化け物は笑う   作:SAMUSAMU

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その呼び声に応える者

櫛田衿那の精神世界

 

『――すさまじい。たいしたものだな、陰陽師』

 

 衿那の深層意識。一つの戦いが今、決着を迎えようとしていた。

 

『よもや、これほどの力の差があるとは。完全に想定外だったよ』

「……」

 

 陰陽師たる星野梨花子と、呪詛の管理者たる端末との戦い。

 視界を覆っていた濃霧は晴れ渡り、己の形状を黒い霧と化していた端末の意識も、ほんの一欠が残存するのみ。その残った意識体を、梨花子が何の感慨もない表情で見下ろしている。

 

 どちらが勝者で、どちらが敗者なのかは明らかだ。

 

 端末とて、されるがまま蹂躙されていたわけではない。ここは元より、呪いの苗床となっていた蠱毒の領域。侵入者を撃退する、数多の手練手管が用意されていた。

 しかし、梨花子はその全てを、真正面からねじ伏せた。繰り出される攻撃を、迫りくる脅威を。何一つ臆することなく、全てを焼き尽くし、意志の力で跳ね除けた。

 結果、梨花子はかすり傷一つ負うことなく、この戦いに勝利した。そして、勝利の余韻に浸る間もなく、衣服についた敵の焼けカスを払い落し、彼女はその場を立ち去ろうとする。

 その背中に向かって、端末は最後に忠告を言い残す。

 

『これで、済むと思わない方がいい。この状況は、我が目を通して、メフィストにも、伝わっている。遠からず、報復のため、刺客を送ってくるだろう。いや、それ以前に、果たしてお前に帰還すべき肉体が、残っているかどうか』

 

 自身の消滅の間際まで、淡々とした口調で端末は梨花子へと語りかけていた。

 

『蠱毒の意識は覚醒し、今頃は現世にてその暴威を振るっていることだろう。もし、その暴力の渦に、巻き込まれ、肉体が損失するようなことがあればお前の意識は永遠に、この虚から抜け出せなくなる。この私が、そうであったように、な――』

 

 最後の最後、端末は僅かに己の感情らしきものを垣間見せ――そして、消滅した。

 

「……」

 

 さらさらと、砂のように散っていく相手の影に、梨花子は数秒ほど目を止める。だが、すぐに意識を上へと向け、その体を浮上させていく。既に頭の中では、現実に残してきた子供たちのことを考えている。

 

 ――櫛田さん、早まらないでよ!

 

 戦いの最中も、梨花子は特に衿那のことを気にかけていた。

 蠱毒の意識が表に出るともなれば、衿那に掛かる負荷は、今以上のものになるだろう。ただでさえ、長年苦しめられてきた呪いのせいで、衿那の心は不安定になっているのだ。

 もし、これ以上追い詰められ、彼女の疲弊しきった精神が限界を向かえるようなことになれば。最悪彼女は、自らの意思で最後の一線を越えてしまいかねない。

 そんな結末を回避するためにも、一刻も早く、現実への帰還を果たさなければならなかった。

 

 ちなみに――端末の言っていた、「自分の肉体が今頃どうなっているか?」という点についてだが。そちらに関して、梨花子はそこまで深刻に考えてはいない。

 

 彼女は、正しく理解し、信用していたからだ。

 現世へ残してきた、彼女の力を――あの化け物に秘められし、その実力のほどを。

 顕現した蠱毒が、どのような形態で、どのような力を行使しようとも、関係ない。少なくとも、物理的な脅威を前に、アレが膝をつく姿など、梨花子には想像ができない。

 古より、この国の人々から『鬼』と恐れらし、あの少女の敗北する姿など――

 

 

 

 そして、そんな梨花子の予想したとおり。

 

「…………」

 

 瓦礫の山に埋もれていた化け物が――今まさに、目覚めようとしていた。

 

 

 

森羅本社ビル 屋上

 

 比佐命とメリーが屋上に踏み入れると――そこは炎に包まれていた。

 森羅ビルの屋上にはヘリポートがある。昨夜も脱走した銀行強盗犯たちを追って、九十九自らが乗り込んだ彼個人が所有するヘリの発着所。

 そのヘリが蠱毒――大蛇によって完膚までに叩き潰され、黒い煙を上げて炎上していた。

 

【―――――――――――――――】

 

 煌々と燃え盛る炎の中、夜の闇と同化するような漆黒を携えて、大蛇は天に向かって吼え猛っている。

 放たれているのは、生きとし生けるもの全てを呪う叫び。

 生き物の本能そのものに訴えかける雄叫びに、ほんの僅かでも知性がある生き物ならば、そこに込められている憎悪にたどり着き、その絶望にあらゆる生者が震え上がるだろう

 

「衿ちゃん!!」

 

 だが、命は逃げなかった。足はがくがくと震え、今にも倒れてしまいそうなほどに顔面が蒼白だが、彼女は逃げずに、大蛇と向き合った。その近くで息絶え絶えと蹲る、親友へ――櫛田衿那と声を荒げる。

 

「――――」

 

 その呼びかけに衿那は無反応だった。気を失っているのか、その場から動こうとしない。一応、かすかに胸が上下しているため、息はしているのだろうが、それも時間の問題に思える。

 早く病院に運んで手当しなければ、最悪取り返しのつかない事態になりかねない。

 

「……」

 

 しかし、そんな危機的状況の中でもメリーは迂闊には飛び込めない。悪戯に大蛇を刺激すれば、その分、繋がれている衿那の体が無為に振り回されることになるのだ。ある種の確実性があるまで、下手に手を出さず、メリーは静かに深呼吸してその時を待ち続ける。

 そして――

 

「お、お待たせ……はぁ、はぁ……」

「……遅いですよ。兄さん」

 

 彼女が待っていたもの、実の兄であるテッドが遅ればせながらも屋上に顔を出した。彼は自分の身長より幾分か大きめのギターケースのようなものを抱えながら息を切らせてやってきた。

 

「はぁはぁ……こ、これでも急いできたんだからね……ああ、しんどい……」

「……鈴鹿さんと、梨花子さんは?」

 

 遅れてきたテッドに文句を言いながら、メリーは後の二人。鈴鹿と梨花子の安否を問う。

 

「梨花子さんはあのまま安全なところに置いてきたよ。鈴鹿さんは……わかんない。正直そこまで確認してる余裕もなくてね」

「……そうでしょうね」

 

 テッドは手短に妹の質問に答え、メリーも彼の返答に特に深く踏み込まず、巨大な大蛇に向き直った。

 他二人が動けない以上、現状でアレに立ち向かえる戦力はテッドとメリーの二人だけだ。メリーは改めて刀を構え直し、兄に告げる。

 

「……私があいつの動きを引きつけます。その隙に、兄さんはそれで、あの化け物を……」

「それしかなさそうだね……。仕方ない。出来るだけやってみようか」

 

 テッドが渋々とそのような返事をした直後、メリーは愛刀を抜き放った。

 そして、余計な打ち合わせなど不要とばかりにメリーは単騎で駆ける。

 大蛇に向かってたった一人、無謀ともとれる蛮勇を示していく。

 

 

 

「大丈夫なの!? あの子一人で!!」

 

 たった一人で大蛇に立ち向かっていくメリーに、命は声を上げる。

 メリーがその至近距離に入るや、大蛇は漆黒の尾を物凄い勢いで振り回す。その攻撃を紙一重、ギリギリのところで回避しながら、メリーは器用に間合いを測っていた。衿那の身を気遣ってか、大蛇の体を大きく揺り動かさないように相手の注意を引くメリーは、いつ大蛇から致命的な攻撃を喰らってもおかしくない位置取りで必死に肉体を行使していた。その涙ぐましい戦いに、命の胸の奥が熱くなる。

 一歩で、兄である筈のテッドは命の横で何かしらの作業に没頭している。どうやら、ギターケースから取り出した『何か』を組み立ているらしい。双子の妹に危険な戦いを強いらせておいて、いったいに何をやっているのかと、疑問に思いながらそんな彼の行動に首を傾げる命であった、が――

 

「………えっ?」

 

 彼が()()()()()()()が形なろうとした段階で、命は呆気にとられて、絶句する。

 ここに至るまで、命は二人の少年少女が刀や銃で蠱毒と戦う場面を目撃していた。しかし、鈴鹿の『化け物』としての本性や、巨蛇として顕現した蠱毒のせいで、それらの武器に対する忌避感というものが極端に鈍くなっていた。また親友の危機ということもあり、そちらに意識を割くことができず、あえて何も言わずに黙認していたのだが、そんな思考が吹き飛ぶほどの衝撃を――それは持ち合わせていた。

 

 テッドが構えたもの『武器』を通り越して、もはや『兵器』だった

 

 黒光りする攻撃的なフォルムこそ、拳銃と同じだったが、その大きさがまるで違う。命はその兵器をテレビなどの画面越しに見たことはあったも、決してその正式な呼称を知らない。

 

 その兵器の名称は――対物狙撃ライフル。戦車やヘリコプターなどを破壊するための大型の銃器。

 それは戦場で使われる、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であった。

 

 テッドは組み立て終わったその兵器を、慣れた動作で立ち上げると、地面に伏せ、低い姿勢から銃口を蠱毒がいる方角へと向けた。その先には当然、戦っているメリーがおり、倒れ伏している衿那がいる。

 

「ちょ、ちょっと待っ――」

「あっ、耳は塞いどいてくださいね!」

 

 命は咄嗟にテッドを止めようと彼に呼びかける。だが、彼女の呼びかけに答えることなく、テッドは軽い調子で命に耳を塞ぐように促し、そのままライフルのトリガーに指を掛けた。

 

 

 轟音。

 

 そうとしか表現しようのない爆発音に、衿那は目を覚ます。

 

「………………ん」

 

 今の彼女に、その音の正体が何なのかはっきりと確かめる余裕などないが、何とかして視線だけを大蛇へと向けると、視界の先には――漆黒の大蛇の胴体部分がぽっかりと、どデカい穴が空いている光景があった。

 

「よし、命中!!」

「……お見事です、兄さん」

 

 衿那の耳にテッドとメリーのものと思しき喝采が聞こえてくる。きっと二人が何かしたのだろうが、生憎と今の衿那にそれを理解する思考力も残されていない。蠱毒が顕現したときから、彼女の肉体には強い疲労感、目を開くことすら億劫になるほどの強烈な倦怠感が絶えず襲いかかっていたからだ。

 

 ――……くっ、また!?

 

 初めて蠱毒が顕現したときのような、疲労感が再び衿那に襲いかかかる。

 衿那の視界では大蛇がその全身をプルプルと震わし、胴体はそのまま膨れ上がり、欠損した部分を補填しようと蠢き始めた。

 次の瞬間――胴体が一際大きく震えだした思えば、体が、くり貫かれた筈の胴体が瞬く間に再生した。

 

「さ、再生した……」

 

 誰かの絶望する呟きが聞こえ、自身の復活を知らしめるように大蛇は咆哮を上げる。反対に、衿那はさらに体力を消耗し、地面に力なく項垂れる。

 

 これは、蠱毒が実体化に必要となる力や傷を癒す力を、衿那から直接吸い上げているからだ。本来であれば衿那の深層、心の奥底で眠り続ける筈の蠱毒。だが、梨花子が接触を図ったことを察知したメフィストの手によって、蠱毒は外敵を排除するための『システム』として機能し始めた。

 そして蛇は、具現化するために必要なエネルギー、体力、精神力を、宿主である衿那から拝借している。当然、その総量にも限界があるのだが、それでも蠱毒は際限なく力を吸い上げ続けるだろう。衿那の身など、一切気遣うことなく。彼女の肉体からは、水気のない雑巾から、さらに水分を搾り取られるかのように、力が、生気が抜け落ちてゆく。

 どうしようもない喪失感をその身で味わいながら、衿那は成す術もなく横たわっていた。

 

 ――……どうすれば……良かったのよ?

 

 どうして、自分はこんなところまで来てしまったのだろう?

 ただ、普通に生きてきた筈だ。

 仲睦まじい夫婦の元に生を受け、ごく当たり前のような幸せな家庭で育ってきた。

 幼い頃から勝気で、いじっぱりで、素直になれない生意気な部分があったかもしれない。

 思春期を迎えた頃には、ちょっぴり両親に反抗的になっていたかもしれない。

 弟とも些細なことで喧嘩して、下らないことに意地を張ったこともあったかもしれない。 

 

 それが――そんなこれまでの全てが、間違っていたとでもいうのだろうか?

 

 それとも、どこかで選択肢を間違えたのか? 

 もっとうまく立ち回れば、もっと別の未来があり得たのではないのだろうか。

 それが意味のないことだと理解していながらも、そう考えずにはいられない。

 どうすれば、この苦しみから逃れることができたのだろう?

 どうすれば、こんなところまで追い詰められずに済んだのだろう?

 どうすれば、家族に辛い思いをさせずに済んだのだろう?

 どうすれば――良かったのだろう。

 衿那は考えた。考えて、考えて、考えて、ひたすらに考え続けて―――――――――

 

 ――あっ……。

 

 そこで――櫛田衿那の脳裏に、とある一つの結論が生まれた。

 蠱毒に生きる気力を奪われ、本当に追い込まれた今だからこそ、浮かんできた答え。

 

「ははは……」

 

 衿那の口から、乾いた笑い声が漏れだす。

 

 ――そうよ……

 ――簡単なことじゃない。

 ――私が…………死ねばいいだけのことじゃない……。

 

 ああ、そうだ。なんで今まで、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう?

 最初から、そうしていれば良かったのだ。

 自分さえいなければ、皆がこんな目に遭うこともなかった。

 父も母も弟も、誰一人悲しむ必要もなかった。

 こんな苦しい思いもせずに済んだ。自責の念に苛まれることもなかったのだ。

 なのに、それなのに自分は生き続けた。みっともなく、生にしがみついてしまっていた。

 生きているだけで、周囲に不幸を撒き散らすだけの存在だというのに――

 もっと早い段階で、この答えに行き着くべきだったのだ、決断すべきだったのだ。

 

「…………ん」

 

 衿那は残る気力を振り絞り、懐からあるものを取り出す。

 護身用に、常に肌身離さず持ち歩くように心掛けていた、カッターナイフ。催涙スプレーやスタンガン。同じ護身用なら、もっと便利で簡単なものがあるのに、何故こんなものを持ち歩くようになったのか。その意味が、ここに来てようやくわかった。

 

 ――きっと……こうするためだった。

 

 衿那は、カッターの刃をそっと手首へと押し当てる。ひんやりとした感触が、心地よく伝わってきた。あとはこのまま力を込め、刃をゆっくりと引くだけ、それで終れる。

 

 この刃を引けば、死ねる。

 それが今の衿那自身にとっての救いだと信じて――

 それが彼女の願いを叶える最善だと信じ――

 そんな決意を胸に、握る手に力を込め――――

 

「――――えりちゃぁぁぁぁぁぁんっ‼」

 

 ――…………ああ……まただ。また、あの声だ……。

 

 衿那のやけっぱちな決意を制止するように、比佐命の声が、その虚ろな胸に届いた。

 その声に、あのとき、あの地下で交わした、あのやり取りが思い出される。

 

『――卑怯だよ、衿ちゃん……』

『――悲劇のヒロイン気取って言い訳して』

『――不幸に怯えるだけの臆病者で終わっていいの⁉』

『――だったら――戦ってよ』

『――戦ってよ……』

 

「う、ううう……うわぁぁぁぁああっ‼」

 

 次の瞬間――櫛田衿那は握りしめていたナイフを、渾身の力を込めて振り下ろしていた。

 

 

「……なっ」

 

 静寂が訪れる。誰もが櫛田衿那の行動に絶句し、息を呑んだ。

 誰よりも彼女の身を案じる命も、感情表現に乏しいメリーも、つい先ほど、新たな装備を取りに遅れて屋上に参上したテッドも、そして――それまで彼女のことなど、視界にも入れずに暴れていた蠱毒ですらもが、その双眸を衿那に向けていた。

 

 衿那の握るカッターナイフが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 衿那が渾身の力を込めて刃を――その手に持つ武器を、蠱毒に向かって突き刺していたのだ。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 息も絶え絶えだった衿那は、目に怒りを宿して大蛇を睨みつけていた。

 

「ふざけん……じゃない……!」

 

 腹の底から吐き出すようにして、彼女は言葉を絞り出していた。

 

「ふざけんじゃないわよ! このドクサレ爬虫類がぁっ!!」

 

 そして――衿那は立ち上がった。

 とっくに限界を迎えたボロボロの体に鞭を打ち、その両足を地につける。痛みに歯を食いしばりながら、残る力で、あらん限りの力で、蠱毒に向かって叫んでいた。

 

「調子に……のんじゃ……ない!」

「え、衿ちゃん……」

 

 痛々しい体で果敢に大蛇へと挑む。そんな衿那の姿に、命は涙混じりに目を見張る。

 

「いつまでも……私の体で……好き勝手やってんじゃないわよ。いい加減……私の中から……出ていきなさいよ‼」

 

 さらに衿那は刃を大蛇から引き抜き、もう一度振り下ろそうと振りかぶる。矮小な己自身の身を張って、彼女は蠱毒と戦う道を選んだ。

 

 生きる――という選択肢を、櫛田衿那は選び取ったのだ。

 

 だが、大蛇が軽く身体をゆり動かす。

 

「――かはっ!?」

 

 それだけで衿那の体は宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。

 肺の空気が一気に持って行かれ、体がバラバラに引き裂かれるような激痛が彼女を襲う。

 

「衿ちゃん!」

 

 悲痛な命の叫びも虚しく、再び地に伏せる衿那に、立ち上がる力など残されていない。

 だが、肉体の痛みなど、今の衿那にとってはどうでもいいことのように思えてしまう。

 

「なん……でよ……」

 

 変わりに感じたのは圧倒的な無力感、そして、この理不尽に対する怒りと悔しさだった。

 何故、自分がこんな苦しい思いをしなくてはならない。

 こんな痛い目にあい、こんな屈辱に身を震わせなければならない。

 何故、身に覚えのない相手からの、呪いなんてモノに、苦しまなければならないのか。

 それが――たまらなく悔しかったのだ。

 

「誰か……助けてよ……」

 

 衿那の瞳から悔し涙が流れるのは、こんなところで終わりたくないという気持ちの表れ。

 彼女の生きたいという、偽りなき想いが、自然とその言葉を紡がせていた。

 

「この苦しみを、『不幸』を……誰か……誰か、終わらせてよ……」

 

 残る気力を振り絞って出した声は、あまりにも小さな呟きだった。雀のさえずりにも等しいその言葉が、誰かの耳に届くことなど、ついぞなかった。

 しかし、その心からの悲鳴に応じるように――その叫び声は轟き渡った。

 

 

【オォオォオォオオォオオオオォォォ―――!!】

 

 

 聞き覚えのある、咆哮。下の階層から響いてくる声の主は、ビル全体を震わせながら、徐々に近づいてくる。進路上の全てを粉砕しているのか、絶えず破壊音を鳴り響かせながら。

 轟音は、屋上のすぐ真下まで迫りくるや、そこでピタリで鳴り止んだ。しかし、それは一呼吸置いただけに過ぎない。刹那の静寂を即座に打ち破り、屋上の地面が――爆ぜる。

 火山の噴火を想起させる爆発。マグマと火山灰の代わりに噴き出す、瓦礫の雨に混じって、その『化け物』は、穴の底から飛び出してきた。

 

「――そこにいたか、蛇め……」

 

 その化け物――神宮寺鈴鹿が、大蛇の真ん前に仁王立ちして、その巨体を睨み上げていた。

 既にその形を、普段の『人』としての仮初から、『鬼』としての本性へと変貌させている。

 見るもの全てを威圧する、その魂を震え上がらせる、異形なる風貌。

 その恐ろしげな姿を、おぼろげな視界越しに、衿那は目視した。

 そこには抗えない恐怖心があった。震えるような畏敬の念があった。

 だが何故だろう。

 

 ――……ああ……良かった。

 

 それ以上に、その威風堂々たる姿に、その雄々しい勇姿に、謎の安堵感を抱きつつ。

 櫛田衿那はその意識を、穏やかに閉じていった。

 

 

 

 

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