雲行きが怪しくなってきた。
私は良空なんて名前だけあって、晴れ女だ。別に関係はないのだろうけど、行く先々で雲が引いていくから、晴れ女と名乗っても良いと思う。
傘を持っていない時に雲行きが怪しくなる事は生まれてからただの一度も無かった。
ようやく運が私を見放したか。
それとも、私以上に強く作用する雨女、雨男が近くにいるのか。
もうすぐ二月の雨は冷たい。早く帰らないと。
「……お嬢さん、此処で何をしているんだい?」
声を掛けられて振り向くと、そこには痩せこけた頬のおじさんが立っていた。目元には隈があり、何日もお風呂に入っていないのか、体臭がきつい。
浮浪者――もしくはホームレス。同じ意味かどうかは考えない。
「……」
「あぁ、安心してくれ。別に何もしないよ……何をする気力も、ないからね」
おじさんはフラフラした足取りで近づいてくる。
近づいて――私の横を、通り過ぎた。
「……少しだけ、ありがたいかな。一人は寂しかったんだ……沢山働いて、沢山苦労してきた人生を……独りで
群青がおじさんの顔の前で鎮座している。
もし群青に顔があれば、舌舐めずりでもしていそうな距離だ。
カン、カン、と音がする。脚立を昇る音。
ギシ、と音がする。ロープを掴む音。
振り返る。
「今まで頑張って生きて来たけどさ……昨日、ちょっと、死にたくなったんだ。もう、いいかなぁって。私は、俺は、十分に頑張ったから、って……」
「……貴方は、今、不幸?」
私が言葉を発すると思っていなかったのだろう。おじさんは少しだけ目を瞠る。カシュ、という音。手に持った缶ビールを開いた音。
おじさんは柔らかく私に微笑んだ後、それを一気に飲み干した。
「いいや、幸運だよ。
……んぐ……ん。……ふぅ。
……だって、俺のどうしようもない人生に、ようやくピリオドが打てる。それを記憶してくれる人までいる。これ以上の幸運があるかい?」
「……私は何もしないよ」
「うん、それでいい。
おじさんはゆっくりとロープを引っ張って、輪っかになっているそこに自身の首を乗せる。大きくため息を吐いた。いや、深呼吸か。
自殺。自分殺し。自らを殺す。
そこに至ってしまった者は、なんであれ不幸。
「……ごめんね」
「え?」
「もしかしたら……今からの光景は、君にとってトラウマになるかもしれない。君の心に傷をつけるかもしれない。でも、もうつらいんだ」
おじさんは、脚立を蹴った。
宙吊りになる体。上質とは言えないロープがおじさんの首へと喰い込んでいく。
蒼褪めるその肌と苦悶の声。赤らむ頬は緑に変色していく。
連動して、群青がおじさんの中へと入って行く。
「ガ……ッ……」
ジタバタ。
手足をめいっぱい暴れさせて、目をめいっぱい開いて……その行為が、首への締め付けを増長させる。
「――」
そうして。
そうして、おじさんは……動かなくなった。目、口から液体を零して。依れたズボンも異臭を放っている。
おじさんは自殺した。名前も、何をしている人かも知らないおじさん。
「……幸運だ、って言ったのに。つらかったの?」
群青がおじさんから離れて行く。寿命は死体に興味が無い。
先程まで暴れていた事で発生した慣性力だけが、おじさんをぶらんぶらんと揺らす。
ついさっき大通りですれ違ったおじさん。私の事は覚えていなかったようだけど。
進行方向へ先回りして、この廃倉庫を見つけて。
「でも、ありがとう、とは言われた」
なるほど。
助けなくても、看取れば言われるのか。
ゴロゴロ……と神鳴りが聞こえる。
そうだ、雨が降りそうなんだった。
帰らないと。
雨が降ってきた。
これは間に合わないと思ってコンビニでビニール傘を買っておいて良かった。
人通りの少ない郊外へ向かう道は、車通りも少なくていい。車は、水を跳ねるから。
曇天はあまり好きじゃない。青空より、鮮明に群青が見えてしまうから。
世界に溢れる群青。路地裏で寒さに怯える野良猫にも、雨に濡れまいと葉陰で翼を畳む鳥にも、傘を差さずに肩を落として歩く少女にも、等しく群青がついている。
「~♪」
雨が音を掻き消してくれるから、雨自体は好きだ。歌を歌っても気にされない。
嫌いなのは灰色の空だけ。雨も、風も、好き。
野良猫と少女は群青に魅入られていた。樹上にいた鳥だけが、元気な群青を侍らせていた。あの鳥はまだまだ生きて行くだろう。
野良猫の群青を動かしてあげた。これで、誰かが拾ってくれるか、雨の後も生き延びるだろう。
あの女の子は、いいや。
「~♪」
チャプチャプと音を立てて、郊外の方へ歩いて行く。
住宅の数がどんどん減っていく。
代わりに増えて行くのは木々。森林公園が近い。
出先で雨が降るのは初めてだから、ついつい寄り道もしてみたくなる。
雨の景色、というものを見る為に、公園へ立ち寄る。
中ほどまで歩いた辺りで、懐かしい顔に出会った。
「久しぶりだな、良空」
紺の着物の上に、赤い革ジャン。ミスマッチ。でも彼女が着ると似合ってる。
近くには脱ぎ捨てられた黄色の雨合羽。なんで脱いだのだろう。
「や、久しぶり。式」
雨足が強くなる。
あぁ、雨女は式だったのか。
「おかしいな。やっぱり、実感が湧かない。昔からそうは思ってなかったけど、おまえはオレとは違う。やってることはケダモノのそれなのに――なんでだ?」
「そんなの、わかりきったことだよ、式。
私は人殺しじゃないもの。人殺しは貴女だけ。そうでしょ?」
目の前の少女は殺人者だ。
だって、私は見た。あの夜――彼女が首切り死体の前で嗤い、幹也を傷付ける所を。
だから私は彼女に会いたくなかったんだ。私が行っても式は喜ばない。目撃者が来て喜ぶ殺人者なんて、どこにもいない。
彼女の群青を見る。元気だ。
私の群青を見る。少しだけ、いつもより大人しい。
それは、恐ろしい事だった。
「……私は死にたくない。嫌だよ、式。私は死にたくないから――殺したくもない」
「じゃあ――こっちに向けているその手は、なんだ」
「だって、殺されそうなら――殺すしかないじゃん」
それは、ふたりを動かすに十分な動機だった。
メキ、と音を立てて森林公園の樹木が式の方へ倒れてくる。一本だけではない。立て続けに二本、三本と、根元が腐り果てた樹木が倒れ被さってくる。
だが、姿勢を低くして疾走の準備をしていた式に追いつく物では無い。彼我の距離、十メートル。それは一瞬にして――二・五秒の間に、式は良空の前に辿り着いていた。良空が付き出した腕の真横に。
ナイフによる刺突。
その切っ先が狙っている場所は、心臓でも頭蓋でもないが――良空はその神速の突きに対して、ただ視る事で対応した。
ぐず……と崩れ出すナイフに、即座にそれを捨てる式。
地に落ちたそれはボロボロに崩れた。赤錆と共に。
式の両目は青白く光っている。良空の両目は群青に光っている。
どちらもが死を見る瞳。万物に死を告げる目。
だが、式の方が些か直接的だ。
その事実に式は嫌気が差して、右手の人差し指で自身の両目を潰す――。
「へぇ、これが死にたくさせるってヤツか。怖い怖い」
「ッ!」
――前に、右手の手首を式は左手で掴んだ。
それだけで、式に右手の感覚が戻る。いや、正確には、右手と意思を統一した、とでもいうべきか。
「でも、残念」
式は薄く嗤う。先程までの良空は到底殺人鬼には見えなかったけど――今の良空は、完全に同類だ。どうしてさっきまではそう思えなかったのかわからないが、今がそうなら、それでいい。
ただ問題は一つ。
全く、視えない。
「……貴女の方が深い。けど、チャンネルは同じ。だから、貴女は既に視えている。ただ、視ている場所が深すぎて、視えなくなっているだけ」
「へぇ、わかるのか」
「私は、貴女より長く死に触れてきたから。生まれた時からずっと、傍に死があったから」
モノの死が視える。それは良空にとって、当たり前のことだった。群青色は決して良空の味方ではない。虎視眈々とその機会を伺う死神。それが群青だ。
死を視るチカラにおいては式の方が何倍も上だろう。だが、死を回避するチカラでは――シキを悟るチカラにおいては、良空の方が上なのだ。
「ねぇ、なんで私を殺すの、式」
式は答えない。不思議そうな顔をして、立ち止まった。
「私はただ――ありがとう、って言われたかっただけなのに」
良空はソレを知らないから。ソレに似ているモノを欲しがった。
「良空、もしかしてオマエ――」
カッ、と――、
世界が、瞬いた。
雨が降り始めた頃、僕は事務所に帰って来ていた。
「これで三件目。自殺者はホームレスの五十四歳。
「……」
「黒桐、水野良空は」
「良空は……そう言う事をする子じゃ、ないと思います」
「……そうは言うがね、黒桐。これだけの被害は――」
ドン、と。
カバンから取り出した書類を橙子さんの机に置く。
目を白黒させている橙子さんの前にそれを見やすいように広げた。
「……これは?」
「バイク事故を起こした藤沢卓巳、爆破事件を起こした工藤直子、良空を襲った佐上直哉。彼らについての調査結果と、自殺未遂に終わった十七人の再調査結果です」
橙子さんは顔を顰めながら、それを検分し始める。
次第に深くなっていく眉間の皺。しかし、ある程度読み進めた橙子さんは、もういいや、と言って書類を机に置いてしまった。
「所長、ちゃんと――」
「いや、いいよ。わかった。数枚見ればわかる。
つまりさ、お前はこう言いたいんだろう、黒桐。水野良空は無理矢理自殺をさせてからソイツを助けているのではなく――たまたま居合わせた死の運命にある奴を、身を挺して助けていたんだ、ってさ」
そう。
三件の内、三件とも――良空がいなければ死んでいただろう、という事を証明した書類。
バイク事故の運転手は、飲酒をしていた。バイクの整備不良でブレーキが利かなかったのは事実だが、当時の速度のまま走っていれば大事故必至だったという。
もし良空を撥ねて転倒していなければ、運転手は死んでいたかもしれないと、大輔兄さんは言っていた。そして、良空は家とも大学とも関係の無いそこに、何故かいた、とも。
爆破事件の犯人は下半身を瓦礫に潰されたが、何とか生きていた。犯人と同じ階――駐車場に良空はいて、彼女も怪我をした。爆破予告はしてあって、館内放送もしてあった。逃げる時間は十分にあったのだ。犯人は病院でうわごとの様に、自分を睨みつける少女の亡霊がいた、などと呟いていたらしい。
良空を襲った教師はクスリをやっていて、服毒死一歩手前だった。逮捕後、今尚治療中だという。逮捕されていなければ奪った金を使い、クスリの購入に使っていた事だろう。
「よくもまぁ、この短時間でこれだけ調べたものだよ。その辺の探偵でも無理だ」
「それで、所長。これを見てください」
書類の一番下。
あまり気分の良い物ではないから一番下にしていた、黒い背景色に白字の掲示板を印刷したモノ。
顔を顰めながらその書類を手に取った橙子さんは、内容を目で追っていく内に、嫌気が差したのだろうもう一度煙草を手に取って、今度はしっかり火を付けた。紫煙を吐き出す。
「……なるほど。完全パスワード制の自殺者掲示板ね……これは見つからないワケだ。こんなもの、どうやって見つけた?」
「入水自殺を試みた警察官の志藤みつこの携帯から見つかったサイトです。自殺したい人が書き込みをすると管理人が自殺場所を用意してくれる――そういうサイトみたいですね」
最近あった自殺未遂事件、その全てがここに書き込まれていて、どうせ死ぬならこういう手法が良い、こういう手法を試してみないか、等という吐き気を催す書き込みまで見つかった。
既に警察は管理人のIPアドレスから調査を始めている。
「水野良空は何かの経緯でここを見つけ、自殺者達を助けていた、という事か。なるほど? それなら喫茶店で水野良空が起こした癇癪にも納得がいく。書き込みがある度にわざわざ足を運んで助けていた自殺者達を、どちらにしろ不幸、だ等と言われてはやる気も無くなるだろうね」
「……はい。今から良空の家に行って謝ろうと思っています」
「……式は良空が殺人者だと思ったまんまだから、克ち合っていないといいんだが」
その時、郊外の方で稲光が輝いた。
遅れて、大きな雷鳴。どこかに落ちたかもしれない。
「行ってきます」
「あぁ、気を付けろよ」
まだ雨が止む気配は無い。