない。

 当然であろう? もとより、人間とはそのようにしてここまで広がり、育ち、増え、繁栄し肥満しきった有象無象。

 そこに、最早連鎖すべき法則など成り立たぬ。いずれ破綻するのであれば、ワシ一人が足並みを崩したところで誰にも異論は挟ませぬわ……!!」

 

 嬉々として老人は語る。

 それを驚きの眼で見つめた後、

 

 

 

「――――あきれたわ。そこまで見失ってしまったの、マキリ」

 

 

 

 少女は、少女(かのじょ)の声ではない声でそういった。

 

「……な、に?」

「思い出しなさい。わたしたちの悲願、奇跡に至ろうとする切望は何から来たものなのか。

 わたしたちは何の為に、人の身であることに拘り、人の身であるままに、人あらざる地点に到達しようとしていたのかを」

「――――――」

 哄笑が止まる。

 老いた魔術師は、何か遠い空を見上げるように目を凝らし、

「――ふん、人形風情がよくも言った。先祖(ユスティーツア)の真似事も、すり込み済みという訳か」

 醜悪に形相を歪め、白い少女を凝視した。

「――――もうよい。戯れはここまでじゃ。おぬしの身体は要るが、心になど用はない。アインツベルンの聖杯、この間桐(マキリ)臓硯が貰い受ける」

「――――――」

 老人の影が地面を這うように迫る。

 ……それに応じて、少女に押しかかっていた重圧(ふあん)が増大していく。

 黒い巨人は、少女(あるじ)の命を待たずして出陣し、旋風を伴って、圧しかかる影を薙ぎ払おうとした。

 

「▅▅▄█▅▅▅▅█▄▆▆▅▅▅▅▄▆▆▅▅▅█▇█▅▅▅▅▄▄▄▂ッッ!!」

 

「だめ……! 戻ってバーサーカー……!」

 少女の制止は、一歩遅く。

 振り下ろされた剣閃は、まさしく嵐のように。

 凄まじい威力の一撃が、少女の敵を一掃しようとした。

 が、その切っ先を向けられた先には――――

 

 

 

 ――――泥に侵された、漆黒の王が立っていた。

 

 

 

 *** 漆黒の王

 

 

 

 風を切るように迸るその音は、酷く懐かしい音色を奏でていた。

 二度と聴くことが出来ないと思っていたソレは、懐かしさと同じほどに、酷く残酷な形で彼らの前に現れた。あの夜と同じように――けれど、何処までも再会の衝撃は心に重く、この戦いの凄惨さを見せつける。

 岩山をも砕こうかという剣閃も、今の敵には通用しない。

敵として立ちふさがった黒き王は、そうした剣戟の起こす風に靡くことも、弾け飛んだ土塊に動じるでもなく。ただ静かなほどに躊躇いなく、悪性に染まった星の生んだ祈りの結晶を振るった。

 上がる音は、狂戦士の苦悩のみ。

 

 ――もう既に、勝敗は決していた。

 

 彼女を連れてきた〝黒い影〟の生んだ泥の沼は、狂戦士を蝕み始めている。

 これ以上の抵抗など続けられるはずもなく、老魔術師はこの場を離れるとし、己が傀儡(アサシン)聖杯(イリヤ)の回収を命じた。

 盤上を制した彼らとは裏腹に、イリヤは泣くように狂戦士を止める。

 これ以上戦わなくて良いと、そう訴えるように。

 だが、これ以上戦わないと言うことは、つまりは彼女を見捨てると言うこと。

 そんなことを狂戦士(かれ)は望まない。

「▆▆▅▅▅▅▄▆▆▅▅▅█▇█▅▅▅▅▄▄▄▂ッッ!!!!」

 撤退を拒むように、バーサーカーは足下の泥を蹴散らすようにして前進する。

 それはあり得ない行動だ。

 足下の沼だけでなく、あの〝黒い影〟もまたその身体を拘束していた。動けるはずもなく、ただ呑まれるだけの筈だった。

 故に、その身を裂いた。

 肉を引き千切って前に進む。

 骨が覗こう言うまで、躊躇いなく前進を拒むモノを剥いでも、狂戦士は前へ。

 誇りと、命さえも賭けた最後の一撃。

 この一撃が必殺でないはずもなく、振るわれた剣は寸分違わず黒い騎士へ吸い込まれる。

 

 

 

 ――――しかしそれを。

     剣士は、最強の一撃でもって迎撃する。

 

 

 

 振るわれた二対の剣。

 その先にある結末を、視ていた少年の身体は知っていた。

 狂戦士に駆け寄ろうとしたイリヤを、飛び出して抱き留めその嵐に飛び込ませまいと庇う。

 だが、彼の裡に刻まれた根底が、それよりも先に今し方振るわれた一閃に共鳴していた。

 この目に〝あの幻想〟が焼き付いている限り、恐らくは人間らしい機能を取り戻すことが出来ない。

 目が死んだように、呼吸も死んでいる。

 感覚の正体は掴めなかったが――それでも嵐の中、白く染まった視界の中で、少年は知らず呟いた。

「なんて――――」

 立ち上がることさえ忘れていたのに、依然として裡から湧く本能(しょうどう)だけが告げている。

 アレこそが、己の中において遠くて近い夢。

 行き着くべき最果てにあるモノ。

 この身が成すべき術の頂点。

 詰まるところ、少年はそんな刹那の代物に、心全てを奪われてしまっていた。

 

「――――――デタラメ」

 

 ……数ある宝具の中でも、アレは段違いの幻想だ。

 造型の細やかさ、鍛え上げられた技の巧みさで言えば、上回る宝具は数あろう。

 だが、アレの美しさは外観ではない。

 否、美しいなどという形容では、あの剣を汚すだけだ。

 剣は、美しいだけでなく、ひたすらに尊かった。

 人々の想念、希望のみで編まれた伝説。

 神話によらず、ヒトならざる()にも属さず、ただ想いだけで鍛え上げられた幻想だからこそ――あの剣は空想の身で、最強の座に在り続ける。

 

 ――――視界が戻る。

 地面に転がっていた少年が見上げた空は暗く、まるで真夜中のようだ。

 先ほどの剣が放った光、黒い炎が空を照らしている。森を両断したそれは、その実闇そのものだったのか。

 音もなく炎は燃え続けていると言うのに、場の空気は依然として冷たいまま。

 アレは燃やすモノではなく、むしろ凍らせるものなのか。

 暗く照らされながらも、森は更に温度を下げてく。

「――――――」

 その、黒い炎を背にして、先ほどの剣士が立っていた。

 黒く染まった剣の切っ先は、少年とその腕の中に庇われている少女に差し向けられており、黒いバイザー越しに彼女は二人を静かに見下ろしている。

 そこに殺気はなく、敵意もない。

 だかこそ、それに殺されると確信する。

 その恐怖と悔しさに歯がみして、目の前の剣士を睨む。

 ――――これは違う。

 これでは別人だ。

 もうそこには以前の彼女はいない。何も感じられないどころか、今は、以前あれほど感じられた気高ささえ皆無だった。

 何の変化もない流れの中で、小さく音を立てバイザーが砕けた。

 バーサーカーの最後の一撃によるものだろう。

 誇り高く、最後まで守るために戦った狂戦士が、命を賭して剥いだベールの先には―――確かに彼女がいた。

 変わり果てていようと、確かに、それは彼女だった。

「セイ、バー」

「――――――」

 応えはない。

 見下ろす視線は何事も示さず、清廉さを失った瞳は無機質に。

 光を失ったソレは、くすんだ金色に染まっていた。

「――――シロウ」

 自身の名を呼ぶ声に、正気を取り戻す。

 目の前の状況に頭が追いつき、自分が何をするべきかを再認する。

 こちらを見下ろす剣士に先には、沼に沈んでいく最強の英霊の亡骸。

 腕の中には、微かに震えている幼い少女。

 迫り来る自分たちの死と、明白で鮮明な恐怖と絶望。

 この状況に、イリヤが怯えないはずもない。

 腕の中にいる小さくて尊い命を、守る。

 余分な思考を振り払い、たった一つすべきことを目の前に据える。

「――――――セイバー」

 左手の中にいるイリヤを強く抱きしめながら、空の右腕に力を込める。

 今は呆けている場合じゃない。

 イリヤを守る。

 イリヤを助けて、家に帰る。

 

 なら、ここで怯えて死を待つわけにはいかない――!

 

 決意を定め、腹を括り、立ち上がろうとした少年にセイバーは剣を振るおうとした。

 が、次の瞬間。

 彼女は、全く別の方向へ剣を振り払っていた。

「――――!」

 セイバーが横合いを向き直ると、そこにはアーチャーの放った三連の矢があった。

「アーチャー……!?」

 差し向けられていた剣から逃れ、イリヤと共に立ち上がった士郎は、文字通り降り注いだ機会(チャンス)に驚愕を露わにした。しかし、そんな暇はないとばかりにアーチャーが叫ぶ。

「止まるな! イリヤをつれてさっさと逃げろ!!」

 再び剣同士がぶつかり合い火花を散らす。

 横合いの狙い撃ちから間髪入れず、アーチャーはセイバーに斬りかかった。

「っ……!」

「――――」

 だが、それも気休めに過ぎない。

 神速の踏み込みで斬りかかった赤き弓兵を、黒い剣士は容易くはじき飛ばす。

「ぐ……っ!」

 様子がおかしい。

 が、原因は直ぐに分かった。見れば、アーチャーの足下にも先ほどの泥が集まっている。

 英霊にとっての弱点(ウィークポイント)。アレがセイバーの側にある以上、アーチャーは十全の戦いが出来ない。

 それを哀れむように、セイバーは追撃を掛ける。

 

「――――無様だなアーチャー。

 正純の英霊では、アレ呪界層には逆らえん。今の貴様は、この森に満ちる怨霊と大差ない」

 

 ……冷淡な声は、紛れもなくセイバーのもの。

 彼女はこともなげに、泥を踏み砕き、そのまま。

「ぐっ……!」

 容易く、アーチャーを背後の森まで弾き飛ばした。

「な――――」

 足を影の泥に取られていたとはいえ、アーチャーは双剣で彼女の剣を防ぎに掛かった。だというのに、セイバーはその防御の上からアーチャーをはじき飛ばしたのだ。

 そうなれば、また繰り返しだ。

 またしても、口を閉ざしたままのセイバーと対峙する。

 向けられた視線が、その金の瞳が――

 士郎に対し、イリヤを差し出さないのであれば殺すという絶対の意思を告げている。

 このままでは、どうしようもない。

 戦いの素人である彼が戦えば、きっと殺されるだけ。

 しかし、イリヤを差し出すなど出来ない。考えあぐねる士郎の焦りを察したかのように、イリヤはそっと彼から手を離す。

「……シロウ」

 不安げに揺れる赤い瞳。

 だが、それは何かを暗に告げてくる。

 この場で一番怯えているはずの少女が、自分が守ると決めた存在が。

 あの夜、たった一つの、掛け替えのないものを守るための勇気をくれた、イリヤが。

 まるで、自分を差し出して良いと言っているようで――迷いなど消え、最後のスイッチが入った。

「――下がってろ。森まで行けば遠坂がいる。そこまで行けば、何とかなる」

 イリヤを後ろへ押しのけて、開いた左手を木刀に添える。

 端から見れば、無謀な挑戦だ。

 そもそも勝てるなどとは思っていない。

 だが、それでも前に立つ。

 彼女を守れなかったら、きっと後悔する。

 ならば、ほんの少しでも良い。

 僅かにでも、イリヤの生存する可能性を上げられるのなら。

 この命を賭してでも、戦う価値はある。

 あの日迷いを晴らせたのは、イリヤがいたから。

 圧し潰されそうになった自分を、こんな自分の味方をしてくれると言ってくれたこの子を、守るために――――

 

「――――――」

 

 構えは正眼。

 戦略などは無く、ただ打ち込まれた瞬間に打ち返してありったけの力と魔力を叩き込むだけ。

 今はそれだけ。

 セイバーに言えることは無い。

 彼女が口を閉ざしている以上、衛宮士郎は彼女に言って良い何かなんて無い。

 今彼女は敵として目の前にいる。

 なら応えられることなど、全力を以て戦うことのみ。

 今、自分に出来る全て――

 相打ちなんて上等なモノは狙えない。

 実力差が開きすぎている以上、死を賭すというのは愚行だと彼女から教わった。

 先手は取れない。

 故に、振るわれた一撃を躱し、次撃を打つ。

 狙うは、先ほどのバーサーカーの残したダメージが蓄積している場所。砕けたバイザーのあった、何かを打ち込まれたと見れる頭部を狙い攻撃を仕掛ける。

 相手の弱点、何らかの活路を突きでもしない限り、衛宮士郎とセイバーでは勝負になり得ない。

「――――ッ」

 来る。

 避けろ、避けろ、避けろ……!

 無様でも何でも構わない。まずこの一撃を越えられなければ、イリヤを守ることさえ叶わない――――

 

 

 

「――――あ」

 

 

 

 死んだ。

 なまじセイバーと試合をしていた分、それが一本だと判ってしまった。

 隼めいた一刀は左上段から。

 稲穂を刈る鋭さで、こちらの首を薙ぎ払う。

 

 ……が。

 首はいつまで経っても着いたままだった。

 振るわれたセイバーの剣は、薄皮一枚のところで止められている。

 一体、何があったのか。

 彼女は剣を納め、後ろへ引く。

 その原因が何かと、視線を向ける。

 と、そこには。

「――――!」

 あの影の中から、何かが這い出ようとしている。

 何時かの公園で見た、呪いの塊としか言えない正体不明の存在。

 アレが、原因なのか――――

 

「私の役目は済んだ。後は貴公に任せる」

「有り難い。容易い仕事だ、狂人(マジュヌーン)に破れた失点を取り返せる」

 

 アサシンとのやりとりを終え、身を翻したセイバーはそのまま泥の中へ戻っていく。

 それを最期まで見届けた。

 何故この世に残っていたのか、敵に回ったのか、などは些末なこと。

 こうなってしまった以上、戦うだけのこと。元よりこの戦いはそういうものだった。

 ……ただ。

 もしも、あの夜。もっと自分が強かったのなら、彼女をあんな黒く濁った姿にしなくても済んだのかと思ってしまった。

 

「衛宮くん……!」

 

 呆けていたところを、その声で正気に返る。

 近づいてくる黒い影とアサシン。

 それから逃げるべく、イリヤの手を取って走り出す。

 一瞬、イリヤは悲しげに黒い沼を見たが、沈んでいった狂戦士を思いながらも、それでも涙をこらえて走り出した。

 そのまま森を駆け抜けていく三人へと向けて、しつこく追いすがるアサシン。

 士郎の首を落とそうと、背後から奇襲を掛けるようにして迫り来る。

「――――そこまでだ。オマエは要らない」

 不意に聞こえた声。

 耳元から聞こえた不吉な声は、直ぐ横で手にした探検をなめ笑う、白い髑髏の面からのものだった。

 イリヤの手を引いたままでは迎撃は出来ない。

 そして元より、英霊に人の身で勝つことは出来ない。

 が、それを――

「ズ――――!?」

「フン。奇襲でなければ小僧の首も落とせないのか、三流」

 侮蔑するように言いながらも、足を止めない。

 アーチャーは苦も無く白い髑髏の脇腹へ蹴りを喰らわせ、吹き飛ばしたのだ。

 そのまま、アーチャーは後ろに迫る〝黒い影〟と先ほど蹴り飛ばしたアサシンを警戒しながら、士郎へ言う。

「殿は任された。お前はイリヤをつれて逃げろ。

 ――――急げ、アレに追いつかれたら終わりだぞ」

 言葉の通り、周囲を侵食しながら追ってくるのが判った。

 黒く周囲を塗りつぶすようにしながら、逃げるこちらを追っている。

「アーチャー、アレは……!?」

「詮索は後だ。走れ小僧。イリヤの手を取ったからには、最後まで守り通せ」

 言って、速度を緩め後ろへ下がるアーチャー。

 その刹那にイリヤを微かに一瞥した時、彼の表情は酷く済まなそうなモノになっていたことを、士郎だけが見ていた。

 だが、それ以上のことを勘ぐる間もなく。

 アーチャーに背後を守られながら、三人は森を駆け抜けて行った。

 背後で轟く剣戟。

 しかし、激しく響く音とは裏腹に。決して追う側の攻撃が、その矛先を、前を走る三人へ届かせることはなかった。

「は、セイ――――ッ!」

 鬼神めいた気迫でもって、アーチャーは十重二十重の投擲を弾き墜とす。

 その度にアサシンは交代を余儀なくされ、決して前の三人には近づけない。

 〝黒い影〟も同様に、アーチャーを侵食しようとするが、まだ完全に呑み込むことは出来ていない。そのことに苛立ったように、アサシンは声を上げる。

「ぬ――――貴様、何故動ける……!?」

 それに対し、アーチャーは何を今更と言葉を返し切り伏せる。

「知れたこと。私は外の連中のようにまっとうな英雄ではない。正純でない英霊ならばあの泥と同位。

 つまり――――

 お前ほどではないが、この身も歪な英霊と言うことだ…………!!」

「ギ――――!」

 黒衣が四散する。

 アサシンは断ち切られた(おもて)を手で押さえながら逃走する。

 此処までの幾度と無い後退(仕切り直し)ではなく、命を保つための撤退。

 生存を勝ち取った。

 この事実が、微かに彼女の気を緩ませた。

「上出来……! これで追いつかれる心配も無くなった……!!

 ご苦労様アーチャー。疲れたでしょ、しばらくは休んでて良いから霊体に戻っていて」

 微かな油断が走る。

 そこに準じるように、遠坂凛の背後野守から〝黒い影〟が出現した。

「――――凛!」

「え、な……に」

「とお、さか――――」

 走っても間に合わない。 士郎では届き得ない距離を隔てた先で、触手を伸ばしたあの影が、凛を刺し貫こうとする――――

 

「――――グ、っ……!」

 

 それを、飛び出して串刺しにされたアーチャーが、防いだ。

 この時を以て、アーチャーは終わってしまった。未だ身体が残っていても、紛れもなく彼の身体は終わりを迎えていると判ってしまう。

 アレは、サーヴァントを殺すモノ。

 故に、その一撃は必殺に等しい。

 あの呪いを受けた以上、アーチャーには生存はない。

「うそ……アーチャー、なに、してんのよ」

 震えた声で彼に呼びかけ、おぼつかない足取りのまま立ち上がり、そのまま歩み寄ろうとした凛をアーチャーは一喝する。

 

「来るな……!! さっさと逃げろ、たわけ……!」

 

 そのまま、びくり、と足を止める凛。

 そこへ、黒い影が躍動し襲い来る。

 森が死ぬ。

 周辺のモノにある魔力を、アレが全て喰らい尽くし、奪っていく。

 このままでは拙い。

 まるきり、水風船に水を注ぐように。際限なく、それも限界を超えてまで注ぎ続けていく様な光景を前にして、そんな予感が脳裏を駆ける。

 アーチャーも同じなのか、触手を引き千切り足を止めている凛の元へ向かう。

 それを受けて、士郎もまた傍らのイリヤを守り切るべく、彼女の上に覆い被さるようにして地面に伏せた。

 瞬間、何かが弾けた。

 

 視界がなくなる。

 黒く染まった森の中を、魔力の波が波動の様に振るわせる。

 

 ――――熱い。

 

 身体が吹き飛ばされそうだ。

 満たしていく魔力が、暴風となって森を侵す。

 その時、何かが焼けた。

 

 ――――な、い。

 

 視界はまっくろ。

 こんなにはっきり見えているのに、何もないということは、黒い太陽でも落ちてきたのか。

 

 ――――(じぶん)が、無い。

 

 きっと、太陽の熱で溶かされのだろう。

 身体が無い。

 降りかかる痛みよりも、触覚のない喪失感が気持ち悪い。

 

 だが、それは困る。

 

 身体がなくては守れない。

 だから右手でイリヤを庇った。イリヤを連れて行こうとする〝黒い影〟に、右腕で賢明に抗ったのだった。

 そこで、ようやく理解する。

 身体は、ある。

 でなければ、イリヤを守ってなどいられない。

 無くなったのは左腕だけ。

 ……ただ、それでも喪失感は変わらない。

 二本の内の一本が失くなったと言うだけなのに、まるで身体の全てが消えたように思えるほど、大きな何かが欠けてしまっていた。

 

 薄れ行く意識の中、少年は微かに視界を探る。

 

 右腕の中。

 そこにはちゃんと、イリヤがいた。

 少し先に、赤い影が二つ見える。

 凛も、アーチャーも、いた。

 そのことに僅かな安堵を覚えながらも、次第に消えていく意識の中で、彼は――――誰かと、誰かのやりとりを聴いた。

 

 

「――――正気ですか。そんなことをすれば、貴方は」

 

 

「考えるまでもない。何もしなければ消えるのは二人だが、移植をすれば確実に一人は助かる。

 ……どのみちこの身体は限界だ。このまま消えるというのなら、片腕を切り落としたところで変わるまい」

 

 ……何がどうなっているのか。

 

「通常ならば死ぬ。肉の身に霊体を繋げてはつからない。だが、オレとその男は例外だ。凛が目を覚ましたら、上手く処置をしてくれるだろう」

 

 森に落ちた黒い太陽はもう無い。

 ただ、視界には軽く黒い髪を優しく梳いた浅黒い手が見える。

 そして、意識が消えゆく中で――

 

「――――ここまでか。達者でな、()()

 

 まるで自分の声のような声色で、別れを告げようとする(おと)を聴いた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 そうして、少年の裡へ向けて、その身の真髄が叩き込まれる。

 未だ至れぬその場所(はて)を、経験()で追うのではなく――文字通り身に刻み、貸し与えていくのだ。

 だが、観ていた少女はそれを知らない。

 彼女の中に生まれたのは、少年が助かったが怪我をしたという事実のみ。

 普通であれば致命傷だが、奇跡的に彼は助かることになった。

 運命の巡り合わせか、はたまた募った後悔へ皮肉か。

 ともかく、少女はただ観ていた。

 少年を案じ、その生存に安堵しながら。

 ――その怪我によって。少年が、もう戦えないはずだと歓びながら。

 その口元は喜色に歪み、壊れかけの少女に更に罅を刻む。

 壊れ始めた二人の物語が、またその裡に秘められた真実への蓋を開けていく――――

 

 確かに、少年は生存を勝ち取った。

 

 伴う痛みは凄まじく、一時気を抜けば、崩壊してしまいそうになる程で。

 かつての相方であった剣が敵に回り、救いたいと願う少女を脅かす存在はまだこの街に蔓延ったまま倒せていない。

 が、それでも少年は、もう一度その日常へ帰って来た。

 壊れてしまいそうだった姉妹の絆を取り戻せるかも知れない。

 果たされなかった二つの家族の絆を取り戻せるかも知れない。

 いくつも、いくつも――――〝これから〟に、希望が生まれていく。

 だが、そう易々と平穏は訪れない。

 

 破滅の誕生を待ち望む者がおり、

 この世を再び統べると構える者がいて、

 砕けた劣等感(プライド)に濡れたままの親友(とも)がいる。

 

 そして、それら全てが――――少女を壊していく。

 

 

 

 *** 罅割れていく二人

 

 

 

 更に、路は進む。

 この先において、もう後戻りなどできない。

 いや、元より後戻りなどできはしないのだ。

 もう既に、心は決まっている。何をするべきなのか、何をしたいのかも。

 そして、何と――――戦うのかも。

 

 失ったものがないわけではない。

 だけど、それでも戦う手を止められないのは、歪な生涯を賭けるからではなく、もっと身勝手な想いからだ。

 そう、最も大切なもの。自分が、一番守りたいと願った少女を守るために、少年は戦う。

 勝てる確証はもちろんない。

 だか、それでもやめない。

 必ず救ってみせると、あの夜に誓った。

 腕を失くそうと、それでも止められない。止まることなど、するつもりはない。

 あの子が、笑っていられる世界を取り戻すために戦う。

 そして、必ず帰ってくる。

 ずっとそばにいる。

 

 その約束を、果たすために――――

 

 

 

 ***

 

 

 

 流れる光景は穏やかで、ただ見ているだけならば微笑ましい。

 ……けれど、その影にある闇を感じざるを得ない。

 壊れて行くその日常(せかい)

 近づいているのに、それでも離れて行く。

 誰もが安寧を願うのに、それでもこの嵐を()められない。

 幾つもの後悔が路を塞ぎ、本来辿るべき流れを塞きとめる。だが、祈りは塞がれた壁を越え、それでも希望はまだ先へ進むことを是とした。

 人の業。利己的な欲望。

 求めて来た展望。霞んでしまった理想。

 殺された夢は虫食いのように己を蝕んで、いずれ自分自身を食い殺す。

 でも、そんなのは分かっていたことだ。

 破滅的であっても、進むことを()めない。

 抱いた切望は誰のためのものか/大切なもののために。

 

 であるならば――――

 

「…………すまない」

「……爺さん、そんなのは」

「あぁ、分かってる。

 謝るのは筋違いだ。だけど――僕が果たそうとしたものが、ここまで尾を引いたのも、事実だからね。

 だから、これは僕の罪……。勝手に背負うだけの、身勝手なものだよ」

「…………」

「背負うのは勝手だが、忘れてはいないか?

 ここは、泡沫の夢のようなものだ。もう、あんたは十分地獄を見た。……それにじーさん。とんでもない運命に恵まれた今なら、きっと」

 

 間違わないさ。

 そう言ってくれる息子の言葉に、胸に落ちたものは失せる。

 故に、もう迷う必要はない。

 

「……そうだね。

 あぁ、きっと……そうだ」

 

 その思いを糧に、先へ進む。

 そのために、この物語の最後を見届けよう。

 

 ――――引き金を引くのは、またもヒトの血。

 

 それは名も知らぬ街人であり、

 時にわずかに知った顔であり、

 果てには名を馳せた王であり、

 最後には、本当の意味で嫌っていた訳では無かった筈の、兄の血で――――

 

 そうして、誰も分かっていなかった、操り手によって引かれる糸によって、最後の枷が解き放たれる。

 

 

 

『――――――――あ』

 

 

 

 ――――〝黒い影〟が、遂にその本質(すがた)を表出させる。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ――――ソレは、人間(ヒト)を 殺すモノ。

     かつてこの街を(こわ)し、今もなお杯に巣喰いながら少女を(ころ)すモノである。

 

 告げられた言葉にも、知ろうとしなかった言葉にも意味はない。

 どちらも別にどうということではなく、片方には過程(もくてき)こそ違えど結果のために助力を貰った。その点においてのみは感謝すべきなのだろう。が、今はそんなこと気にしていられる状況ではなくなってしまった。

 少年は行き詰まり、故に結論を求め問うたのだ。

 アレは何なのか、と。

 そして、その答えがこれだ。

 

 ――――明確なまでの『悪性』。

 

 忌むべきものであり、少年が倒すべきモノ。

 取り除くべき不純物だとしながらも、彼に問われた神父はこうも言った。

 生まれていないモノに対して、罪科を問うことは出来ない、と。

 確かにアレは人間(ヒト)の悪性そのもの。誕生するまでもなく、影としているだけで依り代である少女()を侵食し、人を殺す。

 だか、その『悪』として糾すべき存在はまだ、生まれてもいない。

 それ故に罪を問うことは出来ない。仮にするとしても、それは後の話であり、誕生そのものは、如何なるモノであろうとも祝福すべきものであるのだと。

 これに対して、少年に反論はない。

 文句はある。ふざけている、とも思う。

 相手は明確な敵としての立場を隠さず、この問答は分かり易すぎる対立宣言である。

 けれど、相手は敵であるが、桜を無闇に壊す気はないとも言っている。

 誕生を齎す母体――依り代としての桜に差し支える事態があるのならば、先の様に助けもするし、あるいは別の手段を取ることもあると。

 そうであるなら、今向かうべき敵ではない。

 問うた側の少年にとって、目下の敵は一人。不思議なことに、この部分に関してだけは二人の認識は合致している。

 

 ――――神の家で対峙した二人の本質は何処か似通っていた。

 どちらも故障者。生まれながらに、或いは蘇生の際に欠落を伴って生き続けている欠陥品。

 本当に求めたモノが存在せず、己の拘るものが無いからこそ、最も己を興じさせたモノに()った。

 いくつも重ねたものはある。足りなかったことも、満ち足りすぎたこともあった。

 しかし、だからといって――そこに、真に『幸福』と呼べるものがあったのか。

 そうして重ね続けた自問、

 若しくは重ね続けた研鑽。

 果てに何が待つかを知らぬまま、二人は進んで来た。

 行き着く先は対極ながら、酷く似通った路。

 未だ、真に答えを得られるままに進む両者。

 戦いは依然として決せず、寧ろ螺旋の様に加速して行く。

 そうしてこの嵐に揉まれながら、彼らは――いずれ果てるだろう己が答えに向かうこととなるであろう。

 

 それに拍車をかける様に、平穏の象徴は遂に泥に身をやつす。

 

 闇に沈む家。

 本来の器を壊し、姉を殺し、最愛と思ったそれすらも殺そうとして、少女は己の力を振るった。

 だが、その路を簡単には行かせまいと騎兵がそれを阻む。

 しかし、阻みはしたものの、その先に対抗する力など無い。何せアレは英雄を侵すモノであり、ヒトを地獄に還すモノだ。

 詰まる所、誰であろうと止められない。

 この場で最も強いのは誰なのか、考えるまでもなく明らかだ。

 ……けれど、それでも影を操る少女は恐れていた。

 自分よりも強い者などいない場所に立っても、相手が恐怖で固まっていても、それでも彼女は恐れていた。

 姉を、

 騎兵を、

 本来の器を、

 そして何よりも、最愛の少年を。

 

 ――きっと次戦えば、自分は負ける。

 

 そんな予感がどこかにあった。それは、自分を殺すことを躊躇わなかった姉の言葉に引きずられたのか。

 それとも、或いは――――

 

「そこまでよ。余計なことはしない方がいいわサクラ。

 ――――貴女、これ以上取り込むと戻れなくなるから」

 

 その、僅かな思考の隙間を。

「……それはどういう意味ですか、イリヤスフィール」

 少女が、こんな状態になっても悔いを残した、その矛盾を本来の『器』である少女は的確に突く。

「言葉通りの意味よ。ライダーを取り込んでも、士郎を殺しても、リンを再起不能にしても、今のサクラには意味がないってコト。時間の無駄だし、八つ当たりはそのくらいにしておいたら?」

 隙間(そこ)に触れられて、

「――――――――」

 この場で最も弱い少女の言葉に、この場で最も強い少女は耳を向け始めた。

「サクラはわたしが目的なんでしょ。なら早く済ませましょう。大人しく一緒に行ってあげるから、あんなの放っておきなさい」

「正気ですか? わたしが欲しいのは貴女の心臓だけ。わたしと一緒に来る、ということはわたしに殺されても構わない、ということです」

「そんなの判ってるわ。けどどっちにしたって殺されるんだし、抵抗しても無駄でしょ。とりあえず、今はサクラが一番強いんだし」

「じゃあ、自ら生贄になるというの、イリヤスフィール」

「ええ。それがわたしの役割だもの。

 けど正装はここにはないの。サクラが後継者(うつわ)として門を開きたいんなら、わたしの城まで取りに行かないと」

「――――――」

「それに、」

 重ねられる言葉に、影を呑み込んだ少女の根幹が僅かに揺れる。

 そもそも、彼女がこの泥を呑み込んだのは何故か。あと一歩で崖に落ちるという寸前の様な状態に置かれても、それでも尚、何を思ってこうしたのか――――

 

「サクラは決着をつけるコトにしたんでしょう?

 なら、シロウを殺す必要なんてないじゃない。

 誰も殺したくないから受け入れたのに、今はみんなを殺したくて仕方ないなんて――矛盾してるわよ? サクラ」

「――――っ」

 

 最後の核心を突かれて、少女はそれ以上進めなくなった。

 それが、彼女の弱さ。けれど本来恥ずべきものではない弱さである。

 ただ、あまりにも裡に秘めすぎて……その場から動くことの出来なくなる、その弱さ。ある側面では美点であるが、だからこそ、壊れて仕舞えばこれ以上なく弱い。

 ヒトとしての当たり前の願望であり、尚且つ最も醜いもの。

 ……そしてそれは、

 

「……いいでしょう。自分で探す手間が省けますから。

 どんな思惑か知らないけど、貴女の口車に乗ってあげます」

 

 誰よりも我慢強くあった少女が、最も恐れていたものだった。

 故に――彼女はまた、逃げに回った。

 だがこの逃げは、まだ彼女が壊れきっていないことを表している。しかし、彼女を守ると決めた少年は、この場で彼女らを救うことが出来ない。これまでと同じように、自分自身の無力さを思い知りながら、あの城の時と同じように、自らと共にあった剣に行く手を阻まれ、それに敗北した。

 けれど、未だその膝は完全に屈すること無く――決意の行く末はとうに決めていた。

 少女たちがこの場を去る時、消えゆく意識が最後に捉えいくつかの言葉。

 残されたそれらに、また何も守れなかったことを思い知る。

 

「……もう、わたしの前に来ないでください。

 先輩を前にしたら、わたし――――先輩を殺すしか、ない」

 

「――――じゃあね。今まで楽しかったよ、お兄ちゃん」

 

 追い掛けることも叶わず、無様に転がっているだけ……。

 守りたかった筈のものも、救いたかった筈のものも、もう何処にもない。

 そこにあったのは敗北に沈む己だけでしかなく、何よりも、自分だけではどうしようもないのだと、そう思い知らされるだけの現実があった。

 憧れた赤い少女は倒れ、

 尊かった剣は泥に沈み、

 守りたいと願った忘れ形見は去り、

 何より焦がれていた少女を失った。

 

 自分で決めた、守ること。

 ……誰かの、味方になると言うこと。

 その意味の重さを量り違え、決して振れてはいけない方向に天秤を傾かせた。もしもこれが、これまでの怠惰へのツケだというのならば、いったい此処か先へ進む上で何をすれば良いというのか――

 

 

 

 ――では、最後の選択をしよう。

 

 

 

 勝敗は既に決している。

 考えるまでもなく、己が剣を失った時点で戦うための前提を無くしている。

 けれど、建前がなくなっても、意味だけはあった。

 十年前の戦いが決した、あの夜――地獄を見た。

 一人だけ救いの席に座り、あまつさえ救われていたのである。

 空になった心を惹きつけた安堵の表情(かお)。流れた涙の意味は、事の真相を知った今となってもどうでも良い。

 経緯なんて要らない。ただ、あの時魅せられた幸福に、憧れていただけなのだから。

 そのことに自責を抱き、後から生じた遺恨にさいなまれることとなった。……だけど本当は、ただ変えたかったのだ。これから起こるだろう悲劇を、二度とあんな事は起こらないのだと、自分が救われたことと同じように――――誰かを、救いたかったのである。

 しかし、そんな願いもいつの間にか独り。

 夢を託し、自分の贖いきれなかった罪を呑み込んで、父はこの世を去った。

 誰かのため/自分のため。

 救いたいから、救う。

 何のために? ――――それは。

 そうして、自己の矛盾に苛まれながら、いずれ摩耗するだろう道を選ぶ。

 だが、自分のためにと言う偽りを。……中身のない理想を追う中でも、それでも手を伸ばしたいと思ったものがあった。

 たった一つ、自分の偽善(ユメ)を壊してでも――守りたいと思った人が、いたのである。

 手の平から零れ落ち、守り切れなかった。

 

 〝お前が今までの自分を否定するのなら。

 その(ツケ)は必ず、お前自身を裁くだろう――――〟

 

 左腕にあるモノこそ、()の象徴である。

 今はもう切り落としても死にはしないのに、それでもまだ縋っている。浅ましくも、まだ諦めないとあがき続けている。

 何もかもを救いたい、などと。

 思い上がりも甚だしい。そもそもそれを出来るだけの力など、無い。

 この片腕があっても、自分には使いこなせないのだから……。

 軋みは何時しか罅となり、いずれ溝に変わる。そして、その溝は消えぬ傷となり、摩耗する度に薄れる代わり、最後にはあった筈の全てが塵に還るだろう。

 そう。詰まるところ、この腕にとって、自分はまだ役不足の器だ。足りないと急き立て、もっと先へと風を送る。その風圧に耐えられるまでに身体を変えろと強要し、出来ないのだとすれば壊れてしまえ、と。

 ……力足らずだ。

 こんな体たらくでは、何も救えない。――いや、今となっては選ぶことさえ出来ない。

 元々、全部は選べないのだ。

 自分を兄と呼んでくれた、守りたかった冬の少女も言っていた通り、全部を叶えることは、きっと出来ないのだろう。

 一緒にいることは出来ない。

 わたしたちは二人とも、長生きすることが出来ないから。

 ……それでも。そう言って、尚且つ自分を捨てた父への恨みを糧に生きてきた彼女が、自分の居場所を奪った筈の自分の背を押してくれた。

 自分の味方だと、迷い無くそう言ってのけたのである。

 なのに、なのに――――

 

 

 〝――――じゃあね。今まで楽しかったよ、お兄ちゃん〟

 

 

 あの時、自分が言わせたのは、そんな言葉だった。

 ……ふざけている。

 ここへ来ても尚、まだ守られているだけなのか。

 自分よりも遙かに脆い命を、こんな紛い物のために使わせているだけなのか。

 違うだろう。

 〝家族〟は、ただ守られるだけのものじゃない。

 ただ失うことを諦めて良いようなものじゃない。

 それはこんなところで諦めるわけにはいかない。

 無様に寝ているだけの敗北者で終わるな。燻っているくらいなら燃え尽きろ。

 決めていただろう。イリヤを守り、桜を必ず救いたいと。

 なら――――!

 

 

 

「――――ったりまえだ……!

 勝敗が決したがどうした、そんなんで後に引けるか……っっっっ!!!!」

 こんなところで、倒れてなどいられない。

 すると、そんな決意に応じる声が一つ。

「いい気合いだ。その様子では入院の必要は無いな」

「え――――っ、なんで言峰……?」

「……それは私の台詞だ。

 凛とお前、二人して玄関に捨てられていてな。

 捨て子にしては可愛げが無いので見捨てたかったが、揃いも揃って衰弱し切っていた。放っておけば死体が二つ並ぶことになる。教会としては体裁が悪いのでな、仕方なく治療してやったのだ」

 捨てられていた、とはずいぶんな言いぐさだが、恐らくはライダーの手腕だろう。彼女には人間に対する治療を行える力は無いため、此処に庭で桜に力を取られた凛と自分を連れてくることを思い立ったのか。

 と、そう思案する間を与えずに言峰はいくつかの事項を告げる。

 凛はひとまず無事であると言うことを、桜が去ってからかなりの時間が経過していること。

 その事実に焦り、教会を後にしようとしたこちらに、言峰は何が起こったのかについて説明を求めた。

 あらかたを告げると、戦争の行方はほとんど決まったようだと納得した上で、あり得ないことを口にする。

 

「お前一人では荷が重かろう。イリヤスフィールを攫われたというのなら、私も静観してはおられん」

 

 が、勿論それは単純な善意とは言い難い。

 情に絆されたでもなく、正しい〝聖杯戦争〟を取り戻そうというのでもない。言峰はただ、前に言った通り――自らの目的のために動く。

 利害の一致、と言えば聞こえは良いが、結局ことが済めば背を預け合った敵同士。

 しかし、これ以上戦力を望めない以上、助力を断る訳にもいかない。切羽詰まった状況なのは変わらず、迷っている暇も無いのだから……。

 

 故に、その手を取ることを決めた士郎は、言峰と共にアインツベルンの城を目指す。

 

 

 

 ***

 

 

 

 目指した先の城は、(ほぼ)もぬけの殻。

 そこを今支配している術士のおごりがありありと読み取れるほどに、ザルと違わぬ無警戒ぶりだ。

 森に入った存在を知らせる結界も張られておらず、遊ばれているのかとさえ思える。

 端から見れば滅茶苦茶な言峰の潜入や、追走する士郎の雑な侵入にも何の反応もしない。そして、あろうことか――――

 

「…………シロウ?」

 

 捜しものは、至極あっさりと見つかった。

「――イリヤ」

 安堵と共に、取り戻しに来た少女の名を呼ぶ。

 けれど、イリヤは迎えに来た士郎のことを酷く冷静な目で見る。

 初めて会ったときと変わらない、冷たい貌。自分の領分を弁えようとしないことを糺すように、彼女はこういった。

「――――呆れた。なんで来たのシロウ。

 もう貴方の出番なんてないのに、まだ無駄な努力をするつもり?

 まだ判らないの? サクラのことはわたしに任せれば良いの。これはわたしの役割なんだから、シロウは大人しく家に帰って、」

 が、それを――

「馬鹿。後始末が役割なんて、言うな」

 士郎は許せず、イリヤの頬を叩いた。

 そうして、士郎が自分に手を上げたことに、イリヤは驚愕する。

「な――――シ、シロウの無礼者……! レディの頬を叩くなんて紳士じゃないわ! い、いくらシロウでも、わたしにこんなコトするなんて許さないんだからっ!」

 雪の公園の時とは違い、今の士郎は苦悩の苛まれているわけでも、激情に駆られているわけでもない。

 しかし、それでも士郎はイリヤに手を上げた。

 冷静ではいられなかった。自分を守ってくれている彼女の言い分を、どうしても許すことが出来なかったから……。

「許さないのはこっちだバカイリヤ……! 男だったら拳骨で殴ってるぞ、この不良娘……!」

 守るつもりで自分を差し出した。

 あの日、狂戦士を失った日に賜った運を戻しただけ。それだけの事の筈だと、イリヤは思っていたのだろう。だから、こうして士郎が怒っていることを納得できない。喧嘩をしたいわけではないが、イリヤだって言われっぱなしは嫌だ。

「な、なによ、わたし怒られるコトなんてしてないじゃない! わたしは自分の役割を果たすためにサクラについて行っただけよ。それが一番良い方法なんだから、シロウに文句を言う資格なんか――――」

「うるさい、そんなものしたことか……!

 いいか、イリヤの役割なんて俺は知らない。俺はただ、勝手に出て行った不良娘を連れ戻しに来ただけだ。

 イリヤがどんなに強がって、どんなに平易なフリをしても騙されないからな。イリヤが少しでも嫌がっている限り、絶対につれて還ってやる……!」

 そんな怒りも、士郎は切って捨てる。

 助けたいと思うことに、躊躇いなど無かったのだから。

「な――――つ、強がってるって何よ! わたしは嫌だなんて思ってないわ。この身体は聖杯として造られた。あいつらのために鍵になるのは癪だけど、それで聖杯の力を使えるようになれば、サクラだって……!」

「それが強がってるっていうんだバカ!

 ……いいか、聖杯なんてどうでも良い。イリヤはイリヤだ。イリヤがイリヤのままでいたいなら、そんなコトはほっぽっといて良いんだ。自分以外の何かのために、自分を犠牲になんてするな……!」

「―――――――」

 それは正しいようで、同時に矛盾を孕む言葉だった。

 だが、願った心に嘘はなく。零れていく自分の家族を守ろうとする思いが満ちていた。

 士郎の思いを読み取れてしまうからこそ、追求が出来ない。……向けられた思いが嬉しいから、拒みきることが出来ない。

「――――それは、シロウだって」

 小さく、よく聞き取れない声でイリヤは呟く。

 声を届かせる気が無い発声だったが、心の内側を少し均す程度の効果はあった。また、これ以上拒めば、もっと士郎を追い込んでしまうのだろうということも、判っている。

 故に、突き放すのではなく、彼の話を聞くことに思考を切り替える。

「……良いわ。仮にわたしが嫌がっているとしても、それがどうだって言うの。わたしたちじゃあサクラには勝てないし、逃げられない。

 わたしをこの城から連れ出すことは不可能よ。だから、臓硯もわたしを好きにさせている。

 シロウだけならまだ見逃してもらえるけど……わたしと一緒じゃ、絶対に森からは出られないわ」

 だから、帰りなさいと。

 深紅の瞳がそれを拒絶する。

 伸ばした手は、掴まないと告げている。――――しかし、そんなことは知らない。

 考えるまでもない。するべきことは決まっているし、端からおめおめと逃げる気など無いのだ。

 

 ――――〝イリヤを連れ戻す〟――――

 

 それ以外の選択肢など、必要ない。

「それでも連れて帰る。俺は一人で帰る気は無いからな」

「――――」

 士郎がそう宣言すると、イリヤはぼんやりと彼を見つめる。

 怒るでもなく、それこそ最初に言った通り、呆れているようにして。

 半ば脱力に近い状態のイリヤの手を掴み、小さく、軽すぎるような身体を引き寄せて歩き出した。

「……呆れた。シロウには何を言っても無駄ね」

 困ったように笑うイリヤだったが、抵抗することなくトコトコと士郎の後に続いて歩いていく。

 こんな小さな呟きと共に、

「ホントに。こんなの、上手くいくはずないのに」

 そっと、幸福そうに士郎の手を握り返しながら。

 後悔はなく、憂う気持ちも今は温かい。

 ようやく取り戻し、もう一度そこへと向かうことを承諾した二人は、続き窓から飛び込んできた言峰と共に城の外へと逃げ出した。

 けれど、安堵を覚えたのもつかの間。

 森を駆け抜ける二人の後を追う者たちがやって来る。

 そのことに気づいた言峰は、ひとまず先立って邪魔立てをする暗殺者の方を引き受けると言って、先ほどまで抱えていたイリヤを士郎の方へ寄こす。サーヴァントを相手に取ると言ったことも驚きだが、寧ろ士郎が驚いたのはその後に言峰の残した、妙に人間臭い言葉の方だろう。

 これまでまともに感情を覗かせることも、何かに対して感慨を覗かせることすら珍しかった神父は、まるで自嘲するようにこういった。

「――――衛宮。助けた者が女ならば殺すな。

 目の前で死なれるのは、なかなかに応えるぞ」

 投げられた忠告に一瞬呆けたが、後はお前次第だと、この先の生存も共に預けられているのを理解した士郎は、地面を蹴って疾走を再開した。

 遠ざかる二つの影。

 最後に見届けた背が遠くなるごとに、何か不吉な予感が脳裏を掠める。

 二度と、来たまま会うことはないのだろう、と。

 ――――そんな、予感が。

 

 

 

 ***

 

 

 

 森の奥へと消え去る少年少女を見送った言峰は、対峙した暗殺者との死線を渡る。

 僅かに拮抗したかに見えた虚像も直ぐに取り払われ、言峰の方が若干分を悪くし始めたとき。

 合わせるようにして、城へ巣喰った妖怪が姿を見せる。

 慢心を重ね、嘲るように笑う相手に、言峰は死に際を悟り始めてもさしたる感慨を抱くことはなかった。

 虫は所詮虫。

 そもそも人は、勝てぬと知った戦に身を投じるほど愚かではない。

 傲り高ぶった蟲の主は、そのことに未だ気づけない。

 何もかもを見抜いたように振る舞いながらも、異常者、欠陥品と断じてきた男の本質を覗き切れてはいなかったのである。

 山の翁こと――『呪腕のハサン』。

 その宝具である『妄想心音(ザバーニーヤ)』は、呪いの右腕で敵に振れることによって対象の心臓を胸像として奪い取り、それを潰すことで相手を殺すもの。

 だが、この宝具には弱点が存在する。

 まず発動のためには相手に触れなくてはならず、また触れた後でも幸運やスキルなどによって効果を阻害されることもある。

 それらに加え、前提として〝心臓〟を持たない者には効果を発揮できない。

 しかし生物である以上、原則として後者はまずあり得ないだろう。まして、戦闘能力こそ高くとも、何の特殊性もない血榎本に生まれた人間には。

 が、その前提を破る者がいた。

「ば、馬鹿な、何故死なぬ綺礼――!?」

 十年前。

 聖剣によって砕かれた杯より零れた、〝この世全ての悪〟を飲み下した男がいた。

 その男は第四次におけるアーチャークラス、英雄王・ギルガメッシュ。常世全てを統べる王として、その程度を飲み下せずして何が王か、と宣った奴は、全人類の悪性全てを受け止めて呪いを弾き飛ばし、英霊であるにもかかわらず受肉にまで己を至らしめる。

 そして、その時の契約者にもその恩恵が与えられた。

 既に尽きていた命を、聖杯の泥が生かすことになったのである。

 

 ――――この事実が、勝負の行方を分けた。

 

 動揺から生まれた隙を突き、言峰はアサシンを手持ちの黒鍵を擲ち磔にする。

 するとそのままその主の様へと超人じみた脚力で跳躍し、敵の頭を『掌握』すると、この街に蔓延り続けた『魔』を祓うべく詠唱(せんれい)の句を開始した。

 〝マトウゾウケン〟は、肉体こそ朽ちかけているが魔術師としての実力は折紙付き。五〇〇年の猛襲は伊達ではない。

 だが、この一時においてのみ――老魔術師は己を守る全てを剥がされ、完全な丸裸にされていた。

 今の臓硯には実体はない。故に言峰の選ぶ対処法は、魂の浄化であった。

 この世で『魔』を祓うことに長けた『退魔』の血筋を除けば、それらを最も祓っているのは恐らく『代行者』だろう。

 そして、言峰綺礼は嘗て――その『代行者』として研鑽を積んだ第一級の狩人である。

 

「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」

 

 読み上げられていく言葉に合わせるように、醜く足掻く老骨。

 嘲笑い、その笑い声と共に神父を貶める。

 そこに在る恐怖を滲ませながら、与えられた終わりが身を溶かし行く。

 

「打ち砕かれよ。

  敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。

  休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」

 

 まだ、そんなものを求めているのかと。

 絶対に無いものを求めているのか、と。

 判っているつもりのまま、的外れの言葉を投げる。

 

「装うなかれ。

  許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」

 

 今はもう、何の意味もなさない。

 十年前に嫌悪した言葉は、理解を与えられそうになった言葉は、もう既に何も意味をなさない。

 そもそも、己の意味は知っている。ただそれでも尚、見たいものがある。

 対外的には悪。だがそんなものを今更気にする必要はない。

 悦楽把握ではない。自分が美しいと感じる者がソレであったというだけのこと。

 そのことを、もっと前から――――彼の中に答えは在ったのだから。

 

「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ(いん)を記そう。

  永遠の命は、死の中でこそ与えられる。

  ――――許しはここに。受肉した私が誓う」

 

 遠い日の記憶。

 無意味に返したくないと思った、ある女の記憶である。

 〝人並みの幸福〟は、確かに誰にも与えられることはなかった。

 しかし、己のことを識っている者はいた。

 苦しみには蓋を。死には生を。

 何もかもが空だったこの身には、生きる意味を。

 決して、正解を与えることは出来なかった時間ではあった。

 ただ、それでも――――

 

「――――〝この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)〟」

 

 あの時間は、無駄であって無駄でない。

 もしも、どんなものとも共有できない認識があるとして。

 蝶よりも蛾。幸福よりも悲嘆。あるいは、希望よりも絶望を愛でる。傷つき死にゆく者ならば、もっとその様を見続けていたい。

 異常で、異端な認識。けれどそれは、何かを傷つけて見つかるものではなく。

 

 〝だってあなた、泣いているもの〟

 

 誰しもが目を背けたいモノを愛することだったのだと、あの女はそう残して散って逝った。

 零れた滴を穢れだらけの純白に乗せながら、名に相応しく、梅雨時の花のように。

 

 詮無き思考であった。

 今ではもう思い出せぬものでしかない。

 珍しく感傷のようなものを脳裏に浮かべ、それらが晴れた先にいたアサシンへ意識を戻す。

 祓った魂はもう塵となり、散った。そんな魂を見送りながら、この場に留まることを選ばなかったアサシンの去り際から意識を外す。

 

 ――だが、戦いはそこで終わらず。

 泥に侵された、浮かべた女と似た、同じように穢れた花の名を冠する少女が現れた。

 壊れていく様を、自分を装うベールを言葉で剥がし取っていく。誕生の為に、もう少し持ってもらわねばならなかったというのに、とんだ期待外れだと。

 この糾弾が逆鱗に触れ、ヒトならざる心臓を与えた源と繋がった彼女に苦戦と呼べるだけの拮抗も許されずにいたぶられることとなった――――が、しかし。

 

 その時だった。

 森の中で、先ほどまであった巨大な〝力〟が霧散していく気配を感じたのは。

 

 

 

 *** ―――投影、開始―――

 

 

 

「はぁ――――ぁ、はあ――――」

 森を駆け抜けて行く、白銀と赤銅の影。

 走れ。走れ。走れ。

 圧し掛かった不安を振り払うように。

 迫り来る恐怖から目を背けるように。

 つまらぬ弱音が真っ白になるまで走れ――――!

 

「▆▆▅▅▅▅▄▅▄▄▄▂▆▆▅▅▅█▇█▅▅▅▅▄▄▄▂ッ!!」

 

 その時、横から、何か、耳障りな、叫びが聞こえ、た。

 

「だめ、止まってシロウ…………!!!!」

「っ――――――――!?」

 胸元からの叫びに、心より早く身体が反応した。

 全身全霊を込めたイリヤの忠告に、どうにかギリギリで士郎の反応が間に合った。

「――同調(トレース)、」

 頭に浮かべられたものはない。

 だが、止まったらそこで終わりだ。

開始(オン)――――!」

 留まる所など知らず、超速で回路へ魔力を奔らせる。

 手に持った黒鍵に力を流し込み、渾身の抵抗を試みた。

 旋風が放たれたのは真横から。

 深い森の木々を蹴散らし、追跡者はこちらを殴りつけてきた。

 その衝撃に身体が吹き飛び、一撃は一瞬で粉砕される。ありったけの魔力を込め、ダイヤ並みに強化された黒鍵は焼けた雨のようにひしゃげてしまう。

 余りにも絶望的な力の差。

 目の前に現れた凄惨な現実に、思わず死を受け入れそうになった。

 が、吹き飛び流れていく光景の中に――白く、小さな少女の姿を目が捉えた。

 咄嗟に腕を伸ばし、自ら木にぶつかって勢いを殺す。

 つま先から脳天まで響く衝撃に、破裂しそうになる身体を圧し留めながらも、可能なだけの呼吸を取り込む。

 足りない筈の酸素を取り込むたび、限界を迎えた風船の気分を味わう。

 一呼吸するだけで満帆状態。失っただけを取り戻すにはほど遠い。だが、それだけあれば今は良い。

 地面を蹴り、黒く染まった敵を前に、魅入られるように動かないイリヤの元へ跳ぶ。

 愕然と、目の前の現実を否定するような弱々しい声が響く。

「ねぇ、どうしたのバーサーカー? わたしだよ、わからないの?」

 分かっていない。

 もう、嘗ての気高さを失った狂戦士の眼には、何も写ってはいない。

 泥に呑まれた最後の戦い。あの時受けた傷さえもそのままに、彼のギリシャ最強の英雄は凡その感覚器官を失った状態で、ただ自分の前に在る生き物を殺す為だけの怪物と化していた――――

「――――やだ。

 わたしこんなのやだよぅ、バーサーカー……!!」

 懇願するような叫び。

 かつてなら、絶対に聞き逃すことの無かった守るべき存在の嘆願さえ……目や鼻、耳さえ失った今のバーサーカーには届かない。

 そして、その手に握られた斧剣を振り下ろす。

 

「イリヤァァァアーーーーーー!!」

 

 跳び出した先へは距離にして十メートルほど。

 これならば十分詰められる間合いの範疇だ。一呼吸分の燃料を、刹那の跳躍の為に爆発させる。

 前進を駆け巡るジェット気流のように、発火した思考を電荷の如き速度で巡らせろ――!

 時が止まっているように感じた。

 まるで目指す地点へは、必ず届くという確信を得られるように。

 本来の技量を越えた動きだったが、それでイリヤの元へ届くのなら迷いはない。

 が、間に合ったところでどうなる?

 先程の一撃を受けたとき、此方は拮抗するどころか、打ち合いにすらならなかった。

 黒鍵で歯が立たず、それすらも手元にはない。

『俺』で歯が立たない。

 故に――捜索し、検索し、創造(想像)する。

 勝てるモノを。

 この場で、敵に太刀打ちできるだけのモノを。

 それは、――――解析()に写る大剣以外に他ならない!

 

「―――、……あ」

 

 結果として、防ぐことは出来た。

 投影は成功し、散った命はない。

 だが、剣と剣がぶつかり合い、此方に亀裂が入るのと同時。自分の身体にもまた、亀裂が走ったような感覚に苛まれる。

 そのまま弾かれ、第二撃を防いだ身体はゴミのように地面を転がり滑っていく。

 けれどそんなことは良い。

 今何よりも酷いのは、度量に合わない技を使ったことによる反動。

 守ってくれる〝加護()〟は既に意味をなくしている。

 否、どうにか自分を繋ぎとめてくれるだけでも、十全に意味は在ったのだろう。しかし、散らばり始めた自分の欠片を集めようとしても、自分が失われていくのに抗えない。

 結合された先を行くモノに、侵されていく。

 足りないと暴れ狂う左腕。もっと先へ行け、先へ行けと――足りないことを容赦なく指摘する。

 受け入れるだけの器が足りないのに、酷似しているこの身の真髄へ手を伸ばせと。が、ソレは自分であって自分ではないモノ。

 だから軋む。

 だから崩れる。

 壊れていく、その差異の為に。

 ……気が付けば、強い風の中にいた。

 自分を削ぎ落として先へ進めと、光が先を照らして見せつける。

 けれど今は見せるな。

 その光は強すぎる。

 見失う。探しても探しても、見つからなくなる。

 失われていく我は、まるで砂漠に堕ちた砂粒のように、似た代物の中で見つからなくなって乾いて乾いて乾いて乾いて――――

 

「シロウ! しっかりして、ちゃんと自分を見つけなさい……!」

 

 イリヤが、いる。

 俺は倒れている。

 黒い巨人からは十メートルほど離れているだろうか。

 弾き飛ばしたものを探して、潰れた赤い両眼をギラギラと光らせている。

「――――!」

 そして、意識が戻った。

 倒れている場合じゃない。

 身体は――動く。目立った外傷はなく、、出血なんて掠り傷から滲む血だけ。

 ……他の中身がどうなっているのかなんて解りたくもないが、それでも身体は動く。

 ただ、苦しい。

 呼吸が上手くいかない。

 酸素が欲しい。今は此処から離れ、呼吸を整えたい。

 一分でも良いから、とにかく敵の間合いを離れなくては、イリヤを守り切れない。

「イリヤ、一旦離れるぞ……!」

 そういって、イリヤの手を取って走りだそうとする。

 が、それをイリヤは拒むように後ろへ下がった。

「……なんで? シロウ、自分がどうなってるか判ってるの?」

 酸欠でまともに働かない頭では、イリヤが何でそんなことを言うのか考えられない。

 ただ、自分がどうかしていたことだけは理解した。

 背後には、此方へ狙いを定めようとするバーサーカーがいる。

 このままでは拙い。

「イリヤ……?」

「…………ごめんなさい。けど、もういいの。もういいから、シロウ一人で逃げて」

「――――――」

 俯いてイリヤは言う。

 回らない頭に血が上る。

 回り切らないから、完全に頭にきた。

「ああもう、こんな時に駄々こねるなっ! 行くぞイリヤ、今はそんな場合じゃないだろう!」

「きゃっ……!?」

 イリヤの腕を引っ張り、無理矢理にでも連れて逃げる。

 ……抱え上げた身体はとても軽く、酷く小さく感じられた。

 そんな小さな身体で、イリヤは俺を助けようとする。その心が、また酷く、尊いものだと感じられた。

「ちょっ、何するのよシロウ!! もういいって言ってるじゃない……! 今ならまだ間に合うから、シロウ一人で逃げて!」

 それだけ言われ手もまだ手を引こうとする俺を、そうしてポカポカと頭を叩いてくるイリヤ。

 それを無視して、

「黙ってろ……! んなコト出来たらな、そもそもこんなところに来てないんだよ……!!」

「な――――」

 強く、ぎゅっと音がするくらいイリヤを抱きしめた。

 決して離すかものか。守り通すため、そのためにここへ来たのだ。

 その決意に、イリヤはどうして、と目で問い掛けてくる。

 ふざけている。

 どうしたもこうしたもあるか。

 ……そうだ。大した理由なんてない。

 ただ、俺自身がそう決めているだけのことなのだから。

「理由なんてあるかっ! 俺は勝手にイリヤを守るだけだ! いいか、兄貴はな、妹を守るもんなんだよ!!」

「はあ!? ばっかじゃないの、わたしはシロウの妹なんかじゃないもん!!」

 怒っている。だがそんなのはどうでもよかった。

 最初に言った通り、これは自分勝手な決意だ。守りたいイリヤが邪魔しようが何をしようが、変えるつもりなんてない。

「良いんだよ! 一度でも〝お兄ちゃん〟なんて呼ばれたら兄貴は兄貴だ! たとえ血が繋がってなくても、イリヤは俺の(かぞく)だろう……!!」

「――――――シロウ」

 考えるのは後だ。

 此方を向き直った黒い巨人から距離を取らなくては――――

「走れ、行くぞ……!」

 今度こそ、手を引いて二人で走り出す。

 バーサーカーとの距離は、何かの間違いで僅かばかり引き離しはしたものの、スピードは比べるだけ愚かだ。

 いずれ逃げるだけでは追い付かれてしまう。そうでなくとも、脚は既に限界へと向かっている上に、まるで心臓がストライキでも始めた様に身体中の循環が滞っているように感じられる。

 これではまるで死人。

 その上、イリヤには走り続けられるだけの体力は付加されていなかった。

「あ、だいじょう、ぶ、走れる、から……!」

 まだ走れる、と。

 こちらに負担を懸けまいとし、毅然とした声でそう言ってくれるが、実際の限界はおそらくイリヤの方が早いのは明白だ。

 かといって、あの巨人から隠れられるだけの遮蔽物が無い森の中では、身を顰めるということも出来ない。

 そう思っていた矢先、微かな幸運に見舞われた。

 先日、この森でセイバーとバーサーカーが対決した広場。

 そこに差し掛かった時、彼女の宝具が大地を裂いた際の亀裂が残っているのを見つけた。

 さながら塹壕じみた亀裂は、イリヤと俺を軽々収納した。安堵した身体に、微かに呼吸が戻る。

 しかし、それも一瞬だった。

 迫り来る巨人の咆哮。

 五感を奪われ、狂わされている狂戦士はどこへ逃げようと此方を追い、捕らえ、確実に惨殺するだろう。

 真に見失うことはない。

 けれど、此方にはもう、逃げられるだけの力は残っていない。

「……ぁ……、っ……」

 苦しさを押し殺した声は、傍らで縮こまっているイリヤのものだった。

 自分の身体を懸命に抱いて負担を見せないようにしている。

 これ以上イリヤを走らせることは出来ない。

 これ以上は逃げられない。……それ以上に、これ以上は我慢できない。

 左腕を覆う、赤い布。

 目線を落としたそこでは、聖骸布とやらで封じられた唯一の打開策が、今か今かと解放の時を待つ。

 エセ神父曰く、時限爆弾のようなモノ。

 そしてこれを開けるということは、既に撃鉄は上がっているのに、口の中に銃口を突っ込んで引き金を引くような行為だといえるだろう。

 解けば、死ぬ。

 先程投影を使った反動ですら、ほとんど死に近い状態に陥ったのだ。

 これを完全に解いたが最後、今度こそ、確実に戻って来られなくなる。

 しかし、解っていたはずだ。

 こうしてイリヤを連れ戻すのも、あの影を倒して桜を救うということも、結局はこの力がなければ成立し得ないのだと。

 ……覚悟を決めろ。

 答えは初めから出ていた。

 願い、思い描いたのは、自分の手では決して届かぬ奇蹟。

 こんな状況ですら、都合の良い結末を、全身全霊を賭けて望んでいる。

 自分では叶えられないのだと理解して尚、諦める事さえ考えられない。

「――――――」

 なら、行かないと。

 桜を救って、イリヤも助ける。

 そんなことは出来ない。

 死に行く者、破滅を迎えるしかない桜。

 それを救うということは奇蹟だと、誰かが言った。

 ――――そうだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 自分を全て守って、誰かを守ることは出来ない。 破滅に進む桜を救うためには、誰かがその席を替わらなくてはならないのだとしたら。

 ……遠かったように思えた咆哮も、もうほど近い。

 迫る暴風の具現。

 もう、猶予は残されていない。

「――――外へ出る。あいつを倒していいな、イリヤ」

「え……?」

 一瞬呆然として、赤布(せいがいふ)に添えられた右手を見るなり、イリヤは焦ったように立とうとした此方を止める。

「だめ……!! それだけはだめ、アーチャーの腕を使ったら戻れなくなる……! 死ぬのよ、いいえ、死ぬ前に殺されるわ。シロウが、何も悪いコトをしてないシロウがそこまでする必要ない……!!」

 留めてくれる気持ちは嬉しい。

 ……だが、このままでは何も守れない。

 それだけは絶対に、あってはならない。

「それはなんとか我慢する。死にそうになってもなんとか我慢するから、イリヤは心配しなくていい。

 ああ、それと一つ訂正。俺だって、悪いコトくらいしてきたぞ」

「え――――シロウ……?」

「じゃ、行ってくる。イリヤはここで待っててくれ」

 残った自分の手を、イリヤの頭をポンと置く。

 そして、身を隠していた亀裂の中から足を進める。

 なるたけイリヤの居る場所から離れた場所へ。

 万が一にも、迎撃する際に彼女を巻き込まないように。

 迎撃までの間はほとんどない。

「――――――来たな」

 左肩の結び目に手を掛ける。

 聖骸布は手首の部分が特に強く結ばれているため、引き剥がすなら両肩からでなくてはならない。

 ここまで理解できれば、後はただ力任せに引き剥がすだけ。

 それだけで、あの投影の何十倍という痛みが押し寄せるだろう。

 時限爆弾。外すことで火が付き、本当の限界に届くのは何時になるのか。それまでの猶予の長さなど分からないが、確実なのは、一度ついた火は決して消せないということだけ。

 覚悟しただけで恐怖心までは消えない。

 口の中が乾き、舌の根まで枯れた。

 不安で不安で叫び出したくなる。

 正気でなどいられるか、と。

 俺は、俺自身怖くて怖くてたまらない。

 

 死ぬことそのものは怖くない。

 だって、このままでいても死ぬだけなのだ。ならば、少しでも長く続く方を取るのは当然。

 そのために必要な代償は払おう。

 ……だから、何よりも恐ろしいのは、それを払いきる前に自分の心が狂ってしまわないかということだけ。

 

「は――――――あ」

 

 あの痛みに耐えらるのか。

 戦うよりも前に自分も判らなくなって、イリヤも桜も判らなくなってしまうのか。

 守ると誓った言葉さえ思い出せなくなってしまうのか……。

 それが怖かった。

 何よりも、それが怖かった。

 だから封じた。

 この腕を使わないと決め、死ぬような目にあっても使えないと判っていた。

 ……バーサーカーの姿は他人事ではない。

 耐えきれず狂い、正気を失えばああいったモノになる。その恐れは、左腕がある限り消え去ることはない。

 この置き土産は自分を殺していく悪夢そのものだ。

 だが、それを分かっていても尚、ここまで残したのは何の為だったのか。

 ――――切り落としてしまえばいい。

 助かったのならば腕一つ、失くそうと思ってなくせば死ぬこともない。

 だというのに残し続けたのは、

 この腕は、使われるために残された。そのために在り続け、必要だからこそ奴は俺に託されたものなのだから。

 

 ―――俺は俺自身に裁かれる、と奴は言った。

  そしてイリヤは、何も悪いことはしていないと言ってくれた。

 

 なら、それで十分だ。

 贖いは此処に。

 己を裏切り、多くの命を犠牲にした。

 譲れないものは変わらず、そのために在り続ける。

 赤い罰に力を込める。

 生きるか、死ぬか。

 立ち向かうために深呼吸して、左腕に巻かれた布を引き裂くように右腕を――――

 

 

 

 瞬間。

 世界が崩壊した。

 

 

 

 *** 幕間 鋼の風を越えて

 

 

 

 風となった絶望が吹きすさぶ。

 秒速百メートルを優に超える超風。

 人が立つことはおろか、生命の存在そのものを許さぬ強風が叩きつけられる。

 否、既に風などではない。

 吹き付けるそソレらは鋼そのもので、風圧だけで肉体を圧し潰してくる。

 

 眼球は潰れ、背中は壁にめり込んだ。

 手を上げるどころか指さえ動かない。

 逆流する血液。

 漂白されていく精神。

 消されていくことに痛みなどない。

 痛みを感じ、堪えようなど、ここではあまりにも人間らしすぎる。

 

 とける。

 抵抗する苦労を上げることも出来ない。

 何もない。

 抗う術も、先へ進むための力すらも。

 

 白く。

 肉も心も本能も、何もかもが等しく壊れて行く。

 

 

    

前へ。

 

 何のためにここにいる。

    

それでも前へ。

 

 何のためにこうなった。

    

あの向こう側へ。

 

 何のために戦うのか。

    

この風を越えて、前へ。

 

 

 身体は壊れ、負けまいとしていた心さえ削り取られていく。

 粉砕されながらも。

 腕を、

 手を、

 指を。

 何かを、自分の足場にしようと模索する。

 だがどこにも、そのための足掛かりを掴めない。

 崩壊の渦に呑まれていく。

 残されたモノが薄れていく。

 その、中で――――在り得ない、幻を見た。

 

 ――――潰れたはずの視界の先に、一人の男が立っている。

 

 立って、向こう側へ行こうとしている。

 鋼の風に圧されることなく、あの赤い外套をはためかせ、前へ。

 

 

 

あ、ああ」

 

 顎に力が入った。

 ギリギリと歯を鳴らす。

 右手は、とっくに握り拳になっていた。

 

 が、赤い騎士の眼中には此方のことなど写っていない。

 僅かに振り返っている貌は厳しく、風に呑まれていくだけの未熟者に関心など抱いていない。

 先を知る奴にとって、この結果は判り切ったことだった。

『衛宮士郎』はこの風に逆らえない。

 自分を裏切り、手に余る望みを抱いた男に未来などないのだと。

 判り切っていたからこそ、奴の言った言葉は正しい。

 溜め続けた(ツケ)は自身を裁く。

 だというのに、奴の背中は――――

 

 

 

 〝――――ついてこれるか〟

 

 

 

 蔑むように、

 或いは、信じるかのように。

 

 ――――俺の到達を、待っていた。

 

 

「    ―――――ついて来れるか、じゃねぇ」

 

 

 視界が燃える。

 何も感じなかった身体に、ありったけの熱を注ぎ込む。

 手足は、大剣を振るうあのように風を切り、

 

 

 

「てめぇの方こそ、ついてきやがれ――――!」

 

 

 

 渾身の力を込めて、赤い背中を踏破した。

 

 

 

 *** 解放せよ、最強の一撃を

 

 

 

 地上に踏み上がる。

 視界を覆っていた風は途絶えた。

 向かってくる黒い巨人との距離は凡そ三〇メートル。

 敵がこの間を詰めるまで、おそらく三秒とかかるまい。

 ――――故に。

 勝敗は、この三秒で決せられる。

 

 思考は冴えている。

 

 指針の戦力は把握している。

 想像理念、基本骨子、更生材質、製作技術、憑依経験、蓄積年月の再現による物質投影。

 魔術理論・世界卵による心象世界の具現、魂に刻まれた『世界図』をめくり返す固有結界。

 アーチャーが蓄えてきた戦闘技術、経験、肉体強度の継承。訂正、肉体強度の読み込みは失敗。斬られれば殺されるのは以前のまま。

 固有結界〝無限の剣製〟使用不可。

 アーチャーの世界と、自身の世界とは異なっている。再現は出来ない。

 複製できるものは、『衛宮士郎』が直接学んだ者か、アーチャーの記録した宝具の身。

 左腕から宝具を引き出す場合、使用目的に最も適した宝具を〝無限の剣製〟から検索し、複製する。

 しかして注意せよ。

 投影は諸刃の剣。

 一度でも行使すればそれは自らの……。

 

「――――――」

 

 呼吸を止め、全魔力を左腕へ。

 把握するのは使える武装だけで良い。

 注意事項など先刻承知。

 それでも、もっと前へ。

 あの風を越えて、俺は、俺自身を凌駕する――――

 

 

「――――投影(トレース)開始(オン)

 

 

 敵の大剣を凝視する。

 その全てを、寸分違わずに見透かして。

 左手を掲げ、開いた掌に、未だ夢想の柄を握り締める。

 人に扱えるほど軽い剣ではない。

 だが、この左腕は――敵の怪力ごと、その剣技を確実に複製しよう。

 

 手に現れたのは、岩肌をそのまま削り出したかのような荒々しい大剣。

 如何にも〝力〟を象徴するにふさわしいその出で立ち。

 そこに込められた全てを、左腕に乗せ……。

「――――、ぁ」

 脳が罅割れた。硝子細工に走る亀裂のように、戦う力を削いでいく。

 だが、心配など無用。

「――――行くぞ」

 壊れた部分は腕が補強する。

 向けるべきは、敵をこの一撃で以て踏破することのみ。

 魔力の起こりを感じ取り、はっきりとバーサーカーは此方へ進路を取った。

 その姿は、まるで黒い凶つ星のよう。

 断末魔を上げ、敵を討たんと狂戦士は地を駆ける。

 そこで、ふと気づく。

 あの巨人は、何もかもが変わってしまったのだと思っていたが、それは違う。

 憤怒のまま、バーサーカーは何も変わってはいなかったのだ。

 アレは未だ、セイバーとの戦いの中にいる。視界も正気も失い、二度目の死に全身を腐敗させながらも尚、()()()()()()()()()戦っている。

 ……なればこそ。

 

 

 

 ――――、一秒。

 

 

 

 迫る巨人を打倒するには一撃では足りない。

 通常の投影、単なるトレースでは通じない。

 限界を越えた〝投影〟出なければあの狂人を倒すことは出来ないだろう。

 故に――――

 

「――――投影、装填(トリガー・オフ)

 

 脳裏に浮かべるのは、九つの斬撃(だんがん)

 未だに眠ったまま、全身を張り巡った二十七の魔術回路全てを動員し、装填したその一撃の下に叩き伏せる。

 

 

 ――――、二秒。

 

 

 目前に迫る大剣。

 振り上げられたそれに呼応するように、激流と渦巻く気流を感じ取る。

 踏み込まれた一足を一足で迎え撃ち、

 振りぬかれた一撃を同じく振るう一撃で薙ぎ払う。

 そして、敵の急所。

 その八点全てに狙いを定め、

 

全行程投影完了(セット)―――是、射殺す百頭(ナインライブズブレイドワークス)

 

 振り下ろされた音速を、神速で以て凌駕する――――!

 

 激突する剣戟。

 火花が奔り、僅かに勝った九つの剣閃が、黒き巨人を斬り裂く。

 が、倒れない。バーサーカーは自身の大剣で打ち抜かれて尚も健在である。

 しかし、身体の八割を失った敵へトドメを刺すならば、此方の方が早い。

 前へ踏み込む。

 そのまま左手の大剣を胸元まで持ち上げ、槍のように叩き込もうとした。

「▆▇████████▂▂▂▂▇████████████████▇▆……!!」

 だが、負けた。

 後先も何もなく、与えられた反則級の特権を全てを全開で投入した。

 ……にも関わらず、尚負けた。

 旋風を伴った一撃が迫る。

 それに気づいたのは早かった。

 だから、躱せる。

 全てを回避に費やせば、振るわれた一撃はこめかみを擦る程度で終わる。

 それでも即死。まるきり豆腐でも切るように、掠めた大剣の威力はこちらの頭を難なく吹き飛ばすだろう。

 驚異的なスピードで繰り出された一閃。

 最早、これに抗う術などない。

 際限なく加速する思考の中で、どうにか生存を掴もうとしても、先を見ることが出来なかった。

 ――が、その一撃は何時まで経ってもやってこない。

 至高の加速が過ぎて、時が止まったように見えたというだけではない。

 驚異的な速度で繰り出された一撃は、同様に驚異的な速度で止められていたのである。

 その隙を、躊躇わず貫いた。

 情を零さず、巨人の心臓を大剣で撃ち抜いた。

 ……例え、その視線の先に、この巨人が守っていた少女の姿が在ったのだとしても。

 最後に残した命が消え、狂戦士は光の塵へと還って行く。

 反撃はなかった。……ただ、その刹那。

 消え逝く赤い瞳が、少女を見つめたまま――お前が守れと告げていた。

 

 

――――故に、戦いはほんの一瞬。

     本当に一息の内に決着はつけられた。

 

「シロ――――」

 

 決意を固め、

 少女の元を少年が離れ、

 そして、少女が彼の後を追うその刹那。

 ほんの一息つく間に、戦いは終わっていた。

 既に終わった戦いの場を見渡した少女の視線の先には、自らを妹だと呼んだ少年。

 流れる風だけが場を奏で、少年の背を越えて少女の下に戦いの終わりを告げている。

 

「――――――」

 

 決着した。

 本当に、あの死を覚悟した状況は終わっている。

 英霊の腕の力ではない。

 少年は、自らの力で死と対峙し、打ち勝った。

 イリヤは、そんな士郎の背を見守り続ける。

 振り返ることの無い――いや、もう二度と振り返らない、その背中を。

 聖骸布を開放した出で立ちは、非常に雄々しかった。もう、迷いは見られない。

 投影を行使した時点で、彼はその裡にあるあらゆる煩悩(かけら)を落としたのだろう。

 

「――――――シロウ」

 

 哀しげな瞳で、イリヤはただその背を見つめ続ける。

 別人のような姿、別なものになってしまった身体を。

 ……自分を守るために、二人の(あに)がその想いを賭け――――引き返す道をなくしてしまった、愚かで尊い、ある一つの結末を。

 

 

 ***

 

 

 視界がざらつく。

 一刻も早く腕を封じ込めないと、時間切れ(タイムリミット)が来てしまう。

 が、まだスイッチを切ることはできない。

 均衡を保っている意識が切れてしまう。

 何より、

「――――セイバー」

 目の前にいる彼女を、退かせることさえ出来なくなる。

「……………………」

 最初からバーサーカー追随していたのか、セイバーは巨人の仕事を引き継ぐように、ゆっくりと此方へ近づいて来る。

 そうして、あと一息で詰められようという間合いまで近づいたところで止まり、くすんだ金に染まった双眸で此方を見据えてた。

 真っ向から対峙し、改めて彼女を倒すことは出来ないのだと思い知らされる。

 狂戦士を打ち倒せたことさえ、既に奇跡。ギリギリの生存にしがみついている今の状態では、どうあがいても勝ち目はない。

 ……そもそも、仮に五体満足であったのだとして、それでも戦えば倒されるのは此方だ。

 あの聖剣――セイバーの宝具を上回るものなど、投影することが出来ない。

 勝負は蓋を開ける前から決まっている。

 借り物では越えられない壁が、今まさに目の前に立ちふさがっている。

 倒す可能性があるのだとしたら、それはあの宝具に拮抗するモノをその持ち主に使ってもらうしかない。

 その時点で矛盾。

 こと攻撃力に置いて、あの聖剣に匹敵する宝具をこの身は内に蔵してはいない。

 〝間桐桜(せいはい)〟という無限の魔力を手にした今の彼女は無敵だ。マスターとなったその桜でさえ、彼女を殺しきることは難しいだろう。

 ならば、越える為にはあの聖剣を造るくらいしか――――

 

「――――無駄なことを。貴方では桜を救えないと忠告した結果がそれか」

 

 感情の無い声。

 それは開戦の合図。

 容赦も隙も無いまま、次の瞬間、彼女が此方を切り伏せに来る。

 だが、それがどうした。

 此処で殺されるわけにはいかないのだ。

 相手がセイバーだからと言って、負けられない。

 倒せなくとも、イリヤを連れて逃げ果たすくらいはして見せる。

 そう闘志を沸かせながら、セイバーを睨んだところで、彼女は此方へ背を向けて森の奥へと消えて行く。

「幸運だな。自滅する者に関わっている場合ではなくなった。――桜が、私を呼んでいる。

 ……いや。運ではなく、自らの手で勝ち取った生還か。

 貴方はバーサーカーを倒した。その決意が、この結果引き寄せたのだから」

 去っていくその背を呼び止めることはできない。

 今の彼女はどうあれ敵だ。

 強大過ぎる力を持った敵が、理由はどうあれ、それが満身創痍の自分たちを見逃してくれるというのならば、ありがたくその情けに預かろう。……もう呼び止めるだけのを持ち合わせていない身だ。

 募る痛みを噛み殺し、遠ざかっていくセイバーに背を向けた。

 とにかく今は、この森を出なくてはならない。

 イリヤを狙う敵はセイバーだけではないのだから……。

 桜とあの影を剥がすにしても、臓硯がいる以上は必ず邪魔をしてくるだろう。

 言峰が引き受けたと言ったアサシンもどうなっているのか判らない。戦況を把握できていない以上、ここを立ち去る以外に選択はなかった。

 腕の侵食は重過ぎる。リミットはおそらく、投影三回分ほど。

 五体満足でいたいのならば、あと一回でもするのは危ない。

 電波を失った砂嵐が目を覆う。ざらつき続けている視界の中で、どこからかイリヤの声を拾う。

「シロウ……?」

 不安げな声色。

 これ以上彼女の不安を煽れない。

 とにかく、今は――

「……ああ。今は少しでも早く森を出よう。

 セイバーの―――いや、桜の気が変わったら今度こそ逃げられない」

 視認できないイリヤへ向け、それでも足を踏み出した。

 

 こうして、森を去る赤銅と白銀の影を他所に、黒い杯と対峙した神父もまた此処を去る。

 森には、泥に侵された花と剣のみが残され、彼女らもまた――この場を去っていく。

 そして舞台は、始まりにして、終わりの場へと移る。

 

 ――――かつて龍が住まうとされた穴倉。

 そこに、魂を注がれた『杯』が眠っている。

 

 戦いは、遂に幕引きへと向かって行く――――。

 

 

 

 *** 終わりの地を目指して

 

 

 

 時は駿馬のように駆けて行く。……否、時間の流れは変わらない。

 変わっているのは、己の方。

 左腕の影響はもう抑えられない。

 聖骸布で封じていることさえ、もはや気休めに過ぎない。

 ――もう、自分が欠けて行くことを止めることは出来ない。

 強い力を真似(かさね)るのではなく、強すぎる力に侵食(おか)されている。

 力を使うのなら、この欠落は必然。……というよりも、一度使った以上は判りきっていたことだ。

 だから、この先にある自分の限界値を認識し、その範囲でやりくりを果たさなくてはならない。

 腕を使っての〝投影〟は、あと一度はどうにかなる。

 二度目以降は正直恐ろしい。

 そして、三度使えば――――それは決定的になる。

 仮に精神が残っていようが、先に身体の方が霧散(じめつ)しているだろう。

 

「――――冗談。自滅なんかしてたまるか」

 

 状況は絶望的。

 が、そんな事実は蹴り飛ばすだけだ。

 受け入れはしても、それに振り回されるだけの傀儡になどなってたまるものか。

 決意に合わせるようにして、やって来た少女と再会し、彼女との約束を思い出す。

 暫定限界値の内一回は、彼女との約束を果たすために使う。これは決めた。

 しかし、残りの二回。

 自滅などするつもりはないが、それでも無駄撃ちのできるようなものではないのは分かっている。

 故に、残りをどう使うのか。

 きっとそれが、これからの戦いの要となるだろう。

 そんなことを考えている中、今この戦いを動かしている元凶のことを少女たちが語らっていた。

 

 

 

 街の外れ。

 柳洞寺のある円蔵山に置かれた、この戦いの根底を為す基盤(システム)

 遥か昔。雪に覆われた白銀の城で、一人の聖女がある奇跡へと辿り着いた。……いや、辿り着いたというには、僅かばかり語弊がある。

 彼女は、作られた存在であった。

 けれどその創造には、人の意思を汲むでもなく――全くの偶然で生み出された、副産物のようなもの。

 三つ目の奇跡にたどり着いたものの、非常に効率が悪い。

 加えて、彼女自身その奇跡のために不老不死でこそあるが、その実非常に脆弱で死に易い。

 故に、彼女を生み出した魔術師の大家は、彼女の力を他の方法で使役することができないかと模索を重ね、ある一つの結論へと至った。

 

 その結論こそが〝聖杯戦争〟である。

 

 至った三つ目の奇跡。

 第三魔法と呼ばれるこの奇跡は、〝魂の物質化〟を可能とする。

 肉体という枷に引きずられる魂は、本来ならば物質界にそのままで存在することは出来ないもの。高位に存在している〝星幽界〟と呼ばれる場所に属しており、物質界にソレを降ろすことよりも、保有することの方がエネルギーを食う。そうしたものがエーテル体に宿り、生物であったり、或いは幽体として活動することができる。

 しかし、魂は魂と同じ肉体でのみ存在が可能。

 唯一不滅。永劫のものである筈の魂は、結局のところ肉体を失って行く時に合わせて消えて行く。

 だが、第三魔法はその摂理を捻じ曲げるものだ。

 魂そのものを生物とし、単体での存続を可能にするばかりか、同じものにしか入れらないという前提を覆す。

 それどころか、永劫不滅の魂を永久機関とさえすることが可能。

 この部分を応用したのが、聖杯戦争の基盤――『大聖杯』である。

 そう。願いを叶えるための戦い、それこそが表向きの理由。本質は、その第三魔法を体現するための儀式に過ぎない。無論、貼られたレッテルには偽りとは言い切れないだけの価値はある。

 英霊たちの魂を集めた無限の魔力。それを貯めておくのが大聖杯であり、またそれらを用いて根源の渦への道を開くものでもある。

 英霊たちは本来この世界よりも高次元の存在。

 そんな彼らが、呼び出された現世から本来あるべき『座』に還る時――孔が開く。

 開けられたその孔こそ、この世の外にある凡その神秘の大元である根源。

 かつてあった魔法の一端を体現するものを用いて、こうして本当の魔法への道を導くのだ。

 ここがレッテルの偽りと言えない根拠となる部分である。

 それだけのことを成すもの、これだけの魔力を普通の魔術師が手にすることができるのであれば、大抵の事柄を成すことができる奇跡と言っても過言ではない。

 

 どちらにせよ、結局のところは欲の体現を競う戦い。

 ――――それこそが、聖杯戦争そのものなのだ。

 

 が、それは正常な状態での話。

 今の聖杯戦争はその根底からして歪んでしまっている。

 原因となっているのは、この戦争のシステムを作り上げた御三家の一つ。

 そもそもの聖杯を作り上げた、アインツベルンが第三次聖杯戦争で呼び出したサーヴァントがきっかけとなっている。

 

 呼び出されしサーヴァントの名は――〝アンリマユ〟。

 

 そして、それは今の大聖杯の汲んだ願いそのものである。

 

 

 

 *** 〝この世全ての悪〟

 

 

 

 ――――アンリマユ。

 それは、この世全ての悪を担うとされる悪魔の名だ。

 人間の悪性を、全て受容するという悪魔の王。

 だが、アンリマユはそこまで祭り上げられるほどに高い神格を得た存在。

 故に――本来であるならば、聖杯が降霊させることの出来る英霊の上位、神霊の領域にいるモノの筈だ。

 いかな大聖杯であっても、神の領域にある存在は呼び出すことは出来ない。

 聖杯の基板は第三魔法。魂を物質化し、固定する奇跡であるが……英霊の召喚に関してはその奇跡とは関わりが薄い。

 そもそも、『座』から呼ばれるそれらは、本来在った英雄たちの魂を複製したものにすぎない。だからこそ、本当にそのものと言うわけではないのだ。

 彼らは、言うなれば記録。

 遙か昔遠い時代。そこに置いて名をはせた英霊たちを、現し身としてこの世に呼び出している。

 そう。まさか、死んでいない存在でもない限り――英霊の本体が時を超えて現れるなど、有り得るはずはないのだ。

 だからこそ、聖杯戦争に呼ばれる英雄たちは所詮儀式のためのモノ。

 マスターという道具によって呼び寄せられ、『大聖杯』という炉心が本来の力を発揮するための燃料にすぎないのだ。

 世界の外への道を得るために、霊脈以上の歪みを起こす。

 そうして孔となる〝門〟を空けるために。

 この過程において、英霊の魂という〝どんな奇跡をもなしえるだけの魔力〟と、〝根源〟という〝侵され切っていない無尽蔵の魔力〟を手に入れることが出来る。これらが『聖杯』が人の願いを汲むものである所以だ。

 聖杯戦争の前提は全てが逆なのだ。

 奇跡を得るのではなく、奇跡を得るための道として存在し。

 願いを叶えるために争うのではなく、願いを叶えるだけの力を集めて成す。

 機能よりも、機能を得るための準備が必要なのである。

 ――――そして、こうした逆出会った前提が、その基盤さえも反転させた。

 

 気の遠くなるほど昔。

 世界がまだ、ほんの小さな括りで完結していた時代。

 其処に暮らす者たちは、自身らの信仰する考え方の下で、清く正しく生きていた。

 だが、それだけで彼らの〝善性〟への渇望が止むことは無かった。

 小さな括りのなかで、正しく生きているだけではこと足りない。

 この世全て――それだけの救いを、彼らは求めてしまう。

 勿論、人間の機能である感情。悪性とされるそれらを切り離すことは出来ない。……それらは悪になり得ると言うだけで、その実何かしらの要素を含んでいるのだから。

 しかし、彼らはそれを切り離そうとした。

 たった一人。

 たった一人の人間に、この世全ての悪性を独占させてしまえば、外の人間はどう足掻いても悪いことが出来なくなる。

 そんな子供じみた理想論を、彼らは本気で信じ実行した。

 選ばれたのは何の取り柄もない、平凡な青年。

 贄とされた彼に人々は知りうる呪いの言葉を全て刻み、彼こそが〝この世全ての悪〟そのものだとして、悪魔の名を冠させて、恐れ断じた上で祭り上げた。

 嫌われる様に仕向けられ、何よりも悪であれと願われた人の願望の集合体。

 たった一人の人間に、人々はそうした悪性を全て任せることで、この世全ての人間を救済することになった。忌み嫌われるものでありながらも、人を救うもの。だからこそ、彼らはその青年を〝英雄〟として奉ったのである。

 こうして、歪んだ人の理想によって一人の英霊が誕生した。

 これこそがアインツベルンが第三次聖杯戦争において呼び出したサーヴァント、復讐者のクラスに据えられた反英霊・アンリマユである。

 無論、このような過程で生まれたとはいえ、悪魔の名を冠されただけの人間。〝人々の願望〟のみによって英霊となったアンリマユは、サーヴァントとして望まれた能力は皆無だった。

 結果は即座に敗退。開始四日足らずで彼は聖杯の中にただの燃料として回収された。

 無様に負けたアインツベルンのマスターはこう思っただろう。

 コレのどこが、人類全ての悪。人を殺し尽くす物なのか、と。

 ……そこで気づけなかった。否、そもそも既にアインツベルンの悲願は根源へ到達することでなく、ただ〝第三魔法・天の杯〟を成すことだけだ。故に、其処の中身に欠ける願いなどとうに消え失せている。

 歪みを加速させてしまった原因はコレである。

 アンリマユは、聖杯を用いて願いを叶えるため――或いは、無色の魔力を用いて根源を開くためであるならば、決して呼び出してはいけないサーヴァントだった。

 英霊をただの魂として回収するとき、その本質を奪うのが聖杯であるが……アンリマユにはその前提が通用しない。彼は自分の要素など何一つ無いまま、ただ〝願い〟だけで英霊にまで至らしめた存在であった。

 つまりアンリマユの本質は、名を冠せられたモノがどうであろうが、ソレがアンリマユである限り、人々の願望はアンリマユをアンリマユたらしめんと願い続ける。

 そして――聖杯は、人の願いを叶える物。

 願いを叶えるだけの器に、人の願いを汲む要素を付与した物が聖杯である。

 その中に取り込まれたアンリマユは、その願いの項目を自身の存在理由(いろ)で染め上げていった。

 この世の悪を全て担うモノ。

 ヒトを殺すものであれ、と。

 そう願われていた。だが、名を冠された偽物はいても、そのための存在は何処にもいない。

 で、あれば――――成すべきことは、たった一つ。

 現世に、世界全てを侵し尽くすだけの力を持った魔王として誕生すること。

 それが、アンリマユが人格さえ失って魔力の塊となっても果たそうとしている〝意思〟である。

 そのための器として、今回は間桐桜が選ばれた。自分を生み出すために、担い手となってくれる存在として、彼女は今、アンリマユという胎児の母胎とされているのだ。

 自分を生む。肉体という枷に縛られない、悪魔の王としての魂を受肉させる。そうした第三魔法の申し子として、アンリマユはその機能を持った大聖杯に巣喰いながら、誕生の時を待っている。

 永久の破滅を、もたらすために。

 

 そうした永久の器を求め、臓硯はサーヴァントとしてのアンリマユを狙っている。

 如何に破滅を呼ぶ魔王であろうとも、サーヴァントだというのならば話は別だ。

 そも、マキリは聖杯戦争において、令呪を用いたサーヴァントシステムの考案者である。使役できぬはずもない。そんな自負が、あの老人の中にはある。

 自分を壊さず、孫娘を契約させ、その精神は壊れた後に身体を奪う。

 そうして自分は、不老不死となるのだと。

 

 だが、この思惑が――――ある一つの対抗手段を連想させた。

 

 此処までの全てが、魔術による契約に関連する手法で行われているのだ。――とすれば、それら全てを無効化できるのであれば――対抗する策として機能するのではないか。その策を実行できるだけの要素を持ち合わせた少年は、その手段を思い描く。

 自分に貯蔵されただけの情報では足りない。

 が、確かに彼はソレを視ており、足りなければ――その全てを知って(・・・)いるだろう存在が、此処にその道筋を残している。

 その予感は半信半疑だったが、迫る危機と対峙する以上、これ以上の迷いを重ねていられない。

 皮肉なことに、その決意を後押しするように、影がまた再び彼らの家を訪れる。

 影に犯された少女は未だ自分を残したまま、止まれぬ怨嗟に押し潰されていく。

 だがそれでも彼女は〝自分を見捨てた〟姉との決着を望み、〝誰よりも愛した〟男を殺すことを渇望している。

 

 戦いは最後の局面。

 大聖杯の眠る大空洞にて、剣士と少女が待ち構えている。

 状況を打破しなければ、何も救うことは出来ない。

 先へ進まなければ、何も始められない。

 故に進むのだ。見果てぬ理想の先へ進むように、まだ見えぬ光明を探しながら、結末への路を彼らは駆け抜けていく――――

 

 

 

 ***

 

 

 

 (いにしえ)の杯。

 二百年前。彼の地に埋められた戦いの基盤にして、英雄たちの魂を汲む器。

 そして今は、呪いを煮出した悪性の釜。

 内より、誕生を待つ胎動が響く。中に眠るは、この世全てを覆い尽くすために願われた、悪性の塊。

 その呪われし人の理想を前にして、五百年の妄執を重ねた妖怪は嗤っていた。

 予定外の事柄はいくつもあったとはいえ、遂に時は来た。

 仮初めの肉体を失いはしたが、今はもう不要な物。あの神父にはさんざんな目に遭わされはしたが、問題は無い。……なぜなら。その代わりのモノはもう、十年前から用意されていたのだから――――

 

「ツ――――ようやく辿り着いたか。

 魔術師殿。姿は見えぬが、御身は健在か?」

「――――うむ。よく戻ったなアサシン」

 地の底で再び、老魔術師の声が響く。アサシンの呼びかけに応えたソレは、まごう事なき間桐臓硯のもの。

 そう。アインツベルンの森での戦いにおいて敗れ去った主従は、未だ以て健在であったのだ。

 確かに彼らは、言峰綺礼に敗れた。しかし、言峰が祓った臓硯の身体は所詮使い魔である蟲の集まりにすぎない。

 そのため臓硯の魂を殺すことで、言峰は霊体であろう本体を潰すことを試みた。

 肉体を霧散させ、ダメージは確かに与えたものの……臓硯を殺しきるだけの聖言は、いかな言峰と言っても持ち合わせてはいない。肉を潰し、本体のみを残すまでに弱らせはしたが、倒せてはいなかったのである。

 ……だが、確かに臓硯は弱っている。

 事実、今の彼はアサシンへの魔力供給さえ行えない。マスターを失ったサーヴァントは、よほどのことが無い限り消え去る定めだ。

 しかし、アサシンはまだ臓硯が健在であることを知っていた。故に、ここまで存在を保ち続けることに徹することでここに至る。

 とはいうものの、状況が緊迫していることに変わりは無い。

 何よりも欲するのは魔力であり、それは臓硯も同じ。早く自らの従者を万全に戻さなくてはならないのだ。

 両者共に永遠を求めるもの。主従にとって、現状ははっきり言って好ましくない。

 なればこそ、自らを脅かすこの状況を早く正常に戻さなくてはならない。

 が、新しく自信の肉体を集めるのは手間だ。

 といって、臓硯は魔力を作り出せない状態にある。

 ならばどうするか。この場において――最も健在、且つ膨大な魔力を有している者は誰であるのか。

 答えは、考えるまでもない。

「……ふむ。負担を掛けるが頃合いか。桜、アサシンと契約を結べ。バーサーカーを失った今、新しい護衛が必要じゃろう」

 この場に立っていながらも、一言も言葉を発しようとしない少女へと命令を送る。

 けれど、コレまで一度たちとも拒絶させなかったその命を、少女は受け入れようとしない。その様子に、魔術師と暗殺者は時がいたかと思い当たった。遂にその精神は崩壊し、器が空になったのだ、と。

 己が悲願への王手を真に感じ、老魔術師は醜悪に嗤う。

 もう腐敗して行く霊体のみで在りながら、狂気と執念を滲ませながら、嗤う。

 遂に欲した肉体を乗っ取り、育て上げたそのままに、呪いの根底。不老不死への一歩を踏み出せるのだと、そう確信して嗤居続ける。

 しかし、その嗤いを。

 

「その必要はありません、お爺さま。わたしは大丈夫です」

 

 ――少女の声が、冷たく一喝した。

 けれど、その事実に老人は未だ気づかず。

 これまでと同じように、彼女への命を下した。

「……ほう。呑まれてしまったかと思うたが、まだ踏みとどまっておったか。……ふむ。では桜、知と事情が変わってな。儂ではアサシンを維持できなくなった。少しばかり負担を掛けるが、儂の代わりにアサシンと契約するが良い」

 無害なもの。無力な小娘に過ぎないのだと、そう侮りながら。

 その傲りによって今し方、その肉体を失ったというのに。何も学ばないまま、――否。学べるだけの余力を残せなかった亡霊は、遂に己が歪みによって裁かれる。

 

「ギ――――、ガ――――ア、ああああああああああああああああ!?」

 

 影によって呑まれていく暗殺者。

 醜女はその面貌を覗きながら、骸骨の面で顔を隠した暗殺者はその実、自分がないが故に自分名を取り戻した上での永遠を欲しただけの愚者であると知り――心底つまらなそうに、顔無き山の主をその場から消し去った。

「ぐ――貴様正気か!? 何をするのだ、このバカ者め……!」

 驚愕し、何が起こったのかを把握できずに困惑する臓硯は未だ、その歪みに気づけない。

「だってあの人、二度も先輩に手を上げたでしょう?

 だから殺しました。だって、先輩を傷つけて良いのは、わたしだけなんだから」

「な――――」

 そこまで言われて、ようやく臓硯は自分が既に彼女にとって恐怖の対象でも、あるいは自身の命を握った操り手であるとさえ思われていないことに気づく。

「それにお爺さま? お爺さまはもう、彼に守られなくても良いんです。なら、彼には暇をあげないと可哀想」

 聞こえようによっては酷く優しい声色で――少女は形ばかりの祖父に語りかけ、姿無き老人を自身の前へと、文字通りの意味で引きずり出す。

「な――何を、何をする、桜――――」

 桜は自分の身体に手を入れ、こともなげに、心霊手術の如く己が心臓に巣喰っていた蟲を抉り出した。

 少女は困惑の極みにいるまま、声も出せずにいる祖父だったらしきモノを眺める。

「なんだ。やってみたら意外と簡単なんですね。わたし、お爺さまはもっと大きいかと思ってました」

 つまらない、と。

 こんなものが、怖かったのかと。

 拍子抜けするように、矮小な小蟲を眺め回す。その視線を受けた臓硯の混乱、困惑をなんと呼ぼう。

 実際のところ臓硯はこんな脆弱なモノではなかった。しかし、桜の身体に収まるためにはこの矮躯になるしかなかったのである。それでも、身体の中――それも心臓に巣喰うのであれば十分だった。

 けれど、もう意味は無い。

 本来の力も、寄生すべき場所も失い。かつての大魔術師は、これまで育て上げ、そして壊し続けてきた少女の手によって、その命運全てを握られていた。

「桜――桜、よもや」

「あの神父さんには感謝しないといけませんね。あの方がお爺さまを消してくださらなかったら、本当にわたしが食べられていたところだった」

 何もかもを見透かされている。

 いや、そもそも目的を隠している意味など無かったのだ。少女は老人に逆らわず、何時か取って代わられるだけの存在でしかなかったのだから。

 少女がこうして――老人へ反旗を翻す、この時までは。

「ま――――」

 今際の際に至り、五百年もの間他人を暗い続けた老人は、こうなってまでもまだ生き汚く言葉を重ねる。

 ――そうして嘘偽りを重ねるだけ、自分を追い詰めているんだと気づきもせずに。

「待て、待て待て待て……!!

 違う、違うぞ桜……! お前に取り憑くというのは最後の手段だ。お前の意識があるのなら、〝門〟は全てお前に与える。儂は、間桐の血統が栄えればそれで良い。

 お前が勝者となり、全てを手に入れるのであればそれでよいのだ、桜……!」

 醜い小蟲がピチピチと跳ねる。

 手の中で藻掻くソレに向けて、少女は慈愛さえ感じさせるほどに優しく、微笑みこういった。……ちょうど、少女をこの戦いへの意思を向けさせた時。甘言と共に姉の名を出し、彼女を逃れきれなくした、あの時の老人と同じように。

「それでは尚更ですね。だって、もうお爺さまの手は要りません。あとはわたしだけでも、門を開けることは出来ますから」

 はっきりとした決別の言葉。

 受け入れられない老人は、まだまだ醜く足掻く。藻掻く。最後の最後まで醜悪に、そして何よりも、見当外れの善性の一端を証明するかのように。

「――――!? 待て、待つのだ、待ってくれ桜……! 儂はお前のことを思ってやって来たのだぞ……!? それを、それを、恩を仇で返すような真似を――――――」

 そんなものは少女が望んでいたものではない。

 彼女が欲しかったのは、自分を受け入れてくれる場所。

 何よりも取り戻したかったのは、優しい時間。

 もしも、一欠片でも老人に情と呼べるだけの慈悲があったのだとして――先ほどの言葉が真実だというのならば、それは。

 

「さようならお爺さま。

 二百年も地の底で蠢いていたのは疲れたでしょう? ――――さあ、もうお消えになっても結構です」

 

 妄執などに取り憑かれず、よしんば取り憑かれたのだとしても、自分を使わないでいてくれることだけ。……つまるところ、生きながらえるなんてことのために生き続けるな、と言うことだけだったのだから。

 

 

 

 そうして、握りつぶした蟲の残骸は泥に沈む。

 手に残ったのは、蟲を潰した汚れと、自らの胸を抉った鮮血のみ。

 そして、その場には彼女以外誰もおらず、少女は自身の自立を体現するかのような黒い炎の揺らめきに受けて、狂ったように嗤う。

 黒く燃える地下の大空洞に響き渡る少女の声。

 手にした自由を以て、少女は自分が狂ったことを知らぬまま嗤い続ける。

 泥に酔いしれ、本来の目的も見失って。

 誰も恨まずにいた少女は、その恨みを以てその比重を知ることとなるだろう。

 ……なぜなら。誰かを恨まない、と言うことはつまり。

 誰かに怒りをぶつけることよりも、自分が痛いだけの方が、辛さを味合わずに済むからでしかないのだから――――

 

 戦いの場は、遂に整った。

 何の余分も許さず、最後の時が訪れる。

 始まりの地で、終わりの戦いが幕を開けていく。

 

 

 

 *** ~Iimited~

 

 

 

 戦いまでの猶予はあと半日。

 そして、投影の限界までの回数はあと僅か三回。

 そのための一回を、士郎は凛との約束のために使う。ソレがなくては、この戦いを勝ち抜けないが故に。

 渡された剣を下地に、第二魔法を司る宝石剣の模造品を作るのだと、凛の方はそう思っていたのだろう。

 だが、それは出来ない。

 彼の魔術――則ち投影は元々、自身の知り得る物を複製・改変するための術だ。

 視たことのあるものを。

あるいは、その構造を知りうる物を理解することによって創造する。故に、設計図を見たところで、宝石剣の投影は出来ないのである。なぜなら、彼にはその第二魔法を司る魔術理論を理解することが出来ない。

 構造に理がなければ創造はただの妄想として砕け散る。

 これが『グラデーション・エア』と呼ばれる投影魔術の申し子、通常の投影とは一線を分かつ〝剣製〟の本質である。

 だからこそ、士郎はその宝石剣を()る必要がある。――しかし、唯一のオリジナルを持ちうる放浪爺はこの世界にはいない。魔法使いなどと言っても、別に誰かを守り救うヒーローではないのだ。いないことを攻められはしないし、そもそもこれは自分たちの戦いだ。で、あるならば――自分たちで考え、模索し、そして行動するのみ。

 幸いなことに、そうして物語を綴る上で必要な要素は揃っている。

 なにせ此処には、その宝石剣の情報(きおく)を内包した冬の少女がいるのだから。

 

 少年は潜る。

 冬の一族の軌跡を中に納めた、聖杯(イリヤたち)の記憶。

 その始まりの記憶へと、足を踏み入れた。

 時は遙か二世紀ばかり前。

 この極東の地に『冬の聖女』と呼ばれた奇跡の担い手が根を下ろした際、その場に立ち会ったという宝石翁の姿が、其処にあるだろう。彼の手に持たれていたソレは途方もない情報を内包しており、制作に至った全てを読み解けるかは謎である。……しかし、失敗は許されない。

 否。そもそも、失敗などしてやるつもりもない。

 手を伸ばす。

 最奥へ向け、届かぬ手を伸ばしていく。

 外側で引き留めるような声が聞こえるが、もう止まれない。止まる意味もない。

 あとほんの少しで、其処に手が届く――――

 

 地下に広がる空洞。立ち会う三人の魔術師。広間には濃厚な魔力が満ちていてひときわ大きな祭壇のようになった場所に彼の聖女は自らを〝陣〟として植え付ける。広がっていく〝陣〟はまるで機械基盤でソレはまさしく聖杯を巡る争いの根底であることを象徴しているようでそれらの様子を見ている老人の手にはヒトが生みその手で以て及んだことが不可思議に思えそうなほどに情報が内包されてるアレは――アレは、――――だ。つく――――れ、……あ。じょう……、ほう――――だ、に……ま、おう……、―――――。

 

 きおくがとぶ。

 じぶんがうすれる。

 もどれなくなる。でも、けんはたしかに、このてに。

 だが、そのまま、もどらな、ければ、いみが、な――――い。

 

「シ――ウ! 聖……ま、から――おと、……しく――――しなさい……っ!」

 

 呼び戻された。

 声が、聞こえた。

 散々暴れ回ったらしく、自身の周囲は荒れていて、自分を呼び戻してくれたイリヤの姿がそこにある。しかし、彼女をまた突き飛ばしてしまったらしい自分の腕の感触を遅れて思い返し、後悔する。

 だが、そんなことを謝るよりも先に、イリヤは士郎の無茶に怒りを浮かべた。

 

「バカ、余計なものは見るなっていったじゃない……っ!

 ……まったく、上手くいったから許してあげるけど、今度わたしの言うコト聞かなかったら承知しないんだからねっ」

 

 ……結果として、投影自体は成功した。

 本来、魔法の一端に触れる物などそう複製することは出来ないのだが……錬鉄の定めを背負った者の意地か、これ以上を望めないほどに完璧な投影を、自己を殺しきることなく士郎は成し遂げた。

 無論、何も失わなかったというわけではない。歪な身体は、力の反動に対する代償を常に支払い続けている。

 けれど、それでもまだ。自分は戦える、と――そう士郎は自分自身の状況を確信した。

 そう思えるほどには、彼らの状況は前へ進むことを止められないだけの決意を残している。

 

 第二魔法を再現するとされる剣を手にした少女。

 ソレを生み出す、錬鉄の英雄の肉を背負った少年。

 それらを待ち受ける、第三魔法の権化に取り憑かれた少女。

 

 ――――何もかもが規格外のまま、戦いは止まらず、まだまだ先を行く。

 

 

 ***

 

 

 

 始まりと現況が眠り、そして泥に呑まれていく少女が待ち受ける祭壇へ続く路。

 其処へ向かうべく、大空洞を歩く一同の前に、一人の剣士が立ちふさがる。

 漆黒の鎧と、光を失った金の瞳。その手に握られしは、闇を放つ聖剣。

 最優のサーヴァントにして、この戦いにおいて最強となったサーヴァント。

 セイバーが、そこにいた。

 生命の気配を一切感じさせない洞窟の、最奥へと続くその道をふさぐように。

 絶対の殺気を以て、彼女はそこに立っている。

 番人であり、処刑人。

 一切の侵入者を通すことなく、ここで命を刈り取るために。

 けれど、例外が一人――――

 

「……そう。本気なんだ、桜」

 

 ただ一人。この奥に座す真打の少女は、自らの姉に会いたがっている。

 故に、セイバーにはその姉である遠坂凛と争う理由はない。通るのならば、他の二人。連れ添った士郎とライダーの援護をすることなく、おとなしく一人で迎え、と。

 セイバーは凛に選別をされた身を違えるなと、暗にそう告げた。

 その意向をくみ取ったのか、凛はためらうことなく一人で進んでいく。

 引き留めるでもなく、彼女を案じるように士郎が彼女を呼び止めようと、その歩みは止まらない。ただ、その声に短くこう応じる。――期待しているのだから、来るならば早く来るように。

 ……自分には、この奥にいる桜を救いきれるかどうか判らないのか。

 あるいは、単に自分で定めたルールを違えられないその気高さからか。

 凛は、彼女が本当に求めている救い主へ向けて、己の妹を――(ころそ)うという姉の手から攫うがあるなら、さっさと来いと告げていた。

 ならば、その信頼に、応えないわけにはいかない。

 大空洞の奥へと消えた凛を見送りながら、士郎はセイバーと向かい合う。

 セイバーは言った。その期待に応えるのは、通ることは不可能である。貴方は此処で死ぬのだから、と。

 けれど、こうも言っていた。ここを通る者のみを殺す、と。

 ライダーはその矛盾について指摘する。シロウが境界を越えない限り、殺すことは出来ない筈だ、と。

 

 それを、セイバーは――――真っ向から否定する。

 

 士郎は、ここを通らずにはいられない。

 絶対に、桜の元へ向かおうとする。仮に自分が、一切の手を加えないのだとしても、阻む壁である限り、彼は此処を通ろうとせずに入らないのだから。

 ……彼女の言葉は正しい。

 士郎は桜を救いたいし、そのためには此処を通らざるを得ない。

 そして、その道を阻む者はセイバー。

 その壁を越えない限り、望みには届かない。ならば、士郎は遅かれ早かれ此処を通る。自分の命惜しさに決意を蔑ろにできるような男でないことを、……その歪みを。誰よりも知っているセイバーだからこそ。

 士郎との激突が避けられないのだということを、誰よりも肌で感じている。

 勝てぬと知りながら、

 その心を、全て殺しきることが出来ぬと知りながらも。

 

 ――それでも、二人は、ここで対峙する。

 

 ライダーは前に、ここで彼女がセイバーと戦わなくては、士郎は最後の決定打を放つことができない。

 寧ろ、シロウ本人が戦うというのならば、逆に邪魔だ。

 ライダーにとって、最も救うべきは桜であり、そして最も守るべきは士郎なのである。

 士郎が戦うことで自滅してしまっては、それこそ意味がない。

 この一時の主従は、その意味において最適であった。

 共に渇望する者同士。そうして意味では、〝願い〟に懸ける情熱は他の追従を許さない。

 

「――――では。私の命は貴方に預けます、士郎」

 

 黒き杯の前において、姉妹の激突が始まったのと時を同じくして。

 闇を駆ける流星と、座した太陽の激突が始まった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 火花を散らす、剣と鎖。

 縦横無尽に駆け回るライダーと、それを泰然と構え受け止めるセイバー。

 戦況は、傍目に見ればライダーが押しているように見えるかもしれない。しかし、それは違う。

「は――――、ぁ――――」

 またも奇襲を弾かれ、身体を削られるライダー。

 超速で動ける彼女だからこそ、その程度で済んでいる。そうでなければ、セイバーの反撃で以て致命傷を食らうことになるだろう。

 しかし、そんな彼女であっても、かろうじて致命傷を避けている程度に過ぎないのだ。

 駆け巡る鎖と、その先を担う楔。それらをまるで、セイバーは児戯の様にはじき返し、返しの刃を容赦なくライダーへと叩き込む。

 セイバーは、己へ降りかかる全てを防いだ上で、少しずつ相手を削っていく。

 まったくの無傷のまま、自分が唯一劣っている速度が尽きた時を座して待つ。

 戦況は拮抗している様で、たった一つでも均衡を狂わせれば、その瞬間に瓦解するほどに脆いものであった。

 その現状を前にして、士郎はただ一瞬のチャンスを狙う。

 ライダーは、二分は持つといった。

 が、戦闘が始まってから、既に十分弱。当に限界を超えても尚、場の戦況を逆転させるために、ライダーは自滅覚悟で全てを投じてでも士郎を守り、自分たちの側に勝利を引き寄せようと、落ちていく速度へ鞭を打つ。

 ……息を殺し、時を待つ。

 そして、士郎はついに――左腕を開放し、全てを逆転させるための代物を、己が手に生み出す。

 

 

 結論から言うと、二度目の〝投影〟は成功した。

 欠けていく意識の中で、士郎は次の一手を思考する。

 セイバーとの戦いに割って入るのか、ライダーを助けるか、ライダーを信じ切るのか。

 壊れかけの思考で、どの選択をするべきなのか。或いはどうするべきなのか、その全てを思考し、選択する――――

 

 

 

選択の狭間で

 

 

 

 ――打ち合ってどうなるのか?

 もしもライダーがおらず、一人きりでこの場に立たされたのであれば。……きっと、何の躊躇いもなくセイバーへ向かって行けたのかもしれない。

 己の全てを賭して、己の全てを彼女と共に散らせるような、そんな結末に。

 

 ――ライダーを守る。

 それはある意味において、彼女が主と認めてくれた信頼を裏切るものであるかもしれない。だが、それでも守るために在るこの英霊の力は、彼女を無残に散らせるだけの末路など、迎えさせはしないだろう。

 嫌悪する男に託して逝った男の力だ。きっと、途方もなく甘い結論に至る。……そこからの結末が、例え傷らだらけの、贖罪の路となるのだとしても。

 

 ――ライダーを信じ切る。

 これは当然だ。散り行くことさえも覚悟にした彼女を信じ切る。仮初であろうとマスターとして認めてくれた信頼に対しての信を置く。こちらに〝投影〟に屈して崩れてなどやらないという覚悟があるように、彼女にも意地があるだろう。

 その意地がきっと、この先に在る真なる道を切り開くだろう――――!

 

 

 

 ***

 

 

 

 ――セイバーの剣が空を切る。

 ライダーは既に敵の間合いから離脱している。

 彼女は、己が全てをこの一瞬の為に懸けていたのだ。

 セイバーの方はというと、ライダーが最後の最後まで耐え抜いた策に僅かばかり足を取られている。

 足止め程度ではセイバーは止まらない。

 稲妻の如き魔力で鎖を引き千切り、ライダーへ向けての迎撃を開始する。

 が、それでは遅い。

 隙とも呼べぬその刹那、僅か二秒ばかりの(とき)は、しかしライダーに十分な助走距離を与えた。

 それを受けて、ライダーは己が最大の力をセイバーへと叩き込みに掛かる。

 だが、その狙いはセイバーにも悟られてしまう。

 敵が最大の力で向かってくるのであれば、迎撃手段など一つだけ。

 最大の攻撃には、最大の攻撃を以て向かえ討つのみ。

 

 ――瞬間、二つの光が闇を裂く。

 

 片や、純白で眩いばかりに輝く神速の流星。

 片や、その流星を両断せんとする漆黒の太陽。

 

「――――――〝騎英の(ベルレ)〟」

「〝約束された(エクス)――――〟」

 

 双方の真名が(めい)じられる。

 解放されし、白色の閃光と漆黒の炎。

 鮮血の陣より生まれ出でし流星と、収束し臨界を迎えた星の光が、今。

 

「〝手綱(フォーン)――――〟!!!!!!」

「〝――――勝利の剣(カリバー)〟!!!!」

 

 空洞を染め上げ、己が光以外はいらぬと鬩ぎ合う。

 しかし、それでなお未だ至らぬ先がある。

 破壊力という点に置いて、ライダーの宝具は決して聖剣に及ばない。

 ならどうする? 光の奔流がその力を阻害し、彼女の進路を阻むというのならば――――

 

I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 

 

 ――――此方は、その光を阻害して彼女の進むべき道を作るまでだ……!

 

 

熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)――――!!」

 

 鬩ぎ合う光を隔てるように、熾天に咲く花弁が咲いた。

 赤い弓兵の持つ、最大の守り。だが、人々の幻想が生み、そして人の悪意が染め上げた聖剣は容赦なくそれを砕いていく。

 自分が消えていく恐怖を追い払うように吼え、同時に体内を巡る痛みに耐え続ける。

 盾が砕かれていく度、自分の身体の方が砕けていく様な感覚に苛まれ、消しゴムでもかけられたようにエミヤシロウの中身が白く変えて行き――――

 

 

 二つの光は拮抗を崩し――――その場を、白色の流星が染め上げた。

 

 

 勝利を手にした。

 だが、ライダーは力を出し切り地に伏せており、セイバーの方も、死に体でありながらその内側にまだ余力を残している。

 選択を迫られる。

 彼女を救うことは、出来ない。

 もう選んでしまった自分は彼女を選ぶ視覚はなく、彼女と最後まで時を共に出来なかった戦いの部外者に出来るのは――たった一つ。

 この戦いの幕を引き、自分の選んだ選択を全うすることのみだった。

 

 ……それらに気づかないまま、ただ走った。

 

 自分のすることを、理解できず。あるいは、本能が理解を拒むように。

 そうして、取り出したアゾット剣を開放する。

 この場を去った赤い少女から託されたこの剣には、彼女のこれまでの魔力が込められている。これならば、きっと――――セイバーを、

「――――セイ、バー」

 駆け寄った先の彼女に圧し掛かり、無抵抗なその身体に向けて、剣を構える。

 その様子が、一体どう映ったのか。

「ぁ――――シロ、ウ――――?」

「――――――あ」

 微かに聞こえた名前を呼ぶ声に、心が乱れる。

 本当は取り戻したかった剣。救えなかった剣。

 だが、彼女は、今は敵。なら、ならば――どうするのか。

 消えそうだった意識は、厭にシンプルだった。

 やることを全て、身に刻ませようとしているかのように。……彼女との思い出が、戦いの中で加速していた思考を埋め尽くしていく。それらに抗う様に、受け入れるようにして、その全てを込め、彼女に剣を突き立てた―――――

 

 

 

 抵抗はない。

 きっかりと一撃で、セイバーの命は止まった。

 此処で倒さなくては、彼女はきっと、また此方の行く手を拒む。

 もう二度と勝てない強敵として。――なら、彼女を殺さなくてはいけない。

 そうして殺した。自分の中にある全てを込めて、抉り出す様に、傍にあった温もりを捨て去るようにして、剣を突き立てた。

 もう二度と思い出すことが無いように。――けれど、それは許されることではない。

 選んだ道の為、他人を殺す。

 親しい人を、最期まで守ってくれた少女を、この手で殺した。

 後悔も懺悔も許されない。

 誰かの味方をするということは、愛した者に対するエゴを貫くために、大切なものを奪い続けること。

 誰かの傍にてくれるということは暖かい。

 誰かが、誰かを救ってくれた思いは尊い。

 そのことを知りながらも、こうして貫いたエゴは、誰かを踏み越えて行くことなのだと、そう始めて理解した気がした。

「――――でも、セイバー」

 ……喪った先には、見合う輝きはない。

 きっとあるのは、溜めたツケを払い続けるだけの時間。

 それでも、――いつか動けなくなるのだとしても。それに見合う幸せを、一生探し続けていく。

 滑稽で無価値なまま、奪い続けた責任を果たそう。

 幸福が何処にあるのかは判らない。だが、決して諦めることはしないと誓う。

 故に、その幸福を探すために。

 自分が一番大切なものだとした少女を、

 自分が傍らにいなくなってからずっと守ってくれていた彼女へ向けて、感謝を告げた。

「――――ありがとう。お前に、何度も助けられた」

 酷く恩知らずな言葉だったが、

 それに対し罵倒するでもなく、罵るでもなく。

 黒く染まった剣士は、最期まで口を閉ざして消えていった。

 突き刺した短剣にかかっていた重みが消え、気高き騎士王は霧散した。

 

 

 

 そうして、最強の門番との戦いに勝利した少年は――――少女たちの待つ、『杯』の眠る祭壇へと向かう。

 

 

 

 そこには、一人の少女が立っていた。

 求めていたはずの温もりを、その手で殺してしまったことに困惑しながら……。最期の抱擁の温もりを受け、自分が何をしてしまったのかを悔いるように、目の前の現実を否定するかのように。

 ――彼女はまた、たった一人で泣いていた。

 

 

 

*** 姉妹

 

 

 

 視界が開けたそこは、空洞というよりは荒涼とした大地そのもの。

 奥には果ての無い天秤と、黒い太陽。

 遥か遠方にある一枚岩。

 そこを越えれば、この戦争(たたかい)の基盤を成している巨大なクレーター()があるのだろう。

 天の杯――その名に恥じぬだけの力を備え、無尽と呼べそうなほどの魔力を納め、呪いの杯は誕生を待ち望むかのように胎動する。

 正に、その場は異界。

 既にこの世とも呼べそうにない場を、杯は其処に造りだしている。

 しかし、それだけ力に満ちた場でありながらも、足を踏み入れた少女に牙を剥く者は誰もない。彼女が待ち構えていると踏んでいた妖怪も、それを守る暗殺者の姿もなく、彼女は祭壇の先に――――

 

「――――嬉しいわ、姉さん。逃げずに来てくれたんですね」

 

 自身の想像を超えた、在り得ないモノを見た。

 

 

 

 頭上を見上げる。

 高い崖の上。

 そこで、黒い太陽を背にした間桐桜が、『大聖杯(ここ)』を訪れた己が姉を歓迎していた。

「――――っ」

 余りの変貌、その重圧に圧されて、凛は僅かに後退する。

 (いもうと)の変貌は、(あね)想像(それ)を軽く上回っていた。

 彼女を侵す泥の主。〝アンリマユ〟とは、本来であれば実態など持たないサーヴァントに過ぎない。如何に受肉寸前とはいえ、人の空想が象り、人の願いで以て生まれ(いず)る以上は〝影〟に過ぎないモノの筈だ。

 それゆえ、〝アンリマユ〟のもたらす力はその依り代に委ねられる。

 

 ――――桜は、まさしくそのためのうってつけの存在。

     今の桜はまごうことなく、〝この世全ての(アンリマユ)〟そのものであった。

 

 正直なところ、凛は「これは参った」と考える。

 兄弟子の綺礼がいれば、神の代行者とでも呼びそうな出で立ちは、禍々しいと同時に神々しい。

 力の差は歴然。

 成す術などまるでない。

 勝てる確信などありはしない。

 ……が、こんなところで諦めるような性分でもない。

 故に、凛は勝てる可能性を手に、妹の元へと向かう。

 

「どうしました、姉さん? そんなに怯えて。……ふふ、いまさら臆病風に吹かれた、なんて言わないでくださいね」

「……言うじゃない。そういうアンタこそ、いつもそばにいる保護者はどうしたのよ。弱虫なんだから、すぐ近くにいてもらわないと困るんじゃない?」

「――――――」

 場の空気が凍る。満ちていく殺気が魔力に乗って、場を満たしていくかのような感覚に陥っていく。

 売り言葉に買い言葉。

 口の勝負では分が悪いと思ったのか、詰まった言葉を息と共に呑み込んで、桜は笑みを浮かべながらこう言った。

「お爺さまならもういません。邪魔でしたから、アサシンと一緒に潰したんです」

「…………」

 問うまでもなく、薄々感づいてはいた事実を再認する。

 姿を見せないのも当然ということか。あの妄執に付かれた妖怪は、どうやら最後の最後で飼い犬に食い殺されたらしい。

「なるほど。完全に自由になったってわけね。良くも悪くも、臓硯はあんたを縛っていた支配者だった。

 その臓硯(よくあつ)を自分手で始末して、もう怖いものはないってワケ?」

 が、凛の問いに対し、桜はこう答える。

「いいえ。それがまだなんですよ、姉さん。

 お爺様を消したくらいじゃダメなんです。こんなに強くなって、なんだってできるようになったのに、わたしはまだ囚われている」

 未だに彼女は、恐いものがあるのだという。

 それは――

「……もう。もう姉さんなんて取るに足りない存在なのに、姉さんはわたしの中から消えてくれない。姉さんはわたしの中で、今も懲りずわたしを苛め続けている。

 だから――貴女がいる限り、わたしは自由になんてなれません」

 歌うように軽やかでありながら、粘りつくように重い。

 声の響きが抱える矛盾は、そのまま声の主が正気でない証拠だった。

 場に満ちていく殺気は、その実、優越と畏怖とが混ざり合った狂想である。

 しかし、

「……ふうん。その割にはご機嫌じゃない。臓硯を殺してアサシンも殺して、その分じゃ綺礼もアンタに殺されたとみるべきね。

 あれだけ嫌がってたのに大した手際だわ。人殺しにはもう慣れたの?」

 その程度では凛の持つ輝きはまだ折れない。勿論それは、桜自身、嫌というほど知っている。

 ……自分の持っていないものを、当たり前のように持っていた姉だからこそ。こうして未だに畏れ、そして未だに――――

「ええ。だって、人を潰すのも呑み込むのも変わらないもの。

 人間は(遊んで)していないと毎日がつまらなくて意味がないし、飲まないと乾いて苦しいでしょう?

 ほら、だから同じ。姉さんと変わらない。わたしは当たり前のように、みんながしているコトをするだけです」

「――――ちょっと。今の屁理屈、本気で言ってる?」

「屁理屈なんかじゃありません。わたしは間違ってない。

 違ったのは強くなったからです。強くなったから、今までとは在り方が変わってしまっただけ……。

 わたしは――――わたしは強くなりました。

 強くなれば、何をしても許されるんじゃないんですか……?

 ……そう。強くなれば、誰にも負けなければ、今までのことだって許される。わたしがわたしじゃ無くなれば、今までしてきたコトも全部当たり前の、仕方のないコトだって言える筈です……! ――――わかりましたか姉さん? わたしは、そういうモノになるんです。

 だから、誰だって殺せます。そんなの、わたしにとっては当たり前のことなんだから」

 怒りに満ちた絶叫は、そう信じることでしか逃げ場を得ることの出来ない、泣きじゃくる子供の訴えだった。

 幼いそれは、矛盾だらけ。

 憂うべきものではあったのだろう。

 が、まだ一人。それに当て嵌まらない人間はいる。

「……そう。で、目につくものなら、片っ端から八つ当たりするワケか。けど、士郎はどうなの? あいつは今でも、アンタを助けられると信じてる。それでも関係なく、アンタはあいつをやっちゃうわけ?」

 姉の問いに、最期の最後に残った引き金がまた引かれる。

 昂っていった気持ちは収束し、間近にまでやってきてしまった少年を想い、手放しかけた心を取り戻していく。

 僅かに詰まった息を呑みむと、少女は笑みを浮かべて。

「はい。それは先輩だって例外じゃないわ。――ううん。わたしが殺してしまいたいのはあの人だけなんです、姉さん。

 ……ええ。わたし、早く――――」

 

 〝――――先輩も、呑み込んでしまいたい〟

 

 酷く恍惚とした表情でそう答えた。

 ……最早、間桐桜の答えは何もかも手遅れだった。

 凛は僅かばかり残っていた情も振り払う。そして、目の前にいる存在を〝敵〟とみなし、倒すための算段に移る。

「……ふん。何がアンリマユと刺し違える、よ。

 バカな娘だと思ってたけど、ここまでバカだとは思わなかったわ。完全に取り込まれて、とっくに()()()()()()のね」

「――――フ。強がりですね、素直になってください姉さん。

 こんなに強い力を見せられて、本当は羨ましがってるんでしょう? 嫉妬してるんでしょう? だからわざわざ、敵わないって知りながらわたしを殺しに来たんです。

 ……そう。この子をわたしから取り上げて、また自分だけで幸せになる気なんだ」

 込められた怨恨に同調するように、影がその実体を持って浮き立つ。

 以前とは比べ物にならないほどの魔力の塊は、サーヴァントの宝具にも匹敵しようかというほどの〝吸収の魔力〟であった。

 そして、影は一つにとどまらず。

 次々と鎌首をもたげ、その場に現出していく。

「渡さない。これはわたしの力です。姉さんにあげるものは、後悔と絶望だけ。――それを、ゆっくりと教えてあげます」

 涌き立った影は四つ。

 街一つは優に落とせるだろう魔力が込められた巨人は、主である少女の意思によって、たった一人の人間へと向けられる。

 奥に立つ少女を護るように、眼下のちっぽけな人間を叩き潰そうと手を伸ばす。

「――――力の差を見せてあげますね、姉さん。

 今度は誰も助けに来ない。湖に堕ちた蟲みたいに、天の杯(このわたし)に溺れなさい」

 影の巨人が迫る。

 そうして、防ぐことも躱すことさえ出来ない絶大な力が、遠坂凜を呑み込んだ。

 

 それを皮切りとして――生まれてから一度たりとも対立したことの無い姉妹が、今この場で以て対峙した。

 

 ――――片や第三魔法、そして第二魔法の一端を有して、少女たちは此処に激突する。

 

 

 

 ***

 

 

 

 桜は、その光景が信じられなかった。

 勝ったと思った。絶対に、逃れ得ぬだろうと確信さえした。

 だが、彼女の思惑の通りに事態は進まない。

 黒い波が彼女の姉へと迫り、〝遠坂凛〟というちっぽけな獲物を逃すまいとして、ヒダの様な量の手を広げ、高波のように襲い掛かる。

 が、それを――――

 

Es last frei(解放)Werkzung(斬撃)―――!」

 

 眩いばかりの光が薙ぎ払い、両断した。

「な――――」

 言葉を失う。

 が、それも当然である。

 一体一体がサーヴァントに匹敵するほどの魔力を内包しているのだ。そんな巨人を、人の身で踏破できるはずもない。

 だというのに、遠坂凛はその差をもろともせずに場を駆ける。

 最初にいた四体をとうに越え、悉くを一撃で消滅させ、遠坂凛は苦も無く崖を駆け登りながら――現れた七体目を、手にした短剣の一振りでかき消した。

「そんな筈――――」

 次なる詠唱をし、桜はさらに影の巨人を生み出す。

 だが、それを「しつこい」とばかりに、閉口した様に凛は手にした宝石剣で一掃する。

 そうして、崖を登り切った。

 凛の前には桜。

 桜の前には凛。

 遠く離れていたはずの距離は、既に肉薄するほどに詰められている。

 目の前に迫る現実に愕然となり、桜はここまでの駆けあがった姉を呆然となりながらも凝視した。

「うそ――――そんな、はず」

 現実を認めようとしない焦りか、それとも、或いは影たちが主の危機を感じ取ったのか。

 たった一人きりの人間に対し、目盛を振り切るほどに込められた魔力で以て、その命を叩き潰そうとした。

 しかし、凛は未だ表情を曇らせもしない。

「――――また大盤振る舞いね。教会の人間がいたら卒倒するわよ。それだけの貯蔵量があれば、向こう百年は一部門を永続できるってね」

 軽口を叩きながらも、迫る影を容赦なく圧倒する。

 魔術師では決して届かない筈の、『天の杯(せいはい)』の恩恵を受けている筈の桜を()()()()――。

「――――それを切り伏せる姉さんは何ですか。わたしが引き出せる魔力は、姉さんの数専売です。姉さんには一人だって、(わたし)を消す力なんてないのに、どうして」

 桜の疑問は当然だ。だが、その認識には若干の差異がある。

「どうしてもなにも、純粋な力勝負をしているだけよ。

 わたしは呪いの解呪なんてできない。単に、影を創り上げている貴女の魔力を、わたしの魔力で打ち消しているだけ。そんなの、見て判らない?」

「それが嘘だって言ってるんです……!

 姉さんにはそれだけの魔力はない。いいえ、さっきから何度も放っている光は、まるで」

 セイバーの聖剣のようだ、と。

 数多の影を斬り祓っていく様は、そうとしか思えない。

 だが、そんなことが出来るとも思えない。――しかし事実として、凛はその剣で以て影を殺して行く。

 桜にはそうとしか考えられない。

 その思考が決定的。

 ――〝魔術〟をどう学んだのか。

 本来の目的のために学ぼうとしたか、或いはただ誰かが成すことの為に従順なモルモットを選んだのか。

 それこそが、この勝負の行方を分けた。

「……その剣ですか。考えられないけど、それはセイバーの宝具の力を真似ている。姉さんに残った微弱な魔力でも起動する、影を殺すだけの限定武装――――」

「は? ちょっと、そんなコトも判らないの? 貴女、今まで何を習ってきたのよ、桜」

 知識の差。

 魔術が本来、何であったのかを知るか知らないか。その部分に置いて、桜は凛には及ばない。魔術師としての在り方、その部分については、桜はド素人の衛宮士郎とも大差ないとさえ言える。

 それだって、敵が武器を持つのであれば桜は戦闘特化の士郎には性能の部分で劣る。

 桜に出来るのは、生まれ持った才覚をそのまま振るうことだけ。

 無論それも、出力に際限のないバックアップがあれば凡人など千人集まろうと、ただの塵芥に過ぎない。

 しかし、それが同等の才覚を持つ人間。

 もしくは、その力を一点突破できるだけの力を備えている人間が相手であれば、戦況はたやすく逆転するのだと。

 まさに桜の直面している現実は、今の状況を表すにふさわしいと言えるだろう。

「な――――バ、バカにしないで……! だって、そうでなくちゃ説明が」

「説明も何もない。これはセイバーの聖剣のコピーでもないし、影殺しの魔剣でもない。これはね、桜。遠坂に伝わる宝石剣で、〝ゼルレッチ〟っていうの」

「え……? ぜるれっち……?」

 聞き覚えの無い名に、今度こそ桜の思考は停止しかける。

 まさしくそこで、両者の魔術に対する姿勢が別たれ、勝敗の行方は決した。

「呆れた。ゼルレッチの名前も知らないのね。……なんか説明するのもばからしくなってきたけど、まぁ、要するに貴女の天敵よ。

 今の貴女は、魂を永久機関にして魔力を生み出す、〝第三魔法〟の出来損ない。

 そしてわたしは――無限に連なる並行世界を旅する爺さんの模造品、〝第二魔法〟の泥棒猫(コピーキャット)ってコト……!」

 共に無限、無尽蔵の魔力を体現するモノ。

 だが、その一点に置いて戦闘がどう運ぶかは、担い手たちの力次第。

 そして今、第二と第三の魔法同士の拮抗した天秤の針は遠坂凛の方に傾き始めている。

 宝石剣が一閃するたび、振り払われた軌道の通りに光は影を(ころ)して行く。

 そればかりか、本当に小さなエクスカリバーともいうべき破壊力で、放たれた光と熱は空洞の内壁を削り振動させる。

 そこまで分かれば、確かにそれらは魔力のぶつかり合いである。

 単なる力比べに過ぎないが、それでも確かに今、双方は同じだけの魔力のストックがあり、その拮抗は崩れつつあった。

「あ――――あ」

「近づくまでもないわね。こっちはこう見えても飛び道具だし、アンタは影に守られて出てこないし。

 どっちかの力が尽きるまで、打ち合いをするのも悪くないわ。……ま、あんまり続けられたら、わたしたちよりも先にこの洞窟が崩れそうだけど」

「そんな……打ち合いなんて、それも嘘です。

 姉さんには、もうこれっぽっちも魔力なんて残っていない。その剣が何であれ、もう次の攻撃なんてできないはず――――」

「そ? ならやってみましょう。良いからかかってきなさい桜。貴方が何をしてきても、わたしには届かない。

 荒療治だけど、ま、授業料って思って諦めるのね。ちょっと強くなったからってわがまま放題しかコト、後悔させてあげるから」

「――――!」

 まだ、と。

 桜は影を振るおうとした。

 だが、影はもう守りの意味をなさない。姉の手から放たれる光、その一閃によって何もかもが霧散していく。

 もう既に、相手を倒すなどという考えはない。

 今はただ、自らに降りかかる恐れのみで影を使役している。

 焦り、混乱、そして恐怖は人を縛る。

 だからこそ気づけない。

 凛の額の汗や、一撃を振るう度に腕の筋肉を切断されるその代償に。

 

「どうして――――!? わたしは誰よりも強くなった。

 もう誰にも叱られなくなった。

 なのに、どうしていきなり、そんな都合よくわたしに追いつくんですか……! 姉さんの魔力じゃ、わたしに呑まれるしかないのに……!!」

「それが間違いだっていうのよ。いくらデタラメな貯蔵量があったって、それを使うのは術者でしょう。

 わかる? どんなに水があったって、外に出す量は蛇口の大きさに左右される。

 間桐桜っていう魔術回路の瞬間放出量は一千弱。

 ならどんなに貯蔵があっても、一度に放出できる魔力はわたしとさして変わらない……!」

 

 そう、初めから戦力差そのものは変わってなどいない。

 桜には大聖杯の中に眠るアンリマユが、凛には閉口に繋がる世界の魔力(マナ)が味方をしているだけ。

 双方は、自分自身の身体を媒体にして力を振るう。

 故に、結局のところはどちらの身体が先に壊れるのかが鍵となる。

 ……そして、それに関しては凛に分が悪い。

 しかし、今落ち詰められているのは間違いなく桜の方だ。なればこそ、そこに付け入る隙は確かにある――――

 

「きゃっ……!?」

「だから、わたしが用意するのはアンタと同じだけの貯蔵量じゃなく、毎回一千程度の魔力でいい……!

 そんなバカみたいに肥大した魔力なんて、持っていても宝の持ち腐れよ―――!」

 

 語られた理屈は判る。

 それでも桜には納得がいかない。

 魔法に対して関心の薄かった彼女にとって、本来であれば百くらいの姉の魔力が、千を毎回放てるのか理解できない。

 矛盾している。成立しえない事柄を可能としている、あの剣の力が。

 彼女にとって、魔力とは自らの内側。ないし、外にあるだけの有限の代物である。

 確かにそれは正しい。どれだけ濃密であろうとも、場に満たされただけの魔力は使い切ってしまえば空になる。ならば、その空を埋めるにはどうすればいいのか。

 答えは簡単だ。

 ――――魔術師とは本来、〝外にある力を自らのものとして扱う者〟を指す。

 足りないのならば、持ってくるのは当然外から。

 この大空洞を一つの魔力の満ちた世界だとするなら、桜に対抗できるだけの魔力はこの世界だけでは一度だけ。――しかし、もしもここに、その世界がもう一つあるのだとしたらどうなるだろう?

 仮にもう一つ、同じ大空洞がここに存在しているのだとした場合、集められる魔力はもう一度だけ回数を増す。

 しかしそれでは焼け石に水。

 どうあがいても、その後に続く攻撃を対抗することはできない。

 が、その〝もしも〟を際限なく現実にできるならばどうか。

 ――並行世界。

 合わせ鏡のように列なる『ここと同じ場所』に穴をあけ、そこから、ここに在ったのと同じだけの、その世界ではまだ使われていない魔力を引き出せるとしたらどうなる?

 姉が力を振るう度。

 其処で桜は、自身と同じ様な歪みを持っていることにようやく気付く。

「っ……! その歪み、聖杯と同じ――――まさか、姉さん!?」

「そう、よそから魔力を引っ張ってるはアンタだけじゃない。けど、勘違いしないでよね。わたしのは、そんな無駄に増えたモノじゃない。わたしはあくまで、並行して存在する大空洞(ここ)から魔力を拝借しているだけ。

 合わせ鏡に映った無限の並行世界から、毎回一千ずつの魔力を集めて、力任せに斬り払ってるのよ……!」

「そんな。そんな、デタラメ……!」

「わかった桜? そっちが無尽蔵なら、こっちは無制限ってコト―――――!」

 宝石剣・ゼルレッチ。

 それは、無限に列なる並行世界に路を繋げるという〝奇跡(まほう)〟を体現した代物。

 が、剣の能力はそれだけ。

 僅かな隙間、人間など通れぬ僅かな穴をあけ、隣り合う『違う可能性』を持つ世界を除く礼装。

 魔力を増幅する力は勿論、一撃を振るう度に千の魔力を生み出す力もない。

 しかし、それで十分すぎる。

 使い終われば次へ。

 それが終わればまた次へ、と。

 決して際限なく、僅かな差異があるであろう世界との路を繋ぎ合わせ、そこから魔力を引っ張てくるだけでも事足りる。

 桜と凛の魔術回路(せいのう)に差はない。

 ならば、無尽蔵と無制限。まったく異なる二つの事柄は、今この時に置いては全くの同位であるのだから。

 幾度となく力をぶつけ合い、桜はようやく攻撃を止めた。

「は――――あ、あ――――」

 仮にこのまま姉が力尽きるまで続けたのだとしても、その前にきっと洞窟が崩れ去り、祭壇が崩壊してしまうだろう。

 仮にその逆、崩壊を度外視して姉を殺しにかかっても、結局先に力尽きるのは自分。

 そうなっては、桜の敗北だ。

 ようやく気付いた敵の正体に、悔しげに歯噛みして姉を睨む。

 凛もそこへ攻撃することはない。結局のところ、二人の敗北の条件は早いか遅いか違いでしかない。ならば無駄撃ちをする意味もない。

 が、どうしようもなくなって、動けなくなったのは桜の方だった。

 そんな妹へ向けて、凛はこう言い放った。

「何度やっても同じよ桜。貴女が手に入れた力なんてその程度。舞い上がってた頭も、これで少しは冷えたでしょ」

 しかし、そんな姉の言葉に、桜は再び攻防を開始する。

「ふざけないで…………! そんなの不公平です、姉さん……姉さんばっかり、どうして――――っ!?」

 無意味だと判って、自らの首を絞めていると知りながらも、それでも〝間桐桜〟は叫び続ける。

 ずっと長い間鬱積し続けた、たった一人の肉親に対する恨みと共に。

「そうです……! わたしは姉さんがうらやましかった……!

 遠坂の家に残って、何時も輝いていて、苦労なんて一つも知らずに育った〝()()()〟が憎らしかった。

 だから勝ちたかった。一度ぐらい、一度でいいから、姉さんに〝凄い〟って褒めて欲しかったのに……! なのにどうして、そんなことも許してくれないんですか……!?」

 垣間見えた妹の言葉を、姉は無言で受け止める。

 迫る影を斬り払い、漏れ出す言葉だけをただ静かに。

 ……けれど、それは。

「どうしてですか!? わたしは違ったのに。同じ姉妹で、同じ家に生まれたのに、わたしには何もなかった……!!

 あんな暗い蟲蔵に押し込まれて、毎日毎日オモチャみたいに扱われてた! 人間らしい暮らしも、優しい言葉もかけられたコトはなかった……!」

 その憎悪は、姉である凛に対するものではなく。

「死にかけたコトなんて毎日だった。死にたくなって鏡を見るなんて毎日だった。でも死ぬのは怖くて、一人で消えるなんてイヤだった……!

 だって、わたしにはお姉さんがいるって聞かされてた。

 わたしは遠坂の子だから、お姉さんが助けに来てくれるんだって、ずっとずっと信じていたのに……!!」

 微かに残された希望に縋っていても、その望みは敵うことはなく。

 ただ毎日の、絶望だけが何もかもを塗り潰していくだけ。

 諦めてなんかなかった。耐えていたのも、縋れるだけの希望があったからこそ。

 だから、本当は……本当は、ずっとずっと待っていたのだ。

 自分が救われる日を。また、姉と笑い合える日が来るんだと。

 そう、信じていたのに――――。

「なのに、姉さんは来てくれなかった。

 わたしのコトなんて知らずに、いつも綺麗なまま笑ってた。惨めなわたしのコトなんて気にせず、遠坂の家で幸せに暮らしてた。

 どうしてですか……!? 同じ姉妹なのに、同じ人間なのに、どうして姉さんだけ、そんなに笑っていられるんです……!」

「――――――」

 ……その憎悪は、姉である凛に向けたものではない。否、誰かに向けられたものですらない。

 その想いは――優しくなかった世界と、そこを抜け出せなかった自分への、出口のない懇願だった。

「人間を辞めた、ですって……!?

 当然です。わたしはもうずっと前から、人間扱いされてこなかった。目の髪も姉さんとは変わって行って、細胞の隅々までマキリの魔術師になるように変えられた……!!

 ――十一年。十一年です、姉さん!

 マキリの教えは、鍛錬なってものじゃなかった。あの人たちはわたしの頭のよさなんて期待していなかった。

 身体に直接刻んで、ただ魔術を使うだけの道具に仕立て上げた。苦痛を与えれば与えるほど、良い道具になるって笑うんです。

 ……そのうち食事にも毒を盛られて、ごはんを食べるコトは怖くて痛いコトでしかなくなった。

 蟲蔵に放り込まれれば、ただ息を吸うことさえお爺さまの許しが必要だった……!」

 次第に影は、殺す為ではなく、縋るために迫る。

 ……泣いている桜と、同じように。

 そんな影を、凛は無言で斬り伏せる。

「……あは、どうかしてますよね。でも痛くて痛くて、止めてくださいって懇願すればするほど、あの人たちはわたしに手を加えていった。

 だから姉さんみたいに頭もよくない。何でも出来るわけじゃない。わたしにできることは、こうやって自分の痛みをぶつけるコトだけです」

 ――けど、と。

 桜はそういって、胸の裡に巣食う根底(ぎもん)を吐き出す。

「それってわたしの所為ですか?

 わたしをこういう風にしたのはお爺さまで、間桐に売り渡したお父さまで、助けに来てくれなかった姉さんじゃない……!

 わたしだって、好きでこんな化け物になったんじゃない……! みんなが、わたしを追い詰めるから、こうなるしかなかったのに……!!」

 懇願は何時しか嘆願に変わり、自分の痛みを知って欲しいと姉に言葉を投げる。

 ぶつけるたびに涙があふれ、痛かった日々が、辛かった時間が、何もかもが胸の裡から零れだす。

 溢れた思いは止められず、桜は今になってもまだ姉に縋りつく。

 ……決して、手を取ってくれなかった姉に。

 

「――――ふうん。だからどうしたっていうの、それ」

 

 一切の同情はなく。

 姉は可哀想だとも言わず。

憐れむ事さえも無く、妹の言葉をそう斬り捨てた。

「な――――――」

「そういうこともあるでしょ。泣き言をいったところで何が変わるでもないし、化け物になったのならそれはそれでいいんじゃない? だって、今は痛くないんでしょ。アンタ」

 肯定の言葉。

 これまで嫌だったそれも、なってしまった醜さも、何もかもを肯定された。

 暖かさを求めた叫びは、確かに行き過ぎてはいた。だが、それだけまだ姉が優しさを見せてくれるのだろうと高を括っていたのだ。

 凛は、そんな桜の想いをそのまま惰性に浸らせない。

 突き放す様に、今までがそうだったのなら、仕方がないだろう、と。酷くドライにそう言い切った。

 求めた温もりは否定された。

 怪物になった自分は肯定された。

 弱かっただけ、抗いきれなかった結果だろうと。

 何時も潔癖で完全だった姉が、誤魔化しようのない真実を口にした。

 

「姉さん――姉さんが、そんなだから――――!」

 

 だが、そんなものを求めてはいない。

 求めたのは、憐みだけではない抱擁。

 あの雨の日のように、そっと傷を舐めてくれるようなものが欲しかっただけだ。

 ……自分を助けてくれる何かが、欲しかったのだ。

 だけど、そんなものでは変わらない。

 結局、寄り添ってくれた温もりさえ払いのけて、そこまで堕ちたのは自分からだろうと、そう凛は桜に言ったのである。

 間違ってはいない。けど、正しくもない。

 間違っても許して欲しかった。大丈夫だよ、と。また立ち上がれるきっかけを欲した。

 なのに、伸ばした手は払い除けられて、

 辛かった日々は仕方ないと済まされて、

 怪物になってしまった自分は、それでも良いと肯定された。

 それがどれほどの絶望だったのか。姉に圧され、戦いを拒否しかけていた少女は、その裡に秘めた絶望と共に呪いを具現化させていく。

 そうして、戦いを選び取った桜に対して。

「そ。じゃあ、わたしからも一つだけ言っておくわ。

 わたし、苦しいと思ったことは一度もなかった。

 大抵のことはさらっと受け流せてたし、どんなことだって上手くこなせた。

 だからアンタみたいに追い込まれることもなかったし、追い込まれる人間の悩みなんて興味なかった」

 凛は平静な声で先ほどの彼女と同じように、自分がこれまでどう思っていたのかを語る。

「そういう性格なのよ、わたし。あんまり他人の痛みが分からないの。

 だから正直に言えば、桜がどんなにつらい思いをして、どんなにひどい日々を送って来たかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わないわ」

 簡潔な言葉に嘘はない。

 元々、嘘など吐く質でもない。

 凛は苦しみを訴える妹に対し、事実だけを口にする。

 そして、最後に。

「けど桜、そんな無神経な人間でもね?」

 真っ直ぐに。

 精一杯の気持ちを込めて、〝間桐桜〟を見返した。

 

 

 

「――――は?」

 

 

 

 今、あの人は何と口にしたのか。

 桜の中で、目まぐるしく思考が回る。

 理解できない理解できない理解できない。

 

 

 〝――――わたしだって、恵まれていなかった……?〟

 

 

 …………なに、を。

 何を、何をいまさら。

 憎悪に染まった脳裏は真っ赤だ。

 今になって、そんな都合のいい言葉なんて、ふざけているとしか思えない。

 

「今更――――恵まれていなかった、ですって……?」

 

 ――――うるさい。

 頭の中が余計なことでうるさすぎて捩れそうだ。

 何もかもが根底から壊れてしまいそうだ。

 ずっと自分だけ綺麗なままだったくせに。

 これまで一度もわたしのコトなんて振り返りもしなかったくせに。

 生まれ持った輝かしいまでの才能を、降伏と共に振りかざしていたくせに。

「よくも――よくも、そんな――――」

 わたしのコトなんて好きでも嫌いでもないくせに、

 持っていて欲しかったものを一欠けらさえも持っていないくせに、

 自分だけはキレイなままだと言い張って――――!!

 

 

 

「足りない――――!

 そんな言葉聞きたくない、そんな言い分けなんて聞きたくない、わたしは、姉さんなんてもう――――!!」

 

 

 

 要らない、と。

 そう、自らの闇を拒むように、叫んだ。

 

 そして、本当に狂いきってしまったかのように、桜は先程まで以上に暴れ出す。

 ……そこまでが、凛の限界。

 本当は、来てくれるのを待っていた。

 自分では救えないかもしれないあの子を、救ってくれるだろう少年を待っていたのである。

 それが〝遠坂凛〟の弱さ。〝間桐桜〟という少女に対する、弱さだった。

 本当は、もっと早くそうすべきだったのだろう。けど、それを他人に譲ろうとしてしまったのだ。……あの子の笑顔を戻してくれた、夕日の中でずっと諦めることをしなかった、あの眩しかった、仄かな憧れを抱いた男の子に。

 でも、それが間違い。

 桜が最初に待っていたのは自分だ。

 そして、訴えられてから漸くその痛みに気づいた自分は、どうしようもなく鈍い愚か者だった。

 ……だから。これまでの全てを今、この場で決着(けり)を着けよう。

 

「桜」

「――――え?」

 

 激高していた桜でさえ、呆然となったほどに何気なく。まるで、朝の挨拶でもするかのように穏やかに名前を呼ぶ。

 ――――その瞬間、凛はあっさりと勝負を決めていた。

「桜」

 そうして、もう一度名前を呼び。

 自身の方を向いた妹へ向けて、姉は最大の武器である魔法使いの遺産を惜しげもなく宙へ放り投げ、

 

「――――Welt(事象)Ende(崩壊)

 

 唯一の対抗策を爆散させた。

 宝石剣が爆散した際の光は、主を取り囲んだ影を全部取り祓い、阻む者の居ない道を造りだす。

 その道を駆け抜けて、一気に間合いを詰める。

 そのまま、もう一方の武器である短剣を手に持って駆け寄った瞬間。

 自分が殺されるんだと悟って動けずにいる妹の顔を前にして、

 

 〝――――――あ。ダメだこれ〟

 

 確実に殺った状況でありながらも、姉は自身の敗北を悟った。

 それと同様に、同じように自分が殺されるんだと理解していた妹は、姉への反撃を試みてはいたが、無駄に終わるのだろうと思っていた。

 

 〝――――殺され、るんだ〟

 

 双方は、お互いにその刹那を当然のように受け入れていた。

 互いに恐怖はない。

 〝間桐桜(じぶん)〟は他人に傷つけられることは慣れているし、であれば〝遠坂凛(たにん)〟によってそうなるのであれば、ごくごく当然のような気がする。

 またしても同じように、〝遠坂凛(じぶん)〟は――――。

 

 

 

 

 

 

 ……何時までも来ない痛みと、出血の感触を不思議に思い、瞑っていた目を開ける。

 確かに、血は流れていた。

 けれど、刺されて迸ると思っていた鮮血は何故か。

 自分の身体からではなくて――――

 

「ねえ、さん?」

 

 ――――自分を殺そうと迫っていたはずの、姉の身体から流れていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ねえ、さん?」

 

 直ぐ近くにいるのに、呆然となったような声はやけに遠く聞こえる。

 ただ、どうして? と言ったのは聞こえた。

 自分の方が早かったのは確実だった。……が、それでもこの結果が訪れたのは、つまるところ分かってしまったからである。

「……あーあ。士郎のことは言えないな、わたしも」

 そう。詰まるところ、理解してしまったのだ。

 ――――〝遠坂凛(じぶん)〟には、決して〝(いもうと)〟を殺せないんだ、と。

 どんなに変わっても、

 どんなに駄々を捏ねても、

 どれだけ悪い子になってしまっていても、

 それでも、桜は自分の妹なのだから、と。

 喪われていく熱を、腕の中に抱きしめた温もりで繋ぎとめる。

 ……全部消える前に、ほんの少しだけ、言いたいことがあったから。

 

 もうそこに、『魔術師』はいない。

 

 いるのは、

 いつも穏やかで、けど少し弱虫で、姉の後ろについていた妹と。

 皮肉屋で容赦がないけれど、暖かくて優しかった、妹思いの姉だけだ。

「…………はあ。バカだ、わたし」

 もっと早く気づけばよかったなー、と。他人事のように想い、そして呆れてしまう。

 それなら、もっと早く気づけと。

 最後の最後でドジを踏むというのも、筋金入りのうっかりさだ。

 ……けど。まあ、それも仕方ないのか、と納得してみる。

 

「……うん。でも、しょうがないわよね。

 わたし、だらしのないヤツを見てるとほっとけないしさ。きちんとした仕組みが大好きだから、頑張ってるヤツには、頑張った分だけの報酬がないと我慢ならないし」

 

 自分はそういう奴なのだ、と。

 そう自分を納得させて。そんな細かい事なんかよりも、どんなことよりも、明白な理由を自分中に見つける。

 最初からあったくせに、今思えばつまらぬ意地だった。

 ……魔術師同士の取り決め。そんなものの所為で、こうして近づけなかったって言うのなら、本当に、くだらないものだった。

 そうだ。最初から、〝遠坂凛〟は――――

 

「――――桜のことが好きだし。いつも見ていたし、いつも笑っていて欲しかったし。

 ……うん。わたしが辛ければ辛いほど、アンタは楽できてるんだって信じたかった。

 それだけで――苦しいなんて、思う暇すらなかったんだから」

 

 愛おしむように桜を抱く。

 一生で一度だけの、取り戻された姉妹の抱擁。

 ようやく手に入れた宝物のように、自らの腹部を貫かれたことなど放り捨てて、凛は柔らかく桜を抱きしめた。

「――――ねえ、さん――――」

 ……消えていく。恨み言なんて一つもなく、ただ自分では救ってやれないことを悔やみながら、遠坂凛が腕の中から消えていく。

 静止したかのような時の中。

 桜の脳裏には、混乱と言い知れぬ焦りの様なものが駆け巡っていた。

「ごめんね、こういう勝手な姉貴で。

 ……それと、ありがと。そのリボン、ずっと着けててくれて、嬉しかった」

 そう言って、舞い散った赤い花のように、凛は祭壇に崩れ落ちた。

「――――、ぁ」

 腕の中の重みが消えた。

 ほんの一瞬。蜃気楼のあやふやだった温かみと共に、姉だった人は消えていた。

 足下に広がる色は姉のもので……離れても、姉妹の絆をかろうじて繋ぎとめていた絆と同じ色だったもの。

 けれど今は、戻れていた筈の姉妹を引き裂く別れの色。

 在ったはずの温もりが消えていく。

 交わした言葉も、信を問わずに消えていく。

 

 〝――――けどね桜。そんな無神経な人間でもね。

 わたしは自分が恵まれているなんて、一度も――――〟

「――――、ゃ」

 

 ぶつけ合った言葉に込められていた孤独は、その言葉を口にした少女だけのものだ。

 抱いたであろう苦悩は、本人だけのもの。

 理解し、解放するなど、他人にはできない。

 そんな偽善は、絶対にない。――そう、思っていた。

 それと同じように、憧れた姉にもまた、同じような苦悩が在ったのだとしたら。

「――――――だ」

 ……だとしたら、どうなるのだろう。

 いつも自信にあふれて、欲しかったものを全部持っていた、理想そのものだった存在。

 そんな姉が、自分と同じように何かに縛られていた人間だったのだとしたら。

 本当は、

「――――わたし、が」

 弱くて悪いのは、自分の世界ではなくて。

 臆病で顔を上げられなかった自分だけだったのならば……。

 ――――そんな自分を、不器用ながら、愛してくれた人たちがいたのに。

 それを、今。

 手を濡らす鮮血が、取り返しのつかない間違いを犯してしまったのだと告げている。

 

 

 

「なのに――――わたしが、壊し、ちゃった……」

 

 

 

 ……何を間違えたのか。

 何処で間違ってしまったのか。

 全部あった。

 欲しかったはずのものは、全部目の前に在ったのだ。

 本当は在ったものを。あんなに優しく抱きしめてくれた人たちを、あんなにも想っていた人たちを。

 自分の手で、粉々に砕いてしまった――――

 

 

 

「――――――――――――、あ。

 ああ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………!!!!!!」

 

 

 

 抱き返すことも出来なかった両手は固まったまま。

 愛してくれて、愛していたはずの姉の地で染まり。押し寄せた後悔に融けるように、強く、自分自身を呪い始めていた。

 

 

 

 *** 贖いの花

 

 

 

 闇を抜けた先には、冬の少女の中にあった記録と同じ荒野が広がっている。

 いや、同じと言うにはかなり違った。

 景観の大まかな形こそ同じだが、目の前にある光景は、士郎がイリヤの中にあった記録とは大分違う。

そもそも、あの〝始まりの記憶〟の中には、あんなモノは存在すらしていなかった。

 地下であるにも関わらず、闇に濡れたような罅割れだらけの泥の柱が、黒い太陽へ向かって伸びている。

 ――――アレが、聖杯。

 戦いの元凶にして、勝手に桜を攫って行った間男のようなもの。

 おまけに、その中身は受肉しかけている。生まれ出でようとする、生命とするには行き過ぎたモノの息遣いにも似た何かが、この周辺を覆い尽くしている。

 すると、そんな不快なものを吹き飛ばす様にして、すさまじい光が煌いた。

 ……ああいう派手なことをする輩には心当たりがあるが、多くは言うまい。ともかく、あの場へ行かなくてはならない。

 幸いなのか。散々暴れているらしい暴走姉の暴れっぷりが気にくわずに、早く外へ出たがっている胎動が聞こえるものの、まだその身体は出来ていない。

 恐らく、あの泥柱が奴の胎盤のようなものなのだろう。

 そこで肉体が完成しない限り、外へは出られない。

 故に、誕生を阻害するかもしれない凛の暴れっぷりに焦り、早く外へ出ようともがいている。

 ……だが、それはつまり。

 悪性としての誕生を望み、そして世界を覆い尽くす魔王になるということだ。

 仮にその望みが他の誰かの物だとしても、もう既に人格さえ失った英霊の魂を〝そうあるべき〟だとして生み出しても、何にもならない。単に世界が滅びるだけなのだから。……それに何より、あの誕生には――桜が犠牲になるかもしれないのだ。

「――――ふざけろ」

 そういって走り出した瞬間、先ほどまでとは比べ物にならないほどの閃光が洞窟を照らした。

 闇に染まった洞窟を、一時光に染めた光。

 だが、それは直ぐに消えてしまい――代わりに、泣きじゃくる声が、最悪の予感を士郎の脳裏に浮かばせた。

 そして、崖の上に辿り着き――そこで見たものは。

 

 

 

「――――遠坂」

 

 

 

 地面が揺れている。

 うつぶせになった凛の顔は見えない。

 が、その地に崩れ落ちた様は、まるで茎から落ちた大輪の花に似ていた。

 その向こうに、

「…………、…………せん、ぱい」

 凛から逃げるように離れて、自身を罵倒している桜の姿があった。

「――――桜」

「……ちゃった。わたし、殺しちゃった。あんなに大切にしてくれてたのに、わたし、姉さんを、殺し、ちゃった――――」

 その声は誰に向けられたものではなく。

 ただ、自分で自分を拒んでいるためのもの。

 こうしている自分を。

 姉の地に濡れた自分、黒く染まった自分、自分に繋がった黒い影を、半狂乱になりながら、全力で憎んでいる。

 

「……わたし、馬鹿、でした。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなのつらいだけだった。ダメだって、負けるなって、姉さんはずっと言ってくれてたのに、わたし、バカだから分からなくて、先輩が信じてくれたのに、裏切って、ばっかりで――――」

 

 桜は今、後悔に濡れたまま立ち尽くしている。

 だが、それは――間違いなく凛が桜に勝利した証でもあった。

 姉の意地か、彼女は桜にちゃんと自分を取り戻させたのである。

 最後の最後で、凛はやはり桜の命を選んでくれた。――しかし、その勝利は少々乱暴すぎた。大切なものを取り戻した代わりに、また大切なものを失ってしまった。

 その感覚に苛まれて、桜は自分をまた嫌ってしまっている。

 影に抗って、拒み、戻れなくなることを恐れている。

 その拒絶はいずれ、桜自身までも殺してしまう。まるで、あの黒い影は令呪そのものの様だ。

 マスターを、サーヴァントが欲しているからこそ縛り付けるような。

 けれど、桜は桜だ。

 凛が果たした結果を見て、士郎は改めてそう確信した。

 ……だが、同時に悔いもある。どんなに影に呑まれてしまったとしても、桜は桜だった。だからこそ、あの時――呑まれてしまった桜を恐れなく止めていれば、こんなことにはならなかっただろう、と。

 ――――故に、その時のツケを今払う。

 

 凛に歩みよって、彼女の生存を確かめる。

 呼吸はまだある。かろうじてと言ったところだが、諦めるにはまだ早すぎる。

 だからこそ、助けるのだ。自分が、桜と一緒に。

「桜。遠坂は死んでない」

「――――――?」

「そうだ、死んでない。まだ助かる。――いや、どうあっても助けなくちゃいけないんだ。そうだろう、桜」

「あ――――え?」

 桜の瞳に、光が戻り始める。

 虚ろだった意識が、自分を殺そうとした自我が、姉を取り戻したいという思いによって払拭され始めた。

 自害を選ぼうとする意識が薄れたためか、影の拘束はほんの僅かに和らいだ。

 しかし、桜が安堵の息をもらした瞬間。

「っ――――! だめ、逃げて先輩――――!」

「――――、つ――――」

 気の緩みの準じるように、宿主をたぶらかす輩を始末しようと影が迫る。

 士郎は動けない凛を庇い、影の一撃を背で受け止めた。幸い致命傷に至ることはなかったが、人を傷つけてしまった事実が、また再び桜の心を揺らがせる。

「ぁ――――ちが、違うんです先輩、わたし、わたし……!」

 自分がしてしまったことに動揺する桜。

 が、今の一撃は桜の意思によるものではない。

 まだ生まれてもいないわりに、危機感知能力だけは一級品だ。宿主から引きはがされることを予期して、単独でその障害を排除しにかかったのだ。

 だからこそ、シロウは落ち着きを払って動揺した桜を宥める。

 これ以上、彼女を苦しめることの無いように。

「分かってる。往生際の悪いガキの仕業だ。桜を取られたくないって、駄々をこね始めやがった。

 ――――待ってろ。すぐにそいつをぶん殴って、桜から引きはがしてやる」

「だ――――やめ、やめて先輩――――!」

 歩み寄る士郎の首を吹き飛ばそうとした影を、桜はどうにか抑え込む。

 だが、影は未だに静まらない。

「は――――あ、あ、う…………!」

 湧き上がる影を抑えるようにして、桜は自分を強く押さえつける。

 だというのに、宿主の意思を塗りつぶす様にして、影は表に出て行こうと桜を圧迫し続ける。

「ぅ……うう、ううう……!」

 ……桜が泣いている。

 影を抑え込もうとする痛みからなどではない。

 自分を抑えきれず、あの影に操られるしかない自分が悔しくて泣いているのだ。

 それを見て、もう士郎は止まることはできない。

「……先輩、ダメ、です。わたし、抑えきれない。姉さんが教えてくれたのに、負けちゃうんです。……強くなんてなかった。わたしは弱虫で、臆病で、酷い人間だった……」

 また一歩。

 顔を影が霞めようとも、その歩みは止めない。

「――――! やめて、何で来るんですか先輩……!

 それ以上来られたら、先輩を殺しちゃう……!」

 桜は来ないで、と叫ぶ。

 殺したくない。姉にしてしまったように傷つけたくない。

 もう誰も、誰のことも傷つけたくない。

 だから、凛を連れて逃げて欲しいと嘆願する。

 自分事なんて忘れていいから。一人でも、ちゃんと死ぬから。これ以上、こんな姿を見られたくないから、と。

 しかし、士郎は止まらない。

 左肩の聖骸布に右手を掛け、そのまま桜の元へと進んでいく。

 そのことに驚いて、困惑して、桜はどうして逃げてくれないのかと叫ぶ。

「どうして言うこと聞いてくれないんですか……!?

 先輩、先輩がそれ以上近寄るなら、わたしだって我慢しません。先輩に殺される前に、私が先輩を殺しちゃうんだから……!」

 脅しらしいそれを受けて、ぼんやりと士郎はその的外れな部分を指摘する。

 そもそも、さっき言った通りだった。

 士郎は初めから、

「どうしても何もない。桜をここから連れ出して、遠坂を助ける。さっきそういっただろう、桜」

 最初からそう決めていたのだ。

 だから、桜のことも諦めない。

 だがそれを、

「っ――――まだ、そんな事を言ってるんですか、先輩は。

 ……やめてください。わたしは助かりません。いいえ、助かっちゃいけないんです。わたしは、生きてちゃいけない人間だった」

 桜は拒む。

 縋ってしまえば、また壊してしまうかもしれないから。

 だから、押しのけようとして影を士郎にぶつけた。腹に衝撃を受けた士郎だが、受けたのはただの打撲。切り裂こうとする影の意思ではなく、桜の意思で自信を退けようとしたものだと理解する。

「ほら、見たでしょう先輩。わた、わたしはこういう人間なんです。今更外には戻れないし、この子たちもわたしを離してくれない。

 それに――もし、戻れた、ところで。……わたし、いっぱい人を殺しました。何人も何人も殺して、兄さんもも殺して、お爺さまも殺して、姉さんも殺してしまった……!

 そんな――――そんな人間にどうしろって言うんです……! 奪ってしまったものは返せない。わたしは沢山の人を殺しました。それでも、それでも生きて行けっていうんですか、先輩は……!」

「――――――」

 士郎は、ことの根本を把握する。

 後戻りのできぬ道。

 贖うことの出来ない罪が、桜の足を止めている。

 ……救いはない。

 どうあっても、桜の意思でなかったのだとしても、多くの人から命を奪ったという咎は桜の心に在り続けるだろう。

 影から解放されて、元に戻ったところで、桜の中には昏い影が残ったままだ。

 けれど士郎は、先程までの凛と同じように――――

 

「――――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜」

 

 ただ死に浸るだけの選択を許さない。

 左腕の拘束を外し、かろうじて死を圧しとどめながら、最後の投影を行う。

 気が遠くなっていく。

 自分が無くなっていく。

 だが、その前に。口にできるうちに、桜に言っておかなく手はならない言葉が、ある。

「先、輩」

「そうだ。罪の所在も重さも、俺には判らない」

「っ……!」

 影が士郎の身体に突き刺ろうと襲い掛かる。

 だが、火花を散らすのみで、身体には刺さることなかった。

 そんな、士郎は自分の身体に起こっている以上を今は脇に置いて、士郎はただ決意を告げる。

「けど守る。これから桜が問われる全てのコトから桜を守るよ。たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通すことを、ずっと理想に生きて来たんだから――――」

 前へ。

 桜はもう目の前にいる。

 自分の身体はもう、影如き通さない。そのことを士郎は理解していたのか。

 驚愕を浮かべた桜の顔を前にしながらも、それでも最後の投影を行う。自身に残された魔力の全てを使って、士郎はある宝具を全力で複製した。

「先、輩」

「お仕置きだ。 キツいのいくから、歯を食いしばれ」

「―――――――」

 必死に息を呑む音がする。

 そうして。はい、と短く答える声を聞く。

 これが、桜にとっての罰になりますように。誰も罰してくれなかった少女に、これまでの罪を清算するための一歩を踏み出させる。

 何よりも――――

 

「帰ろう、桜。――――そんなヤツとは縁を切れ」

 

 何時までも縛られたままの彼女を縛る、その呪いを全て破戒できるように。

 契約破りの短剣を、彼女の心臓へ向けて、一息で突き刺した。

 

 ありとあらゆる呪いを無効化する、『裏切りの魔女』の持つとされる宝具。

 使用者の命ではなく、対象を取り囲む魔術のみを破戒するこの宝具は、呪いばかりではなく、サーヴァントとの契約すらも破棄することが出来る。

 まさしく、この場にうってつけの宝具だった。

 如何な悪性の化身と言えど、サーヴァントであることに変わりはない。

 それを利用し、操ろうとしている輩がいたくらいだ。効果を発揮するのも道理だったといえるだろう。

「――――――」

 視界が安定しないが、桜と凛が生きていることは士郎にも確認できた。

 ……同時に、アンリマユがもう桜を失った程度では止まらないのだという事実も。

 故に壊す。

 そう決めて、破壊を決意したのはいいが――傍らにいる二人の少女を巻き込むわけにはいかない。どうするべきか悩んでいると、そこには士郎の見知らぬ髪の長い女性がいた。

 ……いや。知っているのに、記憶が消えていく。

 そのことを悟られていながらも、それでも彼女になら二人を任せられる。

 名前も消えていく相手に、そこまで信頼を置くというのも奇妙な気分であったが、士郎に二人を託された紫色の髪をした女性は、二人を必ず助けるといい、そして最後にこう言い残した。

「必ず。ですが士郎、それは貴方も同じです。

 サクラには、貴方とリンが必要です。それを肝に銘じておきなさい。……私も、サクラを支えるのは貴方でなければ納得できませんから」

「……?」

「急ぎます。――――ご武運を」

 欠落した頭では彼女の言葉を全てくみ取ることは出来なかったが、それでも決意だけは伝わって来た。

 去っていく後姿を見送りながら、あれならば大丈夫だと安堵のため息を漏らす。

 彼女に任せていれば、きっと二人は助かるだろう。

 なら、後は最後の始末をつけるだけだ。

 

 そうして、誕生しようとする〝アンリマユ〟を消し去るべく、前に踏み出していく。

 

 ――――しかし、先へ進むことを拒む関門のように。

 そこには、自分と同じように、決して自らに返ることの無い願いを持った男が立っていた。

 大本が同質でありながらも、在り方はどこまでも対極に位置している。

 だからこそ、互いに互いを受け入れられない。嫌うことが出来なくとも、決して受けいれられない存在がそこにいる。

 互いに、今求めるものが遠すぎる。

 故に、判っているのは一つだけ。

 

 ――――互いが、互いにとって欲するものを。

 目の前の敵は、壊そうとしているのだということだけだ。

 

 そして何より、互いに自分が貫けなかったものを持っている。

 たった一人を想う愛を。

 決して歪まぬ路を歩む覚悟を。

 互いが、互いに失っているものを持ち合わせている。

 だからこそ、互いに嫌い合えず、それでも許せない。

 

 故に、彼らは激突する。

 

 敵を殺し、その望みを叶えるのか。

 敵を倒し、その望みを破戒するのか。

 

 賭したものはお互いの命。

 燃え尽きる刻限まで、その全てをぶつけ合う。

 

 泥だらけの、己の裡から生み出せない者同士が、単一無二の信念を宿せない紛い物をぶつけ合う。

 詰まる所、彼らの戦いとは即ち。

 

 

 

 〝外敵とのものなどではなく、自身を賭ける戦いである――――!!〟

 

 

 

 そうして。

 矜持などかけるべくもない、望みでのみぶつかり合う戦いの幕は下りた。

 守るべきものがなかったから弱かったのか。それとも――望み過ぎたばかりに敗北したのか。

 或いは失いすぎたばかりに負けたのか、失ってきたからこそ勝てたのか。

 その真偽は、誰にもわからない。

 だが、それでも少年は勝利を手にし――少女の元へ戻るため、本当の幕を閉じるために、崩れかけの身体を引きずりながらも。

 ――――泥の溢れる孔へと、向かって行った。

 

 

 

 *** 行間 歪んだ理想、眩く遠い理想

 

 

 

 少年が祭壇の最奥まで登ろうかという頃。

 遥か遠く、崖下の泥の中でもがいていた蟲は、嘗ての仇敵であるとともに――ほかの何よりも憧れていた『聖女』と再会する。

 ――そうして、最期の時が終わる。

 嘗て抱いた望みを思い出し、妄執に苛まれて過ごした五百余年の月日を思い返し。

 結局のところ、至る寸前まではいっていたのだがな――と、そう惜しみながら、老魔術師はこの世から消え去っていった。

 その魂を見送った『聖女』は、この場で守るべき少年の家族へと戻り、彼のことを追って祭壇へと向かう。

 

 

 

*** 姉弟(きょうだい)

 

 

 

 最期の時。

 泥の塊、呪いの権化の前に立ち、少年は左腕を開放した。

 この呪いを破壊しない限り、あの少女は幸せを取り戻せない。

 ……だが、もう一度。投影を使ってしまったら、砂粒程度にしか残っていない意識が全部消えてしまう。

 そうなれば、死んでしまうことと同義だ。

 よしんば身体が残っても、心が全て欠けてしまえばそれまで。

 でも、これを壊さないと。

 守りたいから、自分の命を賭す。

 ……でも、本当はもっと一緒に居たいと思ってしまった。壊れてしまう前に、また会いたいと。

 約束を、傍にいるという約束を守りたい。

 ――――死にたく、ない。

 すると、そんな声に応えるように。

 

 〝――――ううん、シロウは死なないよ。

 だって、この門を閉じるのは、わたしだから〟

 

 もう名前も忘れてしまった、声がした。

 覚えてもいないのに、思い出せないのに名前を呼んだ。

 ――――そうしなければ、―――は、二度と帰ってこないと。

 だけど、返って来たのはこんな問いかけだけ。

 

 〝――――ね。シロウは、生きたい?

 どんな命になっても、どんなカタチになっても、シロウはまだ生きていたい?〟

 

 それに頷いては駄目だ。

 そうしたら、―――が消えてしまう。

 だというのに、先ほどまでの願いに、頷いてしまっていた。

 けれど、その〝誰か〟は嬉しそうに笑う。

 

 〝――――うん。

 良かった、わたしもそうしたかった。わたしよりシロウに、これからを生きて欲しかったから〟

 

 だめだ。

 言いから戻れ。

 それ以上進んだら、帰って来られない。そいつは俺が、連れて行く。

 と、そう思って名前を呼ぼうとしたのに、頭が空白の虫食いだらけで、大切な名前が思い出せない。

 そうこうしている内に、声は、遠くへ――――

 

 〝――――じゃあ、奇跡を見せてあげる。

 前に見せた魔術(とおみ)の応用だけど、今度のはすごいんだよ?

 なんていったって、みんなが見たがってた〝魔法〟なんだから!〟

 

 いい。

 そんなのはいいから、こっちへ戻って。

 だって、―――は、―――を守るもんなんだから、そんなところにいないで、戻ってきてほしい。

 

 〝――――けど(うつわ)だけは安物かな。

 使えるのはわたしの体しかないから、完全に再現は出来ないの。でも大丈夫。リンといっしょに試行錯誤すれば、すぐに元通りにしてもらえるわ〟

 

「――――――――、――ヤ……!」

 

 〝――――じゃあね。

 わたしとシロウは血が繋がってないけど。

 シロウと兄妹で、本当によかった〟

 

 ダメだ――そう思ってるなら、そう思っているなら行かないでくれ。

 犠牲になんてできない。一緒に暮らすって言っただろう? 今まで一人だった分、寂しかった分、一緒に暮らそうって言っただろう? 

 それでも、どちらかが犠牲にならなければならないというなら、それは――――!

 

 

 

 〝――――ううん。

 言ったよね、兄貴は妹を守るもんなんだって。

 ……ええ。わたしはお姉ちゃんだもん。なら、弟を守らなくっちゃ〟

 

 

 

 最期に、そう優しく微笑みを向けて。

 自分がずっと横取りをしてしまった、たった一人の家族は。

 自分よりも一つだけ年上で、銀色の髪と、紅の瞳がとても綺麗な―――――

 

「イ――――――リヤ。

 イリヤ――イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ…………っっ!!!!」

 

 ――――たった一人の姉は。

 じゃあね、と。最後まで優しく微笑みながら……弟である自分を守り、扉の奥へと向かい、それをパタンと閉じた。

 

 こうして、短い弟と姉の邂逅が終わり――杯を収めていた空洞は崩れ去った。

 戦いは幕を下ろされ、弟は姉によって救われ、少女の元へと返った。

 

 何もなかったわけではない。

 苦労なんて、数える方がばからしい。

 けれど、それでもつかみ取った幸せを噛み締めながら。重ねた罪やツケを払い続ける。

 

 

 

 そうしてまた、時を重ね――――春が来る。

 

 

 

 咎を背負い、贖いを続ける春の花。

 ブリキの理想を捨てた少年。

 ――これは、華々しい物語ではなかった。

 喪ったものは多く、取り戻せかなかったものもあった。

 だが、それでも確かに生き抜いた人間たちの物語。

 

 喪い続け、その罪を背負う日々。

 それでいても結末は、酷く温かい。

 幸福は罪ではない。

 背負うことで、贖う咎もある。

 

 

 ――――そうしてまた、皆で春を迎えていく。

 

 

「桜、幸せ?」

「――――はい」

 

 数多の絆が壊れ、傷つき、そしてまた結ばれていった。

 奇跡を巡る物語は終わりを告げ、そしてまた、終わりのない物語が始まっていく。

 新しい一日、新しい未来を抱えて出かけよう。

 しかし、明日は休みだ。

 天気も晴れそうだし、これからの物語には一度筆を置くとしよう。

 

 

――――さあ。           

それじゃあ今年も、約束の花を見に行こう―――

 

 

 

 

 

 

 *** ――もう一度、始まり(ゼロ)

 

 

 

 ――――そして、舞台再び。

 元の〝始まりの戦い〟へと(かえ)って行く―――――

 


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