天から落ちてきた膨大な熱量を肌で感じながら、しかし私の心は穏やかだった。
何故?
死なないことが分かっているから?
確かに私は群青に魅入られていない。でも、目の前の人殺しもそれは同じ。私と彼女のチャンネルは同じで、彼女の方がより深いのだから、たとえこの雷で死ぬ事が無くとも、彼女になら殺されてしまうかもしれない。
私はそれが怖かった。
怖いと同時に――焦がれていた。
熱く。熱く。焼け焦がれるような感覚が脳を灼き、支配して離さない。
先日混線した、名前も知らない誰か。彼の満足が、彼の平和が、アレが欲しくてたまらない。
彼はお腹を刺されていた。自殺ではないだろう。あれは、誰かに刺されたのだ。
だが、死を受け入れていた彼は――あんなにも穏やかだった。
あそこまでになれるとは思わない。あれは完結していて、完成している人間だったから。
でも、近づきたいと思うようになるのに時間はかからなかった。
ただ、私は、欲張りで。
未だ味わった事の無い”ソレ”だけは、死ぬ前に欲しいと――そんなことを思ってしまった。
自殺は嫌だ。絶対に厭だ。
だから、他殺が良い。殺されたい。彼の様に、殺されて、”平和”を得たい。
そんな破滅思考から、自殺希望者たちの集うサイトを見つけて。
でも、私は欲張りだから。
“不幸”な人たちが”不幸”なままに死んでいくのが、許せなかった。書き込みをした人が誰かは分からなかったけど、管理人なる人物が用意する場所には心当たりがあって、手の届く限りは助けた。まるで玩具の様に、やってみようか、なんて軽い言葉で示されていく自分を殺す手法に吐き気を催しながら、群青を用いて彼らを助けて回った。
昔からそうだった。死の運命にある人を――群青に魅入られている人を、放っておけなかった。
放っておくのは、本人から助けは要らないと言われた場合だけ。
余程の事が無い限り群青に従う。その言葉に嘘偽りはない。
だから、私にとって群青から人を救うのは、余程の事なのだ。
でも、それも最近、自身の本音を覆い隠すための建前なのだと気付いた。
そう。
私はただ、ありがとう、と言われたかっただけ。
心が温かくなるその言葉。ママも父さんもくれなかったソレを、私が助けた人は言ってくれる。だから、必死で助けた。誰か一人くらい気付いて、言ってくれるんじゃないかって。
それを幹也に否定された時は、思わず怒ってしまった。これで私が彼女に殺されたら喧嘩別れだ。大切な友人なのに。子供みたいな癇癪を起さないで、すぐに謝ればよかったかな。
でも、これは譲れないことだから。
ああ。
もう、白光が近い。
この神鳴りで死ぬ事がないとわかっているのに――これは走馬灯なのかな。
式は左腕を天に掲げている。
違う。
あれは――ナイフ?
「――万物には、全て綻びがある。大気にも――雷にも」
式はそのナイフで。
雷を、殺した。
轟音諸とも、天からの怒槌は死に絶えた。
雨の音だけが嫌に響く。
蒼崎橙子謹製の義手に仕込まれていたナイフを天に掲げたままの姿勢だった式は、それをゆっくり、呆然と立ちすくむだけの良空へ向ける。
そして――、
「やめた」
――踵を返した。
「……どう、して?」
「何が?」
「私を殺さないの、式。あなたは人殺しでしょう?」
「なんでオレが自殺の手伝いなんかしなきゃならないんだ。死にたいなら勝手に死ね」
式はそれだけ言って、振り返ることなく歩き出す。
雨は止まない。ただ、雷はどこかへ去って行ったらしい。
ただ、雨が降り注ぐだけだ。
「……ちぇ」
式の姿が見えなくなってから、良空も動き出した。
悲壮感はない。茫然自失と言った様子でもない。ただ、少しだけ悪びれている。
「式なら殺してくれると思ったんだけどなぁ」
言葉は雨に掻き消されていく。
一つ伸びをして。
何も無かったかのように、良空も歩き出し、
「良空!」
その声に、顔を上げた。
良空の家に向かう途中にある、森林公園。
そこで轟音がしたという話を聞いて、向かってみた所、案の定とでも言えばいいのだろうか、良空が立ち竦んでいた。
捨てられたビニール傘と雨合羽。倒れた三本の木。
良空はこちらを向いているのに、僕に気付いていない。俯いたままだ。
彼女に声を掛けると、ようやくその顔を上げた。
まるで迷子になった子供みたいだ、という感想を抱いた。
「あれ、幹也。どうしたの?」
「……謝ろうと思って。良空のしてきた事、否定するような風に言っちゃった事」
「ああ……別に、私が子供だっただけだから、いいよ。こっちこそごめんね、あんなふうに怒ったりして」
ゆっくりと此方に歩いてくる彼女。意気消沈している様な素振りはないのに、落ち込んでいるように見えた。
「……良空」
「何、幹也」
「一つ、聞いてもいいかな」
ビニール傘を拾った彼女は、それを差した。
顔の見えなくなった良空。でも、頷いたように見える。
「君は三歳の時から独りで生きてきた。近所の人に聞いたよ。小さい頃からよくお手伝いをしてくれる子だった、って」
「ん」
「良空。君が欲しかったものは、本当に”感謝”なのかな」
クルクルと回されていたビニール傘が、ぴたりと止まる。
あの時良空は、感謝してもらいたい、という風な発言をしていた。
でも、それなら”群青”なんていうよくわからない方法を使わなくても、人助けをしていれば自ずと得られるものであるはず。
「……ありがとう、って言われると、心が温かくなる。ママと父さんはこれをくれなかった。二人が死ぬときに、助けなかったから。だから」
「感謝と親愛は違うよ、良空」
「……」
良空の育った環境。それは、お世辞にも”良い物である”とは言えないものなんだ。
子供が貰って然るべき”ソレ”――親からの愛というものを知らずに育った良空には、感謝と親愛の区別がつかない。
身を挺してまで自殺者や犯罪者たちを救って来たのは、それをくれると思っていたからなんだ。
「……そうだったんだ」
そう、だったんだ。
良空は二度、噛みしめるように呟いた。
雨足が弱まっていく。
「……私ね、幹也」
「うん」
「死にたかったんだ。幸せがずるいと思ってた。私には誰もいないから、それをくれる人がいないから、感謝で穴埋めをして、でも足りなくて。ちょっと前にみた、幹也に凄く似ている人が、あんまりにも幸せそうで、平和そうだったから……私もあれが欲しいって思った」
ぽつぽつと話す良空の声は震えている。
寒いのか、つらいのか。苦しいのか。
「私が初めて自殺を見たのはね、三歳の時。ママの自殺。父さんがいない世界に意味は無いから、って。つらいから、って。私は父さんが転落事故で死ぬのも、ママが自殺をするのも、知ってた。父さんの時はどうしたらいいかわかんなかった。ママの時は、つらいなら助けない方がいいって思った」
また、ビニール傘がくるくると回り始める。
その懺悔のような呟きは、決壊したダムのように溢れ出てくる。
「ギャンブル好きだった叔父さんが群青に魅入られていた。旅行に出かけると浮かれてた叔母さんが群青に魅入られていた。小学校の通学路にいた犬。可愛かったよ。撫でても噛まないし。でも、群青に魅入られてたよ。私の家に巣をつくった雀も」
取り留めのない言葉。後悔している事が伝わってくる言葉。
「みんなが死ぬ事を知っていて、私は見殺しにしてきた」
「それは良空の責任じゃないよ」
「そっか。……高校の時のお爺ちゃん先生、覚えてる?」
「うん」
「私、思い切って先生に言ったんだ。もうすぐ死ぬよ、ってこと。……なのに、知っているよ、って。教えてくれてありがとう、でも大丈夫だから、って。群青なんか視えなくても、先生は自分が死ぬ事を知っていた。私はあの時学校を休んで、先生の最期を看取ったんだ。家族の人は来なかった。独りだったけど、私にありがとうって言って、笑って死んだ」
そうだ。
確か良空は、その日だけ学校を休んだ。皆勤賞だった良空が。
「その時、初めて知った。死ぬのは悲しい事だって。ありがとう、って言われたのに、死んじゃったら全然嬉しくないし、心も温まらないって。だから、死なないように助けて、生きていれば、ありがとう、って言葉も……」
高校生でそれに至るには、良空は余りにも幼すぎたんだろう。
諭してくれる親はいない。教えてくれる存在はいない。
感情が育つ前に効率を覚えてしまった良空にとって、それがどれだけの衝撃だったのか、僕にはわからない。
「……結局、誰も言ってくれなかったし。感謝と親愛が別モノなら……無駄だったんだね」
「それは違う」
思わず、言葉を発してしまった。
でも、本心だから。
「君のおかげで生きる勇気が湧いた、という人は沢山いたよ。あの自殺掲示板の人達、全員じゃないけど、”奇跡的に助かった命をつまらない事で散らしたくない”って。”神様が死なないで、って助けてくれたんだ”って。医者も皆口を揃えて奇跡だ、って。確かに誰も良空の事は知らなかったけど、君の行為が無駄だなんて……そんなことは無い……はず、だよ」
「なんでそこで尻すぼみになるのさ」
「その人達にちゃんと話を聞いたわけじゃないから……」
大輔兄さんから聞いた話だし。
くるくると回っていた傘が止まる。
良空はそれを、閉じた。
「雨、止んだね」
「ん。良い空。私は晴れ女だから」
「それじゃあなんで、今まで雨が?」
「式がいたからね。式はとびっきりの雨女」
……それは納得。
雪まで降らせてしまうのだから、式はとびきりだ。
「良空。今も死にたい?」
「んー……どうだろ。確かにまだ羨ましいけど……私が欲しかったのは親愛なんでしょ? 愛って事は、好きな人でも見つけなきゃもらえなそうだし。それを見つけてからにするよ」
「そっか」
恋愛と親愛は違うと思うけど……その辺りの違いを説明できるほど、僕も愛恋に精通しているわけではない。……自分の事で精いっぱいだ。
「そういえば式がいたって、どういうこと?」
「あ、それぶり返す? ん~、そうだね、式のせいであの木が倒れたって感じかな。決して私のせいじゃない」
それってどういう事? と聞こうとして。
歩き出した良空の方へ顔を向けた瞬間――バン! と。
ビニール傘がこちらに向かって開かれた。水は切ってあったようだけど、音に驚く。
「それじゃ、ちょっと行きたい場所が出来たから! それ、あげる」
「え、いらないよ……あぁ、もう」
重力に従って地面に落ちたビニール傘を拾う。
走り出した良空はもう見えなくなっている。こんなもの貰ってどうしろっていうんだ。
「……あれ」
傘の裏側、骨組みとビニールの間に何か……というか、お金とメモが挟まっている。
「……律儀っていうか」
ソイだなぁ……あ、いや、マメだなぁ。
そんな感想は、雨雲の引いた冬空に消えて行った。
夢を見ているみたいだ、と言われた。
初めに言って来たのは父さんだ。
この子の瞳は夢を見ているみたいに、綺麗だね。そんなことをママに言っていたと思う。
次に言われたのは、多分小学校。良空ちゃんはいつも夢を見ているみたいだね、と教師に言われた。どうして言われたのかは覚えていない。
その次は中学に上がってから、かな? 私の夢遊病のような深夜徘徊を知った友人に、夢を見ているんじゃないか、と。
そして、高校生。
お爺ちゃん先生にも言われた。
良空さんの瞳は、夢を見ている瞳だね。大丈夫、もうすぐその夢から目覚めさせてくれる人に出会えるよ。
……確か、こんな感じ……だったと思う。
もう思い出せなくなってきている事実に愕然としながら、そこを目指す。
「……あった」
そこ――お爺ちゃん先生のお墓。
やっぱり家族がいなかったらしいその先生のお墓は、当たり前だけど共同墓地だ。私がお墓のお金を出す事も考えたけど、教師と生徒という関係でしかない私では、それになり得なかった。
お寺の住職さんが毎日綺麗にしてくれているのだろう、共同墓地の墓石は苔もなく、線香も香ったままだったけど、先程コンビニで買ってきたお線香に火をつけて、入れる。
黙祷。
「……良く考えたら、先生がくれた最後の”ありがとう”って」
近所の人のとは違う。幹也には悪いけど、自殺掲示板の人達がくれたものとも、違う。
私の手を握って、もう見えていなかっただろう目で、私をしっかり見つめて。
あの時に言われたありがとうこそが――親愛だったのかな。
「……うん。私の方こそ、ありがとう」
私は晴れ女なので、良い空が似合う。うん、自負は良い事。うん。
そう、お墓参りは晴れている方が絶対にいい。
群青は死体に興味が無いから、ここは普段より群青も少ない。良い気分。
さぁ、帰ろう。
誰もいない我が家。でも、私の家。
……しかし、親愛を貰うには結婚しないといけないんだろうか。
……結婚かぁ。
「まだいいや」
私にはまだ、早い。うん。とりあえずあのぎこちない二人の結婚を見届けてからにしよう。式みたいな人殺しでも、幹也みたいな無害の塊と一緒になれば丸くもなるだろうから。
あ、そう言えば。
「……間に合うかな?」
走って家路を急ぐ。
家路――近所に住む、中学生の少女が住む家の方へ。
息を切らせてその家の前に辿り着き、目を瞑れば……やっぱり、群青に魅入られた女の子が一人。さっきすれ違った子。
その子の群青を、動かす。放っておけないのが治ったわけじゃないのだ。
親愛と感謝が違うのはさっき教えてもらったから、感謝はいらない。放っておけないから、仕方がない。早めに動かしたから死にきれない、みたいな風になる事も無いはず。
……こういう仕事も、合っているかもしれないなぁ。なんとか相談室、みたいな。
あ、でも経験が無いから……ええと、催眠術師とかの方が……うわ、胡散臭い。
んー、あんまり信じてないけど……占いでも受けてみようかな?
「……うん、大丈夫」
死ぬ気は、ないみたいだ。
家までの一本道。
私はもう足を踏み外さない。どこかのお世話焼きが道を示してくれたから。
ありがとう、先生。ようやく私は、私を測るコトが出来たみたい。
だから、これで私の物語もおしまい。
群青は変わらず傍にあって、相変わらず世界は群青色のままだけど。
私はそれに向き合って、要らないって言えるような幸せを、手に入れたいと思います――。