渋谷区 桜丘町
渋谷駅から南。かつては住宅街としての側面が強い立地であったが、1980年代に入る頃になってから、オフィスビルや飲食店などが多く建設され、商業化が一気に進んだ。
渋谷と聞くと『若者の街』、というイメージが大きいかもしれないが、ここ桜丘町では、落ち着いた雰囲気の大人たちが中心に行き交っている。
今は昼時という時間帯もあり、多くのビジネスマンがランチを取るため、周辺の飲食店を訪れていた。
この地区はその名にあるよう桜並木が有名であり、思い思いに寛ぐ彼らの視線も、自然と桜の木へと注がれている。幸運なことに、桜も今が満開の時期。毎年恒例のさくら祭りこそ終わってしまっていたが、それでも申し分なく桜は街の中で美しく映える。
坂道に並ぶ桜の木は、公園などの開けた場所で眺める桜と、また違った魅力に溢れ、街行く人々を、包み込んでくれるかのような優しさに満ちていた。
都会の喧騒に疲れた人々に一時の癒しを与える、まさに絶交のスポットであろう。
そんな桜丘町――そこに、一つの巨大高層ビルがそびえ立っている。
桜の外観を損なわないようにと、計算され尽くして設計されたその建物こそ、日本でも一、二を争う、世界でも有数の巨大総合商社――『森羅』の本拠地であった。
「……そろそろ、かな」
森羅ビルの最上階の一室。
ハンチング帽を目深く被ったスーツ姿の男――
九十九は、森羅の『代表取締役会長』という立派な肩書を持つ人物だが、そんな役職に似つかわしくない、質素な彼の私室。部屋そのものの大きさはそれなりにある。だが、置かれている家具など、必要最低限な物に限られていた。書斎机と椅子、部屋の中央には来客用のソファーとテーブル、その向かい側に、薄型の液晶テレビが一台置かれている程度。
そんな簡素な室内で、九十九は腕時計の指針に目をやりながら、客人の到来を一人静かに待ち続ける。
やがて、静寂な室内を震わす、木製の扉をノックする音が響き渡る。
「どうぞ」
「……失礼します」
九十九が許可を出すと、彼の秘蔵っ子である双子の
メリーは能面を貼り付けたような無表情で、ワゴンを九十九の書斎机に横づけする。やかんの熱湯をティーポットへと注ぐと、湯気と共に紅茶の香りが広がっていく。そのまま暫く、茶葉を蒸らしてから、カップへと紅茶を注ぎ「……どうぞ」と、九十九へと差し出した。
九十九は「頂こう……」とカップへと手を伸ばす。ふわりと立ち上る湯気を眺め、香りを堪能しながら、優雅に口へと含み、その紅茶をじっくりと味わう。
ややあって、カップを机の上に置くと、九十九はそっと口を開いた。
「――――45点」
「…………」
ピクッ、と九十九の下した辛辣な評価に、メリーのこめかみが引きつる。
「茶葉を蒸らすという基礎はできているようだが、この水、使っているのはミネラルウォーターだね? 紅茶の場合は水道水の方が適している。お湯の温度もまだ少し温い。カップをあらかじめ暖めておけば、さらに長く美味しさを保てるだろう。それから、銀製のポット。チョイスは悪くないが、君にはまだ早いかもしれないな。ガラス製の方が『ジャンピング』しているかどうか一目瞭然だ。今度またお手本を見せてあげるから、そのときにでも――」
「……ご不満があるのならば」
延々に続くかと思われた九十九のうんちくをメリーが途中で遮る。
無表情だった彼女の顔に僅かだが、苛立ちが浮かんでいるようにも見えた。
「……ご自分でお淹れになればよろしいでしょう。……毎回毎回、何故私にそのような指示を出されるのですか……九十九さん」
丁寧な言葉遣いで不平を洩らすメリー。九十九はその反応を楽しむように、笑みを浮かべた。
「何事も経験だよ、メリー」
「……そのような経験、私のようなものには無用の長物だと思いますが……」
「メリー。この世に無駄なものなど何一つない。どんな些細な経験も、君の血となり肉となり、君のこれからの人生をより豊かに潤すんだ。それに、「そのような」などと言ってはいけないな。その言い方では、紅茶を生み出した者、茶葉を育てている者、そしてな何より、美味しく飲んでもらおうと、試行錯誤を重ねてきた者たちに対して失礼になってしまうよ?」
「…………」
「昔は紅茶に限らず、お茶というものは大変貴重でね。イギリスでは、貴族などといった一部の上流階級の人間しか、口にすることができない飲み物だったんだ。それが……17世紀中頃だったかな? 貴族や文化人の社交場となっていた、コーヒーハウスが次第に大衆化することで、ようやく一般家庭に普及するようになったんだよ。あのときは――」
「……ふぅ」
実際にその時代を見てきたかのような口ぶりだが、そんな九十九のトリビアをメリーは右から左に聞き流す。正直、興味もない話題を延々と聞くだけというのも、なかなかに苦痛だ。
無視して立ち去るという選択肢もあったが、一応それなりに礼儀を弁えているメリーは憂鬱な気分になりながらも、黙ってその場に留まっていた。
だが、その最中、無機質な電子音が鳴り響き、九十九の話を遮った。
「……失礼」
短く相手に断りを入れ、メリーは懐から携帯電話を取り出す。
「……はい。……はい、はい」
彼女が電話に出ている間、九十九は『45点』と評したメリーの紅茶を優雅に楽しむ。
しかし、通話は一分と経たぬ内に切られ、メリーは素早く九十九の方へと向き直る。
彼女は先ほどまで感じていたであろう、紅茶に対する評価への苛立ちも、長話への憂鬱も振り払い、電話相手からの要件を手短に九十九へと伝達した。
「……九十九さん。客人が到着されました」
◇
「やあ! よく来てくれたね、鈴鹿君。待っていたよ!」
「うむ、お主も息災のようで何よりだ! 九十九殿」
数分後。テッドが連れてきた客人――神宮寺鈴鹿と九十九は固く握手を交わす。九十九は嬉しそうに、自身よりだいぶ年下であろう、くノ一のような奇妙な恰好の鈴鹿を歓迎していた。
しかしそんな二人よりも、メリーが気になったのは、一緒に部屋に入ってきた兄の方だ。
鈴鹿を九十九の元へ連れてきたテッドは、部屋にたどり着くや、すぐにその場にへたり込んだ。全身から、全ラウンドを戦い抜いたボクサーが、真っ白に燃え尽きたかのような哀愁を漂わせている。そこに普段の軽快なノリはなく、メリーは思わず声をかけていた。
「……どうかしましたか、兄さん?」
「いや、なんでもないよ……ははは…………はぁ~~」
その問いに気にしないでと、手をひらひらと振りながらも、彼は乾いた笑みで溜息をつく。
その表情からは、九十九の『お使い』を無事に終えた達成感に疲労感、脱力感のようなものを同時に感じる。どうやら、鈴鹿を連れてくる道中、色々とあったらしい。
メリーは兄の苦労をなんとなく察し、そっとしておくことにして、視点を二人へと戻す。
挨拶を済ませた両者は、それぞれの定位置で腰を下ろしていた。
「おお! この、そふぁーと言ったか? なんという座り心地だ! まるで雲の上にいるような感触だわ、ふかふかだのう! まあ、雲の上になど乗ったことはないが……」
鈴鹿は、来客用のソファーの感触が気に入ったのか、子供のようにその上で飛び跳ねる。お世辞にも、礼儀正しいとは呼べない客人の目に余る振る舞いに、メリーは眉を顰める。
「メリー、彼女にも紅茶を」
「……はい」
だが、九十九から散々な評価を受けた紅茶を出すように注文を受けたため、そちらの作業に集中する。
鈴鹿たちがこの部屋に訪れるまでの間に、湯を一から沸かし直し、ポットもガラス製に替えてきた。準備を終えたメリーは、ヤカンを高く持ち上げ、そこからポットへとお湯を注いでいく。これにより、お湯にはより多くの酸素が含まれ、茶葉の上下運動が促される。
この『ジャンピング』によって、紅茶の旨みをより上手く引き出せるという話だ。
「ところで、里の皆は元気にしているかい?」
「ん? ああ、無論だとも! 特にこれといって変わりはないぞ!」
「そうか、それは何よりだ。最近は忙しくて、なかなか顔を出せないものでね」
「そういえば、お主が最後に我らの里を訪れたのは、一年ほど前だったかのう……」
紅茶を待つ間、二人互いの近況などを報告し合っていた。
「……どうぞ、粗茶ですが」
「ん? おお! かたじけない!」
メリーは淹れ直した紅茶を、鈴鹿へ差し出す。軽く礼を言いながら、それを手に取る鈴鹿。
しかし、何の気もなく手に取ったカップの中身を飲もうとした瞬間、彼女は不思議そうに首を傾げ、カップに注がれた紅茶をまじまじと見つめていた。
毒などの異物混入を警戒している、というわけではないだろう。その緊張感の欠片もない表情は、ただ単純に見たこともないものを、好奇心から品定めする犬に近いものがあった。
スンスンと鼻をならし、紅茶の香りに頬を緩ませる。その香りをひととおり楽しんだと思いきや、鈴鹿は紅茶に口をつけ、一気に中身を飲み干し――その口から、率直な感想が述べられた。
「味……薄いのう……」
ピクッ、と再びメリーのこめかみが大きく引きつる。
「くくく……」
「ん? どうした九十九殿。何かおかしなことでも言ったかのう?」
「くくく、いや……何でもないよ。メリー、精進したまえ」
九十九が慰めるように声をかけたが、そんな彼の言葉に、メリーはそっぽを向いていた。
◇
その後、二人は鈴鹿のここでの暮らしについて、話し合いを行っていった。
鈴鹿の住まいはこのビルの一室に用意される。
というのも、この高層ビル。大半は会社の持ち物だが、このフロアを含めたいくつかの階層は、九十九個人の所有物件となっているのだ。
現在そこで生活しているのは、九十九と、その付き人的立場のテッドとメリーの双子だけ。部屋数そのものが結構余っている状態で、鈴鹿一人が増えようと、これといって問題はない。
もっとも、新しい同居人を迎えるともなれば、それはそれで気苦労も増えるだろう。これからの苦労を想像してか、テッドの顔がどことなく青ざめているようにも見えた。
また、九十九は今後、鈴鹿に任せることになる『仕事』についても話をしていく。
彼の頼み方を見る限り、それはあくまで『依頼』という形になるのだが、鈴鹿はその願い事を快く承諾するのであった。
「――ところで……初めて間近で見たこの国の首都の感想はどうだい? 鈴鹿君」
そして、話がある程度煮詰まった頃、九十九は鈴鹿にその話題を振った。
「ん? そうだのう……」
その問いかけに、鈴鹿は暫し腕を組んで考え込み、素直に答えを口にしていく。
「まあ、あらかじめ覚悟はしておいたが、すさまじいものだな、人の世というものは……」
「ほう?」
「天までと届くとも知れぬ塔、凄まじい馬力で走る鉄の箱、離れた相手と言葉を交わすことのできる摩訶不思議なる板まで。これまで見てきたどんなものとも違う! どれもこれもが、比肩するものすら思い当たらぬものばかりよ! いや、本当に驚かされたぞ!」
幼い子供のように目を輝かせ、さらに彼女は続ける。
「何より食い物が上手い! それだけで、ここまで来た甲斐があったというものよ!」
「それは、それは……。気に入ってもらえたようだね」
旅の道中で口にしてきた食べ物を思い出しているのか、涎を垂らしながら、大仰に手を振り上げて大喜び。鈴鹿の満足げな様子に、九十九も満足げに頷く。しかし――
「だが――どうにも不埒な輩が多すぎる……」
それまでとは打って変わり、底冷えするような声音で、鈴鹿は手で顔を覆い隠す。
テッドとメリーは不思議そうに互いの顔を見合わせ、彼女の次なる言葉を黙って待つのだが――そんな二人の背筋に、得も言われぬ寒気が走る。
「――っ!」「――っ!」
開かれた鈴鹿の瞳は、それまでとは別人なまでに鋭く、鋭利に細められている。
その双眸は双子に警戒心を抱かせるほど、強固な意志で塗り固められており、鈴鹿の放つ威圧感に咄嗟に呑まれかけた二人は、彼女から半歩下がることで態勢を立て直した。
「ほう……と言うと?」
彼女の放つ重圧に、九十九一人だけが全く恐れる様子を見せない。発言の意図を尋ねようと鈴鹿を正面に見据え、ゆったりと椅子に腰を預けていた。
「ここまでの旅の道中でもそうだったわ。下卑た輩が弱者をいたぶり、悦に浸る光景に何度も出くわしたわい。弱肉強食は世の常なれども、流石に目に余るものがあったぞ」
そうして語られる、鈴鹿の旅先での『武勇伝』。
おばあさんのバッグを掠め取ったひったくり犯をぶちのめしたり、女性にしつこく言い寄っていたチンピラを叩きのめしたり、喧嘩相手を執拗にリンチにしていた集団を文字通り吹き飛ばしたり、などなど。
一つ一つのエピソードが語られるたび、テッドの顔色がだんだんと悪くなっていくのは、鈴鹿の放つ威圧感だけが原因ではなかっただろう。
「つい先ほどもそうだった。この街にたどり着いて早々に、銀行強盗なる輩に遭遇したぞ。当然! こいつらも儂がとっちめてやったがのう!」
銀行強盗――その発言にテッドの顔色がさらに青白くなり、顔中にだらだらと汗を滲ませる。九十九は不意に、机の上に置いてあったテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
『次のニュースです……先ほどお伝えした銀行強盗事件の速報が届いております』
いかなる偶然か、テレビからその件のニュースを読み上げる、アナウンサーの声が流れる。
『東京都内で発生した銀行強盗事件……その犯人たちが逃走中に逃げ込んだ、渋谷区の飲食店で起きた立てこもり。さきほど、犯人全員が拘束され、人質たち全員が無事開放されました』
原稿を読み上げる女性アナウンサーも、心なしか戸惑っているように映っている。
『ええ……警察が強行突入した時点で、既に強盗犯全員が気絶させられており、人質たちの話によれば、それが……一人の少女の手によるものであると判明して、おります』
アナウンサーがそこで言葉を切ると、一つの映像が流れ出す。
『……今流れている映像が、事件のあったファミレスを店外から撮影した映像です』
遠目から撮影されていたその映像の中に、犯人らしき男たち、うずくまっている人質。
そして、真っ直ぐファミレスへと怒涛の勢いで駆け込んでいく、神宮寺鈴鹿のものと思われる後ろ姿が映し出されている。
『この映像の人物が、人質たちの話に出てきた少女と思われており、警察ではその少女と事件の関連について慎重に捜査を――』
「…………」「…………」
そこまでニュースを聞き終えたメリーは、テッドにジト目で視線を送り、テッドはそんなメリーから全力で目を逸らした。
「はははっ! なるほど、なるほど!」
ニュースから読み取れる情報と、テッドの態度からある程度のことは察したのか、九十九は愉快そうに大声を上げて笑い出す。
「到着早々、大活躍のようだね。鈴鹿君!」
「ふっ、ま……当然のことよ」
鈴鹿は胸を張って、己のしでかした所業を誇る。自分の行いがどれだけ常識外れで、世間を騒がせたのか、彼女は気にも留めていないようだった。
「しかし――」
だが九十九は、そこで一旦笑うのを止めると、瞬間的に顔から表情を消していた。
「君をここへ呼んだのは、そのような『俗事』を任せるためではない。あまり派手な騒ぎは控えてもらいたいものだ」
口調そのものは穏やかだが、彼の言葉には有無を言わさぬ、得体の知れない迫力があった。
その佇まい、息遣い、声そのものの重み。全てが渾然一体となり、圧迫感となって放たれる。
「心には留めておこう。だが……約束はできぬぞ」
九十九の苦言に対し、まったく怯むことなく、鈴鹿は強固な意志のまま真正面から切り返す。
九十九のそれが部屋全体を静かに包み込む、身を震え上がらせる冷気なら、鈴鹿のそれは肌を突き刺すような鋭い熱気だ。二つの緊張感が室内に充満し、テッドとメリーは揃って顔を強張らせる。ピリピリと緊張感を漂わせたまま、視線を交差させる両雄。
暫くして――九十九がパンと手を叩き、渇いた音でその場の全員の鼓膜を震わせる。
「いや……結構。わかってもらえればいいよ!」
笑みを浮かべ直した彼は、自らが一歩下がる形で威圧感を引っ込め、それに習うよう、鈴鹿も己の意思を納める。テッドとメリーは緊張感から解放され、ほっと息をついた。
「この件に関しては、私の方で警察に手を回しておこう……いいかい テッド?」
「あ……はい……どうも」
テッドにそう告げ、それを最後にこれ以上、九十九がこの話を蒸し返すことはなかった。
しかし、話はまだ終わらない。飲みかけの紅茶に手を伸ばし、九十九は最後になるであろう、別の話題を振る。
「そうそう、一つ言い忘れていたんだが……」
「ん? なんだ? まだ何か小言でも――」
「平常時、特にこれといった用事がない間、君には高校に通ってもらうことになっている」
「――――――」
「入学の手続きは既にこちらの方で手配を……って、どうかしたかね?」
すると、それまで余裕の表情を浮かべていた鈴鹿が、まるで石像のように固まる。あきらかな動揺、心なしか若干、その肩が震えているようにも見える。
奇妙な間が一分間ほど続き、ようやく鈴鹿の口が開かれる。ゆっくりと首を動かす様子は、まるでねじ巻き人形のようにギギギ、とぎこちないものであった。
「のう、九十九殿よ……高校とは……
「まあ、そうだね。君には私が理事を務める私立校に入学してもらう手筈になっている。君は確か、今年で十六だから、一年生として入学してもらいたいんだが、何か?」
「それは……どうしても……行かなくてはならぬものかのう?」
狼狽しながらも、何とか言葉を紡ぎ足すその様子からは、それまで感じられた威圧感も威風堂々とした態度も感じられない。借りてきた猫のように、おっかなびっくりとおどおどし始めてしまった彼女に、テッドもメリーも目をパチクリさせる。
「わ、儂は……一族を代表して、お主に受けた恩義に報いるため、使命を果たすためにここまで出向いただけで……何もそのような場所……わざわざ用意してもらわんでも――」
「鈴鹿君」
言い訳じみた鈴鹿の言葉に、九十九がピシャリと待ったをかけた。
「それはできない相談だよ。君をここに招くにあたって『街の子供たちと同じ教育を受けさせる』と、村長と約束を交わしているんだ。破るわけにもいかないだろう?」
「そうだな……約束ならば護らねばなるまい……ならないのだが……」
なおも何かを言わんとする鈴鹿に、九十九はやれやれと溜息を溢す。
「君……相変わらず勉強は苦手かね?」
「いや、別にできんことはないのだが……性に合わんというか……何というか……」
まるで、親に無理矢理塾に通わされるのを嫌がる小学生のように、指をちょんちょんとくっつき合わせ、鈴鹿は『しどろもどろ君』になってしまっていた。
だが、約束という一言が利いたのか、決意のこもった瞳で彼女はソファーから立ち上がる。
「……仕方あるまい。よし、腹は括ったぞ! さっそく、その高校とやらに案内あないするがよい!」
「やる気になってくれたようで何よりだ。だが、入学式は明日だよ。それに案内の方も適任者に頼んであるから、今日はもうゆっくり休んで、旅の疲れを癒してくれ」
逸る気持ちの彼女を落ち着かせるよう、九十九はやんわりと告げる。覚悟を決め立ち上がっただけに、拍子抜けした鈴鹿は前のめりにずっこけかけた。
「そ、それを先に言わんかい!」
「ははは、いや済まないね。メリー、鈴鹿君を部屋まで案内してくれ。部屋は君の隣だ」
「…………承知しました」
軽く謝った後、九十九は後ろに控えていたメリーに、鈴鹿を案内するよう指示した。
新しい同居人が自分の隣人になる。メリーはその事実に戸惑うよう、一瞬返答に詰まっていたが、九十九の指示に応えるべく、鈴鹿を伴って部屋を後にしていった。
◇
「――で、彼女はどうだったかな、テッド?」
メリーが鈴鹿を連れて退室した後。九十九は部屋に残ったテッドに問う。当然、内容は鈴鹿に関して。ここまでの道中で一緒だったテッドに、率直な意見を求めた。
「どうもこうもないですよ。色々と無茶苦茶です。あの人は……」
テッドは真っ先に愚痴を溢す。相当大変な目にあったのか、うんざりとした様子で彼女との旅路での苦労話を口にしていく。
「ほんの少し目を離した隙に消えたと思ったら……食べ物に釣られるわ、迷子になるわ、不良を叩きのめしてるわ。正直、途中で何度か投げ出したくなりましたよ」
「それは、それは……大変だったようだね」
愉快そうに口元を歪め、あっさりとした口調で、九十九はテッドへ労いの言葉をかける。
だが、すぐに真剣な顔つきに様変わりして問い直す。
「で、彼女の『実力』のほどを、君はどのように感じたかな?」
「…………正直、凄いと思いますよ」
テッドもまた、真剣な面持ちでそれに答えた。
「人並み外れた身体能力もそうですし。何ですか、あの無駄に頑丈な体は? 既に電話で連絡したとは思いますけど、彼女、ここにくる途中で何度か自動車と正面衝突したんですよ?」
それは鈴鹿が、まだ信号のルールを理解しきれずに起きた事故だったのだが。
「それなのに彼女は無傷。逆に運転手と車の方が重症で、その対応に時間を割かれました」
「なるほど……到着が予定より遅れたのもそのためかい?」
「ええ、まあ。他にも色々……さっきの銀行強盗のときもそうでしたね。あの人、銃弾を眉間にぶち込まれてピンピンしてましたよ。ちょっとは、痛がってたみたいだけど……」
それは実際に目にしなければ、とても信じられない報告の連続だろう。もっとも、九十九は特に驚いた様子もなく、テッドの報告に黙って耳を傾けている。
「でも……言ってしまえば
しかし、そこまで鈴鹿のことを語り終えたテッドは、少しだけトーンを落とし、やや躊躇いがちに辛辣な評価を口にしていた。
「彼女の『身体能力』、『頑強さ』、そして『怪力』。確かに目を見張るものがあります。ですがそれだけです。それ以外、特に突出した能力も技術もありません。わざわざ遠くからおいでになってもらう価値があの人にあるのか、少々疑問を感じますね」
「随分と不服そうだね、テッド」
「わざわざ九十九さんが自分を迎えに行かせるもんですから、もっと凄いのを期待しました」
「例えば?」
「口から怪光線吐いたり、癒しの奇跡で傷を治したり、ありとあらゆる異能を無効化する右手を持っていたり……」
「……それは、君の願望だね」
愛読する漫画やラノベから拝借したであろう能力を期待するテッドに、多少呆れながらも、九十九は決して、その言い分を頭ごなしに否定しようとはしなかった。
「確かに君の言うとおり、彼女の力はそれだけさ」
椅子から立ち上がり、ガラス張りの窓から眼下に広がる街を見下ろし、彼は言葉を紡ぐ。
「怪光線を吐けるわけでも、他者の怪我を癒せるわけでも、異能を無効化できる右手を持っているわけでもない。ゲームで例えるなら、彼女は基本パラメータだけが高くて、特技も魔法も使えない凡キャラ、といったところかな?」
「凡キャラ……」
「入力コマンドは『たたかう』と『ぼうぎょ』の二通りくらいだろうし。アイテムを上手に駆使して戦術を組み立てるのも、彼女には難しいだろう」
「……何気に酷いこと言いますね」
辛辣な表現に突っ込みを入れるテッドだが、そのツッコミをスルーして九十九の話は続く。
「だがね、テッド――
「…………」
「余計なオプションなど必要ない。ただ飛び抜けたステータスだけでも、彼女の恐ろしさを説くのに事足りる。電光石火の動き、いかなる武器も通さぬ肉体、岩をも砕く怪力。そういった、いつの時代も変わらぬ純粋な『力』の在りように、人々は恐れを抱く。そして、その不動の畏怖が、遥か昔から現代に至って、その『名』を後世に伝え続けた」
そして、視線を遠く、どこまでも広がる街全体へと向けるよう、彼は言うのであった。
「今を生きるこの国の人々の心にも、きっとその『名』が刻み込まれている筈だよ――」
紅茶の知識に関しては完全ににわかです。
間違っていたら申し訳ありません。