それは、いつの事からだっただろうか。
バイクが突っ込んできて、頭に大怪我を負った時か。爆破事件に巻き込まれて、脚に大怪我を負った時か。暴漢に襲われて、腕に大怪我を負った時か。
「どれも最近の事じゃないか。もっと前の事なんだろう?」
そうだ。もっと前。
この世に生まれ出でて、瞳を開けた時だ。
「それは消えないのかい?」
消えない。目蓋を閉じても、眠りに就いても、意識を落としても。
完全な暗闇というものは、私にとって、群青だった。
「うーん……ちょっと、分かるかもしれない人に相談してみるよ。いいかな」
曖昧に頷く。模糊に返事をする。
今尚、視界を埋め尽くす群青。彼らの周りを泳ぎ回る群青。
その一つを引き寄せれば、視界の端で男子生徒が肩を震わせた。
水野
僕らの高校は私立で、有名な進学校だった。
合格発表の時、段が同じだったためになんとなく覚えていた名前が、一緒のクラスで、前の席だった。以来、僕は良空の数少ない友人の一人となった。
うちの学校は私服オッケーっていう進学校だったので、みんなそれぞれの服装で自分を表現していたと思う。
そんな中で、もう一人似たような境遇の友人がいるけど、その友人とは対照的に、良空は目立たない子だった。
服装が毎日同じというわけでもない。色を揃えていると言う事も無い。騒ぐこともせず、話す事もせず、ただじっと虚空を見つめては、眠る。行動自体はもう一人の友人と似ているけど、そこに華々しさとか、凛々しさなんてものはない。儚げと言えば聞こえはいいけど、その実地味というレッテルを貼られて仕方のない特徴だった。
けれどそんな特徴よりも、僕が興味を惹かれたのは彼女の目だった。
目を開いているのに、起きているのに、夢を見ているかのような目。気怠く開かれたその瞳は、いつも濡れている様だった。
泣きそうなのか、眠そうなのかわからない。そんな在り方が、僕にとっての水野良空の全てだった。
そう。
もう一人の友人――式が、あんなことになるまでは。
「人殺しがあったみたいだね」
「――え?」
全身を黒で統一した名前通りの眼鏡は、今からお昼ご飯を一緒に食べよう、という時に、そんな言葉を放り投げてきた。余りの唐突さに私は言葉が出なかったけど、私の左隣に座る着物の女の子・式は、その物騒な単語に思わず聞き返してしまったようだ。
言葉は出ないけど、手は出る。ローストビーフサンドを手に取って、塞がらない口にそれを詰めて、顎を押し上げた。
「だから、人殺し。夏休みの最後の日にさ、西側の商店街でそういう事件があったんだ。まだ報道されてないけど」
「人殺し。それは殺人という意味で?」
「それ以外に人殺しの意味があるのかは知らないけど、そうだよ」
「それはまた、穏やかじゃないわね」
「うん。内容もかなりキワモノ。両手両足を刃物でばっさりやって、あとはほったらかしにしたんだって。現場は血の海でさ、現場をトタン板で隠したほどらしい。犯人は捕まってない」
「死因は酸欠? ショック死?」
「この場合はショック死だろうね。正確にはショック死が先で、酸欠が後だ」
ミチミチと自分にだけ聞こえる音を立てながら断たれるローストビーフ。断たれた後は磨り潰される。でも、血の海にはならない。ショック死はするかもだけど。
この全身真黒眼鏡は時たまこういう話題を振る。身内に警察関係者がいるのだとか。捜査状況を肉親に漏洩するくらいなので、あまり高い身分ではないのだろうけど。
「あ、ごめん。式と良空には関係の無い話だったね」
「別に。関係の無い話ってわけじゃないわ」
「私には全く関係の無い話だけど、興味はある。でも食事時の話じゃなくない?」
そうだね、と全身真黒眼鏡は頷いた。
ローストビーフは変わらず美味しいままだった。流石四八八円もするだけはある。高い。
放課後の教室。夕焼けの赤に染まるそこ。
「帰らないのか?」
「帰る必要が無いから」
「ふーん」
みんながしっかり下校した事を確認してそこに向かうと、決まって式――否、織がいた。良空がいるのは、時々だった。
彼女たちは何をするでもなく、窓の外を見たり、虚空を見つめたりしていて。
赤と黒。赤と白。
コントラストになりきれない教室で、良空は自分の机に座り、織は窓に寄りかかっている。
「帰る必要が出来た」
良空は僕を見るなりそう言って、教室を出て行く。僕が来ることが、帰る理由なのだろうか?
彼女の先の読めない行動はいつもの事だけど、今日は特段と読めない。
ただ、この赤い世界で、その青い瞳だけが爛と輝いていた事だけが、印象に残った。
「暗い……けど、明るいね」
群青に誘われるまま夜道を歩く。夜道は群青が照らし、月光は群青が遮る。
夜は出歩くなと、そう言われた。連続通り魔事件は未解決で、犯人はまだ捕まっていないからと。
でも、誘われたのだから仕方がない。余程の事が無い限り、私は群青の行きたい方へ行ってあげる事にしている。
今の私の様子を、かつての友人は夢遊病患者のようだと称した。
目を閉じたまま、確かな足取りで進む私を、夢を見ているようだと表現したのだ。
「――」
それは半分正解だと、私は言ったと思う。
群青は夢の中にも現れる。目蓋の裏にも表れる。
でも、半分は間違いだと思ったはずだ。
今の状態が夢遊病だとするのなら、それは私の平時と同じ。目を開けていようと、閉じていようと、何も変わらずに群青は現れる。ただ、目を開けている体力が勿体無いから、目を閉じているだけなのだから。
「――」
音を聞き取るのも、口を動かすのも億劫。ただ、足だけが群青と同じ方向に動く。彷徨っているわけじゃない。私の行きたい場所は、最初からわかっている。
ほら、群青が止まった。
その場所に、目的がいる。だから、目を開けた。
「……やっぱり」
そこには、首の斬られた真赤な死体と――白い着物の、学友が佇んでいた。
「幹也もソイだね。毎週通うの、億劫にならない?」
「……マメ、って言いたいのかな。うん、ならないよ」
「まぁ、考えるのも面倒だから、別にいいけど。それじゃ、いってらっしゃい」
全身真黒眼鏡は大学を中退した。この真面目ちゃんがそれを決断したと言う事だけでも凄いのに、なんでも親に相談せずに実行してしまったため、家出状態なのだとか。
それでいて就職はしているのだから手が付けられない。その就職先はどうにも怪しいのだが、賃金は出ているらしいのでノーコメントだ。
「たまには良空もどうかな」
「……驚いた。土曜日だからって、選択授業が無いと思ってるの?」
「あぁ……そうか。ごめん」
「まぁ、とってないけど」
キャラメルチョコチップソースキャラメルフラペチーノwithチョコレートソースを一気に飲み干して、口元を拭く。
「私が行っても、式は喜ばないよ」
私達の共通の友人・両儀式は、現在昏睡状態である。
「うん、キミの持っているチャンネルは中々に珍しいネ。”歪曲”や”発火”みたいな物理的な物じゃない。存在不適合者である事は確かだけど、それが何か害を齎すというわけでもない。”常識”はしっかりあるし、なんなら良識的だ。
きみネ、ボクに相談してきてくれたのは嬉しいけど、どうしてほしいのかな。きみの言う”群青”を見えなくするには、キミの異常なチャンネルを破壊するしかない。でもそれってつまり、脳を潰すって事サ。簡単に言えば殺すってこと。それは嫌だろう?
うん、だから、ボクに出来る事は何もないってコト。”掠取”のように破滅的なチャンネルだったらこっちも考えたけど、聞いた限り”群青”は無害だ。ただ、物の寿命が見えるだけなんだからネ」
「そうですか」
「あっさりしてるネ。実はきみ自身も気にしていなかった、という所かナ。ちなみに聞くけど、ボクの”群青”はどんな感じなのかナ。どこにいるんだい?」
「ここにいますよ。押し込もうとしても掴もうとしても全く動かない辺り、博士、相当しぶといと思います」
「そりゃあ嬉しいコトを聞いたネ。とまぁ、そう言う事で。立て続けに二つの案件を出してくる辺り、蒼崎くんは元気そうだね。良かったよ」