一九九六年、一月。
冬の斬り付けるような寒さに震えながら、私は一人繁華街を歩いていた。
夕暮れの学校を出た後の、着の身着のままであるから、少しだけ後ろめたい感覚に後ろ髪を引かれながらも、明るい場所から暗い場所へと突き進んでいく。
深夜十時の誘い。真夜中手前の彷徨い。道辻に眠る夢見人。
目蓋の裏にそんな文字を浮かべながら、群青の導くままに歩を進める。
瞳は閉じている。それでも見える群青を頼りに、目的の場所へと急ぐ。
私服オッケーな学校で良かった。これがもし制服着用義務等であれば、確実にしょっ引かれていた事だろう。今でさえ少々危ない絵面であるのは自覚しているのだし。
余程の事が無ければ私は群青の行きたい場所に行ってあげる。それが生存の近道である事を知っているし、何より彼らは無意味なコトをしないから。
今日、友人に事実を告げた。
貴女はもうすぐ死ぬ。群青に魅入られていると。
そうしたら友人は、朗らかに笑って、”それは俺だよ”と言ったのだ。
直後に現れたもう一人の友人によって群青が動きを見せた。だから、私はいまここにいる。
貴女ではなく貴方であったことなど、気付くにそう時間はかからなかった。
そんな素振り、全く見せなかったのに。
改めて群青を見てみれば、酷くイビツな――三つの群青が彼女にあったというのに。
私は群青に従う事を優先して、友人を見殺しにしたのだ。
その罪悪感もあってか、この群青の行く末だけは何としてでも見届けなければならないと思っていた。
「……別に、私が悪いわけじゃない……はず」
ひとり呟く言葉に自信は無い。
それを教えてくれる人は、誰もいなかったし。
ただ、昨日まで友人だった存在が死ぬという――得体の知れない感情だけは、どうしても上手く処理できずに、心に蟠りのようなものを作っていた。
私はこれを、なんて呼べばいいのか知らないのだ。
分からない事を怖いと思う心さえも、育っていなかった。
だってこれは、両親が死んだ時から私の中に存在する、酷く当たり前の感情だから――。
“いらっしゃい。ちょっと寄って行くかい、お嬢ちゃん?”
歩を止めて、瞳を開く。
ガジガジとノイズのかかる群青。魅入られてこそいないけど、その動きは遅い。そう、長くは無いかもしれない。
あの赤い夕暮れの世界から一転、高い建物に囲まれたここは、繁華街の光さえも届かない紺碧の世界。深い青だからこそ群青は目立つ。その身を仄かに光らせて、ヒトダマのように漂い浮かぶ。
群青の辿り着いた存在は、一人の占い師の女性だった。
確か――なんだっけ、学校の誰かが話していたような。良く当たる占い師、だっけ?
「そ――」
れは、なんとも胡散臭い。そう言おうとした口をぎりぎりで噤む。
いつもの角の立つ冗談は、ある程度気心の知れた……具体的に言うとあの真黒眼鏡だからこそ投げかけられるもので、初対面の相手に言う言葉じゃあない。
「私を占っても、出て来るのは”死なない”って事だけだと思うよ?」
慎重に言葉を選んだ結果がこれだ。年長者に対する礼儀のれの字も無いけれど、私も寿命を視る者として、どこか対抗意識があったのかもしれない。
一応、虫眼鏡を持っているから、手を出してみる。
占い師の女性は私の手を掴むと、まじまじとそれを眺め始めた。あ、
「私は死なないんだ。そうであるように生きているから。どんな悲劇を占われても大丈夫。死ななければ問題は無いよ」
私の言葉に呼応するように、私の群青が跳ねて回る。
ただし、喜んでいるわけではない。その動きは、茂みから大口を開けて獲物を狙う肉食獣のソレだ。群青は決して私を狙わないわけではない。
“確かにアンタはちょっとやそっとのことじゃあ、死なないだろうね。でも、アンタは必ず死にたくなる。自ら死を選ぼうとする”
その、おかしなほどに的確な言葉を聞いて、瞬時にそれを忘れた。
「ダメだよ、お婆さん。私はソレ、見たくないんだから」
そうかい、と占い師は微笑んだ。
まるで我が子を、否、生まれたばかりの幼子を愛でるかのように、優しい手つきで私の手を撫でるように揉む。その意味を理解する事は、今の私にはできなかった。
「それでも私は死なないよ。ゼッタイ。それよりさ、お婆さん。私、欲しいものがあるんだけど」
“それこそダメよ、お嬢ちゃん。私じゃそれをあげられないもの……それは、くれる人からもらいなさい。いい? 欲しがるものを、違えてはダメよ?”
占い師は迷子の子供に帰り道を教えるように、優しい声で言う。
ズキ、と胸の奥が痛んだ。
まただ。水野良空は、これを知らない。
“そう――まだ、知らないだけ。大丈夫。それをくれる人と、それを教えてくれる人は違うけれど――どちらも、貴女のすぐそばで、あなたを見守っているから”
けど、そうなのか。
答えがすぐ近くにあると知って、安心した。
先行きの不安は元から無い。安心したのは、この心のざわめきに対してのこと。
「……じゃあ、お返し。貴女はまだ、これから……十五年以上は生きるでしょう。貴女の群青、初めは大人しいと思ったけど……ううん、根がとびきり強いだけで、凄く元気だからね」
群青に誘われた路地裏の、灯りの無い世界にお別れの言葉を告げる。
次第に増えて行く生活の光。そして減っていくともしび。
街路樹が増えてきて、木々のせせらぎが耳朶を打つ。
その心地良さに思い出したのは、とある先生とクラスメイトだった。
“――すぐそばで、あなたを見守っているから――”
うん、じゃあ、焦らなくていいね。
選択を避けるように、曖昧に隠した本音を夜空に溶かして。
今はまだ、良空は何も知らない。幼いままに、生存効率だけを見て生きる群青色。
罪の意識は消えないし、心に在るソレが何かはわからないけど。
誰かが私を見守っていてくれるのなら、いつか必ず教えてもらえると信じて。
「けど、お嬢ちゃんって……私、もう高校生なんだけどなぁ」
寒空に不満を一つ。
もちろんそれが身体の成長ではなく、心の成長である事は知っているけれど。
ひどく曖昧な、夢を見ているような思い出を胸に、私は帰路へと就くのだった。